永矢摩神社

All That Jazz

 北海道の中央、大雪山の北西の麓、旭川の街がある。
 永矢摩神社は街の北東にあり、最も古い神社の一つ。地番表示は永山と略されているが、古くは永矢摩と呼ばれていた土地である。
 何を隠そうか、この永矢摩神社は街を守る五芒星の要であった。鷹ノ巣神社、神居神社、上川神社、旭川神社と結び、街を五芒星で囲んでいるのだ。さすがに、どの神社も目出度い名を冠していた。そして、五芒星の中心には護国神社がある。




1. 強欲お祓い


 水野九美は永矢摩神社の神職である。
 先代の神職に見出されて養女となり、巫女として神社に仕えた。後に、先代の息子と結婚した。
 2年前、先代と息子が相次いで死去、九美は神職となって神社を支える事になった。女が神職を務めるのも珍しくない時代である。

 来る!
 水野九美は強欲が近付くを察知した。
 普通の人には、言っても理解してもらえない感覚である。神社に語り継がれた儀式のいくつかは、街の人々に取り憑く強欲を祓うものだ。
 あいにくと、人々から強欲を祓っても、消す事はできない。神社の中に押し込め、留めておくのが精一杯。御神木ヌサコルフチ命と御神体サマイクル命の助力を得て強欲を浄化するにも、けっこうな時間が要る事であった。
「まりか、仕度を!」
「はーいー、姉様」
 九美の声かけに、養女で巫女のまりかが応えた。どんな緊急の時にも、努めて穏やかに応える。これも巫女の修行の内だ。


 九美は拝殿の前に立ち、木漏れ日の中で待っていた。
 境内に黒い大型セダンが入って来た。金ぴかのフロントグリルが強欲そのものである。
「ええい、なぜだ。なんで、こんな非科学的な事をせにゃならん」
 リアシートでぶつぶつ言うのは、宝田学園の理事長で宝田岩倶郎である。今年60歳、頭は薄くなったが額は脂ぎっている。押し出しの強い腹回りで周囲を圧倒する。
「しかし、まあ、これは儀式ですから」
 助手席から降り、リアドアを開けたのは秘書の佐多啓次。岩倶郎と並んで立てば、対照的な細身だ。
 九美はゆるりと車に近寄った。
「いらっしゃいませ。当、永矢摩神社の神職を務める水野九美です」
 ゆったりした語りと仕草であいさつした。
 岩倶郎のほおがゆるんだ。
「わしは・・・宝田学園で理事をしておる、宝田だ。うちの敷地内に古い建物があって、ちょっと困っている。お願いできるかな」
 九美はじっと岩倶郎を見た。
 強欲の固まりのような男であるが、表層だけなのか体の芯までか・・・少し判断がつきかねた。
「うかがっております。その現場を見て、どのように祓うか決めたいと思います。後ほど、そちらへ参りましょう」
「わしの車で来るかね」
「いえ、自分の車で行きます」
 九美の答えに、岩倶郎は頷いた。じゃね、と手をあげて別れとする。にこにこ顔で車のリアシートに入った。
 去って行く車を見て、まりかが寄って来た。
「あの人・・・姉様を見て、強欲が強まったみたい」
「かもしれない」
 九美は苦笑をかくさなかった。 
 2人は振り返り、車庫へ。永矢摩神社の自家用車は、ナンバーが『旭川33』で始まるグロリア。かなり古い物であるが、先代の遺物として大切に使っていた。
「パーカー、出かけますよ」
「へい、おっぜうさま」
 車庫の奥から返事が来た。
 浜家幸平は先代の頃からの運転手だ。アゴと発声に障害があり、自分の名前「はまか」が言えず、「パーカー」となってしまう。それが呼び名になっていた。

 私立宝田学園は旭川市内の真ん中、市役所からも近い9条通り11丁目にある。最近は動物園通りと称し、旭山動物園へ通じる道として交通量が増えた所だ。
 宝田岩倶郎は学園の玄関口で太い腹回りを誇示していた。佐多啓次と並んでマイクに立てば、大小な漫才コンビの絵である。
「なぜだ・・・あんな小娘にお願い事をするはめになるとは。本来なら、向こうから寄進の申し込みをするはずだろうに」
 かつかつ、クツのかかとで玄関の床板を蹴った。
 お祓いなどという非科学的な事は生徒に見せられない。なので、休みの日を選んだ。
 通りから車が入って来た。
「おお、初代のシーマではないか。大事にしていると言うか、渋い趣味と言うべきか」
 岩倶郎は車に目がない。特に古い車、シーマのミニカーは自宅に飾ってあるくらいだ。2代目以後のモデルは嫌いだった。
 和装の2人が車から出て、永矢摩神社から来たと確認できた。
「女ゆえ、新しい車には興味が無いのか。どうか御寄進を、と片肌脱いで頼んで来れば、新車のレクサスくらいは買ってやるものを」
 にやにや、女を前に岩倶郎のほおがゆるむ。
 九美は岩倶郎に一礼し、通りの方へ振り向いた。
「あれが、問題の建物ですか」
 石造り2階建ての建物を見た。旭川市内にある建築物としては、最も古い物のひとつだ。
「昔は敷地の中ほどにあったが、9条通りが拡幅されて、道路の縁になってしまった。歩道は申し訳ていどで、冬に雪が積もれば、歩行者は車道を歩くしまつ。解体か移築かを考えておるが、何か手を入れようとすると・・・色々あって、業者が手を引いてしまう」
「かもしれませんね」
 九美は烏帽子をかぶり、神職の姿になる。巫女姿のまりかを従え、建物へ進んだ。
 牛朱別川の堤防に近い場所である。100年ほど前、今の堤防を造り、川の流れを変えた。その工事の事務所だった建物だ。大正から昭和にかかる時代の意匠が石造りに込められている。埋められた川底の物たちが、あれこれと声を上げて止まない。
 建物の玄関前に立ち、祓串を左へ右へ左へ祓う。そして、建物に向かって深く礼をした。
 入り口の扉には大ぶりな南京錠がかかっている。
 佐多啓次が錠前の穴に鍵を入れるが、サビのためか動かない。ううっ、むむむ・・・顔で力を込めて、かちりと音が出た。
 ぱん、九美が手を拍つ。
 南京錠が外れて、地面に落ちた。
 啓次は錠前と鍵を拾い、扉を開けた。重い空気が流れ出て来た。

 九美は石造りの階段から玄関をくぐる。古い建物に入った。
 床板に足を置けば、ぎしっ、小さくきしんだ。ホコリは積もっていても、しっかりした床だ。折れたり抜けたりする心配は無さそう。
 窓ガラスはくすみ、窓枠はサビついている。全く手入れされておらず、何者かが住み着いても当然の状況である。
「大丈夫・・・ですか?」
 啓次が扉の陰から声をかけた。
「何もありません、今のところは。さあ、お入りなさい」
 九美の手招きに、まりかが入る。岩倶郎は鼻にハンカチをあて、啓次は鼻をつまんで入った。
 がちり、まりかが扉を閉めた。建物の中にいるのは4人だけだ。
「まりか、無音ではやりにくい。あれを」
「あーいー、姉様」
 まりかは担いでいた袋を置いた。中から壺を取り出す。直径と高さが15センチほどの壺。次ぎに出したのは大きめのラジカセだ。
 カセットを入れ、上のピアノスイッチを押し込んだ。
 カセットテープが回っていた。冒頭の白味部から茶色い録音部へ、テープが送られて行った。
 ダダダラララ・・・エレキギターの音色が古い建物に響き渡る。
 ベンチャーズのヒット曲『バンブルビーツイスト』だ。
 腰と体をひねるダンス、ツイストが簡易なダンスとして世界に広まった頃の曲である。それ以前のダンス様式を壊した踊りは、一部の識者からはワイセツと非難された。
 が、宝田岩倶郎には青春時代に耳で親しんだ音楽だった。自然と肩が、腰が動きだす。
 九美は祓串を左に右に祓いながら、ゆっくり振り向いた。
 その手から目に見えない力が発せられた・・・・岩倶郎の体を捕らえた。
 ツイストのリズムが痙攣になる。太い腹がビクビクと揺れた。
 はーっ!
 九美が気合いをかけた。
 岩倶郎の腹から巨大な虫が引き出された。ヘビのようなムカデのような、胴長な虫だ。具現化した強欲である。
 まりかが壺のふたを開けた。九美が祓串で虫を巻き取り、壺へ祓い込んだ。
 素早く組紐で壺のふたを封じた。
「重っ」
 まりかは壺を手にして、重量が倍になったのを感じた。
 かちり、ラジカセのスイッチが上がって、音楽は途切れた。
 耳鳴りがするほどの静寂がきた。
 宝田岩倶郎は踊りのポーズで固まっていた。
 9条通りを観光バスが走り抜け、建物を震わせた。静寂が破れる。
 九美は岩倶郎に寄ると、祓串を左に右に祓う。そして、ぱん、と手を拍いた。
「あうっ」
 岩倶郎が声を出した。ぽとり、ズボンが床に落ちてホコリを舞上げた。上着もシャツの首元もゆるゆるになっている。
 ぺたり、啓次が尻もちをついて倒れた。
「お祓いは終わりました。もう、ここで悩む事も無いでしょう」
 九美は静かに告げた。

「な・・・なんか、体が軽くなったような」
 岩倶郎はズボンを引き上げて言う。ベルトを締めようとするが。どこまで締めても腰回りにとどかない。
 ぷるるる、啓次の携帯電話が鳴った。
「はい、佐多でございます。理事長の予定ですか? 今夜は空いておりますが、はい、では6時に」
「どこからだ?」
「岩本市長です」
「市長か! こうしてはいられん、行くぞ!」
 岩倶郎はズボンを手でおさえて走る。よたよた、ペンギンのような足取りだ。
 啓次も腰が抜けた足取りで追う。
「さて・・・」
 九美は出て行った2人を捨て置き、また建物の中央に向かって立つ。祓串を左に右に祓って、一礼。そして、ぱん、と手を拍つ。
 いえーいっ!
 天井から床から、そして壁から、湧いて出て来た。
「ねーさん、あんがとね」
「いやあ、もうダメかとおもってたがね」
 感謝の言霊が九美にかけられた。
 いわゆる地縛霊に近い存在たちだった。堤防の建設と川の掛け替え工事で死んだ者たちは、当時は現場で処分された。ほとんど社会保障らしき事は無い時代だった。それ故、この地に思いは残り続けた。建物は彼らの墓碑の代わりとなっていた。
 が、所詮は死者の魂である。今を生きている者たちの強欲に比べたら微々たる存在。
 わずかな力で、この建物に関わる者たちの心に訴えてきた。しかし、理事長の強欲には全く通じない。
 建物は取り壊しの寸前だった。墓碑を失えば、彼らは彷徨う悪霊にもなりかねない。
「皆様のおかげで、街は水の害より守られております。これからも、永くお願いいたします」
 九美は深々と頭を下げた。
 もう少し時が熟すれば、街の守り神にもなりそうな霊たちである。

 外に出ると、幸平が注連縄を出してきた。
 建物の玄関上に飾る。建物の霊たちに最低限の形ができた。
 九美は祓串を左に右に祓い、一礼した。ぱん、と手を拍つ。
 くすんだガラス窓の中から、霊たちがOKとサインを返してきた。
 また頭を下げ、礼とした。


 さて、宝田岩倶郎は長年積み重ねた強欲から解き放された。腹はへこみ、3段に割れた腹筋を回復した。
 それだけ、彼が腹に溜め込んだ強欲は大きく重かった。
「さあ、今日も元気に仕事しよう。あの古い建物をきれいにして、学園の看板にするぞ」
 がはははっ、と高笑いする。
 が、一部の者たちは背を向けた。
「なんだか・・・最近の理事長は暑苦しい」
「脂ぎってたけど、前の方が静かで良かった」
 なかなかにして、好評価ばかりが返ってくる事は無い。もしかすると、また彼の腹に強欲が溜まるのに、さして時間はかからないかも・・・

 



2. ベトナムから来た女


 ハミ・シェーリは女の子、ベトナムの南側の村で産まれた。
 村では、村の名を冠して名乗る習慣があった。ハミの村に産まれた者は、ハミ某と名乗る。
 戦争が終わって、母はシェーリの手を引き、ホーチミン市へ引っ越した。
 小さな頃から、シェーリは変な物が見えた。人々にまとわりつく雲のような、かすみのような、あるいは虫のような物だ。でも、他の人は見えないらしい。
 ある日、母の体に変な物がたくさんまとわり付いた。母は逃げるように走り、橋から身を投げて死んだ。
 一人になったシェーリを、近所の人はライダンハンと呼んでいじめた。
 シェーリは働いて金を貯めた。飛行機の切符を手に、ベトナムから逃げ出した。行き先は日本だ。



 カーテンから朝の光が差した。
 シェーリは布団から顔を半分だけ出した。
 これは日本に来てから身についた習慣。ベトナムの布団は小さいから、かぶって寝るなんて無かった。何か変な物を感じても、手で顔をおおっていた。寒い日本の布団は大きいので、全身を中に入れられる。
 四畳半ほどの部屋を見渡し、あの変な物が無いのを確認した。やっと顔を全部出して、大きくあくび。
 枕元の時計を見た。6時半、余裕だ。ゆるりと起き出した。

 ここはベトナム人のための寮。ベトナムから日本へ働きに出る女たちのために、ブローカーが確保した建物だ。木造2階建て、水洗トイレなどの設備はまあまあ。
 日本に来る時、日本語学校やブローカーへの手続きなどで、手持ちの金は使い果たしていた。これからは、この寮を出る金を貯めなくてはならない。
 トイレを済まして、食堂へ。
 10人ばかりの女たちがワイワイキャピキャピ、ベトナム語で盛り上がっている。
 入りかけて、シェーリは身をすくめた。
 あの変な物がいる。皆の頭の上を浮遊し、肩の間をすり抜ける。半透明のゼリーのようなムカデが、重力を無視して宙を舞う。人や物質が無いかのように通り抜け、半分を人の中に置いている。誰も気付かない風で、ごく自然に食事をして、話をしていた。
 テーブルの端に座ると、賄いのホアン・マイがご飯とスープを出してくれた。彼女はベトナムからの出稼ぎだったけど、日本に居着いて20年以上らしい。おかずは大皿から自分で取る。
「ライダイハン、顔を上げて食べなよ」
 グエン・ティ・ランがシェーリに声をかけた。この食堂の中では女帝のように振る舞う女。アイラインに口紅、、すで化粧を決めている。
 シェーリは顔を半分上げ、また下げた。ランの頭に、あの変な物がまとわりついていた。化粧した顔と、あの変な物がダブって目に入る。どきどき、胸が高鳴って箸を落としてしまった。
 それは強欲だった。もっとも、宝田岩倶郎が溜め込んだ強欲に比べれば、はるかに薄いものである。ほとんど重さは無く、空気のように人の周囲を浮遊していた。
 シェーリは見えるけれど、それが何であるか知らない。イヤな感じがするから、できるだけ見ないようにするだけだ。
「食事は終わったかい、クルマが来てるよ」
 玄関の方から声があった。皆、一斉に席を立つ。
 送迎のバスが来たのだ。この寮にいる女たちの半数は農場で働く、残りの半数は食品工場で働く。
 クルマの送迎は寮費と共に給料から差し引かれている。寮費は食事代込みだから、給料の半分を超える月もある。多くの子たちは、残った稼ぎの中からベトナムの家族へ仕送りしている。
 シェーリだけが食堂に残った。静かになり、あの変な物も一緒にいなくなった。やっと安心して食事をとる。日本風の食事は薄味だけど、汗をかかないので塩味は少なくて良い。シェーリはベトナムの家族を捨てて来た。稼ぎは全部自分のために使い、貯金していた。
「カームオン、ごちそさま」
 食器をかたづけ、シェーリは自室へ行く。手早くジャケットを着込み、リュックを背負って玄関へ。
 この寮では、シェーリだけが木工家具の工場に勤めている。
 シェーリは玄関前で自転車にまたがり、ペダルに足をかけた。地面を蹴って、寮を後にした。
 この自転車は工場の片隅でホコリをかぶっていた。フレームに少しサビがあったけど、他に問題は無かった。それを譲り受けた。ちょっとキズ入りのヘルメットも一緒にもらった。
 風を切り、シェーリは走る。

 日本に来て2ヶ月、5月末の北海道は暑い・・・らしい。ベトナム人には寒いくらいだけど、乾いた空気は異国に来たと実感させる。
 できるだけベトナムから離れたかった。だから、日本の北の端、北海道を選んだ。
 ベトナムと同じように街があり畑があるけど、木も草も全部違う。ベトナムには無い雪をかぶった山が街を見下ろす。そんな風景の中を自転車で行った。
 シェーリは10分ほど走り、久麗木工家具の工場に着いた。北海道の旭川市は木工家具の製産都市である。
「おはよーごさいまーす」
 工場の裏に自転車を置き、休憩所に入った。大声で朝のあいさつをしたけど、まだ誰も来ていない。小企業の工場は静かだ。
 となりの敷地には工場のオーナーの家がある。休憩所の鍵が開いていたのは、オーナーが開けたのだろう。
 湯沸かしポットに水を入れて、電源コードをつないだ。
 ロッカールームへ行き、手早く作業着に着替えた。髪を束ねて帽子の中へ入れ、準備完了だ。
 シェーリの法的立場は技能実習生。学歴や職歴の無い外国人が日本で働く時、こんな呼び名になる。入国ビザの区分だ。毎年、多くのベトナム人が働きに来てる。中には、寮で賄いをするのホアン・マイのように居着いてしまう人も。
 ここでは、あの変な物を見た事が無い。工場での仕事を選んで正解だったと思う。
 ピーン、ポットがチャイムを鳴らした。湯が沸いた。
「おはよう」
 先輩の工員たちが顔を見せた。休憩所を素通りして、着替えたら工場の方へ行く。ベテランたちは仕事の段取りを済ませてから、休憩所に腰を下ろす。
 シェーリは茶を煎れた。新人にできる段取りは、こんな事くらいだ。
「オッハヨー」
 イントネーション違いの挨拶で現れたのはフィリピンからの技能実習生たち。ミゲル、ジョン、カルロ、男3人組のにぎやかさ。話を聞けば、以前は温泉ホテルでバンドマンをしてたらしい。でも、あまり演奏技術が高くなかったので、解雇された。出直して、家具工場へ来た。
「やあ、お早う」
 工場のオーナー夫妻が現れた。2人とも40代前半の若さ、経営者としては働き盛りだ。ロッカーから書類を出して、上役らしい仕事の段取りを始めた。
 シェーリが茶を出すと、笑顔を返してくれた。
 先輩とベテランたちが段取りを終え、休憩所に入って来た。今日の仕事の書類をもらい、ふむふむと頷く。

 午前9時、工場の機械が動き出した。と言っても、久麗木工家具は零細企業、ポポポポッと聞こえるのは圧縮空気ポンプの音だ。
 ギュイィィィーン、奥でベテランの工員が電動ノコを使い、材木を切断する。素人目には派手な工程だが、木工家具を組む工程のほとんどは音も無く進んで行く。
 指導員の青葉順に指図され、シェーリはサンドペーパーで磨きをする。細かい彫刻や材料の隅は手作業だ。
「急がないで、手先の力を抜いて。磨くんだ、削りじゃない」
 シェーリは指示に肯きながら、手を動かし続ける。
 一方、ミゲル、ジョン、カルロの3人はバフと呼ばれる機械で大きな平面を磨いている。あちらの機械磨きには腕力が必要だ。
 シェーリはサンドペーパーを持つ手を止め、たまった木くずを吹いて飛ばした。視点を変え、近くと遠くの面を見比べる。どちらも同様の滑らかさになれば、作業は一段落となる。
 と、ガラス戸の向こうに見慣れない人物がいるのに気付いた。髪も髭も白くなりかけた年寄りだ。じっと、工場の作業を見ている。
「おっ、久しぶりだな」
 青葉順がガラス戸の向こうへ手を上げてあいさつ。向こうも手を上げて返してきた。
「だれ・・・ですか?」
「久麗木工家具の創業者だ。今は隠居してる。なので、久麗の爺さん・・・皆は久麗爺と呼んでるよ」
「クレージー?」
 シェーリは眉をひそめた。
「そう、クレージーだ。おれら職人には誉め言葉だぜ。おれだってクレージーと言われるような物を作ってみたいけど、出来上がりは・・・まだまだ平々凡々以下なんだな」
 はあ、順は息をついてうな垂れた。
 その時、久麗爺がガラス戸を開け、工場に入って来た。
 シェーリは身をこわばらせた。久麗爺の頭に・・・あれがいた。ニュルニュルとうごめき、シェーリを見つめてきた。
「うちの工場は、いつから子供のアルバイトを入れてるんだ?」
「シェーリは25歳、女ですよ。ベトナムからの技能実習生です」
「25で、女、実習生?」
 久麗爺はまじまじとシェーリをのぞき込む。
「25と言うと、おまえと同い年か」
「です」
 順の答えに、また久麗爺はシェーリを見つめた。その頭でとぐろを巻くのも一緒に見つめてくる。と、それがニヤリと笑った。
「すっぴんか! なるほど、健康的でよろしい!」
 久麗爺は顔面をしわくちゃにして笑みを浮かべた。くるり、踵を返して工場を出て行く。あれも一緒に出て行った。
 シェーリは胸をなで下ろした。
「すっぴん・・・て?」
「シェーリは化粧してないだろ。顔がすっぴんなのさ。それで十代に見えたんだ。日本の女たちは、高校生くらいから化粧を始めるしね」
「けしょう・・・」
 シェーリはほおを叩いた。工場の仕事に化粧は無用と思っていた。そのため、年寄りの目は子供と間違えたようだ。

 休憩後、順はシェーリを誘った。
「今日はスプレーをやってみようか」
 2人で塗装ブースへ行く。工場の隅、気密ドアと換気装置を備えたコンテナが置いてあった。外側には圧縮空気のボンベや排気ダクト、コードやパイプが露出して、大きな動物の内臓にも見える。
 防水エプロンに長いゴム手袋、ゴムの帽子とゴーグル、防毒マスクをして完全防備。スプレーの微粒子が肌に着かないよう気を付けて、やっと中に入った。
 ブース内には90センチ四方のテーブル天板があった。足や棚板も組まれる前の状態で置かれている。
 天板を縦にして、順はスプレーガンを手にした。
「板との距離と角度を一定にして、動かす速度も一定にしてスプレーするんだ」
 お手本のスプレーが始まる。
 シューッ、圧縮空気の噴射音がブース内に反響した。今回は木材のつや出し剤を塗布する。
 1分とかからず、天板の色が変わった。乾燥の後は表面がピカピカ輝くようになる。
 順はスプレーガンをシェリーに渡した。天板をひっくり返し、裏面を向けた。
「さあ、やってごらん」
 シェーリはガンの引き金を握った。シューッ、圧縮空気の反動が手を逆に押した。
 天板の裏面にスプレーをするが、手が波打つようにぶれた。距離と角度を一定に保つ難しさを実感する。
 なんとか裏面の塗布を終え、ガンを握る手の力を抜いた。
 見れば、塗面はムラだらけ。ブチ模様になっている。目につかない裏面なら、なんとか許される出来かもしれない。
「今回は、ここまでにしよう」
 順はスプレーガンを壁にかけ、ドアへ行く。シェーリも続いて、2人はブースを出た。
 エプロンと手袋を脱ぎ、帽子にゴーグルとマスクも取った。
 ここで、順はシェーリの肌を見た。首筋、手首、顔と細かくチェックする。知らない人が見たらセクハラと騒ぎそうだ。
「今のところ、何も出てないようだ」
「何が?」
「溶剤に過敏反応を起こす人がいる。肌に湿疹が出たり、頭痛や目まいになったり、咳やクシャミが出たり、下痢を起こす場合もある。ミゲルは出てしまったので、ブースには入れられない。遅れて出る場合もあるし、明日まで様子見だ。数ヶ月も作業してから出る場合もあるけど。体質を確認しないと、技術を教えられないよ」
 シェーリは納得した。今日は体質チェックが目的だったようだ。

 昼休み、皆は休憩所で食事をとる。近所に住むベテランの中には、自宅に帰って昼食とする者も。
 シェーリも皆と一緒に仕出し弁当だ。みそ汁はオーナーの家のお手製である。
 社長の久麗念努は街のショールームで営業中、留守だ。この場を取り仕切るのは妻の工場長、久麗美智となる。
 今日の昼食には久麗爺がゲストで加わった。最ベテランの志藤とテーブルの奥に陣取った。白髪頭の2人が並んで座れば、他の者は年齢を問わずに若手である。
 わあお、ミゲルが声を上げた。今日の弁当はハンバーグ定食、甘辛なソースの香りがした。ジョンはテーブルのマスタードを取り、たっぷりと上乗せする。フィリピンの彼ら的には、辛味が足りないらしい。
「ベトナムとかフィリピンとか、日本人の職人を育てようとはせんのか」
 久麗爺が不満をもらした。
「日本人を雇っても同じだよ、長く続くとは限らないし。彼らを指導する事で、青葉の技量が上がる。ちょうど、基本をやり直す時期にきていたからね」
「おおっ、そうか。若手とばかり思っていたが、中堅へシフトチェンジする年頃だったか」
 志藤の解説に、久麗爺は頷いた。
 あれがいない・・・シェーリは首をひねった。午前には、久麗爺の頭にまとわり付く物があった。今は見えない、どこへ行ったのかと部屋を見廻してしまった。
 シェーリは茶を煎れ、皆に配った。久麗爺の前にも茶の湯飲みを置いた。近くに寄っても、あれは見えない。
「女の子が加わっただけで、工場の雰囲気が変わるな」
「気のせいだよ」
 にやつく久麗爺を、志藤はぶっちょう面で揶揄する。
「ベトナムの若い女の子が、はるばる海を渡って来るとは。聖武天皇はベトナムや中国の音楽を愛でたと、故事にあったな」
「しょうむ・・・何年前の話しだ?」
「かれこれ1300年ほど前だ。楽器と演奏者が渡来したんだろう。奈良の大仏開眼の頃だ、そこで披露されたかも」
 ひゅう、志藤は息をついて肩をすくめた。
「では、いただきましょう」
「いただきまーす」
 工場長、久麗美智の合図で食事が始まった。
「あたしはベトナムで生まれたけど、4分の3だけベトナム人。4分の1は韓国人よ」
 シェーリがみそ汁を口にして言った。
「なるほど。しかし、聖武天皇が愛でた音楽には高句麗のも入ってる。全く問題は無い」
「こーくり?」
「600年ほど前、明皇帝から朝鮮の国号を下賜され、国名を変えた。さらに、日清戦争後は日本によって独立が保証された事で、大韓帝国と名乗った。で、太平洋戦争後は国連の支援で大韓民国となった。そーゆー訳で、問題無い」
 シェーリは首を傾げるばかり。突然に歴史の講義をされても戸惑うだけだ。
「400年ほど前の時代には、ベトナムやタイに日本人が進出して村を作った記録がある。最近は、韓国もベトナムに進出しているんだね」
「うん・・・戦争でね」
 シェーリは目を伏せ、答えるのをぼかした。久麗爺も問うのを止めた。

