エレファントマン
1887年5月21日、イギリス、ロンドンのホワイトチャペル通りにあるロンドン病院で、新しい看護婦寮の落成式が行われた。この時、時のイギリス皇太子夫妻が出席して、寮に皇太子妃の名をいただきアレクザンドラ寮とした。 式後、夫妻は病院内をめぐり、患者と親しく接せられた。当時、入院していたジョーゼフ・メリックの病室を訪問し、話をかわした。夫妻に付き添っていたケンブリッジ公爵はメリックに銀時計を与えた。 夫妻がメリックの病室にいたのは数分と思われるが、これ以後、妃殿下は数回にわたってメリックを訪問した。 本作では、この事実を踏まえ、妃殿下とメリックの会見を長く構成した。 また、メリックは発声に難があり、それを聞き取れたのは少数の者だけである。会見の時には、通訳としてトリーブスや看護婦らが勤めたと思われる。が、これでは物語の進行に障害となるので、あえて、メリックと訪問者は直接会話したように構成する。 登場人物 ジョーゼフ・ケアリー・メリック 1862年8月5日 レスター生まれ フレデリック・トリーブス 1853年2月15日 ドーセット州ドチェスター生まれ カー・ゴム理事長 ウィルフレッド・グレンフェル助手 テイラー技師 ホッジス研修医 アイアランド看護婦 イギリス皇太子 後に1902年国王に即位しエドワード7世となる 皇太子妃アレグザンドラ ケンブリッジ公爵 シーン1 ロンドン病院理事長室 1887年春 「メリック氏のぐあいはどうかな?」 「元気です。私たちと同じように健康である、とは言えませんが、彼なりに元気です」 カー・ゴム理事長の問いに、トリーブスは答えた。 「実は、また理事会でエレファントマンが話題になってね。彼が入院してから、もうすぐ1年になるし」 「また、ですか。入院費の事なら、理事長が新聞に投稿したり、色々努力されたおかげで、かなりの寄付があったはずです」 1886年末、カー・ゴム理事長は新聞に寄稿し、エレファントマンへの支援をつのった。12月4日のタイムズ紙面に出た記事は反響が大きかった。多方面から多くの寄付があり、230ポンドを超える金額となった。4人家族の生活費が、1週間に1ポンドの時代である。 同じ頃、トリーブスは慢性化した虫垂炎の外科手術をした。麻酔にはアヘンが使われた。術後の経過は良く、再発は確認されていない。イギリス初の手術であり、これも注目を集めていた。しかし、理事会には、医師であるトリーブスに出席する権利が無い。そこで何が起きているか、想像もできなかった。 「金に関しては、何年いようと問題無いほどだ。今回、話題に上がったのは、当ロンドン病院の経営目的にエレファントマンの入院が合致するか、という事だ」 「病院の目的、ですか?」 「治癒可能な患者の治療が、当病院の経営目的だ。しかるに、身体奇形という治療不可能な患者は、当病院にいる資格が無い・・・・そんな意見が出てね。これには、わたしも反論し難いのだ」 理事長は渋面で天をあおいだ。 「慢性病の施設なら、いくつか知っている。それらに打診した事もある。返事は芳しくなかったよ。メリック氏の叔父が引き取ると申し出た事があったが、向こうに患者を受け入れる体制が無いのは明らかだった」 「あの叔父を名乗る人はいけませんでした。医療にかかわる知識や経験が無い人でした。寄付した人たちが怒ります」 「そうだったね」 ロンドン病院が慢性病患者の治療へ門戸を開ければ、解決するかもしれない。しかし、施設と人員には限りがあり、あらゆるものを受け入れるのは不可能だ。 「ジョンの身体奇形は、確かに治療不可能なものであります。しかしながら、肺や他の内臓に疾患があり、こちらは治療可能であると考えます。他所の施設にまかせる前に、これらを直しておく事で、受け入れる側の負担が減るでしょう」 「なるほど、それがあったか。では、次の理事会でエレファントマンの話題が出たら、そう答えるとしよう」 トリーブスは胸をなでおろした。カー・ゴムにしても、エレファントマンの処遇は、彼の名誉にかかる事だ。 19世紀末のロンドンは発展中の工業都市であり、普通のけが人や病人だけでも、病院は満杯に近かった。病院にかかる事もできず、街の片隅で死んでいく人が多くいた。 もうすぐ霧と煙の語を合わせて「スモッグ」という言葉が発明される時代だ。市内を流れるテームズ川には汚れた排水が無秩序に流され、腐臭とヘドロの溜まりと化す。 シーン2 ロンドン病院 中庭 ベッドステッド区画 病院の片隅、深夜、歩く者がいる。 ひきずるように長いマント、異常に大きな帽子、片手に杖。身長は150センチと少しだが、覆面までして、怪しさは尋常ではない。 深夜の警備員が歩いてきて、軽く会釈して通り過ぎた。 怪人物は、歩き始めた。片足が悪く、肩が大きく揺れる。数歩歩いて、立ち止まる。肩で大きく息をついた。喘息のような荒い息をしている。 