黄泉の森
春の森 比良田彰彦は背伸びをして、机から立ち上がる。あっああー、と声をあげて深呼吸した。 去年、ついに歳が六十を越えた。還暦過ぎた腰は、伸びを入れると軽い痛みが走った。 久しぶりに気合いが入り、三日も徹夜して仕事を一本仕上げたばかり。マウスをクリックしてメールを発信、これにて完了だ。 気が付くと、首やら肩やら手首やら、体のあちこちも痛い。これも歳のせい、と自分に言い聞かせた。 カーテンの外が明るい、朝になっていた。 家を出て、玄関に立つ。外の空気を吸うのは久しぶり。息が白い、気温はセッシ5度ほどか。 門柱の表札は「あぬんこたん」と彫りの入った丸太だ。少々崩しの入った続け字なので、正しく読める人は少ない。一応、本名の比良田と書かれた小さな表札も横に付いてはいる。 北海道の春は雪解けから始まる。雪の下から土が現れ、草が芽吹けば、春も本番。 でも、まだまだ早朝は冷え込む時期だ。 朝の空気を浴びて、眠気が消えた。散歩を思い立ち、歩き出した。 家は敷地の端、木の列に沿って歩いた。200メートル四方の森は、比良田が個人で所有する。持っている土地は倍以上もあるが、隣接の農家に貸し出していた。 比良田彰彦は小説家、一時はベストセラー作家にもなった。 その頃、この大雪山を見上げる土地を手に入れた。5年住めば、家も土地も無料、と破格の条件だった。人口減少に悩む北海道の町や村が、たまにやる政策だ。それに乗っかった。 しかし、ある事でしくじった。 文芸小説家としての比良田彰彦は死んだ。だから、この家の表札は「あぬんこたん」なのだ。アイヌ語で死者の国の意がある。 今は・・・ポルノ小説家、もう20年続けている。ペンネームは「羅夢雷」とした。 脳で考えず、ひたすら脊髄反射で文章をつづる。三ヶ月か半年ごとに、札幌や東京の出版社に顔出しして打ち合わせ。後はメールでやり取り、原稿もメールで送る。名声とは無縁な文章屋業だが、食うには困らない。 森のとなりの農地は、すっかり土が出て乾いた様子。融雪作業のおかげだ。 けれど、まだまだ森の木陰には雪が残っている。 歩いていて、比良田は立ち止まった。融け残った雪の上に足跡があるのを見つけた。 シャーベット状の雪の表面に、ぽつぽつと穴が連なっていた。小さな足跡はキツネかウサギか。小さいけれど、間隔が大きいのはシカだろう。 大きな穴が連なっているのも見つけた。クマだろうか、森の中へ向かっていた。 近寄り、見直す。足跡は一度融けて、また凍っているようなので、今朝のものではない。少なくとも、数日前の足跡だろう。 クマが来たとして、この森で何をしたのか。むむ、と興味が湧いた。 パリッパリッ、固まった雪を踏みしめ、森に入った。足跡の穴の列と平行に進む。 中ほどまで来た。この森で一番大きな木がある。 その根元あたりで足跡が乱れていた。ぐるぐると木を回り、途絶えている。他へ行った跡が無い。 まさか、と比良田は見上げた。 枝に隠れて、ぶら下がっている物があった。 はあ・・・ため息をついた。振り返り、自分の足跡をたどって引き返した。 玄関に入ると、急に汗が出た。 居間の長いすに横になる。はあ、長い息を吐いた。 「おはよう」 恵美子が寝ぼけた顔で声をかけてきた。 彼女と暮らし始めて7年目、まだ籍は入れてない。親と娘ほどに年が離れているし、死んだ妻に少々の義理立てもしていた。 「朝、食べる?」 「うん、かるく」 「じゃ、トーストとサラダくらい」 恵美子は台所へ行く。 さて、と比良田は立ち上がった。深呼吸して電話の前に立ち、ピッピッポ、と110のボタンを押した。 比良田が2枚目のトーストを食べていると、ドアチャイムが鳴った。 警官を案内して、森に入る。木の下から指差して、ぶら下がっている物を説明した。 ああーっ、警官は小さく声をあげた。 そこから先は、警官にとってはルーチン作業。通信機で派出所の同僚を呼び、本署へ連絡してもらう。必要に応じて、町の自警団なり消防団にも協力を要請する。 昼前には「あぬんこたん」の前は車が列を成し、祭りのようになった。 はしごが木にかけられ、ぶら下がっていた物が地面に寝かされた。医師が確認して、死体と認定された。死後三日くらいらしい。 木の上の方まで、どうやって登ったのだろう。消防団員が言うには、滑りにくいロープが1本あれば簡単らしい。ロープ1本で木に登り、首を吊ったのだ。 首つり死体であっても、自殺とは限らない。事件の可能性も含めて、警察は情報を集める。 少し離れた道端の草むらに、乗り捨てられた自転車が見つけられた。 比良田も簡単に聴取をうけた。後日、正式な調書を作るために警察へ行かねばならない。面倒だが、必要な法手続きだ。 夕食は、おにぎりに豚汁。昼間、警官やら消防団やらに出した昼食の残りだ。 「もうSNSに載ってる、ここは自殺の名所だって」 恵美子がスマホをいじりながら言った。 比良田は携帯電話を持たない、旧人類を自認している。デスクトップの大きなパソコンが精一杯のハイテクだ。 「今回が3年ぶりで、この25年間で7人目の自殺者・・・だって」 「そっかあ、そんなになるのか。数えた事なんか無いから、名所だなんて考えなかったけど」 比良田は茶をすすりながら、天井を見上げた。 広い畑の中に、ぽつんと森がある。死にたい、と思う人を惹きつける何かがあるのだろうか。 ここに来た時は、妻と二人で農作業もした。小説家と兼業だった。妻が死ぬと、農業への興味は薄れて、畑は隣家へ貸し出した。 防風林のなごりの森が家を囲んで、そこに隠れるように住んでいる。十年以上も手入れ無しの森は、木の枝は伸び放題、草は生え放題だ。夏は中に入るのも容易ではない。原野へ還りかけている森だ。 「自殺の名所でポルノをすると・・・」 むう、比良田は眉間にしわを寄せた。職業病的思考を巡らす。が、何も浮かばない。 「廃墟でAVを撮った事があるわ。炭鉱跡とか、防空壕の跡とか、廃線になった駅舎でも撮ったわ」 恵美子が答えた。元AV女優らしい助言である。 なるほど、比良田は笑みを返した。 妖しげな自殺の名所を舞台に、ちょっと訳ありな男女が出会う・・・これならポルノ小説が成立しそうだ。 一本仕上げると、数日は小説家の脳が動かなくなる。 比良田は家の二階でパソコンをいじっていた。監視カメラのネットワークを起動し、家の周囲を見た。 最近の監視カメラは解像度が上がり、色調も再現が良い。フルハイビジョンのカメラをつなぎ、家の外と中を見放題だ。 居間に仕掛けたカメラを見れば、恵美子が何かしている。ちらとカメラに視線を送り、庭に出て行く。撮られているのを知っていて、それらしい行動している。 ぴちぴちのTシャツを着込み、ローのジーンズをはけば、ゆるんだお腹のへそが見える。しゃがむと、背中側でお尻の割れ目がはみ出そう。男の劣情をそそる出で立ちだ。 もう7年以上も前だが、彼女はAV女優だった。3年ほどの期間に100本以上も出演し、からんだ男優は数十人とか。AVの世界には射精シーン専門の男優もいるので、彼らを含めれば百人を越えるだろう。 外のカメラの画を見ると、玄関前にピックアップトラックが駐まったところ。降りてきたのは隣の農家、宮野さんの息子、名は誠司、年は30くらい。恵美子より少し年下だ。 誠司は玄関の戸を叩かず、裏の庭へと行く。勝手知ったる他人の家、ここら辺の住人には常識だ。 庭で物干しをいじる恵美子を見つけ、誠司は声をかけた。 比良田はスピーカーの音量を上げ、マイクが拾う音を聞いてみる。 「奥さん、防風林の下の草刈り、どうします?」 「いつものように、お願いね。あまり奥まで刈らないでね。あの人、自然で天然な感じが好きらしいの」 「あんまり草ボウボウじゃ、外から見えないから、また自殺の人が入って来ますよ」 「ああ、それ、やあねえ」 誠司は消防団に属している。この前の事もあり、そっちの方面から要請があったのか。 「じゃ、手空きの時に、少しづつやっておきます」 誠司は一礼して背を向けた。