100万人との握手

 
1人目


 桜が散り、野山が緑に染まる季節が来た。
 高倉健次は橋の中ほどで足を止めた。
 西から東へ川がある。東の先はオホーツク海だ。
 来た道を振り返り、北側の岸を見た。東から西へ、大きな塀が続いている。網走刑務所だ。
 南の対岸からバスが来た。窓には鉄の金網がある。
 乗っている人たちと、ふと目が合った。呆然とした目、殺意のある目、卑下する目、どれも尋常ではない。
 彼らは刑務所の新しい住人。これから何ヶ月か、あるいは何年かを、あそこの中で過ごす。
 その期間が終わった時、あの目は、どれほど変わるだろうか。
 健次は北に背を向け、南の対岸へ歩きだした。
 橋を渡ると、国道に出た。東は網走港へ、西は北見への道。
 高倉健次の家は北見にある。

 健次は国道を歩いた。川沿いに歩くと、道は折れて、南へ向かう。
 立ち止まり、ひたいの汗をぬぐった。右手に鉄道があり、その向こうに湖が見える。
 道の彼方にバス停が見えた。あそこでバスを待とう、と思った。
 と、バスが健次を追い越して行った。
 あああ、手を伸ばしても遅い。バス停を通り過ぎ、バスは走り去る。
 小さくなったバスの背を見ながら、ようやくバス停に着いた。旧網走監獄前とある。
 左手の丘の上には、映画などで知られる刑務所があった。明治大正の頃には、脱獄不能の刑務所と言われたらしい。今は過去の記憶を留める記念館となっている。
 時刻表を見ると、次のバスは30分以上も後のよう。
 道の果てをながめ、また健次は歩き始めた。
 何か勘違いしている気もした。でも、人生を振り返れば、いつもその繰り返しだった。今さら間違いを悔やんでも、取り戻す事はできない。

 健次は歩き続けた。
 家に向かっているのは間違い無い。ただ、家までの距離がわからない。あれこれ考えるより、足を動かし続けていれば、いつかは着く・・・だろう。
 街外れになり、歩道は無くなった。ひたすら路肩を歩く。
 鉄道を南から2両編成の列車が来た。こととん、こととん、レールのきしむ音が耳をなごませた。
 暑さのせいか、疲れのせいか、意識がもうろうとした。この道は、本当に家へつながる道だろうか。不安がわいた。
 突風に健次はよろめいた。
 軽トラックが幅寄せ気味に健次を追い抜いた。乾いた風が土ぼこりを巻き上げて、しばし立ちすくんだ。
 ぺぺっ、口に入った砂を吐く。細く目を開けると、軽トラは少し先の路肩で停まった。
 運転手が降りて来て、脇の草むらに向かって立つ。小便タイムのよう。
 後ろから車が来ないのを確認して、車道側から軽トラをパスした。
 また、ひたすら歩く。
 パパーッ、クラクションに驚き、立ち止まった。
 さっきの軽トラが健次の横に来て停まる。
「おい、おまえ、どこまで行くんだ。おれは北見だ。途中まで乗せてやっぞ」
 運転の親父が歯をむき出して語りかけてきた。
 健次は乗せてもらう事にした。
「おみゃあも北見へ行く、ってか。この先は上り坂になるし、歩いてちゃあ、明日の朝になっても着かねーぞ」
 親父はあきれ、次に笑った。
「やっぱり、そうか。外に出るのは久しぶりだから、何か変とは思ってたけど」
「変過ぎるぜ。久しぶりって、何処に籠もってたんだい?」
 がははは、また親父は笑った。

 親父は菅原と名乗った。年は50過ぎか。
 健次はバニティーミラーで自分を見た。いつの間にか、自身も50過ぎな親父顔になっていた。
「昼前まで、網走刑務所にいました。10年もいたし、あまり外の事は覚えてない」 
 健次は正直に言った。隠したところで、どうなる事でも無いだろう。
「ほほう、今日、出所したばかりか。どうりで、なあ。実は、おれも3年ばかし、そこにいたんだぜ。前科三犯の菅原さんさ」
 菅原の顔から笑みが消えた。口をむすび、前を見据えて運転する。
「刑務所を転々として、最後に来たのが網走だった。そして、人生が変わったよ」
 菅原は若い頃から乱暴者だった。相手を叩きのめし、豚野郎と罵るのが常だった。何度目かの刑務所入りで、網走に来た。あてがわれたのは豚舎や牛舎の仕事。今や、網走刑務所生産の牛肉は、ちょっとしたブランドだ。
 刑務所の豚舎や牛舎は敷地内だが、塀の外にあった。種付けをし、出産の手伝いをして、育てて、出荷した。
 食事に豚肉と牛肉が出て、涙が流れた。
「刑期が終わって、出所したら、その足で網走の職安に行ったがね。豚や牛の世話をする仕事はあるかや、てよ。んで、今は豚屋の菅原さんになった訳だ」
 がはは、また菅原は笑った。
 湖が遠くなり、車はゆるやかな坂を上る。空気が変わってきた。
 空港の横を通る。ちょうど旅客機が離陸するところ。ジェット機だから、たちまち雲の上まで行って小さくなった。
「おれは、ここで暮らすべき人間だったのさ。牛や豚の世話をして、時々来る狐や鹿と遊んで、良いご身分だぜ」
 健次は振り返り荷台を見た。何かの袋詰めがあった。
「ありゃあ魚粉だ、豚のエサだ。網走で仕入れて来たがね」
「ぎょふん?」
 網走港で水揚げされた魚の大半は、加工工場へ行く。魚は尻尾を落とされ、骨を抜かれ、頭を落とされる。そうして出た魚カスを乾燥し、粉にしたのが魚粉だ。高タンパクの飼料である。
 魚粉を食べた牛や豚の糞は草原の肥料となり、雨に流されて川に出る。やがて海に達し、魚を育てる。人間が作った新しい食物連鎖の輪だ。
 タマネギに北見市と書いた看板が見えた。
 帰って来た・・・健次は胸をおさえた、少し息苦しい。
 線路沿いに走り、信号の手前で菅原は車を停めた。
「おれは、こっから左だ。橋を渡って、瑞野の奥へ行く。おみゃあは?」
「もう少し真っ直ぐ先、常磐町です」
 そう言って、健次は車を降りる。
「もし、おれん所で働く気がありゃあ、いつでも来いや」
 菅原は農場の名刺を出した。豚と一緒の写真入りだ。
 健次は受け取り、ついでに握手した。
「ありがとうございます」
 健次が礼を言うと、菅原は手を振った。角を曲がり、軽トラは走り去る。
 握手を交わした手を見つめ、健次は自分に驚いていた。
 ありがとう、その言葉が素直に言えた。今日、つい先ほど会ったばかりの人に、それが言えた。
 軽トラは橋を渡り、見えなくなった。その方を健次は見続け、また口にしていた。
「ありがとうございます・・・」
 1人目の握手だった。


