科学屋 久麗爺
鳥山明著『Dr.スランプ』より

 




登場人物

久麗均一(70歳)
久麗念努(均一の息子・43歳)
久麗美智(嫁・40歳)
久麗美優(孫・高校生)
久麗太郎(孫・中学生)
久麗美佳(孫・小学生)

志藤(工場従業員)
青葉(工場従業員・若手)
東木(巡査)

朴伊永(パク・リヨン 留学生)
鄭魯麻(チョン・ノマ 留学生)

鳥島(チーム・マシリト監督)



1.久麗爺、始動!


 さて、北海道の屋根、大雪山を見上げる街の一角に木工家具の工場がある。近頃は、高級木製家具の人気が有るとか無いとか、それなりに繁盛している工場であった。
 工場の看板は「久麗」と書いて「くれい」と読ませる。英語のクレイは粘土の事だが、木材を粘土のように自在に加工する、と言う意味が込められているらしい。
 その工場の裏手に、ひっそりと暖簾を出している店(?)があった。暖簾は「科学屋」と染め抜かれていた。この科学屋の主人が、本編の主人公、久麗均一・・・人呼んで、久麗爺。今年、70歳になる自称、天才科学者である。
 こうした物語の科学者はマッドサイエンティストと言われるが、久麗均一はマッドではない。マッドは集中力に欠ける人物で、周囲に迷惑をかける場合が多い。久麗均一は一心不乱、一点集中、一所懸命な思索と研究をするのでクレージーと呼ぶのが相応しい。よって、久麗爺なのだ。

 ごりり・・・ギギギッ・・・イヤな音を立てて機械が止まった。
「どうしました?」
 工場長の久麗美智が席を立つ。まだ年が40を過ぎたばかり、女の色香が漏れるよう。が、彼女は工場の経理責任者であり、製品の目利きをする者でもある。その審美眼を外れた物は出荷されない。
 ゆっくり美智は歩く。重大な時ほど、責任者は動揺を外に出してはいけない。
 しゅううう・・・機械が煙を噴いていた。オイルの煙ではなく、水蒸気のようだ。さほど重大な事態ではないと見えた。
「まいった・・・」
 機械担当の志藤が頭をかいた。手に負えない事態らしい。
「これは、お爺ちゃんが作ったのよね。直せるのも・・・」
 むう、と美智は口をつぐんだ。携帯電話を出し、ピッポッ、とボタンを押して言った。
「流星号、応答せよ!」

 工場のとなり、科学屋の扉が開いた。
 黄色いパトランプが回る光る。ブロロン、エンジン音も高らかに流星号が外に姿を現した。
 日産のエルグランドを改造してラビットパンダ化したのが流星号であった。ボディ側面には「科学屋」のタイトルも書き込まれている。
 どどど・・・流星号は工場の玄関前に回り、止まる。サイドドアが開いて、シートがアームに乗って押し出されて来た。それに座っていたロボコップのような、ちんどん屋のような機械を背負った老人が降り立つ。久麗爺こと久麗均一である。
 ちなみに、流星号の運転席には運転ロボットが鎮座していた。外から見て、決して無人運転には見えないはずだ。
「また、ちょっとパワーアップしてるなあ・・・」
 志藤が身を引いて呟いた。
「何か起きたか?」
「これ、動かなくなったの」
 久麗爺がドスの効いた声で尋ねる。美智が機械を指差して答えた。爺の珍奇な扮装には慣れているので、落ち着き払った対応だ。
 ふむ、と久麗爺は機械に向き直る。
 カチカチ、いくつかのスイッチをいじると、ボン、と大きな音で機械の扉が開いた。しゅうしゅう、蒸気があふれて出た。
 懐中電灯を照らしながら機械の中に半身を入れ、あれこれと調べる。
「これは、少し時間をもらうぞ」
「はい、よろしく」
 久麗爺の言葉に美智は快諾した。皆の背をたたき、仕事へ復帰を促す。
 ぎぎぎ・・・どすんばたん・・・ばきょーん、ぎっちょん・・・普段は無い音が工場内に響いた。
 美智は工場長の席にもどり、パソコンの経理画面を呼び出した。新しいコーヒーをカップに取り、今月のやり繰りを考える。
 ふと、静かになったのに気付いた。
 もう一つ、コーヒーをカップに取り、トレイにお菓子をそえた。
「お爺ちゃん、どう?」
「うむ、こいつが壊れていたようだ」
 久麗爺は菓子を口にしながら、左手に小さな筒状の機械を示した。
「中の気圧を維持調整する弁だ。小さいが大事な物だよ。さて、他が壊れてなければ、これで動くはずじゃが」
 コーヒーを一気飲みして、久麗爺は機械を起動した。
「材料をもらうぞ」
 角材を2本、手にした。1本を機械の中にセット。扉を閉めて、作業開始のボタンを押した。
 ポポポ・・・真空ポンプが動いた。内部の気圧が下がり、中の角材の表面に水滴が着いた。結露ではなく、木材の中の水分が表面に出て来たのだ。さらに気圧が下がると、水滴は蒸発して見えなくなった。
 次のボタンを押す。
 ばしゅぅーっ、高温高圧の水蒸気が角材に吹き付けられた。目には見えないが、角材が太る様をセンサーが読み取る。
 よし、久麗爺は操作レバーとボタンに手をかけた。
 ぴきゅーん、ぴきゅーん、ぼーん、シュバーッ・・・効果音は久麗爺が趣味で付けた。
 バン、機械の扉が開いた。
 久麗爺は中から角材を取り出す。根元からグルグル螺旋に捻られていた。出来てたてなので、湯気が熱い。
「まあまあ、じゃな。さて、もう1本試すか」
 ポポポ・・・ばしゅぅーっ・・・ぴきゅーん・・・シュバーッ・・・機械の扉が開いた。
 久麗爺が取り出すと、真っ直ぐだった角材は蝶々結びになっていた。
 美智は結ばれた角材に触れて、熱さに手を引いた。
「これの弱点は、と言えば・・・出来たてが熱いところかしら。冷めてからでないと、次の工程にかかれない」
「昔から、木を熱して蒸して曲げる技術があった。それを高度化、自動化した機械なのだが。冷間圧延までは気が回らなかった。次は、それにチャレンジしてみるか」
 美智の言葉に頷く久麗爺、嫁の意見は常に重要だ。
 留学生のパク・リヨンが機械に寄って来た。
「そんな苦労して曲げたりせずとも、NCで削ってしまえば早いのに」
「削る・・・? 愚か者めっ!」
 久麗爺に気圧され、パクは腰を抜かして尻餅をついた。
「切る、削るとは木材の繊維を断つ事。木材の強度が下がってしまうではないか。安易な道を取るではない!」
「いやいや、強度がかからない飾りのような部位なら、切ったり削ったりは経済的なのよ」
 美智が経営者の視点で言った。
「飾りと言えど、強度を疎かにしては製品の寿命が短くなる。ここは使い捨てられる物を作る工場ではないはずだ」
「創業者のポリシーは理解しますけど、工場を維持するためには、経済原理から逃れられないのよ」
 むむむ・・・嫁の押しには弱い久麗爺であった。
 志藤は機械にもどり、ホイールとハンドルで運転を再開した。老練の職人には、レバーとボタンが使い難いらしい。
 順調に動く機械を確認し、久麗爺は工場を出た。
 派手な流星号は玄関前から去り、また静けさがもどった。
 
 午後5時、工場の終業時刻が来た。
 従業員は家へ帰り、工場長の久麗美智には妻と母の時間となった。営業から帰った社長の久麗念努は夫、二人で夕食の支度。
 ぎしっ、食器棚の戸がきしんだ。念努の手が止まった。
「使い初めて半年も経ってないのに、意外と保たないな。ヒンジの強度が足りない・・・いや、板が反って当たりが出てるのか?」
 念努は戸を調べる。食器棚や食卓の使い勝手など、家事は自社製品のテストを兼ねているので、完全に仕事から離れた訳ではない。
 長女、美優は高校生、家事を手伝ってくれる頼もしい主婦予備軍。中学生の太郎は久麗爺の助手もして、少し危ない年頃だ。小学生の美佳は可愛さと元気さで家を明るくしてくれる。
 一男二女の子供たち、一家5人の楽しい夕食・・・とばかりはいかない。窓の外を見れば、科学屋の窓から灯りが漏れていた。
「美優、後でお爺ちゃんに晩ご飯を届けてね」
「あ、ぼくが行くよ」
 母の手伝いを、息子の太郎が引き受けた。面倒が無くなって、姉は助かったと言う顔だ。
「良いけど、早く帰るのよ」
「はーい」
 にやり、太郎はテーブルの下で拳を作っていた。