と、くるりと向き直り、恵美子に近寄る。ジャケットの内ポケットからCDを出して見せた。 「実は、こんな物を手に入れました」 「ええっ? あれまあ・・・ほんとに!」 恵美子が顔を赤らめた。 何かと、比良田は画面に顔を寄せた。しかし、カメラから二人は遠い。画面のCDは極小さく、正体は確かめられない。 「見たいわあ。今、見ましょ、一緒に」 恵美子が誠司を居間に誘う。比良田はカメラを庭先から居間へ切り替え、二人を追って見た。 居間に上がった恵美子と誠司は、テレビの前に並んで座る。 恵美子はレコーダーの電源を入れ、誠司のCDをセットした。音楽ディスクではなく、ビデオディスクだったようだ。 じゃーん、音楽とともに画が出た。 「きゃあ、若いーっ細いーっ」 恵美子が声を上げて手をたたいた。 比良田はカメラを切り替え、テレビが画角に入るようにした。なんと、恵美子がテレビに映っていた。 誠司が持って来たディスクは、恵美子が出演したAVだった。AV女優なりたての彼女は、まだ二十歳を過ぎたばかり、少女の趣さえある。 テレビの中、筋肉ムキムキの男が右に、スキンヘッドの男が左に、恵美子の乳房を両側からもみしだく。空いている手が下に伸び、パンツの中へ入って行く。ああん、テレビの恵美子が妖しげな声をあげた。 若い恵美子は男優たちのペニスを握る。モザイク処理がなされていない、丸見えだ。いわゆる裏ビデオと言うヤツ。 「お、奥さん・・・」 誠司が恵美子の手をにぎる。 恵美子はテレビに見入ったまま、顔を動かさない。 がばっ、誠司が恵美子に抱きついた。Tシャツの下から手を入れ、乳房をわしづかみにする。 「ちょっと、それはダメよ。この前は、ただ一度きりの過ち、と約束したでしょ」 「ぼくはもう・・・がまんできないっ!」 誠司の手がローのジーンズを下ろしにかかる。恵美子の抵抗は口だけ、体はされるがままだ。ついに下半身を露わにした二人は、シックスナインの体位で互いの局部をなめ合う。 一方、テレビでは2対1のプレイ。後ろから前から、極太のペニスが女の股に突き刺さっていた。 ほほう、比良田は身を乗り出した。 画面手前では、今の恵美子と誠司がむつんでいる。画面奥では、テレビに若い恵美子が映り、プロのAV男優たちと絡んでいる。思いがけない構図になった。 あっあっあっ・・・恵美子と誠司は正常位で体を重ね、二人の声がシンクロした。天井に向かって足を突き上げる恵美子、誠司は尻をクランクシャフトのように回している。歯を食いしばり、誠司は腰を上下のピストン運動へ変えた。 と、ピピピピッ、携帯電話が鳴った。 腰の動きを止め、誠司は脱ぎ捨てたジャケットに手を伸ばす。ポケットから携帯を取り出して、ちょっと顔をしかめた。 「おう、おう・・・今、比良田さんの家だ。わ・・・わかった、すぐ帰るから」 誠司は携帯を切って、恵美子に向き直る。が、両手両足が首と胴に巻き付いてきた。 「だめよ、帰るなんて。最後の最後まで、きちんと終わらせなきゃ、帰してあげないから」 恵美子は下から誠司を抱きしめて、唇も奪った。 「ふぎっ」 誠司が小さく悲鳴をあげた。 ぎゅううっ、と恵美子の膣が絞め込んできて、ちんちんが根元から折れそうな痛みが走ったのだ。比良田も経験しているので、その苦しみは十分以上に理解できた。 誠司の顔が赤くなる。痛みに耐えて、腰を細かく揺らした。 射精の前兆にも見えるが、ちんちんの根元を締め上げられては、出したくても出せないだろう。 あおお、恵美子が声を上げた。うおおっ、誠司も吠えた。 腰を震わせ、誠司が体から力を抜く。恵美子は手足を組んで、がっちり誠司の体に巻き付けたままだ。 「まだまだ、抜いちゃダメよ。リアルのセックスは、ここからの余韻が大事なんだから」 はあはあ、誠司が背中を揺らして深呼吸を繰り返す。 「も・・・もう、いいっしょ。か、か・・・帰らなくっちゃ」 「しかたないなあ・・・」 誠司の懇願が通ったようだ。恵美子が両手両足の戒めを解いて放す。 ふう、荒い息で誠司は手を突っ張り、上体を起こす。ひざをつき、腰を持ち上げた。 ああん、恵美子が甘ったるい声を出す。膣からペニスが抜け、体に男の体重がかからなくなった。 誠司はティッシュでちんちんを拭く。ついでに、恵美子の股にもティッシュを置いた。 大慌てでズボンをはき、誠司は居間を出て行く。股を大開きのまま、恵美子は手を振って送った。 テレビは、まだ恵美子のビデオを映している。誠司はディスクを置いて行った。家に持ち帰れない事情があるのかもしれない。 さて、と一声出して、伸びをした。恵美子は起き上がって、テレビを消した。 尻を出したままトイレへ行く。 比良田はカメラを切り替え、便器に座る恵美子を見た。便座の中にもカメラが仕掛けてある、肛門が大写しになった。 肉の割れ目から白いものが垂れてくる。誠司の出した精液か。 しゃーっ、勢い良く尿が出た。男の目には不思議な光景だ。 排尿が終わり、恵美子はウオッシュレットのボタンを押した。尻を振るようにして、肉の割れ目を念入りに洗う。 この家のウオッシュレットにはビデ機能が無い。尻の位置をずらして、ビデの代わりにするのだ。 ことこと、恵美子が会談を上がって来た。 「はい、お疲れさま」 比良田はイスに腰掛けたまま、半分振り返った。 まだ恵美子はパンツを着けていない。下の黒い三角をさらしたまま。 「良い画、撮れた?」 「飛び入りのおかげで、思わぬ物が撮れました。今日は、きみのトイレとお風呂くらいを予定してたんだけど、ね」 比良田は再生ボタンをクリックする。 さっきの情事が映し出された。カメラの位置を知っている恵美子は、局部が映るように体を微妙にねじる。さすが、元AV女優だ。 「こんなの見せたら、誠司くん、ここの森で首吊りしちゃうかも」 「そういう事態は避けたいものだね」 恵美子をひざに乗せ、比良田はパソコンの画面を見た。 撮ったビデオを世に出すつもりは無い。あくまで、ポルノ小説家としての体験作りが目的だ。 恵美子の首筋が目に入った。自殺未遂の古い傷痕は、すっかり薄くなっている。 ポルノ小説家ゆえ、出版社がAV関係者との対談をセットする事があった。恵美子も、その一人だった。 対談の翌年、比良田が打ち合わせで東京へ出た時、渋谷の坂で恵美子と再会した。食事をして、ホテルで一夜を過ごした。そのまま、北海道まで付いて来てしまった。 恵美子はAVの収録現場で自殺騒動を起こし、仕事を失っていた。比良田と再会した時、彼女はデリヘルの控え室で寝泊まり、事実上のホームレスだった。 「おれたちも長いし、そろそろ入れるか」 「できちゃったら、ちゃんと責任取ってくれるのよね」 比良田は入籍の話しをしたつもり。はぐらかすのは、いつも恵美子である。 「今日は若い子種も仕込んだし、できる確率は高いはずだ」 「でも、今日のは比良田彰彦の子供じゃないわよ」 「おれも還暦過ぎです、贅沢は言いません。この家にいる女が妊んで、同居の男を父親と推定して、それで十分です」 あはは、恵美子は笑った。尻を揺らし、比良田を誘う。 「大きくなってきたわ。さあ、確率を高める事をしましょ」 恵美子は比良田のひざから降り、ズボンに手をかけた。中の物は固くなっていた。 夏の森 一年で最も昼が長い季節になった。 朝は4時前から、夕は7時過ぎまで空が明るい。 比良田は自宅の森の外縁を歩いた。 となりの畑では、作物の芽が列を作っている。畑は3年から5年の周期で輪作をするのが普通。同じ風景に見えて、毎年毎年、畑は微妙に違うもの。 この3日ほど、どうにも落ち着かなくて筆が進まない。日が長いせいか、家の外が気になって歩いていた。 ふと、気付いた。森の中の草が踏み分けられている。また、クマでも入り込んだのか。 耳をすまして、森の中に何がいるか探る。うなり声も草を踏む足音も聞こえない。クマはいないようだ。 ゆっくり、一歩づつ踏み込んだ。 うう・・・あ、ああ・・・ 何か聞こえた。音の方向を見定め、また一歩づつ進む。 