いわゆる「妖怪」なるものが、なぜ存在するのか? それは誰も知らない、またわからない。ただ、天地自然の隠された理と言うほかは無い。
さて、とある山にカマイタチなる妖怪が住んでいた。風に身をかくして、気ままに朽ちた木を自慢の鎌で切りたおし、枯れた草を切り飛ばして遊んでいた。
ねぐらは、おもに小さな祠。木こりや修験者たちが立ち寄り、干物や塩物を置いていってくれる。時には、猟師が獲物の鳥や獣を供物にしてもくれた。
しかし、時は流れた。いつしか木こりや猟師たちは姿を見せなくなり、山歩きのハイカーたちが現れるようになった。彼らが祠に供えてくれるのは、饅頭や団子などの甘い物だった。カマイタチは甘い物に目がなかった。
もっと甘い物が食べたい、もっと供え物を! カマイタチは思ったが、そこは人ならぬ身の悲しさである。思いは言葉になって出てこなかった。
ある日、女が祠の前に立った。長い髪を帽子の中にたたみ込み、半分開いたジャンパーの前からこぼれる胸は大きい。背は高く、足は長く、モデル体型としても上等の部類だ。
女はハンカチにくるんだ折り詰めをそなえて、静かに手を合わせた。さくら餅の甘い香りが布越しにただよう。
と、カマイタチは女の表情が気になった。病人どころか、まるで死人のようだ。
にごった瞳のまま、女は立ち上がり、祠を背にして山奥へと歩きはじめた。カマイタチは女を追った。さくら餅は後でも食べられる。
今日、小磯邦江は死ぬために山へ来た。
あの男に、あの男たちに何もかも奪われた。貞操を、仕事を預金を、親の遺産まで食い尽くされた。体も薬漬けでボロボロになった。肌が荒れて、鏡を見るのがイヤになる日が続いた。息をするのも苦しくなって、死のうと思いたった。
雲が低くなって、顔に細かい雨つぶが当たる。山ゆえ、気温が急に下がってきた。死ぬには良い日よりのようだ。
水音を聞いた。道をはずれ、木の間を抜けて草の斜面をかき分けながら下りると、川に出た。大きな岩がしぶきをあげている。
風を避けて、岩陰に腰をおろし、邦江は睡眠薬の錠剤をポケットから出した。眠っている間に低体温症で死ぬ、それが計画だ。
スポーツドリンクで一気に10錠づつ飲み込んだ。大量に飲み過ぎると、吐いてしまう場合もある。間を置き、また10錠を飲む。空になった瓶を放り出して、邦江は体を横にした。
山歩きの疲れか、足が動かない。胃にしびれるような感触があって、吐き気をこらえた。 目を閉じて、深呼吸する。のどが楽になってきた。
ヒューヒューと風の音が身を包んだ。もうすぐ・・・・・もうすぐ・・・・・邦江は全身の力が抜けてゆくのを感じていた。
ふと目を開けると、病室のベッドだった。小磯邦江は自殺に失敗したのだ。 彼女が薬を飲んだ川は、沢釣りの名所だった。いつも数組が釣りを楽しんでいたのだ。
不審な動きをする女を見ていた釣り人は、ぐったりと眠る彼女に水を飲ませて胃を洗浄し、救急車を手配したのであった。もうろうとする意識の内に、町の病院に到着、病室で点滴をうたれていた。
また、だめだったの・・・・・邦江は自分が情けなくなり、泣こうとしたが、すでに涙は涸れてしまっていた。 消灯時間が過ぎ、薄暗くなった。
空調の音だけが低く響く中、足音が近づいてきた。足音が止まり、病室のドアがゆっくりと開いた。 目線をやり、邦江は身が固くなった。あの男が来たのだ。
吊り上がった細い目が邦江を金縛りにする。目を閉じようにも、まぶたまで硬直して動かない。
「あのまま死んでしまえば良いものを、何度しくじったら気が済むのかね。さあ、今度こそ、やり遂げようや」 細い目を、さら細くして吊り目が笑った。
男が香を焚いて、邦江の鼻先にもってきた。ツンと頭の芯にひびいた。 「メリーさんのひつじ、メエメエひつじ・・・・メリーさんのひつじ、まっしろね・・・・」
男が歌った。 いやな歌だ。邦江は逃げようと、ベッドを出た。臭い香もきらいだ。のどがむせて、涙がにじむ。
「メリーさんのひつじ、ひつじ、ひつじ・・・・」 歌が追いかけてくる。邦江は薄暗い廊下をよろよろと逃げた。香の煙が体にまとわりつく。外へ出よう、と思った。
「メリーさんのひつじ、メリーさんの・・・・」
声が出ない。歌が廊下中にこだまして、頭を締め付けた。階段を上り、奥のドアを開けると、風にあおられて倒れそうになった。
素足でコンクリートの床を走る。痛みより冷たさが身にしみた。
緊急入院だったので、邦江はエプロンのような病院着の下に何も着けていない。すそをまくる風が腹から胸まで冷やした。
「ひつじ、ひつじ、メリーさんのひつじ・・・・・」 歌が追いかけてきた。邦江は屋上の端の手すりにつかまる、追い詰められた。数十メートル下に夜の街があった。
「メエメエ、メエメエひつじ、ひつじ・・・・・」 行き場は無い。風が体を揺らした。ただひとつの逃げ場へと、邦江は跳んだ。
ごおーっ、耳を斬るような風の音だけが聞こえた。ついに、あの歌から邦江は逃げたのだ。死に向かって一直線の逃げ道だった。
落下する小磯邦江の体を風がつつんだ。妖怪カマイタチが起こす風だ。 手に入れた!