 日が傾き、少し冷えてきた。
 通い慣れたはずの常磐公園に来た。でも、10年ぶりだ。景色は変わっていた。
 道におおいかぶさる大きな木が茂っていたはずだが、それが見当たらない。探して歩くと、切り株の列が残っていた。
 池の縁は、すっかりコンクリートで固められていた。歩道も舗装されて、土が少なくなっていた。
 いろいろ変わったなあ・・・
 堤防の土手に寝転がり、呆として雲をながめた。日が西の山に沈み、空が暗くなってきた。
 公園は住宅街の中、夕食の匂いがただよう。ぐう、腹がなった。

 家の前を二度も通り過ぎた。
 三度目も通り過ぎ、角で立ち止まった。10年ぶりの家、決心がつかない。
「おい、早く入れ」
 兄の高倉浩一が声をかけてくれた。もう暗くなっていた。

 健次は兄の浩一と、二人だけで夕食をした。
 半分ほど食べたところで、兄は預金通帳を出した。
「これは、おまえの取り分だ」
「でも、あの時・・・」
 健次が刑務所に入り、間も無く両親が続けざまに死んだ。面会の席で聞き、相続放棄の書面に同意した。遺産は兄が総取りのはずだった。
「あの時は、おまえの覚悟を見ただけだ。たった二人の兄弟だろ」
 兄に言われ、健次は通帳を開いて見た。金額を確かめ、手が震えた。
「もう一つ、言わなきゃならん。美枝子が、おまえとは暮らせない、と言ってる。明日、飯を食ったら、出て行ってほしい。他の街へ、できるだけ遠くへ」
「うん、そうだね」
 健次は頷いた。美枝子とは、兄の嫁さんだ。今日は実家へ帰って、明日までいない。顔も見たくないらしい。
 その夜、二人は枕を並べて寝た。こうするのは何十年ぶりか。
 明かりを落として、闇の中で少し話した。子供の頃の事、学校を卒業したばかりの頃の事・・・いつの間にか眠っていた。

 朝食はトースト、兄が目玉焼きを作ってくれた。温かい牛乳で胃に流し込む。
「街を出る前に、ここへ行ってくれ」
 名刺を渡された。松方広紀・・・覚えのある名前だ。
 玄関前で握手した。しっかりと、でも柔らかく握ってくれた。
「ありがとう・・・ございました」
 健次は兄に頭を下げた。他人行儀な弟の言葉に、浩一は照れ笑い。
「じゃ、元気でな」
 それが別れの言葉になった。
 健次は兄に背を向け、歩き出した。歩きながら、兄が握ってくれた右手を見た。
 ありがとう・・・昨日と同じく、今日も素直に言えた。
 これで2人目だ。


旅立ち


 どこへ行くか、何も考えずに家を出た。
 健次は歩きながら考えた。
 とりあえず、北見駅へ向かった。遠くへ行くなら、行くべきは駅だ。
 国道に出た。やたら街が広く、駅が遠く感じた。長く塀の中にいたせいだろうか。
 遠くへ行く前に、行くべき所を思い出した。駅を通り過ぎて、警察署の前で足を止めた。
 キツネの看板の前で少々右往左往、ようやく玄関に入った。
 車庫証明の窓口には行列がある。どこに行けば良いのか、玄関の中で、また右往左往した。
 案内係に聞き、刑事課の窓口に行った。
「どんな用件でしょう」
「え・・・と、昨日、網走刑務所を・・・その、終わって、出て来ました」
 何を、どう聞いたら良いか分からない。しかし、窓口の人は察したようだ。
 用紙に名前と生年月日を書いて、長いすで待つ。5分ほどで呼ばれ、相談室と看板のある個室へ案内された。
 対応したのは、土門と名乗る刑事。メガネで肥満体だ。資料をめくる手つきは素早いが、犯人を走って追うタイプではなさそう。
「高倉健次さん、ね。あなたの事件を担当した宗像刑事は、すでに定年で退職してます」
 土門は口も顔も穏やかに見えた。
「家族から、街を出ろ、と言われて・・・ええっと、どこへ行くか考えまして。でも、出所したばかりだし、勝手に引っ越したらいけない・・・かなあ、と思って」
「家族から、そんな事を言われたとは。でも、お盆や彼岸の墓参りもダメ、と言われましたか」
「いえ、そこまで聞いてません」
 うんうん、土門は笑顔のまま何度も肯いた。
 あの事件で取り調べを受けた時、警察の人は誰もが、ヘビかトカゲのような目つきばかりだった。こんな人もいるのか、と警察を見直した。あるいは、健次の人を見る目が変わったのだろうか。
「人間関係の修復には、時間がかかるものです。ゆっくり行きましょう」
「はあ・・・」
 健次は首を振った。こんな説教を聞きに来たんじゃない。
「だから、北見を出て・・・勝手に引っ越すのは、何か法律とか、引っかかるんじゃないか、と」
「その心配は要りません。あなたは満期出所なので、保護観察などは付きませんよ。日本中、どこへでも好きな所に行けます。外国へも行けますが、国によっては、犯罪歴があると入国を拒否される場合があります。事前に、大使館に問い合わせておきましょう」
 あっさり答えが来た。どこへでも行ける、とは予想外だ。
 壁の日本地図を見上げた。逆に、行く先が思い当たらない。
「一般の人には、満期出所と仮出所の見分けはつかないようです。法律上は全く別なのですが」
 言いながら、土門は首を傾げた。法律と世間の常識は、決して同じではない。
「他の土地で住むと決めたら、そこの警察に顔を出しておくのは、とても良い事です、今日のようにね。二度と犯罪に手を染めない、との意思表示になります。あなたのような人の社会復帰を助ける、これも警察の仕事です」
 相談は終わった。
 立ち上がり、土門が手を出してきた。ぶ厚い手と握手した。
「ありがとうございました」
 健次は頭を下げ、礼を言った。これで3人目だ。