 久麗均一は科学の鎧を肩から下ろし、数枚の布だけを身に残した。つまり、下着だけで安楽イスに身をゆだねていた。
 体の力を抜き、目を閉じると、脳の働きは変わる。スイッチが切り替わるように、情報の収集優先から情報の整理優先へモードが変わる。新奇なアイデアはどちらから湧き易いか、統計を取った事はない。それでも、このモード切り替えを認識すると、座禅の瞑想が身近に思えた。
 かたり、音がした。人の足音がする。
 均一は片目を開けた。脳が情報収集優先モードに切り替わった。
「あら、起きてたんですか」
 女がいた。韓国からの留学生、チョン・ノマだ。当初は半年だけの予定が、すでに3年となった。ビザは大丈夫か、と息子が心配した時もあったが、その問題はクリアされたらしい。
「先生、木材を冷たいまま曲げたりするのは、どうやるつもりですか?」
 じわり、ノマは顔を寄せきた。
「まずは、薄板から実験を始めよう。合板の薄板をプレス成形する技術は、1940年代のイギリスにあったからね」
「そんな昔に?」
「イギリス軍はベニヤ合板でモスキート戦闘機を作った。ベニヤ板をプレス成形して主翼と胴体の外板を作った。金属製と違い、翼を厚く作らなければならなかったが、とても剛性の高い機体になった。あのプレス成形では、特に熱したり蒸したりはしなかったはずだ」
「なら、イギリスから資料を取り寄せれば」
「わしは考古学をやるつもりはない。現代の技術に新しいアイデアを加え、新しいプレス成形技術を作るつもりだよ」
「ん・・・まあ」
 あきれ顔で、ノマは離れた。
 カラン、戸が開いた。太郎が入って来た。
「爺ちゃん、晩飯だよ」
 カラカラ、ワゴンを押して、太郎は安楽イスの横に来た。パチッ、ノマと太郎の視線が火花を散らした。
「じゃ、また、この次ぎに」
 ノマは両手を上げ、そそくさと出て行った。
「爺ちゃん、あんなのが好みなの?」
「年の差は関係無い。あれが良妻となるなら、わしは幸せになるだろう。が、悪妻となるなら、わしは哲学者になれるかもしれない」
「てつ・・・がく?」
 太郎が眉をひそめ、首をひねった。
「それはそうと、太郎よ、明日は・・・こいつの試験運転をするぞ」
 ぱん、均一は久麗爺の顔になり、台の上の機械をたたいた。
「試験て、どこまで?」
「外に出す」
「外へ、ついに!」
 太郎も久麗爺の孫の顔になった。
 がははははっ、二人の男は笑った。何も知らない人が見れば、マッドサイエンティストの笑いそのものだった。


2.男のロマン 


 朝の光が大雪山から降りて来た。
 カレンダーは日曜日、久麗太郎はベッドから飛び出し、素早く顔を洗って、科学屋へ行った。
「おっ早う!」
「来たな、よし、行こう!」
 孫が来て、均一は立ち上がる。晩飯の残りを握りにしてあった。それを口に入れ、茶でうがいをし、ごくんと飲み込む。
 均一はコントローラーの電源を入れた。iPADの両側に飛行機シミュレーターの操縦桿を装着、たった2本のレバーで前進後退を自在にコントロールする。元が操縦桿なので、レバーには多数のボタンがある。ショートカットキーとして便利だ。iPADのメニューを掘り下げ、いよいよ操縦する本体にアクセスした。
 太郎もiPADを手にした。こちらは動作モニターである、決して大型PSPではない。
「立て、クレイワン!」
 均一が叫んだ。
 実は、命令は音声入力ではない。なので、言葉で命令しても意味無いのだが、そこは雰囲気だ。
 ま゛!
 台の上で横になっていた人型のロボットが動いた。
 モニターの表示はレイダウンからシットへ移行中の表示、左足が床に着いた。オートバランスも緑で表示されている。
 ロボット・クレイワンが台で横座りになった。胸にC−1のロゴが光る。
 シットからスタンドへ移行、表示が進んだ。オートバランスの表示が緑と黄色で点滅した。
 ロボット・クレイワンが立ち上がる。身長は約5メートル、天井ぎりぎりだ。
 モニターの表示がスタンドで固定された。オートバランスの表示も緑で安定した。
「ふう、毎度ながら、ヒヤリとする。さて、状態を確認しよう」
 ロボットの頭が天井に接触していないのを目視で確認、均一は胸をなでおろす。建物の中にある限り、オートバランスはグリーン、クレイワンの直立に問題は無い。
「移行、歩行モード。速度、徐行。まず、右へ90度旋回。それから直進して、外へ!」
 iPADのメニューからモードを選んで指示、クレイワンの動きがツリーで表示された。
 直立から歩行へ、ロボットは腰を下げ、やや中腰になった。背が低くなり、動いても天井と梁に頭をぶつけないで済む。
 向きを変え、ロボットはすり足で進んだ。ここまでは何度も試した。
 と、ロボットの足が止まった。
「障害物検知、自動停止。歩行モードから直立モードへ自動変更、オートバランスはグリーン」
 太郎がモニターを見て言った。
 均一はロボットが検知した障害物を探した。見つけて、固まった。
「しまった・・・」
 科学屋の出入り口は流星号の高さに合わせてあった。約2.2メートル、ロボット・クレイワンは扉より倍以上も高い。
「どうしよう? これで今日は止めにして、出入り口を広げてからにする?」
「いや、こんな事もあろうかと、四つ足歩行モードを作っておいた」
 太郎の言に、均一は新しいモードの起動を宣した。こんなに早く使うとは想定していなかった歩行モードだ。
「まず、少し後退。それから、四つ足モードに移行だ」
 均一はiPADのメニューを掘り、新しいモードを指示した。
 ま゛!
 ロボット・クレイワンは3歩後退、両手を床に下ろした。
 四つ足はクレイワンのもう一つの姿、人型から犬型ロボへ変身である。
 実は、ロボットの手と足は同じパーツを流用して作られており、長さが同じなのだ。胴長なプロポーションは足が短い事による。しかし、足を長くしたら、直立時に頭が天井につかえてしまう事態となる。
 科学屋の扉が開いた。四つ足のロボットは外に出た。均一と太郎も追って出た。
「お早うございます」
 孫娘で長女の美優が出迎えた。手に大きな布を抱えている。
「やあ、お早う」
 均一は挨拶を返すが、違和感を禁じ得ない。女がロボットに興味を抱くとは思っていなかった。
「前から思ってたの。お爺ちゃんのお人形にどうかな、て」
「お人形・・・」
 自慢のロボットをお人形呼ばわり・・・女の感性には付いていけない。均一は美優に失望した。
 さて、美優は手にしていた布をクレイワンの首にかけた。結んで、マフラーのようになった。実はお古の遮光カーテンだった。裏地が赤だったので、それを表地にした物だ。カーテンだけに長さは2メートル半、クレイワンの首に巻くに十分だった。
「おおっ・・・」
 赤いマフラーを首に巻いた様を見て、均一は胸にこみ上げる物があった。iPADのメニューを開き、四つ足モードから二足直立モードへ移行の指示を出した。
 ま゛!
 ロボット・クレイワンは両手を地面から離し、2本の足だけで立ち上がった。首に巻いた赤いマフラーが風になびいた。
「おおおっ、これこそ! ああっ、わたしは今、猛烈に感動している。さすが、我が孫じゃあっ!」
 均一が美優に抱きつこうとしたら、ひょいと躱された。がん、クレイワンの足に顔面から激突した。
 物置が少し空いて、美優は満足した。使い道の無かった古い遮光カーテンを処分できて、良い朝だった。
「ふっ、女に男のロマンを解するのは無理か」
 均一は思い直し、足早に去る美優を見送った。改めて赤いマフラーをなびかせるロボットを見上げ、しばし感慨にふける。
 わいわい、人の声に気付いた。
 道路の方から科学屋を見ている子供たち、5人ほどがいた。男が4人と女の子が1人だ。
 均一が太郎を振り返ると、小さく首を振る。太郎には苦手な子が混じっているようだ。
「何、あれー」
「でっかー」
「だっさー」
 同意しかねる評を耳にして、均一は歩行モード・追尾を指示した。
 ずんずん、均一は子供たちに近寄る。続いて、クレイワンも歩いて寄った。
「どうだ! これこそ、この久麗均一が作ったロボット・クレイワンである!」
 均一の宣言に、おおーと声を上げた子供たち。しかし、驚いている風ではない。
「でさー、何ができるの?」
「今、歩いたじゃろ!」
「そんだけ・・・空を飛ぶとか?」
「飛ばない!」
「お腹からドーンとミサイルが?」
「出ない!」
「んじゃ、どうやって悪と戦うの?」
「戦わない!」
 子供たちはロボットの存在は認めてくれた。しかし、子供たちの要求する能力をクレイワンは持っていない。
「つまんねー」
「だっさー」
 子供たちはロボットから興味を無くし、駆けるようにして去った。
 地団駄を踏む均一である。しかし、すぐ思い直す。
「所詮はガキんちょか。このロボットの意義は分かるはずも無い。うむ、街の大人に見せれば!」
 ぐはははは、均一は笑って久麗爺の顔を取り戻す。
「行くぞ、太郎!」
 再度、歩行モードを指示。久麗爺は助手の太郎と共に歩き始めた。
 久麗爺は道路に出た。左右を確認、右を向いた。街へ向かう方角だ。赤いマフラーをなびかせてクレイワンが続き、太郎が最後尾を取った。
 ピッピーッ、笛が鳴った。
 自転車で走って来たのは警察官、この地区を担当する東木巡査だった。
「止まれ、止まれーっ!」
 東木巡査が久麗爺の前に出て、自転車を止めた。久麗爺が足を止めたので、クレイワンも歩行モードから直立モード切り替わる。
「今、こいつが動いていたようだが?」
「うむ、これこそ、この久麗均一が作ったロボット・クレイワンである!」
 久麗爺は自信満々で宣した。東木巡査は聞き置くと言う態度で、ぐるりとクレイワンを一回りした。
「動力を内蔵して動くなら、自動車の類いだな。しかし、ブレーキランプが、反射板に方向指示器が・・・ナンバープレートも無い。未登録車と言う事か」
「だから、ロボットだよ」
「この大きさなら大型特殊車両だが、免許証は?」
「普通免許だけだ、大特は持って無い。しかし、ロボットだし」
 久麗爺は自動車免許の返納を迫られている年頃。太郎は中学生、もちろん運転免許には早い年頃である。
「未登録車に無免許運転か?」
「ロボットなんだけど・・・」
 警官はお役人、話しが通じない。
「すぐに戻りなさい。今回は警告だけにしておく。こいつを道路に出したければ、ちゃんと登録してナンバーを付けて、大特の免許を取ってからやりなさい」
 厳しい警告であった。法律がロボットの体を縛ったかたちだ。
 クレイワンが久麗の敷地に戻るまでを見届け、東木巡査は去った。
「ロマンの欠片が欲しい・・・のさ・・・ララ、ラーララー」
 久麗爺は泣いて歌った。太郎は頭をかくばかり。
 かくして、久麗爺が言う男のロマンは、木工家具「久麗」の敷地から数メートル出たところで終わった。赤いマフラーのロボット・クレイワンは科学屋の奥に仕舞われるのだった。