カマイタチは邦江の中に入り込み、魂を食い、ついでに肉体を我が物とした。
事故や大病の後、人が変わると言うほどに性格や言動が違ってしまう事がある。脳梗塞や脳出血で起きる場合もあるが、妖怪に食われて乗っ取られてしまった場合もあるのだ。狐憑きと言われる、あの場合である。小磯邦江に憑いたのは、狐ではなくカマイタチであった。
某県永田町の町立病院は、ドクターヘリのヘリポートも備える大きな建物だ。ヘリコプターの発着が容易になるよう、普通より高く作られている。
その屋上から、人が飛び降りた。
歩道にいた人々は、突然の風に身を縮めた。バチバチ、電線が揺れて閃光を放った。街路樹の枝が折れそうなほど暴れて、ドンと人が地面に落ちた。
落ちてきたのは女だ。うつ伏せに大の字で、しゅうしゅうと湯気を肌から発てて動かない。木の枝にひっかかっていた病院着の切れ端がフワリと舞った。
女が動いた。ゆっくりと立ち上がる。わずかに残っていた病院着が手から抜け落ち、女は全裸で立った。
小磯邦江の体を得た妖怪カマイタチは、人間の目線で人の街を初めて見た。
男女二人がおびえている。カマイタチは人間が服を着るものだと初めて意識できた。今の自分を見返せば、かつてのカマイタチ時代のまま、素肌を風にさらしている。
女の服はと見れば、体格が小さくて合いそうにない。小磯邦江は180センチに迫る長身なのだ。並の男でも見下ろすほどだ。
振り返って反対側を見ると、頭の悪そうな四人組の男たちがいた。 「散歩かい?」 「いい夜だねえ」
げへへへ、唇を三日月に歪めて4人が笑う。一人は股間を手でおさえ、ハアハアと犬のような息をしている。
小磯邦江の容貌は美人の範疇に入る。長身に長い黒髪、乳房は大きく乳首は天を向くようだ。引き締まった腹、腰はくびれて足はスラリと長い。そんな美女が、全裸で胸も股もかくさず、仁王立ちに正対している。男なら老若を問わず、ズボンの中の一物が反応してしまって当然な状況だ。
「散歩だ、いい夜だ」 カマイタチは手に入れた邦江の記憶をたどり、言葉を発した。男たちの顔がゆるんで、ケへへと声がもれた。
四人を観察すると、二人は小柄だ。一人は肥満体で、残る一人が邦江と同等の長身だった。 「おまえ、その服と靴をよこせ」
カマイタチは長身の男に向かって言った。 「こいつ、なにさまのつもりだぁ?」 「てめえの立場をおしえてやるべや」
背の低い二人がニヤニヤ笑いで手をのばしてきた。 カマイタチが両手を振りあげた。突風に二人が吹っ飛ぶ。 「このおぉっ!」
カマイタチは手の平に風を集め、突っ込んでくる肥満体をはね返した。ずしりと腕に反動がきた。かつてのように風と鎌をあつかえない、むうと口を曲げた。
長身の男はと見れば、腰が抜けたか、座り込んでしまっていた。ひと睨みすると、コートを脱いでさしだしてきた。
と、変な臭いに気づいた。ズボンの股間が濡れて、コンクリートの歩道にまで垂れている。男は小便をもらしていた。
カマイタチは別の匂いにも気づいた。甘い香りが風にのってくる。 道路の向こう側に深夜営業のドーナツ屋があった。
カマイタチは初めて笑みをうかべ、コートを肩にかけて歩き出した。
「なぜだ、なぜ生きてる?」
福本隆介は細い目を丸くして、小磯邦江の背中を見ていた。
自殺未遂から救助されて入院していたのを、麻薬入りの香で催眠をかけ、病院の屋上から身投げするよう誘導した。死体を確かめようと出てきたら、死んでいるはずが生きていた。
逃げた時の保険にと、病院前で待機させていたチンピラたちは、死ぬはずの女にコケにされていた。
「おまえら、何やっとるか。早く、あの女を追えっ! 追って、殺せっ!」 「でも、アニイ、あいつ変な手品をつかうから」
「何でもいいから、あの女をやってしまえっ!」 福本にどやされ、チンピラたちは邦江を追って道路を渡った。その手に大きな登山ナイフが光る。
ざわっ、ドーナツ屋の店内がざわめいた。薄汚いコートをひっかけた裸足の女が入ってきたのだ。
コートの前は開いて、豊かな乳房も黒々とした下の毛も丸出し、女だけど変態露出狂だ。服の一枚着ていれば良いだろう、とカマイタチは考えていた。まだまだ人の常識とか法律の知識が身についてない。
トレーに手づかみでドーナツを山盛りに積んだ。コートのポケットをさぐり、会計で財布を裏返して小銭をばらまく。店員は口元もけいれん気味に、どうぞと笑顔を作った。店の奥で警察へ通報中だ。
変態露出女はテーブルに着くや、五つ六つのドーナツを口に放り込んだ。甘い香りが鼻まで広がった。
人間になって良かった・・・・・カマイタチは至福の笑みで次のドーナツを手にした。 と、店内に悲鳴があがった。
手に手に刃渡り20センチ以上の大型ナイフを持つ四人組が入って来た。
他の客が店から出るのを待って、四人組は小磯邦江が座るテーブルを囲んだ。コートの前が開いた変態露出女は、ひたすらドーナツを食い続けている。
「てめえ、いつまで食ってんだ!」 背の低い二人が、ドーナツのトレーをひっくり返し、ナイフを邦江の顔に突きつけた。