 北見駅に入り、行き先と料金の表示を見た。
 鉄道で東へ行くなら網走方面、西へ行くなら旭川方面。どちらへ行くか考えたが、結局まとまらない。あきらめてベンチに座り、時刻表を見上げた。
 バスの時刻表を手にした。北へ行けば紋別だ。南へ行けば、阿寒から釧路へ出る。
 いっそ、棒を倒すか、サイコロを投げるか。行く先を決められぬまま、健次は肩を落とした。
 数メートル先、健次を見つめる人に気付いた。
 初老の男、スーツで身形は良い。すたすたと歩み寄り、三歩前のところで不動の姿勢をとる。
「久しぶりだね、松方広紀です」
 あっ、健次は思い出し、名刺を出した。
 刑務所に入って、一度会っていた。あの事件の遺族だ。
 高倉健次は人を殺した。被害者の名は松方安重、広紀の息子だった。

 何か発端だったのか、健次は松方安重とけんかになった。
 始め、ほとんど一方的にやられた。てめえ殺してやる、と怒鳴りながら安重は殴る蹴るを繰り返した。やられるうちに、殺意が湧いた。殺される前に殺してやる、と殴り返した。安重はフラフラと倒れ、動かなくなった。健次は立つ気力を無くし、その場で座り込んだ。
 何人かが二人の間を通り抜けた。酔っ払いが路上で寝ている、と思われたらしい。
 健次が触れた時、安重は息をしていなかった。
 そして、警察へ電話した。
 死因は気道閉塞による窒息。倒れた後、すぐに手当すれば助かったはずだった。しかし、殴られ蹴られていた健次は、何もしなかった。
 途中からでも、殺意は確かにあった・・・裁判で、健次は証言した。理屈ではなく、あの時の心の内を正直に言った。
 懲役10年の判決。控訴はしなかった。

 松方は健次を誘い、駅中のカフェに入った。土産物店併設の席に座り、二人ともコーヒーをたのんだ。
「お兄さんの嫁さんが、ねえ。女ってのは、そういうもんかもなあ」
 松方はコーヒーをブラックで飲む。健次も倣い、ブラックで飲んだ。
「で、どこへ行くか、決めかねているのか」
 まだ、と健次は首をすくめた。
 自由の無い塀の中の生活に慣れきっていた。すべてを自分で決める事は、思うほど簡単ではない。 
「何をするかを先に決めれば、どこへ行くかも決めやすいだろう」
「何を・・・するか・・・」
 松方の言葉を健次は反芻した。
 まだ3人だ。右手を見つめ、網走刑務所からの道のりを思い返した。

 出所が近付くと、囚人の心は揺れる。
 高倉健次は仮出所を望まず、塀の中で10年を過ごした。刑期満了の半年前から心理カウンセリングを受けた。
「君は対人恐怖の気がある。その反動が事件になったようだ」
 カウンセラーは健次を分析した。
「それを克服しないと、出所してから、また同じような事態に巻き込まれかねない」
 言うのは簡単だ。けれど、何十年も生きてきて、そう都合良く性格が変われるはずもない。
 あきらめかけた健次に、カウンセラーは手を差し伸べた。
「たとえば、こうして握手する。握手してくれた人に、ありがとうと礼を返す。これくらいの事はできないとね」
 人と目を合わせるのは苦手だが、握手くらいはできる。そう思った。
 出所前の課題は作文の提出。
 100万人と握手して、100万回「ありがとう」と言う。それが目標です・・・と書いた。