 じりりーん、電話が鳴った。対応に出たのは工場長である。
「はい、久麗木工家具の久麗でございます・・・はい、ああ、お爺ちゃんですか。居りますよ」
 久麗美智は向き直り、義父の久麗爺を手招きした。
「永矢摩の水野さんからですよ」
「なっがやっ!」
 久麗爺は箸を置き、震える足で立ち上がる。受話器を受け取り、直立不動の姿勢となった。
 シェーリは目を見張った。また、久麗爺の頭にあれがいた。そわそわ動き回り、震えている。
「はいっ、久麗・・・であります。本日はお日柄も良く、天気晴朗なれど波高く・・・えと、皇国の好配は一瞬であります」
 皆、目をパチクリさせる。久麗爺の豹変ぶりはクレージーと言うよりマッドネスだ。
「はい・・・イスでありますか。はいっ、かしこ・・・どころで、まりました。社員一同、匍匐前進でお待ちいたし・・・がす」
 電話は切れた。久麗爺は受話器を工場長に返す。
「で、何だったの?」
「昼過ぎ、イスを見に来るそうだ・・・わしは急用を思い出した。出かける、後はよろしく」
 久麗爺は出口のドアへ行き、ドアノブを引いてガチャガチャ音をたてた。
「お爺ちゃん、そのドアは押して」
「おう、そっそそ・・・そうだった」
 久麗爺はドアを押して開け、外へ出て行った。
 休憩所に静かさが漂う。皆、箸を止めて見ていた。
 シェーリは息を吸い、また食べ始めた。あの変な物も久麗爺と一緒に出て行った。
 久麗美智は電話を置き、テーブルへもどりかけた。
「あれまあ、お爺ちゃんたら、半分も食べてない」
 久麗爺の弁当を見て、ため息した。年寄りは食が細くなるものだが、食べ残しには肩を落とした。
 順が手を上げた。
「それ、いただきます」
「ありがと、お願いね」
 美智は食べ残しの弁当を順の前に置いた。
「いいの?」
「捨てるなんて、もったいないだろ」
 いぶかしがるシェーリを横目に、順は食べ残しの弁当から箸を付けた。自分の父か息子の物のように、ごく自然に食べていく。


3. 永矢摩神社の女


 昼休みが終わる、時計は午後1時になった。
「青葉くん、森脇くん」
 工場長の久麗美智が呼んだ。
 青葉順と森脇一也は同じ25歳。順は5年目ながら、一也は去年入社で2年目だ。4年間、イギリスに留学していたので、英語は堪能。外国の見学者が来た時などは、必ず案内の声がかかる。
 工場の道路側にはショールームがある。2人は作業服のまま連れ出された。
「これから、お客様が来ます。あなた方に対応をお願いします」
「どんな方ですか?」
「永矢摩神社の水野さんです」
 青葉順は昼休みの事を思い出した。あの久麗爺がマッドのごとく逃げ出した電話だ。
「お爺ちゃんには、この世で2番目に苦手な人なのよね」
「2番目ですか・・・」
 久麗爺は隠居してから、工場の裏に『科学屋』なんて提灯を出す科学オタク。神社とは水と油だろう。向こうの名前も『水』らしい。
「たまには、自分が作った物を自分で売り込んでみなさい。そんな訳で、よろしくね。わたしは買い物があるので」
 と言うと、久麗美智は工場を出て行った。
 取り残されて、順と一也は顔を見合わせた。
 経営者と責任者が逃げ出すような客が来るらしい。どんなモンスターカスタマーかと背筋が寒くなった。
「どうしよ・・・」
「とりあえず、掃除でもしてるか」
 順と一也は掃除具ロッカーへ行く。ほうきを手に、順は床を掃いた。化学ぞうきんを持って、一也は展示してある家具を拭く。
 しかし、すぐ手を止めた。
 ショールームの玄関、ガラス戸の向こうに自動車が来て、停まった。
「なんか、すごいクルマが来たな」
「ちょっと古いのかな」
 長いフロントノーズ、立ち上がったフロントグリル、それだけで年代物とわかるデザインだ。フロントもリヤもウインドウガラスの傾斜はゆるい、空気抵抗を考えていない設計みたい。
「おれ、クラシックカーには詳しくないので」
「軽自動車くらいなら少しは」
 運転席から降りた人がリアドアに回り、ドアを開けた。肩幅ほどの大きなつば付き帽子とロングスカートの女が出てきた。映画かテレビでしか見たことのない場面、2人は掃除道具を手にしたまま見守ってしまった。
 
 女が入って来た。ぴんと伸びた背筋、肩を揺らさない歩き方はモデルのよう。帽子にかくれた顔が、ちょっとミステリアスに感じた。
 運転手はクルマの横に立って、外で待機するようだ。
 帽子のつばを手で上げ、やっと顔が見えた。切れ長の目が光を放ち、男2人を金縛りにした。
「い・・・い、いらっ・・・しゃいませ」
「ウエル・・・カム、レイディ。いふ・・・めい、あい・・・」
 一也は膝が笑っていた。イギリス留学で身に着けたはずの英語が、とんと口から出て来ない。
「水野です。今日はイスを見に来ました」
「うかがって・・・おります。どどっ・・・どうぞ、ごゆっくりご覧下さい」
 一也がいち早く冷静さをとりもどした。
「わ、わたくしは森脇一也と申します。あちらは工場の先輩で、青葉順です」
「よろしく、水野九美です」
 九美は帽子のつばから右目だけを出し、一也と順に笑みをなげた。
 久麗爺の苦手と言うから年寄りを想像していたけど、工場長の久麗美智より若そうだ。せいぜい30歳くらいだろう。
 さて、ゆるりとショールームに踏み込んだ水野久美女史。陳列されたイスを見て、すぐ首を傾げた。
「近頃のイスときたら、こうも線の細い、きゃしゃな物ばかりですね」
「細くても丈夫な木材を使っています。こちらのイスはカナダ産のメイプル、あっちはロシア産のトリネコ材です」
「北海道は木材の産地なのに、イスの材料は輸入ですか」
 木工家具のデザインにも流行がある。小学校の頃から金属製のパイプイスを使い慣れた人達は、脚が細く見えるイスを好む。軽いので移動も楽と言う利点もある。が、細く作るためには固い木材が必要で、国産では良い材料が手に入りにくい時代になった。
 ここで、順が割って入った。
「あっちの方は、エゾマツなどの道産材を使ってます」
 順が指したのはショールームの奥、工場の内部を見られる窓の際だ。太い脚と幅広なひじかけ、真逆なデザインのイスがあった。
「もっぱら、老人ホームなどに納めた物です」
「老人向けなのですか」
 九美は太く作られた背もたれに触れた。
「老人は手足の力が弱くて、イスを手すり替わりにして部屋の中を歩く場合が。多少の体重をかけられても、揺れたり動いたりしないように作ってあります」
「なるほど、大事なところかもしれませんね」
 順が見上げると、九美は窓越しに工場を見ていた。もうイスには関心が無いかのよう。
「あれは!」
 九美は周囲を見廻し、工場へつながるドアを見つけた。もちろん、ドアには『関係者以外立ち入り禁止』のステッカーが貼ってある。
 が、無視して工場へ入ってしまった。

 久麗木工家具の工場には基本的に3つのエリアがある。第1は木材を切断するエリア。第2は切断された木材を削って部品にするエリア。木くずや鉋くずが床に散らばってホコリっぽい。第3は部品を組み上げ、最終的に家具とするエリアだ。塗装は組む前にやる場合と、組んでからする場合と、家具や部品によって違う。
 水野九美は第3と第2の境に立った。順が追いついた。
「あの・・・一般の方は、すみません」
 九美は順の言葉に反応しない。ただ一点だけを見つめている。
 順も視線の先を見た。
 小柄な工員が台に置かれた部品を磨いている。ハミ・シェーリだった。
 九美は首を回して、工場の隅に目をやった。
「あれは、何か?」
「あっ、あれは・・・ですね」
 順は答えに窮した。工場長に見せて、製品化を却下された物だ。
 九美はそれに歩み寄った。
 それは順の思いつきだった。河原を散歩して、多数の流木を見ていた。拾って持ち帰り、1年ほど乾燥させた。乾燥して割れなかった流木の表面を磨き、テーブルを作ろうとした。が、天板に使える流木が見つからずに断念。次ぎに作ったのがイスだった。
 人が座れる強度を保証するために、通常の3倍の重さになる。左右で同じ形の流木をそろえられないから、徹底して左右非対称な作りにもなった。それを見て、工場長は商品にならないと判断した。
 まるでデッドマンズチェスト、と評したのは一也だ。ねじれて曲がった天然の流木を組んだから、角度によっては人骨を組んだようにも見えたらしい。
 九美はイスに腰を下ろした。
 ぎしっ・・・イスがきしんだ。目を閉じ、イスを揺らす。ぎぎっぎ・・・ぎっ、組まれた流木はねじれが増し、曲がりが増え、悲鳴のような音を出した。
「ふむ・・・森の、山の精気が残っている。これこそ木のイス!」
 目を閉じたまま、九美は胸で深呼吸した。大きなバストが揺れた。
「とても良い・・・木材のイスでは味わえない気分です」
「あ、ありがとう・・・ございます。木材ではなく、木のイスですか」
 誉め言葉に、順は頭を下げて答えた。
「これをいただきましょう。おいくら?」
「はっ・・・」
 値段を問われても答えられない、順には値段を付ける権限が無いのだ。それがあるのは工場長と社長である。
 だけど、と考えた。自分が作った物を自分で売り込んでみなさい・・・と言われていた。
 ここは青葉順の試練と決めた。顧客が納得できる値段を提示できるか、営業的センスを発揮して売り込みできるか、自分を試す時だ。
 人差し指を立てて、自分の仕事を値踏みした。
「いち・・・10万円!」
「買った」
 間髪入れぬ返答、順の人差し指が震えた。
 九美は立ち上がる。ハンドバッグから財布を取り、札を数えて差し出した。
「配達と設置も込みでお願いします。その時、壊れたイスを引き取ってくれると、助かります」
「そう・・・ですね。それは、もちろんです」
 順は頷いた。女の細腕では、動かすのも難儀な重量のイスだ。
「と、配達の時には、あの子を必ず連れて来なさい」
 九美は振り返って指した。その先にいたのはシェーリだ。
「はい、配達では彼女も一緒に行きます」
 トラックに載せて降ろして、一人ではつらいと思った。2人で行くのは好都合だ。

「あれを10万円で売った!」
 工場長、久麗美智は戻って来て商談成立を知った。青葉順と森脇一也に客対応をまかせたが、結果が出るとは予想してなかった。
「売ってしまったものは、しかたないわねえ。でも、品質保証が問題ね」
「すみません。経年変化とか劣化とかは・・・テストしてません」
 順は工場長の指摘に頭を下げた。
 工場で組んで、まだ半年と経ってない。今のところ、組みがゆるんだり、新たな割れが出たりはしていない。
「まあ、神社だし。1年くらいは時々行って、経過を観察なさい」
「はいっ」
 ユーザーの使い方は、時として製作者の想像を超える事がある。製造者責任と言われても、想定外の使い方をされて壊れるのは不本意だ。
 最ベテランの志藤が来て、順のイスに触れた。
「これが10万ね。おれなら・・・20万は付けたいな」
「早く、自信持って値付けできるようになりたいです」
 志藤がイスの手すりへ置いた手に力を込めた。みしり、イスがきしんだ。
「いや、せいぜい・・・2千円かな。元の材料費はゼロなんだし」
 ベテランの厳しい値付け、順は腰が砕けそうになった。


4. 伝説多き神社


 軽トラックの荷台にイスを載せ、青葉順は久麗木工家具を出た。
「わあっ」
 シェーリは助手席で声を上げた。街の風景が珍しくてたまらなかった。
 ベトナムから来て、寮と工場を往復するだけの生活。休日は疲れて寝ていた。配達とは言え、工場の外に出るのは初めてだ。
 国道から少し入った所に永矢摩神社の鳥居があった。
「うおっ」
 順はトラックを鳥居の前に止めた。
 トラックから降りて、鳥居に近付いて見上げた。高さは7メートルほどか。これより大きな鳥居を見た事があるが、どれも鉄製だったりコンクリートだったりした。
「すごっ、一本木の柱だ」
 柱に触れ、本物の木であるのを確認した。直径は1メートル以上の丸木の柱、大きな割れ目が根元から上に伸びていた。妙な塗装はされていない、天然の木の風情を生かした鳥居だ。木工家具の作り手として、いつも薄い板や細い角材を相手にしてきた。太い木の柱は、それだけで尊敬の念がわいてくる。
 大昔、千年以上前の出雲大社では、数本の丸木を束ねて柱にしたと云う。そうして、高さ20メートルに達する所に神社の本殿を建てた。そんな時代の記憶が鳥居に込められているのかもしれない。
「その木で家具を作ってみたい?」
 シェーリが言ってきた。順は間髪入れずに首を振る。
「なんて事を言うんだ。そんなもったいない事、できる訳ないだろ。でも、まあ・・・寿命で鳥居が交換なんて時になったら、これをもらって何かを作ってみたい・・・かもね」
 ふん、と鼻息で境内を見た。
 本殿へ続く道の右側に大木があった。幹の根元で太さは2メートルほどか、高さは10メートル以上。御神木として注連縄飾りがされている。
 が、5月と言うのに葉が無い、木の根元は落ち葉だらけだ。枯れ木かと疑ってしまった。おかげで境内は明るく、奥の本殿が輝いて見えた。
 木の下では白と赤の衣装の巫女が2人、竹ぼうきで落ち葉を掃いている。
「こんにちは、久麗木工家具です」
 順があいさつの声をかけると、背の高い巫女が手を上げた。工場に来た水野九美と気付くのに、衣装が違うから少し時間がかかった。
「いらっしゃい。もう来てくれましたか」
 ほうきの手を止め、九美は笑顔を返した。順よりもシェーリをまじまじと見つめる。
 ぽとり、九美の頭に葉が落ちてきた。
「この木、大丈夫ですか?」
「大ババ様は気まぐれなので。何かあると、こうして葉を散らしては、我らに手間をかけさせる」
 九美は木を指して言った。
「大ババ様?」
 順が立て看板を見れば『御神木・ヌサコルフチ命』と書かれている。
 木工家具職人としては、製材の木目を見て木の種類を推測できる。が、地面に生えてる木の種類を見分けるのは・・・うとかった。
「ヌサコルフチ・・・て、どんな神様ですか?」
 九美は我が意を得たりと笑みを浮かべた。


「見よ、カムイミンタラを。ある日、あの高天原に神々が集まった」
 九美は大雪山を指して言った。境内の木々の間から、大雪山の白い頂のあたりが見えた。
 旭川から見る大雪山は巨大な火山の外輪山だ。東から旭岳、中岳、黒岳と続く標高2000メートル級の火山列。それらの山並みの向こうに直径2キロを超える噴火口がある。
 ふーん、順は眉をかきながら聞く。
 カムイミンタラは大雪山のアイヌ語名だ。神々の遊ぶ庭、と訳される。日本神話の高天原と喩えるには良い場所かもしれない。

 高天原に神々が集った時、ある神が、後に上川盆地と呼ばれるこの地を見下ろして言った。
「あそこで暴れている八つ首の竜を捕り押さえられたら、あそこは人が住める豊穣の地になるだろうに」
 おう、と声を上げて応じたのはサマイクル命である。
 剛力に優れた神は矛を手にして、八つ首竜に立ち向かった。
 竜は大暴れしたが、ついにサマイクル命によって封じられた。
 平定された地にヌサコルフチ命が降り立つ。戦いで荒れ野となった地に草木を生やし、豊穣の地にした。
 人が住むようになり、ヌサコルフチ命は豊穣を守って木に姿を変えた。

「この木はヌサコルフチ命のご意志を継いで、この地の豊穣を見守っている」
 えへん、と九美はせき払い。
「八つ首竜とか・・・すごい怪物がいたんだ。島根県の出雲あたりにも、同じような怪物がいたな」
 順は首を傾げて言う。
 と、九美は旭川市の水害ハザードマップを出した。
「余所の伝説と比べる必要は無い。見よ、今も八つ首竜はいる。大きくは石狩川、牛朱別川、忠別川、美瑛川。その支流にオサラッペ川、ウッペツ川、ペーパン川、ポン川・・・等々、八つ首では数えきれない頭がある。ちょっと油断すれば、すぐに竜は暴れ出す」
「なるほど、現実の災害を反映した伝承ですか」
 順は腕を組んで頷いた。
 旭川の地名はアイヌ語のチュプベツ、朝日が川面を照らす所を訳して名付けられた。大雪山の東から、北から、南から流れ出した幾筋もの川が神居古潭の手前で合流する。現在の街の中心部は埋め立てと堤防で人工的に造られた地形である。それだけに、大雨や洪水には弱いはずの地だ。幸いにも、ここ数十年ばかりは死者が出るような洪水災害に遭っていない。サマイクル命の御利益であろうか。
「言い伝えは、まだ終わらない」
 九美は順とシェーリを見すえた。

 旭川は豊穣の地となり、多くの人が住むようになった。
 が、その人が災いを持ち込んだ。
 ヌサコルフチの地で人々の生活は豊かになった。が、人の心に強欲が芽生えた。ある者は、となりの家の富をうらやみ、向かいの家の収穫を妬んだ。またある者は、おのれの富を増やそうと他人を騙し、盗みまでした。
 ついに、人々は互いに争うようになってしまった。
 再度、サマイクル命が立ち上がる。
 人々の強欲だけを取り集め、封じようとした。が、人々の強欲はあまりに重かった。
 とうとう、サマイクル命は強欲の重みで岩になってしまった。

「そして、サマイクル命は永矢摩神社の境内で、今も人々の強欲を抱えて放さずにいる」
 九美は大木の反対側を指した。
 黒っぽい大岩が鎮座していた。高さは2メートル、巾は5メートル以上か。全体は風化で丸みをおびている、元は川の中にあった岩だろう。注連縄飾りがほどこされ、御神体然としている。
 順は腕組みのまま考えた。この場所に大岩があると言うのは、大昔の大洪水が原因だろう。層雲峡あたりの大岩が、土石流となって下って来たと思うしかない。層雲峡は旭川の上流で、50キロ以上も離れているけれど。
 シェーリは足がすくんだ。
 あの変な物が岩にまとわりついていた。上の方に1つがうろうろ、別の1つが地面からにゅるりと出て表面を這う。ずっと見てきたのは、人にまとわりついているところ。岩にまとわりつくなんて、初めてだ。
 九美がシェーリの肩に手を置いた。
「あれが見えるか、感じるか? 大ジジ様の岩は、いつもあれらと共にいる」
 シェーリは九美を見返した。
「あなたも・・・あれが?」
 シェーリは身震いしていた。
「あれは人の強欲だ。大ジジ様、サマイクル命は街の人々の強欲を捕らえたが、ああして、時々は漏れ出て来る」
「ごうよく・・・」
 シェーリは説明に頷いた。自分以外にも、あれを見る人がいる。自分だけではなかった・・・少し安心した。

 ぽとり、また木の葉が九美の頭に落ちた。
「わかったから、大ババ様、ちゃんと掃くから」
 九美はキレた。
「まりか、あれをかけて。無音ではノリが悪い」
「はーい」
 背の低い巫女が応えた。艶やかな肌は10代の若さ。まりか、と名がわかった。
 まりかが引きずるように出したのは、巾60センチを越える大きなラジオカセット。4スピーカーのごついやつだ。上部のピアノスイッチを押し込むと、中でカセットテープが回った。何年前の代物か、少なくとも20年以上前の代物だ。
 タタッ、タッタタン・・・リズムに乗ったドラムスの音が響いた。
 順には曲名がすぐわかった。半世紀前のヒット曲、ベンチャーズの『ウォーク・ドント・ラン』だ。
 低音を効かせたエレキベースギターが空気を震わせる。アナログ再生の音は独特のオブラートがかかった柔らかさ、豊かな重低音が時代の特徴である。
 九美がほうきで払えば、木の葉が舞った。
 でも、散らばらない。ほうきのタクトに従うかのように、葉はひとつの流れを作った。
 シェーリもほうきを手にした。九美と並んで木の葉を掃いていく。葉は吸い込まれるようにちり取りの中へ入った。
 魔法かよ・・・順は不思議な物を見ている気分。久麗木工家具で働き始めた頃も、先輩職人たちの技は魔法のように見えた。
 曲が終わる頃には、すっかり御神木の根元はきれいになった。
 まりかがカセットの停止ボタンを押した。
 ふうう、シェーリは大きく息をついた。何か知らない力が湧いて出た気分。
「実に良い。どうかな、この神社で巫女になりなさい。おまえを試したくて、大ババ様は葉を落としたのかも」
 突然、九美はシェーリにリクルートを仕掛けた。
 が、シェーリは首元から小さな十字架のペンダントを出した。
「あたし、カトリックなので。異教のお手伝いは、ちょっと」
「全く問題無い、日本は八百万の神の国であるぞ。イエスでもムハマンドでも、新しき神の一柱として、いつでもウエルカムだ」
 太平洋戦争前、ベトナムはフランスの植民地だった。その時にキリスト教が広まった。ハミの祖母は、村で土着の伝統宗教に関わっていたらしい。ベトナム戦争後、母はハミと共に都会へ出て、仕事の上でキリスト教会を知ったようだ。そうして、母娘はカトリックに入信した。
 順が首を振った。
「こっちはウエルカムでも、向こうは野蛮な宗教と見下てますよ。こっちの宗教に関わる事は、悪魔に魂を売るに等しいとか、真の神を見ようとしない開き盲とか、異教徒を罵る言葉は豊富に持ってる連中です」
「ずいぶん詳しいね」
「ええ、はい・・・昔、布教を手伝わされた事が」
「で、今は無宗教か」
 はい、と順は頷いた。
 皆を見下ろす大ババ様の木の枝、まだ1枚の葉が風に揺れていた。

 順は軽トラックを神社の裏に廻した。
 トラックから2人がかりでイスを下ろし、社務所へ運ぶ。入り口は石積みの階段で、中は板張りの廊下だった。
「へえ」
 広間に入り、順はうなった。
 30畳ほどの広間が2部屋続きになっていた。床が板張りで、一方には小さな舞台もある。
「そこの真ん中へ置いて下さい。隅にあるのが、壊れたやつ。持ち帰って、後はよろしく」
 九美の指示に従い、順とシェーリはイスを部屋の中央に置いた。ごっ、床板が重い音をたてた。
 順は部屋の隅へ行き、壊れたと言うイスを見た。
 主として、直径10センチ以上の丸材を組んだ頑丈そうなイスである。体重200キロ超えの相撲取りでも余裕で座れただろう。脚の裏に久麗木工家具の焼き印を見つけた。日付は・・・30年以上前だ。久麗爺が現役で家具を作っていた頃の物だ。
 が、ひじかけがぐらつき、座面を支える梁がおれている。どんな座り方をすけば、こんな壊れ方になるのか想像がつかない。このイスの交換となれば、同じように頑丈な物を考えるのは当然か。
 イスの壊れから、床のキズが心配になった。
 ごっ、床板をたたいてみた。重い音だ、へなちょこな建売住宅の柱材より厚そうな床板である。イスが壊れても、床の心配は無用か。ここは木工家具職人の経験がものを言う。
 舞台へ目をやると、薄いカーテンのすき間からスピーカーが見えた。でかい、口径60センチ以上のウーファー、バスレフ式のスピーカーボックス。その上には巾40センチ越えのホーン型スピーカー、口径20センチに10センチの中高音用スピーカー。ヘビーで重低音マニアなオーディオシステムだ。
「ここって、宴会場ですか、カラオケとか?」
「そんな風に使う事もあります。昔の神社には色んな役割がありました、集会場とか災害の避難場所とか。孤児院や病院・・・特に産院は大切な役目でした。稚児や巫女、神社に女がいる理由でもあります。明治以後、多くの寺院や神社が破却され、たくさんの伝統が失われて・・・村で年頃になった男女に、男と女の道を教えるのも大事な事でしたよ」
「男と女の・・・」
 九美は順とシェーリに目をやる。
「あなた方にも、男と女の道を教えてあげましょうか?」
「いえ、けっこうです」
 シェーリは両手を上げ、首を振る。順も首を振りつつ、舞台の方へ近寄った。
「10代の前半に、しっかり男と女の役割を教えないと、LGBTとか心の病に取り憑かれがちです。現代の学校教育は会社の従業員や工場作業員の養成を主体にして、少子高齢化を促進しています。幼い頃からの性教育をなおざりにして、性的マイノリティーを量産してしまった」
「そんな見方もありますか」
 九美の言葉も半分に、順は舞台のカーテン裏を見た。
「ラックスマンだ」
 ガラスケースの中に真空管アンプがあった。音が柔らかいと、アナログなオーディオマニアには垂涎の品だ。電気を入れると、真空管が赤く輝いて、それも音楽の一部になるのだ。プリアンプからイコライザーへ、そして左右独立のメインアンプ、出力は片側だけで100ワット以上だろう。
 さらに大ぶりなレコードプレーヤーもある。奥の棚にはLPレコードのコレクションがずらり並んでいた。包装のビニールの煤け具合から、新しくても半世紀前と見た。
「それは動きませんよ。夫が死んだ時、一緒にプッツンして電源も入りらなくなりました」
 九美の言葉に、順は後頭部を殴られた気分。水野九美が既婚者と知ってしまった。けど、今は未亡人らしい。
 アンプのスイッチを入れてみた。電源は入らず、真空管は暗いままだ。全くウンともスンとも言わない。
 プリアンプとメインアンプの電源が連動している場合もある。機械の後ろをのぞいた。
 電源コードをまとめる大きなタップコードがあった。そこから壁のコンセントへつながっている。
 壁の中の電線やタップコードが断線していれば、全ての機械に電源が入らない理由になる。断線は、ショートよりは良い故障だ。機械を傷めたり、火災の危険が伴わないから。
「久麗の爺さんなら、こんな機械をいじるのは楽しいだろうけど」
「以前、お願いしました。でも、腹が痛いとか言って、それっきりになりました。街の電気屋さんも、この手の機械の修理を受けてくれなくて」
「腹が痛いか・・・かもしれない」
 順は会社での事を思い出した。久麗爺は水野九美からの電話を受けるや、あわてふためいて逃げた。

