北海道経済 連載記事
2026年4月号
第193回 合格して一変した境遇
かつては多くの司法試 験浪人が合格まで長い歳月を費やしていた。一方で、最後まで合格に縁がなく、別の道に進んだ人もいた。今回は合格を境に大きく変わった境遇を振り返る。(聞き手=本誌編集部)
私は33歳の時、旧制度の司法試験に11回目の挑戦で合格しました。司法試験浪人だった時期には、社会に全く役に立っていない存在で、社会的に無価値の人間でしたが、合格した翌日から周囲の扱いが180度変わります。
司法試験予備校からは、「合格祝賀会」の招待状や司法修習が始まるまでの間の仕事の案内が来ます。受験時代は合格してタダで飲み食いさせてくれる祝賀会に出席することが夢でしたので、全ての祝賀会に片っ端から出席した記憶があります。招待状や仕事の案内の宛名は、「先生」としてきます。宛名の呼称が「殿」でも「様」でもなく「先生」になることは知っていましたが、私の中身が変わったわけでもなく、まだ弁護士になったわけでもないのに「先生」と呼ばれることが面映ゆく感じました。
当時は司法試験合格から、司法修習開始までに約半年間の期間がありました。いわば、社会復帰のためのリハビリ期間です。その間に、それまで通っていた中央大学の法職課程でゼミのチューターや答案練習会の答案の採点等のアルバイトをしました。少し前まで教わる側だったのが、合格した途端に、いわゆる弁護士の法律相談料(30分5000円)と同じくらいの時給をもらって教える側になります。受験時代よりも余裕のある生活ができました。年下の合格者に、教えられたり、採点されたりするのが嫌で、研究室から離れてしまう受験生もいます。私の場合は年を食った合格者でしたので、参加しやすかったのか、ゼミには人が集まりました。
当時、司法試験に合格した者の中には前記の半年間を利用して旅行に行ったりする者もいます。私は旅行には行かず、修習開始直前まで、法職課程でアルバイトしていました。受験生の気持ちは痛いほどよくわかりますし、同じ釜の飯を食った仲間に合格してもらいたいという思いが強かったからです。司法修習の準備はほとんどしなかったので、司法研修所では落ちこぼれました。
受験時代、東京大、一橋大、早稲田大などの大学の授業に潜りで参加しました。司法試験委員を務めている有力な教授の授業は、試験内容に反映される可能性が高いからです。特にマイナー科目の国際公法は試験委員が2人だけで、必ず出題・採点・面接するわけですから、授業に出ることは必須でした。前の方に座り、疑問があれば質問しました。これを何年も続けたので、教授の方も私が潜りであることを認識し、煙たがっていたかも知れません。しかし、合格後、スーツを着て授業に出席し、試験委員の教授に謝意を伝えると喜んでくれ、「せっかくだから名前を聞きましょう」と言われ、人として認めてもらい、とても感激しました。
これは、論文式合格後の話ですが、論文式の結果を見に行き、私の番号があったのを見つけて、すぐ旭川の親に電話で報告しました。電話を切ったあと、念のため「まだ最終合格ではなく、面接が残っている」と伝えておいたほうが良いと思い、再度電話をかけたのですが、いつまで経っても話し中でした。親もいろいろな人に電話で喜びを伝えていたのでしょう。そのまま不合格が延々と続く可能性もあったのですから、親が喜ぶのも当然です。

