死にたがり

 第1章  目覚め


「あんた、死相が出てるよ」
 山中太一を呼び止めた占い師は言った。夜の街角である。
「確かに、ぼくは死ぬだろうね。で、いつ? 何年後か、何十年後か?」
「いやいや、もしかしたら、数日後かもしれないよ」 
 占い師に手を振り、太一は笑って歩き始めた。無論、金は払わない。
 夜空を見上げた。少ないながら、わずかに星がまたたいている。
 流れ星に当たって死んだら、それはラッキーだろうか、それともアンラッキーだろうか。
 そんな事を考えるうちに、ズキッ、首に痛みが走った。


 朝の光が部屋に満ちた。
 山中太一は目を開け、深呼吸をひとつ。
 起き上がろうとして、背骨に電気が走った。声も出せず、足のつま先から頭まで硬直した。
 なんとか動こうともがく。もがくうちにベッドから落ちた。
 うつ伏せの状態で、まだ体は動かない。
 来た・・・・
 死ぬ・・・・・
 ついに、その時だ。太一は覚悟して、もがくのを諦めた。
 荒かった息が、しだいに静まっていく。意識が遠のいた。

 ジリリリリ・・・・ジリリリリ・・・・
 電話が鳴っている。
 太一は、音の元を探した。
 鳴っているのは、部屋の電話だ。
 腕を伸ばした。あと、もう少しで届くと言う時、電話は鳴り止んだ。
 はあ、ため息で全身の力が抜けた。
 死ななかった・・・・
 太一は体を起こし、ベッドにもたれて座った。
 動く度、すべての筋肉と関節がポキポキと音をたてる。息をするのも苦しい。
 でも、まだ生きている。死んでないから、苦しいのだ。
 ジリリリリ、また電話が鳴った。
 手を伸ばし、今度は受話器を取れた。
「いつまで寝とるか! 早く出てこい!」
 会社の上司からだった。地獄の底から響いてくるようなダミ声に、また体かこわばった。
「はい、すみません。すぐ出ます」
 無気力に同意の言葉を伝え、電話を切った。
 太一はノロノロと立ち上がる。息が苦しい、体は素早く動かない。
 ジリリリ、また電話だ。あのダミ声が耳に刺さる。意味は聞き取れないが、なんとなく推測はついた。
「もう出て来なくていい、おまえはクビだ! いっそ、死んでしまえぇっ!」
 最後の最後で、やっと聞き取れる言葉が来た。
「ありがとうございます。お世話かけました」
 太一は受話器に頭を下げた。息をつき、もう一度下げて、受話器を置いた。
 世の中との関係が切れた。死ぬには、良い頃合いだろう。
 ロープを出した。首に巻いて、固結びにする。
 もう一方の端をドアノブに巻いた。首とドアノブの間隔は50センチほど。少し前屈みの姿勢になった。
 ドアノブの高さは床から1メートルほど。有名な歌手が同じ手法で自殺したはずだ。
 なぜ死ぬのか、理由は忘れた。死にたい、だから死ぬだけだ。
 太一は両手を背に組み、両膝を真っ直ぐにして、頭から床へ倒れた。
 がつん、ドアノブがもげて飛んだ。太一の頭を直撃・・・
 ぐっううう・・・声がもれた。
 思い出せば、このドアノブは以前からグラグラしていた。このアパートは築何十年か、あちこちガタが来ている。太一の心と同じ状態だ。
 首は少し絞まっただけ。床にぶつけた額が痛い。あと、ドアノブが当たった後頭部も痛い。
 首吊り自殺は、なかなか難しい。痛みと引き替えに、小さな教訓を得た。


第2章  死にたい奴は前に出る


 山中太一は歩いた。
 死ぬ、と決めていた。でも、どうやって死ぬか、そこまでは決めていなかった。
 アパートを出て、中心街まで来た。人は皆、幸せそうな顔だ。死ぬなどと考えているのは、ただ一人だけだろう。
 交差点で、行き交う自動車を呆とながめた。
 キッキーッ、1台のバンがタイヤを鳴らして横滑り。向かい側の歩道に突っ込んだ。
 どん、にぶい音で止まった。歩行者を刎ねたか、下敷きにしたか、向こうの歩道は大騒ぎだ。
 こっちに来れば、と太一は思った。偶然を待っても、なかなか死ねない。