3.新たなる地平


 本日、科学屋は開店休業な状態。
 久麗爺は安楽イスに身をゆだねて、ただひたすらに思索を重ねていた。時々、いびきが聞こえるけれど、きっと気のせいだ。
 傍らのビデオレコーダーが起動していた、タイマー録画を設定してあった。赤い録画中のサインが消え、微かな機械のうなり消えた。
 くわっ、久麗爺は目を開けた。
 テレビは見たいが、CMは見たくない。ために、リアルタイムで番組は見ない。必ず録画して、CMスキップで見る。
 リモコンでテレビとレコーダーの電源を入れた。録画を検索して「人造人間18号」を再生する。
 悪の科学者に造られた人造人間たち。しかし、18号は17号と共に脱出して自由を目差す。
「18号よ、レッドリボンに産まれし者はレッドリボンに還るのだ」
「番号なんかで呼ぶな、わたしは自由な人間だ!」
 追いかけて来る悪の人造人間との戦いが、今日も世界のどこかで・・・
「よし、そこだ、行けっ!」
 ついつい、手に汗握り、久麗爺は18号を応援するのだった。
 人造人間とは言え、18号は普通の女の外観。若くて強くて、アンド、セクシーダイナマイツ!
「そうだ・・・これだ! 次のテーマはこれだ!」
 久麗爺はテレビそっちのけで立ち上がる。巨大ロボットではなく、一見普通の女で強い人造人間を横に侍らして・・・新しい科学のロマンを見つけた。
 テレビは無視して、久麗爺の中で妄想がふくらんだ・・・セクシーなピチピチの美女を侍らして街を闊歩する自分の姿を。街の不良どもが美女に声をかける。無視して行く。
 と、テロリストのトラックが暴走して来る。美女は正体を現し、その強大なパワーで悪を撃破!
 ・・・妄想ここまで。
 ぐははははっ、久麗爺の笑いが科学屋に響いた。

 久麗爺はパソコンを操作、3Dの人体作成ソフトを起動した。女性のボディをベースに、人造人間18号に似た外観を造る。服は着せてないので、とりあえず裸ん坊な女のCGができた。
 さて・・・と、ここから考えてしまった。
「ただいま」
 太郎が学校から帰って来た。
「今度は、そーゆー趣味になったの?」
「違う、少しだが・・・いや、挫折しかけている」
 久麗爺は頭を抱えた。
 立っているだけの人形なら、すぐに作れる。しかし、欲しいのは人間と同様に動くロボットだ。
 クレイワンの場合は、ぎくしゃくした動きがロボットらしくて良かった。だが、人間と同様の外観を持つロボットが、クレイワンのような動きをしたら興醒めである。人間と同じ外観であれば、動きも人間と同じでなければならない。
「要するに、データ不足なんだね」
 太郎が問題の要点を言った。久麗爺は同意するしかない。
 人間と同じ外観のロボットを作る動きは、日本の各所で行われている。いずれも、人間と同じ動きができず、動いたとたんにロボットだとバレてしまう。不気味の壁・・・そのように言われる事もある。
「また、これを使おうか」
 太郎は自分の棚からUSBメモリーをを出した。
「何をするんだ?」
「クレイワンの歩行データを作る時にも、少し使ったプログラムだよ。ARAR−Eと呼んでるけど」
「あら・・・れ?」
「データをオートリサーチしてオートリビルドするエンジンさ」
 太郎の説明に、久麗爺は言葉を返せない。元より、久麗爺はボルト・アンド・ナット・ガイを自認している。クレイワンを駆動するプログラムとデータ作りは、ほとんど太郎にまかせていた。
 USBメモリーの中にビデオデータがあった。再生すると、姉の美優が歩く姿がディスプレイに表示された。
「ARAR−Eがビデオの美優姉ちゃんから、オートで歩行データを抽出して、ロボット用の歩行データにオートでリビルドするんだ」
「な・・・なるほど」
「今度は、歩くだけじゃなく、色んな仕草のデータが要るみたいだね」
「全く、その通りじゃ」
 久麗爺の悩みは、女の外観を持つロボットを作る事ではない。ロボットに女と同様の仕草をさせられるか、否か・・・だ。
「美優姉ちゃんの日常をビデオに撮りまくって、ARAR−Eでデータを作るのか。ビデオ撮りも自動化できないかなあ」
「つまり、そのプログラムを内蔵したロボットが、女のデータを自動で取得できるようにすれば良い訳だな」
「そうだね」
 久麗爺は立ち上がり、科学屋の隅で眠っている小型のロボット近寄る。クレイワンの習作として作ったロボットであり、身長は1.2メートルほど、子供と同じ体格だ。
 その胸には「P−1」と書かれている。久麗爺は「プロトワン」と呼んだ。習作の意味を込めての命名だ。しかし、美優などは「ピーちゃん」とペットのような呼び方をしていた。
「こいつが街を歩いて、街を行く女たちをデータ化しまくれば、短期間に多くのデータが集まるだろう」
「モデルが姉ちゃんだけの場合よりは、早いかも・・・しれない」
 よしっ、と久麗爺は小型ロボットの頭をたたいた。ボルト・アンド・ナット・ガイにとり、ロボットの改造は手中の芸の内である。
 現在、プロトワンのカメラは障害物検知用の低解像度の物。人間の動作データを取得するためには、高解像度カメラに交換が必要だ。幸い、その手のカメラは、近年低価格化が著しい。そして、ボディ駆動用コンピューターとは別に、ARAR−Eを駆動するコンピューターも乗せる。こちらも、安く済むだろう。ボディからはみ出しそうなのはバッテリーだ。どんなに大容量の電源を積んでも、どれだけ電気を食うか想像もつかない。やってみて、それから対策を練るしかなさそうだ。

 じりりりーん、科学屋の電話が鳴った。
 久麗爺が受話器を取ると、美智だった。流星号を呼んでないところを見れば、特急の用ではない。
「お爺ちゃん、あのクギとネジの在庫が残りわずかよ。そろそろ作っておいて」
「あれの製法なら、青葉くんに教えたはず」
「青葉くんは別の仕事にかかってます。しばらく、手が離せないわ」
「そうか、分かった」
 受話器を置き、久麗爺は頭をかいた。男のロマンを追及したい気持ちはあるが、現実の生活もある。
 はてさて、久麗爺としてではなく、久麗均一として工場へ出向く事にした。
 木工家具「久麗」の工場の隅に、ロッカーのような装置がある。均一は電源を入れて、始業前のチェックを始めた。これは均一の特許「アイアンウッド」を作る機械だ。
 小型のプレスマシンが低圧チェンバーの中に入っている。間伐材の歯切れを、低気圧乾燥させながら、プレスで圧縮していく。木材の中の空気と水分を押し出し、最終的に体積が10分の1ほどまでに圧縮すると、鉄のように固い木材になる。もちろん、鉄のように重い。これがアイアンウッドだ。現在、工場で使うのは木のクギとネジだ。金属を使わないオール木質の家具は高級品として需要がある。
 木の細胞膜は固く厚い。細胞内の水分と空気を押し出すには、けっこうな時間がかかる。無理押しすると細胞膜が破れ、アイアンウッドの強度が落ちる。圧縮は慎重を要する作業である。
 この20年ほど、久麗爺が男のロマンを追及できるのも、アイアンウッドの収入ゆえだ。
 特許を取って10年ほどは、多くのメーカーと契約して特許料が入った。最近は高級家具に使用が限定され、収入はイマイチである。廉価製品では、金属の釘やネジの方が使い勝手は良いらしい。あるいは、特許の期限切れを待っているメーカーが多いのだろうか。
 アイアンウッド以前には、樹脂を高圧浸透させて木質を強化する技術が流行った。野球では、圧縮バットと呼ばれて商品化された。しかし、シックハウス症候群が注目されると、浸透させた樹脂が疑われた。現在では、樹脂による木質強化は表面処理に限定されている。
 均一が機械を動かし始めると、パクとチョンの二人が寄って来た。目が輝いている。
 ガラス窓の向こう側では、青葉が食器棚を仮り組みしていた。2年前に入社した寡黙な青年は、クギとネジ作りから、新しい段階へと進んだようだ。

