第1章 悪魔降臨
竹島真一は深くため息をついた。
もういやだ・・・・・ カレー屋を開いてはみたものの・・・・客にどなられ、使用人には蔑まれた。店をするのも生きるのも、今日限りにしたいと思った。
店の二階は住居をかねている。ゴミが散乱した部屋の壁に背をもたれ、視線を床から天井へ上げる。端が黒ずんだ蛍光灯のまたたきを見ながら、首を吊ろうと思った。
首を吊るにはロープが要る。ロープを探して、部屋のゴミをひっくり返した。
窓には閉めっぱなしのカーテン、薄い生地を通って夕日が部屋の奥を照らしていた。薄暗くなった部屋の片隅で、真一はロープを見つけた。古い革製ハードカバー本の下に、それはあった。
ロープを引き出す時、本が開いた。買ったおぼえのない本だが、そんな本は他にもあるので、さして気にしない。それより、つい開いたページに目が行った。
悪魔召還の諸手続きと注意点・・・・
小説と思ったが、どうも何かの解説書のようだ。にしても、悪魔召還なのだ。料理人になる前は、いちおうオタクと呼ばれる人種だった。その時期に買っていた物だろう。
ロープを置いて、本に没頭した。 おもしろそうだ・・・・・ 悪魔を招いて、あの憎たらしい客や嫌みな隣人に復讐するのだ。
頭を切り落としてサッカーボールにする。あるいは、犬の胴体につなげて人面犬にする。心臓をえぐり出して、鳥かごを胸に入れる。金魚鉢も捨てがたい。あるいは、水を入れて心臓ヨーヨーにする。
オタクの脳みそがフル回転した。 契約の発行、生け贄、その他の問題は悪魔と相談して決めれば良い。まずは召還だ。
ゴミを壁際によけて、本に習って畳にマジックで魔法陣を描いた。 そして、呪文をとなえる。
えろいむえっさいむ・・・・エロ・・・イム・・・・エッサ・・・・イム・・・・
発音に自信は無い。英語はダメと自覚している。英語ではなくヘブライ語かヒンズー語かもしれないし、とりあえず懸命にとなえた。
言葉の正確さより誠意が大切、営業職の第一原則だ。その誠意をうまく伝えられないゆえに、修行で勤めた店では、いつもダメと親方から怒鳴られていた。客に対する顔と部下に対する顔が全く違う、二重人格か二面顔かという板前を見て、まねできないとあきらめた今日なのだ。
えろ・・・・イム・・・・エッサ・・・・イム・・・・エロ・・・・イム・・・・ 疲れて、唱えるのをやめた。
悪魔なんぞいるはずがない。バカな事に熱中したものだ。 竹島真一は、あらためて自殺しようとしていたのを思い出した。
ロープを窓のカーテンレールにかけた。輪を作って、首にまけるようにした。押し入れからローラーブーツを出してはいた。これで準備完了。
慎重にバランスをとりながら、ロープの輪に頭をくぐらせた。 ひとつ、ふたつ、みっつ・・・・息をおちつかせ、片足をすべらせた。
がつん、衝撃とともに首が絞まった。 息ができない、立ち上がろうにも足がローラーですべる、ギシギシと首の骨が音をたてた。
視界が赤くなって、あるいは暗く狭くなってきた。 かすむ視野の隅で、魔法陣が輝きだした。
何者か魔法陣の中に現れた。それは骸骨だった。どろどろと肉がついて、やがて人の姿になった。
地獄の使者が迎えに来た、と思った。キリスト教徒になったおぼえは無いけれど、かの宗教では自殺は地獄行き確定の大罪らしい。悪魔を召還しようとした時点で、あの宗教とかかわりを持った形になったかもしれない。生まれた家は真言宗という仏教の一派だった。仏教にも地獄の概念があるから、そっちの方からの迎えかもしれない。
どっちでもいいや・・・・・死ぬんだから。 ギギギギ・・・・ 一瞬、体が浮いた。
無重力の空間に入って、いよいよ死ぬと思った時、ドシーンと床に落ちた。
ロープをかけていたカーテンレールが壁からはずれて、頭にぶつかってきた。カーテンが体にかぶさってきて、視界が真っ白になった。立ち上がろうとしたらローラーブーツがすべって、またひっくり返って倒れた。
死にそこなった・・・・・ 首にくいこんだロープをとって息をついた。手をのばしてブーツを脱ぎ、カーテンをはらって天井を見た。
首の痛みはとれないけれど、息が落ち着いてきた。 だれかいる・・・・・ 幻ではない。魔法陣に人が立っていた。
背は高い。すらりと伸びた手足、八頭身のスタイルが美しい。黒く光る革のブーツ、鋭角ブイカットのパンツ、ひきしまった腹回りに小さなへそ、重そうな乳房を支えるブラジャー・・・・女の悪魔。長柄の大きな鎌を右手に、じっと真一を見据えていた。
「われを呼びし者は、おまえか?」 悪魔は口を動かさず、直接真一の耳奥に言葉を投げた。 「願いは何か、生け贄は何か?」
悪魔の言葉が頭の中で反響した。
赤い唇、緑色の瞳、たなびく青い髪、その肢体をつつむボンデージ風の衣装・・・・すべてがジャストでピッタンコのグレートなナイスバディーが真一の心臓をアイアンクローでストロングにホールドアップして人間風車のスイングがピンフォールした。
「われを呼びし者は、おまえか?」 また悪魔が語りかけた。
「そう、ぼくだ。竹島真一だ。愛知県にあるし、鹿児島県にも島根県にもある竹島の、真実一路の真一だ。だれのせいでもありゃしない〜〜〜、みんなおいらがわるいのさ♪♪」
昔の歌で答える。 と、また悪魔の言葉が頭に響いてきた。 「願いは何か?」 「きみだ!」 間髪入れず、真一は悪魔に抱きついていた。
「カークがエンタープライズを望んだように、ぼくは君が欲しい。ぼくの望みは君だ。ビジャー!」