 松方は独立系の中古車販売業を営んでいる。
 健次は事務所に招かれた。
「趣味的には、こんな車を扱いたいのだが。それでは、北見じゃ生活できん」
 松方は机の上のミニカーを自慢した。スバル360、トヨタS800、ホンダS600、プリンスS54・・・往年のスポーツカーが勢揃いしている。しかし、事務所の外に列んでいるのは軽のバンやトラック。理想と現実の違いは明らかだ。
 ミニカーの列の端に写真がある。松方と亡き息子が写っていた。
 こんな顔もあるのか・・・健次は首を傾げた。
 けんかの相手に、殺した犯人に、写真の松方安重は笑みを投げてくる。
「おお、これだ」
 松方はロッカーの奥から白い布を出した。広げると輪になっていた。
「セールとか、合同の中古車市なんかで使ったんだ」
 輪を肩にかける、幅15センチほどのタスキだ。
 次に、松方はパソコンに向かった。ワープロで文章を作り、プリントした。
 アイロンでプリントの文字をタスキに転写する。アイロンプリントと言うやつ。
 タスキに高倉健次の名前が入った。
『握手をありがとう・高倉健次に温かい握手を・目標握手100万人!』
 タスキを肩にかけると、選挙の立候補者みたいだ。ついでに、帽子にも文字を転写した。
「こうすれば、みんなが握手してくれるだろう」
 松方は健次に言い、手帳を渡した。日記にもなるマルチノートだ。
「今日、何人と握手したか、ちゃんと記録を取らないといけない。細かい事だが、日々の積み重ねが大事だ」
 なるほど、健次は肯いた。昨日の日付に1人、今日に2人を書き込んだ。
 ガタ、戸が開き、二人が入って来た。痩せた若いのは目黒、この店の従業員。
 もう一人、背の高いのは同業者の成田だ。中古車屋は常に連絡を取り合い、手持ちの車を融通し合っている。
「おおっ、何々・・・握手、目標100万人? なんか、すごいね」
 成田は目を丸くし、健次とタスキの文字に興味を示した。
「これから始めるところだ、よろしく頼むよ」
「男がたてる目標なら、でかいほどグッドだな。まあ、がんばれや」
 松方の紹介に、がはは、と成田は笑った。
「だがよう、北見の人口は12万ちょっとだ。ここにいちゃ、100万なんて永久に不可能だぞ」
「ここではダメですか」
 誉めておいて、次に苦言が来た。健次の愛想笑いもフリーズした。
「せめて、大雪山の向こうの旭川に行くんだな。人口は30万、北見の3倍だ。あそこの動物園はな、日本はおろか世界中から客が来る。年間で300万人だぞ」
「300万!」
 100万を越える数を聞き、健次は息を呑んだ。
「行き先が決まったな」
 松方が言った。はい、と健次も肯いた。
 じゃ、と成田が手を出してきた。健次は握手し、頭を下げた。
「おれが1番目の握手かな」
「これをしてからなら、1番目です。昨日から数えたら4番目です」
 健次はタスキをつまんで示した。手帳を開き、今日のページに1人を追加で書いた。
「千里の道も一歩から、だ。焦らず、じっくり行こう」
 松方が手をのばしてきた。健次は握手し、頭を下げた。目黒とも握手した。これで6人目だ。

「ありがとうございました」
 健次は三人に礼を言い、松方の事務所を後にした。
 行く先は北見駅。列車に乗り、旭川を目指す。
 タスキと帽子の男は小さくなって行く。その背を見送り、成田は松方を振り返った。寂しげなのは一目瞭然だ。
「あの高倉つーのは、おまえの安を殺した奴だろ。あれでよう、良いのか?」
「本当に100万人と握手できたなら、良い供養になるかと思ってな」
「賠償請求とか、しないのか?」
 成田は疑問をかけるが、松方は首を振った。
「焼け太りが狙いで、誠意を見せろだの、もっと金を出せとか言うクレーマーには飽き飽きしてる。自分がそうなりたくも無い。これは奴への善意じゃない、俺自身の信義の問題だ」
 松方は息子の写真を手にした。ふう、ひとつ息をつく。
「商売人なら、よう。取れるところからは、可能なかぎりふんだくらなきゃ、よう」
 食い下がる成田に、松方は手を振って応えた。


山越え


 長いトンネルを抜け、列車の窓が明るくなった。
 高倉健次はタスキをなでた。車掌を含め、この車内で10人と握手した。タスキの効果は明らか。
 高架の線路を走り、屋根付きのホームに着く。旭川の駅舎は3階建てだ。
 ほえー、健次は高い吹き抜けの天井を見上げた。さすがは北見の3倍の街、と感心する。
 人の流れに沿い、駅の繁華街側に出た。
 空が狭い。駅前の建物群は北見の倍する高さ、ぐううっと上を仰がないと空が見えない。
 駅前の人通り、タクシーやバスも北見の3倍だ。騒音が頭に浸みて痛いほど。
「おじさん、握手してあげる」
 その声に驚き、声の主を探して一回転した。しかし、見つからない。
「おじさん、ここだよ」
 また声がした。
 彼らは健次の足もとにいた。車いすの二人、背が低くて視界に入ってなかった。
「ぼくは里見孝太郎、こっちは木田欣也だよ。はい、握手」
 里見と名乗った少年は、普通に手で車輪を回す車いす。木田の方は障害が重いらしく、ヘッドレスト付きの電動車いすだ。
「さとみ君、ありがとうございます」
 孝太郎と握手し、礼を言った。
 木田欣也が手を出してきた。しかし、障害のせいで手関節がねじれてる。
 健次が普通に手を出したら、握手のポジションにならない。ちょっと困った。
 両足を踏ん張り、体と手をねじる。差し出された手に正対する位置を取り、やっと握手した。 
「きんや君、ありがとうございます」
「あ・・・ぶ・・・とっ・・・」
 欣也が何か言った。聞きとれず、健次は首を傾げた。
「ありがとう、てさ」
 孝太郎が訳して言った。うん、健次は肯いて、握手している手に、また力を込めた。
「でも、なんとゆーか、なまってるから、君の言葉は難しい」
 手を離し、体を立て直した。ちょっと腰にきた。
「要は慣れだよ。クリンゴン語ほど難しくないよ」
「くりんごん?」
 孝太郎は物怖じせず言う。大人の健次が押されてしまう。
 あはは、欣也が笑った。これは理解できた。
 あれは何だ?
 遠巻きに健次を狙うテレビカメラに気付いた。
 孝太郎が手を振って合図した。カメラが撮っているのは車いすの二人の方だ。
 よく見ると、車いすにも小型カメラが付いていた。
 テレビカメラと一緒に、男が近付いて来た。名刺を受け取る、旭川CATVのディレクター、星野と名乗った。
 車いすの障害児童が二人で街を探検、と言うテーマの番組を収録中なのであった。タスキをかけた変なやつに出会い、良い画が録れた、とカメラマンはご満悦だ。
 時計を見ると、もう夕刻だ。
 星野に安い宿を聞いた。星野はスマートフォンで検索して、メモをくれた。駅から、少し歩いた所らしい。
 また握手して、彼らと別れた。旭川に着いて、すぐ4人と握手できた。