 午後5時までは工場で働き、その後は久麗爺にもどり、また科学屋で男のロマンを追及する。
 太郎はARAR−Eプログラムを改良し、より大きなデータを扱えるようにしている。人間と同様の動きのデータは、ロボット・クレイワンより数倍も関節の数が多い。ことに、女は関節の自由度が大きいので、柔らかな動きとなる。
 プロトワンのボディの改造では、腰関節の追加が需要課題となった。ホンダのアシモ以来、人間型ロボットには腰関節の無い物が多かった。歩くだけなら腰はいらないが、人間の動きの再現に腰は欠かせない。柔らかな腰の動きは、女の仕草の肝でもある。
 カチャカチャ、太郎はキーボードを叩いてプログラムを修正して行く。
「そっちは、どんな調子だ?」
 孫の仕事が気になり、久麗爺がパソコンのディスプレイをのぞいた。
「ちょっと、ARAR−Eの、もう一つのモードを強化している」
「もう一つの?」
「作ったデータをオートでリプレイして、使える使えないを判断して、オートでリサイクルするエンジンさ。使えるデータは保存、ちょっと使えないだけのデータはオートリビルドへ。まるで使えないデータはオートで消去するんだ。人間の学習行動は、オートリサーチに始まり、自分用へのオートリビルド、そしてオートでリプレイして、保存が消去を選択してオートリサイクルを繰り返す・・・と思うんだ」
 難しい解説に、久麗爺は言葉が返せない。この辺は、とにかく任せるしかない。

 今日も、久麗均一は工場でアイアンウッドのクギとネジを作る。工場に連日勤めるのは久しぶり、若返った気分。
 ちりりん、時報が鳴った。昼の休憩だ。
 昼弁当をとるため、皆が休憩室へ向かう。その時、パクとチョンが何やら大声でわめいていた。誰に向かってかと思えば、携帯電話と口論していた。
「送られた図面の通りの機械が爆発したって、あたしらのせい? 何のために、こんな東海の北の端の島まで強制連行された上、薄給でチョッパリの下で強制労働を我慢してやってると思ってんのさ! もう、あんたらとは縁切りするよ!」
 パクとチョンは大声でわめくだけわめき、休憩室へ来る事もなく、工場から出て行った。
 ほよよ〜、美智は休憩室で弁当をテーブルに並べていた。ひょんな事から、二人分が余る事態になった。
「あの二人、何がどうなったんだ?」
「知りません。弁当代は給与天引きですから」
 久麗爺の疑問に、他の誰も答えられない。が、青葉がしかめっ面でぽつりと言った。
「パクとチョンは、アイアンウッドの機械の図面を写してました。それで何か起きたのかも」
「機械の図面は特許申請で公開されている。だが、何よりも、素材の木は生き物だ。木に対する敬意と、木への慎重な扱いを抜きにして、あの機械がまともに動くものか。高級なフライパンや包丁だけでは、料理が上手くいかないのと同じさ」
 くはくは、久麗爺は笑った。
 実は、パクとチョンは産業スパイだった。木工家具で有名なアイアンウッドの秘密を盗むため、この工場に勤めた。製造装置の図面をコピーして本国へ送った。しかし、彼の国では装置がうまく動かず、雇い主と口論になったのだ。
 木材に限らず、プレスされれば材料は発熱する。プレスマシンから出されても、熱がそのままなら、急に外面が酸素と接触して、木材は燃える場合が起こりえる。この辺、鉄と木材の違いだ。燃えないようにするのに、木材を湿らせておく手段もある。が、湿り気が多過ぎると、上手くプレスできなくなる。実験を繰り返し、その閾値を探す努力が不可欠だ。

 夜、また均一は久麗爺になる。
 依然、プロトワンの電源は問題だ。一つの大きなバッテリーで電源を満たそうとすれば、体積の大きさから上体に置くしかない。しかし、それでは重心が高くなる。ホンダのアシモが宇宙飛行士のような姿になったのは、大きなバッテリーを背負ったせいだ。
 ARAR−Eを動かすコンピューターの電源を切り離し、臀部や太股にバッテリーを分散設置しようと考えた。体積効率が悪くなるが、重心を低くできるし、人間のプロポーションに近くなる。人間の尻と太股は筋肉ばかりでなく、大量の脂肪と血液をストックしている場所でもある。
「こんばんわ」
 太郎が夜食を持って来た。
「韓国の二人、いなくなっちゃった。お母さん、大慌てだよ」
「やれやれ」
 妙な二人がいなくなって助かる、と思う反面、人手が足りなくなるリスクに工場が直面した。新たに人を雇っても、納期の遅延は免れないだろう。経営者の腕が試される時だ。
「強制連行とか強制労働とか、いったい何さ。自分の意思で日本に来て、この工場を自分で選んで働いてたはずだろ」
 太郎はパクとチョンが残した言葉が気になる様子。
「まあ・・・朝鮮半島は優性思想が強い国らしいから。北朝鮮には出身成分とか言う概念があって、血筋と生まれが何より重要らしい。1950年代に、帰国事業で北朝鮮に渡った日本生まれの朝鮮人たちには、最下層の出身成分が与えられた。ほとんど奴隷に等しい階級だった。育ちよりも、生まれを優先するのが優性思想だ。毒ガスや原爆に似て、科学の暗黒面と言える」
「ほえ、科学の暗黒面?」
 太郎は暗黒面と言う言葉に強く反応した。科学を奉じる科学屋の久麗爺として、科学の暗黒面は避けて通れない問題である。
 19世紀、ヨーロッパではダーウインの進化論が認知されるようになった。同時期、メンデルの遺伝の法則も認知され、これがキリスト教的な選民思想と合わさり、白人種はあらゆる人種の中で最も高度に進化した・・・とされるようになった。しかし、進化論と遺伝の法則からは、退化や先祖返りと言う現象も認識された。高度に進化した人種も、慎重に管理されなければ、黄色人種や黒人種に退化し得るとされた。劣った遺伝子を排除するため、障害者や少数民族への断種が法律で定められた。
「ナチスドイツが唱えたアーリア人やゲルマン民族の優性論もあった。南アフリカ共和国やオーストラリアの白豪主義は、19世紀の優性思想がもたらしたと言える。ルーマニアでは民族浄化の旗印を立て、少数民族を虐殺した。アメリカだって、1960年代までインディアンを劣った人種として断種手術をしていた」
「科学が人種差別をしたの?」
「人種差別政策に対して、科学が裏付けを与えたのだ」
 むう、太郎は首をひねる。言葉の上で知った優性思想を、自分の実体験と照らし合わせてみるが、すぐには思い当たらない。
「野球の世界大会、WBCの予選で、韓国の選手が言った。イチローとは、どこのイだ? 家系図を見せろ、おれの方が上と明らかにしてやる・・・と言ったとか。韓国では、野球選手も技量より家系が大事らしい」
「そうだ、そんな事があったらしいね」
 野球の話しには、太郎も笑った。
 しかし、久麗爺は真顔で話しを続ける。
「犬や豚、米や麦などの品種改良は優性思想そのものだよ。何が優れていて、何が劣っているか、人間が判断して他の生物に手を加えている。人間だけが優性思想から解脱できた存在・・・と言うのは、思い上がりでしかない」
「人種差別は、今も世界中にあるからね」
 科学が無くても、人種差別はあった。しかし、科学によって人種差別は強化された。それが19世紀から20世紀にかけての出来事だ。
 手塚治虫の漫画作品『鉄腕アトム』はSFの体裁を借り、人間対ロボットの差別を描いた。白熱電球の下、間違って白く塗ってしまったキャラクター『ジャングル大帝』のレオは、後年のアメリカで、白人崇拝と人種差別的抗議を受けた。
 この後、人間は人種差別を乗り越える事ができるのだろうか。できるとすれば、それは科学だろうか? それとも、別の何かだろうか?


4.プロトワン


 アイアンウッドは予定量の備蓄を作り上げた。木工家具「久麗」は休日返上で全ての納期を予定通りすませた。そんな訳で「久麗」には平和がもどった。
 科学屋は営業を再開だ。また、男のロマンを追及する時が来た。
 久麗爺はコントローラーを起動した。クレイワンのiPADコントローラーを改造してプロトワン用にした、これは簡単だった。
 メニューを掘り下げ、プロトワンに無線で接続、起動する。
「立て、プロトワン」
 ま゜!
 久麗爺のコマンドにプロトワンが反応した、起動音は軽い。
「各部、異常無し。オートバランスはグリーン」
 太郎がiPADの動作モニターでプロトワンを監視した。追加された腰関節も順調に動いている。
 久麗爺はiPADのメニューからARAR−Eプログラムを起動した。プロトワンの頭部カメラが科学屋の室内をスキャンし始めた。
「ARAR−Eの情報取得は女を目的と設定してる。ぼくらのデータは即消去だ」
「それで良し」
 太郎の報告に、久麗爺は満足の答え。
 と、プロトワンが壁のカレンダーに注目した。水着の女が腰をひねってポーズした写真が使われていた。
 ま゜・・・プロトワンのオートリサーチが動いた。オートリビルドでロボット用のデータに変換、オートリプレイモードに入った。
「ほう」
 久麗爺がうなった。プロトワンは腰をひねり、カレンダーの女のポーズを再現しようとする。が、所詮は身長1.2メートル、子供サイズのプロポーションなので、大人の女のポーズを再現しきれない。
 太郎は頭をかき、プロトワンの動きに苦笑い。
「とりあえず、ARAR−Eの情報取得は順調なようだ。大人の女に準じたボディなら、再現はリアルになるだろう。まずは、情報の蓄積が最優先だな」
「そうだね」
 久麗爺は玄関を指し、外へと誘う。太郎は頷いた。
 外へ出るとなれば、長距離を歩く事になる。予備のバッテリーをカートに載せ、動作モニターも付けた。