くく・・・ふあ・・・ 人の声のようだ。苦しんでいる様子に聞こえる。 注意深く進んだ。人の耳は、時に動物の声と人の声を聞き違える事がある。 草むらに隠れるように人が寝ていた。比良田より少し若い男だ。息をする度、苦しげな声がもれる。 「あんた、人の土地に入り込んで、何してるの?」 比良田は不法侵入者に声をかけた。男は顔を向けた、泣きそうな目だ。 「死のうと思って・・・でも、死ねなくて・・・」 近くにロープがあった。首吊りをしようとして、うまくロープが木にかからなったのか。あるいは、途中でロープがほどけたか。 「じゃ、ね。あんたに気付かなかった、という事で。なに、この季節でも、夜は十分に寒い。明日の朝までには、あんたは冷たくなっているだろう。寒さが身にしみる時、かなり強烈な痛みをともなう事があるらしい。その痛みを感じなくなったら、眠るように死ねるはずだ」 比良田は低体温症のうんちくを語り、男に背を向けた。死にたがっている人間に、同情的な言葉はいらない。 数歩離れた時、別の言葉が聞こえた。 立ち止まり、聞き直す。確かに、倒れた男が言っていた。 「た・・・助けて・・・」 死にそこない、死ぬ気が失せたようだ。となると、このまま立ち去る訳にもいかない。 もう一度歩み寄り、比良田は右手を差し出した。 男が強い力で手をつかんだ。引き倒されそうになり、踏ん張って堪えた。 ひょい、男は軽々と立ち上がった。 まだ体力は十分に残っていたようだ。立てずに寝転がっていたのは、立つ気力に欠けていたからか。 比良田は男を家に招き入れた。 空調の効いた部屋に入ると、男はガタガタと体を震わせた。 恵美子がマグカップで温かいミルクを出した。 唇まで震えて、なかなか口に入らない。それでも、少し経つと、震えは治まった。木陰に寝ていて、低体温気味だったのだろう。 ミルクを飲み終わる頃には、すっかり落ち着いた。ぼそぼそ、小さな声で自分を語り始めた。 男の名は瀬里沢大輔、年はまだ50を過ぎたばかり。 五十歳と言えば、現代では壮年の働き盛りだ。しかし、自殺が多い年頃なのも、一方の事実である。 「あいつら・・・ほんの例え話なのに、言葉尻をつかまえて・・・しつこく、何度も何度も・・・」 瀬里沢は小さな会社を経営していた。10年以上にわたり、会社は順調だった。それが、ここ2年ほどで傾いた。ホームページで会社の現状を伝えていたが、その中の文章が問題になった。いわゆる、炎上と言う状態になった。 経営の立て直しのみならず、ホームページ問題の対応で休む間も無い。ついでに、家庭内も不和になった。 瀬里沢は疲れ果てた。 春に自殺があった森の新聞記事を思い出し、ここへ来た。しかし、木に登れず、ロープを枝にかける事もできない。疲れて、草むらに倒れた。 「自殺は簡単な事じゃないよね。普通はさ、何回も失敗を重ねて、その果てに成功するものよ。成功する前に諦めて、生きる方を選ぶ人も多いんでしょうけど」 恵美子が答えて言った。自殺未遂を何度か経験した女の言葉だ、重い響きがある。 「一度目では、だめですか・・・」 瀬里沢も頷いた。 比良田は黙って聞くだけだった。 ポルノ小説家とは言え、言葉を紡いで食べている。一般向けほど厳密に検証されないけれど、編集から言葉遣いを注意され、原稿を訂正するのは日常業務の内だ。1本書き上げるのに、少なくとも3回は改訂している。10回以上も直して、結局、出版されなかった事がある。 出版されて、読者から酷評されるのが、作家には一番堪える。その場面を思い出し、比良田は腹をおさえた。 評論家に何を言われても気にならないが、読者の反応は気にかかる。心に刺さる言葉は、常に読者からのものだ。でも、何年か過ぎると、それが次の作の元になる。創作の原点は、誉め言葉よりも酷評の方だ。 けれども、出版社にとっては、酷評は経営の足を引っ張る。評判の良くない作家にページは与えられない。作家は出版社からページをもらうため、読者におもねる事になる。 「お風呂、沸いたよ。入って、温まりなさい」 恵美子が誘う。瀬里沢は立ち上がるが、足取りはゾンビのよう。 「風呂って、事故が多い所だ。付き添いが要るな」 比良田も立とうとした。その肩を恵美子が押さえた。 「男を元気付けるのは、女の仕事よ」 比良田は二階に上がり、パソコンの電源を入れた。 監視カメラのネットワークをチェックし、風呂を見た。マルチカメラは異常無し、多チャンネル録画もスタートさせた。 脱衣所を見ると、瀬里沢が服を脱いでいた。のろのろとした動作、心が油ぎれを起こしている様子だ。 瀬里沢が浴室へ入った。カメラを切り替えて追う。 この家の風呂は広い。浴槽は縦横1メートル、二人が並んで入れる。洗い場は三畳ほど、恵美子とソープランドごっこをする場だ。 瀬里沢は桶を手に、のろのろとした動作で湯を頭から浴びる。目を外したとたん、湯船に身投げしそうな雰囲気だ。 恵美子が脱衣所に来た。瀬里沢が脱いだ下着を洗濯機に放り込み、カゴに新しい下着を用意する。比良田と同じ体格なので、着られるだろう。 またカメラを浴室に切り替えた。 洗い場で、瀬里沢は大の字に寝ている。裸になって、何か感じる事があるようだ。 「お待たせーっ」 恵美子が裸で入って来た。 唖然として、瀬里沢は身動きできない。 どっ、恵美子は後ろ向きに瀬里沢の足に乗った。右足を抱え上げ、ひねる。ううっ、男のうめきが響いた。 「心が疲れた人って、足の裏が汚れてるのよ。角質がたまってボロボロね。指の間も垢がたまってる」 恵美子は軽石で男の足をこする。ポロポロ、垢が床に落ちた。 裸の女に乗られて、瀬里沢は股間を手でおさえた。意図せず、体が反応していた。 「あの、わたしは妻も子もいて・・・これは、ちょっと」 「ほほっ、自殺しようとした人が、今更何を」 恵美子は体をずらして右足を放し、左足を抱え上げた。尻が男の腹に乗った。 おっと、比良田は舌打ちした。湯気でカメラが曇ってきた。 だが、と首を傾げた。曇りガラス越しに見る情事は、これはこれで趣がある。 あっああーっ、男の声が浴室に響いた。 恵美子のソープサービスは、これからが本番だ。プロの技に抗うのは不可能に近い。 監視カメラは自動録画にして、比良田は1階に降りた。長いすに座り、なにくわぬ顔でコーヒーを飲んだ。 バスローブをはおり、瀬里沢が風呂から上がって来た。顔が赤らみ、目が一際大きくなった感じ。 「あっ、これは・・・なつかしいなあ」 瀬里沢は居間の本棚を見て言った。 最近の作は置いてない、ポルノは居間にふさわしくないから。世界的名作のジュール・ベルヌやH・G・ウエルズと並んで、比良田が本名で出していた頃の本もある。 棚から一冊を取り出した。比良田彰彦作「黄泉の森」を開き、数ページをパラパラと指で流した。 比良田は黙して見ていた。本名で出した本で、最も販売部数が少ないやつだ。 「昔、活動家だった頃、この本に噛み付いた事がありましてね」 瀬里沢が口を歪めて言う。活動家だった頃も、こんな顔でやっていたのか。 「噛み付くほど読んでたんだ・・・」 「まさか。上の方から、この部分が悪いと指摘があって、その抜粋のコピーをもらっただけっす。ぺらぺらの、1枚のコピー用紙でした」 瀬里沢は本を棚にもどし、胸を張った。 「目標が決まれば、後は標的に定めた出版社に押しかけ、その他のマスコミに声明文を発表するだけっす。訂正せよ、謝罪せよ、販売中止せよ・・・てね。結局、出版社は書店から本を引き上げ、我々は勝利しました」 ふん、と瀬里沢は拳を掲げ、鼻息を荒くした。 比良田は言葉を返せなかった。 目の前にいるのは読者ではない。本を読みもせず、上からの指示で動いただけの男だ。 夕食が終わる頃には、洗濯機も止まっていた。 瀬里沢は自分の下着と服を着て、家へ帰る事になった。比良田が車で駅まで送った。 別れ際、瀬里沢は振り返り、深々と頭を下げた。 「先生・・・昔、わたしは・・・本当に、申し訳ありませんでした」 「いや、別に」 比良田は小さく手を振り、車を出した。 