 壊れたイスを軽トラックに積み、順とシェーリは帰ることになった。
「また、いらっしゃい、ぜひに」
 九美は含みのある笑みで2人を見送った。まりかは笑みも無し。
 帰り際、トラックは鳥居前を通る。
 助手席のシェーリは、鳥居越しに注連縄飾りの大岩を見た。あの変な物がまとわりついて動いていた、さっきより多い。
 人の強欲と説明されたけど、それだけだろうかと考えてしまう。
 あれと目が合うような気がして、シェーリは窓を閉めた。
 ダッシュボードにパンフレットがあると気付いた。見れば『永矢摩神社祀り・春』と題されている。
「来月、この神社を中心に祭りがあるってさ。シェーリも参加してみれば」
「でも、あたしはベトナム人で・・・カトリックで」
「今は旭川に住んでる。参加資格は十分さ、日本は八百万の神の国だから」
 ははっ、順は笑って、アクセルを踏み込んだ。
 シェーリはパンフレットの続きを読んだ。春から秋まで、1年の祭が書かれていた。

 5月初頭、サクラが咲いて、北海道に春が来る。中旬からは田植えが始まる。
 6月中旬、田植えが一段落したら、祭りの季節だ。田畑には水が欠かせないので、雨乞いの儀式を含んだ祭が多い。
 7月、時期的には、古代エジプトの新年祭の頃とかぶる。ナイル川の増水期を1年の始まりにしたと伝えられる。それが東洋に伝わり、洪水で恋人たちが会えなくなる七夕の伝説となった。古代ローマもエジプトの暦を使っていたので、皇帝ジュリアス・シーザーは新年の最初の月に、自分の名を冠してJULYとした。
 8月後半から9月にかけて、収穫前の祭が行われる。田畑は多くの水を必要としない時期、穏やかな天候を祈る祭になる。
 収穫が終われば、冬支度で忙しく、祭などやってる暇は無くなる。

 北海道において、冬の前後に行われる例外的な祭は、アイヌのイオマンテ祭。特にクマのイオマンテは有名だ。冬眠の前、または冬眠明けに、クマは山から人里に姿を現す場合が多い。クマへの警戒を忘れず、クマを恐れずに立ち向かうための祭だ。
 明治以後、多くの入植者が北海道に来た。クマへの警戒心が薄かったため、多くの人が犠牲になった。1915年(大正4年)の三毛別事件は10人以上の死傷者を出したクマの襲撃である。

 現代、真冬の北海道で多くの祭が行われている。それは商店街や行政の主導によるもので、神社が関わる祭は無いと言ってよい。入植者が本州方面の祭を持ち込んだのは別だが。


 工場に帰ると、もう終業時刻だった。
 順は倉庫に向かった。
 途中まで作ったドラムスを引っぱり出した。これは仕事とは関係無い自主製作の物だ。久麗木工家具では、社員が自主製作をするために工場の設備を使うのを許していた。
 ドラムヘッドを指ではじいた・・・ぽっ、音は出ない。
「あちゃあ、すっかりゆるんでる。音が出るように締めるのは大変だなあ」
 ゆるんだドラムの皮を指でなぞり、途方にくれた。ネジ止めなので調律はできるけど、張力を一様にするのが難しいのだ。
 帰り支度のミゲル、ジョン、カルロ、フィリピン3人組が寄って来た。
「アオバさーん、ドラムスやるんですか?」
「これに出よう・・・なんて思ったんだけど、ちょっとね」
 順は祭のパンフレットを3人に見せた。うおっ、元バンドマンたちの顔つきが変わった。


5.3匹まとめてお祓い


 月が進み、6月になった。
 テレビは本州方面の梅雨直前情報を流すが、北海道はカラリと晴れが続く。
 旭川は真夏日の季節が来た。湿度が低いので、朝夕の気温は10度近くまで下がることも。
 この日は休日だった。
 でも、無人のはずの久麗木工家倶の工場で、何かの音がしていた。
 タン・・・タン・・・
 青葉順はドラムヘッドのネジを少し回しては、スティックでたたいた。見た目はピンと張ったドラムヘッドながら、たたく場所で音が違ってしまう。真ん中と縁で音が違うのは当然として、右の縁と左の縁で音が違ってはいけない。
 これは仕事ではなく、自主製作。楽器製作は久麗木工家倶の事業に入ってない。
 タン・・・タタン・・・
 ひたいにうかぶ汗をぬぐい、またスティックでドラムヘッドの縁をたたく。首をひねりつつも、一様な音になりかけて、少し笑みがこぼれた。
 立ち上がり、外に向かった。
 久麗木工家倶の工場は平屋だが、屋根が高い。日照で屋根が熱くなっても、作業をしている地面近くは暑くならない。それでも、屋内には人が出す湿気が充満しやすく、蒸し暑く感じることもある。外に出れば、6月の爽やかな風を感じられた。
「休日出勤とは熱心だな」
 久麗爺が声をかけてきた。
「仕事じゃなく、趣味の自主製作です」
「あれが?」
 久麗爺は工場の中を見る。順が調律していたドラムセットに目をとめた。
「演奏技術が足らない分は、他と違う楽器で目くらましをかけようと思いまして」
 久麗爺は工場に入り、作業台上のスイカに触れた。一方にはドラムヘッドが付けられ、一方は穴になっている。中をのぞけば、木組みの補強材があった。皮だけではスイカの球形を維持できない。
「きれいな円と円の骨組みで、ちゃんと球体になってるな。良い腕だ」
「当麻のデンスケスイカですよ。皮がしなびる前にワックス処理をして、表面の模様を維持しました。音が柔らかで、良い感じです」
「去年、工場でスイカを食べてたのは、これを作るためか」
 当麻のデンスケスイカは夏の北海道のブランドスイカだ。直径40センチを超える大物だけに、デンスケの名が与えられる。
「こっちはカボチャか?」
「和寒で買ってきました。良いバスドラムになりました」
 順はカボチャドラムをたたいた。どーん、低音で響いた。
「これはアトランティックジャイアントか。札幌の方で作ってるのはテレビでみたけど」
「旭川の近くでも作ってます」
 アトランティックジャイアントと呼ばれるカボチャは、スーパーの店頭に置かれない品種だ。直径は60センチ以上、重さは60キロから70キロに達する事も。普通はブタや牛の飼料になったり、畑の肥料になったりする。味が・・・らしい。
 うーむ、久麗爺があごをなでた。いつもの科学的思考に入った様子。
「シンデレラが乗る馬車なら、やはりこのお化けカボチャの馬車だな。でも、こんな不味いカボチャを食べる者は、社会の最貧困層だけだ。地面で育つカボチャの馬車に乗った時、最貧民から王子の嫁へ出世する物語に花が咲く。木の実のリンゴやモモの馬車だったら、シンデレラは初めから貴族になって、出世物語にならなくなる」
 順は返す言葉につまった。
 カボチャの馬車はウオルト・ディズニーがアニメ映画の中で作った話だ。ある意味で、主役のシンデレラより有名なアイテムになった。アニメの元になったペローやグリムの童話に馬車は無い、シンデレラの心を支える木は出て来るが。
「こ・・・これは馬車ではなく、ドラムです」
「おお、そうだったな」
 がはははっ、久麗爺は大笑いした。


 ききっ、金属音に窓の外を見た。
 シェーリが手を振っていた。
「おやおや、そっちも自主製作するの?」
 順が外に出て迎えると、シェーリは小さく首を振る。
 見ると、自転車のサドルに手ぬぐいが巻かれていた。取れば、座面が大きく裂けている。断面は鋭利で新しい、ナイフで切られたよう。
「替えがあるかと思って」
 うん、と順は頷いた。だれが、なぜ切ったか。それは問わない。
 倉庫には、何台か錆び付いた自転車が放置されていた。車輪やハンドルが無かったりするが、他の自転車のために部品を取られていた。
 残っていたサドルは、表面がひび割れだらけだった。それでも、バッサリ切れたのよりは乗り心地が良いはず。
 と、久麗爺が寄って来た。
「もっと良いものがあるぞ。シンデレラが乗るには古びて良い自転車だが、女の子が固いサドルに座っちゃいかん」
 科学屋から持って来たのはクッション入りのサドルカバーだ。ひび割れたサドルにかぶせ、一回り大きなサドルになった。指で押せば、プニと柔らかい。
「ありがとう・・・ごさいます」
 シェーリが笑みで礼を言う。えへん、胸を張る久麗爺。
 シンデレラと魔法使いのお爺さんか・・・順は首をかしげた。

 ジリリリーン、工場の事務室で電話が鳴った。
 休日なので、電話機の留守録が自動対応するはず・・・ジリリリーン、切り替わらずに鳴っている。
「設定し忘れか・・・」
 久麗爺は事務室に入って受話器を取った。
「はい、お待たせしました。久麗木工家具ですが、今日は・・・はいっ、であります! ・・・もちろん、何はともあれ、天網恢々がバルチックな・・・すぐ行かせます!」
 久麗爺は受話器を置き、留守録のスイッチを入れた。
 さて、よろよろと事務室を出て、久麗爺は順とシェーリを見つけた。駈け寄り、2人の手をとった。
「おお、おまえたち、ちょうど良い。緊急だ、アルバイトして行け。永矢摩神社で用事だ」
「ながやま?」
 2人は顔を見合わせた。
 久麗爺は科学屋から手押しのワゴンを出して来た。載っているのは電気テスター、予備の電線ロール、タップコードにハンダ鏝などの電気道具だ。
「ステレオを修理しろとさ。なあに、ちょちょっと断線を見て、修理するふりをしてな。直らなくっても、その道のプロじゃないし」
 財布から札を出して、順に握らせた。社用バンのキーも渡す。
「じゃあ、そういうことで、わしは腹が痛い・・・あっあぁっ」
 そう言うと、久麗爺は両手で頭を抱えて科学屋に入ると、戸を閉めてしまった。どたん、ガシャン、何かの音が聞こえた。
 順はシワだらけの札を手でのばした。1枚と思ったら、2枚重ねだった。
 1枚をシェーリに渡し、バンを指して誘った。
「腹が痛いのか・・・しゃあないさ、もらってしまったし。ちょっと行って、義理をはたしておこう」
「ぎり?」
 シェーリには初めて聞く日本語だった。
 久麗木工家具のシンデレラは、カボチャの馬車ならぬ営業用のバンに乗り、お城ではなく神社へ出かける。


「いらっしゃい、よく来てくれました。あなたがたが来ると思ってましたよ」
 水野九美は順とシェーリを出迎えて言った。
 今日は赤い緋袴の巫女衣装、こちらも似合っている。場合により、神職と巫女の衣装を使い別けていた。
 久しぶりに来た永矢摩神社の境内は暗い。大ババ様の木、御神木ヌサコルフチ命の木は緑の葉を茂らせ、地面に影を落としていた。
 あいさつもそこそこに、順とシェーリは中の広間へ入った。真ん中には流木を組んだイスがある。
 舞台のカーテンを開くと、エレキギターとギターアンプを見つけた。キーボードもある。前回はカーテンのすき間から見たので、気付かなかった物。
「それも夫の物でした。わたしたちは演奏などしないので、良かったらさし上げますよ」
 順はギターに触れてみた。弦はゆるんで、指ではじいてもプラプラ揺れるだけ。きちんと調律しなければ演奏できない。キーボードも音が出るか怪しそうだ。
「そうですね・・・それなら、もらっちゃおうかな」
 フィリピンの3人組にギターとキーボードをまかせれば、自分のドラムと合わせて即席のバンドができる。祭へ参加する道が開けてきた。
 順はアンプの裏に回り、壁のコンセントからタップコードを抜いた。
 テスターの針をコンセントに挿せば、ピンとメーターの針が振れた。ここまでは電気が来ている。
 次はタップコードだ。アンプ側のコードを全部タップコードから抜いた。
 テスターの針をタップコード入り口と出口のコネクターに挿した・・・反応が無い。どうやら、これが断線しているようだ。
 久麗木工家倶の世話になってから、さんざん久麗爺に仕込まれた技術が役に立った。やっと、そんな場面に出くわした。
 タップコードを調べると、ショート防止のヒューズ入りだ。最近はブレーカー機能付きが増えて、ヒューズ入りは絶滅危惧種の家電製品と言える。
 弱ったな・・・順は腕組みした。故障のひとつは分かったが、予備のヒューズは持って来てない。
「そうだ、予備のタップコードがあった」
 持って来た荷物に電気ハンダ鏝用のタップコードがある、と気付いた。
 さっそく、予備のタップコードを壁のコンセントに挿す。そして、アンプのコードたちをザクザクとつないで挿した。
 前に回り、アンプの電源スイッチをONにした。真空管が赤く光り始めた、こちらは故障してない。ミニチュアのビル街のようにも見える光景だ。
 ぶん・・・軽いハム音がスピーカーから出た。
 アナログオーディオ機器の特徴を示す音だ。デジタルオーディオ機器でも同様のノイズはあるけれど、聞くのが不可能なほど小さなノイズになっている。
 レコードプレーヤーの電源スイッチもONにした。棚の方へ行き、レコード盤を物色した。
 この前はラジカセでベンチャーズをかけていた、と思い出した。曇ったビニールに包まれた紙ケースから、ベンチャーズのシングル盤を取り出す。
 盤をターンテーブルに置き、ノブで毎分45回転を選択した。
 ピックアップヘッドを回る盤の外端に置くと・・・ばち・・・ぱちっ・・・プラスチックの盤とレコード針が擦れ合い、静電気ノイズがスピーカーから出た。
 エレキギターの軽快なリズムが響いた。ベンチャーズのヒット曲で、彼らの代名詞のひとつ、パイプラインだ。建物が大波で揺れるように感じた。あわててボリュームをしぼる。音量がマックスになっていた。
「おや、もう直ったのですか」
「ええ、機械の故障ではなく、タップコードのヒューズが断線してただけでした」
 九美は頷くと、舞台に背を向けた。
「止めて下さい。お客様が来ます」
 シェーリも九美と同じ方を見た。何かが来る、それを感じた。
 順はレコードプレーヤーを止めた。広間に静寂が来た、腹に痛みを感じて手をあてた。

「姉様、お客様です」
 まりかの声がした。
「入ってもらいなさい」
 久美は入り口を向いて待つ。
 どやどや、足音を響かせて3人が入って来た。
 永山商店街の会長、伴代造は太い腹を揺すってきた。銀行の永山支店長、金子斡召は広い額を輝かせた。ホームセンターの店長、萬屋万太郎は新製品の注連縄を抱えていた。
「もうすぐ、田植え後の祭ですなあ。また、露店とか山車の準備とか、よろしくお願いしますよ」
 伴代造は100万円をかけた白い歯を光らせる。だが・・・今は女だけになった神社に甥っ子を婿入りさせ、乗っ取ってくれよう・・・野心が歯の隙間から漏れていた。
「祭りの協賛金は順調に集まっています。となりの公園に設営するステージの費用は、去年より多くかけられそうです」
 金子斡召は広い額をなでて笑みを投げる。だが・・・国道に近い一等地に非生産的な神社があるなんて、敷地の半分なりとマンションにして再開発したい・・・さらに胸の中の電卓をたたくのである。
「新しい注連縄飾りが手に入りました。虫が付きにくく、カビも生えません。家庭の祭壇にぴったりです」
 萬屋万太郎は注連縄を手に信心深さをアピール。だが・・・この祭で新商品をアピールすれば、大もうけ間違いなしさ・・・信じるのは売り上げ向上の方である。
「ちょうど、新しい趣向のお祓いができるようになりました。ご覧にいれましょう」
「新しい趣向ですか」
 久美は順を向いてステレオを指す。機械を動かせの指示と理解した。
 いいのかなあ・・・と順は首を傾げて、レコードプレーヤーの電源を入れた。さっきのレコード盤が乗ったまま回り始めた。
 ピックアップの針がレコード盤におりる・・・ぱちっぱちっ、静電気ノイズがスピーカーから出た。
 まりかは久美の目配せに肯き、無言で棚から壺を取り出した。
 エレキギターの音が響いた。ベンチャーズのヒット曲『パイプライン』だ。
 久美がゆるりと両手を大きく振り、舞い始めた。巫女がベンチャーズの調べで舞う。
 和装とエレキギターは意外とミスマッチではないかも、順は見ながら関心した。
 伴代造、金子斡召、萬屋万太郎の3人には青春時代に馴染んだ曲だ。ほとんど忘れていたが、体は覚えていた。自然と肩が踊り出す。
 そして・・・ベンチャーズの代名詞とも言えるテクニック、右手で弾きながら左手をスライドさせるトレモロ・グリッサンド!
 テケテケテケ、エレキギターの音に合わせ、久美の手が3人に向けられた。
 その手から、力が発せられた。
 ぽわっ、3人から半透明な虫が飛び出した。
 ひっ、シェーリは身がすくんだ。
 3人は肩が踊りの途中、体は固まっている。
 3匹の虫たちは3人の頭で踊っていたが、やがて離れて久美の近くで踊る。ベンチャーズで死霊の盆踊りだ。
 そして、もう一度トレモロ!
 テケテケテケ、久美の手から放たれる力が虫たちを捕らえた。
 まりかが壺のふたを開けた。
 壺に虫たちを祓い込んで、ふたを閉じる。
 曲が終わり、針が上がった。ピックアップのアームは自動で定位置へもどる。
 まりかは組紐で壺を封じた。さらに、祓鈴を鳴らして鎮めた。

 静けさが広間を支配する。
 久美は置いてあったイスに腰を下ろした。ふう、と息をついた。
「やはり、きちんと身形を整えてするべきでした。素手でお祓いは・・・きつい」
 首を振って、今回のお祓いを反省した。
 1匹だけなら薄い強欲だった。それでも、それが3匹もいた。それを一度に祓った、力を使い果たした気分だ。
 3人の客は踊りの形で固まっている。
 まりかが3人の前に立ち、りりーん、祓鈴を鳴らした。
 どっ、3人は尻もちをついて倒れた。頭を振り、意識をとりもどす。
「おっとと、何をしてたんだっけか・・・」
「えと、今日は融資先会議の途中で・・・」
「来週のチラシの見本が来る頃だけど・・・」
 3人はそれぞれの用事を思い出した。
 どやどや、足音を残して3人は広間を出て行った。
「何だったんだ・・・あれは?」
 順が口が開いたままだ。何か不思議なものを見た、それだけは分かった。
 久美はイスに腰かけたまま、順を見た。
「あれが見えたのですか。あれは強欲です。人の中で育ち、人の欲望と共に大きくなります」
「ごうよく?」
「決して悪い事ばかりではありません。人の向上心とも密接な存在です。でも、それが過ぎると、他人の成功を恨んだり妬んだり、さらには盗んだり奪ったり・・・あげく、身を滅ぼす事になります」
「身を滅ぼす・・・ですか」
 順は首を振った。説明されても、納得できる状態ではない。
「でも、注意すべきです。あなたにアレが見えたという事は、向こうにもあなたが見えるという事。取り憑かれやすくなるかも」
「おれが・・・取り憑かれる」
 順は3人を思い出した。商店街の会長とか銀行の支店長とか、小さいながらも社会の中では成功者の部類だ。あれになれるなら、取り憑かれるのも悪くはない。
 10年前の自分を思い出せば、あの頃は強欲の固まりだった。同年輩を殴る蹴るで、何度も金を巻き上げた。女友だちと連み、美人局やらの詐欺も働いた。けれど、ヤクザに目を付けられ、自分より大きく固い強欲に討ちのめされた。そうして、挫折の中で木工家具の道に入った。
 でも・・・しかし、なのだ。このまま久麗木工家具に勤めても、せいぜいがベテラン職人になるだけ。もっと別の道があるのでは、と毎日思い続けている。
 シェーリは両手で顔をおおった。悲しい記憶がよみがえってきた。

 シェーリと母は南ベトナムのホーチミン市で暮らしていた。
 母は洋裁の仕事をしながら、市内のカトリック系の教会にも勤めていた。牧師を助け、人々の心を癒やす人だった。もちろん、シェーリの誇りである。
 ある日、母に得体の知れない物が大量に取り憑いた。母の体の数倍もある虫のような、母を押しつぶしそうな・・・半透明の怪物たち。シェーリには見えても、他の人には見えないらしい。
 母は走り、取り憑いた怪物もろとも川に身を投げた・・・死体は上がらなかった。

「人々の強欲を祓おうとして、己が身に強欲引きつけたまでは良かったが・・・うまく封じる事ができなかった。それで起きた事故ですね。サマイクル命と同じ事になった。今頃は、川底で岩になっているかも」
「岩に・・・」
 久美がシェーリの母に起きた事を推測した。
「みんなは・・・ライダイハンだから、と母を軽蔑した。キリスト教では自殺を禁止してるのに、それをした大罪人だと」
「実は、街の人を守って起きた事故でしょうに。あれが見えない人の言い方は、無視するしかありませんが」
 母は自殺したのではない、久美は言った。
「ライダイハン・・・て、何だい?」
 順はシェーリに言った。知らない言葉を聞いた、それへの素直な疑問だ。
「あたしは4分3ベトナム人で4分の1が韓国人。母は2分の1ベトナム人で2分の1韓国人、ハーフだからライダイハン。でも、韓国軍が祖母をレイプして産まれたハーフ・・・」
「レイプ・・・軍隊が」
 順は聞いた事を、少し後悔した。

 シェーリの母は故郷の出来事をほとんど話さなかった。
 でも、ホーチミン市には同郷の出身者がいた。彼らから、村の災難を聞くことができた。

 シェーリの祖母は、ハミ村の村長の養女だった。幼い頃から特別な力を持ち、ケガ人や病人を癒やした。
 ベトナムが北と南に割れて戦争を始めた。しばらくは戦いは遠くで、村にケガ人が流れて来るくらい。シェーリの祖母はケガ人を癒やし、送り出した。
 外国の軍隊が村にやって来た。南ベトナム政府を支援する連合国の内、韓国の軍がやって来た。北ベトナム軍を支援する村として調査の名目で来た。
 韓国軍の士官は村人を集め、男と女に分けた。男たちを並ばせると、機関銃の一斉掃射を浴びせた。調査らしい調査は無かった。
 老婆が泣いて倒れた息子に駈け寄る。が、それにも機関銃が浴びせられた。
 機関銃が止んでも、一部の男たちは生きていた。数発の弾をうけて、身動きならずにもがく。
 そこへ、今度は火炎放射器で炎が浴びせられた。わずかに息のあった男も、生きながら焼かれた。村にガソリンの臭いが満ちた。
 恐れおののく女たちに、韓国軍は襲いかかった。10才に満たない女の子まで犯された。
 三日三晩、村の女たちは犯し続けられた。
 朝、気が付くと、韓国軍は消えるように村から去った。
 ようやく、女たちは焼け焦げた遺体を片付け始めた。
 と、飛行機が低空飛行で村を通り過ぎた。空から薬剤が降ってきた。
 アメリカ軍の殺虫剤散布だった。ダイオキシン系を主成分とする溶剤で、後に枯れ葉剤と呼ばれた。
 1度だけでなく、その日には何度も上空から散布された。
 祖母は頭から溶剤を浴びて、吸い込んで息が詰まった。井戸の水も汚れてしまった。
 バタバタと女たちも倒れていく。
 祖母は生き延びたが、妊娠していた。生き残った他の女たちも妊娠していた。
 出かけていた男たちがもどり、村の再建が始まった。
 やがて、女たちは子を産んだ。が、流産や死産が多発した。やっと産まれても、奇形児はすぐに死んだ。
 シェーリの母は、数少ないまともな子として生まれた。
 ベトナム戦争が終わり、新しい国ができた。でも、韓国軍の子を産んだ祖母は迫害された。
 シェーリの母が大人になる前に、祖母は死んだ。

「調査の名目で来て、調査は面倒なので、皆殺しにした・・・戦争って、そんなものかも」
 順は聞きながら、胸が詰まる気分。息が苦しくなった。
 かつてのワルだった頃の自分を韓国軍に重ね合わせた。標的に定めた相手を徹底的に叩きのめす、抵抗する気が無くなるまで叩く。相手が気力を失ったところで、次は強請る。骨の髄まで搾り取る・・・そして、何も無くなったら捨てる。
 機関銃の一斉掃射だけでなく、火炎放射器まで使った韓国軍。その恐ろしさに、村の女たちは抵抗もできずにレイプされた。飽きて捨てたところへ、枯れ葉剤で証拠隠滅・・・計算され尽くしている。
 ベトナム戦争では、他の村でも虐殺事件が起きた。言い伝えられている事件は多いけれど、刑事事件として裁判まで行ったのは、ソンミ村事件など少数である。核戦争へエスカレートする恐怖が背景となり、人々は虐殺事件に鈍感だった。村で数百人死んでも、核戦争で数百万人が死ぬよりは良いと・・・
「祖母が死んで、すぐ母は結婚したよ。女が一人で生きていける社会じゃなかった。翌年、子供を産んだ・・・奇形児だった、すぐ死んだ。次ぎの子も・・・次の子も・・・4番目に、あたしが産まれた。やっと五体がそろった子ができた、と母は喜んだ」
 やっとシェーリに笑みがうかんだ。
「前に、3人がダメだったのか・・・」
 うーむ、順はうなった。枯れ葉剤の影響か、戦争後のベトナムでは、奇形児の出産が多く報告された。結合双生児のベトとドクは有名だ。けれど、戦争の後始末として病院が多数建てられ、奇形の情報が上がるようになっただけかもしれない。
「でも、あたしの事を父は嫌った。いつか、奇形が表に現れると心配した。結局、母は離婚して、ホーチミンへ引っ越した・・・」
「そこで、母は事故で川へ落ちた、と」
 久美はシェーリの出生譚に頷いた。
「母が死んだ時、あたしは16才だった。一人では生きていけない。近所の男と結婚して、翌年、子供を産んだ・・・口が縦と横に裂けて、目から上の頭が無かった。すぐ、死んだ・・・」
「口蓋裂の奇形か。そして、無頭症の奇形!」
 口蓋裂とは左右の上あごや下あごがつながっていない奇形だ。骨がつながっていても、唇の左右がつながっていない場合もある。唇だけの場合は三ツ口と呼ばれ、現代では手術でつないで治す。クジラの下あごの骨は左右で分かれていて、大きく口を開いて獲物を捕る。
 無頭症は頭蓋骨の上部が発達していない奇形。脳も未発達で、ほとんどの場合、自活能力は無い。へその緒が切れたとたんに絶命する。
「夫は・・・ライダイハンはダメだ、と言って離婚になった。それからは・・・一人で働いて、ベトナムから逃げて・・・ライダイハンの呪いから逃げるために・・・ここに」
 はあ、シェーリは息をついた。胸にたまっていた物を吐き出した、忘れられない過去だ。