東の空が明るくなってきた。 塀の向こうから、馬車の音、人の足音が聞こえてくる。 怪人物はマントをひるがえして、進む向きを変えた。少し歩を早め、建物にそって歩く。 階段を下り、半地下の部屋へのドアをくぐった。 シーン3 ジョーゼフ・ケアリー・メリックの病室 ドアを閉めて、息をととのえる。 ハンガーに帽子をかけ、マントをかけた。左手だけの作業なので、とてもゆっくりだ。覆面を取ると、でこぼこと大きな頭が現れた。 本作の主役、ジョーゼフ・ケアリー・メリックである。 病院からもらった貫頭着だけになり、メリックはベッドに座った。大きな枕に背をゆだね、もうひとつの枕をひざにのせた。その上に頭を乗せた。 メリックは頭部が肥大して重いため、とれる姿勢が限られる。仰向けに寝られないのだ。眠る時は、ひざを抱くようにして、座って眠るのが常である。 窓から朝の光がさしこむ。半地下の部屋だから、直射光ではない。 人の声が聞こえる。窓から、ドアの向こうから。病院の新しい一日が始まった。 「おはようございます」 看護婦アイアランドが元気な声で入って来た。 「おはよう・・・ございます」 メリックは顔を上げ、言葉を返した。奇形のために、感情が表情に現れることは無い。 おはよう、と静かな声でホッジスが入って来た。 「メリックさん、また夜中に散歩してましたね。患者の運動は容認しますが、怪しげな風体でうろつくのは止めてください」 「すみません」 「あの切り裂きジャックが、まだ捕まっていません。あれに襲われないとしても、あなたが犯人ではと疑われたら、守り切れませんよ」 メリックはホッジスが苦手だ。言葉は命令的で、いつも睨むかのような目つきをしている。それは、患者の目から病状をはかろうとする医療的な行為なのだが、見世物に出ていた者には、つらい思い出を呼び起こす場合もある。 きゃあきゃあ、洗面所で悲鳴があがった。病室には別室の洗面所があった。シャワーとトイレとを兼ねている。 「また水漏れです」 アイアランドが出て来た。少し水をかぶったようだ。 ホッジスがドアを開いて中の様子を見た。 「テイラーさんを呼んで」 ホッジスが指示した。エプロンで顔をふいたアイアランドは、ホッジスと部屋を出て行った。 朝の洗顔を後回しにして、一人で朝食となった。いつものパンとスープを左手だけで食べる。右手は奇形で使えない。 コンコンとノックがあって、どうぞと答えた。 「おはようございます、トリーブス先生」 メリックはスプーンを置いて、軽くあいさつした。 この部屋へノックしてから入る人物は、トリーブスだけだ。と、今朝はもう一人が続いて入ってきた。 「紹介するよ、ウイルフレッド・グレンフェルくんだ。新しい研修医で、わたしの助手になった。本から得た知識は、わたしを超えるほどさ。足りないのは、本物の患者との付き合いだけ。今朝は、彼に診察させてやってくれ」 「よろしく」 グレンフェルはメリックを見て、とまどっている。 メリックは食事を終え、ベッドに座った。貫頭着を脱ぎはじめた。左手だけで、もぞもぞと脱ぐ。二人は手伝わずに見ている。どのように脱ぐかも診察の内だ。 メリックは裸になった。両足が奇形しているので、普通の下着がつけられない。小さな腰巻きだけの姿。 イスに座って、グレンフェルと向き合った。若者は緊張している・・・・と言うより、怯えがあった。 「だいじょうぶです。噛みついたりしませんよ。わたしを見慣れたら、どんな怪我人も重病人も平気になりますよ」 「伝染病じゃないから、安心したまえ」 メリックとトリーブスに諭されて、グレンフェルは深呼吸をひとつ。診察を始めた。 足を診る。だぶだぶと肥大化した皮膚が象の足のようにも見える。 「象皮病のうわさを聞いたことがあります。でも、違いますね。象皮病ならば、もっと皮膚は硬くて乾燥してる」 グレンフェルの手がメリックの腰に触れた。はて、と首をひねる。 「この左右の差は、病気ではないみたいだ。昔、転びましたか?」 「よく覚えていませんが、子供の頃に・・・・」 メリックの返答は、言葉が途切れた。その後の出来事を思い出すのがつらいのだ。 「やはり、ね。その時、十分な治療をうけられなかった、と。右と左の足が不揃いなのは、そのケガも一因ですね」 診察は肩から首へ、頭へと行く。 「骨だ。腫瘍が発達しただけではなく、すぐ下に骨がある。骨にまで、ずいぶん奇形が進んでいる」 むむむ・・・グレンフェルは唇をかんだ。知識を総動員してメリックの症状を理解しようとしている。 「良い患者は、医師と看護婦を育ててくれる。良い医師が育てば、患者は良い治療をうけられる。病院は医師と患者が一緒に作るんだ」 トリーブスが言うと、グレンフェルがうなづいた。すでに、冷静な医師の目になっている。 「腫瘍の発達には規則性があるようです。皮膚の下にある神経繊維に沿って発達する腫瘍、という論文を読みました。