北海道経済 連載記事
2026年7月号
第196回 カフェー丸玉女給事件
裁判官が判決を起案する際に参考とするのが膨大な過去の判例。判例集を開けば、難解な法解釈論が展開される判例だけでなく、当事者たちの人間としてのサガが透けて見えてくるものもある。今回は90年以上前の著名な判例に注目する。(聞き手=本誌編集部)
夜の盛り場にある店。接客している女性に、「俺と付き合ってくれれば、独立資金を提供してやる」と男性客がささやきました。女性はそれを信じたのに男性客はいつまでも金を持ってこない。しびれを切らした女性は裁判を起こしました…。現代にもありそうな話ですが、
これは昭和初期に実際に起きた「カフェー丸玉女給事件」のあらましです。男性客が提供を持ちかけた金額は400円。現代の貨幣価値に換算すれば70万円位でしょうか。これは非常に有名な判例であり、大学で民法の講義を受けた人であれば必ず学習しているはずです。2年前に放送された朝のテレビ小説「虎に翼」にも、この事件にヒントを得たであろう「カフェー燈台」が登場する回がありました。ちなみに当時の「カフェー」とは、女性の店員を目当てに集まった男性客に酒やコーヒーを出す店であり、現代の「カフェ」とは異なる業態です。
裁判の一審と二審で男性客は、民法が定めた公序良俗違反を理由に、債務はないと主張しました。交際を条件に金を贈与するという自らの提案そのものが公序良俗に反し、無効であるという理由ですが、見方によっては身勝手なこの主張は退けられ、男性客は贈与金の支払いを命じられました。
ところが1935(昭和10)年の大審院(現在の最高裁)判決では、一転して女性の主張が退けられ、差戻しが命じられました。大審院が論拠としたのは公序良俗違反ではなく、債務の性格でした。通常の債務では、債務者は借金の返済などの債務を履行しなければならず、履行しなければ提訴され、敗訴すれば強制執行される可能性もあります。大審院は、男性客の女性に対する債務はこうした一般的な債務ではなく、いわゆる「自然債務」であり、債務者がその気になれば履行することができるが、法律で履行を強制することはできないとしたのです。
「カフェー丸玉女給事件」の大審院判決は、自然債務の性格を明確にしたと位置づけられており、91年前の古い判決ですが、現在でも民法学習の教材となっています。もっとも、この判決には後日談があります。翌年の差戻審(大阪地裁)判決では、カフェー内での金銭の受け渡しが禁止されていたことから、後日、温泉宿で贈与金を渡すことにしたこと、当日、男性客は現金の持ち合わせがなく支払い困難だったことから、贈与金を月賦で支払うこと、一回でも支払いを怠れば即座に全額を請求するとの条件をつけることを内容とする準消費貸借契約を締結することを男性客が承諾して証書を作成したこと、その際、男性客が一回でも支払いを怠ったら訴訟を起こされても異議がないと言ったこと等、詳細な事実認定を行い、既に準消費貸借契約の履行期を経過していたので、男性客に400円の支払いを命じました。
「カフェー丸玉」はかつて大阪の繁華街「道頓堀」にありましたが、キャバレー、パチンコ店を経て、一時期はインバウンド客向けの家電販売店になっていたものの、いまはゲームセンターになっているようです。跡地とはいえ、法曹の世界では知らない人がいないこの「旧跡」を、機会があれば一度訪れたいと思っています。