つい映画のセリフを言いつつ、胸の谷間に顔をうずめた。柔らかく、あたたかい。このまま光につつまれて、宇宙の果てへ旅立つなら本望だ。 「おちつけ」
悪魔の指が真一の眉間を押して、顔を胸から引き起こした。 「おまえは、私を呼ぶ前に、別の望みをもっていたはずだ」
「そんな大昔の事は覚えてない。今は、ただ君だけだ。そうだ、結婚しよう。きみみたいな可愛い娘に、ずっとそばにいて欲しいんだ。ベルダンディー!」
また胸に顔を寄せようとすると、悪魔の指が押し返した。けっこうな痛みが頭蓋骨に刺さった。
「おちつけ。この身はかりそめの物である。おまえが望んだ姿で、わたしは現世に来た。わたしが何者であるか分かりやすいように」
「かり・・・そめ? ぼくが望んだ・・・・姿?」
真一は部屋を見渡して、ゲームやアニメや漫画を思い起こした。その中で悪魔は魅力的な存在だった、ことに女の悪魔は。まぶたを閉じれば、カレラやマーラーや夜叉姫やシバやシレーヌや・・・・その他大勢の女悪魔たちの活躍が脳裏をよぎる。
「そうか、もう願いはかなっていたんだ。ああっ、ぼくは今、猛烈に感動している。幸せだなあ、ぼくはきみといる時が一番幸せなんだ。ぼくは死ぬまできみを離さないぞ、いいだろう?」
ぴしっ、また真一は悪魔に抱きついて、その胸に顔をうずめた。背丈のある悪魔に中背の真一が抱きつくと、自動的に顔が胸の高さになるのだった。
ふむ、悪魔は真一を引きはがさず、少し考えた。 「では、願いは、そういう事で良いとして、生け贄は何か?」
「生け贄だなんて・・・・ぼくの命も、魂も、すべて捧げよう。おおっ、ローラぁぁぁっ!」
真一は古い歌のセリフをまた言った。昔の歌は、まさしく恋の悪魔に魂を売り渡すような歌詞が多かった。 ふうむ、とまた悪魔は考える。
「契約の発行と終了の生け贄を、おまえが兼ねると言うか。では、おまえは死に、ここですべて終わる」 「えっ?」
ここで真一が考える番になった。自分が生け贄になって死ぬ事で、願いである悪魔との結婚がかなうとして、死者と悪魔は夫婦でいられるのか・・・・・否か?
「ちょっと待って・・・・・やっぱり、まずいかもしれない・・・・」
真一は悪魔の胸から顔を離し、頭を冷やす。結婚するなら、生きていて、したい。しかし、結婚の願いをかなえるためには、生け贄が必要なのだ。 「願いは何か?」
また、悪魔は問う。 「首を吊り、死をかけるほどの願いを、おまえは持っていたはずだ」
真一は顔を上げ、悪魔を見なおした。さっきまで色々言った事を、まったく願いとして認めていない口ぶりだ。
「あの・・・・本当の悪魔なら、ぼくの願いは、とっくに知っているとか?」 「知っている」 「んんん・・・・なら、聞くまでもないだろ」
「ただ願っているだけでは、何も始まらない。おまえは喋れるのだろう。願いを言葉として、その口から出した時、契約は成立する」
悪魔の目が、体を縛る。真一は尻から床に落ち、ただ見上げるばかりだ。 「願いは・・・・本当の願いは・・・・」
首を吊る前に、何を考えていたのか。それを思い出す必要があった。 「願いは・・・・えっと、それは・・・・」
腹の底に沈んでいたモノが、喉まで上がってきた。息が詰まりそうだ。あと少しで口から外へ吐き出せる。 「か・・・・かっ・・・・・カレーだ!」
両手に拳をつくり、真一は立ち上がった。
「おれはカレー屋をやっている。でも、ダメなんだ。味とか、味とか・・・色々がダメで、おれのカレーは美味くないんだ。みんなが馬鹿にするし・・・・ああっ、おれのカレーが美味いものなら、誰にも文句をつけられないほど美味かったら! 食べた人が元気爆発で、エネルギーチャージ200パーセントなウルトラエクセレンスを・・・・とか、だめ?」
一気にまくしたてて、真一は悪魔を見た。相変わらず、表情は無い。 「やっぱり・・・・・だめ?」 「そのカレーを見よう」
クルリと悪魔は身を回し、階段を下りて行く。あわてて後を追う真一だ。
厨房へ入った。売れ残りのカレーの匂いがあふれていた。
「もう冷めてるし、温めなおさないと」 ガスの元栓を開き、寸胴鍋のレンジに火をつけた。味見をされるとなると、心が揺れた。
悪魔は蓋をとり、指でルーをすくった。初めて口が開いて、ヘビのように長い舌が出た。 チロとひとなめ・・・・どきどき、真一は判定を待つ。
「ハートが入っていないな」 「は?」 「ハートが入っていない、と言った」 「ハートがない?」
脱力した。あのスパイスが足りないとか、この野菜がよけいとか、肉の煮込みがなってないとか、具体的な指摘を期待してたのに、ハートなのだ。
悪魔が手を上げた。指に猛獣のような爪がある。 ブスリ、爪が真一の胸に食い込んだ。 「このハートが入っていないのだ!」
バキバキと肋骨が折れて、息がつまった。首を吊った時のように、視野が赤くなり、また暗く狭くなった。 ぽんと、突然に圧力が消えた。
悪魔の手に、どくどくと動く赤い肉のかたまりがある。 「このハートだ」 真一は自分の胸をおさえた。鼓動が無い。心臓を取り出されてしまった。
「そ、それは!」 返せ、と言いかけたが、言葉が続かない。手足が硬直していた。 悪魔は脈動する心臓をルーに落とした。
火が鍋を熱くしてゆく。ルーの表面に湯気が立ち始めた。ぷくぷくと、ゆっくり心臓は沈んで、ルーの中に消えた。 真一はよろめく足で鍋に寄り、耳をそばたてた。
どくん、とくん・・・・心臓が脈打つ音がした。真一の心臓がカレーのルーの中で生きている。鍋の中の力強い鼓動が、真一を熱く揺さぶった。