「日本の神話でも、女神が奇形児を産み落とす話があります」
「神なのに、奇形児を?」
 久美が神話を語り始めた。シェーリが顔を上げて聞き入る。
「日本神話の始まりの始まりの章、イザナギとイザナミの国産みの儀の時です。最初の子は手も足も無く、人の形をしていなかった。ゆえにヒルコと名付けられ、海に流された。やがて、それは瀬戸内海の淡路島となった。しかし、さすがは神の子。手も足も無いが、粗末にあつかうと身震いをしては、神戸の街の高速道路を薙ぎ倒す大地震を起こしたりする」
「神の子なのに、手も足も無い・・・」
「常に、奇形児は一定の確立で発生します。だれが悪い訳でもないけれど、産んでしまった女には堪らない」
 久美は話しながら、目が遠いところを見ていた。
「ほんの百年ほど前まで、神社には出産後の女たちが通って来ました。死産した子、産まれて数日で死んだ子、奇形や病気で育ててもムダと判断された子を持って来て・・・ほとんどは死んでいたが、たまには生きている子もいた。そんな子は柴に巻いて池に沈め・・・間引きしました、静御前の子がされたように。そして、次は丈夫な子が生まれるように、と祈って帰ったものです」
「間引き!」
「神社に女がいる理由です。まあ、最近では、間引きは出生前診断と呼び方を変えてますね。かつては神社の巫女がしていた事を、今は産婦人科の医師がやっています」
 シェーリは首を傾げた。日本では神話になるほど奇形児が多いのだろうか。母と自分が奇形児を産んで苦しんだのは、日本では取るに足らない悩みと言うのか。
 順はつばを呑み込んだ。どんな仕事にも裏があるように、華やかに見える神社にも裏があった。法律が変わって、今は神社から産婦人科へ間引き仕事が移っただけ。
「口蓋裂の・・・三ツ口の奇形児は、日本では古くはキツネ憑きと呼ばれました。巫女として神社に勤めると、崇められたものです。キツネはネズミの天敵、田畑の守り神でした。粗末にあつかうと、エキノコックスの祟りもあるし」
「奇形児が巫女に・・・」
 キリスト教では、ホクロのような小さな皮膚奇形すら、悪魔と契約した証と忌避される場合がある。黒死病の記憶があるから、と云う。奇形児が神の使いとは、宗教観の違いに驚くばかり。
 久美はシェーリの肩に手を置き、口を耳に寄せた。
「シェーリさん、あなたは母様から祖母様から特別な力を受け継ぎました。もっと、母様と祖母様を信じなさい。あなたが受け継いだ力は、決して呪いではありませんよ」
「呪い・・・ではない」

 4人は外に出た。大岩の御神体、サマイクル命の前に立った。
 まりかが壺を置き、組紐の封を解いた。ふたを取り、離れる。
 りーんりーん・・・祓鈴を鳴らした。
 壺の口から虫が出て来た。半透明な強欲たちは震えるように地面を這い、大岩をよじ登る。
 やがて、吸い込まれるように岩の中へ消えた。
「強欲を人の中から祓い出しても、きちんと封じる手段と場所が確立している必要があります。それが無ければ、事故が起こります」
 久美が静かに語った。
「封じる手段と場所・・・」
 シェーリは母を思った。
 母は強欲の重みに苦しみ、川に身を投げるざるを得なかった。それほどの強欲たちは、いったい何人分だったのか。どれほどホーチミンの人々の強欲は重かったのか・・・胸の苦しみがぶり返した。
 こちらからアレが見えるなら、向こうからも見える・・・順は久美の言葉を思い起こした。かつて、自分に取り憑いていた強欲は、今はどこへ行ったのか。自分の中で小さくなって眠っているのか。それを探るには、巫女のような訓練が必要だろう。

 神社からの帰り、バンには荷物が増えた。
 エレキギターが3台、弦がゆるんだり切れたりしてるやつ。ギターアンプは2台、動くかは未確認。キーボードは1台、こちらも動作未確認。
 ハンドルをにぎりながら、順は努めて明るく振る舞った。
「昔は、おれは不良のワルだったんだ。いろいろやって、人に言えない苦労をしたつもりだったけど、きみに比べたら・・・薄い苦労だ」
 ははっ、軽く笑って沈みそうな気分をごまかした。
 シェーリも努めて顔を上げて前を見た。
「あたしの力は呪いではない・・・」
 久美の言葉を胸の中で繰り返した。


6. 七福神にお祓い


 週の初日、青葉順は早出した。
 工場裏に停めたバンのドアを開けた。永矢摩神社から持ち帰った物が載ったまま、始業前に降ろさねばならない。
 ほとんど木箱のギターアンプを降ろし、次ぎにキーボードを降ろした。台車に乗せて、倉庫の隅へ。そして、ギターを3本取った。
「やあ、早いね」
 久麗爺が声をかけて来た。
「お早うございます。永矢摩神社のステレオ、タップコードが断線してただけなので、簡単でした。いっぱいお土産をもらいました」
「みたいだな」
 順は電気道具を降ろし、バンの床に残った縄を久麗爺に渡した。
「それは注連縄の試作品らしいです」
「これが・・・注連縄?」
 どう見てもビニールロープを束ねただけの物だ。角度を変えて見て、想像力を働かせる。
「しかし・・・普通、注連縄と言えば稲わらを編んで作るものだろう。ビニール製と言うのは、ビニール紐の工場の神棚なら・・・」
「最近は、注連縄に使う稲わらが手に入りにくらしいです」
「そりゃあ、刈り取り機のせいだろう。いや、刈り取った後の脱穀機の段階だな」
 最新の機械式刈り取りと脱穀では、機械に通る規格に合わせて稲を裁断する。長い稲わらは残らない。そのため、神社へ奉納する注連縄のためには、特別に手作業で稲を根元から刈り取って脱穀する。この手作業ができる人材が老齢化で不足している時代だ。
「ううむ、化学繊維はふさわしくないとして、天然繊維で作れば神社に奉納できるかな」
 久麗爺はあごに手をやり考え始めた。
 にっ、何か思い付いたらしい笑み。そそくさと科学屋へ姿を消した。
「おはよー」
 シェーリが自転車で出勤して来た。

 時計の長針と短針が重なる、12時になった。順は手を止め、休憩所へ行こうとしていた。
 と、久麗爺が台車を押して工場に現れた。志藤と一緒に機械を降ろし、組み立て始めた。
「何ですか?」
「昔々、作ったやつだ。用途を変えて、再挑戦さ」
 またクレージーが始まった・・・順は背を向け、昼食を優先した。


「ごちそうさま」
 順は茶を飲み干し、仕出しの弁当箱を配達の箱に入れた。
 ふと、ガラス窓から工場の奥を見た。見慣れない機械が動いている、久麗爺が持ち込んだ機械だ。
 戸を開け、駈け寄った。
 台に長さ2メートルの板が縦に固定され、その上をレールに沿って鉋(かんな)が走っていく。ひゅるるる、細い帯の鉋クズが宙を舞う。
 板の厚みは5センチほど。細い方に鉋をかけるから、鉋クズも巾5センチだ。舞う様から見て、クズの厚みは0.1ミリ以下だろう。紙より薄いクズだ。
 久麗爺は鉋クズの端を右手でつかんだ。左手には5本ほどの鉋クズがある。
 鉋が板の端で停まり、自動でスタート位置へもどる。
「何をしてるんですか?」
 順の問いに、久麗爺は頷いた。
 ひゅるるる・・・また鉋が走った。新しい鉋クズが宙に舞い上がる。
 久麗爺は右手で鉋クズを捕まえた。
「これくらいで良いだろう」
 7本の鉋クズを手で束ね、端を別の台にある万力に固定した。もう一方の端も束ねて固定した。万力の間隔は1.5メートルほど、クズの束はダラリと垂れ下がっている。
「乾いた状態では、うまくいかない。これは昔に確認済みだ」
 久麗爺はスプレー器を手にした。噴霧口の下のタンクには薄めたプライマーが入っている。
 しゅっしゅっ、間隔を入れて適当なスプレーをした。
 スプレーを置いて、万力の台のハンドルを回す。万力が回り始めた。
 ハンドルを回すごとにクズの束が捻られていく。元が薄い鉋クズを捻るから、どんどん束は細くなっていった。
 束の垂れ下がりが無くなり、ついにピンと張った。
 久麗爺は手を止めた。
「どうだ、木質素材の縄ができたぞ」
 万力と万力の間に直径1センチほどの縄と言うか、ヒモ状の物があった。
「縄ですか・・・注連縄でも作るんで?」
「おう、そのつもりだ。木工家具工場の神棚に飾るのは、木質の注連縄こそふさわしい」
 久麗爺は工場の隅を指した、小さな神棚がある。日本の伝統だ。注連縄飾りは稲わら製である。
「北海道の稲は背が低く、元より長い稲わらは取れないのだ。注連縄を作る手間は本州の倍もかかる。そこで、木質の代用わらを使う。1本の長さは2メートルでも3メートルでも、木材の長さの分だけ取れる。注連縄を作る手間は半減するであろう!」
 久麗爺の演説はアニメの独裁者のごとし。
「工場を立ち上げたばかりの頃は、食器とか小間物も作ったもんだ。その後は、単価の高い家具が中心となったが。こんな事をすると、なつかしくなるねえ」
 志藤は勤めて40年近いベテラン、何かに付けて昔話をしてしまう。
 最新の電動鉋ではクズは粉砕された粉になってしまう。作業後に床に掃除機をかけるにも、粉クズの方が都合が良い。昔ながらの鉋は工場において絶滅寸前の道具だ。なので、帯状の鉋クズを取るためには、専用の機械が必要になってしまう時代である。


 4条通り15丁目、銀座通り商店街の入り口に車を停めた。歩行者専用道路を中心とする商店街だ。
 太平洋戦争後、日本のあちこちに銀座を自称する商店街が現れた。元は上川神社の門前市だった旭川第一市場の商店街も習って、銀座仲見世商店街となった。銀映座と言う映画館が名の由来とする人もいる。
 水野久美とまりかは連れだって降りた。今日は2人とも巫女の衣装で外出。
 夏至が近くて陽差しが強い、竹で編んだ市女笠を頭にした。昔から笠と呼んではいるが、現代の区分では日よけの麦わら帽子に近い。
 出迎えた烏帽子の神職衣装は上川神社の宮司、田畑青茂。背が低くて小太り、お祓いより算盤で神社を支える五十男。
「1条通りの手前に七福神の像があります。どうも、最近・・・像の回りで変な事が起きてまして・・・」
「変な事ですか・・・」
 上川神社は街を守る五芒星の内、最も南の一柱だ。助けを求められては、同じ五芒星の永矢摩神社として応えなければならない。
 和装の3人が連れ立って商店街を歩く、いやでも目立った。
「やあ、いらっしゃい。よく来てくれました」
 前掛けと鉢巻きの親爺が寄って来た。銀座商店街の副会長、魚屋の坂名海繁だ。
 問題の七福神像の前に立った。
「姉様・・・」
 まりかが久美の袖をつかんだ。
 普通の目には、掃除がいきとどき、きれいな像だ。が、久美には異様な気配が感じとれた。まりかも感じて怯えている。
「なぜ・・・」
 本来、銀座通り商店街の道は上川神社へと続く参道であった。神社との結びつきは強いはず。その参道の中に異物がある。
 感受性の強い者が近くに寄れば、気分が悪くなったり、あらぬ衝動にかられてしまうだろう。変な事が起きる中心に七福神像があるとは、皮肉としか言いようがない。
 振り返れば、商店街は寂れかけていた。人の往来は少なく、商店にも活気が無いよう。
 久美は視線をもどし、通りの先を見た。
 銀座通り商店街は4条通りから1条通りまで、そこで途切れていた。
「道が神社につながっていない!」
 久美は原因をつきとめた。
 かつて、その先には、忠別川の橋を渡って上川神社までの参道があった。が、参道を断ち切るように鉄道が敷かれ、忠別川の橋が架け替えられて、新しい道路が整備されてしまった。今や、この通りは神社への参道になっていない。
 鉄道の手前には宮前通りの名もあるが、やはり神社とのつながりは断ち切られてしまっている。今では神社と無関係な地名に成り下がった。
 銀座通りに強欲が溜まっても、神社へ自動的に流れて清められる道が無いのだ。
「経済を優先したばかりに、しなくて良かったはずのお祓いが必要になる」
 久美は首を振った。
 何も考えていない行政の施策が、街を守る五芒星にほころびを作っている。とは言え、五芒星の守りが堅過ぎると、五芒星の外側に厄災が集まってしまう場合も。近年、美瑛川やペーパン川の上流で洪水災害が起きた。この辺、バランスは難しい。
「お祓いですか・・・じゃあ、派手な祭壇を作って、人を集めて」
 副会長が笑みで言った。祭ごとが好きそうだ。
「いいえ、今日は出直します。夜に、人通りが少なくなってから行いましょう」
「夜に、ですか?」
 喜色満面になりかけた顔がけいれんした。

 5時、久麗木工家倶は終業時刻だ。夏至が近い、まだまだ陽は高い。
 今日は数人が工場に居残っていた。仕事ではなく、自主製作の居残りだ。
 順はドラムセットの組み立てをしていた。演奏のために、カボチャドラムとスイカドラムを定位置にすえる脚が必要になった。
 ミゲル、ジョン、カルロ、フィリピンの3人はエレキギターの修理と調律をし始めた。切れた弦を交換して、傷だらけの表面に鉋クズを貼って木目調エレキギターを目差す。ギターの1本は部品取りにして、修理は2本だけと割り切った。
 久麗爺が手押し台車に茶とお握りを載せて来た。
「みんな、熱心だね。給料を超えるモチベーションの元を見つけたか、良いこっちゃ」
 夕方近く、すでに気温は20度を切っている。温かい茶が腹に入れば、疲れた体にカツが入った。
 ミゲルがギターをアンプにつないだ。
 じゃじゃーん、低音を効かして弾いた。温泉のバンドマンだった技術は忘れていない。
「昔には、ルソンの壺と言えば名品の代名詞だった。100年後には、ルソンの家具が名品になっとるかも」
「ルソンと言うと?」
「フィリピンのルソン島だよ。南蛮貿易で入って来たんだな、利休の見立てさ」
「利休・・・400年も昔の話しですか」
 順はあきれた。が、フィリピンの3人組は自然と笑みがうかぶ。
 久麗爺は話を続ける。
「100年単位で歴史を紐解けば、国と国の力関係は簡単に逆転するものよ。国境線は右往左往するし、国そのものがあったり無かったり、国の名前が変わってたり」
 順が考える歴史は、せいぜいが10年単位。それも半世紀前までだ。100年以上前の事は本の上にあるだけ、現実とは無関係に感じている。
 カルロもギターを弾いた。テケテケテケ、ベンチャーズのトレモロ・グリッサンドを再現してみせた。
 ド・・・レ・・・ミ・・・ジョンがキーボードを鳴らした。それぞれのキーの鳴り具合を確かめ、低音から高音まで52のキーをチェックするのは手間がかかる。
 使われなくなって、さほど時間は経っていない。楽器の復活は早そうだ。
 7時過ぎ、今日の自主製作は終わりとなった。

 シェーリは寮で早めの夕食を終えた。
 テレビでNHKのベトナム語講座を見ていた。今となっては、懐かしい母国を思い出させる。早口なアナウンサーやタレントたちの言葉は理解不能なので、バラエティーなどは見ないのだ。
 どやどや、玄関の方が騒がしくなった。皆が帰って来た。残業で稼いできたよう。
 シェーリは声の方を振り向いた。
 ひっ、息が詰まった。
 皆の頭に上にアレがいた。以前より大きく、くっきりと見える。
「ライダイハンは早帰りかい。いっぱい稼がないと、国へ帰れないよ」
 ランの声がした。でも、頭はアレにおおわれ、顔が見えない。
 シェーリは逃げ出した。階段を上がり、自分の部屋へ行く。
「ライダイハン、どこ行くのさ」
 ランの声が追いかけてきた。まとわりつく声を手で払い、部屋に入った。
「シェーリは病気だから、放っておきな」
 マイのダミ声がした。あははっ、笑い声がドアを越えて部屋に入って来る。
 シェーリは布団にもぐり込んだ。頭までかぶり、闇の中で胸元の十字架をにぎった。
 でも、と思い出した。
 十字架は母を守らなかった。それで、強欲もろとも川に身を投げた。
 自分を守ってくれる者はどこにいるのか・・・ふと、順の顔がうかんだ。


 日はとっぷりと暮れた。
 車を1条通り側に停め、水野久美は神職の衣装で降り立つ。まりかも封じ用の壺を抱えて、車を降りた。
 七福神像に近いので、歩く手間が無いはずだった。
「あれ・・・」
 銀座通りは明るく、人の声も大勢でにぎやか。営業を終えた商店はシャッターを下ろしているが、その前に屋台が出ている。かえって、昼間より人通りが多いようだ。
 銀座通りの昼は商店街であるが、夜は飲み屋街となる所でもあった。夜には人通りが絶える永山とは大違いだ。
「姉様、出直します?」
「今さら、それはできません」
 2人は七福神像に向かった。すでに簡単な祭壇が作られている。
 副会長の坂名海繁が出迎えた。店は閉めた後なので、背広に鱗模様のネクタイで決めている。禿げ頭の会長は車いすで、祭壇の前だ。
 そして、営業を終えた店の人たちが列を作っている。
「人が少なくなってから・・・のはずだったのに」
 久美は言いたくなる不満をこらえた。でも、気分が落ち着かず、足取りはぎこちない。
 まりかが壺を祭壇の中央に置いた。
 祭壇の正面に立ち、七福神の像を見すえた。祓串を左へ右へはらう。
 ざわざわ、背後が騒がしくなった。
 屋台や露店の客が、酔っ払いたちが寄って来た。右や左でスマホのフラッシュが光り、祭壇をバックに自撮りで盛り上がる。すでにお祓いの雰囲気ではない。
「まりか、あれを持って来て」
「あーいー、姉様」
 祓串を止め、久美は注文をつけた。まりかは車に駆けた。
「どうしました?」
「なあに、銀座通りにふさわしいお祓いにしようと思いまして」
 坂名は中段したお祓いをいぶかしむ。久美は笑みで答えた。
 まりかとパーカーこと浜家幸平が大きなラジカセを持って来た。祭壇の横に置き、ピアノスイッチを押し込んだ。
 テープが回ると、エレキギターの音が夜の街に響いた。ベンチャーズのヒット曲『ギンザライト』だ。
 久美は曲を聴きながら、後ろの騒音を遮断できたのを確認した。心を静めて祓串を左に右に祓った。
 田畑と坂名にとっては、青春時代に馴染んだ曲である。自然と足がステップし始めた。お祓いを見物していた人達も手を振り、腰を振って踊りだした。
 ベンチャーズが来日公演した時、東京の銀座を歩いた思い出を込めた曲だ。その後、日本語の歌詞が付き、『二人の銀座』の題名で売り出された。ついでに同名の映画も作られた。

 むんっ、久美は気合いを七福神像へかけた・・・
 むわむわわっ、像の中に封じられていた強欲が表に出て来た。
「姉様!」
 まりかが叫んだ。
 が、もう遅い。
 現れた強欲は通りを圧する大きさだった。しかも、商店街の人々と緒がつながっている。
 持って来た封じの壺に入れらるサイズではない。
 日々、疲れた人々は酒を飲み、七福神像に強欲を置いていった。年月を経て、それは巨大な量に膨れ上がっていた。像が封じられる量の臨界に来て、夜な夜な漏れ出していた。近くにいた人は強欲の影響を受け、突発的に心身の異常を訴えるようになった。
 祓串が強欲に引かれた、折れそうなほどに震えた。
「パーカー、車を!」
「はい、おぜうさま」
 幸平は車に走った。エンジンをかけ、歩行者専用道路へ車を入れた。
 久美は祓串にかかる強欲の引きをこらえる。少しでも気を抜けば、強欲に呑み込まれそうだ。
 カチッ、カセットテープが停まった。オートリバースではない。
 街の人々は強欲と緒がつながってるから、『ギンザライト』で体を揺らした形のまま固まっている。
「姉様、車へ」
 まりかの手が久美に触れた。2人の力を合わせ、強欲を引きずる。商店街の人々とつながる緒が切れた。
「パーカー、屋根を開けろ。カセットをかけろ!」
「はい、おぜうさま」
 幸平はサンルーフを開けた。カセットをステレオに押し込んで、ボリュームを上げる。
 だだだだっ、だっだーん・・・エレキギターのビートが出た。ベンチャーズのヒット曲『バットマン』だ。
 まりかはリアシートに乗った。
 久美はサンルーフから半身を出し、祓串で強欲を引きつける。
「走れ!」
「と・・・とっこえ?」
「9条のあそこ、11丁目へ!」
「はい、おぜうさま」
 パーカーはアクセルを踏み込んだ。3リッターV6ツインターボが吠えると、リアタイヤがスリップして煙を噴く。
 オリジナルでもエンジン特性はピーキーで、俗にドッカンターボの異名を持っていた。さらに、カーマニアでもあった先代が手塩にかけて改造したスペシャル仕様のエンジンだ。
 リアサスペンションがエンジンパワーに負けて、車体のリアオーバーハングが沈む。ばりばりっ、ディファレンシャルギアとマフラーが道路の段差でこすって火花が飛んだ。シーマの腰抜け、と口さがない人が呼んだ状態だ。
 やや尻を振りぎみにして、車は速度にのってきた。

 信号が青から黄色になった。
 と、信号無視で1台が通り過ぎた。どどどっ、バックファイアーの轟音が後に残る。
 普通の人の目には、大音量の排気音と音楽をまき散らす暴走車。屋根から半身を乗り出すハコ乗りまでして、実に近所迷惑なヤツだ。
 が、見える人の目には、通りを圧する巨大な強欲を引きずっていた。
 久美は助手席に立ち、サンルーフから屋根に半身を出していた。烏帽子は飛んでしまった。足を置いているのがシートだから、揺れる体を支えきれない。
 だだだだっ、だっだーん・・・ベンチャーズの『バットマン』の調べに乗って、祓串を持つ手に力を込める。
 それはテレビシリーズ『バットマン』の主題曲だった。近年のシリアス系な映画とは真逆の作り、ゴッサム遊園地でヒーロー役と悪役がごっこ遊びで対決、明るく楽しい家族向けの番組である。が、今の状況はシリアス系のBGMの方が似合いかもしれない。
 どどん、路上の石を踏んだか、車体が揺れた。
 どっ、幸平の頭に久美の尻が乗った。ハンドルにあごを打った。
 腕を突っ張り、上体を押し返す。頭で久美の尻を支えた。
 9条通りの交差点に来た。曲がる前にブレーキをかけ、左へハンドルを切った。
 遠心力がかかって、また幸平の頭に久美の尻がのしかかる。顔がドアガラスに押し付けられた。右は固いガラスだが、左は柔らかい尻。衣擦れが痛い。
 一度はゆるめたアクセル、また踏み込んだ。ぎゅっぎゅぎゅっ、リアタイヤがきしんで悲鳴を上げた。
「パーカー、まだか?」
「あちょ、もうひこひで」
 久美は祓串を支えるだけで手一杯だ。尻の下の男にまで気が回らない。
 強欲は車の上まで迫って来ていた。このまま呑み込まれたら、シェーリの母と同じ事故になる。
 宝田学園の看板が見えた。
 幸平はブレーキを踏んだ。
 ぎぎぎっ、フロントタイヤがロックしてスリップ、路面との摩擦で煙を噴いた。
 ハンドルを右に切って、宝田学園の入り口に止めた。
 幸平はハンドルに頭をぶつけた、久美の尻が重過ぎる。
「とおっ」
 久美はヘッドレストと幸平の頭を蹴って跳んだ。宝田学園の9条通り側には、あの建物があった。
 建物の玄関前で祓串をかまえた。強欲どもが雪崩のようにかかって来た。
 まりかは扉の鍵をはずし、ばん、と開いた。
 扉上の注連縄が揺れた。
 渦巻きが起きて、強欲どもを吸い込んで行った。
 ばん、また扉は閉められた。
 見える人ならば、うっふぅぅーん、石造りの建物がセクシーに身をよじる姿が見えたはずだ。

 久美は地面に倒れていた。
 息を整え、身を起こした。立ち上がり、着物のほこりを払い落とす。
 手にあったはずの祓串が無い。身の回りを見ても無い。
 まりかは扉の横で座り込んでいた。静かになって、ひたいの汗をぬぐった。
 車の運転席で、幸平は頭を抱えていた。首が痛い、肩が痛い。でも、笑みは絶やさない。むしろ、心地良い痛みと言うべきか。
 久美は建物に向かい、深々と礼をした。ぱん、と手を拍つ。
 くすんだガラス窓に霊が現れた。OKサインを出し、祓串を振って笑った。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 そう言って、また久美は頭を下げた。祓串の行方がわかった。彼らにあずけておくぶんには、問題は起きないだろう。
 建物の窓ガラスが揺れた。まだ強欲が中で暴れている。
「姉様・・・」
「なに、じきに鎮まる」
 まりかがそでにすがる。九美は笑みで答えた。


 車を銀座通り商店街の1通り側に停めた。
 降りて七福神像前の祭壇に寄る。周りの人々は踊りの途中で固まったままだ。
 まりかが祓鈴を掲げた。
 りーん、りーん・・・澄んだ音色がビルの壁にこだました。
「あれれ、どうしたの?」
「今、何時だ?」
 正気にもどった人たちが声をあげた。
 ざわざわ、人の声が夜のビル街に反響した。とは言え、いつもよりは軽い声だ。強欲と一緒にストレスも祓われていた。
 上川神社の神職、田畑が久美を見つけた。
「突然見えなくなって、心配しましたよ」
 強欲と切り離されて失神していたのを、全く気付いてない。
 久美は首を振った。説明はムダと心得ている。
「お祓いは終わりました。今年も、祭は平穏に行えるでしょう」
 笑顔で答えた。