カマイタチはナイフがどういう物か知っていた。山に来たハイカーや釣り人たちが使うのを見ていたのだ。しかし、食事をジャマする者への怒りが炸裂した。
ひゅんひゅん、と右手を振った。
カマイタチの見えない釜が二人の服を斬り、肌と肉を裂いた。釣り糸が切れた人形のように倒れた二人は、血が吹き出るままに痙攣する。
うおおっ、と肥満体が両手にナイフで迫った。 ひょう、カマイタチの鎌が腹を縦に裂いた。 「ひっ・・・・・ひ・・・・・ひでっ・・・・・」
肥満体は仰向けに倒れた。縦一文字に割れた腹から、ぶくぶくと血があふれた。 パン、炸裂音がして、ひゅっ、とカマイタチの頬を衝撃波が叩いた。
長身の男が拳銃を撃ったのだ。もう一発撃つが、また僅かに外れて、店のガラスドアを割ってしまった。
カマイタチは衝撃波の元が拳銃と見抜いたが、初めて見るので、興味のほうが先にたった。
カマイタチの鎌と何が違うのか。小さな武器なのに、音だけは木が凍裂する時のように大きい。
ずかずか歩み寄り、拳銃を持つ手を握り、顔を近づけた。パン、とまた撃った。弾は天井の蛍光灯に当たり、パラパラとガラス辺が飛んだ。
「あっ・・・・ああっ・・・・・あああ・・・・あべっ・・・・あべっ、しっ」
カマイタチは男の腕をねじり折り、拳銃を奪った。撃ってみようと引き金に触れるが、ガチャリと小さな音が出ただけで弾は出ない。弾切れだった。
それはグロック26の型番がある小型拳銃だった。ポケットに隠し持つに適している。外装がプラスチックなので、モデルガンのように見える。弾倉に7発入るはずなのだが、今日は3発しか入っていなかった。チンピラは拳銃を持てても、弾を多く持てないのが日本社会のならわし・・・・と言うか、ヤクザの下っ端管理術であった。
店の外で赤い回転灯が停まった。警察のパトカーが到着した。
警官が銃をかまえ、近くにいる人に離れるよう促す。同時に、もう一人の警官が店の中で銃を持つ女に狙いをつけた。
カマイタチは自分の持つ銃と外にいる者が持つ銃が、少し形が違うものの同じ種類の武器だと知った。興味がわいた。 「武器を捨てろ、手を上げて動くな」
警官の警告を無視して、女が銃を持ったまま店から出てきた。コートの前は開きっぱなしで、胸も下も丸出しの変態露出狂だ。
「女の警官をたのむ、おれらだけでは対処が・・・・ちょっと、あ、待って・・・・」
若い健康な男でもある警官は、手の拳銃よりもズボンの中のピストルが暴発寸前になっていた。 後続のパトカーがサイレンを鳴らして近くまで来ていた。
永田町警察署は隣接する町村との統合警察署なので、町の警察署としては大きな建物だ。
その半地下にある留置室に、小磯邦江はいた。返り血のついたコートは証拠として没収された。仮のパジャマをもらって着ていた。下着は無い。
ぐう・・・・・腹の虫が鳴った。
ビルから落下する体をすくい上げた時に、妖力のほとんどを使ってしまった。体は無傷で手に入れる事ができた。直後、ほとんど人間の力のみでチンピラと闘った。無理がたたって、体中が痛い。脳みその髄まで筋肉痛に関節痛だ。何でも良いから腹に入れて、力と体を回復させなくてはならない。
でも、今は鉄格子の部屋にいる。カマイタチの鎌も、今は豆腐も切れないほど力を失っていた。 「面会だ」
警官の声に顔を上げた。鉄格子の扉が開いて、トレーを持った男が入って来た。細身で背は低い。 「今日は稼がせてもらったので、差し入れだよ」
トレーには山盛りのショートケーキとコーラがあった。甘い香りが部屋中に広がった。
カマイタチが手にしたのは大きな赤いイチゴが乗ったケーキ。口に入れようとして、ちらと男を見た。
男が名刺を出した。名は犬飼辰巳、職業はフリージャーナリストでカメラマン。大きなポケットだらけのベストに、首から一眼レフの大きなカメラを二つもさげている。
カマイタチは警戒しながらケーキを口にした。と、犬飼が急に目の色を変えた。 「実は、おれはあんたと同類だ」 じわり、妖気がカマイタチを圧した。
「おまえさんは、山にいたカマイタチだろ。釣りの取材で出かけたときに、何度かすれ違ったな。なんで街に来て、また人間になったか、なんて聞かないよ。しかしな、あまり派手に暴れないで欲しい。妖怪退治の専門家だの妖怪ハントのプロだのが集まって来たら、とてもやっかいだ」
話を聞きながら、もぐもぐとケーキを食べた。
「おれは、元は永田神社がねぐらの蛇だった。なので、白陀(はくだ)のふたつ名を持ってる。おまえさんも持つといい。見た目も麗しいし、強い刃もある・・・麗しい刃で麗刃(うるは)にしろ」
「う・・・・る・・・・・は・・・・麗刃?」 カマイタチがケーキを口に入れたまま答えると、妖怪ヘビの白陀はにっと舌を出して笑った。ヘビの笑いだ。
「この街には、縄張りを持つ妖怪が他にもいる。連中と仲良くしろよ」 言うだけ言って、白陀は鉄格子の外へ出て行った。ケーキと麗刃だけが残された。
上の階の捜査会議室では、事件の処理が進んでいた。パソコンのディスプレーに現場の写真がある。
小磯邦江が裸で四人組と対峙するところから始まり、警官の銃をのぞき込むところまである。デジタル写真なので、撮影時刻にGPSの位置情報まであって、捜査記録としては上等だ。