 太一はファーストフードの店に入り、ハンバーガーとコーヒーを取った。席に着き、一口する。味は感じない、腹に何か入れたかっただけ。
 ハンバーガーの食いさしを見て、食中毒の可能性を考えた。中毒になるなら、食べてから1時間か2時間くらい後だ。
 長く居座るためには、後でポテトを取ろうと考えた。
 太一の隣のテーブルでは、田代神父と娘の琴美が額を付き合わせていた。
「琴美・・・」
「お父さん・・・」
 父と娘は言葉を出しかけて、また呑み込んだ。
 今月も教会は赤字だった。新しい信者は入会せず、聖書は売れず、布施も集まらない。本部からは上納金を催促して来る。この上は、娘に風俗で働いてもらい、生活費と上納金を作らねばならない・・・と言うところまで、教会は追い詰められていた。
「ここにテロリストが来て、店にいる人を人質にしたら。お父さんが彼らを説得して、帰依させられたら・・・お布施も一杯集まるかも」
 おいおい、父は首を振った。
 そんな事件に出会う事は、めったに無い。しかし、と思い直した。
 人殺しも厭わぬ凶悪犯たちが、田代が掲げる聖書と十字架の威光に跪くのだ。そんな図を妄想して、つい顔がゆるんだ。
 どどーん、わいわい、店の外が騒がしくなった。
 バン、ドアを蹴破る勢いで3人が入って来た。
 それぞれに黒覆面でリュックを背にして、手には小型の機関銃がある。
「動くな、静かにしろっ!」
 覆面の1人、覆面Aが叫んだ。以後、便宜的に覆面A、B、Cと表す。
 きゃああっ、女の客が声を上げた。
 バン、覆面Aは天井を撃った。次いで、ゆっくり女へ硝煙を吹く銃口を向けた。
「静かにしろ。2度は言わせるな」
 うっうっ、女は頭を震わすように肯いた。
 琴美は覆面男たちから目をそらした。目を合わせたら、何が起きるか分からない。
 と、テーブルをはさむ父の姿が無い。覆面男たちに立ち向かったか、と期待したが・・・テーブルの下で小さくなっている父を見つけた。
「お父さん、テロリストよ。今だわ、機会よ」
 娘の声かけに、田代神父は目を閉じて首を振る。
「やつらにしたら、わしらは異教徒だ。真っ先に処刑されるぞ」
 琴美は父の服の袖を引いた。かっこよくテロリストの前に立ち向かって欲しかった。
「そこの、静かにしろいっ!」
 覆面Bが言った。覆面Aは機関銃のレバーをコックし、店の客たちに向けて威嚇する。
「俺らの言う事が聞けないなら、ぶち殺してやる。さあさあ、死にたい奴から前に出ろ!」
 店内は静まりかえった、外のざわめきが聞こえるほど。
 山中太一は右手を上げた。
 ゆっくり立ち上がり、覆面男たちの前へ一歩踏み出した。
「止まれ! 何だ、おまえは?」
 覆面Bが銃口を向けた。
「人生いろいろありまして、そろそろ死にたいと思ってました。良い機会です、よろしくお願いします」
「よろしく、とは何だ?」
 覆面Aが問いかけた。
「ですから、死にたい奴は前に出ろ、と言われたので。そういう訳で、よろしく」
 太一は目を閉じ、頭を少し突き出す姿勢にした。頭を撃ってくれれば、苦しまずに死ねるだろう。
「前に出ろ・・・なんて、誰が言った?」
「お前だよ」
「確かに言った」
 記憶力が薄い覆面Aに、覆面BとCが断言した。
 覆面Aは引っ込みがつかなくなった。銃口を向けていても、人を撃った経験は無いのだ。
「まだ、ですか?」
 太一はじれて、薄目を開けた。
「前から撃ちづらいのなら、後ろを向きます。どうぞ」
 回れ右で、太一は覆面たちに背を向けた。すると、怯える客たちの顔が目の前にあった。
「皆さん、血が飛ぶかもしれません。ちょっと、開けて、お願いします」
 太一が手で合図した。覆面と太一をつなぐ延長線のテーブルから、脇のテーブルへ移ってもらう。
「こらあっ、指図するのは、こっちだ。勝手な事をするなあっ!」
 覆面Aが怒鳴った。すみません、と太一は素直に頭を下げた。
「ようし、撃ち殺してやる。両者合意の事だし、頼まれてやるんだし、これは殺人罪に当たらないな」
「いや、殺人罪になるよ」
 太一へ銃を向ける覆面Aに、覆面Bが言った。ぐぐぐ、引き金にかけた指から力が抜ける。
「どういう事であれ、直接手を下したのが殺人罪だ。向こうは嘱託殺人だな。自分を嘱託殺人とは、推理小説みたいだけど」
 覆面Cが加えて言う。時ならぬ法律談義だ。
 むむむ、少し考え、覆面Aは銃口を太一から外した。撃ち殺しは中止だ。
「ちょい、こっち向け」
 覆面Aは太一を呼んだ。機関銃を下げ、拳銃を出した。弾倉を外し、中を確認した。
「これ、貸してやる。弾が1発だけ入ってる。頭でも心臓でも、好きなとこ撃って、自分で死ね」
「あ、なるほど」
 太一は拳銃を受け取った。コルトガバメントの愛称で親しまれた名銃M1911型であった。

 ちょうど、その頃、店は警官隊に包囲されていた。
 物陰では、3人の狙撃手がライフルを店に向けていた。窓越しに狙うは3人の黒覆面テロリストだ。
「狙撃タイミングは任せる。人質保護が第一、犯人の生死は状況しだい」
 通信器から、冷徹な指令が来た。スコープをのぞきながら、小さく了解の声を返した。
 狙撃手の3人は、それぞれ3人のテロリストを狙っていた。しかし、陰に入ったり、重なったりで、3人を同時に撃つタイミングが来ない。
 撃った時、窓ガラスが割れるだろうが、人質は軽傷で済むだろう。
「犯人の一人が銃を手放した。いや、別の者が手にした。テロリストが4人になった?」
 店内の状況が変わった。
 スコープの十字線は太一の頭を捉えていた。

「やつは自殺する。おれは殺人罪じゃない」
「道具を貸したから、自殺幇助と言う罪状は付くよ」
 自慢げな覆面Aに、覆面Bが突っ込みを入れた。法律は難しいものだ。
 太一は銃口を自分の胸に向けた。引き金に親指を当てて、心臓を撃つ算段である。
「胸のポケットは空だろうな。織田信長が敵から銃撃をうけた時、フトコロの餅で弾が止まってた、という故事もあるぞ」
 覆面Cが言った。
 言われて、太一は気分が変わった。銃を右手に持ち直し、右のこめかみに銃口を当てた。
「その角度では、脳の前頭葉を吹っ飛ばすだけだ。現代医学をなめてはいかん。なかなか死にきれないぞ、認知症にはなるだろうが」
 覆面Bが忠告してきた。
「耳から脳幹を撃ち抜くんだ。確実に死ねる」
「のーかん・・・を、ですか」
 言われて、太一は銃口をずらす。耳たぶには当たるが、射線が後頭部をすり抜ける角度になった。頭をひねり、首をねじり、肩をあれこれ・・・銃口の角度を模索した。
「おまえ、肩が固いなあ」
 覆面Aが呆れて言った。
「拳銃自殺も、なかなか即死は難しそうだな」
「撃って、数分もだえて死ぬ・・・が、一般的な実像だろう。テレビや映画は、その辺を省略してるんだ」
 覆面BとCが太一の奮闘を見つつ評した。
 横から脳幹を狙うのをあきらめ、銃をあごの下に当てた。頭蓋骨の下側から脳幹を撃つ角度だ。
「おお、その手があったか」
「んじゃ、さいなら」
 覆面男たちは太一に手を振る。太一も笑顔を返した。
 引き金の人差し指に力を入れて・・・・
 ぐっ・・・ぎぎぎ・・・あ゛あ゛あ゛・・・でやーっ・・・ぜいぜい、息が切れた。
 指が痛くなって、太一は銃を下ろした。
「壊れてるよ」
 太一は銃を差し出した。覆面Aに突き返す。
「いや、そんなはずは・・・あ、これだ」
 覆面Aは銃のスライド下にある小指の爪ほどのレバーを動かした。安全装置がかかっていたのだ。
「これで撃てる、今度は大丈夫だ」
 覆面Aは自信満々で拳銃を太一にもどした。レバーの位置が変わっているのをみとどけ、太一は引き金に指をかけた。
 バン、銃が暴発した。
 弾が頭をかすめ、覆面Aは後ろにひっくり返って倒れた。
 ドンドン、鈍い音がして、覆面BとCが倒れた。
 頭から血を吹いて・・・いや、頭の一部が覆面ごと吹っ飛んだ。警察の狙撃だった。
 ばだばたばた、玄関から裏口から、警官隊が突入して来た。
 ばこっ、警棒で殴られ、太一は床に押し倒された。
 拳銃を手から取られる時、指をひねられた。ひいいっ、痛みに悲鳴をあげてしまった。