 星野が教えてくれた宿は、木造2階建てだった。
 外壁の板は黒光りして、築数十年と言う年月を現している。玄関の戸まで木製、全てが健次より年寄りだろう。
 部屋は三畳、隅にセンベイ布団がたたんである。刑務所の独房を思い出した。
 布団に入るが、体が揺れるように感じた。目を閉じると、床全体が回り出した。
 ひいっ、悲鳴を上げて起きた。
 部屋は何事も無く、聞こえるのは廊下を行き来する足音だけ。
 もう一度、布団をかぶり、じっと目を閉じた。何か夢のようなものを見ながら、いつの間にか眠っていた。

 朝食はご飯に味噌汁、焼き魚に納豆。なつかしい味に腹がなごんだ。
 出かける身支度をすると、宿の人たちがタスキに注目した。その場で8人と握手した。
「ありがとうございます」
 何度も礼を言い、おじぎした。今日も朝から調子が良い。
 宿を出て、旭川駅へ歩いた。動物園への行き方を探すつもりだ。
 駅前にはバス停がたくさんある。一覧表を探し、駅舎の方へ向かった。
 見知った顔がいた。昨日会った星野だ。
「ちょっと、話したい」
 神妙な面持ちで語りかけてきた。
 くるり、一回転してテレビカメラを探した。今日は同行してないらしい。
 星野に誘われ、健次は駅の裏手へ行った。
 堤防へ続く小さな公園になっていた。作って間も無いらしい、植木の背が低い。
「昨日、あれから警察や新聞社に問い合わせた」
 ぼそり、星野が語り出した。その先が推測できた。
 元殺人犯で、数日前に刑務所から出たばかり。そんな健次の素性が、CATVの社内で議論となった。
「結局、昨日録った画は、すぐには使えない事になったよ」
 ふああ、星野はあくびした。昨日から、ほとんど眠ってなかったよう。
 健次には実感が無い。握手は始めたばかり、テレビが話題にするべき事でもないだろう。
「あ、いた」
 元気な声がした。
 車いすの二人が駅舎から出て来た。カメラマンも追っかけて来た。
「星野さん、欣也がさ、自分もやりたい、と言うんだ」
「何を?」
 里見孝太郎が言った。となりの木田欣也が発する言葉は、相変わらず聞き取れない。
「ただ街を冒険するだけじゃ、つまらないよ。握手100万人なんて目標があれば、もっと気合いが入るよ」
 ねっ、と孝太郎が健次に同意を求めた。
 星野は返事に困った。昨日のビデオがNGになったばかり、高倉健次の握手は放送できないのだ。
「旭山動物園には、1年で300万人も来るんだ。100人に1人の割で来客と握手すれば、1年で3万人と握手できる」
 孝太郎は計算高い。体は不自由があっても、脳みそは活発に動くタイプ。
「ぼくは他の町に行きます」
 健次は星野に告げた。
 動物園での握手は、地元の子に譲るのが礼儀だろう。もっと北見から遠い町へ行くべき、と悟った。
 それを聞き、孝太郎は不満そうな顔をした。でも、すぐ何かを思いついた。
「100万人と握手するなら、人口30万の旭川じゃ足りないよね。札幌なら人口150万人、握手する人が余るくらいいるよ」
「ひゃくごじゅう・・・まん?」
「周辺の町を含めれば、たっぷり200万以上いる」
 観光客ではなく、住む人が100万以上とは良い報せだ。うん、健次は肯いた。
「さっぽろ・・・て、どこにあるんだっけか、なあ」
 長の刑務所暮らしの影響か、北海道の地理が頭に浮かばない。
「だから、そこの川をずっと下った先だよ。アイヌ語のサツホロペツ、乾いた川床の土地。そこが札幌だ」
「なる、川の先か」
 健次は皆に手を振り、別れのあいさつとした。所詮、身軽な一人旅である。
 堤防に上がり、下流の方を見た。
 川風が背を後押しした。
「本当に札幌まで歩く気かな、冗談だよね?」
「近文の駅まで行けば、気が変わるだろ」
 皆、去る健次の背を呆然と見送った。

 堤防を行くと、ほどなく国道の橋に出た。
 案内表示を見上げれば、直進方向に札幌とある。間違い無い、と確信できた。
 高架を列車が下流方向へ走って行った。札幌行きの列車だ。列車を追い、そのまま堤防を歩き続けた。
 健次は見落としていた。案内表示には150キロと距離も書いてあったのだ。


谷越え


 石狩川に出た。
 その北側の岸に沿ってサイクリングロードがある。廃止された鉄路の跡だ。
 国道を行けば、トラックや自動車の排ガスと一緒になる。きれいな空気の中を歩こう、健次はサイクリングロードの方を歩き始めた。
 川からの水音が谷に響いている。対岸を走る車の騒音は、かすかに聞こえる程度。
 曲がりくねる神居古潭の谷は、どこまで続くのか。歩きながら、少し心配になった。