先生・・・と呼ばれて、尻がかゆくなった気分。本当は、あの本を読んだから来たのでは、と考えたくなった。 どのみち、四半世紀も昔の事だ。どこかの国では、千年経っても変わらない、と恨みを言うらしい。だが、ここは日本だし、比良田は作家だ。体験した事は時間差を置いて、作品の肥やしとなって結実する。文章を作る時には白紙の心が良い。妙な感情が湧くと、筆は進まなくなる。 恵美子はリヤシートから振り返り、遠くなる瀬里沢を見送った。 「あの人、比良田彰彦の家と知ってて、自殺しようとしたんかな。次は、どこで死のうとするやら」 「あっしには関わりの無い事で」 比良田は昔のテレビの決めぜりふで答えた。 かつての言葉狩りの活動家が、逆に言葉狩りから責められて、死ぬ思いまでした。痛快な事だ。 秋の森 まだまだ暑いなあ。 比良田は新幹線で東京駅に降り立った。 飛行機の方が早いけれど、上昇下降時の気圧変化が気持ち悪く感じる。列車なら、北海道からずっと地面の上、気圧は一定だ。 お茶の水駅から徒歩で数分、出版社の溝鼡社を訪れた。ここに来るのは実に久方ぶり、あれから20年近い時が経っていた。 応接室のソファに座り、茶をすすって待つ。時が止まっているかのように感じる、静かな部屋だ。 カバンから本を出した。自著『黄泉の森』を開く、こちらも久しぶりだ。 とあるキャンプ場にて、夜、キャンプファイヤーを囲む七人。彼らは自殺未遂の経験者たちだ。 それぞれ、違う理由で自殺を図るが、意図に反して生き残ってしまった彼ら。次は必ず死のう、と決意をこめて話す。 どうしたら確実に死ねるか、どうしたら周囲にかける迷惑を最小にできるか、話しは尽きない。 一人が立ち上がり、ナイフを出して自分の首筋に当てた。 「話すのも飽きた。もう、ここで死ぬ!」 しかし、ナイフの切っ先を肌に立てたまま、手が動かない。他は黙って見ている。 冷たい沈黙が7人を包む。キャンプファイヤーの火がゆらめき、虫の音だけが騒がしい・・・ 「ども、お待たせしました。北海道から足を運んでいただけるとは、恐縮です」 編集の高橋が鼻声で入って来た。小脇に抱えた袋をテーブルに置く、表題に『黄泉の森』とある。 比良田もカバンから袋を出して置いた。その表題は『黄泉の森・なぜ言論は暴力に屈したか』となっていた。 「読ませていただきました。いやはや、力作ですねえ」 比良田の手元のあった原稿は、『黄泉の森』が店頭から引き上げられ、出版停止となるまでの顛末を描いたドキュメンタリー。書いたのは新進の菊地百々子。5年がかりで取材したらしい。 「再版は良いとして、また同じ事が起きないか、と不安ですよ」 「それへの対抗策として、そのドキュメントを巻末に載せようと考えております」 はあ、と比良田は小さく頷いた。 四半世紀前、その事件は起きた。 比良田彰彦の新作『黄泉の森』が発売されて一ヶ月ほど、某人権団体が抗議の声を上げた。 自殺者と自殺経験者の人権を軽んじている、として著作の内容変更と作者の謝罪を求めて来た。 比良田が簡潔な声明を返した。 「読者がどのような感想を持とうとも、それは読者の自由であり権利である。作者は介入できない。時に、政治家や宗教家は読者の感想に物申すけれど、それは権力の習性かもしれない」 謝罪も訂正も含まない声明に、人権を旗印にする団体は怒りを露わにした。出版社の前で街宣車がスピーカーでがなる、書店に並ぶ本にイタズラが相次ぎ、返本が多く発生した。他の本にも被害が及んだ。 出版社は商売をしている。その商売が成り立たない状況が起きて、ついに出版社は『黄泉の森』を書店から引き上げた。 比良田は月刊誌の連載からも降りて、ようやく騒動は収束した。 「いっそ、このドキュメントを巻頭に持って来たら、と思いました。誰が殺したクックロビン、てな感じで」 「本のタイトルが変わってしまいますよ、面白そうですが」 比良田の提案に、高橋は編集としての考えを巡らした。 「誰が本を殺したか・・・それはわたし、とクラゲが答えて・・・」 ぷっ、高橋が吹き出した。 「確かに、その方が売れそうですね。A6やB6の文庫本じゃなくて、もっと大きなA5サイズにもできそうだ」 高橋は満面の笑み。忘れ去られそうになっている著作を発掘する文化人の顔に、本を売って儲けようとする商売人の顔が混じってきた。 溝鼡社での用事は1時間ほどで終わった。 まだ昼を過ぎたばかり。比良田は近くの喫茶店でランチを取った。 背後の席では、学生たちが議論に忙しい。最近出た小説を論評し合っていた。 食後のコーヒーを口にしながら、彼らの言葉に耳を傾けた。言葉の中身より、懐かしい感情がわいた。 かつては、比良田も同じように仲間と語り合った時代があった。あの時の仲間たちとは、今は手紙のやり取りも無い。北海道に移住したせいだけでなく、あの事件が転機だったような気がする。 ランチを終えると、近くの菓子店に寄った。菓子の折詰めを作ってもらった。 折詰めを手にぶら下げ、裏通りへ入る。雑居ビルの前で足を止めた。くすんだ外壁、築何十年だろうか。 この五階建てビルにはエレベーターが無い。ひざのきしみを気にしながら、四階まで上がった。 哲夜書房のドアの前で足を止め、ふうと息をした。ギギギッ、音をたててドアを開けると、見知った顔があった。 「羅夢先生、お久しぶりです」 編集の柿崎が肩を揺すって出迎えた。 各々の机にはパソコンのディスプレイが並ぶ。机の上がすっきりして、昔の編集室とは様変わりだ。 「聞きましたよ、比良田彰彦の本が復刻されるそうで。大家が復活となったら、ここみたいな弱小とは縁切りになりそうだ」 出版業界は意外と狭い世界だ。こうして情報を漏らしながら、20年前の騒動が再燃しないか、探りを入れてるのだろう。 「昔の仕事だ。これまでの20年を帳消しにはできないよ」 柿崎の言う復刻とは、活字印刷が主流だった頃の言葉。オフセット印刷が主流の現代には似合わない。やはり、再版くらいが良い表現だ。 比良田はテーブルに菓子の折詰めを置く。柿崎は自ら茶の支度をする、零細出版社ならではの風景。 「差し入れなら、我々の方がしなきゃならんのに、どうもごちです」 ソファに腰を下ろすと、溝鼡社より馴染んだ空気に肩から力が抜けた。 編集室を見下ろす位置に写真が飾られていた。8年前に死んだ編集長、大谷の不精ひげの写真だ。 20年前、仕事を無くし気力も失っていた比良田を誘ってくれた。言わば、恩人に当たる。 「物欲、食欲、色欲、人間の欲を数えれば108にもなるらしい。けれど、それらに対する反語は1つだけ、死だ。死の衝動を書ける人なら、欲の衝動も書けるはずだ」 そう言って、大谷は比良田にポルノを書かせた。 比良田は生き返ったが、大谷は死んだ。心臓麻痺だった。 編集者の生活は不規則そのもの。月刊誌でも、締め切り前は徹夜になりがちだ。食事はインスタントと外食ばかり。ゆるやかな自殺、と揶揄されて仕方ないほど。 どたどた、上階から数人が下りてきた。 「おおっ、羅夢先生、お世話になってます」 恰幅の良い男が話しかけてきた、AVプロダクションの後藤だ。北海道で留守番の恵美子は、かつて後藤のプロダクションに所属していた。 「今日は、うちの新人の撮影でね。そうだ、ちょうど良いから、先生と対談と言う事で、一緒に撮りましょう」 後藤に腕を引かれ、比良田は上の階へ。このビルでは、哲夜書房は4階と5階の2フロアを使っている。 10畳ちょっとの簡易スタジオで撮影が行われていた。 天井から垂らしたペーパーホリゾントの前で、女の子が裸でポーズしていた。後藤が連れて来た新人AV女優だ。 「ささ、先生、マミの横に寄って」 後藤に引かれるまま、比良田はホリゾントの前に来た。マミと呼ばれた新人女優が裸の胸を寄せてきた。 「ちょっとエッチ度が足りないなあ」 カメラマンが首をひねる。 後藤が箱から小道具を出した。比良田はラメのベストを着せられ、黒めがねに蝶ネクタイをさせられた。 