「つまり、死にたいと言ったら、拳銃を貸してくれた、と」
「はい」
 古郷巡査の問いに、太一は力無く答えた。
 右手は湿布と包帯で固められている。拳銃を取り上げられる時、肩から手首と人差し指までねじられた。犯人の一味と疑われていたから、暴力的な逮捕は仕方ない。
「なぜ、死にたいと思ったのかな?」
 この問いに、太一は首をひねり、うつむいた。答えとすべき言葉が頭に浮かばない。
 茶を勧められ、一口飲んだ。
「我々としては、君の行動に感謝するところがある。テロリストたちの注意を引き、人質にかかる危険を少なくしてくれた。また、突入の準備をする時間もかせげた」
「はあ・・・」
 太一はため息をついた。今は、死にそこなった自分が恨めしい。
 古郷は上を向き、監視カメラに手を振った。これ以上問い詰めても、あまり有用な事は引き出せそうに無い。

「こいつはヒーローじゃない」
 モニターを見ていた大塚署長はつぶやいた。
 金田がコーヒーを持って来てくれた。
「テロリストの仲間ではない、と疑いが晴れた訳でもないし。しばらく監視が必要ですね」
 うむ、大塚は部下の言にうなづく。
「自殺願望が果たせなかったから、またどこかで自殺騒動を起こしそうだ」
「賭けますか?」
 おう、大塚は財布から百円玉を出した。署内の自動販売機なら、缶コーヒーが買える賭け金だ。


第3章  飲んで呑まれて


 山中太一がアパートにもどると、もう日が暮れていた。
 右手の包帯は取れたが、まだ人差し指は湿布で固められている。気力も無く、布団に突っ伏した。
 とんとん、ドアをノックする音。このアパートには呼び鈴が無いのだ。
 時計を見ると、帰って1時間も経っていなかった。
「こんばんは、あたし、田代琴美です」
 若い女が訪ねて来た。しかし、名乗られても、とんと思い当たらない。
「今日、あの店で、あなたの近くの席にいたんです」
 ずんずん、琴美は部屋に入って来た。太一は押しに弱い。
 小さな卓袱台に豪華なディナーが載った。対面して座る琴美は、ポンとワインの栓を抜いた。
「ささ、一杯どうぞ」
「いやその、酒は、ちょっと」
「どうぞ」
 押されるまま、太一はグラスに酒を受けた。
 一口して、つん、アルコールの匂いが鼻にしみた。ふと、急性アルコール中毒が頭に浮かんだ。
「酒は神の血、パンは神の肉です。しかし、言葉だけで行動をともなわない信仰に、どんな意味があるのか。それは最早形骸に等しい。いや、形骸でしかありえないのだ。あえて言おう、カスであると!」
 琴美が演説を始めた。天を仰ぎ、拳を振り上げ、アニメの独裁者のような雰囲気だ。
「我が父は牧師でありながら、説教をする立場でありながら、テロリストに屈し、命乞いすらしようとする卑怯者でありました。信仰が死にかけた時、わたしは山中太一様に神を見ました。テロリストの前に立ち、皆になりかわって命を投げ出そうとした太一様。あの時、確かに、太一様には神が宿っておいででした」
 聞いてるだけで、太一は疲れを感じた。内容は別として、琴美のパワフルな演説に、反論をはさむ気力は無い。
「この道に入った時、決めてました。わたしのすべては神の物であると」
 ずい、琴美が卓袱台を越え、太一に迫る。
「ご心配無く。わたしは昔、アバズレでヤリマンだったのです。こんな傷物の中古品ですが、すべてを神に捧げます」
 琴美は上着を脱いで肌を露わにした。乳房の上、肩や太腿に刺青があった。自らを傷物と言う訳だ。
 勝手に神にされても困るが、据え膳なんたらは男の恥、と昔話に聞いた。太一は恐る恐る乳首に触れ、琴美の目を見た。
「あの、お父さんは、知ってるの?」
「父は・・・父は、あたしに言い寄る男をバットで殴ったり、斧で脅した事がありました。でも、昔です。あたしは、あたしです。さあ、あたしをあなたに捧げます」
 琴美が抱き付いてきた。押されて、太一は床に倒れる。
 ふと、玄関のドアを見た。
 琴美の父が斧を手に、ドアを蹴破って入って来て・・・娘を抱く男の頭をかち割り・・・血が噴水のように噴き出て・・・そんな図を想像したら、琴美が上ではマズい。
 太一は体を入れ替え、上になった。この体位なら、斧を受けるのは自分だけになるはずだ。
 女としながら・・・良い死に方かもしれい。

 窓から日が差してきた。夜が明けてしまった。
 ぎゅっ、下から琴美が締め付ける。背に回った手と足も締めてくる。
 太一は腰を使った。どどっどどどっどん、何度目かの射精が尻を揺らした。
 顔を上げて玄関のドアを見る。まだ、琴美の父は現れない。
「おお神よ、あなたは今こそわたしの中にあり、わたしはあなたに満たされて、わたしは新しい命を得ます」
 琴美がつぶやいた。よくある宗教的な言い回しだ。が、見方を変えると、とてもエッチな言葉遣い。
 疲労と睡魔が混ざって、太一の頭を重くした。
 太一は体を持ち上げ、琴美の右へゴロリ転がった。
 また生き残ったか・・・昔見た映画のセリフを思い出していた。