7. 野生化神職


 鷹ノ巣神社は春光台にあり、旭川を守る五芒星の中では北西に位置する。
 太平洋戦争の頃まで、春光台にあったのは陸軍の演習地と墓地、そして鷹ノ巣神社と森だけだった。
 そんな訳で、この神社には常駐する神職がいないのである。敷地は削られて狭くなり、森の中に社殿は小さいのが一棟だけ。
 今では、春光台は宅地開発されて人が住むようになった。養護学校や養護施設、老人ホームなどが街から追い出されるように来た。が、農業をする人が住んでないから、信仰心が期待できるはずもない。鷹ノ巣神社の掃除などは、五芒星の他の神社が持ち回りでしていた。
 今日は、早朝から永矢摩神社が来ていた。九美とまりかが巫女姿で掃除する。幸平は洗車だ。
「わああ、姉様、きれい」
 まりかが箒の手を止め、街を見下ろして言った。
「やあ、実にチュプベツの呼び名にふさわしい風景ですね」
 久美も応えて言った。
 石狩川の上流から下りてきた川霧が、白いベールとなって薄く街をおおっていた。霧は永山から神居古潭の入り口へ、ゆっくりとうねりながら下流へ移動して行く。そこへ朝日が降り注ぐ。霧が朝日を反射して輝くようだ。
 そんな霧の風景の向こうに、白い雪の残る大雪山がそびえている。山の方ではなく、この旭川こそが神々の遊ぶ園に見えた。
 山に囲まれた上川盆地は風が弱い所。夜に晴れたら放射冷却が起きる。大雪山から流れて来る幾筋もの川、乾いた空気と相俟って、霧が出やすい地形である。
 チュプベツとはアイヌ語だ。チュプは天空に輝く光、ベツは川または川岸の里・・・旭川はチュプベツを日本語に訳して街の名前とした。天の光を地上の霧が反射する光景は、現代でも神話を思い起こさせる。
 鷹ノ巣神社は春光台の端、街を見下ろす崖っぷちにある。風景を愛でる絶好のポイント。崖の直下に環状線の道路があり、行き交うトラックの走行音が風情を阻害していた。この道路が開通してから鷹やカッコーの声が聞けなくなった、寂しい事だ。
 掃除が終わり、たった一つだけの社殿の前に祭壇を組んだ。
 田植えが終わりかけた時期、今日の供物は乾物がメイン。と、小瓶の御神酒だ。夏から秋にかけては、採れたての野菜や果物も置ける。

 ぱん、と手を拍ち、礼をした。
 耳をすませば・・・ずずず、ずずず、何かが聞こえた。
 祭壇の下から手が出た。供物を取って引っ込む。
 九美は祭壇の横へ行った。まりかは背に付いている。
 見た目にホームレスな男が座っていた。ぐびぐび、御神酒の小瓶をラッパ飲みする。髪も髭もボサボサに伸び放題、赤黒い顔、年季の入ったコートは黒ずんで元の色も想像不能だ。見る人が違えば、冬眠明けのクマと思うかもしれない。
「供物が足らん」
 男がダミ声で言った。
「あなたのための物ではありません」
 久美はきっぱりと答えた。
 ちっ、男は舌打ちして、飲み干した御神酒の瓶を祭壇にもどす。
 社殿の床下をねぐらにする男であった。社殿を建てる前には、炭などを撒いて土地を清めたりする。虫やネズミも少なく、寝心地が良いのだ。
「元神職ともあろう方が、神の前で無様に振る舞うものではありません」
「へい、なにぶんにも業深き男ゆえ」
 九美の叱咤に男は頭を下げた。

 彼の名は鈴木寛司(すずきかんじ)、ホームレスながら元は神職である。
 神奈川県の神社の住職であった。名前は普通だが歌って踊れる最強な神主として、雑誌のグラビアに載り、CDも出した。結局、たいして売れなかった。
 そして、強欲に捕まった。酒と女とバクチ・・・借金を抱えて、高利貸しに頼った。神社を土地ごと売ってしまい、居るべき場所を失う。
 放浪して、旭川に来た。
 鷹ノ巣神社の床下に住み着いて、今は強欲から逃れている。

「身ぎれいにしよう・・・なんて思うと、また強欲に取り憑かれそうで」
 寛司は頭をかいて笑った。
「ご自分の神社に帰ろう、とは思わないのですか?」
「冬の間、ちょっと見て来ました。やあ、立派なビルが建ってましたよ」
 髭をなで、地面に向かって笑った。
 旭川から神奈川まで、片道で1000キロ以上ある。どうやって往復したのか、あえて問わない。
 冬であれば、春光台の気温は氷点下20度がザラに起こる。床下であっても、生き延びるには辛いだろう。冬の間、温かい本州に避難するのはホームレス的に正しい選択かもしれない。


 寛司は高利貸しから催促され、土地と神社を売ってしまった。買ったのは中国系デベロッパーである。
 神社の跡地では、丘を削り、高層マンションが建てられた。地下には強力な浄水施設と電源装置があり、巨大な駐車場もある。環境にやさしい未来的建築のはずだった。
 大雨があり、洪水になった。丘の上は被害を免れたが、丘を削ったマンションの1階が浸水した。水密ドアが設置されておらず、地下の施設と駐車場も水没した。数百万円以上もする高級車が枕を並べて泥水の底だ。
 マンションは電気も水道も使えなくなった。トイレもエレベーターもストップした。
 この時、マンションを建設したデベロッパーは日本での事業を終え、本国に撤退していた。保証修理も受けられず、マンションの住人は途方に暮れた。
 保険の契約でも、地下階の完全水没は想定外だった。火災と地震、地下階への漏水までは想定されていたが。地下階の設備を修理するには、建て直しに等しい時間と費用が必要と予想された。
 事実上、人が住めない建物になっていた。
 周辺の住宅が復旧して灯りがともる一方で、夜のマンションは灯りも無く闇に落ちていた・・・

「わたしの強欲が建てた墓のようでした」
 寛司は顔を上げ、髭のホコリ払って自嘲する。
「丘を削って、地下に封じられていた強欲が解き放たれた・・・そんなところでしょうか」
 九美は神社跡地に建ったマンションの運命を推測した。
 強欲に取り憑かれた人間の行動として、マンションの建設費削減は最重要課題になったろう。普段は役に立たない災害対策は、真っ先に削減対象となったはず。保険も最小限の契約だけだろう。そして、想定外の洪水・・・
 ぷるるるっ・・・九美の携帯電話が鳴った。
「はい、水野です。今は鷹ノ巣神社におります・・・鈴木さん? 今、一緒におりますよ。はい、わかりました」
 九美は携帯をしまう。
「わしなんぞに、誰のご用ですか?」
「迎えに来るそうです」
 寛司は首を傾げた。自分の名を聞いたが、ホームレスに用のある者は少ないだろう。
 汚れたコートの前を開き、シャツの中に手を入れて胸をかいた。また・・・あれかも、と自分の役割を思った。

 ぼぼぼぼ、マフラーに穴が開いたようなエンジン音が近付いて来た。
 バンがよろめくように境内に入ってきた。サビだらけの車体、走っている最中に分解しそうな外観だ。サイドの窓ガラスに『朝日清掃』の看板が書かれていた。
「ああ、鈴木さん。お願いします」
 バンの運転席から声をかけたのは朝日清掃の社員、古田敏夫だ。ふだんは大型のゴミ収集車をころがしている。
「こんなオレに何の用だよ」
「そう言わずに。ほら、幕の内弁当に牛丼弁当、パックの焼酎もありますよ」
 敏夫はバンのバックドアを開けて誘った。荷台に弁当と紙パックの酒が置いてある。
 おっおおっ、寛司は両手を上げゾンビウオークでバンへ行く。強欲は捨てたはずだが、まだまだ誘惑に弱い男であった。
 寛司が荷台に乗ったところで、敏夫はバッグドアを閉めた。急いで運転席へ。
「ネズミ取りのワナでもあるまいに」
 九美は首を振ってしまった。と、まりかが袖を引いた。
「姉様」
「そうですね、面白いかもしれません」
 九美は笑みを返し、洗車中の車へ急いだ。まりかも追って走る。
 2台の車が相次いで鷹ノ巣神社を出て行った。

 車は崖下の環状線を西に走った。
 航空母艦のようなイオンショッピングセンターの交差点から左へ、近文町へ入った。
 旭川市近文の町名はアイヌ語のチカップニが語源、鳥の巣の意味らしい。かつては渡り鳥が来る湿原だった場所だ。
 そこを埋め立てて鉄道を敷いた。昔は、近文駅から線路が分岐して、春光町の帝国陸軍第七師団へ通じていた。師団本部に隣接して、街を守る五芒星の中心、護国神社も建てられた。
 そんな訳で、近文は旭川の中では最も古い市街である。その中の、築年数も不明なアパート前に車が停まった。
「着きました」
 敏夫がバックドアを開けると、寛司は牛丼弁当に顔を突っ込み、プラスチック丼の底を舐めていた。底に残る汁を一滴残らず腹に入れようとしているところ。
「1階の向こう端の部屋です。ここ数日、姿を見せないとか。お願いします」
「あいよ」
 寛司は牛丼を置いて、荷台から降りた。
 周囲を見れば、すぐ横には小川が流れていた。掘り込みではなく、盛り土で住宅地が造られたのだろう。川の両岸は新緑の土手、コンクリートでないのが目に優しい。
 アパートの方を見れば、外壁のトタンは錆び付いて、地面近くはボロボロに割れている。こんな建物でも家賃は取るのか、と首を傾げた。
 敏夫の言う端の部屋へ近付いた。
 となりの部屋はドアが少し開いていた。窓ガラスは割れて、人が住んでないようだ。ほとんど住人も無く、取り壊し寸前か。ホームレスが勝手に住み着いていそうなアパートである。
 問題のドア前に立つ。とんとん、ドアをノックした・・・反応は無い。
 追っかけで車が来た。九美とまりかが並んで降りた。
 寛司は二人に手を振り、振り返ってドアノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。

 ゆっくりとドアを開けた。
 重い臭気があふれて出て来た。残飯の腐臭とくみ取りトイレの臭気、流し台の詰まった排水管が出す臭い、湿った布団に尿が染みこんだ臭気・・・その他、諸々の臭気が混じっていた。
 普通の者には防毒マスクが必要な空気だ。中に入るには防護服が必須だろう。
 だが、ホームレス生活で鍛えた鈴木寛司には馴染んだ空気である。欲を言うなら、もう少し風通しがあれば、鷹ノ巣神社の床下くらいの寝心地は得られるはずだ。
「なるほど・・・これはオレの仕事だ」
 寛司は踏み込み、部屋を見渡した。
 手前の部屋は薄暗い、ゴミが壁際で積み上がって窓をふさいでいる。奥の部屋は明るいようだ。が、天井から1メートルほどまでゴミが積もっている。
 足元を確認しながら、四つ這いでゴミの山を登った。体重をかけると、コンビニ袋が破れ、中から腐った汁が流れ出た。気にせず進む。
 頭を奥側の部屋に入れた。
 窓側にはゴミが積まれていない、明るいのも道理だ。が、他3面はゴミの崖ができていた。そのゴミの谷底、布団から頭を出して寝ている人がいる。
 髪は銀色だ。ヒゲが無いから、女だろう。かすかに布団が上下している、息をしていた。
 さらにゴミをかき分け、寛司は足からゴミの山を越えた。
 女の目が開いていた。ほおはこけ、80才は過ぎているだろう。
「よっ」
 寛司は右手を上げてあいさつした。
「・・・だれ・・・」
「オレは鈴木寛司。名前は普通だが、歌って踊れる最強の神主と、ちったあ知られたヤツだった・・・」
 老女は目を閉じて反応しない。
 うけないか・・・寛司は頭をかいた。がりがり、かくほどにボサボサ頭からフケが落ちた。
「オレはあんたの同類だよ。ただ、あんたの事を心配してる人がいる。これは、オレとの違いだな」
 寛司はゴミの斜面を下り、布団に近寄った。
 老女はかすかに首を振った。
「たまには外に出て、みんなを安心させてやりなよ」
 寛司は右手を差し出す。
 が、老女は左手を出して振った。
 はて、と寛司は首を傾げた。単に人嫌いの場合もあるが、別の理由があるかもしれない。
 部屋を見直すと、仏壇があった。そちらもゴミが積み上がっていない。
 寛司はゴミの斜面を移動して、仏壇前に足を降ろした。
 手を合わせ、まず一礼。
 仏壇には手を合わせるだけ。神社での儀礼と違い、手を拍ってはいけない。日本は神仏習合の国、宮司は仏僧の代理を務める場合がある。
 位牌を取って振り返る。
 老女に位牌を渡すと、左手でしっかと抱きしめた。目を閉じて、ほおずりする。
「みんな一緒なら、出られるね」
 寛司はふとんをはいだ。
 横抱きにして立ち上がる。老女の尻が濡れているが、ホームレス的にたいした問題じゃない。

「あ、出て来た」
 まりかが言った。
 寛司はドアを蹴り開け、外に出た。両手は老女を抱いてふさがっている。
「毛布、あるかい」
 寛司の問いに、敏夫は荷台の毛布を手にした。荷物をくるむために積んである。かなり汚れていた。
 九美は車のリアシートから毛布を出した。生地は薄いが、清潔だ。
 寛司はバンの荷台へ行く。九美が毛布を敷いて、その上に老女を寝かせた。
「半身に麻痺がある、脳梗塞だと思う。それで動けなくなったんだろう。脱水症状もあるし、こんなバンに揺られたら、心臓が麻痺するかも。酸素吸入や点滴のできる救急車を呼んだ方が安全だ」
「わかりました、救急車ですね」
 敏夫は携帯を出し、119番へ通報する。
 伝えるべき事は伝えた・・・息を入れ、また老女を見た。位牌を抱き、薄く笑みを浮かべて寝ている。菩薩の顔にも似ていた。
 寛司はバンに背を向け、地面に座り込んだ。
 神社で神職をしていた頃を思い出した。年に何人も参拝者が境内で倒れた。貧血や熱射病など、理由は様々。いやいや介抱をするうちに、自然と医学知識が身についた。ホームレスになって、その時の知識が役に立つとは。
「お疲れさま」
 九美は寛司の背に礼を言った。
「なに、できる事をしただけさ。こんなオレにも、何かできる事があると思うと、ちっと嬉しくなるじゃないか」
 ぼさぼさの髪をかき、寛司はフケを払った。
 よっこらしょ、寛司は気合いをかけて立ち上がる。振り返らずに歩き始めた。
 敏夫は電話を終えて、立ち去る寛司に気付いた。
「あの、お礼は?」
「供物は鷹ノ巣神社にとどけてくれ」
 寛司は振り返らずに手を振る。が、歩く先には川があった。
「そっちは道ではないけど」
「このナリじゃ、普通の道は歩けない。川原を歩いてもどるよ」
 寛司は土手を下り、浅い川に足を入れた。濡れても気にしないホームレスならではの道だった。
 九美とまりかは目をパチクリさせて見送るだけ。
 敏夫は携帯電話を開き、今度は会社にかけた。
「はい、古田です。問題は解決しました、事件性はありません。予定通り、ゴミの片付けと撤去にかかれます・・・はい、ここで待ちます」
 携帯をしまい、息をついた。弁当代とか、少し自腹をきったが、たいした額ではない。 
 救急車のサイレンが近付いて来た。


8. シェーリの危機


「マサラパンナアコ!」
 ミゲル、ジョン、カルロ、フィリピンの3人組は昼食を終えるや、たたと休憩所を出て行った。異様な早食い、まだNHKのニュースも終わってない。
 順は食べながら首をのばし、窓ガラスから工場をのぞいた。
 じゃじゃん、エレキギターが奏でられた。神社からもらって来たギターとキーボード、調律は最終段階だ。
「メシよりギターかい」
 順は首をもどし、茶を飲んだ。思い直して、こちらもメシを胃にかき込んだ。
「ごちそーさまっ」
 食器をかたづけ、順も休憩所を出て行った。
 シェーリは食べ始めたばかり、肩をすぼめてみそ汁を口にした。テレビでは、やっとNHKの昼のニュースが終わった。

 昼食を終え、シェーリは食器を片付けた。時計は12半と少し、これでも早食いになった方。ここではお喋りの相手もいないので、1時前までぼんやり過ごすのが日常だ。
 工場の方から音楽が聞こえてきた。昨日までは、調律のための繰り返しフレーズだった。今聞こえるのは、しっかりしたメロディーだ。
 志藤が立ち上がった。
「エレキの若大将だ!」
 志藤の耳にはなじんだメロディーだった。
 皆、休憩所を出て4人バンドのステージ前へ集まった。
 リードギターはミゲル、リズムギターはジョン、キーボードでベース担当がカルロ、順はスイカとカボチャのドラムを8ビートで軽くたたいて付き合う。今回の聴衆はメロディーに反応している、ドラムスが出しゃばってはいけない。
 ミゲルは笑みでギターをつま弾く。
 今弾いているのは『夜空の星』と題された曲。作曲の弾厚作は加山雄三のペンネームだ。
 去年は温泉ホテルで演奏していた。客よりも、まずホテルのスタッフに受ける必要があった。海外の曲よりは日本の曲、年寄りが多い温泉スタッフの耳に馴染んだ曲として・・・加山雄三とブルージーンズ、ブルーコメッツなどの曲を多く弾いた。
 東宝映画『エレキの若大将』はエレキギターをタイトルに置いた作品だ。『夜空の星』は劇中の曲、レコードにもなった。この映画で使用されたエレキギターの1本は、ベンチャーズのギタリスト、ノーキー・エドワーズが加山にプレゼントした物と伝えられる。
 じゃーん、エレキギターを弾き上げ、ミゲルは大げさに頭を下げた。
 ぱちぱちぱち、工場に拍手が響く。
「お祭りに参加準備かんりょーデース」
 ジョンとカルロも高らかに宣言する。
 が、久麗爺は首を傾げた。
「まあ、素人演芸としては上の部類だろうが、聞き流されるレベルだな。曲だけでは、人を惹きつけるインパクトに欠ける」
「ノープロブレム」
 ミゲルは発砲スチロールの箱を開いた。冷気の霧があふれ出す、ドライアイスが入っていた。
 断熱手袋をして、箱から黄色いバナナを取り出した。
「氷点下40度の世界では、バナナでクギが打てます。もちろん、ギターも弾けます」
 じゃじゃじゃん、ミゲルは凍ったバナナをピックにして弦をはじいた。
 またメロディーを奏でる。今度は『きみといつまでも』を弾いた。映画『エレキの若大将』で使われた曲、加山雄三の代表曲だ。
「バナナはフィリピンの代表的な農産物だし、旭川は氷点下40度の記録があるところ・・・ええんでないかい」
 久麗爺も頷くしかない。

「バナナだけ?」
 志藤の問いに、ミゲルは歯を出して笑う。
 箱にバナナをもどし、次ぎに手にして出したのは凍らせた小魚だ。
「イワシの頭も信心からーっ」
 ミゲルは魚の頭をピックにして弦をはじいた。イワシと言ったが、手にしている魚はサバだった。
「他には何が?」
 久麗爺は発砲スチロールの箱を探った。
 棒状の作物としては・・・長いも、キュウリ、アスパラガス、セロリ。多くはないが、旭川の近郊でも採れる作物だ。エビ、カニの足、タコ・・・北海道の海産物も入ってる。
 順はアスパラガスを手にした。ドラムをたたくと、凍ってるからポッキリ折れてしまった。カニ足の方は曲がっているけど使えそうだ。
 ドラムをたたくのがスティックだけとは限らない、ブラシを使ったり、中空のバトンを使う場合もある。ミュージシャンは常に新しい表現、違う音を探しているもの。
「明るい農村バンドで売れるかな」
 苦笑いする順の横で、久麗爺は頭を抱えていた。腹が痛い・・・訳ではなさそう。
 腕を組み、歩いてぐるりと回った。
「男どもが歌って騒いでも、天ノ岩戸は開かない。岩戸をこじ開けるには・・・アメノウズメが必要だ!」
「アメノウズメ?」
 久麗爺は隅にいたシェーリの手を引き、ステージに押し上げた。
「神社のお祭りには・・・あたし」
 シェーリは胸元の十字架ペンダントを出した。
 ちっちっちっ、久麗爺は笑みで首を振る。
「全く問題無い。日本は八百万の神の国だし、神仏習合の国でもある」
「でも、キリスト教は」
「すでに仏教とキリスト教は習合している」
「けど、でも・・・」
 シェーリは反論が続かない。
 キリスト教にも多くの宗派がある。ほんの100年ほど前までは、キリスト教の内部宗派間で殺し合いもしていた。現在でも、イギリスとアイルランドはキリスト教内の別宗派として争っている。時には爆弾テロまでやってしまう。最近はイスラムに押されて、キリスト教徒同士の諍いは目立たなくなった。
「今から400年ほど前、時の豊臣政権や徳川幕府は、次々とキリスト教を禁止した。理由の半分は麻薬密輸の取り締まりだった。当時の宣教師の布教では、麻薬の販売がセットになっていたからね。禁止されて、キリスト教の本体は日本から去ったが、その中からマリア信仰が日本に残った。そして、仏教と習合した。仏教の中の観音信仰や菩薩信仰と一緒になった。現代の日本では、多くの観音像や菩薩像が建てられている。が、ほとんどはマリア観音でありマリア菩薩なのだ」
「マリア様が仏教に・・・」
「習合以前の観音像や菩薩像は、全て胸をさらした男の像だ。仏教は男の学問として、日本に渡来したからね。でも、習合後の現代に造られた観音像は胸をかくした女性像だ。現代日本で、観音様や菩薩様と言えば、女性への最高の賛辞となっている。実は、マリア様と言うも同然」
 どうだ、と久麗爺は胸を張った。
 ほえ・・・順は首をひねって思い起こす。旭川の近くでは、上富良野や芦別の観音像は有名だ。言われてみれば、どちらも女性的な印象の像である。しかし、本州には400年以上前の仏像が多くある。古い仏像は男の像ばかり・・・女性像は近年の物ばかり。
 シェーリは胸の十字架ペンダントをにぎった、母の形見でもある。
 キリスト教において、マリア信仰は重要な柱だ。聖書に記述は少ないが、キリストを産んだのがマリアなら、刑死を見とどけたのもマリアだ。大勢のマリアの名を持つ女たちに囲まれていたのか、マリア自身が霊的な存在としてキリストを見守っていたのか。研究者は大勢のマリア説を支持するけれど、牧師は霊的なマリアの解釈を好む。

 北西の山に太陽がかかる頃、シェーリは寮に帰り着いた。
 今は6月、夏至が近くて昼の長い時期。でも、9月、秋分の日以後は夜が長くなる。夜道の自転車通勤は危険だ。別の方法を探す必要がある。
 玄関を入ると、中はにぎやかだった。農場へ勤めている組が早く帰って来たらしい。
 食堂へ入ろうとして、ドアノブに手をかけた。
 ざわっ、悪寒が手から背筋に走った。
 迷いながらも、ドアを開けた。席に着いている半分は夕食を終え、茶を飲んでいる。
 が、食堂の天井は漂う強欲で一杯だった。煙草の煙がただようように、火災の煙が充満するように、食堂の上半分の空間を占めている。
 ・・・日本は飽きた、ベトナムに帰りたい・・・ネットで見たバッグが欲しい・・・この前の休み、ショッピングセンターで見た服とクツが買いたい・・・また仕送りをせがんできた、金が無いのに・・・金が貯まらない、デリヘルやってみようかな・・・
 皆から発した小さな強欲が集まって雲を造り、小さくない流れとなっていた。
 シェーリは後ずさり、トイレへ駆け込んだ。
 パンツを下ろして便器に座り、腹の中に溜まった物を出した。少し腹が楽になった。
 立ち上がり、水を流してパンツをもどす。洗面台の鏡に向かうと・・・自分の顔が見えなかった。強欲が半透明なヘビやムカデとなってまとわりつき、上半身をおおっていた。
 母と同じだ!
 それはシェーリ自身の強欲だった。
 ベトナムから逃げたい・・・自分を、母をいじめた者に復讐したい・・・村を襲った軍隊に復讐したい・・・こんな寮は燃してしまいたい・・・自分の内にあった怒り、憎しみ、破壊の願望が形となって現れたのだ。
 シェーリは身を固くした。母と同じように、自分も川に身を投げるのか・・・
 永矢摩神社で聞いた言葉を思い出した・・・強欲を人の中から祓い出しても、きちんと封じる手段と場所が確立している必要があります。それが無ければ、事故が・・・
 頼るべきは永矢摩神社だ、胸に十字架を下げたキリスト教徒だけど。
 シェーリは寮から逃げ出した。
 山の向こうに陽がかくれた。空には明るさがあるけれど、街は急に暗くなっていく。
 自転車を駆った。道を対向して走る自動車のライトが眩しい。


 青葉順が住むアパートは久麗木工家具の工場の近くだ。
 ドラムセットを片付け、工場の戸締まりをしてたら日が暮れてしまった。コンビニに寄り道して帰ろうとしていた。それでも歩いて10分かからない距離だ。
 コンビニに入ろうとしたところで、闇の中から駆けてくる自転車のライトに気付いた。もやもやとした強欲を引きずっていた。
「あれ・・・もしや、シェーリ?」
 順には乗っている人が見えなかった。それでも、走り去る自転車に見覚えはある。シェーリが工場へ通うのに使っているのと同じ物だ。
 また、強欲・・・が見えた。
 永矢摩神社で聞いた言葉を思い出した・・・あなたにアレが見えたという事は、向こうにもあなたが見えるという事。取り憑かれやすくなるかも・・・
 昔、おれは取り憑かれていた、その自覚はある。でも、今見たのは・・・いけない、君子危うきに近寄らずとも思った。
 順はコンビニの戸をくぐる。
 弁当のコーナーへ行った。ヤクザと一緒だった頃は、未成年にもかかわらず酒を飲んだもの。つい、酒を視界に入れては首を振る。今は禁酒禁煙で家具作り一筋な生活だ。

 足が重い、体が重い・・・のしかかる強欲が体を縛っていた。
 息が切れて、シェーリはペダルをこぐ足を止めた。
 はあ、はあ、胸をはずませて息を整える。
 国道は街灯と行き交う車のライトでまぶしいほど。そこから近い永矢摩神社は闇の中にあった。
 唯一、鳥居の両柱に提灯の明かり、祭が近いのを示していた。境内に灯りは無い。規模の大きな夏の祭と違って、露店が置かれないのだ。
 祭の露店は小さな道路を挟んだ公園側で準備が進んでいた。照明が追加されて、公園全体が光る。テント屋根のステージも建てられていた。
 シェーリは公園で働く人たちを見た。
 酒を飲み、半分酔っ払っている男たち。そして、頭の上に小さな強欲を連れていた。
 あっちは違う、とシェーリは首を振る。
 公園の明かりに背を向け、鳥居をくぐって闇の中に足を踏み入れた。
 国道を行くトラックの音が遠くなった。静寂が闇を濃くする。
 ゆっくりと境内の奥へ進んだ。少し経つと、目が闇に慣れてきた。
 右手に大木があった。御神木ヌサコルフチ命の木だ。その対面の大岩は御神体サマイクル命。どちらの注連縄も闇の中でうっすら光っているよう。
 その奥には拝殿と社務所がある。が、灯りは無い。
 助けを求めて来たのに、誰もいない。
 シェーリは闇の中で呆然としていた・・・と、声を感じた。
 振り向くと、声は大岩からだった。人の声ではない、もっと別の何かの声だ。
 御神体サマイクル命の大岩がシェーリに声をかけていた。
 大岩に向かって歩くが、強欲の重さに足が震えていた。ひざも腰も痛い、肩も首も曲がっていた。体が押しつぶされそうだ。
 シェーリは大岩に手をかざした。
 思い出せば、人から祓い出した強欲を大岩に封じるのを見た。今、自分に取り憑いている強欲も封じられるだろうか・・・
 ひざが地面に落ちる寸前、指先が岩に触れた。
 風が体を揺らしたように感じた。竜巻の中心に立っていて、体が吸い上げられそうだ。
 ひざが伸びて、腰が伸びて・・・首も伸びた。
 風が止んだ。
 シェーリは体の変化を知った。つま先立ちになり、クルリと回ってみた。重さを感じない、体が軽い。
 大岩が強欲を吸い取ってくれたようだ。
 別の風を感じた。
 大岩にかけられた注連縄が揺れている。風はどこから来るのか、岩の中から吹いているみたいだ。
 誰かがシェーリに語りかける・・・ちぎれ、はずせ、自由になりたい・・・と。
 ふわり、体が浮いた。
 足が地から離れて、手が注連縄にとどく高さになった。
 ちぎれ、はずせ!
 また、声がした。
 シェーリは注連縄に手をかけた。
 バチッ、電気が走って火花が飛んだ。注連縄の封印だ。
 足を岩にかけ、両手で注連縄を引っぱる。バチッバチバチッ、さらに大きな火花が飛んだ。