「はい、先生、マミちゃんのおっぱいに手をやって」 カメラマンの注文が来た。 こうなっては、開き直りあるのみ。比良田は口を開けて舌を横に出し、指でマミの乳首をつまんだ。 「おおっ、さすが。わしづかみよりエッチだよ」 後藤が手を叩いて笑った。 「ねえ先生、羅夢ってペンネームは、あのアニメのラムちゃんから取ったの?」 マミが真顔で聞いてきた。むむ、比良田は口をへの字にした。 「以前にも、同じ事を聞かれたなあ。残念ながら、アニメでも漫画でもないのだよ。私の名前のラムは、実はアイヌ語で、知恵とか知識の意味がある。ラムピリカと言えば、良い思いつき、グッドアイデアの事になる」 「へえーっ、ラムちゃんて、宇宙人だと思ってたけど、本当はアイヌだったのかあ」 マミが感嘆の声を返した。 言われて、比良田も考えを巡らせた。日本語でも、智佐や真知、智恵子などとラムに相当する女の名前がある。 だがしかし、あの漫画のラムの名前は、ハワイ生まれのモデル、アグネス・ラムが元ネタのはずだ。近頃の若い子は、アニメのラムちゃんが元祖のように思うかもしれないが。 「ラムピリカがグッドアイデアなら、逆のバッドなアイデアは?」 「それは、わたしの名前だ。羅夢雷と書いて、ラム・ライ。アイヌ語で死んだ知恵、役立たずの知識・・・そんな意味の、はずだ」 「はず?」 比良田は頷いた。はず、なのだ。比良田はアイヌ語の専門家ではない、知ってる単語を適当に並べて名前にした、だから。 日が暮れて、比良田は新宿のホテルにチェックインした。 シングルに空きが無く、今回はツインの部屋になった。運転免許、クレジットカード、銀行のキャッシュカードの類いは金庫に入れた。 これから夜の歌舞伎町へ出る、財布の中は現金5万円のみ。 平日と言うのに、町には洪水のように人があふれていた。 「呼び込みはボッタクリ120パーセント、あなたは狙われている」 夜の興を削ぐ放送が流れる。 たらたら歩くうちに、歌舞伎町としては人の少ない通りに出た。けばい看板はストリップ、大写しな女の写真に見知った顔があった。AV女優来演、と宣伝文句も色を付けて大書きである。 去年、企画物AV女優の三人組と対談をした。その一人、芸名は明智蜜幸と書いて「あけちみつひで」と読ませる娘だ。 階段を下り、入り口で5千円を払って中へ入った。 客の入りは7分くらいか、男たちの目はステージの一点、踊り子の股間に集中している。ひずんだビートの音楽、誰も音質は気にしない。 比良田は壁際に立って、暗闇からショーを見守る。 音楽が途切れ、踊り子が一礼して、照明がフェードアウトした。幕間に入った。 「次なるは、明智蜜幸嬢の登場です。拍手でお迎え下さい」 アナウンスがあって、華やかな音楽ときらめく照明、その中に踊り子が登場。ぴゅーぴゅー、口笛が鳴った。 一人で踊っているのを見れば、明智蜜幸は良い女だ。胸の張り、腰のくびれ、伸びた足、どれも100点に近いプロポーション。その他大勢の企画物女優でしかないのはなぜか、不思議に思ってしまう。 1曲終わって、2曲目は露出度の高い衣装で登場。そして、3曲目はほぼ全裸。小道具で股間を見せたり隠したり、これぞストリップティーな踊りだ。 ふと、考えた。 AV女優からストリッパーになるのは、職業としては転落であろうか。一般向け小説からポルノ小説へ、これも転落だろうか。 考えるうちに音楽が終わり、拍手があがる。比良田も手をたたいた。 照明が落ちて、明智蜜幸のステージが終わった。 帰ろう、比良田は新しく始まった音楽に背を向け、出入り口に向かう。 と、呼び止められた。入り口横、券売所の奥へ案内された。 「先生、いらしてたんですね。有名人をただ帰しては、商売人のメンツが立ちません」 館主の北尾は赤い蝶タイがトレードマーク、薄い頭髪をポマードで独特の形に固めている。 数年前、このストリップ劇場を雑誌の取材で訪れた事があった。北尾のイメージは、あの時と変わっていない。 「ポルノ小説家は有名人にあたらんでしょ」 「いやいや、この商売の内では、十分に有名人です」 比良田は頷き、北尾を立てた。文章には少々の自信があっても、口のやり取りでは商売人が上だ。 「なかなかの入りで、ここは流行ってますね」 「いやいや、新宿は地代が高くて、これくらいではギリギリですわ」 ほんの50年ほど前、ストリップは日本の津々浦々の街にあった。それが今や、消滅寸前の斜陽産業となってしまった。 同じ事は書籍にも言える。稼ぎ頭の週刊誌をコンビニに取られて、日本の書店は青息吐息で経営している。 「先生、久しぶりーっ」 バスローブの女が入って来て、比良田に抱きついた。唇を重ね、舌を口にねじ込んできた。 パシャ、ストロボが光った。北尾がカメラをかまえていた。 「羅夢雷先生、ご来館記念の一枚、確かにいただきました」 女の手から力が抜けた。唇も自由になり、比良田は女の顔を見られた。明智蜜幸だった。 「先生ったら、ステージ下に来てくれたら、いっぱいサービスしたのにい。さそり固めとか、4の字固めとか、三角締めとか、好きでしょ?」 言われて、否定できない比良田である。 雑誌の対談では、女優たちにプロレス技をかけられる写真を撮った。手の取り方とか、足の角度とか、あれこれ細かく注文を付け、比良田はプロレスのうんちくを語ってしまった。 「館長さん、あたしは先生とデートしたい。フィナーレ、出なくて良いでしょ?」 「写真もいただいたし、サービスして来なさい」 蜜幸の申し出を、北尾は快諾した。 比良田はビルの外に立ち、10分ほど待った。 蜜幸がコートを羽織って出て来た。化粧を落とせば、まだ25歳の女だ。すっぴんの肌は20歳前にも見えた。 二人が並ぶと父と娘以上の年の差だが、こんなカップルは歌舞伎町で珍しくない。 とりあえず、小腹を満たそうと立ち食いのソバ屋に入った。新宿駅前、歌舞伎町寄りの立ち食いは24時間営業が多い。 「先生の本、買ったよ。難しいけど、ちょびちょび読んでる」 蜜幸がバッグから文庫本を出して見せた。 表紙は『夜の偉人伝』とある。比良田がポルノ小説へ転じて間も無い頃の本。裏に値段が貼ってある、古本だ。 「ありがとうございます」 印税は入らない古本だが、蜜幸は読者である。作家として、決して粗末にできない。 食べ終わり、比良田はホテルに帰った。 蜜幸が部屋まで付いて来た。ベッドにうつ伏せで大の字になると、くうーっ、と寝息をたて始めた。 女の寝姿をながめながら、比良田は『夜の偉人伝』を開いた。副題は『あんた方も好きねえ』とある。表題は編集が付けた。 ほぼ20年ぶりに読む自著である。1パーセントの史実と99パーセントの妄想で、歴史上の人物を面白可笑しく書いた。うそを書くな、と歴史学者の抗議が来て当然の内容なのに、ポルノゆえか、世間は反応しなかった。 第1話、ソクラテス。 25年間の軍務を終え、アテネに帰還したソクラテス。まず、したのは結婚。自身の年は50になっていたが、嫁は花の15才。ロリコン趣味丸出しだ。おれの女はおまえだけ、と妻となったクサンチッペと毎夜はげむ。ついに3人の子を成した。一方で、アテネの街に繰り出しては、ボーイハントに余念が無い。長い軍隊生活の中で、すっかりホモの気が強くなってしまっていた。 第2話、徳川家康。 齢70を数えようと言うのに、徳川家康は精力絶倫。今宵も床にあぐらをかき、伽の女の到着を待っている。現れたのは、側妾の一番手で古株のお勝の方。新しい側妾に、まだ12才のお定の方を伴って来た。お定を裸にして、お勝は健康体を確認する。乳房はふくらみかけ、下の毛も生え始めである。家康はお勝も裸にして、新旧の女を見比べる。垂れかけた乳房、濃い下の毛は色気十分。今夜は3Pで、朝までだ。 第3話、乃木将軍。 旅順攻略で武功を上げた乃木、ロシアを破った英雄の凱旋だ。しかし、仕事は山とあった。なにせ、ロシア側の10倍以上の戦死者、負傷者の山を築いてしまった。傷病軍人のために病院を建て、戦死者のための恩給制度を作る。