 日が傾いて、太一はアパートを出た。
 部屋は琴美にまかせた。すでに、完全な押しかけ女房だ。
 耳のそばで延々としゃべられると、頭痛がしてくる。そこから逃げ出した。
 琴美の声が聞こえなくなって、言葉で人は死ぬだろうか、と考えた。しかし、そんな死に方は苦し過ぎる。
 すこし歩くと、後ろから誰かが近付いてくる。見た事も無い男だ。
 逃げようとすると、前で待ち伏せしている男がいた。
 挟みうちだ。琴美の父が放った刺客か。
「山中太一さんですね」
 ていねいな言葉で名刺を差し出した。北海タイムスの記者、遠藤宏吉だった。もう一人はカメラマンの青木三家。
「お話、聞かせて下さい。ええ、お酒でも飲みながら、ね」

 タクシーが停まったのは、街外れの飲み屋の前。拉致されるように、店の中へ。
「いらっしゃいませ」
 女たちの声に迎えられ、一番奥の席に座らされた。
「ささ、まず一杯どうぞ」
 女がグラスに酒を注ぐ。ミミと名乗った。
 太一は酒にうとい、どういう酒かは分からない。
 遠藤の胸にはレコーダーのマイクがあり、青木がパチパチとカメラのシャッターを押した。
「あのテロリストと対峙した時の事を聞かせて下さい。ゆっくり、あわてないで」
 グラスを口につけ、遠藤が催促する。
 太一は言葉が出て来なかった。つい昨日の事なのに、なぜか大昔の出来事のように感じた。
 酒が足りない。じれて、遠藤が飲めとすすめた。飲めば舌も軽くなる、と酒飲みは考えがち。
 きん、アルコールが頭に回ってきた。太一は息を深くして、またグラスをあおった。
「あらあら、なかなかいける方ね」
 ミミがほめる。太一は首を振った。
 昨夜も、琴美と少し飲んだ。その時、頭をよぎった事を実行しようと思っていた。
「アルコール中毒で死ねるかな、と思ってるだけっす」
 ミミが顔を歪めた。カウンターのママに助けを求め、女は交代した。
 改めて、太一の横に来たのは和服の熟女、ハルカと名乗った。
「彼は命を捨ててテロリストに立ち向かったんだ。酒くらい、いくら飲んでも死ぬ訳が無い」
 遠藤は赤ら顔で力説、さらにグラスを空けた。
 ハルカは太一の顔を見つめ、グラスに半分注ぐ。
「慢性のアルコール中毒患者には、自殺を考える人が多いらしいわ。躁鬱病を酒がプッシュするみたい。酒が先か、躁鬱が先か、と言われても困るけど」
 仕事柄、ハルカは酔っ払いの分析には長けているようだ。
「ぼくは酒を飲まないので、いつもは。慢性の中毒ではないです」
「急性のアルコール中毒になるためには、どっさり飲まないとね。飲み慣れてない人は少量でダウンするから、めったに死なないよ」
 ハルカの解説に、太一はうなづくだけ。
 急性のアルコールショックは、腔口から食道、胃の粘膜で起きる。この部位で反応が起きると、それ以上は酒を飲み続けられなくなる。
 しかし、少々のアルコール耐性があり、胃付近の反応が鈍いと、さらに酒を飲む事ができる。もっと体の奥へアルコールが進み、死に至る反応が起きる可能性が出てくる。
「何事もチャレンジは大切だ。さあさあ、もっと飲んで」
 遠藤が無遠慮に酒を勧めてくる。ハルカの手が遮った。
「アルコール中毒になるのが分かっていて酒を勧めると、傷害罪になりますよ。死んでしまったら、傷害致死ね」
「酒を飲ませたくらいで、罪になるのか?」
 遠藤は首を振る。酒飲みは、酒の上の事を軽く考えがちだ。
「裁判で、そういう判例が出てます。アル中が目的なら、お家に帰って飲んで下さいな。酒を提供した側として、傷害幇助になりたくないから」
 遠藤は口を尖らせ、空にしたグラスをテーブルに置いた。
「お勘定っ。あ、領収書も、ね」
 ふう、太一は息をついた。今夜も死ねないらしい。
 遠藤は腹に手をやった。へそ下に違和感がある。腹の奥で、何かがおかしい。頭痛もする。
「ちょっと、トイレ」
 違和感は急激に痛みへと変わった。遠藤は尻を押さえながらトイレの戸を閉めた。
 太一はソファで横になった。遠藤が出てくるまで、少し休もうとした。
 下腹部の激痛で、背を丸めた。頭も割れるように痛む。パンツを下ろして便器に座った。
 じょろろっ、尻から出たのは固体ではなく液体だった。悪い物を食べたおぼえは無い、下痢の原因が思い当たらない。
 はあはあ、息が切れる。しゃああっ、水が肛門から流れ出て、体の力が抜けた。痛みが薄れた。
 臭いが違っていた。いつもの大便の臭いではない。
 なぜ、と頭を下げ、股間から便器の中を見た。
 赤い・・・真っ赤な液体が満ちていた。
「あっ、あああ」
 声を出そうとしたが、情け無いほど小さな声だった。立ち上がろうとするが、足に力が入らない。
 戸に手をのばした。でも、とどかない・・・
 トイレの前では、お絞りを持ってミミが待機していた。通り名のまま耳をすまし、何の異変を察知した。
「ママっ!」
 呼ぶ声に、ハルカは工具箱からマイナスドライバーを出した。
 酒を出す店である。泥酔者がトイレで昏睡に至る事もある。その時に備え、トイレの鍵を外から開けられるようにしていた。
 ドライバーをドアノブ横の窓に押し込むと、鍵が外れた。
 戸を開けたとたん、ミミは鼻をおさえた。トイレの臭いではなかった。
 便器に座る遠藤の顔は蒼白だ。肩をたたくと、小さく首を動かした。
 立つよう促すと、前のめりに倒れた。尻が赤く染まっている。
「鮮血ね。血尿じゃないし胃でもない、大腸か直腸からの出血だわ。119番、救急車を呼んで!」
 ハルカが叫ぶ。店内が緊張した。
 アルコールは血管拡張作用がある。傷を負った事がある血管は破れやすい。横行結腸が下行結腸となる曲がり角は、ガスが溜まりやすく、その度に傷が入る。長年の飲酒で、遠藤の血管はもろくなっていた。
 遠藤の息は弱い。尻を出したままでは体が冷える。
「オムツ持って来て。パンツタイプじゃなく、開いたのを」
 泥酔者は失禁や脱糞をする事がある、店には備えがあった。
 ミミは介護の有資格者だ。手際よく大柄な遠藤の股間をオムツでくるんだ。
 そうこうする内、救急隊員が到着した。
 便器の出血を見せて、状況を説明。店の出入り口は狭い。布担架に遠藤をくるみ、4人がかりで運び出した。
「ミミちゃん、一緒に行ってあげて」
 ハルカが命じた。店として、飲ませた責任もある。
 青木は会社に帰って、それから病院へ行く事になった。
 太一は呆然として成り行きを見ていた。
「あんたは、もう少し休んでなさい」
 ハルカに言われ、また太一は横になった。