 暗いトンネルを抜けると、視界が開けた。
 健次は石狩平野の北端に出た。水を入れたえたばかりの田んぼが、田植えを待っている。
 6両編成の列車が向こうから来た。札幌からの特急だ。
 びゅう、と風を巻いて通り過ぎ、トンネルへ吸い込まれた。
 静かになり、また田んぼの中の道を行く。
 吊り橋が見えてきた。車が忙しく行き来して、土ぼこりと排ガスを思うと、つい足が止まった。
 急に疲れを感じた。立っていられず、川を見て座り込んだ。
 靴を脱いで、足首を回す。ふくらはぎと太腿の筋肉も張っていた。
 きゅんきゅん、変な音を立てながら、トラクターが来た。タイヤと車体下部は泥だらけ、田んぼから上がったばかりだ。
「おい、兄さん、何しとるね」
「ちょっと疲れて、休んでるだけです」
 運転手が声をかけてきた。ひげに白いものが混じる年寄りドライバー。
「自転車は、どこにやった?」
「いえ、歩いて来たので」
「歩いて?」
 年寄りの顔が歪んだ。不審者と思われたようだ。

 健次はトラクターに乗せてもらった。
「なんだ、旭川からかい。網走から歩いてきたかと思ったに、感心して損したなあ」
 親父の姓は小林、名は明。読みだけなら、有名な歌手と同じ。
 きゅんきゅん、がたごと、頼りない音をたてながらトラクターは行く。
 高速道路の高架をくぐると、先に街が見えた。深川だ。
「あ、ここで」
 バス停があった。降りたい、と健次は合図した。
 が、小林は無視。そのままトラクターは走る。
「さあ、着いた」
 ハンドルを切って、トラクターは車道からそれた。未舗装の道だから、大きく揺れる。
 きゅんきゅん、車体を揺らし、納屋の前で止まった。
「ひどい音だなあ。少しは、朝から出てたけど」
「おお。もういかんと思ってな、切り上げて来た」
 納屋で機械の整備をしていたのは、息子の昭二だ。嫁の亜希子も心配顔で現れた。
「この音はエンジンのベルトだな。今時のエンジンは、素人は手出し無用だ。工場に電話して、来てもらおう」
 昭二は亜希子に合図、嫁は家の中へ消えた。
 小林に促され、健次は運転席から降りた。
「100万・・・握手?」
 タスキの字を読み、昭二の眉間にしわが寄った。

 健次は小林の家に泊まる事になった。
 夕食の席はにぎやか。二人の孫、小林の老妻を加え、7人もいる。
 小林も自らビールを出し、健次に注いできた。
「おじいちゃん、お酒はお医者さんから止められてるしょ」
「客が来てる時くらい、いいべさ」
 亜希子の苦言を、小林はかわす。飲みたくて、健次を誘ったよう。
 健次は刑務所から出たばかり、と言い訳しつつ、一口だけ付き合った。ついでに、刑務所入りの経緯、その後も語った。
「ほうほう、被害者の家族からもらったタスキかい。ええ話し、聞かせてもらったわい」
 小林は手で十字をきり、なんまんだぶ、と祈る。仕草と言葉が合わない気がした。
「人殺し・・・とはな。とても、そんな風に見えないけど」
 昭二がもらすように言った。
「昔は、あんたも札付きのワルだったね。何でもありの悪党だった」
「な、何を証拠に・・・」
 亜希子が遠い目をして言う。昭二は反論しかけて、また口をつぐんだ。
「被害者の言葉は重いんだから。証拠が見たいなら、ほれ、いくらでもご覧なさいな」
 昭二は妻から目をそらす。亜希子は子供の肩を抱き、夫の前へ進む。
 夫婦の会話が盛り上がる。仲が良いのか悪いのか、健次は呆然と聞くだけ。
「男と女の道、過ちは一瞬だが、償いは一生もの。そうゆう、ひとつの好例だな」
 小林が耳元にささやいて、二人の会話を解説してくれた。
 昼間、納屋の前で、昭二は父親と妻を指揮する頼もしい男に見えた。しかし、食卓では妻と子供たちにいじられて、むしろ可愛い男を演じている。かつてのワルが苦闘の末、やっと身に付けた処世術なのだろう。

 翌朝、子供たちが学校へ行った。
 それを見送って、健次は小林家を出る事にした。
 亜希子が弁当を作ってくれた。手にずっしり、リュックに入れると重い。
「その道々を行っても札幌に着くが、途中狭いし、歩道が無いところが長い。妹背牛あたりから国道へ出たほうが良い。江部乙から先は、ずっと歩道があるはずだ。昔、稚内から九州の福岡まで日本海側を歩いた人がいた。行程約2000キロ、3ヶ月がかりだった。それを上回るには、太平洋側を鹿児島まで行かんと、な」
 小林が道の状態を解説してくれた。途中から演説口調になって、聞き疲れがした。
「いえ、歩くのが目的じゃないので」
「何い? 札幌まで、たかだか100キロと少しだ。そんな事で、握手100万人が達成できるものか。汗をかけ、苦労しろ。足腰の痛みを味わってこそ、100万人への決意が固まるのだ」
 ちょっと反論のつもりが、数倍する言葉が返ってきた。頭を低くして聞くのみだ。
「長距離を歩くコツは、疲れる前に休む事よ。今日の一歩をあせると、明日の二歩を失うぞ。立ち止まるのも、勇気の内だ」
 最後は言葉をやさしくしてくれた。改めて、小林が両手で握手してくれた。
 健次は深く礼をした。昭二と、亜希子と握手し、別れを告げた。