メリックさんの病状を、かなり説明できるかもしれません」 「クロッカー博士の論文だね。わたしは学会で教えられたよ。とても示唆に富んだ指摘だった」 「問題は、骨の奇形まで説明できない事ですが」 「いや、骨の変形は知っている。皮膚の疾患をともなっていない骨の奇形なら、わたしは外科医として何例も診てきた。ジョンの場合と、直接には関連が無いと思われる事例ばかりだが」 師弟の会話は専門的で、患者のメリックはついて行けない。 「メリックさん、ここに触れてみてください」 「ここですか」 グレンフェルが自分の額を指さして言う。メリックは左手をのばした。 「小さなおできがあるんです。そう、そこです」 「ああ、豆つぶの半分ほどですが、おできのようです」 メリックが確認したのをうけて、グレンフェルは咳払いした。 「つまり、メリックさんとわたしは、同じ病気なんです」 「同じ、なのですか。わたしと、あなたが?」 「そうです、同じ病気の可能性があります。わたしは最も軽い事例で、メリックさんは最も重い事例です。何がわたしたちを分けたのか、それを突き止めれば、医学は大きく進歩するでしょう」 「はあ・・・・」 熱のこもった新人研修医の弁に、今度はメリックがとまどう番だ。 グレンフェルを下がらせ、トリーブスが残った。 「ジョン、実は悪い知らせがある。また理事会が君を問題にした」 「いろいろあるでしょうね」 沈痛なトリーブスだが、対するメリックは慣れていると言わんばかりだ。 「今度はロンドン病院の経営目的と君の入院資格なんて事で攻めてきた。やつら、どうしても君を追い出したいらしい」 「わたしがいるのが迷惑なら、いつでも出て行きます。次は、どこへ行けば良いでしょうか?」 違う、とトリーブスは首を振った。 「ロンドン市が君たちの見世物を禁止した時、新しい仕事や住まいを探してくれたかい。何もしなかったはずだ。理事たちは君を追い出せば満足で、他は何もしないさ」 3年前、メリックのいた奇形人の見世物は、ロンドン病院からも近い通りのはずれにあった。歩いても行ける距離だったので、トリーブスは仕事の合間に出かけて見る事ができた。他の医師が先に見て、トリーブスに勧めていた。宗教関係者が疑義を出して、市は認めた。見世物は禁止された。後、メリックを含む見世物の一座はイギリスを出て、大陸へと渡って去った。 「ここを出て、他所へ行くなら・・・・・どこか離れ小島の灯台が良いです。訪れる人はいない、静かな所だろうし」 「灯台に勤めたと言う患者がいたな。君が思うほど楽な仕事じゃない。他の人がいないという事は、自分だけで全部やらなければならない、という事だから」 うん、とメリックはうなづいた。 大陸へ渡る時、またイギリスへもどる時、船から灯台を見た。岬の突端に立つ建物と、沖を通る船の間には無数の波があった。 「見世物が禁止されては、わたしにできる仕事はありそうに無いです。でも、何か皆さんの役に立ちたい・・・・」 メリックは振り返り、テーブルの上を見た。作りかけの模型がある。左手だけでする紙細工だ。 アイアランドが帰って来た。続いて、よーっ、というダミ声で技師のテイラーが入って来た。 「また水漏れだってな。なんせ、急づくりだったから、よ。元も古いし、なあ。ちいと目をはなすと、すぐこれだ」 「その節は、世話になったね」 当初、メリックは隔離病室に入った。伝染病患者などを入れる病室だ。別に個室を探したのだが、病院内には無かった。集まった寄付を元手に、倉庫として放置されていた部屋を改造したのが、現在いる病室だった。 暖炉には火が入るようにし、水回りを拡張して風呂も作った。安くあげるべく病院の技師たちを動員したので、メリックの入院費は残す事ができた。 「テイラーさん、足が?」 「ん、今日は・・・・ちょいとね」 工具箱を持つテイラーは、少し右足を引きずっている。外科医のトリーブスは見逃さない。 「なあに、おれっちみたいな仕事を長くしてるやつぁ、手足のどっかがいかれてるなんて普通さ。目や耳の片方がつぶれてるやつも、そう珍しくねえ」 下町言葉丸出しで、テイラーは笑った。 仕事に支障が無い程度の障害であれば、トリーブスとしても無理に治療を勧めるものではない。 テイラーは洗面所に入り、何やらガタゴト音をたてて作業を始めた。 「そうだ!」 トリーブスは名案を思いつき、つい声をあげた。アイアランドとメリックは驚いて声も出ない。 「今度の5月21日に、新しい看護婦寮の落成式がある。皇太子ご夫妻も列席する。式の後には、院内を巡回されるはずだ」 「わあっ、皇太子様に、お妃様も来るんですか?」 「そうだよ、我がイギリスのプリンス・オブ・ウエールズとプリンセスがお出でになる」 落成式に出席する看護婦のアイアランドは、くるりと回ってしまった。 「プリンセス・・・・が?」 メリックは意味がわからない。プリンセスなどという存在は、彼には御伽話の中だけのものだ。 