 アパートに帰ると、もう夜が明ける頃だった。
 途中、病院に遠藤を見舞った。しかし、もう彼は冷たくなっていた。大腸だけでなく、脳出血も併発していた。
 死ねる人は、ちゃんと死ねるんだ・・・太一は遠藤に尊敬の念を覚えた。
 部屋に入ると、琴美はいなかった。
「父が来て、一度帰ります」
 琴美の書き置きがあった。
 娘に言い寄る男たちを、バットや斧で脅した父だ。この部屋に爆弾を仕掛けたかも、と疑った。
 部屋をぐるりと見渡したが、それらしい物は見つからない。期待は外れ、ふうとため息。
 また睡魔が来た、まだまだアルコールが抜けてない。
 太一は大の字になって眠った。



第4章  事故死願望


 今度こそ、と山中太一は街を歩いた。
 右から左へ、左から右へ、自動車が忙しく行き交っている。
 道路に飛び出たら、轢き殺してもらえるだろう。
 しかし、身軽なスポーツカーでは、かわされる可能性が高い。重量のあるトラックかバスなら、轢いてつぶして、死ぬ確実性が高そうだ。
 タイミングは、信号が赤から青に変わってクルマが加速中の時だ。アクセルペダルを踏む足に力が入っていて、ブレーキペダルへ踏み換えるのに時間がかかるはずだ。
 太一の右手方向100メートルで、信号が赤になった。
 ガックン、キャビンを揺らして、12輪の大型トラックは止まった。
 運転手の大和田欣也は頭をかかえた。到着予定時刻は過ぎているのに、また信号でストップだ。胃がキリリと痛んだ。
 殊に、この道に三十年勤めて、今日は張り切っていた。助手席に娘の早苗がいる。つい先年、俳優の道をあきらめた娘が帰ってきた。クレーンにフォークリフト、大型特殊と牽引、ガテンな資格で父の仕事を手伝ってくれる。
 太一の左手方向100メートルの横断歩道では、青信号で人が渡り始めた。
 介護士の高木明美は車いすを押して散歩の途中だった。乗っているのは92才の小里マキ。
 今日は車いすの調子が悪い。前か後ろか、車輪にひっかかりがある。道路を横断するにあたり、ジャマにならぬよう、列の後ろについていた。
 道路を半分渡った時、また車輪がひっかかった。前輪が回らない。
 力まかせに押したら、ボキリ、前輪が根本から折れた。
 車いすが倒れる、ゆらりと。高木は寸でのところで、マキの頭を支えた。その時、横断歩道の青信号が点滅し始めた。
 トラックでは、大和田が 信号を注視していた。
 点滅していた歩道の青信号が消え、赤信号になった。車道側の信号が青に変わった。
 ギヤを入れ、アクセルを踏んだ。ブオオオッ、排気管がうなり、プロペラシャフトが風を切り、タイヤがアスファルトを噛んで、トラックは加速した。
 高木は車いすを立て直そうとしていた。早く早く、歩道から声があった。顔を上げると、迫って来るトラックが見えた。
 今だ! 太一は車道に飛び出た。
 トラックの前面に体当たりした。
 パンパーに突き倒され、タイヤに挽き潰され、プロペラシャフトで粉々に砕かれてしまうはずだった。
 が、体がフロントグリルに引っかかり、押され続ける形になった。
 トラックの運転席では、視点が高いため、直前で飛び込んだ人影は見えなかった。
 大和田の目がとらえたのは、道路の先にある小さな障害物だ。それが人であると認識するのに、時間はかからなかった。
 アクセルからブレーキへ足を移す。トラックのペダルはストロークが大きいので、ここに時間が要った。ブレーキから火花が飛び、タイヤが路面と摩擦して煙を噴いた。
 高木は体がすくんだ。要介護者を抱くしかできない。
 トラックは減速していた。
 太一のクツが路面との摩擦で煙を噴き始めていた。そのクツが、倒れていた車いすに当たって押した。
 ガックン、トラックは横断歩道を越えて止まった。
 高木と車いすの小里マキは、太一の足に押されて横断歩道の外へと出されていた。
 止まってしまった、太一は死ねなかった。
「スーパーマンみたい」
「インディ・ジョーンズかよ」
 歩道で危険を見ていた人々は、口々に言い、次に喜びの声を上げた。
 やってしまった・・・・大和田は頭を抱えた。
 ハザードランプを点け、エンジンを止めた。
 トラックの運転席からは、車体の前に群がる人々の頭が見える。重大な事態は当然として、血まみれの現実に向き合う勇気が出ない。
 早苗は助手席から車外に下りた。
 通行人が肩をたたいた。笑顔なので、深刻な事態ではないと想像できた。
 前では、数人がかりで車いすを立て直すところだった。倒れていたヘルパーの背をさする人、トラックの前面にめり込んだ男を剥がそうとする人もいる。
 フロントタイヤは横断歩道にかぶさっていた。まともなら、車いすは踏みつぶされていた。
 車体の下、ゼブラゾーンの中程に小さな車輪がある。早苗は運転席からモップを取り、柄で車輪をかき出した。
「落とし物です」
 歩道に上がった車いすへ、早苗は車輪を差し出した。
「はい、ありがとうございます」
 子供のような笑顔で、おばあちゃんが応えてくれた。
 早苗は振り返り、トラックへ行く。前のラジエーターグリルにめり込んだ男を見た。服がグリルの格子にからみ、身動きできないようだ。
 モップの柄を脇からグリルの格子に入れ、格子ごと車体から離した。
「ありがとう」
 太一は早苗に礼を言った。
「こっちこそ、ありがとうね」
「いや、ぼくは何もしてない」
「いえいえ、あんたのクツは大仕事をしたはずよ」
 早苗の指摘に足下を見ると、太一のクツはすり切れ、パックリと口を開けていた。
 サイレンが近づいた。通報で事故を知った警察が来たのだ。


