科学夜話

 何もかも全てを反省し、一から人生をやり直して・・・・

 よくある言い回しなのだけど、なぜか違和感を感じる。全てをやり直すなら、ゼロから・・・・だろ、と。
 実はこれ、1を基点とする計算のなごりなのだ。

 暦が作られた時からの計算法だ。だから、暦は1年1月1日から始まる。

 年齢の数え方でも、昔は違っていた。
 生まれた時、1歳とした。正月を迎えたら、2歳とした。以後、正月ごとに年を重ねた。
 三つ児の魂、百までも・・・と言う諺の三つ児とは、現代の数え方では0歳児に相当する。

 1を基点とする計算では、1の前に数字は無い。
 1の前には「無」がある。1と「無」の間には、2分の1、3分の1,4分の1・・・・と限りなく小さくなって行く分数の列がある。

 現代の十進法であれば「0+1=1」と言う計算が成り立つ。
 しかし、古代において「無」は計算の対象にならない。計算が成立しない量である。

 この古い計算法を土台に、ギリシャのゼノンはいくつかのパラドックスを論じた。そのひとつが「矢は的に当たらない」と言うやつ。
 矢を射る。矢は的との距離が無である所へ向かう、つまり当たるように飛ぶ。当たる前に、中間点の2分の1の所を通る。また的に向かって飛ぶと、次の中間点の4分の1の所を通る。さらに的に向かって飛ぶと、また新しい中間点の・・・・・
 どこまで飛んでも、無限に次の中間点があるので、矢が的との距離を無にする事はできない、と。

 この計算法は、1万年前の物々交換の時代から続いて来た。

 現代に伝わる十進法計算は、1500年前、シルクロードの東西の中間点、インドで生まれた。それが普及する前は、世界中どこも、こういう計算をしていた。
 多国間の物流、貨幣経済の中で、商人たちは「貸し」と「借り」を繰り返すようになった。そして「貸しが無い」「借りが無い」と言うふたつの状態をひとつの数字で表すようになった。「0」の発明だ。

 日本では、平家が宋銭を大量に輸入し、貨幣経済が始まった。ついでに、宋から計算の専門家を招いて、金融業を営んだ。十進法計算と言う新しい知識が、平家にあらずば人にあらず、と言われるほど一族を繁栄させた。
 折り悪く、飢饉が来た。銭があっても買う物が無い状況、インフレになってしまった。
 人々は銭と一緒に平家を捨てた。
 平家は滅びたが、十進法計算は商人と供に生き延びた。戦国時代の前半には、大名に匹敵する財を成す商人まで現れた。あの豊臣秀吉に向かい、瀬戸内海を所領として認めよ、と豪語した商人もいた。


 さて、古代の計算法は、現代数学の中に「対数」として生きている。

 物理学においても、対数で表した方が理解しやすい物は多々ある。
 ケルビン温度は絶対零度と言われるけれど、絶対「無」温度と言う方がわかりやすい。
 物体の温度は、物体の運動量として、または物体の振動数として表現するのが現代流だ。運動が無い、振動も無い状態が無温度・・・・ではなく、0度ケルビンと言う状態。
 さあ、0度ケルビンの物体を観測しよう。
 何か光なり電気なりを流して温度を測る方法があるけど、この場合は使えない。光を当てたら、その分、温度が上がって、0度ではなくなってしまう。不確定性原理だね。
 完全にパッシブな観測機を造り、0度ケルビンの物体を観測する。ピクリとでも物体が動いたら、それは0度ケルビンではない。さて、物体が動くのが先か、観測機の寿命が尽きるのが先か・・・・・

 普通の科学者は、もう少し実用的に、100分の1秒とか1000分の1秒の観測の範囲でケルビン温度を測る。
 10分の1度ケルビンとか、100分の1度ケルビンとか。ヘリウムを冷やして、こんな温度を得ている。1気圧では固体化しないので、圧縮と膨張冷却で温度を下げられるのだ。

 温度が無い物体とは、どんな状況になるのだろう。
 一般的に、温度は原子や分子のブラウン運動の量、強弱によって決まる。固体の中にあっても、原子は零点振動で震えている。
 原子がプルプルと震える原因は、原子の内部で電子が運動しているから。原子の内部に抵抗は無いので、電子は永久的な運動が可能だ。
 もしも、電子が全てのエネルギーを放出して、運動量がゼロになったら・・・・・
 電子は原子核の中へ落ちてしまう。そして、電気的に引き合う陽子に吸収される。陽子は電気的に中性となり、中性子に姿を変える。原子核が変身する。ただし、中性子が多い同位体の状態。
 こうした原子核は不安定で、多い中性子を放出して安定しようとする。または、原子核分裂を起こして、より安定な原子へなろうとする。
 温度が無くなった原子は、こうして激しいエネルギーを放出する。
 無から有が生じた。

 現在のところ、電子が原子核に落ち込む現象は、極低温下では観測されていないようだ。
 電子の運動量には最低量があり、それはゼロではなく、そこから少しだけ大きいところにあるらしい。となると、原子は絶対零度になり得なくなる。
 矢は的に当たらない・・・・ゼノンのパラドックスが復活した。

 大きな物と小さな物を比較的に並べてみよう。
 銀河団、銀河、星団、太陽系、太陽、地球、大気圏、人間、細胞、分子、原子、原子核、陽子、電子・・・・・・階層をひとつ降りる毎に、百分の一から一万分の一も小さくなる。
 どこまで小さな物があるのか、と思うけれど。あいにく、観測には限界がある。
 大きさが「無い」物は観測できない。
 一般相対性理論では、ブラックホールの中心に重力が無限大な特異点が出現する。無限小の大きさなので、直接には観測不能の現象だ。
 観測可能な事象が科学の対象なのに、理論は観測不可能な事を予言する。パラドックスだ。
 科学者は方程式をいじくり、特異点に大きさを与えようと努力した。
 星が潰れてブラックホールになる。その時、星の自転運動が保存されると、特異点は猛烈な速度で自転する事になる。スケーターがスピンで手を縮めると回転が速くなる、あの理屈。
 自転の速度には上限がある、光速だ。自転速度が光速の少し手前で、縮退の重力と自転の遠心力が釣り合い、特異点は無限小ではなくなる。
 ほとんど無限大の縮退重力と、ほとんど無限大の自転遠心力が、宇宙最大の綱引き。赤勝て白勝て、傍での見物ができない、残念だ。
 

   

未完