 科学屋から外に出た。
 木工家具「久麗」の駐車場では草野球の練習が行われていた。土曜日ゆえ、オープンしてるのはショールームの『ペンギン村』だけ、工場は休みだ。実は、明日の日曜日に、町内対抗の試合があるのだ。
 なんと、美優がピッチャーをしていた。右足のつま先を頭より高く上げて、サウスポーの投げ込み。女だてらに、美優はチームのエースで四番らしい。おしとやかと思っていた長女の意外な側面だ。
 キャッチャーは男の青葉、大きな背を丸めてボールを受けている。
 ぴぴっ、プロトワンが美優の動きを取得し始めた。ピッチャーの動きに女らしさは無いが、女の動作データの蓄積にはなる。
「美優ねえちゃんの足が高くあがると、ボールが飛んで、青葉が受けるのか」
 むすっ、太郎が口を歪めて姉の練習を見ている。
 はて、久麗爺は助手を務める長男の態度に疑念を抱いた。
「あの青葉ってさあ、元は成績不良の高校中退で、警察に何度も補導や逮捕までされてる奴だ」
「知っている」
 なるほど、と久麗爺は納得した。太郎は姉の相手を務める男が嫌いらしい。
「どちらかと言えば、青葉くんは職人肌の頑固者だ。発達障害とか、コミュニケーション障害と言う事もできる。現代の学校教育では、経営や営業向けの人材が高く評価されがちで、青葉くんのようなのは評価が低くなりがちだ。適材適所、うちの職人としては問題無い」
「そ、そう?」
 母の美智が現れ、バットを持ってかまえた。
 娘の美優がボールを投げる。母は大根切りでバントを試みた。が、空振りで、ゴーンとバットが地面をたたく。ボールは青葉のミットにおさまっていた。
 ぴぴっ、プロトワンが美智の動きも取得し始めた。女の動作は、とにかくデータにして行く。
 と、美優が投げるのを止め、爺と太郎を振り返った。
「ピーちゃんは野球をしないの?」
「できる・・・かもしれない」
 姉の問いに、太郎は動作モニターを見て答えた。美優の投球フォームはデータ化されている。
 ま゜・・・美優からボールを渡され、プロトワンは反応した。
 青葉がミットをかまえ、投球を待つ。
 プロトワンは右足を高く上げた。身長1.2メートルながら、美優と同じフォームだ。足が短いので、つま先は肩ほどの高さ。
 どかん、プロトワンの前方で爆発が起きた。いや、投げたボールが地面に当たったのだ。土煙が大きく舞い上がり、プロトワンが視界から消えてしまった。
 青葉が駈け寄ると、プロトワンの足元に直径1メートルほどの浅いクレーターが出来ていた。
 土を掘ってみるが、ボールは見当たらない。深く埋まってしまったか、大きく跳ね返ってどこかへ飛んだか。
「腕の振りは良かったようだが・・・ボールを手放すポイントを、うまくデータ化できてなかったようだな」
 久麗爺の分析に、太郎が動作モニターで確認した。
「左手が約45度下向きの時にボールをリリースした。そのまま地面に向かって、ボールが下向きに行ったようだね」
 ピッチャーの投球は腕だけではない。足と腰の押し出し、手首の返しもボールリリースの重要ポイントだ。ARAR−Eの作ったデータは手首のデータが腕と重なり、まだ大ざっぱだ。
「美優よ、ボールの扱いで、ちょっとお手本を頼む」
「お手本?」
 新しいボールを手に、美優は考える。ぽんぽん、右手から左手へ、簡単なお手玉を披露した。
 ぴぴっ、プロトワンが反応した。モニターを見れば、美優の手首の動きをデータとしてリビルドしていく。
「二つのデータを統合、準備完了」
 太郎の言葉に、美優は頷いて、新しいボールをプロトワンに渡した。
 青葉が位置にもどり、またミットをかまえた。
 ま゜・・・プロトワンが投球動作にはいった。
 どん!
 衝撃があって、プロトワンは投球を終えていた。
「今の・・・音は、何?」
「何だろうな・・・衝撃波かな?」
 久麗爺が太郎に言った。モニターを見れば、プロトワンはボールをやや上向きに投げたようだ。ボールは建物の高さを超え、はるか上空へ飛び去ったと推測できた。
「腕の先端速度は・・・秒速で約660メートル、戦艦大和の主砲の発射速度と同じだ」
「46センチ砲弾の速度か、マッハ2ちょいだな。プロトワンのどこかに、そんなデータが入っていたかも・・・しれない」
 腕の先端速度は超音速だった。そのために衝撃波が発生したのであった。
 とりあえず、ボールは投げられるようになった。でも、この球速では試合に出られない。

 ちょうど、その頃・・・アラスカ発の大韓航空007便が北海道上空にさしかかっていた。
 機内は緊張しきっていた。数名のテロリストが乗っ取り真っ最中だった。セキュリティの甘さを突かれ、自動小銃を持ち込まれていた。
 ピ・ニジュン機長は飛行経験20年のベテランだった。比較的に平穏だったパイロット人生が台無しである。
「くそう・・・アラスカの空港め、生きて帰ったら、必ず土下座の謝罪を要求するぞ。天文学的な賠償だって請求してやる。俺たちが被害者である事実は、1000年経っても変わらないぞ。アメリカ大使館前に像を建ててやる・・・」
 口の中でぶつくさ言うも、振り向いてテロリストに何か言う度胸は無い。そこには銃口がある。
「間違えるな。行き先はソウルではない、平壌だ。将軍様へ、この飛行機を献上するのだ」
 がははは、テロリストは笑った。笑いながら、銃口で機長の後頭部を小突いた。
 心の中で復讐ノートにテロリストを書き込みながら、ピ機長は前方の空に何かを見た。高度1万メートルの空には、時折、ゴルフボールよりも大きな雹が現れる事がある。
 危ない・・・と思った瞬間、バン、操縦席前の窓ガラスに穴が空いた。
 テロリストが客室へつながるドアまでふっ飛んだ。どん、次の衝撃は空気が窓から噴出するものだった。
 機内の気圧が急激に下がり、気温も低下した。耳鳴りで聴力は失われ、目を開けているのも辛い。手探りで酸素マスクを出し、酸素供給のスイッチを押した。
「メーデーメーデー、こちらコリアエア007,急減圧、緊急降下を行う」
 管制の許可を待つ余裕は無い。オートパイロットを切り、操縦桿を押して降下の体勢に入った。
 前方の視界が濃い青空から雲の下を見下ろす角度になった。
 スピードオーバー、降下速度超過の警告が鳴る。旅客機としては降下が速過ぎるとの警告だ。しかし、緊急事態なので無視して降下する。
「窓が割れるなんて・・・謝罪と賠償を要求すべきは整備会社か、この飛行機のメーカーか?」
 ピ機長は座席前窓を見直した。飛散防止のアクリル合わせガラスに丸い穴があった。直径は10センチ以上か、倍も大きかったらテロリストが外に吸い出されていただろう。
 ふと、後ろを振り向いた。テロリストはドアの下でうつ伏せに倒れている。降下して気圧がもどれば、また銃をかまえて立ち上がるかもしれない。
「機長、山が見えます」
 副操縦士の声に、ピ機長は前に視線をもどした。
「降下率を制御、水平飛行へ」
 高度計は3000メートルにさしかかっていた。酸素マスクを外した。すでに必要無い高度だ。
 けれど、操縦室の気温はセッシ0度近くまで下がっていた。吐く息が白い。空気と一緒に熱まで外に出てしまったせいだ。
 高度計は2000メートルほど、ようやく機は水平飛行になった。横の窓から山の頂上が近く見えた。
 ポーン、客室からのインターホンが鳴った。
「パーサーのキョムです。こちらのテロリスト3人は取り押さえました」
「よくやった。さすが、大韓民国のDNAだ」
 ピ機長は副操縦士に手サイン、倒れているテロリストを指した。
 頷き、服操縦士はシートベルトを外す。ゆっくり立ち上がり、抜き足差し足でテロリストに近付いた。動く様子は無い。
 自動小銃は床に落ちていた。銃を蹴飛ばし、ゆっくりテロリストの肩に手をかけた。
 ごろり、仰向けに直してもテロリストは意識がもどらない。大きく口を開け、失神したままだ。
 と、その口に何か入っている。
 縫い目から見て、野球のボールのようだ。触れると熱い、湯気が立っていた。
 どこから来て、どうしてテロリストの口に入ったのか・・・
「まさか!」
 副機長は穴の空いた窓ガラスを見た。ボールと同じ大きさの穴がある。窓ガラスを破ったのは、雹だとばかり思っていた。
 高度1万メートルはセッシにしてマイナス40度以下の世界。そこにあっても、唖音速で飛ぶジェット旅客機の機首や主翼前縁は、空気との摩擦熱でプラス70度近い高温になる。ボールが熱いのは唖音速で飛んでいたからか?
「しかし、なぜ?」
 高度1万メートルの空に野球のボールがあったらしい。テロリストよりも謎の存在だ。


5.プレイボール!