「カー・ゴム理事長に相談して、この部屋を巡回に加えてもらおう。皇太子に現状を直談判するんだ。ジョン、君が訴えるんだ」 「わたしが、何を?」 「理事会が君を病院から追い出そうとしている、この現状を訴えるんだ。君が、プリンスとプリンセスに!」 「プリンセスに、わたしが・・・・ですか?」 トリーブスの力説に、メリックは困惑する。皇太子や妃殿下と直接に会う話す、という事が現実として認識できない。 「皇太子様が、この部屋に来るんで? おらっちの作った部屋を見てもらえるたあ、うれしいねえ」 洗面所の作業を終えたテイラーが出て来た。 「なら、もう少し飾り付けしようかね。息子のチャールズを呼んで、やつのバイオリンでも聞いてもらって、うん」 「いや、何も特別な事はしなくて良い。いつも通りで良い」 うかれるテイラーを、トリーブスがたしなめた。 「だめです、だめです」 メリックが首を振る。 「もし、わたしを見て、悲鳴をあげたら・・・・ああっ、倒れてしまったら」 それは見世物時代の記憶だ。笑う紳士たち、泣いたり叫んだりする婦人たち、奇形人の見世物には悲鳴と嘲笑があふれていた。 「ごめんなさい、ごめんなさい。だって、あの時は」 アイアランドが泣くように言った。 1年前、メリックが隔離病棟に入ってすぐ、それは起きた。食事を運んだアイアランドは、メリックを見て悲鳴をあげた。 「きみは悪くない、ぜんぜん悪くない。何も説明せずに会わせた、わたしの責任だ」 「あの時、部屋は暗かったし、ねずみに驚いてもしかたありません・・・・チュウチュウ」 トリーブスとメリックがなぐさめた。アイアランドは、少し笑顔をとりもどす。 「殿下は慈善活動に熱心なお方だ。ちゃんと説明しておけば、何も起きないよ」 トリーブスは胸を張り、理事長へ会うために出て行った。仕事を終えたテイラーも出て行った。 メリックはアイアランドを見上げた。彼女の顔に、まだ見ぬプリンセスを思った。 「もし、プリンセス様が悲鳴で倒れて・・・なんて事になったら。わたしは島流しでしょうか。それとも、打ち首の刑でしょうか」 「ここは、現代のイギリスよ。おとぎ話なら、そんな事があるかも知れないけど。たまには、たぶん、ね」 「たぶん・・・・ですね」 シーン4 5月21日 メリックの病室 「落成式は終わった。もうすぐ、ここへ来るぞ」 トリーブスが駆け込んで来た。すこし息をはずませている。が、部屋に誰もいない。 ジョン、と呼んだ。 洗面室のドアが開いて、アイアランドが出て来た。 続いて、メリックが出て来た。無理矢理なお仕着せの背広で、ネクタイまでしてる。体のつくりが左右で非対称だから、どうやっても綺麗に収まるはずはない。 「い、いかかでしょう?」 「まあ・・・似合ってるよ」 トリーブスは苦笑い。今更、着替えてる時間は無い。 「ジョン、最後の練習をしよう」 メリックは頷き、背筋を伸ばす。腰から背骨が曲がっているので、やや傾いている。 「は・・・はじめまして。わっ、わたしはジョーゼフ・メリック・・・です。皇太子、お妃殿下とお目にかかれて、感激しております。え・・・と、わたしは今、困っております。当病院の理事会が、わたしを退院させようとしています。けれど、ここを出たら、わたしは行く所がありません。どうか、両殿下のお力添えで、引き続き、ここに居られるようにして下さい。おねがい・・・お願い致します」 ふう、メリックは長台詞で息が切れた。 「よしよし、なかなか良いよ」 トリーブスは自分の服を直しながら、うんと頷いた。少したどたどしい語りだが、そこに真実みが感じられる。 ドアにノックがあり、ボッジスとグレンフェルが入って来た。 「先生、来ます」 「来たな、よし、行こう」 トリーブスは手で指示し、皆を並ばせる。自身もドアに向かって背筋を伸ばした。 ドアが半分開き、立派なあごひげのケンブリッジ公爵が入って来た。 「よろしいかな」 「はい、どうぞ」 トリーブスが応えた。 「諸君、大英帝国皇太子と妃殿下の御入室である」 公爵はドアを大きく開いた。ドア横に立ち、直立不動の姿勢になる。 まず姿を現したのは皇太子だ。部屋を見渡し、後ろに控える妃へ入室を促した。白いドレスのアレクザンドル妃が現れた。 さらに侍従やら女官たちが入り、ドア横に立ち並んだ。 「殿下、またお会いできて光栄です」 トリーブスが進み出て礼をした。皇太子と妃は軽く会釈を返す。 「わたしのスタッフを紹介します。助手で研修医のホッジスくんとグレンフェルくんです。そして、この部屋担当の看護婦、アイアランドさん」 三人は順に礼をした。 「で、この部屋の患者、ジョン・メリック氏です」 皆の注目が集まる。しかし、当のメリックは身を屈め、頭を下げたままだ。 「ジョン、あいさつしなさい」 トリーブスが促しても、メリックは動かない。震えていた。 