道連れ


 ゆるゆると続く真っ直ぐな坂を登り切ると、国道は左に折れて、また真っ直ぐに伸びていた。
 ふあ、健次は背を丸めて息をついた。
 背後の道は10キロを越える直線だった。前方の道も滝川の市街地まで続く、また10キロ以上の直線道路だ。
 右手には、田植えが始まったばかりの平野が広がる。左手の丘には、黄色い四角の敷物が置かれているよう。
 江部乙の名物、菜の花畑だ。刑務所のテレビで見ていたので、生で見て感動した。
 今度はゆるゆる続く下りの坂を歩きだした。
 道の駅でトイレを借りた。
 店の人たちは気さくだ。健次のタスキを見て寄ってきた。たちまち10人以上と握手できた。
 駐車場前のベンチに座り、弁当を開いた。最後のおにぎりを手にした。
 空を見上げると、もう太陽が傾いてきている。
 納内の小林家を出て、もう20キロ以上歩いて来ていた。足首も足の裏も痛い。
 足に何かが触れた。
 見ると、小犬がいた。舌を出し、尻尾を振って、何かをねだる仕草。健次は犬に詳しくない、種類はわからない。
 手のおにぎりを見た。匂いに誘われたようだ。
 周囲を見て、飼い主を探した。それらしい人は見当たらない。
 おにぎりを割り、半分を地面に置いた。わん、小さく声を出し、犬は食べ始めた。
 残り半分のおにぎりを食べると、足の痛みも消えてきた。
 よしっ、気合いを入れて立ち上がった。
 日暮れには滝川の市街へ、余裕で行けるはず。そこで宿を探す目算だ。
 問題は、明日発てるか、否か。疲れがどっと出て・・・それは明日の朝に考えよう。

 道の駅を出て、だらだら坂を下る。
 と、坂は上りになった。地図の上では直線でも、上下に曲がりくねった道だ。
 チリン、自転車のベルに立ち止まった。
「その犬は、あなたのですか? 首輪が無いし、ひもで繋いでない」
 警官だった。
 犬と言われて、ぐるり一回転すると、足もとに小犬がいた。道の駅の犬だ。
「違います。どっかの迷い子でしょう。付いてきてたなんて、気付かなかった」
「ずいぶんなついている様子だ」
 いぶかしげる警官。
 健次は足を蹴り上げ、振り払おうとした。ひょい、犬は身軽にかわし、また足になつく。
「さっき、おにぎりをやっただけなのに。次は他の人からもらえよ」
 と、言ってみた。しかし、犬に言葉は伝わらない。
「エサをやったのか。そりゃあ、もう、あんたを主人と思ってるぞ。ちゃんと責任をとるんだな」
「責任?」
「飼うのができないなら、ペットショップか保健所にいきなさい。新しい飼い主を探してくれる。さもなくば、殺処分だ」
 殺、と聞いて背筋から尻に震えが走った。
 警官は自転車で去った。
 過ちは一瞬、償いは一生・・・小林の言葉を思い出した。
 市街地のコンビニに入る。ペットフードの棚に、首輪とリード線もあった。
 店から出ると、わん、小犬は待っていた。
 諦めて、首輪を付けてやる。パンを割り、半分をやった。
 いよいよ本気で飼い主だ。考えてもしかたない、なるようななるだろう。
 パンを食べ終え、立ち上がった。日が暮れてきた。

 高倉健次は歩き続けた。
 犬を連れて誤算が生じた。
 宿に泊まれないのだ。ホテルを三軒訪ねて、どこもペット同伴は認めてくれなかった。
 当てもなく歩いて、日付が変わる頃になった。
 川を渡り、陸橋の上でひざが笑った。前方の真っ直ぐな道をながめ、欄干に体をあずけた。
 日本一長い直線道路の北端に来ていた。街灯の光が彼方まで伸びている。
 走る車は、すっかり少なくなった。たまに来る車のヘッドライトが、目に刺さるように痛い。
 わん、足もとの犬は、昼間より元気そう。尻尾を振り、先へ進もうとせがむよう。
 ゴーッ、陸橋の下を列車が通った。南から北へ、終列車であろうか。
 道路の案内板に、道の駅の表示を見つけた。休めそうな所だ。
 また健次は歩き始めた。