 科学屋の窓から夜明けの光が差し込んだ。
 あ、ああ・・・太郎は大きなあくびをひとつ。
「なんじゃ、太郎。もしや、徹夜か?」
 トイレから出た久麗均一は孫の姿を見て、頭をかいた。
「ん、ちょっと、ね。ARAR−Eを強化して、音声データを扱えるようにしてた。日常会話は遠い課題として、あいさつ言葉に反応できるようにしてみた」
「ほう、あついさつができれば、人間に近くなるのう」
 人間と日常会話を行う人工知能の試みは、世界的に存在する。が、歩行可能なロボットとの組み合わせは少ない。
 太郎はパソコンのエンターキーを押した。データがプロトワンへ転送された。
「おはよう」
 太郎が語りかける。
 ま゜・・・プロトワンが反応した。
「おは・・・こん・・・ばん・・・ち、は」
 プロトワンが言葉を返してきた。太郎は眉をしかめ、ひとつ頷いた。
「なんつうか、あいさつが混じっていたような」
「うーむ、ARAR−Eに朝昼晩の概念が入ってなかった。オートリサーチとオートリプレイの中で、なんとか学べないかなあ」
 頭を抱える孫を、久麗爺は見守るだけ。会話機能は純粋に電子プログラムの問題だ。どちらかと言えば、ボルト・アンド・ナット・ガイな父祖に出番は無い。
「おっはよー」
 孫娘の元気な声がした。美優が二人分の朝食を持って来た。今朝のメニューは厚切りトーストに卵焼きと具沢山な味噌汁だ。
 お・・・は・・・よ・・・プロトワンが反応して、美優の言葉をオートリビルドからオートリプレイで発声した。
「わあ、ピーちゃん、話せるようになったの」
 美優はプロトワンの頭をなでた。大人が子供にする仕草だ。
 プロトワンは腕を動かしかけて、止めた。1.2メートルの身長では、今の美優の動作をオートリプレイできなかった。
 年寄りの朝は、やはり味噌汁である。均一は汁をすすり、挽き割り納豆を塗ったトーストをかじった。
 そこで、孫娘のねだるような視線に気付いた。
「何かあったのか」
「韓国の二人がいなくなったでしょ。おかげで、今日の試合のメンバーが」
「足りない?」
「いえ、9人ぴったりになって、補欠もいないの」
 美優はチームの補欠が欲しいらしい。均一が太郎を見ると、首を振って応えた。ここの男二人は運動が苦手だ。
 むすっ、美優が頬をふくらませた。が、プロトワンに目を向けて、ふむ、と首を傾げた。
「ピーちゃんは野球しないの?」
「昨日よりは、少しできると思う」
 弟の答えに、姉は満足の笑み。
「なら、補欠くらいは、できるよね」
「補欠なら・・・と言っても、ロボットが出て良いの?」
「そっか、ピーちゃんはロボットだったのよねえ」
 プロトワンの頭部は丸いプラスチックのカバーが基本。そこに周囲との距離探知レーダーと高精細度カメラを組み込み、今日は簡易のマイクを付けてスピーカーと連動させた。
 現状、プロトワンには顔が無い。カメラを眼球に見立てても、鼻や口、耳も無い。人間の表情をARAR−Eで取り込むのは、まだ予定すら立てられていない。
 むっ、美優は口をつぐんで考える。ぽん、と手を打って科学屋を出て行った。
 10分後、美優は戻って来た。
 母のウイッグをかぶせて固定、眼鏡をかけて両面接着テープで貼り付ける。それなりに人間ぽい頭部になった。
 野球の帽子とユニフォームを着せ、手には手袋、足には靴を履けば、ほとんど機械が表に出なくなった。眼鏡の下、顔の下半分はプラスチックが露出している。そこは風邪用マスクで覆った。
「これにて、新人選手ができたわ」
 美優は自信満々で宣言した。
「逃亡中の指名手配か、どこかの漫画家みたい」
 太郎がもらすと、ちっちっちっ、美優は人差し指を揺らした。
「いいの・・・かな?」
 今度は均一が首をひねる。

 9時過ぎ、久麗家は総出で野球場へ向かった。お弁当も一杯だ。
 太郎の心配は、プロトワンが自動車から乗り降りできるか。以前、テストはしていたが、家族の前で披露するのは初めて。
 車が球場に着いて、うまくプロトワンは降りられた。ほっ、太郎は胸をなで下ろした。
 美優に従い、プロトワンは歩く。球場の入り口からグランドへ、微妙なスロープがある。ここも、オートバランスが対応して、ボディの垂直を保って行けた。
 プロ野球の球場と違い、チームが控えるベンチはグランドの隅に長いすを置いただけ。これはプロトワンに都合が良かった。すでに町内会の選手が待っていた。
「ピーちゃんは、ここに座っていてね」
 ま゜・・・美優の言葉に、プロトワンは応えた。ちょん、と人形のようにベンチに座った。
 均一は太郎と末孫の美佳とスタンドで観戦である。
 プロトワンの状態はiPADでモニターできた。現状、ベンチに座って、美優の動きをオートリサーチでトレースしている。バッテリー残量は十分、試合終了まで余裕だ。
「落ち着け、太郎」
「でも、だって・・・」
「プロトワンは美優にまかせろ。何かあったら、向こうから呼んで来る」
 動作モニターを見ながら貧乏揺すりの太郎に、均一は声をかけた。実際、スタンドからベンチまで10メートルほど、それほど遠いわけでもない。けれど、動作中のプロトワンから3メートル以上離れるのは、太郎には初めての事だった。
 マウンドに美優が立ち、投球練習を始めた。つま先を頭より高く上げる豪快なフォームから投げる。日本全国的には星飛雄馬投法と言われる事が多い投げ方ではあるが、大雪山の麓ではビクトル・スタルヒン投法と言う。
 スタンドの太郎は動作モニターを見ている。ベンチのプロトワンは美優からデータを取得中、レーダーで球速を測る事もできた。美優の球は最高で時速95キロ、草野球では十分過ぎるほどの速球だ。
 美優がピッチャーを務めるチーム・クレイは後攻なので、まず守りから始まる。先攻する相手はチーム・マシリト、眉の薄い監督だ。
 主審を務める東木巡査がキャッチャー後ろにかまえ、右手を上げた。
「プレイボール!」
 さあ、試合開始だ。

 試合は淡々と進んだ。
 所詮は素人の寄り合いチームなので、5回を過ぎる頃には皆の動きが悪くなる。美優の投球も、球速が90キロ以下になった。
 1対1で9回まで進んだ。
 9回表、アウトカウントは1、チーム・マシリトのバッターは5番。美優の3球目を打った。
 ボールはセカンドをゴロで抜け、ライトへ。守っているのは志藤だ。
 志藤は前進してゴロを捕球すべく、少し屈んだ。ボールがグラブに入った。
 ここで異変が起きた。志藤が立たない、捕球の姿勢で固まってしまった。
 バッターランナーは走って2塁を越え、どんどん走る。ついにホームイン、ランニングホームランとなった。スコアは2対1でチーム・マシリトのリードだ。
 主審の東木はタイムを入れた。1塁守と2塁守、ピッチャーの美優もライトへ行く。
 うう・・・うう・・・
 志藤は低くうめき声を発した。
「大丈夫?」
「ちょっと・・・その・・・腰が」
 いつもと違う動きが重なり、志藤はギックリ腰を起こしていた。両手を地面に着けて四つ這い姿勢のまま、立ち上がる事もできない。
「救急車を呼ぶかい?」
 東木巡査が来て言った。チーム・マシリトの監督も来た。草野球では、こんな事故が起こりえる。
 美優は志藤のベルトを持ち、尻を持ち上げた。このへんは介護のスキルが役立つ。
 腰を支えられて、志藤は立って歩けるようになった。さして痛みも感じない。
「そんなに深刻な症状じゃないけど、プレイは無理ね」
「そう、だね。試合の途中で、本当にすまない」
 美優が支えて、志藤はベンチへ歩く。
「これで試合を終了するかい?」
「いいえ、志藤さんに替わり、ピーちゃんがライトに入ります」
「ピーちゃん?」
 主審の問いかけに、美優は選手交代を告げた。野球は1チーム9人で行う団体競技、1人でも欠けたら9対0のスコアで試合終了となる。
 美優はベンチに志藤を寝かせる。尻と腰の下に座布団を入れ、ギックリ腰対策とした。
「さっ、ピーちゃん、ライトよ」
 ま゜・・・美優の声にプロトワンは反応した。ベンチを降り、てくてくライトの定位置へ歩いて行く。騒音の中でも、プロトワンは美優の言葉を上手に拾っていた。これだけでも、実は機械には難しい事なのだ。
「何だあ、あれ?」
 チーム・マシリトの監督が首をひねり、薄い眉をしかめた。
「何だ、とは何かな?」
 東木が問い直す。
「だって、マスクと眼鏡と・・・素顔が見えない。まるで逃亡中の指名手配か、何かみたいだ」
「少々の見かけの差を問題にするとは、大人気ない事だな。そう言う観念を表に出すと、差別主義とかレイシストと言われる時代だよ」
「差別・・・レイシスト・・・ですか」
 東木の言葉に、チーム・マシリトの監督は口を閉じた。

「あれえ、本当に出るの?」
 動作モニターを見ていた太郎は、うろたえ気味に言った。むむむ、となりの久麗爺は口をへの字にしている。
「あれがロボットだと、なぜ気がつかんのだ。あれ程あからさまなのに!」
 太郎も首をひねった。
 モニターを見れば、プロトワンは美優の命令を忠実に実行している。試合は残り少ない、ボールがライトに行かなければ、特に問題も無いだろう・・・たぶん。 