「で、でも・・・」 「大丈夫だから、さあ、顔を上げて」 メリックは顔を上げようとして、白いドレスの足元が視野に入った。とたん、また頭を下げた。 公爵は首をひねる。彼の角度からは、奇妙な形の帽子をかぶった小男が見えた。 メリックは深呼吸して、ゆっくりと顔を上げた。 「は・・・はじめまして。わたしは、ジョーゼフ・メリック・・・です」 帽子じゃない、公爵は驚いて後ずさり。女官は顔を一瞬背けた。 むむ、皇太子は口をむすび、あえて一歩踏み出す。 「メリックさん、エレファントマンの噂は聞いております。でも、象ではなく人間だね。ちゃんと言葉が使える」 「見世物では、しゃべらないほうが神秘性は高く見える・・・と、興行のノーマンさんが演出してました」 「ああ、なるほど。わたしたちの思い込みを逆用して、上手に商売してたのですね」 皇太子は右手を差し出した。メリックも応じて右手を出す。でも、その手は指も動かせぬほど奇形していた。 ぎゅっ、皇太子はメリックの右手を握る。 それを見て、公爵はハンカチで額の汗をぬぐった。 ふう、アレクザンドラ妃が息をついた。 「疲れたかい?」 「ええ、少し」 「ずっと、立ちっぱなしだったからね。座って、休ませてもらいなさい」 皇太子は部屋を見渡す。小さなテーブルにイスが2脚ある。 トリーブスがメリックに耳打ちした。 「ジョン、案内してさしあげなさい」 促され、メリックは妃殿下の前に進む。おとぎ話の騎士に倣って礼をし、右手を差し出して、左手をイスに向けた。 「こちらへ、どうぞ」 妃殿下の手袋の手が、メリックの手に乗る。ほんの3歩歩けば、もうテーブルだ。 メリックはイスをずらして、待つ。 妃殿下はゆっくり腰を落とした。背を着けない王室らしい座り方。 イスから手を放し、メリックは肩で息をした。胸が高鳴り、目まいすら感じた。 「おお、マッジ・ケンドールだ。ロンドンで人気の舞台女優ではないか」 皇太子は暖炉の上に並んだ写真に着目、有名人のポートレートを見つけた。 「彼女が、ここに?」 「いえ、来たのはご主人の方です。ご夫人の方からは、手紙をいただきました」 なるほど、と皇太子は頷いた。 と、侍従の一人が皇太子に耳打ちした。公爵は懐中時計を出して確認する。 「諸君、時間なので、皇太子殿下は次の所へ行く」 公爵が宣して、皇太子は姿勢を正し、一同に会釈した。妃殿下が立ちかけるが、それは手で制した。 「アレクザンドラ、きみは、もう少し休んでいきなさい」 「はい」 妃殿下はイスに腰掛け直す。 では、と皇太子は部屋を出て行った。 公爵と女官の一人が残って、ドア横に控えて立つ。人が少なくなり、部屋は少し静かになった。 「メリックさん、あなたも足が悪いようですね。座って、休まられてはいかが」 「いえ、わたしは別に」 妃殿下の言葉に、メリックは恐縮して首を振る。 「ジョン、お許しが出た。座りなさい」 トリーブスが着席を促した。では、と腰を下ろすメリック。 「メリックさん、あなたに会ったら、聞きたいと思っていた事があります。あなたはエレファントマンの呼び名で見世物に出ていたそうですが、なぜ象だったのですか?」 「はい、わたしが生まれた街で、レスターで、象と呼ばれていたからです」 「レスターで? 都会の生まれだったのですね」 はい、とメリックは頭を下げた。妃殿下と目を合わすのを恐れている。 「母が死んで、学校を卒業して、葉巻工場に勤めましたが、なにぶん不器用なもので、仕事ができません。2年ほどで辞めてから、行商をしましたが、足が悪く、広く歩けません。稼ぎが無くては、家にはいられません。貧しい叔父には、あれ以上頼れず、わたしは貧救院へ行きました」 「レスターの教会が運営している施設ですね、貧しい人や家の無い人を収容して食事を与える」 ふっ、メリックは息をもらした。レスターの貧救院は、妃殿下が思うような入所者にやさしい施設ではなかった。 記録によれば1879年12月29日、クリスマスの数日後、メリックは2年ばかり過ごした叔父の家を出て、町はずれの貧救院に入った。 「その当時、わたしの鼻には、大きな肉が垂れ下がっておりました。それで、皆が象と呼ぶようになりました」 「まあ・・・」 妃殿下はメリックの顔をのぞくように見た。今は無い象の鼻の跡を探す。 「でも、長く垂れた肉は食事にも不便があって、結局、手術で切り取ってしまいました」 メリックは左手でハサミの仕草をした。チョッキンと鼻を切り落とす。 トリーブスが二人の話に割って入った。 「ジョンの顔には、少なくとも2カ所、手術の跡が見られます。でも、あまり成功していません。皮膚が引きつり、表情の豊かさが無くなりました。唇もめくれ、発音が不明瞭にもなりました」 「トリーブス先生は、イギリスで随一と言われる外科医でしょう。あなたに下手と言われては、他のお医者様の立つ瀬がありません」 「すみません、恐縮です」 くくくっ、メリックは笑いを抑えた。