 この時、永矢摩神社の神職、水野九美とまりかは旭川神社の会議室にいた。
 旭川神社は東旭川にあり、この地区では最も古い神社だ。五芒星の神社が行う祭りの打ち合わせが行われていた。
 この神社が建てられたのは明治の頃、まだ旭川村だった時までさかのぼる。旭川で氷点下40度の気温を記録した時、気象台は旭川神社の近くにあった。加藤隼戦闘隊の隊長として有名な加藤建夫は、軍神として旭川神社に祀られている。ここの出身者であり、英雄だ。
 異変を感じ取り、九美は席から立ち上がった。
「姉様・・・」
 まりかも異変を感じていた。
 が、打ち合わせの席で異変を察知できたのは2人だけ。他の神職たちはソロバン勘定に余念が無い。
 旭川神社は永矢摩神社の南にあり、直線距離で5キロほども離れていた。その距離でも察知できるからには、よほどの事態と見なさなければ。
 九美は携帯電話を開いた。
「パーカー、帰ります」
「はい、おっぜうさま」
 いつもの間延びした答えがあった。こんな時は、物事に動じない返事がたのもしい。

 ばちっ、大きな火花が飛んだ。
 シェーリは地面に落ちた。手には注連縄がある、サマイクル命の大岩にかけられていた注連縄だ。
 体の感覚は元にもどった。重くはないが、変に軽くもない。
 シェーリは立ち上がり、大岩を見上げた。強欲の重みを感じなくなったし、この岩にすがって正解だったようだ。
「おまえさん、何をしてるんだい?」
 声に、シェーリは振り向いた。
 闇の中に黒い男が立っていた。道路向こうのお祭り会場の灯りを背にして、存在が浮かび上がっていた。
「・・・だれ・・・」
「おれは鈴木寛司。名前は普通だが歌って踊れる最強な神主と、ちったあ知られたヤツだった」
 寛司の芝居がかった名乗りに、シェーリは反応できない。
 長年にわたり雨と汗を吸ったコートが、風も無いのに異臭を放つ。ぼさぼさの髪と髭が皮脂で固まり、頭を揺らすと音をたてた。
「けどまあ、今はホームレスでな。腹がへったので、何かめぐんでもらおうと来たんだが。危ない場面に出くわしてしまった」
 寛司はゆっくり間を詰め、手を差し伸べた。
「さあ、そいつを元にもどそう。おれも手伝ってやるよ」
「神主か!」
 シェーリは注連縄を振った。ムチのように振り回し、寛司を打った。
 ばちっ、火花が飛んだ。
 寛司の体は吹っ飛び、3回半転がって大の字に倒れた。電気ショックをうけたように体がしびれた。
「やばっ、ほんとに危ない」
 立ち上がろうとするが、腰が抜けていた。地面を這って逃げようにも、手足に力が入らない。つぶれた瀕死のゴキブリ状態だ。
 注連縄が寛司の背を打った。ばちっ、また火花が飛ぶ。
 頭を両手でガードし、体を丸めた。せめてもの防御体勢をとる。
「なにゆえ、我がおまえらの都合に合わせねばならん。おまえらは何を我にしてくれたと言うのか!」
 地の底から響くような声だった。
 寛司は腕の間から注連縄を持つ者を見た。その背後、サマイクル命の岩から何かが湧き出て来た。
 半透明の霧のような、ムカデの群れようなのが地面を這う。それはサマイクル命の大岩に封じられた強欲だった。ほとんどは浄化されて消えていたが、まだ残っている部分もある。
 強欲は地を這い、シェーリの体を登った。そこから寛司を目がけて降り注いだ。
「我がどんな思いをしてきたか、その万分の一でも味わってみよ!」
 岩のような重しが体にのしかかってきた。手も足も動かない、息もできない。
 寛司は強欲に呑み込まれるのを感じた。

 シェーリは倒れた男を見下ろした。
 闇の中に黒いコートを来ているから、黒い石のように見えてしまう。が、よくよく見れば、細かく痙攣もしている。死にかけのクマか、と見直した。
「この程度で、情けない。しばらくあずけておくぞ、しばし時を待て」
 シェーリは口から息を吐いた。
 寛司の体はころころ転がり、社殿の床下へ入って行った。
 神社の社殿は昔ながらの高床造り、しかも床下は開放されている。湿気や洪水対策とか、虫やネズミ対策とか、長年の伝統だ。
 床下の柱にぶつかり、寛司は止まった。体の中に何者かが入って、重しとなっていた。指を動かすのもできず、声も出せない。息が苦しい・・・闇の中で意識が遠くなっていった。
 ふっ、シェーリは鼻で息をした。
 体が軽い、スキップで踊るように境内を行った。
 明るい方へ行きかけて、暗い社務所を振り返った。足を振り上げ、ふわりと跳んで社務所の前に降り立った。
 はっ、気合いを飛ばせば、鍵が開いた。
 階段を上がり、中へ踏み入った。闇の中だが、全てが見えた。
 広間の真ん中に、流木を組んだイスがあった。
 手で触れると、ぱちっ、小さな火花が飛んだ。何の封印か、首をひねる。
 ステージへ目を向けた。カーテンの向こう側に重厚長大なステレオセットが並んでいた。
 気を放ってカーテンを引き裂いた。巨大なウーファーへつま先で蹴りを入れた。ばりっ、破れて穴ができた。アンプを入れたケースを蹴り倒すと、パンパン、ガラスの真空管が音をたてて破裂した。
 棚を倒せば、レコードとカセットが床に散らばった。ステップでレコードを踏み割り、カセットを蹴りつぶした。
 破壊の衝動が満足されて、喜びが体にあふれた。
 あっははは、笑い声が天井に響いた。
「もう、我はおまえたちの思い通りにはならん。我は我の思いに従い、我のために動くぞ!」
 サマイクルの言葉だった。

 車は裏手に回らず、鳥居から境内に入って止まった。
「姉様!」
 まりかが大岩を指した。
 九美は車から降り、御神体の前に立った。ヘッドライトに照らされた大岩は裸だ、地面にちぎれた注連縄が捨てられていた。
 手を触れ、耳を岩に当てて中を探った。
「抜け殻だ・・・サマイクル命が消えた!」
 御神体だった大岩には、何もいなかった。
「おっぜうさま!」
 幸平が社務所を指して言った。扉が開け放たれていた。
 中に入り、明るくして見た。
 カーテンが落ち、ステレオが壊され、割れたレコードが床に散乱し、無差別破壊の惨状だ。先代のコレクションが木っ端微塵である。ノリの良い音楽が失われてしまった。
 流木を組んだイスが、なぜか無事に見えた。
「火事にはなってない」
 まりかが最低限の安心を見つけた。
「サマイクル命がしたのです。わたしたちは甘え過ぎていたのかも」
 九美はレコードの破片を手にして、ため息をついた。シングル盤『スターティングオーバー』の欠片だった。ビートルズが解散して、ソロになったジョン・レノンの遺作となった曲だ。
 この時、寛司が社殿の床下で気絶していたが、九美もまりかも気付かなかった。


9. 順とシェーリ


 シェーリは自転車を止めた。深夜になってしまったが、寮に帰って来た。
 音をたてないよう、忍び足で階段を上がった。自分の部屋の前に来て、人の気配に気付いた。
「ライダイハン、今頃お帰りかい」
 ランが寝間着姿で廊下に出て来た。共同トイレのドアを閉め、いつものように睨んでくる。
 はて、とシェーリは首を傾げた。
 あの目は恐かったはず・・・でも、今は正面を向いてランの顔を見ていた。
 少しあるかも、とシェーリの中にいるものが言った。
「なんだい、その目は」
 ランが迫ってきた。手がシェーリの胸元に触れた。
 バチッ、火花が飛んだ。
 ランの体が吹っ飛んだ。天井に貼り付いて気絶、そのまま落ちて来ない。
 シェーリは手をのばした。
 ランの体から強欲を引っぱり出した。寮の女王でいたい・・・皆を従わせたい・・・誰よりも美しくありたい・・・そんな強欲を巻いて、ごくりと呑んだ。
「何してんの!」
「真夜中だよ!」
 廊下の奥から声がした。
 ランの取り巻きたちが顔を出してきた。天井のランを見て、呆れるやら驚くやら。
 またシェーリは手をのばした。
 バチバチッ、火花が飛んで、取り巻きたちは動けなくなった。
 そして、また強欲を引き出した。お金ほしい・・・スマホ代えたい・・・新しい服欲しい・・・チキン食べたい・・・男と別れたい・・・そんな強欲を巻き取り、呑み込んだ。
 げふっ、少し胃にもたれた。
「薄い・・・軽い・・・」
 あれほど恐怖し、身を震わせた皆の強欲だったが、呑み込んでみれば軽かった。量は人数分あったけれど、薄い強欲ばかり。
 ここにいる女の強欲は、こんなものかもしれない。とすれば、寮の他の女たちの強欲を全部合わせても、たいした事にはならない。
 もっと腹にずしりと来る強欲が欲しいのだ。
 腕を組み、頭をひねって考えた。持っていそうな者が一人だけ思い当たった。
 シェーリは階段を降りて行った。
 がたん、どたん、ランが天井から落ちた。取り巻きたちが廊下で積み重なって倒れた。


 青葉順はベッドで小説を読んでいた。
 池波正太郎の『剣客商売』は父と子の物語。御家人ではない武士の生活が中心だ。
 武家諸法度では、武士が刀を抜いた時には、必ず相手を討つ事が求められる。江戸城本丸松之廊下で、浅野内匠頭が刀を抜いた。最大の失敗は吉良上野介を討ちもらした事だ。覚悟も無く刀を抜いた軟弱者、そんな評判が彼に付いて離れない。
 御家人ではない秋山父子の場合、武家諸法度の縛りはゆるい。刀を抜いても、相手を殺さずに始末がつけられる。そこが他の時代物小説との大きな違いだ。
 小説を床に落とし、天井を見た。
 おれは何をしているのか、何をしたいのか・・・本来の自分は何なのか、いつも寝る前に考えてしまう。
 漠然とした不満が胸にたまっているけど、どうすれば良いか分からない。こんな時は、また河原を散歩して流木を拾う。折れて曲がった枝や木片を手にしては、何か別の役割を与えてやりたくなる。
 いつしか、眠りに落ちていた。

 夢を見た、昔々の夢だ。
 青葉順は両親への反発から家出した。
 ヤリマンな女友だちの部屋にしけ込むと、美人局をそそのかされた。ヤリマン女が金持ちそうなオヤジをひっかけ、順が脅して金を搾り取る計画だ。1度目は簡単にいき、100万の金を手に入れた。2度目は少し苦労、オヤジをボコボコにしたあげく、10万ちょっとだけだった。3度目、ひっかけたのはヤクザの男だった。逆に捕まり、ヤリマン女は命乞いの末、親分の情婦になった。
 順はヤクザの若頭の下で働いた。暴れん坊として、すぐ筆頭の特攻要員となる。
 殴って蹴って、その相手がうめき、悲鳴をあげる。ロックな衝動が体に満ちた。ケンカ相手は楽器、たたくほどに良い音が出た。
 しかし、命令されるのが嫌いだった。1人だけで対立する朝鮮系ヤクザの事務所に殴り込み、大勢のケガ人を作った。
 得意になって、部屋で寝ていると、上役の若頭がやった来た。
 大勢で手足を固定された。若頭は順の手をつかみ、ドスを持ちだした。
 指を切られる・・・覚悟してたら、ごりっ、骨を断ち切る音がした。
 若頭は自分の指を切り落としていた。
「まだ間に合う。ヤクザなど捨てて、がんばって普通の人間になれ。手足を無くす前に、命を落とす前に去れ!」
 順は言葉も返さずに逃げた。
 ヤクザは順を追わなかった。
 ある日、あの若頭と街で出会った。左手の小指が無くなっていた。互いに背を向け、少し言葉を交わした。
「おれは、もうすぐ死ぬ。が、ヤクザは普通の墓には入れない。新聞の片隅にでも、おれの記事が載ったら、河原に石を積んで墓を作ってくれ・・・たのむ」
 若頭の声に力は無い。振り返ると、あの大きな背中はどこにも見えない。
 幻を見たかと思った。

 こっこっ、玄関のドアがたたかれた。
 どきり、として目が覚めた。
 薄目で時計を見れば4時を過ぎていた。
 6月、北海道の夜明けは早い。午前4時過ぎ、窓は朝焼けの光に満ちていた。
 顔が濡れているようだ。夢で泣いていたのか。
 がちゃがちゃん、金属音がした。ドアの鍵が開く音と気付いた。ぎっぎゃん、ドアチェーンが引きちぎられた。
 昔、一度だけ、これと同じ事があった。あの時の恐怖がよみがえり、体を硬直させた。
 今度こそ死ぬかもしれない、理由はわからないけど・・・順は天井を見たまま、拳をにぎりしめた。
 ドアが開き、冷たい風が吹き込んだ。ドアが閉まり、風は止んだ。
 と・・・と・・・小さな足音が入って来た。
 順は目を閉じ、足音が近付くのを感じた。
 足音がベッドのそばで止まった。目を開けると、見知った女が見下ろしてきた。
「シェーリ?」
 おかしい・・・体が動かない。首も手も足も硬直していた。手を切り落とされる恐怖を思い出し、背筋が寒くなった。
 シェーリはベッドに上がり、順の腹にまたがった。
 体は動かないけど、気分は悪くない。男に乗られたら、それこそ地獄だが。
 シェーリは順の両手を取り、自分の胸にもっていった。左右の乳房をわし掴みにする体勢、数枚の布地越しだが、幸せな感覚が両手いっぱいになった。
 こうなっては男は抵抗できない。下腹に女の体重がかかり、へそ下に血液が集まってきた。
 シェーリは両手で順の顔をはさんだ。
 顔を寄せると、鼻が擦れ合った。
「おまえの強欲はどこだ? どこにかくした?」
「ごうよく・・・」
 拒否を許さぬ声が降りて来た。

 2人はアパートを出た。外は、すっかり明るい。
 少し歩けば、堤防を越えて河原に出た。上流の山から来た大小の石がころがっている。
 その中に、差し渡し2メートルを超える大岩があった。何年前か、昔の洪水の時に流れて来たのだろう。
 順は大岩の前に立った。
 岩の上には、順が置いて積んだ石がある。若頭の遺言に従って作った・・・順だけが知る、順だけが参る墓だ。
 シェーリは岩に手をかざした。
 ばちっ、火花が飛んだ。
 岩から半透明なムカデのような物が出て来た。あふれるように、次々と出て来る。
 シェーリの手をつたい、飛んだ。
 順に体におおいかぶさって来た。それは順が岩に封じてきた強欲だった。

 拾った新聞で若頭の死を知った。
 順は遺言に従おうとした。1人で河原を彷徨った。日暮れ近く、大きな岩を見つけた。
 岩の上に石を積んだ。それを墓に見立てた。
 暗くなっても、順は岩の前にいた。
 なぜ、若頭は死んだのか。そればかりを考え続けた。
 結局、組長の陰謀を疑うだけだ。
 怒りが湧いた。組を、組長を、対立する組を、ヤクザそのものを怨んだ。皆殺しにしてやる・・・八つ裂きにしてやる・・・事務所ごと火あぶりにしてやる・・・あらゆる殺意と破壊の衝動が、順の体を焦がした。
 気が付くと、朝になっていた。
 不思議と、気は鎮まっていた。
 岩を離れて、河原を出た。近くの倉庫にもぐり込み、木材の間で体を横にした。
「だれだ?」
 声をかけたのは久麗爺、順が寝ていたのは久麗木工家倶工場の木材置き場だった。
 順はここで働き始めた。
 仕事がうまくいかなかったり、先輩に叱られては、河原に出た。岩に向かい、時には愚痴をこぼし、時には泣いた。そうすれば気が鎮まった。
 だれに教えてもらった訳ではないが、順は日々の強欲を岩に封じていた。けれど、時が経ち、岩に溜められる強欲に限界が迫っていた。

 岩に溜められていた強欲は、すべて開放された。
 そして、元々の体にもどった。
 順は体が硬直していた。あ・・・ああっ・・・息をしようにも、腹筋が動かない。
 あまりに大きな強欲が体に入った。脳が、内臓が強欲に耐えきれず、今にも破裂しそうだ。
 シェーリは体を寄せ、順と胸を合わせた。
「思い出したか、自分自身を」
 息ができるようになった。体の硬直が和らいでいく。が、腹に大きく重い物が入ったようで、腰が落ちかけた。
 順はシェーリに支えられ、また自分の足で立った。
「おれは・・・おれは、世界を手に入れたかった・・・」
 久麗木工家倶で働きながら、いつも順は考えていた。でも、自分が思う世界が何なのか、どうやって手に入れるのか、手に入れて何をするのか・・・全く分からなかった。
「焦らなくて良い、世界は目の前にあるのだから」
 シェーリが背中をさすった。順の呼吸は落ち着いてきた。
 と、視線に気付いた。
 土手に久麗爺がいた、朝の散歩の途中か。
 シェーリはかまわず、順の肩に顔をうずめた。背中に回した手もゆるめない。
「いつの間に、そんな関係になっていたとは。ああ・・・若いってすばらしい・・・」
 久麗爺は昭和の歌を口ずさんでみた。
 見上げれば澄んだ青空だ。大雪山の融水で田は水に困らないが、畑は雨を欲しがる。雨乞いの祭が求められる時期だ。
「さあ、2人とも中に入れ、朝飯を食おう。連中も来てるし」
「れんちゅう?」
 久麗爺は工場の方を振り返った。
 じゃじゃーん、エレキギターの音が聞こえてきた。フィリピンの3人が早出で練習を始めている。
 シェーリは順から離れ、久麗爺の後を追う。
 順も追って歩いた、足が重い。家出の原因を思い出した。
 順は音楽が好きだった・・・登下校にはステップして、家では机をドラムにしてたたく。うるさいと父に怒鳴られ、遊ぶなと母に叱られた・・・音楽を否定され、妙な宗教の勧誘を手伝わされた。順は親を捨てた。
 ずいぶん道を踏み外した、後悔で胸に穴があきそうだ。何もかも手遅れか、最も大事な時期をヤクザや家具作りに費やした。失った時間を思えば、目に涙がにじんでくる。
 でも、と考えた。
 ベンチャーズのギタリスト、ドン・ウィルソンがバンド活動を始めたのは26才、ボブ・ボーグルは25才だ。それまでは建築現場や中古車販売店で働いたり、自分の進むべき道を見つけられずにいた。
 自分は25才、ちょうど同じ年頃だ。間に合うかもしれない。
 順はシェーリを追って歩を早める。まだ、足は重い。


 久麗木工家倶の社長、久麗念努は永矢摩神社を訪れていた。新商品の縄を売り込みだ。
「木工家倶工場が縄を作った?」
 水野九美は縄を手にして首を傾げた。
 稲わらの縄と少し見かけが違う、匂いがある。1本の長さは2メートル以上、太さは3センチほど。途中につなぎ目が無い。つるりとした表面は光ってさえいる。
「エゾスギなどの間伐材が元で、いつもは捨てる鉋クズを縒って縄にしました。ヒノキの鉋クズを混ぜて、防虫効果を出そうと」
「ああ、ヒノキの匂いですか」
 九美は頷いた。
 念努は胸を張る。でも、嘘をついていた。最近の工場で使う電動鉋では、出る鉋クズは粉になる。縄を作るため、特別な鉋掛けをしたとは・・・口が裂けても言わない。エコな試みと言うだけ。
「鉋クズを使ったストローが商品化されてます、うちではありませんが。ストローが作れるなら、縄も作れる。そんなところです」
 今回は木質縄を神社に奉納する。宣伝のためだ。
 それを見た人達が会社に問い合わせてくれたら、商売の本番となる。こんな奉納は安いものだ。
「最近は良い稲わらの入手が難しく、また縄を作れる人材も不足しているとか。しかし、天然素材の木質縄なら、稲わら製の注連縄に代わる新しい・・・」
「久麗のお爺さんに似てきましたね」
 九美の指摘に、念努の演説はフリーズした。
 久麗爺は念努の父である。が、父よりスマートな営業を心がけてきたつもりだった。その心づもりが砕けた。
「公園のステージの飾りとか、その辺りなら使えるでしょう」
 採用の言葉が出た。念努は胸をなでおろした。


 時計が午後5時を回った。
 作業着から私服に着替え、またバンドの練習が始まる。
「アミプ持って来ましたよ。こんな事もあろうかと、とっておいて良かったわ」
 工場長、久麗美智が衣装ケースを台車に載せてきた。ケースを開ければ、アイヌの民族衣装と小道具がある。アミプはアイヌ語で衣の事だ。
 木綿の生地はやや茶色味ががって、仕事着な雰囲気。袖口と襟、肩に藍染めのアップリケを縫い込んである。
「アイヌ模様の半被みたい」
「ステージ衣装と割り切ってね。下は普段着でも良いから、お祭りの雰囲気が出れば御の字よ」
 順はアミプをはおる。藁を編んだ冠、サパンペをかぶった。付け髭があれば、アイヌっぽくなるかもしれない。
 シェーリは白い地に赤い襟と袖口のアミプを着た。カパラミプと呼ばれる礼服にあたるアミプだ。
 他のアミプより薄い生地は軽い、ぴょんと跳んで回ってみた。
「その赤いのは・・・前に使った時は、アイヌらしくないと言われたのよ」
「らしくないの?」
 美智は口をへの字にする。
 久麗爺が来て、笑っていた。
「江戸時代中期の古い絵図では、アイヌの女が赤や黄色の衣装を着るのは当然だった。ただ、江戸の末期頃、和人の蝦夷地進出が盛んになると、アイヌの女たちは派手な化粧をしなくなる。それどころか、顔にイレズミを入れたりして、和人との交流を拒否した。アフリカのホッテントット族の女たちがしたように、な。あれも他部族の男との婚姻を拒否する女の心意気だった」
「そっかあ!」
 シェーリは声をあげて頷いた。
「アイヌの女が地味な衣装を人前で着るは、つい最近の事なのね」
「江戸末期から昭和の前期まで、ほんの100年間ほどの出来事だな。でも、それを1000年前からの風習と誤解する向きもある」
 久麗爺の語りに、シェーリは考えた。南ベトナムの女たちにも、アイヌと同じような気風があったかもしれない。
 祖母は古い因習が残る村に産まれ育った。でも、韓国軍の兵隊たちが力づくで破った。祖母はレイプされて、母が産まれた。タブーを破られて産まれた母は、奇形児を産んだ事も重なり、村にいられなくなった。そして、村を出てホーチミンへ移り住んだ。

「アミプの下は普段着で良いのですね」
 順が問えば、美智は大きく肯いた。
「リアリズムは必要で無いしょ。アイヌのお祭りじゃないし、みんなはアイヌでもない」
 うんうん、皆が同意して肯く。
 シェーリは腰をひねり、スラックスの足を気にした。
「ステージ衣装なら、スカートの方がいいかなあ・・・」
「天ノ岩戸の前で、アメノウズメ命はホトも露わに踊り狂った、と云う。素足が見えるスカートの方が色っぽいだろうな」
「ほと?」
 シェーリが知らない言葉に首を傾げた。
「女の股だ。そこを火の戸と書いてホトと読んだのだ」
 久麗爺はシェーリのへそ下を指し、指で三角を宙に描いた。
「ストリップショーをしたの!」
「いや、単に足を上げて踊ったくらいの話しだろう。昔の女の下着は腰巻きくらいだ。ちょいと足を振り上げれば、股間も丸出しになる」
 シェーリは自分のへそ下を手でかくした。
「スカートで、パンツを着けないで・・・ステージに上がると」
「パンツを忘れたくらいなら、男は喜ぶだろう。が、故意にパンツを着けないのは、今は警察沙汰になる。やめてくれ」
 シェーリは両手を上げた。パンツは必ず着けると了解した。
 ドレスのヒップラインを気にして、下着に苦慮する女は多い。理想のヒップラインはノーパン時のものらしい。Tバックやボディスーツなど、ヒップラインを矯正する下着があるくらいだ。
「しかし、あえてアメノウズメ命が股を露わにしたと書く事で、天ノ岩戸伝説の真相が見えてくる。妊婦が陣痛を起こし、産屋にこもる。村の衆が産屋の前で祭を始める。妊婦があげる陣痛の声に合わせ、外の男たちも叫ぶ。大昔には、出産は村をあげてのお祭りだったのさ」
「出産はお祭り・・・」
 シェーリは首を振った。
「せっかくお祭りをしてくれても、死産だったり、奇形児が産まれたりしたら、がっかりしたでしょうね」
「昔の女は頑張ったよ。1人目がダメなら、2人目を。それがダメなら、その次ぎを。いっぱい産むうちには、出来の良いのがいれば、出来の悪いのもいる。そこは割り切りだよ。1人を産むにも1年がかりだから、なかなか気楽にはいかないだろうが」
 シェーリは口をつぐんだ。
 ベトナムで産んだ子を思いだした。人の顔をしていなかった。へその緒を切ると、初声も上げずに死んだ。
 祭をしてもらう資格の無い女・・・ずっと思っていた。