 選手交代が成って、試合再開。9回表、チーム・マシリトの攻撃、1死ランナー無し。
 右バッターボックスに、腹の出たおっちゃんが立った。
 ピッチャー美優はチラとライトに目をやり、ゆっくりと投球動作に入った。つま先を頭より高く上げて、びゅんと投げた。
 ライトの守備力は不明。ならば、レフト方向へボールが飛ぶように図らなければいけない。右バッターの内角が攻めどころだ。
 美優の球は、疲労で球速は80キロ台。太っ腹がバットを振る、がっ、にぶい音がして、ぼてぼての3塁前ゴロになった。
 3塁守はボールを捕り、山なりの球で1塁へ投げた。えっちらおっちら、腹の出たバッターランナーが走るが、余裕でアウトになった。
 あと一つ、と美優は人差し指を掲げた。
 次の打者が右バッターボックスでバットをかまえた。腰を微妙にひねり、試合で溜まった疲れをほぐすポーズ。
 美優が投球動作に入った。疲れで足の上がりがにぶい。
 ゆるいボールだった。
 バッターも疲れて、鋭いスイングができない。なんとかバットをボールに合わせて、ゴロが一二塁間を抜けて行った。
 しまった・・・美優はボールの行方を目で追い、振り返ってほぞを噛む。
 替わった野手のところにボールが行く、と野球のジンクスがある。投球以外は未知数なプロトワンのところへボールが行った。
 ま゜・・・プロトワンは転がって来るボールを確認していた。
 ARAR−Eプログラムが動いた。美優のピッチャーゴロ捕球動作をメモリーからサーチ、自分用にリビルドして捕球姿勢をとる。転がって来たボールがグラブに入った、捕球完了。
 バッターランナーは走っていた、すでに一塁から二塁へ。プロトワンが前進守備をせず、ボールを待って捕ったので、時間がかかったせいだ。
「ピーちゃん、バックホーム!」
 美優は叫んで、しまった、と口をグラブでおおった。プロトワンが投げるボールの速度はマッハ2以上、そんなボールを受けられる人間はいない。
 ま゜・・・プロトワンは美優の声に反応した。てくてく、ボールを持ってホーム方向へ歩く。
 ARAR−Eプログラムは野球のルールをサーチしていた。ランナーをアウトにするためには、ランナーより早くホームベース前に行かなくてはならない。見れば、ランナーは三塁を回り、ホームへ向かっていた。
 加速!
 プロトワンは走った。
 キャッチャー青葉はホームベース横でボールを待っていた、ベースの三塁側に立つと走塁妨害になる。美優がバックアップでベースの後ろへ、これはセオリー通りの動き。
 ランナーが迫って来た。ホームベースまで3メートル。
 3点目だ、と美優は覚悟した。
 キーン、疾風と共に何がライトから来た。
 どーん、ランナーが横にふっとんだ。ごろごろごろ、三塁側チーム・マシリトのベンチ前まで転がった。
 ベース前にプロトワンが立っていた。ライトの定位置からホームベース手前までは約60メートル、それを1秒で駆けて来た。時速にして200キロ以上の速さだった。
「ピーちゃん、いつの間に。ボールは?」
 ま゜・・・美優の問いかけに、プロトワンは右手のボールを掲げた。
 ほっとして、美優はボールを受け取った。
 人に物を渡す・・・実は、太郎が一番苦労したプログラムである。目の前の人が手を差し出す、その手のひらに物を乗せる、そっと置く。機械には難しい判断が求められるのだ。
 美優はボールを手に、プロトワンのずれた眼鏡とマスクを直した。次いで、チーム・マシリトのベンチへ行く。
 プロトワンにふっ飛ばされたランナーが倒れている。皆に助けられ、ようやく息を吹き返したところ。
 ふう、一息ついて、ランナーは立ち上がった。少し頭を振る仕草、衝撃が抜けきっていない。
「どうぞ」
 美優は笑顔でボールを差し出した。ランナーが受け取った。
「アウト! ランナーアウトで、スリーアウト、チェンジだ」
 審判の東木が宣した。
 ノーノー、チーム・マシリトの監督が異議をとなえる。
「違うだろーっ。あいつが体当たりで走塁妨害をした。1点入って、まだツーアウトのはずだ」
 プロトワンを指しての抗議である。しかし、審判は首を振る。
「あれはボールを持っていた。よって、走塁妨害ではない。さあ、チェンジだ、9回裏だ」
 ボールを持たない野手が塁間に立てば、これは走塁妨害となる。が、ボールを持っていれば、野手は走者を追いかけられる。接触プレーはプロ野球の醍醐味のひとつであるが、素人の試合では珍しい事だ。

「やあ、なんとかなったね」
 スタンドで、太郎が安堵の声を上げた。プロトワンがライトからボールを投げるかと思った時は、つい緊急停止ボタンに指をかけていた。
 久麗爺は貧乏ゆすりが止まらない。ロボットは野球選手として不適格、と相手チームが訴えるのは何時か、それが気がかりだ。

 さて、いよいよ9回裏の攻防。
 チーム・マシリトはプロトワンに突き飛ばされた野手が交替、眼鏡をかけた若いのが入った。
 1死ランナー無しで、バッターは美優。ネクストバッターサークルでは、プロトワンが美優の動作をリサーチしている。
 来たボールにゆるいスイングでバットをあわせれば、ゴロが三遊間を抜けた。美優は余裕で一塁に立つ。女の腕力ではボールを打ち上げられない、始めからゴロ狙いのバッティングだった。
 ま゜・・・プロトワンは美優の動作をリビルド、ネクストバッターサークルでリプレイした。ぶん、ぶん、マッハ2のバットスイング、人間の目で見る事はできない。
「ピーちゃん、バッターボックスに入って。あなたの番よ」
 美優が一塁から呼びかけた。
 ま゜・・・プロトワンは応えた。てくてく、バッターボックスに立つ。
 チーム・マシリトのピッチャーとキャッチャーが首をひねった。大きな眼鏡と大きなマスクで、まったく素顔が見えないバッターだ。ちょっと気持ちが悪い。ベンチを振り返ると、監督が口に人差し指を立て、何も言うなと指示してくる。
 気をとり直し、ピッチャーが第1球目のモーション。
 プロトワンはボールにカメラを合わせて、ボールが来るのを待つ。
 ピッチャーが投げた。時速は約80キロ、やや山なりのコースで来る。
 十分に引きつけて、マッハ2の見えないスイング!
 どかん、ホームとピッチャーの間で何かか爆発したような土煙が立った。打球がマッハ2で地面に激突したのだ。
 が、ボールは地面に埋まらず、内野を右往左往しながら転がる。まるでラグビーボールのような転がり。とうとう、ボールは三本間のラインの外に出てしまった。
「ファウル!」
 主審の東木が宣した。三塁前まで来ていた美優が、ふうと息をついて足を止めた。
 ボールは三塁側チーム・マシリトのベンチ前まで転がった。監督が首を傾げて手を伸ばした。
 手にして見れば、ボールは反面が潰れて平らになっていた。もうボールと呼べる形状ではない。グランドを右往左往と転がる訳だ。
 プロトワンがマッハ2でボールを叩いたせいだった。ボールの反発弾性を越える衝撃。ボールはバットとの接触面が潰れてしまい、球形ではなくなった。
 主審の東木は壊れたボールを確認、なぜと思いつつ、新しいボールをピッチャーへ投げた。これは素人の試合、予備のボールは使わない事が多いのに。