各地を巡り、戦争未亡人を訪ねては、己が肉体をもって夜の寂しさを癒やしてやった。しかし、妻の静が気付いて、軍刀をかざして追って来た。乃木は生き残る事ができるか? 第4話、ダグラス・マッカーサー。 日本を降伏させ、占領軍司令官として意気揚々、マッカーサーは飛行機を降りた。が、現地は荒れていた。占領軍兵士による略奪や暴行、強姦事件が多発していた。市民の反撃もあり、暴動が起きる寸前である。マッカーサーは日本側と協議して、色町と遊郭を再開させた。さらに、占領軍専用の娼館を各地に作らせた、いわゆる将校クラブだ。毎夜、マッカーサーはクラブで日本の女たちと過ごす。部下に範を示すためだ。 比良田は本を閉じた。 題材も文章も、文芸小説家気取りが抜けていない。読んでる方が気恥ずかしくなる。 あっ、蜜幸が奇声で顔を上げた。目がさめたよう。 「やばいやばい、あまりに心地良いベッドで、つい眠っちゃった」 「そのまま、眠っていて良いよ。ちょい擦れたオーロラ姫も、なかなか見応えがあった」 比良田が誉めると、にゃはは、蜜幸は照れ笑い。 「さあて、始めますか。明智蜜幸ちゃんの特別ショー、先生ただ一人だけのための生本番まな板でーす」 「本気ですか・・・」 蜜幸はBGMを流して照明を落とす。音楽に合わせて体をひねり、服を脱ぎ始めた。窓にカーテンをしてない、摩天楼の夜景をバックにストリップ踊り。 「ストリップの仕事って、結局はオナニーするだけ。たまには、生の男としたくなるのよ」 下着姿の蜜幸が比良田に迫る。上着を脱がし、パンツを下ろされ、股間に顔をうずめて来た。 「AVでは20人連続生中出しとか、色々やったけど、抜かず3発はやった事ないわ。今夜は先生と、しっぽり試したいわあ」 「今のAVのスタイルでは、それは確かに無さそうだね」 明智蜜幸はAV女優としてはランクが低い。求められたのはハードで変態なプレイ。荒縄緊縛、3P、アナル、二本刺し、輪姦に露出、浣腸に脱糞と、あらゆる体位をこなしたはずだ。 「でも、わたしは年が年だし」 「女は突っ込まれてるだけ、なんて思い込まないで。今夜は蜜幸の隠し芸を披露するわ」 「お・・・お手柔らかに」 今夜はマグロでいいかな、と比良田は目を閉じた。 冬の森 雨は夜更け過ぎに、雪へと変わるだろう・・・おお・・・ サイレントナイト・・・おおっいえいっ・・・ホーリーナイト・・・ 「この曲って、北海道で聞くと、異常気象の歌になっちゃうね」 「沖縄で聞いても異常気象になるよ」 光江が窓の外を見て言った。雪明りの青い闇が森を包んでいた。すでに雪は深く積もり、草も木の下に少し見えるだけになっている。 比良田は落とし忘れていた日めくりカレンダーを、1枚落とした。天皇誕生日が過ぎて、いよいよ年末だ。 この季節、北海道は日暮れが早い。午後4時を過ぎると、もう日没だ。6時前には、すっかり夜である。 歳末を前に、ストリッパー明智蜜幸こと本名明智光江は契約を満了した。そのまま更新せず、この家に転がり込んで来た。 台所から料理の音が聞こえる。恵美子が夕食を・・・外の暗さを言えば、晩飯を準備中だ。匂いが濃い、ヘビー級の予感がした。 この家の元AV女優が二人になった。今のところ、年上の恵美子を姉に、光江は妹として、姉妹のようにやっている。実際、竿姉妹であるのだが。 ピンポーン、ドアチャイムが鳴った。暗くなってから珍しい。 「いらっしゃーい、マイダーリン」 「おおっ、ハニー」 光江が誠司を出迎え、玄関で熱烈に抱き合った。 「いつの間に・・・」 それ以上、比良田は口が動かせなかった。ヘビー級な晩飯の匂いの理由だけは想像がついた。 テーブルにカセットコンロが置かれ、ジンギスカン鍋が乗った。次いで、大きな豚汁の鍋が出た。 「やっぱり、北海道はこれよ、ねえ」 恵美子が自慢気に言う。比良田は量を見ただけで胃もたれを感じた。食べる方は、若い者にまかせるのが得策だろう。 「まず初めに、先生、復刊おめでとうございます」 誠司が改まって言った。手に『黄泉の森』があった。 四半世紀ぶりに比良田彰彦の著作が日の目を見た。もっとも、前半分は人権団体の抗議から書店での事件、そして廃版に至る出版社の苦悩が綴られている。なので、作者の名はドキュメントを書いた菊地百々子との連名だ。 「そして、もう一つ、わたしは・・・宮野誠司は明智光江さんと結婚します」 「入籍は妊娠が確定してから、ね」 誠司と光江、年が近いし似合いの二人である。しかし、と比良田は眉をまげた。 「誠司くん、言っておくが、明智蜜幸の事は知っているかい?」 「知っています。ただ今、出演作のDVDを集めています。なかなかレアで、見つけにくいですが」 なるほど、と比良田は頷いた。その道のマニアならば、AV女優を嫁にするのは願望の成就と言える。 「農家の嫁の仕事は、なにより子を作る事です。だから、できちゃった婚するのです。子供がいれば、農作業なんか、次いでの暇に覚えれば良いのです。排卵誘発剤を仕込んだし、バイアグラを用意したし、今夜は朝まで・・・子作りでGO!」 やる気満々に弁舌をふるう誠司だ。光江が箸で鍋をたたき、ジンギスカン鍋に肉を乗せた。 恵美子は豚汁を椀に盛り、テーブルに配る。心配げに光江を見た。 「排卵誘発剤かあ。あれって、多胎妊娠になり易いらしいわね。大丈夫なの?」 「ほほっ、三つ子でも六つ子でもオッケイよ。帝王切開、どんと来い。バッサリ腹を切る覚悟はできてます」 なら良し、と恵美子も頷いた。 「そんだけ産めば、たちまち町のヒーローです。あ、女だからヒロインですね」 じゅうじゅう、肉が鍋の上で焼けていく、二人の情熱そのままに。 付き合える所まで付き合うしかない、比良田は肉を一切れ箸に取った。 静かになった居間で、比良田はノートパソコンを開いた。止まっていた作品の想が浮かび、やる気が急に出た。 テレビは付けない、ラジオもステレオも無し。台所から聞こえる洗い物の音がBGM。 と、水の音が止んだ。 恵美子は仕事を終えて、エプロンを腰から外して投げた。どっ、比良田の横に座り、体をもたれて来た。 ぼんやりノートの画面を見ながら、ため息。 比良田はキーをたたく手を休め、そっと恵美子の肩を抱いた。 「子供かあ・・・いいなあ」 恵美子がつぶやいた。 耳をすませば、ギッギッ、2階からベッドのきしみが聞こえてくる。誠司と光江が子作りの最中だ。 「君も、排卵誘発剤とか使ってみるかい?」 「あたしはダメね。AVの頃、2度も堕ろしてるの。それで、あたしの子宮は壊れちゃった。子供は・・・もう、できない」 この家に来てから、恵美子はコンドームを使った事が無い。時折、生理が数ヶ月遅れる事がある。もしや、と期待していると、次に重い生理が来る。自然流産を疑ってしまうけれど、医者に行って確認する勇気は無い。 「時間が経てば、直るかもしれないし・・・」 比良田は慰めの言葉を飲み込んだ。ポルノ小説家として、妊娠は踏み込み難いテーマだ。 同時に、産まず女も禁句である。肉体的に完璧な女とは、子を産んで、子に乳を与えられる女。ポルノ小説の女たちは、見かけだけは完璧さが求められる。でも、めったに妊んだりする事は無い。ほとんどの場合、産まず女として物語は終わる。 かた・・・ 何かの音がした。2階からではない。 恵美子も気付いた。比良田の腕にしがみ付き、首を回して音を探る。 かた・・・かた・・・ また音がした。窓の方だ。 窓の外に誰かいる。 でも、カーテンで外は見えない。しかも、今は夜、雪の積もった真冬である。 恵美子の肩をたたき、動くのを制した。 比良田は立ち上がり、窓の方へ行く。カーテンに手をかけ、ゆっくり開けた。 闇を背に、人が立っていた。 頭から肩に雪が積もり、青森の八甲田山中で彷徨う兵隊の姿だ。けれど、よく見れば女だ。雪女かと思えた。 比良田は窓を開けた。びゅう、雪混じりの寒風が居間に吹き込んだ。 ゆらり、女は雪ごと室内に倒れてきた。 比良田が床の寸前で抱き止めた。