悪魔が指を鳴らした。ポーン、音があって、電気釜が湯気を吹いた。 「ルーができた、飯も上がった。試食をしてみよう」 ピューッ、悪魔が口笛を吹いた。
わいわいがやがや、急に店がにぎやかになってきた。
ドアからではなく、壁のすき間やテーブルの裏から出てくる出てくる。尖った耳とか、大きなキバとか、鱗や角とか、毛むくじゃらの腕とか、人間ではない連中ばかり。悪魔の仲間か手下だ。
ダン、悪魔が足で床をタップ。
きゃぴきゃぴと、一見かわいい女の子たちが現れた。が、頭に角があったり、尻尾をひきずっていたり、やはりひとくせある小悪魔たち。
悪魔が心臓を煮込んだルーを飯にかけて、カレーライスの出来上がり。 女の子たちがカレーをテーブルに配る。獣だか魔物だかの客がスプーンで食べ始めた。
やむやむ、ぐーっ! はおはお、たいはお、おおーっ! 「おおむね、好評のようだ」 悪魔が自画自賛で言った。
「言っとくけど、おれが誉めてほしいのは、人間からだ。こんな金も払わない連中から、うまいと言ってもらっても、てんで嬉しくないね」
真一は抗議する。ついでに、つんとおっパイに触れた。 「試食は終わりだ。朝を待とう」 悪魔が手を振った。女の子たちも魔物たちも消えた。
悪魔はクルリとひと回り。紺のドレスに白いエプロンのメイド姿になった。 「さあっ、開店準備よっ!」 悪魔のメイドは、明るくニコリ。
この姿も、真一のオタクマインドをグサリと貫いた。ただし、心臓は鍋の中だ。
早朝、街は淡く霧に包まれていた。
一台の黒塗りのクルマが行く。窓はブラックフィルム貼りで、もろ違法な改造。ドアに金で成の字を描き、ヤクザ成田組だ。 「おい、あれは!」
助手席でオオカミの弥十郎が言った。キッ、とタイヤをきしませてクルマを止めた。 街の中心地、カレー屋「たけちゃん」の前で女が掃除していた。
「あの店は、もう閉店に追い込んだはずだぜ」
数ヶ月かけて、あれこれと嫌がらせを繰り返し、ありもしない悪評を広めた。店員は辞め、店主はノイローゼになり、ついに閉店の看板をかけたまま、数日が経っていた。
後は、書類を強制するなりねつ造するなりして、タダ同然で土地を手に入れる。そして、高値で転売するばかりになったはずの場所なのだ。
運転席の若い三輪を残し、弥十郎はドアを開けて降りた。後席の二人が続く。 「おいおい、ねーちゃん。ここで、何してんだい?」
弥十郎が声をかけたのは、メイド姿の悪魔だ。 「この店は、なあ、もう閉店で廃業するところだ。よけいなまねは止めて、家へ帰んな」
「店を続けるか閉めるかは、こちらが決める。意見は聞きおく」 悪魔は箒を持つ手を休め、背筋を伸ばした。三人より背丈がある。
「おおい、ちっと背があるからって、舐めるなよ、ねーちゃん。おれは、なあ、仲間からオオカミとあだ名される暴れんぼうでい」
「おまえはオオカミか。はて、わたしが知るオオカミとは、こんなやつだが」 悪魔が手を振った。
メイドの紺のスカートの陰から四つ足の獣が現れた。犬にしては大型、上下に大きな牙を光らせ、うなりながら弥十郎を見据えている。
弥十郎はステップバックして、後ろに控える肥満体にタッチした。 「へへへい、オオカミなんか恐かないぜい。ベアハッグの熊五郎さんが絞め殺してやろうかい」
熊五郎は両手を回し、オオカミを威嚇した。 「おまえがクマとは。ほら、おまえの後ろのクマと比べると、ずいぶん小さいな」
悪魔の指摘に、熊五郎は振り返る。 こげ茶色の毛のクマがいた。四つ足でも背丈が1メートル以上、体長は2メートル、体重は300キロを越える大型のヒグマだ。
熊五郎はひるみ、残る痩身着流しの男にタッチした。 「ふっ、オオカミがどうした、クマがなんでい。紅蓮の竜さんの、この背中の悶々が黙っちゃいねえぜ」
竜が片肌を脱いだ。露わになった背に、赤い目玉の龍の彫り物があった。 「ほほう。しかし、その龍、そんな狭いところに閉じ込めておくのは、かわいそうだ」
悪魔が首を振る。 竜の背が光り、彫り物から龍が飛び出した。
龍は天に向かって昇り、雷鳴とともに降下して来た。火のような赤い目玉が三人を捕らえた。 ぎゃあ・・・・ 「遅いなあ」
クルマで待たされていた三輪は、ついにドアを開けた。 カレー屋の前では、さっきと同じようにメイド姿の女が掃除している。
「すみませんが、アニキたち、見ませんでした?」 メイドは首を振る。 「どこ行ったのかなあ。にしても、好いニオイだ」
「もうすぐ開店です。食べていきますか」 メイドは営業スマイルでさそう。厨房の換気扇からカレーの匂いが流れていた。 三輪は手を振って笑顔を返した。
「いや、アニキたちを探さなくちゃね。食べるのは、またね」 ほおを赤らめ、三輪はクルマにもどる。
携帯を開き、アニキたちを呼んだ。電源が入ってないか電波がとどかない所にいます、と機械の返答が来ただけだった。
第2章 悪魔のチカラを身に付けて
開店に先立ち、竹島真一は店内をチェックする。
テーブル、イス、食器・・・・問題なし。しかし、隅々を回る内に、異臭に気付いた。
トイレだ。黄ばんだ便器、シミの付いた床と壁、ドアを開けたとたん、よろめいて後ずさりしてしまった。
モップとバケツ、混ぜるな危険のラベルがまぶしい洗剤を引き出した。 便所掃除の極意、便器に顔を突っ込んで洗え。と、ものの本にあった。
本で読んだ極意に従い、真一は便器を洗い始めた。 ・・・・数分後、便器は白い輝きに包まれた。 指先をすべらせた。キュッ、と鳴った。