「つまり、自殺しようとして、トラックの前に飛び込んだ、と」
 古郷巡査は山中太一の事情聴取で、絶句する事しばしば。誉めて良いのか、けなして悪いのか、首ばかりひねった。
「なぜ、死のうと思ったのかな?」
 ゆっくりとした口調で問う。自殺未遂の聴取は高圧的にできない。
「それは、その・・・・」
 太一は少し首を傾げ、また頭を下げた。人と目を合わせたくない、会話の気力が無い。
「君が、トラックのあの場所に貼り付いたおかげで、車いすは車体の下にめり込まずに済んだ。結果論だけど、君は人を助けた」
「はあ・・・・」
 太一は頭を下げたまま、気のない返事。
「死ななかったのは、君には不本意だったかもしれない。でもね、だから・・・・」
 言葉が尽きた。古郷は監視のテレビカメラを向いて、手を振った。

 モニターを見ていた大塚署長は頭をかかえた。
 二人を交通事故から救ったヒーローと並んで記者会見、の目論見が露と消えた。こんな根暗青年と並んだら、警察署長のイメージに傷が入る。
「マスコミが押し寄せてます。会見は何時からですか」
 電話を取った金田が困り顔で言う。
 大塚は黙して、ただ手を振った。記者会見は中止だ。
「そうだ」
 ふと、大塚は思い出し、金田へ手を出した。
「賭けは、わしの勝ちだ」
 忘れてなかったのか、金田はため息。しぶしぶ財布から百円玉を出した。


第5章  極上の死に方


 日が暮れて、アパートの部屋も暗くなった。
 山中太一は畳の上に寝ていた。
 玄関のドアに鍵はかかっていない。強盗が入ってきて、太一の胸を包丁でグサリ、小銭を盗って去る・・・・そんなシーンを夢想していた。
 ガチャ、玄関で音がして、照明が点いた。
 入ってきたのは、両手に袋を下げて、日焼けした顔の男・・・ではなく、女だ。昼に会った大和田早苗だった。
「不用心だね。ほら、新しいクツと服、買ってきたよ」
「ああ、ども」
 太一は袋を開き、ぴかぴかのクツと上着を見た。必要を感じなかったが、一応、儀礼として礼を言った。
 早苗はもうひとつの袋を開いた。コンビニ弁当と缶ビールだ。呑みねえ食いねえ、と言いつつ、ぐいいいとビールを飲んだ。
 太一は、もっぱら食い気。ビールには、ちびと口を付けただけ。
「あんたがトラックの前に出てくれたおかげで、誰も死ななかった。親父は刑務所に行かずに、たぶん済みそうだ。感謝しとるんよ」
 ガテン娘の口から出るのは、ほとんど男言葉。早くも酔いが回り、顔が赤らむ。
「感謝してるけど、うちには金が無い。金で感謝できないので、体で感謝しよう、と思ったのさ」
「からだ、で?」
 早苗は太一の横へすり寄り、腕に乳房を押しつけた。
 ガテン娘の乳房は半ば筋肉になって盛り上がり、肩幅は太一より広い。仕事で使う強力な腹筋と背筋で、腰のくびれは目立たない。
「ささ、それを早く食っちまって。女にここまで言わせて、恥をかかすんじゃないよ」
 感謝の押し売りだ。太一は弁当の残りを口に詰め込んだ。
「どんな事がしたい? バックとか、駅弁とか、松葉崩しとか、アナルとか・・・アナルは、ちょっと、まだ処女なのよ。やってもいいけど、やさしくしてね」
 何と答えて良いのか、太一はビールをちびり飲み、また考えた。
「ふ、腹上死したい」
 琴美と寝た時、思い至らなかった死に方。筋肉たっぷりな女となら、それが可能かもしれない。
 腹上死と言われて、どんな体位かと早苗は考えた。それが体位ではないと気づくのに、数秒要った。
「ふくじょうし・・・・ああ、つまり、おれとしながら死にたいのね。死ぬほどやりたいだなんて、女冥利な求められ方だ。よおっし、やってやるぜ!」
 早苗は弁当の袋の底から、強精剤のパックを出した。赤まむしドリンク他、多種をそろえてある。こんな事もあろうかと、用意は怠りない。
「ささ、飲みねえ、ぐいぐいっとね」
 太一は強制的に飲まされた、一本二本三本と。説明書を読めば、薬が効き始めるのは、飲んでから一時間くらいかららしい。
 早苗は鼻歌でベッドを片付ける。バスタオルを枕に巻き、箱ティッシュをそえた。