「例によって、犬飼氏が提供してくれました」 「また、あいつか」
ため息まじりに刑事が首をかしげた。犬のような嗅覚で事件の現場を見つけ、蛇のように物陰にかくれて写真を撮る、犬飼は有力な民間人協力者の一人だ。写真は無料提供が建前だが、少しならぬ額の謝礼を出すのが通例だ。
「ナイフと拳銃の四人の男に、素手の女が一人で闘った。やはり正当防衛だな」 「相手のナイフを奪って切りつけた時点で、これは過剰防衛だろう」
「ナイフで逆襲した時は、まだ拳銃がある」
写真の中で、小磯邦江の手先はブレていて、ナイフを握っているようでもあり、素手のままのようでもある。男たちの体が切られているので、ナイフを使ったと考えるしかない。妖怪の存在を信じない人間の、それは精一杯の判断である。
別のディスプレーには、取調中の小磯邦江が映っている。対応しているのは女性警官だ。
「小学校の低学年か、幼稚園児を相手にしている気がしました。薬物で頭がイッてるみたいです」
小磯邦江の過去の履歴を見返し、女性警官はディスプレー前で唇を尖らかす。 その履歴・・・・・
小磯邦江は半年前まで永田町では大手の会社に勤めていた。長身のモデル的美貌で、会社の看板的存在だった。ある頃から、彼女はホストクラブに通うようになり、借金を重ねて、取り立て屋が会社に押しかける騒動になった。自主退職した後には、ヤクザの山田組で情婦のような状態になる。三ヶ月前に最初の自殺未遂をして、今回で三度目。血液検査では、薬物の反応が認められるものの、中毒症状をきたすほどではない、とされている。今回の入院でも血液採取がされているが、検査の結果が出るのは数日先だ。
「福本だ」
若い刑事の阿部が、一枚の写真に声を上げた。男が例のチンピラ四人組に声をかけている場面。次のでは、四人組がナイフを出して女を追いかけようとしている。
「本当に福本だ。こんなところに出てくるなんて、山田組の若頭らしくないな。いや、小頭だっけか」
老刑事の一角が応えた。ネズミの尻尾をつかまえたと、つい笑みがもれる。 「あの四人組は山田組の傘下、コシシャク会のメンバーですね」
阿部がマウスを動かすと、四人組の補導と逮捕歴がディスプレーに出た。
翌朝、小磯邦江は町立病院にもどされた。診察の後、退院の手続きがとられた。毎月のように自殺未遂で来る患者なので、一刻も早く厄介払いしたい雰囲気が院内に満ちていた。支払いは、警察が代行した。
山に向かう時の服装にかえり、邦江は病院を出た。 少し離れて、阿部と一角が怪しげな尾行を始めた。
麗刃の名をもらったカマイタチは、邦江の記憶を自分のものにしつつあった。この街に住むにあたり、当面は邦江のアパートが使える。そこへ向かう事にした。レトルトにカップ麺など、一人暮らし用ズボラ飯の買い置きが残っているはずだ。
記憶をたどり、麗刃はアパートのドアの前に立った。小磯邦江と手書きの表札がある。会社勤め時代の達筆な女文字だ。
キーホールダーには数枚の鍵があって、どれかと迷いながらドアノブに手をかけると、ドアが開いた。鍵がかかっていなかった。 「帰って来たね」
男の声が出迎えた。
麗刃の中で、小磯邦江の記憶がはじけた。男は福本隆介、山田組の頭の一人。麻薬と暗殺をつかさどり、裏の仕事では組長に次ぐ立場。ホストクラブで邦江を誘ったのは福本の部下だし、借金の清算と偽って親の遺産をだまし取った主犯だ。そして、何も無くなった邦江を薬漬けにして、自殺へと追いやった・・・・・
怖い、怖い・・・・・憎い、憎い・・・・・ 邦江の記憶が麗刃をゆさぶった。
「あまり自殺を重ねては、警察が疑ってくる。今度は、どっか遠くへ旅に出ようか。その先で何が起きるか、おれは知らないが」
テーブルの上で、香が焚かれていた。邦江の中の麻薬と相まって、催眠効果を誘導する香だ。 ゆらりと、福本が近づく。
バコン! 麗刃の拳が福本の鼻をくじいた。 憎い、憎い・・・・・いっそ殺したい、殺してしまいたい・・・・・
記憶の中の邦江が、泣きながら訴える。麗刃は邦江の願望のままに動き始めた。 催眠が以前のように効いてない。福本は豹変して、銃を出した。
バンバン、銃声がアパートに響いた。阿部と一角の二人は、自らも銃をかまえてドアを開けた。
小磯邦江が福本の銃を持つ右手をつかんでいた。腕をねじりあげ、うっとりと銃を見つめる麗刃である。
うぬうっ、福本は左手でナイフを出した。邦江の腹を狙って刺そうとした。
スパッ、カマイタチの鎌が一瞬早く福本の右手を切り落とした。衝撃で、また銃が火を噴いた。
いい・・・・麗刃は銃をみつめて、恍惚としていた。鎌を振るった腕に痛みがきた。この体では、鎌をうまく使えない。銃は代わりになる武器だ。
それはグロック17と言う銃だった。チンピラが持っていたグロック26の倍も大きい物だ。弾丸の数も倍入る。プラスチック製のボディは、冷蔵庫の中で麻薬の取引をする場合でも冷たくならず、手袋無しであつかえる。
右手のひじから先を失い、福本は悲鳴とともに転倒した。ナイフが床に落ちて、血にまみれた。