良い音だ。うれしくなって、また指をすべらせる。キュッ、キュキュッ、白い便器が楽器のよう。
店の前の道、肩を落として歩く二人がいた。
テンジンとマヤは故国へ、ネパールへ帰ろうとしていた。 ジャパニーズドリームを追いかけ、はるばる仲間と日本へ渡って来た。けれど、夢は破れた。
なごりをおしむでもなく、ただ足は重い。悲しみが肩にのしかかる中、カレーの匂いが鼻をさそった。 「ああ、好い匂いだ」
「こんな香りが、うちにも欲しかったね」
二人は夫婦だ。日本でネパールカレーの店を開いた。仲間の店は、それなりに繁盛した。けれど、二人の店は惨々なもので、ついに営業をあきらめた。
二人の作るカレーは日本人に受けなかった。いや、それ以前の問題で、仲間からも不味いと酷評された。工夫して努力したが、味は良くならず、ついに料理の道をあきらめる事にした。
二人の目の前のカレー屋のドアが開いた。 竹島真一は背伸びをし、くるりと回って、ドアの看板をひっくり返し、営業中とした。
カレー屋「たけちゃん」は、心機一転の営業再開だ。 また中に入ろうとして、二人に気付いた。 「いらっしゃいまっせーっ」
真一は二人を呼び込んだ。けれど、おどおどした態度が変だ。 テンジンとマヤはメニューを見て、財布の残金を見た。
「すみません。お金が足りないので、二人だけど、カレーをひとつだけいただけますか」 真一は手でOKサインを返した。
メイドの悪魔が一皿のカレーライスをテーブルに置いた。スプーンはふたつだ。 湯気が立つ皿の飯とルー、一息二息と香りを楽しむ。
テンジンはスプーンで一口、つい手を打った。 マヤも一口、ついテーブルの下でステップを踏む。
二口目を食べて、テンジンはテーブルをドラミング、マヤはイスの上でひと回り。 三口目で、ついに二人は踊り出した。手が足が止まらない。
「おお、ダンニャバード!」 天をあおぎ、二人は声をあげた。理想のカレーに出合った事を、神に感謝した。
この店で働きたい、とテンジンは願った。仲間は教えてくれなかったカレーの味付けを、働きながら知りたかった。
真一は軽くオッケーと言った。悪魔は手が空くので、異論は無い。 「ご店主、お名前を教えてください」 テンジンの願いに、真一も軽く応えた。
「竹島真一。鹿児島県にもあるし、愛知県にも島根県にもある竹島。で、真実一路の真一さ」 「竹島って、あちこちにあるんですね」
「ありふれた島さ、カレーの味と同じだ。特別である必要は無い、みんなが知ってる、よくある味。これが何よりおいしく、何よりも美味いはずだ」
ふむふむ、テンジンとマヤの二人は手を合わせた。真一の言葉は仏の説法に近い。
しかしながら、二人がカレーのレシピを会得するのは不可能だ。この店のカレーは、仏ならぬ悪魔に頼み、自分の心臓を煮込む、あり得ないカレーなのだ。
店は真一にテンジンとマヤにまかせ、悪魔は屋根に上がった。 耳をすませば、誰かの泣き声が聞こえた。
近い。それは店から300メートルほど離れた市役所の中からだった。 「間もなく市議会が始まります」
助役が市長室のドアを開けると、誰もいなかった。街を見下ろす窓のカーテンの裏、机の下、ソファの陰を見たが、何もない。
その頃、背広の襟を立て、マスクにサングラスで顔をかくした男が非常階段を下りていた。 市長、五十嵐浩三は市庁舎を抜け出し、ほっと胸をなでおろした。
背を丸め、目立たぬようにして、交差点を渡る。怪しげなふるまいは、かえって目立つものだが、今の彼に判断力は無い。選挙でした身振り手振りの逆をすれば、なんとかなると思うばかり。
どこへ行く? 逃げてはみたけれど、行くあてなど無い。 五十嵐の足が止まった。 ひとつには、迷い。もうひとつには、腹の虫が鳴った事。
匂いにさそわれ、五十嵐は「たけちゃんカレー」のドアを開けた。 テーブルに着き、一番安いカレーをたのんだ。トッピングは無視した。
マスクを半分ずらし、スプーンで一口、カレーが口と鼻に満ちる。
五十嵐の脳裏に、労組の仲間の笑顔がよみがえった。市長になれば、あんな事もそんな事もし放題、と甘言に乗せられてしまった。あれは嘘笑い、と気付いたのは当選してからだ。
市長になったとたん、五十嵐は陳情の矢面に立たされた。市議会では答弁の一番手だ。組合は助けてくれないばかりか、給料上げろとか休暇を増やせとか、要求ばかり。苦言しようものなら、ストだサボだと脅して来る。
サングラスを半分ずらし、ひたいを流れる汗をぬぐった。 もう一口、カレーを食べた。
五十嵐は気付いた。組合は市長を矢盾にして、自分らの権益に市議会のメスが入らないようにしたのだ。市議会も市長を矢盾にした。市民の関心を市長に集め、市議会の不正に市民が注目しないようにした。
腹が熱くなってきた。 さらに、もう一口、カレーを食べた。 ばふっ、口から火がもれた。怒りが体に満ちてきた。
マスクもサングラスも取り、素顔になる。汗がシャツのえりを濡らした。
五十嵐はカレーライスの残りを一気にほお張る。むしゃむしゃとかみ砕き、ごっくんと喉を鳴らして呑み込んだ。
顔が赤くなった。汗が足を流れ、靴下を濡らす。頭から湯気が立った。 皿に残るカレーを舌で舐め取り、コップの水を飲み干した。
五十嵐は立ち上がり、財布をレジに捨て置くと、店を出た。 口から白い蒸気が吹き出た。背広の背中が汗でシミとなり、それから湯気が立つ。
組合と市議会の板挟みで悩む男は消えた。暑苦しいほどに汗のしぶきを飛ばし、口から放射能のごとき息を吹き出すモンスターが現れた。 市役所を取り戻す!