「いいかげん、気付けよ。あれはロボットだぞ」
 スタンドで久麗爺がつぶやいた。
 モニターを見る太郎は、プロトワンのプレイに満足げだ。

 さて、ピッチャーズマウンドの前にできた穴を埋めて、試合再開である。
「ピーちゃん、もっと上から叩くの」
 一塁上で、美優が大根切りの仕草をする。ライナーの打球は野手を直撃する、危険と認識していた。
 ま゜・・・プロトワンは応えた。昨日、母親の美智がした大根切りバッティングのデータをリサーチした。データをリビルドして、リプレイの準備完了。
 ピッチャーは第2球のモーション、また時速80キロのボールがキャッチャーのミットを目がけて行く。
 十分に引きつけ、ボールがホームベース上に来たところで、ぶん、マッハ2の大根切り打法が軽い衝撃波を発した。
 ごん、バットがホームベースを叩いた。
 あれっ、あれれっ、ピッチャーもキャッチャーも打球を見失っていた。主審の東木も打球を探して、背伸びで右を左を見る。
 プロトワンがバットを持ち上げた。
「あった・・・」
 キャッチャーが声を上げた。東木主審もボールを見つけた。
 ボールはホームベースの中央にあった。しかし、上半分しか見えない。その上半分の頂部は、やはり少し平らになっている。下半分はベース板にめり込んでしまったようだ。
「これも・・・ファウル?」
 キャッチャーが振り返って聞く。東木は首を振り、主審として両手を左右に開いた。
「フェア! ベース上はフェアゾーン。よって、ヒットだ」
「これが・・・ヒット!」
 半信半疑でキャッチャーはボールをつかもうとした。が、ボールはベースから離れない。
「ピーちゃん、一塁へ走って」
 美優は一塁ベースを指差し、自らは二塁へ走った。
 ま゜・・・プロトワンは応えた。バットを足元に置き、てくてく、一塁へ歩く。
 チーム・マシリトの内野手とピッチャーがホームベースに集まった。とにかく、ボールをベースから引き剥がさなければならない。ゲンコツで叩いても、スパイクで蹴っても、ボールはベース板に埋まったままだ。
 チーム一の力自慢はキャッチャーだった。ボールをつかみ、ベース板を踏みしめ、うおおおっ、気合いを込めて剥がそうとする。
 そうこうする内に、美優が三塁を回り、ホームベースの手前まで来た。
「よし、ボールに触れている者以外は道を開けろ。このままでは走塁妨害になるぞ」
 東木主審の裁定に、集まっていたチーム・マシリトの内野手は三本間のラインから離れた。ホームベース上では、キャッチャーがボールを剥がそうと格闘している。
「はい、みなさん、ありがとうございます」
 美優は頭を下げて、チーム・マシリトの内野手の間を歩く。
 うううむ、おおおっ、キャッチャーが気合いを発し、顔を赤くしてボールをベースから取り外すべく格闘していた。
「あ、失礼します」
 美優はそっと足先を伸ばした。つま先がベースに触れた。
「ホームイン!」
 東木が主審として両手を広げて宣した。
 これで2対2、同点だ。美優は右手を小さく掲げて、ガッツポーズ。
 沸き返る1塁側ベンチを見やり、さらにプロトワンを見た。現在、1塁から2塁へと歩いているところ。
「これはボールデッドでは? 悪くても、エンタイトルツーベースとか」
「ボールはフェアゾーンにある。ボールデッドでもエンタイトルツーベースでもない」
 キャッチャーが抗議した。剥がそうと力を込めても、ボールはベースに貼り付いて剥がれない。
 が、主審は冷静に対応する。
「た・・・タイムを」
「いや、インプレー中である」
 チーム・マシリト側のタイムは認められなかった。ランナーが塁上で立ち止まれば、タイムの要求は成立する。だが、てくてく、とプロトワンは歩き続けている。ついに3塁を回り、ホームベースへと向きを変えた。
 うぎぎぎ、キャッチャーは歯を噛みしめ、ボールに爪を立ててホームベース板から剥がそうとする。
 べりっ、ついに剥がれた。ボールをつかんだキャッチャーは右手のボールを掲げた。
 が、足元から五角形のホームベースが消えた。地面には五角形のベースがあった跡があるだけだ。
 キャッチャーは右手の重さに気付いた。ボールが異様に重い。実は、ベース板がボールにくっついたままだった。
「おいおい、ベースをもどせ」
 審判が要求する。キャッチャーはベース板を胸に抱えて、はてと考えた。
 プロトワンがホームの手前まで来た。
「ピーちゃん、ベースタッチよ。ボールに触らないようにね」
 ま゜・・・美優の言葉にプロトワンは反応した。
 人差し指を伸ばし、キャッチャーが抱えるベース板の端にタッチした。
「ホームイン!」
 東木主審が両手を広げて宣した。
 3対2、逆転勝ちだ。
「やったね、ピーちゃん」
 美優が駈け寄り、プロトワンを抱きしめた。
 ま゜・・・プロトワンは美優の動作を記録した。リサーチからプログラムをリビルドして、リプレイへ移行する。

「危ない!」
 太郎はプロトワンの動作モニターをチェックしていた。危機を感じて、ついに緊急停止ボタンを押した。
 プロトワンが姉の美優を絞め殺す危険を感じたのだ。
 が、プロトワンは緊急停止に応答しない。
「なな、なんで?」
 太郎はiPADのメニューを掘り、プロトワンの反応を引き出そうとする。
「落ち着け、何も起きてないから」
 久麗爺は孫へ言った。動作モニターより、実際に目で見る現実の方を信じる方である。

「あら・・・ピーちゃん?」
 美優はプロトワンの異変に気付いた。動きが無いのだ。
 脱力して、プロトワンは倒れる。ロボットゆえに重い、女の力では支えきれない。
 チーム・マシリトの監督、鳥島は医師である。相手チームであるが、すでに試合は終わっている。医師として、何か症状を発した者を見捨てる事はできない。
 鳥島は倒れたプロトワンの横に跪き、その手をとった。筋張った固い腕、その手首に指をあて、脈を診た・・・無い。顔をおおうマスクに手をあて、息を診た・・・無い。
「死んでる・・・いや、心臓麻痺としても、まだ停まったばかりだ。心臓マッサージと人工呼吸で、その間に救急車を呼んで」
 薄い眉をひくつかせながら、鳥島は医師として的確に皆へ指示を出した。
「なるほど」
 東木は医師の指示に同意し、巡査として携帯電話をポケットから出した。と、電話しようとする手を止められた。
「はい、皆さん、ご静粛に。すぐに、事態を回復いたします」
 久麗爺が観客席を出て、グランドに降りて来ていた。太郎も一緒だ。
 心臓マッサージを始めようとしていた鳥島を押しのけ、久麗爺はプロトワンの横にひざを着く。背に負うリュックには予備のバッテリーが入っていた。
「こんな事もあろうかと、用意しておいて良かったわい」
 プロトワンのズボンのベルトを開き、腹を出す。出べそなコネクターカバーを開いて、リュックとコードでつないだ。
 バッテリー電圧低下による自動・・・・いや、自然停止だった。これまでバッテリーを使い切るところまで動かした事が無かったため、電池切れや電圧低下時のプログラムが入ってないのだ。
「電源確認、再起動開始」
 太郎が動作モニターを見て言った。
「よし、立て」
 ま゜・・・プロトワンは久麗爺の言葉に反応した。ゆるりと立ち上がる、腹に予備バッテリーとのコードがつながったままだ。
 鳥島は唖然とするばかり、人間だと思って心臓麻痺と診たのだ。医師の面目まる潰れである。
「そうか、ロボットか・・・どうりで。しかし、ボールがいくつも潰れた。不経済なプレーは関心しない」
「はい、今後の修正課題であります」
 審判である東木の指摘に、久麗爺は素直に頭を下げる。
 太郎が組んだARAR−Eプログラムは便利な点も多いが、リビルドからリプレイに至る所で重大な問題をはらんでいる。このままでは、プロトワンと人間が共同で作業するのは難しい・・・と言うより、危険ですらある。
 野球の場合、プロトワンと他の野手との間にボールがあった。それで危険を最低限に回避できた。これがサッカーや柔道など、プロトワンと人間が直接組むようなスポーツでは、プロトワンのパワーとスピードが凶器となりかねない。
 工場では多くのロボットが稼働している現代だが、基本的に、ロボットと人間は別作業になっている。過去にはロボットによる死亡事故も起きて、危険と見なされているのだ。人間との共同作業は実現していないのが現実である。
「囲碁でも将棋でも、機械と人間の対戦は面白くない。人間と人間が戦うから、人は面白さを感じるんだ」
 鳥島は口をへの字にして、ロボットの野手に抗議の意を示す。この次は、もうロボット参加を認めないかもしれない。


そして・・・


 プロトワンは久麗家具工場のショールーム、ペンギン村に展示される事になった。久麗爺、自慢の作であるし。
 電源は入れられてない。危険回避のため、と言える。何をするにも、させるにも、未完成さが目立つロボットだ。
 その久麗爺はと言えば、科学屋で新しいロボットの設計中である。プロトワンには顔が無かったので、顔のあるロボットになるはずだ。顔の表情は1ミリ以下の制度で顔の皮膚下パーツを制御する事になる。額、眉、目蓋、頬、唇の上下・・・と、全身骨格並の関節数である。人間の脳地図でも、顔は半分近い運動野を占めている。事実上、顔と全身と、二つの制御系が必要になりそうだ。
 太郎はARAR−Eの改良のため、今日もデスクトップパソコンと格闘中だ。人の顔をサーチしてデータを取り込む、次ぎにロボットの顔に適応したデータにリビルドする、そしてリプレイ・・・どう評価してデータをリサイクルするか、そこに問題がある。
 表情をサーチするモデルは母と姉、そして妹。どのようにして、人は表情を学ぶのか。太郎は頭を抱え、つい無表情にパソコンのディスプレイとにらめっこになってしまう。
「笑顔だけなら簡単なのに・・・」
 太郎は口を尖らせて呟いた。
「ロボットはロボットらしくあれば良い、無理に人間のマネをしなくても・・・しかし、ロボットらしさとは?」
 久麗爺も自問自答してみる。テレビの人造人間18号への思いが、どこかへ行ってしまいそうになる。
 もしも、全く人間と変わらぬ外見と所作のロボットがあったとして、それを機械として扱う事に合理的な理由はあるのか。アラン・チューリングが提唱した人工知能へのアプローチを、ロボットに適用しない理由は何か。人間と機械を分け隔てる究極のラインを探し、久麗爺は思索して・・・いつの間にか、寝ていた。
 また夢の中で、久麗爺はセクシーダイナマイツな人造人間18号と冒険する。男のロマンを求めて・・・






<  おわり  >



後書き


鳥山明著「ドクター・スランプ」の主役は則巻千兵衛・・・なのだが、テレビではロボットのアラレが主役だった。
則巻家の謎として、千兵衛の収入があった。連載中、読者からも突っ込まれていたようで、単行本に言い訳があるよね。なので、本作の主役、久麗爺の収入の設定には気を遣った・・・少し。

則巻千兵衛は何でも一人で作ってしまう。でも、ちょっとつまらない。時々、空豆P助が助手的な事をしていて、良い感じだった。本作では、孫の太郎を助手にあてた。

BARBER空豆のオヤジは元刑事、モデルはダーティ・ハリーなクリント・イーストウッドである。なので、本作の警官の名前は東木(イーストウッド)とした。

ootau1
2017.12.23