麗刃はナイフを拾い、これも良いなあと思った。銃ほどではないが、鎌と同等の威力を発揮できる武器である。 「動くな!」 刑事二人が部屋に入ってきた。
一角が邦江からナイフと銃付きの右手を取り上げた。おもちゃを取られた子供のように、邦江が一角に泣き顔を向けた。
阿部が福本の右腕をおさえて、止血処置を始めた。大量出血で痙攣が始まった、ショック状態だ。 と、フラッシュが部屋を照らした。犬飼がカメラを使ったのだ。
「写真は後回しにして、救急車を呼べ!」 「すでに通報してあります」 犬飼は平然と答えて、またカメラをかまえた。
小磯邦江は半日と経たずに永田警察署へもどってきた。
昼飯に出たカツ丼を一杯、二杯、三杯と腹に入れた。女の食べ方ではない、まるでプロレスラーか相撲取りのようだ。
一方、会議室では、福本隆介の緊急逮捕と入院が話題となっていた。現場写真は、例によって犬飼辰巳の提供である。
「福本なにがしは通名で、本名はペ・リューシン。ナイフで小磯邦江に切りつけようとして、逆にナイフを取られて、右腕切断。ま、自業自得ですな」
「切断した手は、手術でつながりそうです。骨とか肉も大丈夫みたいですね。もとのように動くかどうかは、保証できないそうです」
銃刀法違反の末の事故とあって、福本に同情する声は無い。
妖怪の存在を信じない刑事たちは、当然にカマイタチの鎌は考慮の外だ。福本がナイフを奪われて切られたと考えていた。
「山田組は下っ端にまで銃を持たせている。おそらく、相当量の武器を隠し持っている可能性が高い」 「ペの証言も裏付けています」
手術を終えた福本のビデオがテレビに映っていた。麻酔でもうろうとし、刑事の質問に疲れた声で答えている 「シラフの時に言ったものでなければ、裁判では使えん」
一角は若い刑事たちをしかった。
麻酔は使いようで自白剤にもなる。そのような使い方をしたのは、第二次大戦当時のナチスドイツとも、アメリカのCIAとも言われる。夢の中で証言するようなもので、目覚めると何を言ったか記憶が残らない。そんな特性が、スパイの小道具として好まれた。ただし、事実ではない証言を誘導するのも簡単なので、現代の裁判では証拠として採用されない。
「もっと確実な証拠をつかまなければならん!」 一角は部屋を見渡し、もう1台のテレビに映る小磯邦江に着目した。
「あの子に、もうひと肌脱いでもらえれば・・・・」 「えええ、また脱がすんですか?」
一角のつぶやきに、若い刑事たちは股間を固くした。前日の夜、彼女は全裸で街を歩いていたばかりだ。 「そうゆう意味じゃねえっ!」
若いモンにはまかせられん、と一角は拳を固くした。
永田署の地下二階には、射撃練習所がある。太平洋戦争当時は陸軍の防空壕だったのを、少し手を加えて使っている。地下深いので、射撃音が地上にもれる心配は無い。
ダンダンダン・・・・ニューナンブM60拳銃を連射して、麗刃は悦に入った。リボルバーの反動が腕に心地よい。
シリンダーを外して、弾を入れ替える。また撃つ。ダンダンダン、さっきより的の中心へ命中して、また頬がゆるんだ。
一角は空薬莢を回収して、次の弾を用意した。すでに半年分の練習用銃弾を使ってしまっていた。日本の警察は、警官に多くの弾を使わせないのだ。
彼女の様子を見ながら、一角は新たな確信ができた。
小磯邦江は銃やナイフに異常な関心を寄せていた。過去に何らかの体験があるはずだ。薬物の影響で、子供のように感情をかくせなくなっている。そのために、普通ならば無視するか忌避する銃器への関心を、素直に外へ出しているのだろう。
女が銃やナイフを使いたいと思うような出来事とは、何であろうか。自殺未遂をする以前の、山田組にいた時の体験のはずだ。
「邦江さん、聞かせて欲しいなあ。山田組で、ここと同じように武器があったはずだよね?」
麗刃は、はてと首をひねった。銃を撃つ楽しさに夢中で、小磯邦江の記憶をたどるのを忘れていた。
背筋をのばして狙いをつける。妖の力を手首に集めて、そろりと引き金にかかる指に力をこめた。 ダン、と的のど真ん中に当たった。
フォームだけでは発射の衝撃をおさえきれず、どうしても当たる確率が低くなる。妖の力で少し筋力を補完してやる技を手に入れた。 「そう・・・・あそこ!」
「どこだい、山田組の事だね?」 麗刃は防空壕の天井を見上げ、山田組にも同じような場所がある、と一角に告げた。
「うん。あそこは、もっとおもしろい!」 麗刃はリボルバーに残る弾を、一気に撃ちつくした。
小磯邦江は昼飯にメガ盛り牛丼弁当を三杯、かるく食べた。阿部は唖然と見ていた。 「あの女は、胸にも胃袋があるんだな」
食後の茶をすする邦江の腹は、スリムにくびれたままだ。大きな胸が、さらにふくらんで見えた。
一角は拳銃の携行をあきらめた。今年分の弾丸を、全部使い果たした。弾無しの銃を持ち歩くのは、かえって危険と判断した。
唐突に、邦江は立ち上がり、署の玄関へ向かった。一角と阿部が追う。
長い黒髪を揺らして、ずんずん歩いて歩いた。長身の小磯邦江が大股で進めば、たちまち町外れにある豪邸前に着いた。