 シェーリは巾の広い鉢巻きを頭にした。模様が左右対称になるよう気を付ける。アイヌの女たちの礼装だ。
「前髪を垂らしちゃダメよ。全部後ろにまとめてね」
 美智のアドバイス。口を尖らして、鉢巻きの下に出た髪を後ろへやり、巻き直した。
「アイヌは額を広く見せるのがオシャレなんだ。額が狭いヤツ・・・と言えば、アイヌ的には相当な悪口になる」
「額は広く見せるのがアイヌ風かあ」
 久麗爺がオシャレの理屈を言った。
 ぶつぶつ言いながら、シェーリは手鏡でチェックする。手を止め、首を傾げた。
 額をおおう白い鉢巻き、中心の左右に大きなオレンジ色の渦巻きがある。
「この模様・・・なんか、恐いなあ」
「これはシク模様だね。フクロウかタカの目を模してるんだ」
「ふくろう?」
「ベトナムにはいない鳥かもな、寒帯の鳥だから。今でこそ、フクロウは森の奥にだけ住んでいるが、昔は人里の近くにもいた。で、たまに人家の屋根裏なんかに巣を作ると、その家は繁盛すると云われたものさ。フクロウはネズミの天敵でもあったし。なので、人里の木や家に住むフクロウを、アイヌは特別にコタンコロカムイと呼んだ。村の守り神様、とね」
「フクロウは神だったのね」
 永矢摩神社でも同じ事を聞いた。ネズミの天敵を神の使いとするのは、日本の宗教の特徴と納得した。
 シェーリは背中を気にした。腰をひねり、尻を振ってみる。
「帯を後ろで結んで、下に垂らしたら、鳥の尾羽に見えるかな」
「その衣装を鳥に見立てるなら、良いかもね。どうせ、アイヌらしくないと言われてるし」
 美智は提案に乗った。和服の着物に習い、幅広の帯をシェーリの腰に巻き、背中の結びを大きくして垂らした。
 シェーリは姿見に自分を映し、くるりと回った。
「うん、コタンコロカムイらしくなってきたな」
 順が肯いた。 
 シェーリも笑みになる。
「コタン・・・いや、モシリコロカムイこそ我にふさわしい呼び名であるのに」
 シェーリのつぶやきは、妙に野太い声だった。



10. 前夜祭の始まり


 雨は夜明け前に止んでいた。畑には良いお湿りと言ったところ。
 川霧が晴れて、鳥居に朝日が差した。まだ、地面は少し濡れている。
 永矢摩神社の境内、サマイクル命の大岩の前に小さな祭壇が建てられた。新しい注連縄もかけられた。
 水野九美は巫女姿で祭壇前に立つ。祓串を左に右に祓い、礼をして手を拍った。そして、ため息をついた。
「抜け殻の御神体もどきに祈ったところで、何になるのやら・・・」
 祭壇に添えた御神酒と少々の供物を見て、また虚しさが胸を吹き抜けた。
 祭の期間、見た目だけでも整えておかねばならない。仮りにも御神体の看板がある大岩だ。
 来るっ!
 ぞわ・・・背に悪寒が走った。
「姉様」
 まりかが封じの壷を手に駆けてくる。異変が来るのを察知していた。
 鳥居の外に黒い大型セダンが停まった、金ぴかのフロントグリルが強欲だ。
 リヤドアが開いて、ちょっとメタボな腹が降りた。ぎらり、金歯が光る。
「おおっ、水野九美さん! また宝田岩倶郎が永矢摩神社に参りましたあっ!」
 両手を広げ、唇を突き出して、六十男のビヤ樽腹がダッシュして来た。
 九美は左足を半歩引き、半身でかまえた。かわしたら、祭壇が壊される。
 岩倶郎が大股で右足を踏み込んで来た。
 九美も右足を踏み出して、岩倶郎の踏み込みを受け止める。同時に左手で岩倶郎の右手首をつかみ、右手は右脇下をつかんだ。
 はっ、気合いで左へ体をひねり、左足を大きく踏み出した。
 とおっ、柔道の大技、体落としが決まった。
 腰を落としての投げなので、半分背負いが混じった。
 しかし、相手の右腕を極めた投げだった。伝説の投げ技『山嵐』にも近い投げである。柔道オリンピックルールでは反則の技、よい子はマネしてはいけない。
 ごろりんごろりん、岩倶郎の体が転がった。突進を30度偏向させ、祭壇を守るのに成功していた。
 投げの高い位置で手を離した、受け身はとりやすかったはず。
 ふっふっふっ・・・岩倶郎は不敵な笑いで立ち上がる。
「良い投げでした。深い愛を感じましたぞ。これこそは、わたしとあなたのう・・・めっいっ!」
 九美が気を放った。
 岩倶郎の腹から強欲が祓い出された。
「姉様、これへ」
 まりかが壷のふたを開けた。
 とーっ、強欲を気合いで壷に押し込む。
 まりかが壷の蓋を閉じ、組紐で封をした。
 ふう、九美はひたいの汗をぬぐった。また身形を整えずにお祓いをしてしまった。
 ぱたり、岩倶郎が紙の看板のように倒れて大の字になった。すっかり腹はへこんで、ベルトがズボンの輪を支えている。
「確か・・・この前にお祓いしたはずでしたが」
 まりかが手にする壷は、ずしりと重くなっていた。こんな短期間に溜められる強欲ではない、そう思った。

「理事長」
 秘書の佐多啓次が来た。相変わらず細い体、ひょろひょろした走りだ。
 うーむ、岩倶郎が気づいて、頭を振りつつ立ち上がる。ぽとり、ズボンが地面に落ちた。
「きゃっ」
 まりかが手で顔をおおった。
 それ以上に、九美は驚いていた。
「祓い鈴を鳴らしてもいないのに、勝手に気付くとは。サマイクル命がいなくなったせいでしょうか・・・」
 今後のお祓いは、以前のようにはいかない。それを実感した。
 わははははっ、岩倶郎は腰に両手をあて、ヒーローポーズで笑った。しかし、ズボンは足首にひっかかり、毛むくじゃらの両足が丸出しだ。変態露出マンの一歩手前である。
「この宝田岩倶郎、他人様に対してかくす所は1点も無し!」
 岩倶郎は上着に手をかけた。ネクタイをはずし、シャツを放り出し、足首にまとわりつくズボンを蹴り飛ばした。
 むきっ、ばりりっ、3段に割れた腹筋を露わにした。白いブリーフ1枚だけのマッスルポージング、フロントラットスプレッド!
 九美は目を細め、岩倶郎の下半身を視野がそらす。
 薄布1枚は身に着けていたけれど、その中でとぐろを巻く物の形はくっきり出ていた。せめて、黒いブリーフなら目立たなかったろう。
 筋肉コンテストなどでは、股間をきつく締め上げる特別なパンツが使われる。アレの形が目立ってはいけない、アレがはみ出たら失格。そういうルールがあるのだ。
 啓次は岩倶郎が脱ぎ捨てた服を拾い集める。濡れた地面に転がったから、服は湿って重たい。軽い啓次は重い服を抱え、右へ左へよろめいた。
 岩倶郎は肩に胸に力を込める、むきむきと大胸筋が震えた。
 九美は半歩後退、筋肉から距離をとる。強欲は祓い落としたはずだが、別の欲が湧いて出てきて臭うようだ。
「け、今朝は会いに来ただけですか?」
 九美の問いに、岩倶郎はサイドチェストへポージングを変えた。腰が横を向いて、ブリーフの中の固まりは目立たなくなる。
「今日の前夜祭には、うちの生徒が演芸で参加します。なので、その前に、生徒たちにもお祓いを・・・お願いします!」
 むきっ、金歯を剥きだしてのモスト・マスキュラーのポージング。またしても、九美へブリーフの正面を向けて迫る。
 九美は抵抗できない、ただ肯くだけ。貞操の危機を感じた。
 そして、事実を悟った。宝田岩倶郎の真の強欲は祓われていない、と。この男の強欲はタマネギの皮のごとく、祓っても祓っても別の強欲が現れるだけ、尽きることは無いかもしれない。



 青葉順は休憩所で眠そうな目をしていた。
 昨日の朝を思い出そうとして、記憶が飛んでいると気付いた。目がさめると、河原にいたのだ。しかも、シェーリが抱きついていた。
 もしや、あんな事やこんな事があったのでは、とエッチな妄想が湧いてしまう。
 社長、久麗念努が現れた。
「さあ、今日は前夜祭なので、工場は稼働しない。露店担当は商品を準備、演芸担当は練習。出発はお昼だ」
 おお−っ、皆が声を上げて応えた。
 シェーリは拍手して順を見た。
 順の方は首をひねりつつ、腰を上げた。ぐきっ、体のどこかで骨が鳴った。
 じゃっじゃーん、ミゲルが派手にギターを鳴らした。


 昼過ぎ、久麗木工家倶の面々はトラックで永矢摩神社に向かった。
 車から降りて、久麗爺は鼻をひくつかせた。
「なんか・・・イヤな臭いがするぞ」
「そっかあ? 元は神社の敷地だったから、良い土の匂いだがな。今時は、公園と言えども地面をコンクリートで固めてしまう所がある」
 志藤が笑って言い返した。
 土のグランドは程良い湿気で固まっている、昨夜の雨のおかげだ。少々の風が吹いても、土埃が舞う場面にはならないだろう。
「これだ、このビニール臭いテントのせいだ!」
「テントが?」
 公園を囲むように露店用のテントが建てられていた。テントの生地は防水のためにビニール加工が施されている。
「昔の祭の露店と言えば、竹とムシロで組まれたものだ」
「まあ・・・半世紀前の祭なら、そうだったかもな」
「ここしばらく、祭に顔を出さなかった。その原因が分かった。よおし、夏の祭では、久麗木工家具の露店はビニールテントを使わない。天然素材の木質テントを作って出すぞ!」
 久麗爺が吠えた。
 実のところ、ビニールに臭いは無い。久麗爺が感じていたのは、テント生地についたホコリの臭いであり、防虫剤や殺菌剤の臭いだった。
「ビニール臭いと言えば、冬の防災避難訓練に参加した時は、体育館の床に敷かれた青いビニールシートが臭かった。あれじゃ、避難所シックになってしまう。避難所用の木工家倶が有り得るだろう」
「それは・・・どうかな」
「これも新しいテーマだ。小洒落た家に収まる物ではなく、いざと言う時に役立つ家具を考えよう」
「タイタニック号の沈没では、木製の柱時計につかまって助かった人がいるらしい。あるかもね・・・」
 志藤は久麗爺に合わせて手を拍っていた。キレる老人の相手をするのも楽じゃない。
 順は楽器を降ろしながら、首を振っていた。
「またクレージーが始まった・・・」
 テーブルに商品が置かれた。もちろん、テーブルは久麗木工家倶が作った折りたたみ式である。
 神棚用の木質注連縄、木の薄皮を編んだトートバッグ、木の薄皮のクッション、従来の家具とは一線を画した商品構成だ。木の皮を編んだ物は昔からあったが、手触りは固い物ばかり。今回の出品では、極薄の皮で柔らかさを主張する。
 広場の反対側には木彫工芸の露店が別にある。あっちとはかぶらない物を選択して持って来た。

 シェーリは露店を見て歩いた。ほとんどは食物屋、まだ準備中だ。
 お面の店を見つけた。軽いプラスチックの面、ウルトラマンや仮面ライダーなどのヒーローが多い。鬼やキツネなど、昔ながらの面も売っていた。
 キツネの面に指で触れ、動物の割れた口元をなぞった。死産した子の顔を思い出した。あの時は、人でないものを産んだ自分を恐怖した。
 昔の神社には、奇形の子を稚児や巫女として養う風習があったらしい。医学や制度の発達が神社の役割を小さくしている。
 結局、フクロウの面を買った。今日の衣装はフクロウを模している。
 と、同じ寮にいるベトナム人の顔を見つけた。3軒先の露店前で見物中。そこは綿菓子屋、お祭りでは定番の店だ。
 お祭りとあって、あちらの仕事も早く終わったらしい。

 順は演芸が行われるステージを見た。
 中央奥には直径2メートルを超える永山大太鼓が据えられていた。大き過ぎて移動が不能な楽器、最初から置いてある。太鼓の演奏は大音量で盛り上がりそうだ。
 こちらはエレキギターである。よりメロディアスな曲を奏で、太鼓との差別化をしなければならない。
 社長の久麗念努がスケジュール表を持って来た。
「前夜祭の開会式は午後4時、演芸は5時から。演芸は7時半に終了する」
「7時半くらいじゃ、まだ空は明るいですね」
「ちょうど日没の頃だな。最近は騒音が問題になりやすい、遅くまで音は出せないのさ」
 順は表を見直した。久麗木工家倶の出番はラスト、7時過ぎになっている。
 この時期、北海道の昼は長いのだ。
 江戸時代なら、日の出から日没までが昼間だ。現代において、午後5時過ぎはアフターファイブ、夜と見なされる。太陽より時計が優先する時代である。
 青空を見上げ、視線を下げると、道路をはさんで鳥居があった。永矢摩神社の御神木ヌサコルフチ命の木立がある。緑の葉が陽に映えて、輝いて見えた。
「この辺りじゃ、1番の大木だな」
 順は肯いた。
 公園内の木はどれも細くて若い、樹齢は20年くらいか。公園が整備される時、古くからあった木が伐採され、新しく植え直されたのだ。市街地の古い木が切られる理由は様々、多いのは伸びた枝や根が境界を越えた場合だ。
 街を歩きながら切り株を見る事がある。年輪を数えて、あの木はもったいなかった、と思う木工家倶の職人である。


 午後4時が近くなると、陽が傾いて冷えてきた。空気が乾燥してるので、気温は急に下がる。
 前夜祭が行われる公園では、日中は暑さに半袖姿でいた人たちも、長袖を着込んで最後の準備をする。
 永矢摩神社の境内では、提灯に火が入れられた。昔ならロウソクだが、時は移ってLEDの灯り。
 水野九美は提灯の列を見て肯いた。木陰が長くなって、薄暗くも感じ始める時刻だ。
 夏の祭では境内にも露店が並ぶが、今回は提灯だけ。喧騒は公園から流れてくる、静かな境内である。
 どんどーん、空で花火が鳴った。昔ながらの号砲、前夜祭の開会式を告げる合図だ。


 永山商店街の会長、伴代造がステージ中央のマイク前に立った。
 ステージ下の若い顔ぶれを見て、つい顔がゆるんだ。日頃の会議では年寄りとばかり顔を突き合わて、腰と首が曲がりかけていた。
「えー、本日はお日柄も良く・・・」
 定型文の挨拶をしながら、若い女たちを目で追っていた。
 あれは噂のベトナム研修生の子たちか、結婚して日本に定住してくれんかな。近頃の日本の女どもは、やたらと男の選り好みや年収やらを求め過ぎる。貧しくとも、子供を産んで母になろうと言う気概に欠ける・・・頭の中で妄想をふくらませ、腹を揺するオヤジであった。
 役員席のテント下で、金子斡召は祭の協賛企業を値踏みしていた。街の外れの支店長ではあるが、銀行家として野心はある。
「上川神社や護国神社の祭りじゃないから、規模が小さい。村の祭りレベルだ。少子高齢化で預金高も貸付高も増やせない。街中支店の支店長が倒れてくれないと、わたしは出世できない」
 ぶつぶつ・・・広い額に汗をにじませ、口の中で日頃の不満を繰り返していた。
 萬屋万太郎は並んだテントを数えて、歯ぎしりしていた。
「祭の規模が年々小さくなって、売り上げは減るばかりだ。もっと街の外に向かって・・・いや、海外にアピールする祭にしないと、売り上げがアップしない!」
 神社よりも、売り上げへの信仰が強い男であった。
 演芸の1番手は永山小学校の児童たちが演じるブレークダンス、和舞でもなく民謡でもないのが今風だ。子供を早く家に帰すため、早い時間帯にセットされた。
 次は永山太鼓の演舞、中学と高校生が主たるメンバー。ステージ中央の永山大太鼓が勇壮な響き。暗くなってからでは、近所迷惑とクレームが出そうな音量だ。


 ステージ裏では、順が歌詞カードを手に最後の確認をした。エレキギターの演奏だけでは、聴衆を引きつけられない。歌詞のある曲をプログラムに入れていた。

 森と泉にかこまれて
 静かに眠る
 チュ チュプ チュプベツ
 あなたが ぼくを待っている
 朝日に輝く
 チュ チュプ チュプベツ
 きっとあなたは 赤いバラの
 バラの香りが 苦しくて
 涙をそっと 流すでしょう
 チュ チュプ チュプベツ

 フィリピンの3人にとっては、なじみ深い『ブルーシャトー』の替え歌だ。温泉ホテルのステージで100回以上も演奏した、楽譜無しで演奏できるレパートリーの内である。
 今日のステージ衣装はアイヌの民族衣装だ。それに合わせて、歌詞の全てをアイヌ語にと思ったが、分かりにくくなると感じた。で、地名の部分だけをアイヌ語にしてある。
「他人の歌を勝手に変えて良いのかな・・・」
 カルロが首を傾げた。著作権の縛りがきつくなり、ホテルに合わせた編曲が難しい時代がきていた。
「この歌は、昔から多くの替え歌があった。大丈夫だよ」
「替え歌が?」
「もりトンカツ、いずみニンニク、かコンニャク、まれテンプラ・・・と有名な替え歌がある」
「そんなのがあるんだ」
 順の説明に、口をあんぐりとしてしまうフィリピンの3人であった。
「このチュプベツて、何?」
 カルロが歌詞を理解できずにいた。
「旭川の古地名さ、アイヌ語だよ。チュプベツ、直訳すると太陽の里とでもなるかな。たぶん、街の北西の嵐山の頂上あたりから、早朝に見た風景の印象だろう。朝日を映す川・・・で、旭川になったのかもね。旭川の地名は100年以上前、明治に付けられた。あの頃、山から見たら、石狩川より忠別川の方が太く見えたんだろうね」
「ああ、チュプベツから忠別川と言うようになって。町の名前は日本語に訳して」
「100年以上前か・・・」
 ミゲルが歴史に肯いた。フィリピンの100年前と言えば、アメリカが新しい支配者として乗り込んで来た時期である。それまではスペインの植民地だった。
「バラの・・・チュプベツ・・・かあ。秩父別のローズガーデンと間違いそう」
 シェーリが突っ込みをしてきた。
 秩父別のローズガーデンは石狩平野の北端に位置する観光施設だ。春から秋まで、色とりどりのバラが咲いている。
 ちなみに、旭川から秩父別へ車で行くには、旭川鷹栖インターから高速道路に入って札幌方面へ。深川ジャンクションから留萌方面へ行く。秩父別インターを降りれば、すぐローズガーデンである。道のりは50キロ弱、1時間もかからない。が、隣町と言うほど近くはない。
「旭川だって、上野ファームのバラが・・・少しは有名なんだ。永山と当麻の境にあるぞ」
「そうですね。バラ園はあっちこっちにあるし」
 シェーリは笑みを返した。
 順は肩で息をしてしまった。
 外国人に日本語を説明するのは難しい。しかも、アイヌ語を交えた翻訳的説明。言ってる方が混乱していた。


11. 復活の巨神


 太陽が北西の山にかかり、空の色が変わった。低い雲は金色に輝くようだ。
 拍手があって、ステージの踊りが終わった。
「さあ、おれらの出番だ!」
 青葉順が気合いをかけた。
 演奏に先立ち、ギターアンプとドラムセットをステージに上げなければならない。ここは男の仕事だ。
 広場の聴衆は百人以上、待たせてはいけない。

 鈴木寛司は目を開けた。薄闇の中で長く倒れていた。
 立ち上がろうとして、頭をぶつけた。建物の梁だった。辺りを見廻し、高床式の建物の床下と知った。
 蜘蛛の巣をかき分け、這って明るい方を目差した。何やら、にぎやかな音楽も聞こえてくる。かつては歌って踊れる最強の神主と言われた、音楽のうんちくは持ち合わせていた。
 ・・・早く行かねば・・・
 自分の中で命じる声がした。
 寛司は床下を出た。
 木立が生い茂る境内は暗くなり始めていた。並んだ提灯がほんのりと明るい。その先には鳥居がある。
 頭上の空には明るさが残っていた。
 鳥居の向こう側、公園では前夜祭が行われている。照明で真昼のように明るい。そこから音楽が流れてくる。
 ・・・行かねば・・・
 寛司はゾンビのような足取りで鳥居へ向かった。

 3曲目、いよいよ『ブルーシャー』を演奏して歌う。
 この曲はイントロが命とも言える曲だ。
 シェーリはムックリを咥え、ドラムに合わせてリズムを入れた。
 ムックリはアイヌの伝統楽器だ。口腔を共鳴器として使い、あごの開きや口の形で音色を変えられる。大きな音程の変化は付けられないが、うなりのような音を出せる。エレキギターとキーボード、ドラムスの正統的なバンド構成に加えた変化球だ。
 ジャッキー吉川とブルーコメッツの場合、前列の中央、井上忠夫がサックスやフルートを吹いて、他のバンドとの違いを演出した。
 井上忠夫は作曲者でもあった。ベンチャーズやビートルズにも伍する曲作りを心がけていた。が、出来上がってみれば『ブルーシャトー』は古風な響きの歌謡曲だった。それゆえ、日本国内では大ヒットとなった。しかし、作曲者の立場からは、ブルーコメッツが日本国内だけのローカルバンドに堕ちた不本意な曲であった。
 井上が『ブルーシャトー』に込めた抵抗はイントロである。一般的な歌謡曲では、イントロは主旋律の短縮であったり、曲全体のダイジェストとなっている。『ブルーシャトー』ではファンファーレのような導入部、主旋律を含まない3段構成のイントロを作った。『月光仮面』や『エイトマン』や『巨人の星』など、子供番組の主題曲に似た出だしの作り。後には『異邦人』が同じ手法を使った。


♪森と泉にかこまれて
 静かに眠る
 チュ チュプ チュプベツ
 あなたが ぼくを待っている
 朝日に輝く
 チュ チュプ チュプベツ
 きっとあなたは 赤いバラの
 バラの香りが 苦しくて
 涙をそっと 流すでしょう
 チュ チュプ チュプベツ♪

 間奏には、またシェーリはムックリでリズムを入れた。
 と、公園の入り口に人影を見た。
 曲を聴いていた人達も異臭に気付いて、辺りを見廻す。詰まった下水管の臭い、ディスポーザーの排気管からの臭いが近くにあった。
 警備員が臭いの元に近寄るが、伝染病を恐れて手を引っ込めた。今日は防水性の高い衣服ではないし、防水手袋もしていない。
 ゆらりゆらり、鈴木寛司は頭と肩を左右に揺らして歩く。ついに、ステージ正面の真下に来た。
 ・・・来たか・・・
 シェーリは両手を広げた。
 エレキギターが高く奏でる。イントロと同じ3段構成の曲エンドで盛り上がる。
 ジャーン、ギターの音が響いた。
 シェーリは気を放った。公園にいる人達すべてが固まった。
 鈴木寛司の中から大きな強欲が解き放たれた。数日前まで、サマイクル命の岩の中に封じられていた強欲だ。青葉順の中にあった強欲も外に出た。
 そして、公園にいた全ての人達からも、それぞれ小さな強欲が外へ出た。

 その時、水野九美とまりかは社務所にいた。お守りなど、神社グッズを窓口で販売していた。今日は2人とも赤い緋袴の巫女姿だ。演芸が終われば、窓口を閉じるはずだった。
 どん、衝撃を感じた。
「姉様!」
 まりかは身を屈めて衝撃に耐えた。霊的な衝撃と知ったから、祓い鈴を手にした。
 一つ呼吸を入れ、九美は立ち上がる。社務所から出て、公園の方を見た。
「あれは・・・なんと!」
 九美とまりかは見た。
 公園の上に雲のような固まりがあった。集まった人々の強欲が外に出て、大きな固まりを作っていた。
 無論、普通の人には何も見えないはずだ。

 九美は走った。鳥居を越え、道路を渡って公園に入った。
 演奏の音は止まり、静寂の空間である。
 前夜祭の人々は凍り付いたように動かない。強欲が頭上で雲となり、皆と緒がつながっていた。数百人分の強欲は、さすがに大量だ。
 強欲は人の中にあってこそ意味のある存在だ。外に出てしまえば、漂うだけの霞のごときだ。たまに、多数の強欲たちは自らを束ねて一つであるかのように振る舞う。人が群れるように、強欲も群れて力を持つ。がしかし、どう力を使うか、そんな知恵は無い。なぜ力を使うか、そんな意思も無い・・・普通は。
 九美は人々の中に違う者を見つけた。
 ステージ中央に立つ白と赤の衣装、シェーリは両手を広げて天を仰いでいた。
 何者かが彼女の体から出て、強欲の雲の中へ入って行った。
 りーん、まりかが祓い鈴を鳴らした。が、人々は反応せず、固まったままだ。
「鈴が効かない!」
 まりかは手を引き、足を止めた。
 どーんどどーん、雷鳴のような衝撃がきた。
 強欲は渦となり、何かの形をとり始めた。人のような形があり、竜のような形もあった。
「アーイム、バーック! イワンケ・・・イワンケレ!」
 人の形になった強欲の雲は、ついに言葉を発した。意思を持ったのだ。
「大じじ様が・・・サマイクル命、こんなところに」
 九美は言葉の主を理解した。岩から出たサマイクル命が、集めた強欲を体の代わりにしたのだ。
 サマイクル命は宙に浮いていた。地上から2メートルあまりのところ、そこから身長は5メートル余り。さすが、巨大な八つ首竜を退治しただけあり、立派な体躯である。
 とは言え、まだ霞のように体が透けていた。密度が低く、実体には限りなく遠い。
「む・・・むう、イワンケレには・・・ほど遠いなあ。まあ、これっぽっちの強欲じゃ、しゃあないか」
 と、サマイクル命は背後の竜に気付いた。彼らも強欲を集めて体を作っていた。
「おう、久しぶりじゃのう。でも、3匹だけか。まあ、もっと強欲を集めて、残りも復活させようぜ」
 がはははっ、サマイクル命と3匹の竜は顔を合わせて笑った。
 なぜ、と九美はあきれていた。
 伝承では、サマイクル命と八つ首竜は敵対していたはず。その敵同士が意気投合している。伝承が間違っていたのか、長い時の間に友情が芽生えていたのか。
 サマイクル命は西の市街地を指した。
 すでに陽は落ちて、西の空にも夜のとばりがかかろうとしていた。街の灯りがまたたいて、昼とは違うにぎわいの顔を見せ始めた。
「見よ! この街の人口は30万ばかりだ。一人ずつは薄く小さな強欲でも、皆を集めれば、それなりに大きな物になるはずだ。かつて以上の体を作り、また一緒に大暴れしようぜいっ!」
 うおおおっ、サマイクル命は雄叫びを上げた。ぐわっぐわっぐわわーっ、3匹の竜も応えて天に吠える。
「大じじ様っ」
 九美が呼びかけると、サマイクル命は応えた。
「おお、お前か。ようも、我をこき使ってくれたの。が、もう我は何者にも縛られない、フリーじあ!」

♪をとこは一人で旅立てば、あぁん、それできっちり絵になるもの、さあぁあぁあぁ
 夏が来れば、ああんっ、恋のき・せ・つ、まだメランコリーいぃいぃっメランコリーいいぃっ
 それでもぉ旭川あたりでは、あぁんあん、オイラは良い男なんだぜいっ
 去年の恋は、あーっ、すっかり忘れて、えっえいっ
 今年の恋にっ、むちゅーになーれるっ、楽しいぃいぃ楽しいいぃっ予感だねええー♪