 約一時間・・・・
 どくんどくん、二度目の射精が来た。
 太一と早苗は性行の最中、男の太一が上になる正上位と呼ぶ体位だ。
「そ、そろそろ、死ねるかな」
 早苗が下から聞いた。太一は息をつまらせ、内蔵を突き上げる射精の衝撃に耐えていた。
 腹上死・・・・性交中の、または性交直後の死は、日本では年間400件ほど起きる事故だ。交通死亡事故の10分の1以下であるが、状況を勘案するなら、ベッドは意外なほどの危険地帯だ。死ぬのは、男が95パーセントを占め、少ないながら女も死ぬ。
 直接的な死因は、薬物中毒を除けば、心臓麻痺と脳溢血がほとんど。そのため、高血圧や動脈硬化や心臓冠動脈狭窄などの既往症があると、より起きやすい。
 太一は早苗の乳房に顔を乗せ、ゆっくりと息をする。
 まだ、腹上死する準備ができていない男であった。
「体を縦にすると、より血圧が上がって、頭か心臓が逝っちゃうかもよ」
 早苗の提案に、太一は体を起こした。下はつながったままだ。
 次いで、早苗も体を起こして、二人は対面座位の形に。
「飲みが足りない、もっともっと行こう」
 早苗はドリンクのパックを取り、太一に飲ませた。飲んで、すぐ効くはずもないが、一時間前に飲んだやつとの相乗効果は期待できるはずだ。
「立ちでやったら、もっと血圧が上がるよ」
 言われるまま、太一はベッドから床へ足をおろし、早苗の尻を支えて立ち上がった。
 ごききっ・・・
 背中に電気が走った。
 太一は足が震えて、尻がベッドに落ちた。
 息もできず、そのまま仰向けに倒れる。
「あれ、腰にきたかな。椎間板ヘルニアかね?」
 早苗は太一の上に乗るかたち。
 少し考え、つながったまま、体を大きく右へ左へと揺らした。
「ふむ、ヘルニアではないみたいだね。オヤジがさ、長年の腰痛持ちなんで、ちっと詳しいよ」
 腰痛と言えば、椎間板など背骨にまつわる痛みが多いのは事実。背骨を曲げたり、ねじる動きをすると、強い痛みが走るのがヘルニアの特徴である。
 が、内臓からも腰痛は来る。代表例は十二指腸潰瘍。右の背中に火傷のような、時に刺すような痛みが来る。腎臓結石も腰に近い背中に鋭い痛みが来る。
 そして、直接命にもかかわるのは、心臓から背骨に沿って腰椎へ下りる大動脈の病、動脈瘤や血管壁剥離である。血管が裂けて破れれば、腹の中で大出血となり、たちまち意識不明であの世行きだ。
「もうちょいで逝けるかもよ。さあ、がんばろう!」
 早苗は肛門を締め、腰を大きく揺らす。
 ベッドがきしんで、太一の息つきが悲鳴にも似てきた。

 朝の光がカーテン越しにまぶしい。
 早苗はゆるりと目を開けた。下半身の違和感に、まだ男とつながっていると知った。
 体を重ねて、下になっている男を見た。だらしなく口を開いて、息をしていない。
 まさか、と思いつつ、平手を一発かました。
 うっ、ごご・・・くかー
 太一が息を始め、いびきに次いで腹が上下した。睡眠時無呼吸症候群と言うやつ、死につながる病ではあるが、まだ死は遠いみたいだ。
 ぐぐい、早苗は腰を揺らした。膣の中で、男が大きくなってきた。
 もう一発と思ったが、ぷるぷると腰を震わすのは尿意だった。腰を上げて男を抜き、ティッシュを股に当てた。
 トイレか風呂か、1秒考えて、風呂にした。
 風呂のドアを開いて、早苗は後ろへたたらを踏んで、倒れた。少しちびった。
 正体不明の刺激臭があふれている。鼻に目に喉まで痛い。
 目を細めて見れば、風呂の床に掃除用洗剤のボトルが二本ころがっていた。床は真っ青だ。
 風呂のドアを閉めて換気扇を回し、早苗はトイレに入った。
 出すモノを出して、下腹をすっきりさせた。
 早苗は再度風呂のドアを開けた。蛇口から水を出し、床のボトルを取る。どちらも塩素系だ。
 こうした洗剤には「まぜるな危険」のただし書きがある。一時、洗剤を使った自殺が流行したせいだ。太一は自殺を図っていたようだ。今回は混ぜるべき洗剤が無く、未遂になった。
 風呂の床に広がっていた洗剤の薄膜が、流れて消えていく。臭いが消えて、息も楽になった。
 早苗は振り返り、ベッドを蹴りあげた。
 衝撃に、太一は目を開けた。
 見上げれば、女らしい白い肌に黒々とした茂み、その上にツンと突き出た乳房があり、さらに上に怒りが満ちた顔があった。
「あんた、これは!」
 早苗は洗剤のボトルを突き付けた。
「昼間、死のうと思って・・・・でも、気分が悪くなっただけでした」
 太一は顔をそらして答える。
「こんな物で死のうなんてね。ガスが他の部屋に漏れたら、隣や上とか下とか、みんな巻き添えで死ぬっしょ。死ぬなら、自分だけで、他に迷惑をかけないようにして死になさい」
「はい、すみません」
 消えそうな声の答えに、早苗は口を閉じた。
 警察で、トラックの前に飛び出した男の真意を聞いてきた。自殺するつもりだった、と。
「まだ、死にたいの?」
「いえ、今は、まだ・・・・」
 まだ、と聞いて、殴りたい衝動を抑えた。ガテン娘の感情は突飛に走りやすい。
「とにかく、ね。また死にたくなったら、あたしを呼びな。この次は、きちんと最後までやって、あんたを昇天させてやっから」
 早苗は服を着た。警察に行って、泊まりの父を迎えに行くのだ。
 太一は手を振り、出て行く女の尻を見ていた。
 ふう、と息をついて、またベッドで仰向けになった。
 一晩の出来事を思い返した。
 なぜ死ねなかった、と考えた。考える内に、眠気が来た。