ズキン、麗刃の中で邦江の記憶が悲鳴を上げた。 怖い・・・怖い・・・・助けて、助けて・・・・・ 「山田組の組長宅だ、来ましたね」 「うむ」
阿部を交差点の向こうへ下がらせ、一角は邦江の横に立った。 ジーコジーコ、玄関上のカメラが二人と周囲を監視して動いている。
麗刃は呆然と立っていた。楽しそうな物があるとわかっているのに、邦江の記憶が足止めするのだ。 大扉の脇の小さなドアから、太い黒服の男が出てきた。門番だ。
「おまえ・・・・」 門番は邦江を一瞥し、一角と向き合った。 「永田署の一角だ。現在、保護観察中の小磯邦江さんと散歩している」
警察手帳を出して、一角は笑みを作った。 「散歩なら、とっとと他所へ行けや」 「わたしは、彼女が行く所について行くだけでね」
二人が言い合いする間に、麗刃はドアをくぐっていた。 痛い・・・・痛い・・・・いやだ、いやだ・・・・・
邦江の記憶が麗刃の足を運ばせる。庭を横切り、ガレージの前を通り、裏玄関の方へと来た。
芝生に鉄製の四角い蓋がある。マンホールの蓋と同じく、とても重いはずだ。 麗刃は妖の気を集め、風で蓋を吹き飛ばした。
少し目まいがきた。白陀の忠告を思い出して、もう二度としないと決めた。 地下へと暗い下りる階段がある。麗刃は闇の中に踏み込んで行った。
さて、そんな麗刃をカメラで追う者がいた。塀の外の木に登り、枝と葉にかくれていたのは犬飼辰巳だ。 「邦江ちゃーん、どこ行ったー!」
一角が門番ともみ合いながら来て、蓋につまづいて転んだ。すぐ穴にも気づいた。
犬飼はカメラの画像出力をポケットのスマートフォンに接続した。アプリを立ち上げ、永田署へつないだ。
永田署のパソコンにつないだテレビ電話が起動した。皆が何事かと集まった。 画面には、格闘中の一角刑事がいた。
「小磯邦江は連続自殺未遂なのだ。重要保護観察中である。彼女の身に何かあったら、どうするのだ。ええい、正義は我にありぃっ!」 一角の叫ぶ声が響いた。
「いったい、どこで何をしとるんだ?」 「山田組の組長宅内のようです」 阿部と連絡をとっている警官が答えた。
「令状も無しに入ったのか? ただの家宅不法侵入だろ、警察であっても」 署長はうろたえるばかりだ。
画面の一角が門番を振りほどいた。穴へ入って見えなくなった。 続いて、カメラが動いた。組長宅の敷地に入り、一角を追って穴の中へ。
「この画は、だれが撮ってるんだ?」 「例によって、犬飼氏からです。今回は生中継ですね」 「また、あいつか・・・・て、なま?」
一角の足が止まった。階段から地下室に入り、様子をうかがう。 「なんだ、これは・・・・まるで、理科実験室ではないか」
並べられた試験管にビーカー、精密天秤・・・・等々、化学実験が長く行われていた様子がある。山田組の実情を考えれば、麻薬の抽出や鑑定であろう。
しかし、奥へ進むと、拘束具付きの寝台がある。点滴の架台やら心電図測定器などがあって、医務室のような感じになった。人体実験の現場か。
ドアを開けて、さらに奥へと進む。
広い所に出た。太平洋戦争中は飛行機の格納庫をかねた防空壕だった。入り口に家を建てて壕をかくし、山田組は秘密の倉庫として使っていた。建築会社が傘下にあるので、秘密の工事は簡単だった。
麗刃がいた。武器棚から、銃を取り出した。 武骨な銃に弾倉を着けてT字型にした。UZIは砂漠で鍛えられた。大型の拳銃のようにも見えるが、実は機関銃だ。
長さ1メートル近くになるコルトM16A2ライフルも取った。大柄な麗刃には、大きな銃が似合う。
「武器庫とも見ゆるが、いやいや、ガンマニアが集めたモデルガンと言う事もある」
一角が大げさな身振りで武器棚をチェックする。犬飼のカメラが追って、武器棚をなめてゆく。カラシニコフ、ドラグノフ、ワルサー、シュタイアー・・・・世界中の武器が乱雑にならんでいる。密輸入なだけに、特定のブランドや機種を揃えられなかったのか。やはり、ただのマニアなのか。
麗刃は右手にM16A2を、左手にUZIをかまえた。壕の奥の的に向け、引き金に力を入れた。 いや・・・・いや・・・・・助けて、助けて・・・・・
邦江の記憶がフラッシュバックした。射撃の的にされたのだ。福本が笑いながら銃を撃った。 ダダダダダダ・・・・凄まじい銃声がこだました。
「なんと、本物ではないか!」 一角は犬飼のカメラに向かってさけんだ。
「みんな見てくれ! 邦江ちゃんと散歩してて、とんでもない物を見つけてしまった・・・・どうしよう?」
永田署では、テレビ電話の前で署長が硬直していた。 「わわっ・・・わざとらしくやりおって・・・・」
一緒に見ている警官と刑事は、おろおろしながら、署長の指示を待っている。宮仕えは簡単に動けないのだ。
「阿部からです。銃声らしい音が聞こえた、と。突入の許可を求めてます」 現場からの電話をうけた警官が言うが、署長は首を振った。
「応援の到着を待て、と伝えろ」
「おまえら!」
門番が追いかけてきた。さらにゾロゾロと黒服やらサングラスやら、いかにもなヤクザたちが現れた。 麗刃は銃をかまえたまま振り返った。