天下の名医も、妃殿下の前では平民の振る舞いだ。 メリックは続けて語る。 「なんとか自活の途を探そうと、興行師のサム・トーさんに相談しました。そこで、あだ名のエレファントマンとして売りだそう、と言われました。見世物に出るようになって、やっと、わたしは自分の稼ぎで食べられるようになりました。多い時では50ポンドも貯金できたんです」 へえっ、アイアランドが驚きの声を上げ、口をおさえた。 「レスターを出て、旅をするのは楽しかった。ノーマンさんに頼んで、たくさん本を買いました。この姿では、自分で本屋さんに行けなかったので。見世物の合間には、本を読んで過ごしました」 トリーブスも初めて聞く話し。てっきり、興行主から手酷い虐待と搾取をうけていると思っていた。見世物であれば、多少の誇張は当然だが、すべてが演出とは信じられない。そう観客に信じ込ませるのも、興行主の腕の内なのか。 1884年8月末、メリックは貧救院を出た。見世物の一座に加わり、その年の末にはロンドンで興行していた。トリーブスがメリックと初めて会ったのは、この時である。しかし、この時期、奇形人間の見世物へ世間の関心は険しくなりつつあった。 「ロンドンで見世物が禁止されて、わたしたちはイギリス各地を巡りました。段々規制が厳しくなって、ついに大陸へ渡る事になりました。興行主はノーマンさんから、オーストリアの人になりました。でも、あちらでも規制が厳しくて、興行はうまく行きません。ベルギーのブリュッセルで、気がつくと興行主の人がいなくなりました。預けておいた貯金も無くなりました。手元の物を売り払い、なんとか帰りの旅費を作ることができました」 「50ポンドを持ち逃げされた?」 はい、メリックは力無く頷く。 1886年6月、ロンドン駅で小さな騒動が起きた。異形の旅人であるメリックを人々が取り囲んだ。駅員がトリーブスの名刺を見て、ロンドン病院へ連絡した。メリックとトリーブスの再会だった。きびしい旅の疲れで、メリックは衰弱していた。 「ロンドン駅に着いた時は無一文でした。残っていたのは、トリーブス先生の名刺とこれだけです」 メリックは小さな本を出した。薄汚れた聖書の抜粋本だ。 「ここです、この詩は好きです」 本を開いて、メリックは読む。プロテスタントの教会で歌われる賛美歌のひとつだ。 われが身の丈 極地にとどき 手をもて大洋をつかむとも われを測るは わが魂 心は人の基準なりせば 詩の後半、妃殿下がそらんじて、奇しくもメリックと合唱するかたちになった。 「ありがとう・・・ございます」 メリックは礼を言う。初めて、妃殿下と目を合わせた。 トリーブスは焦っていた。いつまで経っても、救済を願う話しに進まない。 と、妃殿下の目がトリーブスに向いた。 「ところで、先生。メリックさんの病気は、外科手術で治療できないものなのでしょうか?」 はい、とトリーブスは進み出た。 「残念ながら、こんな広範囲の腫瘍は切除できません、命にかかわります。内臓に疾患があり、現在はそちらの治療を優先しております」 ふむ、妃殿下は頷く。 「しかし、この1年ほどの観察で、ジョンの病気の正体が少し見えてきました」 「病気の正体が?」 「結論から言えば、わたしたちは何時でも、ジョンと同じ病気になりえます。でも、同じような姿にはなりません」 「同じ病気になっても、同じ姿にならない?」 首を傾げる妃殿下に、トリーブスは咳払いで頷く。 「順を追って説明します。わたしは外科医として、ジョンと同じ症状が普通の人に現れるのを、一時的で部分的でしたが、数多く見てきました。例えば、大きな切り傷を負うと、肉が盛り上がり皮膚がつながります。やがて、肉の盛り上がりは小さくなって消えます。骨が折れると、折れた部分が太くなってつながります。ジョンの体では、切れてもいないのに、切れたと勘違いしたかのように肉が盛り上がっています。折れてもいないのに、折れたと勘違いしたかのように骨が太くなっています。ジョンは幼い子供の頃に発症しました。成長とともに、傷は大きくなった折れはひどくなった、と体が勘違いを続けて奇形になった・・・と推測します」 「メリックさんは成長しながら、徐々に今の姿になったのですね」 「そうです。この姿で生まれたのではありません。一方、体の出来上がったわたしたちが同じ病気になると、体の一部が腫れ上がったり、骨が曲がったりしますが、それ以上の事は起こりません」 トリーブスは言葉を切り、一息入れた。 「もしも、ジョンの病気を制御できたら、と想像します。怪我をして治りの悪い人、骨折してなかなか骨がつながらない人が、かなりの割合で存在します。彼らを一時的にジョンと同じ病気にすれば、怪我は早く治り、骨はつながる、かもと思うのです。まだ、五里霧中ですが」 「メリックさんがロンドン病院にいる事は、医学の発展に寄与していますか?」 