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世論遊論 『酒と泪と男と司法試験』

第97杯「住めば都」

ぼくは、生まれも育ちも旭川で、大学入学から司法修習終了まで東京に住み、司法修習で一時期、札幌に住んだ以外は、旭川に住んでいます。旭川市は人口34万人、中核都市とされています。都会と言えば都会、田舎と言えば田舎です。旭川は好景気になるのが大都市圏に比べて遅く、いつも景気が悪いと言っても過言ではありません。もっとも、昭和40年代の旭川は活気があったと思います。五十嵐さんが昭和38(1963)年に旭川市長選挙に当選し、4期目途中まで11年間市長を務め、その間に全国最北の動物園である旭山動物園の開園(昭和42(1967)年)、全国初の恒久的歩行者天国である平和通買物公園の開設(昭和47(1972)年)、国立旭川医科大学の誘致に成功(昭和48(1973)年)しています。これらの業績には現在でも恩恵に預かっており、旭川市は過度な人口流出、必要以上の衰退を免れています。また、三浦綾子さんが朝日新聞社の懸賞小説に「氷点」で入選(昭和38(1963)年)、その後も名著を世に送り、大相撲では、北の富士が横綱に昇進(昭和45(1970)年)、芸能界では藤圭子がデビュー(昭和44(1969)年)、ヒット曲を連発と旭川ゆかりの人物が活躍していました。

旭川といえば、最低気温の日本記録-41℃(1901年)が有名です。ぼくの寒体験としては、小学生の時に-29℃の日にスキー遠足に行ったという経験があります。スキー場では-30℃を下回っていたでしょう。最近では朱鞠内湖にワカサギ釣りに行った時、車の温度計では−25℃を表示していました。車の温度計は−25℃以下の表示がありませんので、実際の気温はもっと低かったでしょう。石油バーナーを持って行ったのですが、石油が気化されず、点火できませんでした。小学校のころ、朝6時の気温−19.6℃以下で始業時間1時間遅れ、とされていましたので、寒波が来ることを楽しみにしてました。6日間連続−20℃以下となった記憶があります。冬休み明けの日、-20℃以下となり、宿題のヒヤシンスの水栽培を学校に持参したら、学校につくまでに完全凍結したことがありました。学校では、夜間、凍結防止のため手洗い場の水を少しずつ流しっぱなしにするのですが、翌朝登校したら、蛇口から下まで棒状に凍結していたことがありました。旭川は厳寒地ですが、慣れてしまえば大したことなく、住めば都であり、厳しい寒さをむしろ楽しんで生活してきたように思います。