右のM16と左のUZIが火を噴いた。 ダダダダダダ、ドアをふっ飛ばし、寝台を穴だらけにした。小磯邦江を縛り付け、麻薬を点滴に混ぜて打った寝台だ。
ヤクザたちは数発反撃して、すぐ後退した。 つかの間、壕に静寂がきた。 「ルー・ターレン!」
ヤクザたちの声が聞こえた。破れたドアを蹴り倒し、大柄な男が入って来た。
「出たな、ルー・ターレン。不法入国の上に不法滞在し、山田組を乗っ取って以後は密輸と麻薬売買、ついでに武器準備集合と火薬等取締法違反の疑いもかかっておる。神妙にしろ、縛につ・・・・・」
ひゅうっ、ルーが息をひと吹き。一角はふっとんで気絶した。 「このおっちゃん、やっぱし同類か」
犬飼は白陀の本性にもどり、そそくさと壁のすき間に逃げ込んだ。カメラとスマートフォンは投げ出され、床を写した画が送信されるだけになった。
グルルルル、ルー・ターレンの口に巨大なキバがあった。右の目が赤く光る。 その左目をつぶしたのは小磯邦江だった。
かつて、ルー・ターレンは邦江を抱いた。興奮のあまり、つい妖の本性である猿の姿を見せてしまった。邦江は鉛筆で目を突き、獣から逃げた。
人間の姿にもどったルー・ターレンは、福本に邦江の処分を命じた。福本は邦江を麻薬漬けにして理性を奪い、催眠で自殺へ誘う策をとった。しかし、理性を無くして抜け殻となった邦江の肉体は、妖が乗っ取るに好都合だった。
ルー・ターレンは妖となって帰って来た邦江を見て、好ましいと思った。
強い妖の横にはべるは、美しい妖がふさわしい。ルー・ターレンは求めていたものが現れて喜んでいた。 いやだ・・・・いやだ・・・・・きらい、きらい・・・・
またも邦江の記憶がフラッシュバックした。 ダダダダダダ、両手の機関銃が火を噴いた。
ルー・ターレンは妖の力で弾丸の雨をしのいだ。服は寸刻みに破れて、猿の本性を隠せなくなった。 グアアアッ、壕の天井に頭がつかえる大猿が現れた。
麗刃は弾切れの銃を捨て、棚からRPG−7を取った。福本がいたずらするのを見ていたから、使用法は知っていた。
バシューッ、ロケット弾が火炎を噴いて飛んだ。 ボボボン、命中して壕が揺れた。 大猿はよろけただけだった。
麗刃は爆風で倒れた棚を踏みやぶり、またRPG−7を取り出した。かのビン・ラディンも使った対戦車兵器なのだが、大猿はロシアの戦車より頑丈らしい。
もう一度、発射。大猿はよけて、天井で爆発した。 もうもうたる煙の中に、外の光が差し込んできた。 ちっちっちっちっ、大猿は余裕で舌をならした。
麗刃は逃げるだけだ。 毛むくじゃらの腕をかわし、天井の穴から外へ出た。
ドドン、ドドン、組長宅の裏山で爆発が起きた。黒煙がキノコ雲となって空に上った。 「爆発です。すごい煙が! 突入、よろしいですか?」
道路ひとつ向こうにいた阿部は、顔に熱風を感じながら連絡した。が、返ってきたのは冷たい言葉だった。
「消防署には、こちらで通報する。付近住民の安全を最優先とせよ。その他の行動は指示を待て」
えっ、と耳を疑った。署長は賄賂で判断を曲げている、そんな疑念がわいた。 と、目の前を黒い物がよぎった。 阿部は尻餅をついて周囲を見渡した。
それはスズメバチの群れだった。三匹や五匹ではない、数百匹の大群だ。 爆発の衝撃に驚いて、巣から出て来たのか。
巣の周辺以外で、ハチは大きな群れで飛んだりはしない。何か特別な事が起きていた。
大きな胸と尻が穴の縁につかえたが、麗刃は壕を抜けて庭に出た。
どかんどかん、大猿が外へ出ようと暴れている。 手足に力が入らない。妖の力を使い果たし、麗刃は芝生で大の字に寝て、青い空を見上げた。
白陀やルー・ターレンがするように、妖の本性へもどれるなら身軽に動けるはずだ。でも、本性と人間を行ったり来たりする術を、まだ知らない。
バリバリ、煉瓦とコンクリートを突き崩し、大猿が穴を広げて出て来た。 腹へった・・・・麗刃は四つ這いで逃げようとするも、またペタリと大の字だ。
穴から噴き出す煙を背に、大猿が迫ってきた。 ああ、やられる・・・・やられちゃう・・・・・ 邦江の記憶がかすめたが、麗刃は体が動かなかった。
この体は、あんたのモノじゃないよ。あたしのモノさ。でも、やられちゃうよ。あんたと同じふうに、やられちゃうのかな・・・・
大猿が笑っている。おおおおっ、両の腕で胸を叩き、猿が勝利の雄叫びだ。 と、何かが視界をよぎった。
ブンブン、スズメバチの大群が大猿を囲んで攻撃を始めた。 大猿が前のハチをはらえば、後ろのハチが背を刺す。後ろのハチをはらえば、前のハチが顔を噛んだ。
小さいながら、ハチは数の力で大猿を圧倒する。 ででん、と大猿が倒れた。周りのハチがひとつに集まり。大猿よりも巨大な何かの形なった。妖怪だ。
光が走り、大猿の胸を貫いた。 ハチの群れは散り、羽音が消えて静かになった。
ぐぐぐぐ・・・・大猿の体を支えていた妖の力が失われていくと、体はボロボロと崩れた。 麗刃の足下の芝に、大猿の影だけが焼き付いたように残された。
助かった・・・・・のかな? 麗刃は芝の上で、また大の字に寝た。青い空がまぶしい。