五十嵐は重い決意を胸に、ズシンズシンと歩を進めた。 ガオオオ〜〜〜ン!!! 男の獅子吼が市役所の建物を震わせた。
この後、市役所の中で惨劇が起きた。が、それは本作の物語とは関係が薄いので、割愛する。
カレー屋に隣接する吾妻高校のグランドで、野球部は朝の練習を終えた。 用具をかたづけながら、部員たちはため息。
午後から地区大会だ。初戦の相手が地区では無敵とも言われる龍哭高校、去年は20対0で五回コールド負けだった。今年も一回戦敗退か、と思えば気が重くなる。
「試合の前に腹ごしらえだ。カレーを食おう、カツカレーだ」 野球部顧問の保志一徹が言った。 おう、と小さい声が返ってきた。
教師生活25年、最弱最低のチームになってしまった。保志はほぞを噛む毎日だ。 「メシだってさ、はやく支度せえよ」
花形美鶴が右手を挙げて、チームを鼓舞する。チームでただ一人の女子部員、マネージャーではなくエースピッチャーだ。
現代の高校野球は男だけの世界ではない、女子選手も認められている。しかし、男よりも体力のある女がそうそういるはずもなく、補欠に女子がいると珍しがられるくらい。
吾妻校で女の花形がレギュラーになれたのは、員数合わせに必要だったから。野球は9人そろっていないと、試合ができない。女ながらピッチャーができる花形は、9人目の貴重な人材だ。
ぞろぞろ、10人がカレー屋に入る。「たけちゃんカレー」には久しぶりの団体客だ。 「カツカレーを、10枚!」
花形の声が天井に響いた。選手9人と顧問、合わせて10人、吾妻高野球部の全員だ。
肉を切る包丁の音、カツを揚げる油の音、ご飯とカレーの匂いがテーブルまで流れて来た。 無言で待つテーブルに、カツカレーが来た。湯気が立っている。
「いただきます!」 大きな声と小さな声で、皆は食べ始めた。 スプーンで一口、カレーの辛さが口に広がった。
花形は去年の試合を思い出した。あの時、龍哭の五番サードは今年、四番でエースピッチャーと言う。あの男が打席で言った。カマンベイビー、と。
女ながら、時速130キロの速球を投げ込んだ。ホームランを打たれた。ダイヤモンドを回りながら、また言った。アイラブユー、と。
くそくそくそっ、スプーンでご飯とカレーを叩くように混ぜた。かぶりとカツを噛み切ると、勢い余って金属のスプーンが折れた。怒りのまま、スプーンも食べてしまった。
残りは手づかみで食って、平らげた。
他8人の男選手も悔しい思いを重ねてきた。スプーンでカレーを口にする度、試合中の罵声が耳に帰ってきた。吾妻小野球部、と。
野球規則には低身長への制限がある。アメリカでは、たった一度打席に立ち、終わった選手がいた。バッターの背が低すぎて、ピッチャーがストライクゾーンを確保できなかった。ピッチャー側の抗議で、身長制限の規則ができた。
腹が熱くなり、怒りが湯気となって頭から上がった。背が低いがなんで悪い! 口に入れたスプーンが、ねじれて曲がっていた。
その日の午後、吾妻高と龍哭高の試合は恐ろしい事になった。しかし、それは別の物語である。
第3章 ヤクザが来たりて悪魔と踊る
「THE YAKUZA」の金箔字看板を掲げる成田組の本部ビル、組員が総出で朝礼が始まった。 成田金一が壇に上がった。
広いひたい、髪は後頭部に集まっている。丸い腹と細い足。ズボンのすそに隠れているが、そのクツは17センチも彼の身長をかさ上げしている・・・のは、公然の秘密だ。
「ああ、我らに全てをあたえて下さる組長様、あなた無くして組はありえず、あなた居ずして組員は命も無し。日々、我らに生活を下さる成田の金看板、ひれ伏さぬ者を討つは、我らの勤め」
口上を言い終えて、若頭の近藤は息苦しさに胸をはずませた。 成田は右手を掲げ左手を腰に、口上を笑顔で聞いていた。
近藤は組長前に二度跪き三度頭で床を叩く、そして朝の報告だ。 「申し上げます。例のカレー屋の件です」 「良き報せか?」
「近日、新たに人を雇い入れ、営業が盛り返しているようです」 「まことにもって、不愉快な報せである」
ありとあらゆる嫌がらせをしてきた。店を赤字に追い込み、店員は辞めてしまい、店主は気を病むまでになっていた。あとは適当に話をつけるなり、書類をでっちあげるなりして、店と土地を手に入れる算段だった。
「あの店主の名は、何だったかな?」 「竹島真一です。鹿児島県や愛知県、島根県にもある竹島。真贋の真に、一番下の一です」
「竹島や、ああ竹島や竹島・・・・むむむ、詩にならん。下賤な名である。あらゆる手立てで潰せ!」 「ははっ」 近藤は立ち上がり、部下の方へ下がる。
総攻撃の準備が始まった。
真一は寸胴鍋にかかる火を弱くした。
そっと耳を寄せる。とくん、とくん・・・・心臓の鼓動が聞こえた。以前と比べると、少し弱い。でも、落ち着いた音だ。自分はカレーのルーとひとつになっている、その実感が体を熱くした。
悪魔はメイド姿で屋根の上に立ち、空気を嗅いだ。 願いの主、竹島真一の願いはかないつつある。店は繁盛していた。
しかし、カレーを不味いとけなし、真一を追い詰めた者がいる。彼らを何とかしなければ、満願成就とは言えない。 来る。
悪魔は感じた、奴らが店にやって来た。
一番手となったのは、デコが目立つ大城金太郎。どっかとテーブルに着き、片肘ついて首をならした。
「カレーだ」 腹の奥に溜まったガスが抜けるような声で注文した。
大柄なメイド姿の店員が来て、カレーライスの皿を置いた。ご飯とカレーから白い湯気が立っている。 スプーンで一口、ペッと唾を吐いた。
「なんだあ、こりゃあ」 店の外まで響く大声を、顔を歪め、肩を揺らして言った。
胃が痙攣する感じに、つい真一は前屈みになった。皿を洗うテンジンとマヤの手が止まった。 メイドが大城の前に立つ。
「これがカレーかよ。こんなモン、犬でも食わねえぞ!」 メイドは黙して首を振った。静かに左側のテーブルを指差した。
見ると、白い犬がいた。カレーライスを食べていた。 犬は大城の方を見て、ワンとひと吠え。また、カレーライスに口を付けた。