「はい、大変役立っています」 トリーブスは断言した。メリックは顔をふせた。自分は厄介者ではなく、役に立っている、と言ってくれたのだ。 公爵が懐中時計を見て、妃殿下に歩み寄る。 「殿下、そろそろ」 妃殿下は頷く。 「では、皆様、おいとまする時が来たようです」 公爵がイスを動かし、妃殿下は立ち上がる。トリーブスはあわて、メリックの背をたたいた。 「で、殿下、待って下さい、聞いて下さい」 メリックが立ち上がって言うと、ドアへ向きかけた妃殿下の足が止まった。 「どうか、誤解しないで下さい。見世物でノーマンさんが述べた口上には、母の悪口が含まれていました。見世物だから、と我慢しましたが、あれは間違いです」 「間違い?」 「母はやさしく、わたしを慈しんでくれました。こんな子供をかかえ、仕事をするのは大変だったでしょう。母の苦労を思えば、わたしの苦労など万分の一もありましょうか。こんな姿に育ちましたが、おかげで、殿下とお話しする機会を得ました。母には感謝するばかりです。わたしの母は、メアリー・メリックは・・・ジョーゼフ・メリックの誇り・・・です。そこを、どうか、お願いします」 あまり動かないメリックの顔、その目に涙がうかんでいた。 妃殿下は涙に手をのばす。手袋をしているのに気づき、それを取り、手袋で涙をぬぐってやる。 「メリックさん、あなたのお母様は、今のあなたを誇りに思っていらっしゃいますよ。こんな素晴らしい息子を育てた人を、女として、わたしも尊敬します」 「ありがとう・・・ございます」 メリックは自分の涙に気付いた。左手を目にのばすと、妃殿下の手と触れた。 ハンカチ代わりの手袋が、妃殿下の手からメリックの手に渡った。 「では、メリックさん、今の気持ちをお大事に」 妃殿下は一歩後ずさり、踵を返してドアから出て行く。女官が続いて退出した。 代わって、ケンブリッジ公爵がメリックに歩み寄った。 「メリックくん、今日の君は立派であった。これをあげよう。これからも、イギリスの紳士たるべく振る舞いたまえ」 公爵は懐中時計をメリックに渡した。踵を返して、ドア前で背筋を伸ばすと、一同に会釈して部屋を出た。廊下で待機していた侍従がドアを閉じた。 ああ・・・トリーブスは言葉を失っていた。 部屋は静かになった。 ふう、と息をついたのはホッジスとグレンフェル。腕を回し、腰を回して体をほぐす。 「じゃあ、これで」 二人はトリーブスに言って部屋を出る。メリックがよろけるようにイスに座った。 「立派な物をいただいたのね」 「はい」 メリックの手には銀の懐中時計がある。アイアランドがのぞき込むと、時計の下に布の物があった。 「これは?」 「それは、殿下の」 「手袋よ。片方だけ?」 わあ、アイアランドは手袋を着けて、つい声をあげた。さっきまでアレクザンドラ妃殿下がしていた手袋だ。 「いけないわ、返してきます」 「お願いします」 メリックが同意するや、アイアランドは嬉々として部屋を駆け出て行った。 部屋にはトリーブスとメリックが残った。 「ジョン・・・」 「言いたい事は、すべて言えました。ありがとうございました」 ふう、トリーブスは気の抜けた息をもらす。頭をかきむしり、また何かを思いつく。 「そうだ、手紙を書こう、お礼状だ!」 「わたしが・・・手紙を、殿下に?」 わあ、メリックの顔に色がもどる。プリンセスと文通するなど、正におとぎ話の世界の出来事。 「今日の訪問のお礼を書いて、次に、理事会から追い出されかかっている、と助けを求めるんだよ」 「と、とんでもない。殿下に迷惑がかかります。お礼だけ書きます」 むう、トリーブスは頬を膨らます。意図した通りに事が進まない。 メリックはペンとインク瓶、紙をテーブルに並べた。 「先生はたくさん本を書いていますね」 「小説家ほどではないよ」 「わたしが書いた物は後の世に残るでしょうか」 「君しだいだ」 見込み無し、とメリックは首を振った。 「わたしが世に存在した証拠は、先生に撮っていただいた写真だけでしょうか。もっと、何か、確実な形で・・・」 メリックは天をあおいだ。しかし、頭の重みで、あまり角度をつけて上を向く事はできない。 シーン5 数週間後 メリックの病室 メリックはテーブルで何かしている。紙を折り、貼り合わせ、模型を作っている。 アイアランドが部屋に入って来た。 「メリックさん、お手紙・・・いえ、小包ですよ」 「わたしに、ですか?」 「誰からだと思いますか。プリンセス・オブ・ウエールズ、アレクザンドラ様からよ」 「ええっ、殿下から!」 テーブルに小包が置かれた。差出人の名を確認して、メリックは驚き、手を触れるのも憚る仕草。 アイアランドが小包を開く。出て来たのは小さな箱。 メリックが箱を開くと、ハガキ大の写真額が納められていた。手に取り、写真を見入る。 「ああっ、殿下のお姿です!」 「わっ、本当にアレクザンドラ様!」 メリックの肩越しにアイアランドが写真をのぞく。