 街灯だけを頼りに歩く。
 時折ヒンヤリした風がほおを叩いて、眠気を追い払ってくれた。
 歩行者信号が点滅し始めた。行こうとする犬を制し、健次は立ち止まった。
 交差する道路で、1台が青信号を待っている。札幌方向から来た車が右折しようとして、交差点の中で停まった。
 黄色が赤に変わる。北から交差点を突っ切る1台。信号無視すれすれ・・・と言うより信号無視だ。
 その時、札幌方向から接近するヘッドライトがあった。
 安全になり、右折の車が交差点を出て行く。
 信号待ちの1台が交差点に入った。
 しかし、札幌方向から来た車は信号無視、100キロを越える速度で交差点に突入していた。
 バン、2台が接触した。
 札幌方向から来た車は前部が壊れ、勢いのまま歩道に乗り上げた。街灯に衝突した。
 信号待ちから入った車は側面を破損して、よろけた。そこへ、同じ速度で来たもう1台と接触した。
 ガシャン、車は転倒した。そのまま引きずられた。
 ギギギー・・・車体をきしませ、2台が停まった。そこで、車体が離れた。
 デロデロデロ、重たい排気音を残して、1台がよろめくように去って行った。
 健次は動けない。あまりの事に、交差点の端で固まっていた。
 ごくり、つばを呑んで、振り返る。
 街灯にぶつかった車が煙を噴いていた。白い煙と、黒い煙を同時に出している。
 引きずられた1台は車体が歪み、自動車の形をしてない。窓に人らしい物が見えた。
 わん、犬が走った。
 健次は追う。ジャリ、ガラス片を踏んだ。
 鉄片やプラスチックなど、車の部品が道路に散乱していた。
 健次は車に近寄った。ガソリンの臭いが鼻についた。
 衝突の時、窓ガラスは割れて落ちていた。直に車内が見えた。
 運転席の人は頭から血を流して動かない。センターピラーが内側に曲がり、シートベルトがゆるんでいる。
 シートベルトを制御する機構は、すべてセンターピラーの中だ。ピラーが折れて、シートベルトが機能しなくなったのか。
 後席をのぞくと、イスの間に人が横になっていた。挟まっているようだ。
 北から南から別の車が来て停まる。現場をヘッドライトで照らした。
「事故だ」
 声が近付く、近隣の家から人が出て来た。
 健次はドアを開けようとした。ギギッ、きしみ音だけで、ドアは動かない。
「消防のレスキューを待ったほうが良いぜ」
 携帯をかけながら、寄ってくる人がいた。現場の状況を報告している様子。でも、ぞんざいな口調、知り合いと話しているみたいだ。
 ポン、破裂音がした。
 どこかと見回すと、街灯にぶつかっていた車から火が出ていた。煙が車体をおおい、中から人が転がるように脱出した。

 あの時、健次は体の痛みに座って耐えていた。
 数メートル離れて、けんか相手が横になっていた。眠っているように見えた。
 息を整え、その場を離れようとした。
 離れがたく、何度か振り返り、けんか相手に寄って触れた。彼は息をしていなかった。

 サイレンが近付いて来た。消防が来ても、火の出ている方を優先する。
 こちらの救助は消防に頼れない。
 健次はドアに手をかけた。ギシッ、きしむだけで開かない。
 反対側に回ってみた。こちらのドアは少し開いていた。
 別のサイレンも近付いて来た。警察と消防と、救いの手が増える。
 助手席のドアをこじ開けた。
 人がいないと思いきや、イスから落ちて、女が足を上にして床で丸くなっていた。シートベルトが外れたのか、していなかったのか。
 引っ張りだし、道路に寝かせた。弱いが、息をしている。
 健次はタスキを取り、丸めて首の下に入れた。喉を開かせ、気道を確保するのだ。
 後席のドアを開けた。座席の上に残る手を握ると、弱々しく握り返してきた。男だ、若い。こちらもシートベルトをしていなかったのか。
 腰のベルトに手をかけ、引きずり出した。
 地面に寝かせた。ぐええっ、小さくうめくと、彼はがっくりと脱力した。
 息が止まっていた。
 ぱんぱん、頬をたたくが、反応は無い。息もしない。
 後席の座布団を枕にしてやる。シャツの前を開いてやり、健次は胸の上に両手を置いた。
 いっち、にいっ、さんっ、体重をのせて胸を押した。心臓マッサージを始めた。
 実際、人にやるのは初めてだ。
 ピーポー、救急車のサイレンが近付いて来た。
 早く、早く。健次は胸を押しながら、心の中で救急隊員を呼んだ。

「おはよう」
 その声に、健次は目を開けた。時計は8時を回っている。
 砂川警察署の廊下、そこの長いすで寝ていた。
 昨夜、交通事故の現場に居合わせた。被害者を救助して、事情聴取のついでに、警察に泊まったのだ。
「これは君のだろ」
 伊東巡査がタスキを返してくれた。頭の毛が薄い、定年が間近な人のよう。
 事故の被害者と一緒に病院へ持ち込まれていた。名前が入っていたので、警察に問い合わせが来た。病院と警察を往復するついでに、伊東が持ち帰ってきたのだ。
「君が手当てした二人は、まだ意識がもどらない。ひどい事故だったけど、命は助かりそうだ」
 伊東の報せを聞き、健次は胸をなでおろした。
「心肺蘇生法は、どこで習ったのかな?」
「刑務所です」
「けっ?」
 意外な答え、伊東は目を丸くした。
 それは更正授業のひとつだった。刑務所により、内容は違うらしい。
 相手を傷つけても、助け方を知らないために、助かるはずの人を見捨て、重犯罪となってしまう者がいる。助け方を知っていれば、逃げずに立ち止まり、傷害の軽犯罪ですむ場合がある。そのような想定で、傷病者の搬送や応急処置などの授業があった。
「心臓マッサージは講習だけで、まだ実際にやった事が無い」
「わたしも、あれが初めてでした」
 伊東は講習を思い出し、手でマッサージの真似事をした。
 タスキを広げ、健次はまた肩にかけた。所々アイロンプリントがひび割れ、はがれていた。黒いシミがある、血の跡だ。
「すごい事、してるみたいだね。どこまで行ってるの?」
「まだ始めたばかりです。昨日までで、やっと109人になりました」
 うん、伊東は頷き、手を出した。
「はい、110人目だ」
「あ・・・ありがとうございます」
 健次は手をにぎり、礼をした。
 その後、伊東の声がかりで、署内の人たちと握手した。健次が礼をする一方で、口々に激励の言葉をもらった。20人以上と握手した。

 昼前、警察署を出た。
 もう一度、あの事故現場を見ようかと思った。が、そのためには、道をもどらねばならない。
 わん、犬が南へと誘う。
 健次は歩を札幌へと向けた。


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 高倉健次の旅は続くけれど、ここまでで一括りとします。わん子の道連れもできたし、一人旅じゃなくなったし、ね。

   

OOTAU1

2015.7.12