「そりゃあ、そりゃあ・・・・・たまには、食う犬もいるだろうな。しかしよ、こんな猫もまたいで通り過ぎるような、まっずいカレーは・・・?」
言いながら、大城はメイドが首を振るのに気付いた。黙して右側のテーブルを指差した。 見ると、虎縞の猫がいた。カレーライスを食べている。
猫は大城の方を見て、ニャアと一声鳴いた。また、頭をカレーに向けて食べた。
「そそ、そりゃりゃあよ・・・・こんなのを食う珍しい猫もいるかもな。でもよ、でもよ、こんな豚小屋よりひでえ臭いモンを食うヤツなんてのは・・・・?」
メイドの眉間にシワが寄っていた。 どすっ、大城の足に何かが当たった。温かく、柔らか、動いている。
ぶひっ、テーブルの下に豚がいた。がぶ、とすねに噛みついた。 あががが、悲鳴を押し殺し、豚を蹴り離した。
「こんな、こんな・・・・馬糞みたいな色のモンを食うやつの気が知れねえや」 大城はメイドを見た。彼女は笑っていた。
と、黒いものが顔をなでた。長い毛だ。 ひひーん、馬のいななき。馬の尻が顔に来た。
ひえええっ、大城は悲鳴で逃げた。間一髪、馬糞の直撃を顔にくうのは避けた。
「臭え、臭えっ! 息もできねえっ! こんな店より、自動車の排ガスの方が、よっぽど気持ちいいぜっ!」 大城は強がりを言いながら、店から逃げ出した。
玄関のドアを出たところで、つまづいた。地面にバッタと大の字に倒れた。 その時、トラックがアクセルをふかして動き出した。排気管から黒煙が吹き出した。
思いっきり排ガスを吸い込み、大城は口を閉じるのも忘れてしまった。
ディーゼルの黒煙は発進時に最も多く出る。トラックに続き、バスが黒煙を吹きながら大城の横を通過して行く。その後ろに、またトラックが続いていた。
二番手は、ほめ殺しの馬場と大食漢の猪木。
カレーのルーは仕込みに時間がかかる。大食漢の猪木が十人前、二十人前を一人で平らげて、その日のカレーを品切れにしてしまうのだ。代金は踏み倒す、ほめ殺しの舌先三寸が武器だ。
黒スーツの大男が二人、ドカドカ床を踏みならして入ってきた。 カレーライスを注文した。 出てきたカレーをスプーンで一口、馬場は言葉に窮した。
ほめ殺しの二つ名を持つ者として、ほめる点とけなす点の見極めには自信があった。しかし、目の前のカレーには、そのどちらも無い。ただ普通のカレーだった。
多様なメニューをそろえるレストランなどでは、カレーライスは業務用レトルトパックを使う。だが、ここはカレーの専門店。それぞれの店が創意工夫を重ねて、独自の味を積み上げているはずだ。
その工夫が、成功も失敗も含めて、何も感じられない。 「おお、おかわり」 悩む馬場のとなりで、猪木は大食いの本領を発揮していた。
新しいカレーライスが来た。ばくばく、もぐもぐ、じゅるじゅる、皿を舐めるように平らげた。 「おおお、良い食いっぷりだねえ。なんか、うれしくなるなあ」
真一が三枚目を盛りながら言った。へへへ、猪木が照れて笑う。 「ちなみに、味の方は、いかが?」 「う・・・・まあまあ・・・かな」
ほめ殺しの馬場としては、最低の言葉が猪木の口から出た。 「おお、良いねえ。ありがとうさん」
真一は四枚目を大盛りにして、ずいとテーブルへ置いた。ごっつあん、と頭を下げ、猪木はスプーンでカレーライス取る。
「おいおい、兄さん。おいしい、と言ってもらわなくて、良いのかい?」 馬場の疑問に、真一は手を振る。
「テレビみたく、一口だけで美味い、とか言われても、ねえ。首筋がこそばゆいだけだよ」
「ま、テレビの連中は、金もらって食ってる訳だし。もう最高、とか誉め言葉はギャラの内だよな」
「わしら、プロの食い物屋は、食べて金を払ってもらって、なお、また食べたいと思ってもらう、これが肝心よ。どんなに美味くても、もう食べたくない、と思われたらダメさ」
妙に息が合う真一と馬場である。 その間に、猪木は五枚目に手が付いていた。 「美味しいと、食べたいとは、違うのかい?」
「説明は難しいけど、同じではないようだ」 「あっちの方が美味しいけれど、財布と相談すると、こっちを食べる。そうゆう事はあるなあ」
「体重計と相談したら、こっちよりもあっち、と言う場合もある」 あるあるある、と肯く真一と馬場だった。
その時、猪木は十皿目を平らげ、おかわりをしていた。いや、十枚の山がふたつで、二十皿だ。 「ご飯とルーが、大丈夫でしょか?」
マヤが心配してふり向くと、メイドは笑顔で首肯した。
ルーの寸胴鍋の中身は半分ほどになっていたが、いつの間にか、あふれそうな量にもどっていた。ご飯のジャーも空になりかけていたが、炊きたての量になっていた。
「おお、おい。腹八分目と言う諺もあるぜ」 馬場が心配して言う。 猪木は食い続けていた。皿の数は四十を超えた。
体型は明らかに変化していた。シャツのボタンがはじけて飛び、ズボンと袖の縫い目が破けた。食べたカレーライスが、そのまま肉になったかのようだ。ベルトがちぎれて、黒い背広が背中で割れた。
首は無く、頭が肩に乗る状態。イスが重みに耐えかねて、ついに潰れた。 その衝撃で、皮膚に裂け目が入った。
猪木の皮が床に落ちた。中身はカレーだった。 カレーとなった猪木が馬場に覆い被さる。二人はひとつになり、溶けてカレーとなった。
二人が混じったカレーの山は、床板の隙間から吸い込まれるように床下へ消えた。後には、ほんのりカレーの香りだけが残った。
メイド姿の悪魔は、満足そうに笑みをうかべた。
第4章 悪魔の晩餐
「良き報せは、いつになったら来るのか」 ドン、成田金一はデスクを叩いた。
若頭の近藤は口ごもる。何か報告したくとも、下から報告が来ない。報告できない、と報告するだけだ。 「こうなったら、わしが直々に見に行こう」
「いえ、それは畏れ多く・・・」 成田はガンと目を見開いた。近藤はひれ伏した。
息苦しくて、竹島真一はテーブルに両手をついた。