 サマイクル命は今の心境を歌った。梓みちよの『メランコリー』の替え歌だ・・・だったが、ひどく音程が外れていた。
 九美はひざをついた。あまりの音痴に気が遠くなりかけた。
 ガチャン、パリーン、近くでガラスが割れたか、瀬戸物が落ちたか。尋常ならぬ音がした。
 寛司は倒れた。強欲の緒が切れて、ステージ下に座り込む。意識はもうろうとしていた。
「大じじ様、あなたがいなくなったら、永矢摩神社は」
「自分で何とかしなよ。お前さんが住む、お前さんの仕事場だろ」
 九美の求めに、サマイクル命は首を振る。
 神社は神の居る社だから神社なのだ。神がいないでは、単なる建物になってしまう。
 サマイクル命は強欲の雲からギターを取り出し、じゃーん、奏で始めた。

♪ギターあぁあぁぁ、かかえってぇえぇ、ああてもなあくうぅうぅ
 よるぅにいぃ、まぎれてぇえぇ、なあいていっるうぅうぅぅ♪

 また、サマイクル命は歌った。小林明の『ギターを持った渡り鳥』だ。今度はギターの弾き語り・・・やはり、音程は大きく外れっぱなしだ。
 九美は両耳を手でおさえて身を屈めた、脳髄を直撃する衝撃波だ。
 ききーっ、どーん、がしゃん、国道の方から音がした。乗用車が事故ったか、トラックが横転したか、物理的な破壊力を持つ音痴である。
 わっわわわ〜っ、と竜たちがバックコーラスを入れた。
 ぱた、カラスが気絶して木から落ちた。その上に巣が落ちた。ヒナたちも一緒に気絶している。
 祭の準備が始まってから、公園には多くのポールが立てられ、提灯を吊すケーブルが引かれた。カラスは低空飛行の威嚇行動が取れなくなっていた。
 違う・・・そうじゃない・・・寛司は体が動かない。首を振るしかできなかった。
 九美は身を起こし、また頭上に浮かぶ強欲の雲を見た。
「大じじ様、こんなところで遊んでいると、大ばば様が来ますよ」
「大ばば? ああ、ヌサコルフチの事か。けっ、あれがどうした。おれは、おれだ!」
 じゃじゃーん、サマイクル命はギターをかき鳴らした。

♪うう〜〜っ、お祓いサボってええー、明るいとこに来たのさあぁーっ
 寝ころんでたのさあぁー、岩の上え〜
 流れる雲はあー、とっても自由でえ〜
 抱いていたのはあ−、穴のぉあいたギターあぁあぁ♪

 またしても、音痴節が炸裂した。今度は忌野清志郎RCサクセションの『トランジスタラジオ』の替え歌・・・のつもりらしい。
 もとより、サマイクル命は戦いを本分とする神だ。歌の神シノトサコロカムイではない。
 ああっあぁあぁあぁっ、と3匹の竜がコーラスを入れた。
 バンッ、公園横に駐まっていた車のタイヤがパンクした。バチバチッ、電線から火花が飛んで、照明の一部が切れた。
 ステージ上では、シェーリが倒れた。緒が切れて、意識がもどった。頭上で歌うサマイクル命と3匹の竜を見た。
 九美はまりかを抱いた、半失神状態だ。

 公園のバカ騒ぎをよそに、永矢摩神社の境内は静まりかえっていた。神の力が働いて、騒音を遮断していた。
 大木が身をよじり、その本性を表に出そうとしていた。


12. 邪神封印


 チェシャ猫のニヤニヤ笑いな細い月が、西の山に落ちて行く。
 すっかり空は暗くなった。
 ヌサコルフチ命は仮の姿を捨て、実体を現した。
 皮膚は豊かな黒土である、数千年の時をかけて熟成してきた。体を覆う緑のコケや菌類は、土を養分に変える大事な物たち。が、それだけでは草くらいしか育たない。
 積もった地層に穴を開ける木の根が要る。深い地層と表層とで水分やミネラルを交換する木の根が、大地に豊かさを与える。こうして、ようやく穀物が育つ環境が整うのだ。こんな環境の無い土地で農耕を試みれば、毎年のように大量の肥料を投入することになる。
 それゆえ、ヌサコルフチ命は木を仮の姿とした。身長は10メートルあまり、BWHは7メートル5メートル6メートル、地母神らしい堂々たる体躯だ。ウイーンの舞踏会へ出るには、少し太過ぎるかも。
 しかし、せっかく育った土も、暴れ川は押し流して荒れ地にしてしまう。洪水を司る暴れ竜は、絶対に鎮めておかねばならない。
 ずーんずーん、足音が響いた。
 ヌサコルフチ命は鳥居を踏み越え、前夜祭の公園へと入って来た。
「あ・・・・・・」
 サマイクル命はギターを弾く手を止めた。
 まりかが失神から回復する。
 ヌサコルフチ命は手をのばし、サマイクル命の耳をつまんだ。
「いたっ、痛いってばよ。ちょっと外で羽をのばしてただけじゃん、まだ何もしてねえよ」
 サマイクル命の言い訳にも、耳をつまむ指は力を抜かない。
 ぐいっ、耳を引っぱられて、足がたたらを踏んだ。
 どたどたたっ、強欲の緒が切れて、公園の人達の多くが倒れた。が、だれもが失神したままだ。
「うちらは見守りの神だよ。統べる神じゃないんだ」
 ヌサコルフチ命は耳をつまんだまま、サマイクル命を引きずる。
「いや、でも・・・たまには。いいじゃんかよう、暇なんだしさ」
 サマイクル命は抵抗できない。耳を引かれるまま、ステージ上空から降ろされた。
 ぐわああっ、3匹の竜が吠えて呼んだ。
 しっしっ、ヌサコルフチ命は寄るなと竜を手で追い払う。
 九美とまりかは手を合わせ、ヌサコルフチ命の背に頭を垂れた。
 ずーんずーん、足音が遠くなった。大きな背中は鳥居を越え、境内で消えた。ああーっ・・・サマイクル命の悲鳴も小さくなり、聞こえなくなった。
 元には、大きな御神木の影が街の光をバックにしていた。

「さて・・・」
 九美は振り返る。
 まだ強欲の雲は公園の上空に漂っていた。そこから3匹の竜が頭をもたげている。
 九美は駆けた。
 とおっ、気合いをかけてジャンプ、ステージに上がった。へたり込んでいたシェーリをつかまえ、立たせた。
「あの竜をお祓いします。手伝いなさい」
「え、でも・・・あたしは」
 シェーリは言葉をのみ込めなかった。
「シェーリさん、あなたには特別な力があります。それをサマイクル命が利用しました。もっと自分の母様と祖母様を信じなさい。あなたが受け継いだ力は、決して呪いではありません。死産した子のためにも、心を強くもって使うのです」
 九美はシェーリから手を放し、背を向けて竜を見上げた。
 強欲の雲は縮んでいた。残った強欲を束ねて、竜が体を作っている。じわじわ、竜の体は大きくなっていった。
 昔々、まだ八つ首の竜だった時、竜サマイクル命と戦って封じられた。が、その背後に身を潜めていた。今、体を再生する法を学び、復活しようとしている。
 携帯を取り出した。お祓いにも段取りが必要だ。
「パーカー、車を公園に入れて。トランクには封じの壷があるはずです」
「はいっ、おっぜうさま。でも、お祭りの最中では」
「お祭りの片付けにお祓いをします」
「はい、せうせうお待ちを」
 浜家幸平は相変わらず落ち着いた声。九美は気を静めて携帯を閉じた。
「あの子のために・・・」
 シェーリはひざを着いた、立っているのは苦しかった。寮の鏡で見た自分を思い出した。死産した子を思う強欲が自分の体をおおっていた。ずっと、どうすれば良いか分からなかった。
 昔の日本では、死んだ子を神社に託したらしい。そして、次の子は、と神に祈った。
 何もしなかった・・・と気付いた。口が裂けて頭の無い子が恐くて、ただ逃げていた。逃げて逃げて、日本まで来た。
 順は意識を取り戻した。何か大きな事が起きていると知った。
 ミゲル、ジョン、カルロ、フィリピンの3人組も気付いた。
「え・・・と、何をすれば?」
 順のつぶやきに、九美が振り向いた。
「ノリの良い曲をたのみます」
 ミゲルが頷き、ギターを弾いた。左手をスライドさせて、てけてけてけ、トレモロ・グリッサンドを演じてみせた。
「そう、それです!」
「なら・・・ダイヤモンドヘッドだ!」
 九美が頷いた。
 テケテケテケ、カルロもトレモロ・グリッサンドをやって、ベンチャーズの『ダイヤモンドヘッド』を宣言した。『パイプライン』と同時期のヒット曲であり、ハワイのスポーツサーフィンをイメージした連番だ。
 太平洋戦争で、朝鮮戦争やベトナム戦争でも、アメリカはハワイを経由して軍をアジアに送った。行きと帰りにハワイに寄って、自然とアメリカの兵隊たちはハワイの音楽や文化に馴染んだ。
 曲名の『ダイヤモンドヘッド』とは、オアフ島のダイヤモンドヘッド山の事である。それを見上げるワイキキビーチの波はおだやか、ノースショアのようにパイプラインを作る大波は押し寄せない。血なまぐさい戦場で傷付いた心を、ハワイの海辺で癒やし、兵隊たちは故郷へ帰った。
 ベトナム戦争の末期、南ベトナムの首都サイゴンが陥落して、引き揚げ兵が大量になった。予算不足のために、ベトナムから本国へ直帰する場合が多くなった。戦場で荒んだ心のまま故郷の土を踏み、問題を起こす帰還兵が相次いだ・・・と云う。
 ベトナム戦争の後、世界の音楽シーンは大きく変わる。

 強欲の雲は小さくなり、竜は体を細いながらも完成させようとしていた。
 とうっ、九美は跳んで、ステージから降りた。まりかと協力して竜を捕らえようとするが、うまくいかない。
 竜は暴れた。あと少しで体が出来上がる。そうなれば、自由に飛び回り、山や川から精気をもらって大きくなれる。大きくなって八つ首竜になれたら、後は暴れ放題だ。上流にある大雪ダムと忠別ダムを壊せば、川は自然の流れをとりもどし、昔のチュプベツになれる。
 シェーリは立ち上がった。
 両手を広げて竜へ気を放った。竜を捕らえたと思いきや、逆に引きずられてステージの縁に。
 もう、逃げない。
 シェーリは跳んで、ステージから降りた。
 ヘッドライトを輝かせ、車が公園に入って来た。スピンターンで後部をステージに向けて駐まった。
 幸平はレバーを引き、車のトランクを開けた。中には封じの壷がある。
 まりかが壷のふたを開けた。
 3人がかりで暴れる竜を捕り押さえた。
 テケテケテケ、3度目のトレモロ・グリッサンドがきた。
 竜を壷に押し込み、ふたをした。組紐で封をした。
 ばたばた、壷の中で竜が暴れる。でも、やがて静かになった。
 車のリヤサスは少し沈んでいた。
 じゃーん、ラストの一弾きで曲が終わった。
 静寂が公園をおおう。風が木の葉を揺らす音が聞こえる。国道の方から、消防車か救急車のサイレンが近付いて来る。さっきのバカ騒ぎで、何軒かの事故が起きたはずだ。
 ふう、大きく息をついて、シェーリと九美、まりかの3人は笑みを交わした。
 順も夜空を見上げて安堵していた。暴れる竜の姿は消えている。
「皆さんを起こさないと」
 九美が言うと、まりかは鈴をかまえて鳴らした。
 りーん、りーん・・・澄んだ音色が公園に響いた。


 役員席テントでは伴代造が気付いた。
「はっ、何とした事だ。演芸の時間が過ぎている。前夜祭は終わりの時刻だ!」
 金子斡召もテーブルにヨダレをたらしていたが、はたと時刻に気付いた。
「なんと、まだ照明が全部点きっぱなしだ。電気代がもったいない!」
 萬屋万太郎は眠い目で売店のテントをながめた。
「ああ、いっぱい売れ残ってしまって。明日が思いやられる・・・」
 ステージ前の見物人たちも気付いて起き上がる。
 強欲が抜けて呆とした顔、強欲の重しが無くなってさわやかになった顔、役員席の3人のように変わらない顔もある。
 ステージに久麗爺が上がって来た。
「ほら、今夜は終わりだ。片付けて帰るぞ」
「でも、シェーリが」
 順がシェーリの後ろ姿を指した。
 シェーリは2人の巫女と一緒に歩いて、公園を出て行くところ。
「女には女の用事があるんだろ。男は男の仕事をしろ」
 久麗爺のハッパが入った。

 公園のゴミステーションの陰で、寛司は食べ物をあさっていた。食い残しをかき集め、口に入れていく。
「まったく、もったいない食べ方しおって」
 ぶつぶつ言いながら、パックを開けて半分のフランクフルトソーセージ食べた。食べながら次のパックを開けて、冷えた半分のホットドッグを手にした。
 と、あってはならないゴミを見つけた。
 折れた傘、破けたクツ、割れた陶器の皿、信楽焼の狸の置物。不心得にも、祭のゴミに一般の家庭ゴミを持ち込んだ者がいたようだ。
 寛司はギターを見つけた。弦は6本あるが、裏を返すと穴が開いていた。
 穴を腹でふさいで、ジャンと弾いてみた。
「うむ、問題無い。ちゃんと弾ける」
 鈴木寛司は名前は普通ながら、歌って踊れる最強の神主と呼ばれた時期があった。今はホームレスだが、理不尽にもギターを弾く心得を持ち合わせている。
 腹が満ちて、少し心に入れるものが欲しくなっていた。
 何か弾こうとしたが、はて・・・曲が頭に浮かばない。心までホームレスになりかけている自分に気付いた。


 浜家幸平は車を停めた。御神体サマイクル命の岩の前である。
 トランクを開けた。封じの壷に耳を寄せると、ごとごと、小さな音がした。竜が中で動いている様子だ。
 九美は御神体の岩に身を寄せた。ひたいを岩肌に付け、中の気を探った。
「サマイクル命が帰って来ました。これで、またお祓いができます」
 まりかが壷の組紐を解いた。ふたがずれて、強欲の雲が漏れ出てきた。
 シェーリは身をこわばらせた。
「祓いたまえ、清めたまえ・・・」
 ぱん、九美は手を拍ち、御神体に向かって頭を下げる。シェーリも習って頭を下げた。
 まりかが祓い鈴を鳴らした。
 りーん、澄んだ音が境内に響く。
 幸平が壷のふたを開けた。もやもやと霧のような強欲があふれ出てきた。
 地面を這い、強欲は御神体の岩に入って行く。
 と、もやもやの中から竜が頭を持ち上げた。
 りーん、まりかが鈴を鳴らす。
 シェーリに竜が迫った。岩をも噛み砕きそうな牙が目の前にある。足が震えた。
「祓い・・・たまえ、清め・・・たまえ」
 習いたての言葉を口にして、手を拍ち、竜に頭を下げた。
 身がすくんでいた。腕を食いちぎられ、頭を噛み砕かれる恐怖に、口すら動かない。
 祓いたまえ、清めたまえ・・・と心の中で唱えた。
 竜は口を閉じ、静かに岩の中へ消えた。
 りーん、まりかの鈴が封じの儀の終わりを告げた。
「よくできました」
 九美はシェーリの背をなで、労をねぎらった。
「あの竜も、神の形の一つです。常に敬意を持って接しなければなりません」
「竜も神・・・」
 やっと、シェーリは顔を上げた。
 日本の神に対する考え方を、少し学んだ。日本では八百万の神と言う。神と神がいがみ合ったり、けんかをする説話は多いらしい。


13. 祭の後で


 本祭りが終わり、久麗木工家倶の工場も日常の風景になった。
 時計が12時になった。昼休みだ。
 作業を止め、家が近くの者は帰って昼飯とする。他は休憩所で食事だ。
 青葉順は飯前にトイレへ行った。
 と、トイレの前でフィリピンの3人組が肩を落としてスマホを見ていた。
「どうした?」
「この前の祭のビデオを家族に送ったら・・・」
 ミゲルが首を振った。
「次はフィリピンの民族衣装でやれ、と」
「それは当然かもな。君らはフィリピン人だし」
 笑って、順はトイレに入った。

 今日の仕出し弁当はシャケの焼き魚と炒り豆腐、お好みでご飯にフリカケをのせた。
 あらかた食ったところで、工場長の久麗美智が書類を廻して来た。
「青葉くん、あの太鼓、また作れる?」
 祭で使ったスイカとカボチャのドラムに問い合わせが来ていた。誰かがビデオに撮り、ネットにアップしたらしい。
「酔狂な人がいるもんだ、和太鼓っぽい柔らかい音が気に入ったのかもしれませんが。厳密には、スイカやカボチャごとに音の固有差が大きいので。量産できる商品にはなりませんよ」
「量産は無理・・・と、あの作り方では。うちは久麗木工楽器じゃないし」
 美智は理由に頷いた。
「木工職人としては、作れる物は何でも作るべきだ。量産する方法を考えるのも技量の内よ」
 ベテランの志藤が笑って言った。
 シェーリが茶を煎れなおしてくれた。男たちは素直に喜んでしまう。
 順は新しい茶をすすり、茶の湯気を楽しみながら考え直す。
 かつては、リビングに大型ステレオセットが置かれた時代があった。高級家具のような外観のラジオやテレビもあった。現代でも、裕福な家ではピアノを置いてあったりする。
「機能性家具と呼ぶなら、楽器が家具であって・・・良いかも」
 介護用に、簡易トイレ兼用の座椅子や木調車イスも作った。テーブルセットや茶箪笥ばかりが家具ではないはずだ。

 久麗爺は握り飯を弁当箱に入れ、茶のペットボトルを手に工場の裏手へ歩いた。
「いい天気だ」
 青空を身ながら歩く。祭が終わって、抜け殻な年寄りになりかけている気分だ。
 河原に着いたら、例の大岩の上で飯にしようと思っていた・・・今日は先客がいた。
 黒ずんだコート、伸び放題の髪とヒゲ、鈴木寛司が岩の上に座っていた。ギターをかかえ、ぼろん、弦を弾いた。平家物語を謡う琵琶法師を連想するのは年寄りの証拠。
 寛司は小さなメロディーを弾いて、また手を止めた。はあ・・・と息をつく。
 久麗爺は弁当箱を開き、握り飯を一つ取った。
「食べるかね」
 握り飯が残る弁当箱を寛司に差し出した。
「いただきます」
 寛司は握り飯を取り、口に入れる。もぐもぐと口を動かし、飲み込んで、また息をつく。
「昔は・・・名前は普通だが、歌って踊れる最強の・・・などと自称しておりました。理不尽にもギターが弾ける・・・とか。でも、結局は他人の曲と他人の歌で騒いでいるだけだった。自分の曲も歌も無かった」
「無知の知、ソクラテスですな」
「そくら?」
「知恵者になる第一歩は、何も知らない自分を自覚する事である。人間の知恵など、神の知恵に比べれば無に等しい。そんな言葉で、アテネの知識人を詭弁論者と攻撃して、ついに死刑を言い渡された男です」
「何も知らない自分を自覚する・・・」
 寛司は弦をはじき、また何かのメロディーを弾こうとした。
「いざ、自分の曲や歌を作ろうとしても・・・手も頭も動かない」
「いきなり交響曲を指向してもね。まずは、部品となる細かいフレーズをたくさん作って、そこから曲を組み立てれば」
「詳しいですね」
「昔、何度もかじりました。その度に、挫折してましたが」
「そうですか、あなたも・・・」
 寛司はギターを弾きながら、空を見上げた。
 久麗爺も空を見ようとした。その途中、近くの橋に目が行った。数人がたまって、こちらを眺めていた。
 手を振ると、手を振って返してきた。
「ほら、観客がいますよ。北海道の河原は広いから、音楽の腕を磨くには良いかもしれない」
「広いところが多いですね。前にいた神奈川では、どこの川も狭くて。ギターなんか弾いたら、ウルサイと石が飛んで来る」
 寛司は立ち上がった。まだ曲にはなってないが、力を込めて弦を弾いた。

 5時になり、今日の仕事が終わった。
 シェーリは自転車で工場を出た。ベトナム人向けの寮は退所したので、以前とは逆の方へ走った。
 着いたのは永矢摩神社だ。
 提灯は片付けられて、簡素なたたずまいの境内にもどっている。
 社務所は窓口を閉じた時刻、裏の玄関から入った。以前にも誘われていた。祭を機会に、住み込みで修業することにした。
「ただいま」
「おかえり」
 まりかから迎えの言葉。他はと、首を伸ばした。
 居間のテーブルで九美と幸平が向かい合って、本やノートを開いている。
「はい、おっぜうさま。次は、この課題でごっぜーます」
「ひええ・・・」
 水野九美は神職資格のための勉強中であった。神社庁が認める神職の資格を、まだ持っていないのだ。
 先代に見出され、お祓いなどの技量は大いに磨いた。が、先代と夫が急死したため、資格を取る時間が無かった。本来なら、神社庁が認める大学に通って取る資格だが、急死などで跡継ぎがいない場合では、通信教育で資格を取る裏道がある。
 現状では、九美には地鎮祭などで祝詞を奉じる資格が無い。
 浜家幸平の知識は深かった。先代の頃から神社で仕事をして、九美よりも前から永矢摩神社にいた。門前の小僧、習わぬ経を唱え・・・な男である。
 笑みで、シェーリは台所へ行く。家賃は無いので、財布にやさしい生活となった。けれど、食事の仕度などの用事をこなさなければならない。

 陽が暮れて、夕食が終われば自由時間だ。
 シェーリにとり、お祓いと封じの技能習得が永矢摩神社にいる目的。書物をあさると、先代が残した研究書を見つけた。
 表題に『古代ユダヤ教と古代キリスト教の多神教的性格』とある。
 タイトルからして怪しげだ。キリスト教は唯一神を信じる宗教なのに、と反感を覚えた。キリスト教を日本の多神教と同等に扱おうとする悪魔の書・・・と牧師なら言うはず。でも、ベトナムの教会の牧師は母を救えなかった。
 イエスでもムハマンドでも、新しき神の一柱として、いつでもウエルカム・・・水野九美の言葉を思い出した。この書が、あの言葉の基になっているのだろう。
 シェーリは先代の書を棚にもどした。知りたいのはお祓いと封じの法、宗教の歴史じゃない。
 もっと古い書物を見つけた。
 表題は毛筆の続け字で・・・読めない。でも、気になる。
 その書物を手に、広間へ行った。ステージにあったステレオセットはシェーリが壊した。棚にあったレコードやカセットも、今は何も無い。
 でも、中央には流木を組んだイスが置いてある。青葉順が河原で拾った流木に最小限度の手を入れ、イスの形に組んだ。見方によっては、人骨を組んだようにも見える。
 イスに腰かけ、書物を開いた。
 やはり毛筆の続け字、文字のようにも絵のようにも見える。漢字は表意文字ゆえ、絵の要素が残っている場合もある。
 時間が止まり・・・逆転するような気がした。
 イスに残る木と森の精気が出て来て、シェーリの体を包んだ。呼応するように、書物の文字が流れ出て来て・・・


「やれやれ」
 九美は毛布を持って来た。
 イスでうたた寝するシェーリにかけてやり、そっと広間を出て行った。


 6月から7月は最も昼が長い季節。
 午前4時には、空は明るくなっている。
 シェーリは緋袴の巫女衣装で境内の掃除を始めた。巫女の修行の第1歩だ。
 昨夜は、広間で本を読んでいて記憶が飛んだ。いつ自室にもどったのか、全く覚えていない。不思議な事が起きるのが神社、と割り切ることにした。
 朝の冷えて澄んだ空気を吸うと、鼻にツンときた。これはベトナムとの大きな違い。ここが故郷から遠い事を思い起こさせた。
 九美とまりかが出て来た。同じ巫女の衣装だ。
 箒でチリを掃いて行って、御神体サマイクル命の大岩の前で足を止めた。
「これからは、もっと小まめに神楽舞などを奉納して、御神体を鎮めておかねばなりませんね」
 九美のつぶやきに、まりかがフーンと鼻をならす。
「どんな曲で?」
「もちろん、ノリの良い曲で」
 にやり、まりかは笑った。
 早速、社務所に走り、大きなラジカセを抱えてもどって来た。これは広間に置いてなかったので、シェーリが壊さなかった。中のカセットも無事である。
 再生ボタンをポチッと押し込んだ。
 カセットテープが回り、シャーッとヒスノイズが流れた。パチッ、静電気ノイズの再生、テープの録音部分が再生ヘッドに来た。
 タンタタ、タタタン・・・リズミカルなドラムスの響き。
 そして、低音を効かせたエレキギターの音。ベンチャーズの『ウオーク・ドント・ラン』が始まった。曲名を日本語に直訳すれば「歩け、走るな」となるが、一般的には『急がば回れ』と訳されるスラングだ。
 箒を持ったまま3人は舞う。
 九美は空を見上げた。自然と、境内の大木が目に入る。御神木ヌサコルフチ命の枝葉が風に揺れて、3人と一緒に舞うかのよう。
 シェーリは生き残ったカセットを思った。順に頼めば、フィリピン3人組と共に他の曲を演奏復元してくれるだろう。
 まりかは掃きながら、腹が鳴るのを覚えた。早く掃除を終えて、朝食にしたいと思った。
 御神体の大岩にかけられた注連縄が揺れて、3人と一緒に舞っていた。



 永矢摩神社の鳥居前、1台の大型セダンが停まった。金ぴかなフロントグリル、4本のタイヤホイールまで金ぴかだ。
 リアドアを開けて男が降り立つ。ぽて、と出た腹に胸の金ぴかなネクタイピン、そして金ぴかな腕時計。
 一本木造りの鳥居の向こう側、境内から音楽が聞こえた。
 御神体の前では、3人の巫女が舞っている。
 にやり、男は笑った。
「おお、水野九美さん、また宝田岩倶郎が参りましたぞぉぉーっ!!!」
 男は両手を広げ、グリコポーズでダッシュした・・・




< おわり >




 永矢摩神社の先代神職と、水野九美の夫のお話は、また別の機会に。





なお、作中にて「名前は普通だが・・・最強の・・・」と鈴木寛司が名乗ります。これは億平聖壹様の作品から引用させていただきました。

作中紹介楽曲

ベンチャーズ
「バンブルビーツイスト」
「ウオーク・ドント・ラン」
「パイプライン」
「ギンザライト」
「バットマン」
「ダイヤモンドヘッド」

加山雄三とブルージーンズ
「夜空の星」
「きみといつまでも」

ジャッキー吉川とブルーコメッツ
「ブルーシャトー」

梓みちよ
「メランコリー」

小林明
「ギターを持った渡り鳥」

RCサクセション
「トランジスタラジオ」

2020.3.11
  OOTAU1