宝物を見つけた兄と妹のような二人。 ドアをノックする音、トリーブスとカー・ゴム理事長が現れた。 アイアランドはメリックから離れ、うやうやしく礼をする。 「メリックくん、ロンドン病院の理事会があってね、今日の議決を伝えに来ました」 ごくり、メリックはつばを呑み、姿勢を正して理事長に向いた。 「当ロンドン病院は、ジョーゼフ・メリック氏が永続的に入院している事を認める・・・以上です」 「えいぞく・・・に、入院を?」 「これからは、ここが君の家、と思ってくれたまえ」 「家、わたしの?」 理事長は頷き、後をトリーブスに託して部屋を出た。 「先生、わたしは他所へ行かなくて良いのですね」 「そうだよ。以前、強行に反対していた理事が、急に賛成に回ったらしい。どこからか、お声があったようだ」 「みんな、先生のおかげです」 「いや、わたしじゃない。わたしは何もしていない」 「では、誰が?」 まさか、とメリックは妃殿下の写真を見る。 「誰でもない、君は正しかった。それだけだ」 「でも、やっぱり・・・あの時、天使が来た、と思ったのは正しかったんです」 「そうかもしれない。でも、あれは君を救済しに来た天使じゃない。きっと、君を裁きに来た天使だ。君は正しい人か否か、と」 「わたしを裁きに来て・・・」 「君は正しかった」 正しい、その事に自信は無い。メリックは首をひねりつ、また妃殿下の写真を見た。 シーン6 1890年4月11日 メリックの病室 テーブルの上、完成した模型がある。 メリックはベッドにいる。背に大きなクッションを置き、膝をかかえるようにして、胸と足の間に枕を入れている。メリックの就寝姿勢だ。枕に本を置き、それを読んでいた。 「1日目。光あれ、神は言われた。すると、光があった。神は世界を光と闇とに分けられた。2日目・・・」 「メリックさん、お食事ですよ」 アイアランドがトレーを持って入って来た。スープとパン、いつもの食事。 トレーをテーブルに置き、アイアランドはベッドに近寄る。 「何を読んでるんですか?」 「6日目、神は自分の姿に似せ、人を造られた」 「今日は週の6日目、金曜日ですよ」 「はい、そうですね」 「メリックさん、食事はテーブルに置いてあります。食べて下さいね」 「はい、ありがとうございます」 アイアランドは部屋を出て行った。メリックは、また本に目をもどした。 「7日目、神はすべてを見て、良しとされた。そして、休みをとられた・・・」 メリックは息を入れ、懐中時計を開いた。午後1時半を回っている。 本を閉じ、部屋を見渡す。暖炉の上に並んだ写真、その真ん中にアレクザンドラ皇太子妃の御影がある。 メリックは動かぬ顔の筋肉を使い、精一杯の笑顔を作って投げかけた。 時計が午後3時を回った。研修医のホッジスは定例の回診を始めた。まず、メリックの病室を目指した。 ドアを開けると、テーブルに手つかずのパンとスープがある。ベッドにメリックが寝ていた。 ホッジスは異常事態を悟った。メリックは仰向けに寝ていた。普通の人には問題無い就寝姿勢だが、エレファントマンには違う。 駆け寄り、鼻に手を寄せた。息の有無を診た・・・息をしていない。 数歩、後退り。そして駆けだした。 「先生ーっ!」 廊下に声が響いた。 レスター市へ電報が打たれた。叔父のチャールズ・メリックがロンドンに来て、形式的な死亡確認が行われた。 4月16日のタイムズ紙はエレファントマンの死を報じた。4年間、多くの報道があったにもかかわらず、ついに父親は姿を見せなかった。 看護婦アイアランドの証言。 「結果的に、わたしが最後に言葉を交わした事になりました。いつものメリックさんでした。おかしなところは、全くありませんでした」 研修医ホッジスの証言。 「一目見て、異常とわかりました。息を確認して、自分だけで触れてはいけないと思い、人を呼びに出ました」 外科医トリーブスの証言。 「ジョンは肥大した頭部の重みのため、いつも前屈みに眠っていた。仰向け姿勢をとったため、ほとんど瞬間的に頸椎が脱臼し、窒息死したものと推測される。苦しみを感じる時間は短かったはずだ。彼の死後、わたしたちは彼の石膏型を取り、また骨格を取り出して標本を作った。この時代、彼の存在を記録として残す最善の手段だった。彼も、それを望んでいた」 ジョーゼフ・ケアリー・メリックの石膏型と骨格標本は、今もロンドン博物館の奥に保管されている。 < おわり > 参考文献 角川文庫「エレファントマン その真実の記録」マイカル・ハウエル、ピーター・フォード著 木戸淳子訳 ユニバーサル映画「エレファントマン」デビッド・リンチ監督 クリストファー・デヴィア、エリック・バーグレン脚本 後書き シーン3まで書いて、4年も放置したテキストでした。で、急に気合いが入り、2週間でラストまで書き上げました。
OOTAU1
2015/09/26 |