まさか、もつれる足で寸胴鍋へ行った。腰を落として、耳を寄せる。 とくん・・・とくん・・・・鼓動が聞こえた。しかし、ずいぶん弱い。
カレーのルーの中で、心臓が溶けて形を失いかけている。まだだ、もう少し待て、と心の中でつぶやいた。 「そろそろ、仕舞いますかあ?」
マヤが閉店準備を聞いてきた。 日もとっぷり暮れた。竹ちゃんカレーは昼飯の店、客足が途絶える時刻である。
店内を掃除して、残り物で晩飯を取り、時には新しいメニューの自己品評会を開く。時間を気にせず、のんびり味見して、また手を入れてみたりする。
「そうだね、そろそろだね」 真一は鍋の保温の火を止めた。どくん、心臓が脈打つのが胸に響いた。
どうしよう・・・・
相馬登は暮れの街を歩きながら、足の向きが定まらなかった。西の空に残る陽の明かりは、もうかすかになってしまった。
こんなはずではなかった・・・・考えようとしても、頭の中が空回りするばかりで、考えがまとまらない。 とりあえず夕飯を食って、それから考えよう。
相馬はカレーの匂いに誘われ、たけちゃんカレーのドアをくぐった。 店内に客はいなかった。メイド姿の店員がテーブルを雑巾がけしている。
「あの、まだ、やってますか?」 「もう閉めるところだけど、どうぞ」
隅のテーブルに相馬は案内されて、マヤが五枚目の皿を置いた。すでにルーが盛られている。
真一が真ん中に大きな皿を置いた。山盛りのパン、ネパールのナンだ。日本人の目には、不思議に歪んだ形のパン。
「テンジンのナンは美味しいよ。メニューに加えようと思うんだ」 真一は相馬に勧めた。客の意見は、より重要だ。
ナンをつまんでちぎる。ルーに端を漬け、口に運んだ。
生地の表面にあるミクロの穴が、液体のルーをとらえて、しっかり保持する。カレーの辛味とナンの甘味が、口の中でハーモニーとなった。
「明治時代、日本に初めてカレーが入ってきた時、それは現代のスープカレーに近かった。で、フランスパンと合わせて食べたそうだ。ナンと合わせて食べるカレーは、メニュー的には先祖返りに近い」
真一の説明に、相馬は頷くだけ。また、ナンを口に入れた。 「ネパールでは豆や漬け物とも食べるの。カレーとだけなんて、さびしいね」
「今度、それを作ってくれよ」 「あい」
マヤはスプーンでカレーをすすり、ナンは別に食べた。フランス料理と考えれば、ナンをルーに漬けるのは下品な食べ方。
ネパールは東の米食文化と、西の麦食文化が接して交わる国だ。村により、あるいは家により、米が主食だったり、麦が主食だったりする。ナンは麦食文化の一面に過ぎない。
相馬はナンを口にしながら、メイド姿の店員を見た。美人だが、無表情に食べている。その目の先は、店長の真一だ。
ずん、腹の底が熱くなってきた。辛いカレーを食べているのだ、それは当然だ。
次第に、その熱さが全身に回る。この状態を、どう外に向かって表現したら良いのか。 ふうふう、口から熱がもれた。
ああああっ、相馬は天を仰いで叫んだ。 「辛かったかな?」 真一が問うと、いえ、と相馬は首を振った。汗が一滴、こめかみを流れて落ちた。
「さささ、新しカレーです。試してみてくーださい」 テンジンが新しい皿を持ってきた。彼が仕込んだカレーのルーが満ちている。
あうっ、真一は鼻と口を手で押さえた。目にまで刺激する強烈な臭いだ。 メイド姿の悪魔は、音も無く倒れた。悪魔払いの一撃。
「下げろ下げろ、捨てて・・・捨ててしまえ!」 真一は手を振り、ただよう臭いを振り払って叫んだ。 テンジンは肩を落とし、皿を厨房へと戻す。
「前の店から、まるで直ってない。つぶれるはずよ」 マヤが涙をふきながら言った。
窓を開け、真一は深呼吸してダメージからの回復を図る。すぐ咳は治まった。
慣れない者には、異臭を放つだけの物は確かにある。チーズや納豆の匂いは、それと知らない者には、ただの腐敗臭だ。
ふいに、足の力が抜けた。がく、と床にひざを突いた。 テンジンのカレーのせいか、違う。胸に手をやり、振り向くと、メイドの悪魔が表情の無い目を向けていた。
その時が来た。 真一は悟り、壁をつたって厨房へ入った。 テンジンはルーを捨て、鍋を洗っていた。涙がにじむ、臭いのせいばかりではない。
「わたしのカレーの秘密を教えよう」 真一が言うと、テンジンは目を丸くした。ここに勤めて、毎日調理を手伝ってきた。秘密など無いはずだった。
寸胴鍋に耳を寄せた。もう心音は聞こえない。 真一は帽子を取り、エプロンを落とした。服を脱いで、身ひとつの裸になった。
テンジンとマヤに向き、別れのアイコンタクトをすると、ガス台に上った。いよいよだ。
寸胴鍋を両手でおさえ、まず右足を入れた。鍋の底が感じられない、地獄まで続いているのか。
さらに、左足を入れ、ゆっくりと腰を落とす。ルーは溢れそうでいて、ぎりぎり縁に留まっている。
肩は腰より横幅がある。左手を腹に沿わせて、体をななめにした。 右手を鍋の縁から離し、上にのばした。重みで体が沈んで行く。
さらば、真一は手を振り、ついにカレーの中へ全身が没した。 テンジンは寸胴鍋に駆け寄った。中には、ただ良い香りのするカレーのルーがあるだけだ。
ああああっ、相馬が泣き崩れた。涙が拳を濡らす。床をたたき、唇を噛んだ。
「なんてこった! たかがカレーに、たかが料理に、こうまで打ち込めるヤツがいたなんて! 我が身を、命までを捧げられるヤツが、目の前にいたなんて!」
たかが・・・・相馬は、いつもそう思ってきた。そうして、問題から逃げてきた。他人の目ばかりを気にして、目の前の事を卑下してきた。大事なのは、自分がそれをどう思うか、なのに。
「もう、俺は逃げない。他人の目など、気にしない。俺が信じたモノに、目の前のモノに、ただひたすらにっ!」 相馬登の心に火が点いた。
たけちゃんカレーのドアを開け、外に出た。すでに街は夜の帳が落ちている。 「目の前が闇なら、俺が明かりとなる!」
相馬登は走り出した。火となって彼方へ去った。ドップラー効果で響く声は、ファイヤー!