そのまま中へ引きずり込む。 恵美子が窓とカーテンを閉めた。冷たい風が止み、冷えているのは比良田が抱く女だけだ。 女は細かく震えている。低体温の症状だ。 恵美子がコートをはがすように取る。バリバリ、凍ったコートの生地が音をたてた。付着していた雪が床に散った。 「お風呂よ、お風呂に湯を入れて!」 「はいっ」 恵美子の声に、比良田は答えた。 風呂へ行き、浴槽の蛇口を開く。湯が出て来て、浴槽から湯気が立ち上った。 日中、ソープごっをしたが、すでに浴室は冷え切っていた。 そして、1時間。 突然の訪問者はバスローブで居間のソファに腰掛ける、まだ髪が乾いてない。工藤美里と名乗った。20代後半、30手前の年頃の女。 その腹は大きかった。肥満ではなく、妊娠していた。すでに6ヶ月を越え、衣服で隠せなくなる時期だ。 風呂を世話した恵美子は上気した顔で茶を煎れた。 バスローブの女が2人、その下は素肌。比良田は2人を見ながら、つい妄想を禁じえない。 「彼が行ってしまって、お金が無くて・・・お家賃が払えなくて・・・食べ物も買えなくなって・・・いっそ、死のうと・・・」 「で、新聞で読んで、この森に来た、と」 恵美子の問いに、美里は力無く項垂れた。 美里は建築会社の事務職だった。コンサートに行った時、ベースギターを弾いていた男と出会い、同棲を始めた。家族は反対したが、美里は頑としてはね除けた。程なく、妊娠した。男の態度が変わった。 「赤ちゃんのために、お金が必要なのに・・・新しいギターを買って・・・」 美里が涙声になってきた。 「お腹が大きくなって、もう働けなくて・・・そしたら」 突然、男は失踪した。連絡もつかない。男は美里を捨てた。 ふーん、恵美子が鼻で笑う。しかし、すぐ真顔になって、比良田と美里の間で視線を右往左往させた。 「もう、あたしなんか、どうなっても・・・みんな、あたしのせいで・・・」 「うんうん、そうよね。自分はどうなろうと子供のためなら、と思うのが母親よね」 恵美子が美里の右にひっついた。肩を抱き、ローブの上から腹をなでる。 「子供かあ、いいなあ・・・ああ、いいなあ」 恵美子は美里の腹をなでる。飽きない様子。 「あ、あの・・・」 美里が声をもらした。恵美子の手がローブの襟から、胸に入る。乳房をもみしだいた。 おっ・・・比良田は声を押し殺した。 レズ物と妊婦物は、AVでは常に一定のシェアを持つジャンル。けれど、レズと妊婦の合体AVは、寡聞にして比良田は知らない。 「荷物に母子手帳が無かった。まだ病院に行ってないでしょ?」 「はい・・・」 美里は消えそうな声で答えた。父親になるはずの男が消えた。病院へ行って、何をすべきか・・・怖い思いだけが湧いた。 「ねえ先生、赤ちゃん欲しかったよね。ほら、赤ちゃんがいるわ、ここに」 「えっ?」 恵美子が話しを振ってきた。比良田は何を答えて良いか、目玉を右往左往させた。 「贅沢は言わない。この家の女が妊んで、同居の男を父親と推定して、それで十分・・・と、前に言ったでしょ」 「そう・・・だっけ」 いつの事だったか、比良田は首をひねる。こう言う事に関して、女は記憶力が良い。 恵美子がバスローブのすそから右手を入れた。えいや、美里の右足を高々と持ち上げる。ローブのすそがはだけると、へそ下に意外な剛毛の三角があった。 あうあう、美里は少し体をよじるが、すぐ抵抗をやめた。男に裸の下半身をさらしたまま、目と口を閉じて羞恥に耐えている。 「今夜のうちに既成事実を作って、明日は2人で病院に行くの。そこで晴れて、比良田彰彦が父親の名乗りを上げる!」 恵美子がストーリーを語った。比良田は聞くだけ、美里も口をあんぐりと開けて呆れた。 「もうどうなっても、とあんたは言ってた。あんたはともかく、この子はそう思ってないはずよ」 美里の腹を左手でなで、恵美子は鼻を突きつけて言う。 迫力あるなあ、比良田はツバを呑んだ。ついさっきまで、子供を産めぬ自分に失望していた女が、今は他人の腹の子を心配している。すっかり遣り手婆になりきってる。 比良田はひざを床につき、顔を美里の股間に寄せた。眼福な眺めだ。彼女は湯上がり直後、石けんの匂いがした。 「既成事実を・・・とすると、やっぱりアレだよね。言い訳無用で父親するためには、しなきゃならんか。でも、お腹に子供が入ってるし、大丈夫なのかなあ」 肉の合わせ目を凝視しながら、比良田は首をひねる。妊婦物のAVを何度見ても、疑問がぬぐえない点だ。 「陣痛が始まると、子宮が膣の入り口まで降りて来るけど、まだ奥にあるから大丈夫。先生のは長さ30センチや40センチの大物でもないし、今は子宮を突き破る心配は無いわ」 「はは、そうですか」 誉められてるのか、貶されているのか、男としては微妙な笑えない評価であった。 「子供を大事に考えるなら、お腹に圧力をかけない体位でやれば。女上位とか、バックとか、横から松葉でからむとか」 恵美子の助言は元AV女優ならではのもの。体を密着させない体位は、カメラアングルの都合からもAVの主流を成す体位である。 おっ、比良田は声をもらした。 里美の股間に汗がにじんでいる。肉の割れ目から白い液体が湧いてきた。膣の内分泌が活発化している。言葉は無いが、こちらの準備はできているようだ。 今夜は、上の階でも励んでいる。こちらも3Pで励んでみよう。 新年の森 「明けまして、お目出度うございます」 玄関で威勢の良い声がハモった。 「やあやあ、明けましてお目出度うございます」 比良田が出迎えた。 大柄な男たち4人が並び、ぴっと敬礼した。町の消防団が新年あいさつ、アンド見回りだ。誠司も列の右端にいる。 「おめでとー、いらっしゃい」 恵美子と光江が割烹着で出迎え。消防団員の顔がパッとゆるむ。2人が元AV女優である事は、消防団の中だけの秘密・・・らしい。 ばくばく、テーブルの料理が消えていく。消防団員の若さゆえか、速度は通常の3倍だ。 「先生、兄が帰って来まして」 誠司が比良田に寄って言った。 兄の名は哲夫、年末に東京からUターンして来た。まだ独身らしい、弟の誠司より筋肉質な顔立ちだ。 「先生の本を持ってます。夜には、ぶつぶつと1人で読んでます」 「読者様ですか。今後とも、よろしくお願いします」 比良田は哲夫に頭を下げた。 消防団が帰り、家は静かになった。 長いすで横になり、比良田は哲夫を思い出した。 恵美子や里美と一緒になるなら、年が近いし、むしろ似合いだろう。その時が来たら、比良田は花嫁の父として振る舞えるだろうか。 そうなると、また穴兄弟が増える・・・頭を振って空想を払った。 年明けから1週間も過ぎれば、正月気分が抜ける。 比良田は2階のパソコンの前で頭を抱えていた。小説が進まない、とりとめない雑念が頭を過ぎる。 どどど、雪を踏みしめる車の音がした。 監視カメラを起動、玄関前を見た。車から降りたのは恵美子と美里、病院からの帰りだ。 母子ともに順調、出産予定は3月の末から4月の初め、と恵美子から連絡があった。母子手帳には、比良田彰彦が父親と書かれている。認知だけで済ますか、入籍して夫婦となるか、出産までに決めなければならない。 ポルノ小説家として、ここが思案の為所なのだ。 「お父さんはポルノ小説家です。毎日、男と女のエッチなお話を書いて、本にしてます」 子供が成長し、小学校の作文で書く事を想像すると、きりりっ、胃が縮んで痛んだ。 近頃のモンスターペアレントが気になった。学校から出て行け、と親の比良田を攻めるかもしれない。セクハラ教師と不倫PTAがからみ・・・ポルノ的な展開を思い浮かべてしまうのは、ポルノ小説家としての職業病だ。 晩飯後、1人で2階にこもる。女3人の姦しい1階では、とても仕事が手につかない。 灯りを暗めにすると、窓の外は青く輝き始める。雪明りが森を照らしている。 と、まばゆい光が青い闇を貫いた。車のヘッドライトが近付いて来た。 いやな予感がして、監視カメラを起動した。 玄関前に大型のSUVが横付けに停まった。