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北海道経済 連載記事

2014年7月号

第52回 裁判所が内閣に遠慮するのはなぜ?

福井地裁で5月21日、関西電力大飯原発3、4号基の運転再開差し止めを命じる判決が下された。「福島原発事故後に判断を避けることは、裁判所に課せられた最も重要な責務を放棄するに等しい」との強い表現が関心を集めたが、今回の法律放談は、高度に政治的な問題に対して司法がこれまで示してきたあいまいな姿勢について。(聞き手=本誌編集部)

これまで、ほとんどの原発訴訟では「国の定めた審査基準に沿っている」といった論理で、原発の建設や運転が裁判所によって追認されてきました。唯一の例外は、北陸電力志賀原発2号機運転差し止めを命じた金沢地裁の2006年の判決でした(控訴審、上告審では原告が敗訴)。

日本では建前上、国会、政府内閣、裁判所が互いに監視しあう三権分立の体制が確立しています。また、憲法76条は「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定めています。ところが、外交、安全保障、原発など、国の重要政策については、たとえ時の政府の方針に反対する意見が国民の間にあるとしても、裁判所は政府に遠慮するかのような姿勢をとりつづけてきました。

このような裁判の多くでは、住民や市民団体などの原告の主張について真っ向から議論するのではなく、原告が問題の当事者でないため、訴える資格(原告適格)がないといった技術的な理由で原告の訴えが退けられてきました。判決のなかで直接言及されることは稀ですが、その背景にあるとみられる理論が、国家機関の行為のうち高度な政治性を備えた問題は、裁判所の審査の対象にならないという「統治行為論」です。最近、集団的自衛権をめぐって注目が集まっている1959年の砂川事件上告審判決も、この統治行為論を論拠のひとつとしています。

政治的な意味合いの強い裁判で、なぜ裁判官は時の政府に「ノー」を言わないのでしょうか。一つには、個々の裁判官が無言の圧力を感じているためだと考えられます。しばしば地裁レベルでは政府の方針に異を唱える判決が下されますが、裁判長を務めているのは大抵の場合、いわゆる出世コースにある人ではありません(と私は思います)。判決を下した時点では出世コースに乗っている人も、政府に「タテつく」ような判決を言い渡せば、その後、思うように出世できなくなる可能性が高まるように見えます(あくまで私の個人的な印象です)。

政府に「ノー」を突きつけた判決としては、自衛隊は違憲だと断じた長沼ナイキ訴訟の札幌地裁判決(1973年)が有名ですが、この裁判の裁判長はその後、退官するまでの16年間、冷遇され続けました。

裁判官になった人は、不祥事でも起こさないかぎり、大半が地裁の部総括(各裁判所の民事、刑事部門のトップ)までは昇進するものです。さらに出世して、大規模庁の所長や高裁判事等、より上位の役職につきたいと考えるなら、事を荒立てたくはないでしょう。

大飯原発の判決については、与党や産業界から「控訴審、上告審では逆転できる」との楽観的な見方も出ているようですが、日本のエネルギー政策を左右するのはもちろん、三権分立に基づき司法がどこまで行政への抑制力を発揮するのかを占う意味でも注目を集めることになりそうです。