第6章  炎の中で死ね


 おれは死ぬ事もできない・・・
 山中太一は自己嫌悪の中、街を歩いた。
 気が付くと、自分が住むアパートの近くに戻っていた。すでに、夕闇が空の半分以上を占めている。
 ウーウー、サイレンが近付き、通り過ぎた。
 その方角を見ると炎があった、火事だ。
 首をのばして、距離を目測した。200メートルくらいある。こちらは風上、延焼の危険は薄いだろう。
 火事だ、火事よ、近所の人たちが窓から顔を出し、あるいは玄関から出て来た。
 太一は火事に背を向けた。近いけれど、こちらに関係は無い。
 アパートの前に来た。
 2階の自分の部屋を見上げた。窓は暗い。琴美や早苗は来てないようだ。
 と、男が小走りに出て来た。
 目が合い、つい会釈を交わした。男は走り去った。
 住人ではなかった。アパートの誰かを訪ねて来たのかもしれない。
 焦げ臭い・・・何かが燃えている。
 臭いの元を探して、ぐるりと回った。
 燃えていたのは、すぐ近く。太一が住むアパートの外壁だった。
 駆け寄ると、小型のポリタンクがある。灯油の臭いがした。
 放火だ。
 築何十年、古い木造アパートは燃やし頃。火は壁を這い上がり、2階の屋根の軒に達した。
「火事だ、火事だ!」
 太一は叫びながらアパートに入り、ドアを叩いて回った。燃えているのは外壁だ。内側に火が回るのに、まだ時間に余裕があるはず。
 階段を上り、2階のドアを叩いた。声を出し過ぎて、ちょっと息が切れた。
「あによお、うっさいなあ」
 となりのドアが開いて、女が寝惚け眼で出て来た。六本木は夜の女、まだ出勤には早い時間みたい。
「火事です、逃げて」
「どこが火事なのさ?」
「ここっ!」 
 頭をかきながら、六本木は窓を見た。煙と炎が立ち上っている。
 ひええっ、悲鳴あげて彼女は逃げ出した。スケスケのネグリジェに抱き枕の縫いぐるみを抱えていた。
 そのとなりは学生がいた。本を抱えて逃げる。
 奥の部屋は、一人暮らしの親父。何を思ったか、信楽焼の狸の置物を抱えて逃げた。
 ぎぎぎ、ががが、建物がきしんだ。
 熱で柱や壁が膨張している。当然、隙間も拡がる。天井付近に煙が満ちてきた。
 ウーウー、消防車のサイレンが聞こえる。
 みんな逃げたか・・・そう思うと、頭が冷えてきた。
 壁を背に座り、考えた。逃げなければ、ここで死ねる。
 天井が熱を帯びて、頭から汗が流れる。煙くて息が苦しくなった。終わりが近い。
 どうせなら、自分の部屋で死のう。そう思い直し、廊下を這う。
 ばちばち、燃える音に混じり、人の声が聞こえた。
 まさか、と声の元を探った。子供のようだ。
 さっき叩いて反応が無かった部屋で、子供が泣いているのだ。
 この火事で自分が死ぬのは良し。だけど、他人が死ぬのは問題だ。
 太一は立ち上がり、さっきのドアを引いた。
 ぬぬう、渾身の力を込めると、築何十年の古いドアが外れた。
 ぶわっ、部屋から煙が噴き出した。一気に、廊下も視界が無くなった。
 四つ這いで部屋に入った。かすかな声をたよりに進む。
 居間の中ほど、布団が丸くふくらんでいた。
「おい、おいっ」
 煙さを我慢して声をかけた。
 布団をめくると、子供がしがみ付いてきた。親が来た、と思ったのか。
 煙で目が痛い。カーテン越しに明かりが部屋を照らしているが、脱出路は見当たらない。廊下から階段へ抜けるのが、唯一のようだ。
 子供を胸に、床を這い進む。
 ガシャン、どこかでガラスが割れた。
 窓ガラスが熱で割れた。外の新鮮な空気が室内に吹き込んだ。
 ボワッ、廊下の天井を炎が走った。未燃ガスに火が点いたのだ。
 ひっ、太一は子供に覆い被さる。
 目を閉じた。それでも、閉じたまぶたでも視界は赤く光る。息を止めた。けれど、鼻の奥まで熱と煙が入り込んだ。
 頭のすぐ上を炎が走った。背が火で焙られ、腹に熱湯が入ったように痛んだ。
 だめだ、一緒に死のう・・・太一は子供を抱く手に力を込めた。
 が、それは一瞬だった。
 炎は部屋の窓を突き破り、外へと噴き出した。
 消防の放水は、始めは屋根にされていた。延焼を防ぐためだ。窓から炎が噴き出したので、狙いを変えた。直接、窓へ水をふち込んだ。
 湯のシャワーが太一に降りかかった。
 すぐに冷えて、水のシャワーになった。背と腹の痛みが引いていく。
 はああ、顔に水を浴びながら、息をついた。けほけほ、下で子供が咳をした。二人とも、まだ生きていた。
 どしどし、床の振動が顔を叩いた。
 床が抜けて、アパートが倒壊する。燃える瓦礫に埋まる図を想像した。
「人だ!」
 水を浴びながら、声に顔を上げた。防火服の消防隊員が太一を見おろしていた。
 彼の手を振り払い、自分の下から子供を出した。
「生存者あり!」
 消防隊員は子供を抱き上げ、部屋を出て行った。べたり、体の力が抜けて、太一は濡れた床に腹這いとなった。
 子供は助かった。思い残す事は無い。
 終わった・・・何もかも・・・
 これで死ねる・・・
 あとは呼吸やら心臓やらが止まるのを待つだけだ。体のあちこちが痛むけれど、心は静かになった。
 ぐらぐらガタガタ、暗闇の中で、体が揺さぶられた。
 頭から前のめりに落ちて行く感覚があった。
 これが死か・・・
 そこで、意識が途切れた。

 気が付くと、山中太一は病院のベッドだった。
 後頭部と背中の火傷は、全治1週間程度の軽傷らしい。でも、上を向いて寝られず、ベッドで横向きの姿勢だ。
 鼻から喉にかけての火傷も軽傷の部類。酸素吸入で息は楽になった。ただし、喉が治るまで流動食。
「また、きみか」
 古郷巡査が事情聴取に来て、開口一番に言った。
「つまり、死のうと思って逃げずにいたら、子供の声に気付いた・・・と」
 古郷は廊下で待機する大塚署長に首を振った。
 山中太一は実に困った男だ。普通なら感動の人命救助なのに、表彰に値する人物として振る舞ってくれない。
 田代琴美がベッド脇に来て、むふふと笑った。
「そこが太一様のすばらしさです。法や常識を越え、神に選ばれた者だけが為しえる人助けですわ」
 壁を背に座っていた大和田早苗が足を組み直した。
「火事くらいで死なれちゃ、女の立つ瀬が無いね。太一が死ぬのは、おれとやりながら、と決まってる」
 太一の頭上で、二人の女が視線で空中戦を始めた。
 警察は民事不介入が原則だ。古郷と大塚は目を合わせ、早々に退散した。
 目撃者の証言もある。警察は放火犯の逮捕に注力するのみだ。



< 終わり >
  

なんだかんだで2年がかりの作となりました。

長く中断して、エピソードの構成を入れ替えて、タイトルも七転八倒、よく最後までたどり着けたもんだよ。

 

OOTAU1

2015.6.15