たけちゃんカレーから走り去る炎とすれ違い、店に近づく車列があった。どれも高級大型乗用車だ。 「ここか」
成田金一は座席から足を伸ばすが、地面にとどかず、ぴょんと飛び降りた。
標的としてきた店の看板を見上げた。ちんけな字面だ。市役所に近い立地以外、さしたる取り得が無い物件と思えた。
続いて、近藤を含む成田組の重鎮たちが降りて、組長の後ろに並んだ。 そして、記念撮影。
カメラは広角レンズで、下からあおって撮る。組長の成田金一が誰より背が高く、大きく映るアングルだ。もちろん、上げ底17センチのシークレットシューズは、巧妙にフレームから外す。
三輪を車に残し、一同は店へと歩を進めた。
竹島真一がカレーの鍋に身を没した。たけちゃんカレーの主人が消えてしまった。
残されたテンジンとマヤは、どうして良いかわからず、鍋の前で右往左往するばかりだ。
ガシャリ、足音と供に厨房に入ってきた者があった。メイドの姿を捨て、召還された時の姿に戻った悪魔だ。 テンジンとマヤを押しのけ、鍋の前に立つ。
鷹のように長い指先でルーをひとすくい、蛇のような舌で味を確かめた。 「良いカレーができたようだ」
悪魔は試食する者を探した。テンジンとマヤは怯えていて、適しているとは言えない。 どやどや、黒い一団が入って来た。成田金一を筆頭とする成田組の者たちだ。
「店主を出せ!」 金一が金切り声で言った。 悪魔は厨房から出て、男たちの前に立つ。場違いな出で立ちに、成田組の面々は少しうろたえた。
近藤が前に出た。背の高い悪魔を見上げ、豊かな乳房にやや目を奪われながら、ゆっくり語りかける。
「ここにいるはずだ。鹿児島にあるし、愛知にも島根にもある竹島の、真相の真に、一見の一、竹島真一とゆー野郎が」 悪魔は答えず、手を上げ、さらに横へ開いた。
「良いカレーができた。試食会を始めよう」 きゃぴきゃぴ、と声を上げて小悪魔たちが店にあふれた。見た目は小柄でメイド姿の、可愛い女の子たち。
メイドの小悪魔に着席を促され、成田金一はイスに腰をおろした。他の面々もならった。 ルーを盛った皿がテーブルに次々と置かれ、店内にカレーの香りが満ちた。
「まあ、最後の晩餐と言うのか、な」 小悪魔がスプーンでルーをとり、金一の口へ寄せた。つい、口元がゆるんで、あむと食いついた。
「さあ、遠慮無く食べてくれ」 悪魔が号令をかけた。
小悪魔が近藤の手を取り、ざぶとルーに漬けた。見かけは女の子ながら、すごい力。男の近藤でも抵抗できない。
カレーの付いた手を持ち上げると、顔が二つに割れて大きな牙が出た。がぶり、手首が無くなった。 あうあう、近藤は悲鳴も出せず、小悪魔のなすがままだ。
血のしたたる腕を、またルーに漬けた。がぶり、ひじから下が無くなった。 となりの小悪魔は皿を持ち上げ、男の頭にルーをぶっかけた。
と、小悪魔の頭が割れて、全てが口になった。がぶと男の頭を食いちぎった。血の噴水が天井にかかった。
周囲の喧騒をよそに、成田金一は目を離せなかった。目前の小悪魔がボタンを上から外して、メイドドレスを脱いでいく。
胸が、腹の肌が露わになって、ぱくりと左右に割れて巨大な牙が出た。 ヘビのような触手が金一の首と腕に絡みついた。怪物の口へ頭から引き込まれた。
バリバリバリ、頭蓋骨が砕け、あばら骨が折れる。金一の足から、上げ底17センチのシークレットシューズが脱げて落ちた。
ひいーっ、ぎゃわーっ、悲鳴を背に、テンジンとマヤは店の裏口から脱出した。 と、爆風に倒された。
振り返れば、店の窓から炎が噴き出していた。肌が焼けるように熱い。 火の粉を避けて、さらに二人は逃げた。
炎が天に向かって延びた。ねじれ、くねり、昇る龍のようにも見えた。 たけちゃんカレーが業火の中で消えていく。
朝、焼け跡では消防署と警察が合同で現場検証となった。
火勢は激しかったが、無風の中での火災であり、周囲への飛び火は皆無だった。たけちゃんカレーの建物だけが、土台だけを残して燃え尽きていた。消防としては、どこから強力な炎が来たかが問題だ。
検証に立ち会うのは、店員のテンジンとマヤ、成田組の三輪。 以前より警察は、成田組がカレー屋に手を出している事実を把握していた。
その成田組がカレー屋と一緒に消えた。留守番の証言はあてにならず、大量の行方不明者が発生した事態に困惑するばかり。 「おっ」
柿本巡査は黒く炭化した木の下に、元の形を残した物に気づいた。 靴だ。上げ底17センチ、見間違うはずは無い、成田金一のシークレットシューズである。
「やはり、ここにいたんだ」 桃栗警部補が靴を取り上げた。うむ、と頷いて鑑識へ回す。 ちっ、柿本は舌打ちした。また、手柄を横取りされた。
ノンキャリア組の下っ端巡査は、どれほど手柄を上げても、上司が出世する手助けにしかならない。いつまでも、そして定年まで、現場でゴミをあさる日々が続くのだ。
「おや」 黒い焼け焦げの中に、色のある物が落ちていた。形もある、火を受けなかったかのようだ。
それは本だった。革製のハードカバー、年代物に見えた。 指先で慎重に開いてみた。中は白く、黄ばみも少ない。
火災の現場で、本が無事であった事以上に、その文章に目が行った。
悪魔召還の諸手続きと注意点・・・・
< おわり >
途中、何度も書くのを中断して、放置して、また少しだけ書いて・・・・やっと終わった。
「ああっ女神様!」みたいな話を夢想して、てんでうまく行かず。神を悪魔にしたら、なんとか形になった。
うむ、やはり、おいらみたいなヤツの所に現れるのは、悪魔っぽいのだよね。神と悪魔の見分けがつく、などと考える事自体が間違っているかもしれない。神も悪魔も、人間の都合が作り出した幻想さ。
2014,6.15
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