邸宅のあちこちから煙が吹き出していた。壕とつながってる地下道か通気口が、他にもあるようだ。 消防車や救急車のサイレンが近い。静寂が破れつつあった。
犬飼は永田神社にやって来た。
まだヘビであった頃の神社は広かった。宅地開発やら道路整備やらで鎮守の杜は削られ、今の境内は一町四方ほどになってしまった。
それでも、妖の白陀にとり、もっとも心が安らぐ場である事に変わりはない。
その手にあるカメラはキズだらけだ。あの現場から、なんとか拾い上げることができた。故障していないか、今日はテストをしている。
社の裏手で、写真を撮る男がいた。大型の三脚に、腕の長さほどもある望遠レンズで、狙っているのは野鳥か虫か、はたまたリスあたりか。機材が大型なら、体つきも大柄だ。
犬飼が忍び足で近づくと、向こうが気づいた。 「あの時は、お助けいただきまして、ありがとうございます」
「おまえさんのためにした事じゃない。いつかシメてやろうと思ってたのさ」 犬飼としてではなく、白陀として礼を言った。
妖としてのふたつ名は連峰、スズメバチの妖だ。永田町を治める妖の頭目と言った立場にある。町を乱す妖怪には手加減しない、荒ぶる存在でもある。
「あの事件では稼いだようだが、あまり派手にやるなよ。妖怪退治の専門家だの妖怪ハントのプロだのが集まって来たら、とてもやっかいだ」 「はい、気をつけます」
連峰の忠告に、白陀は頭を下げる。 ファインダーの中で、小鳥が虫を食べた。食べて食べられて、自然の営みに平和を感じた。
「おまえさんが名をつけた・・・・麗刃、だったな。いい娘だなあ」 「はい、とてもいい娘です」 ちちち、と鳥が鳴いた。ぶーん、と虫の羽音が通りすぎた
「あれで本性がヘビなら、いっぱい卵を産んでほしいところです」 「そうか・・・おまえも、そう思うか」 白陀は舌をチロと出した。ヘビの笑いだ。
連峰は背の肩甲骨を震わせた。ハチの笑いだ。
ぐう、と腹の虫が鳴いた。 麗刃は最後のカップ麺を食べた。買い置きが底を突いた。
買い物に行きたいが、預金残高が五三円では何ともしがたい。 袋を開けて、ひっくり返した。ごとごと、大きな銃がころがり落ちた。
デザートイーグル四五口径、太くてゴツゴツした感じがたまらない。S&WのM29は8インチのロングバレル、ぐりぐり回るリボルバーがチャームポイントだ。山田組でのどさくさに、ちょいとガメてきたのだ。
しかし、銃はあっても弾が無い。妖なのに妖の力が使えない、今の麗刃と同じ状況だ。
銃を床にほうり、薄いショーツにTシャツだけで、麗刃は部屋でころがった。人間の常識と言うか、女の恥じらいが、まだまだ身についてない。
小磯邦江の記憶は、ほとんど麗刃のものになっていた。時折あるフラッシュバックは、もう麗刃を動揺させる事は無い。 コツコツ、アパートの廊下で足音があった。
部屋の前で止まった。 「若い女が・・・・なんつー格好だ!」 一角のダミ声に、麗刃は顔だけ上げてドアの方を見た。
部屋の真ん中で大の字に寝ていたから、玄関へは大股開きだった。薄い布越しに黒い毛も赤い乳首も透けていた。
ずしり、駅前で買った大盛り牛丼弁当四コが入った袋が置かれた。瞬間的に、麗刃は弁当の前に正座していた。 「早う、食え。食ったら、出かけるからな」
「へっ?」 出かけたら、さらに食える。 そう思えば、麗刃は神がかりの早業で着替え、ついでに弁当すべてを胃袋におさめていた。
山田組の壕で、一角は爆発と火災に巻き込まれた。が、事前に失神していたので、ほとんど煙を吸わずに、軽傷ですんだのだった。
ルー・ターレンは爆発で肉体が四散してしまった。わずかな肉片だけでは身元確認は不可能だった。
山田組はトップ二人が倒れた事で、解体に向かうだろう。他のヤクザに吸収されるか、新たな小組織が生まれるか、慎重な観察が必要だ。
署長が山田組の捜索に優柔不断な態度だったのは、今も問題とされている。本庁が審理にのりだすかもしれない。 で、小磯邦江が問題として残った。
一角は邦江を町役場へ連れて行く。
失効している健康保険や社会保険を復活させるためだ。山田組事件解決の功労者なので、当面は生活保護をかけてやるのも悪くない。
薬物中毒の後遺症は深刻だ。精神年齢は後退してるし、感情の抑制もはかばかしくない。精神科の医師と相談しなくてはならない。
麻薬中毒になった女は、麻薬を得ようと売春にはしりがちだ。警察としては、麻薬密売人と接触しないよう、十分な監視が必要となる。
と、ここまでは小磯邦江への表社会の評価だ。 実は、永田署のパソコンはウイルスに感染していた。犬飼が撮った写真とビデオが、じわじわネットに流出していた。
男の腕を瞬時に切断できる女、M16とUZIの二丁機関銃を撃てる女、あのルー・ターレンを殺した女・・・・・裏の世界で、小磯邦江は有名になりつつあった。
スナイパーとして、あるいは殺し屋として、麗刃が裏の世界を立ち回るようになるのは、もう少し後の事である。
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