ぶ厚いコートの男が降り立つ。 フロントのナンバープレートをズームアップ、番号を住所録のデータベースと照合する。川上満治がヒットした、年は55才。家は2キロほど離れているが、この辺りでは近所の部類。10年ほど前、東京からIターンで移住して来た。猟友会に属しており、ライフルや散弾銃などを数丁保有している。 5年か6年前、近くにクマが出没した時、ハンターが大勢で来た。その時以来の訪問だ。 川上はリアドアから太い棒のような物を取り出した。ズームでアップすれば、ライフルのように見える。 おいおい・・・比良田は立ち上がり、ロッカーを開いた。25年前、買った物を探した。 かつての言葉狩り騒動の最中、この家に銃弾が撃ち込まれた。たった1発たけの銃撃だったが、その後に買った物である。買っただけで、使う時が来るとは思いもしなかった。 しかし、見つからない。 下敷きになっていた箱を引っぱり出し、ホコリを払った。深呼吸してフタを開き、中身を確認した。 比良田はナイトガウンを羽織り、首にタオルを巻いた。見た目、少し太めになるはず。 コーヒーポットを手に階段へ行くと、ピンポーン、ドアチャイムが鳴った。 「いらっしゃいませ・・・きゃっ」 恵美子が応対に出た。その声に小さな悲鳴が混じり、沈黙が来た。 ドアの外から入って来たのは銃口だった。 比良田は階段を降りる。 「お客さま?」 手にポットを持ち、あくまで偶然を装う。 ゆっくり歩を進めて、ポットを恵美子と銃口の間に差し出した。 よく見れば、銃口の穴が大きい。ライフルではなく散弾銃のようだ。 ドアが大きく開き、川上が姿を見せた。目がすわっている、この家で虐殺を起こす気が満々と見えた。 「待て」 比良田は進み出て、銃口の正面に立った。恵美子を背にかくした。 ぐい、銃口に向かって腹を押し出す。すると、銃口が下がった。 「外へ、出よう」 比良田は長靴を履き、また腹を銃口に向けて押した。銃口が下がった。 「よし、出ろ」 川上が言った。銃口を向けたまま、半歩下がった。それに合わせ、比良田は半歩進んだ。 銃口が下がるのに合わせ、歩を進めた。 ついに、銃口を家の外へ押し出した。 振り向かず、ゆっくりと後ろ手でドアを閉める。カチャリ、鍵がかかる音がした。これで中の女たちは安全だ。 きゅっきゅっ、踏むと雪が鳴った。 星が頭上に出ていた。雪明りで、風景は昼と違う色合いだ。 銃口を背にして、比良田は森の奥へ進んだ。 不思議に心は穏やかだ。 これから死ぬ・・・確信していた。しかし、と考える。これは自殺であろうか・・・他者に最終的な決定権をゆだねていても、死を選択したのは自分だ。 太平洋戦争での特攻隊員も、同じような心境だったのだろうか。特攻は志願が原則だ。しかし、死ぬ日にちは命令書として上から下される。そして、自ら死に向かって行く。 男が役割を果たす・・・その結果に死が必要となるならば・・・ 「もういい、止まれ」 川上が言った。 比良田は足を止める。思考も停まった。 家の灯りが木の向こう側にある。女たちに死の瞬間を見せなくて済む場所だ。 「ひとつ、聞きたい」 比良田は言って、ゆっくりと振り向いた。銃口が腹を狙っている、最も当たりやすい場所だ。が、なかなか即死できない場所でもある。 「わたしの作品を読んだから、こんな事をするんだよね。具体的に、どの作品のどこが気に入らないか、聞かせてくれ。あの世への土産話にしたいし、ね」 「読むものか、ばからしい」 川上は比良田を見すえて言った。 「読んでない・・・」 どきどき、比良田は胸をおさえた。息がつまる、痛みが胸から頭へのぼった。 「ポルノだけ書いてりゃ良かったんだ。気取った物を出しやがって」 「ああ、そう・・・」 比良田は目を閉じた。銃口を見る気力が失せた。 読者は良い作品に声をあげ、悪い作品には沈黙する。故・梶原一騎は言った。 しかし、この川上は作品を読む事も無く、こんな行動を起こした。なぜ、と疑問ばかりが頭をめぐる。 昔、ウルトラセブンと言う作品がテレビで放送された。後日、ある団体が抗議の声を上げた。驚いたテレビ局と制作会社は作品を取り下げ、封印してしまった。今日に至っても、ウルトラセブンの第12話は欠番とされている。 その作品の何が問題だったのか? 実は、団体の関係者は問題の番組を見ていなかった。家庭用ビデオは無かった時代である。雑誌の紹介記事を見ての抗議だった。しかし、抗議の矛先は記事を載せた雑誌ではなく、放送したテレビ局の方へ向かった。 川上も同じかもしれない・・・比良田は思った。 週刊誌などには、小説の書評が載る。それを読んで、すべてを読んだ気になる者もいるだろう。書評への感想が、作品への感想にすり替わる事は有り得る。人間の記憶はあいまいで、うつろいやすいもの。 「読者じゃないのか・・・」 バン、突然に衝撃が来た。 腹が・・・動かない。体が硬直してバランスを失い、雪の上に尻から落ちた。 ふっふっ、のどだけで息をつく。 比良田は体の力を抜き、雪の上に大の字に寝た。はあ・・・ようやく、まともな息ができた。 ちいっ、川上は舌打ちした。 いきなり腹を撃ってしまった。手か足を撃っていれば、土下座の命乞いを強要できたかもしれない。せっかく二人だけで対峙していたのに、その機会を失ってしまった。いや、まだ生きている。命乞いをさせる時間が残っているかもしれない。 川上は近づき、銃口で顔を小突いた。 比良田は胸と腹の痛みを両手で抑えながら、いやいや目を開けた。鼻先の数センチのところに銃口があった。つん、と火薬と焼けた鉄の臭いが眉間を貫いた。 「おい、何とか言え。まだ間に合うかもしれねえぞ、救急車でも呼べば」 川上は銃口で頬を突く。 すでに勝っている。だが、まだ敗者の命乞いを聞いていない。 あう・・・比良田は口を開け、手を動かした。 よし、川上は半歩身を寄せた。かすかであろう命乞いの声を聞き漏らすまい、と耳を傾けた。 比良田は考えていた。何か言え・・・確かに聞こえた。だが、頭の中を巡るのは、文章になるべき言葉ばかり。小説家の習い性だ。口から出るべき言葉が、とんと浮かばない。 不思議に、川上への怒りや恨みは思いにならない。自ら銃口の前に立った事、川上を家の外に誘った事が誇らしい。後悔と言えば、遺書を書いてない事。同居だけで入籍してないから、この家と森を女たちへの遺産にしてやれない。 もう一度、川上を見ようとした。銃口がじゃまして顔が見えない。 「何とか言えよ、おいっ」 また川上が催促した。銃口が揺れた。 比良田は銃身つかみ、顔からずらした。思いがけず、全身の力が腕に集中した。 ぐっ、川上は慌てた。 撃とうとして、弾丸をリロードしてないのに気付いた。弾丸はライフルに内蔵されているが、排莢と再装填は手動だった。 レバーを引くと、薬莢がポンと飛び出した。つん、火薬の煙が目に染みた。 と、さらに銃身が引っ張られた。指が引き金にかかり、逆に曲がる。痛みで腕から力が抜けた。 どかっ、比良田は川上の足を蹴った。ついにライフルを奪い、立ち上がる。 ナイトローブの帯がほどけた。散弾で傷付き、ちぎれた。ローブの下から防弾ジャケットが露わになった。 25年前、家に銃弾が撃ち込まれて、買い求めた物だ。しかし、防護するのは胸と腹、裏の背中だけ。頭を狙われたら致命傷だった。 たあっ、比良田はライフルの銃身を握ったまま、柄で殴りかかった。 ごつっごつっ、川上は無抵抗に叩かれるばかり。逆に倒れ、頭を抱えて体を丸くした。 比良田はライフルの柄を中段にかまえ、川上を見すえた。油断はできない。他に武器をかくし持っているかもしれない。拳銃なら、片腕だけで人を撃てる。 「やめてっ」 「叔父さん」 声がした。恵美子が比良田の背に組み付いた。 宮野哲夫が現れ、川上に身を寄せた。 恵美子は家にいたので、ところかまず電話して助けを求めた。隣家の宮野がいち早く着いたのだ。 「小説家なのに・・・小説なのに、銃を取られて・・・」 川上が泣き声で訴える。聞いていて、比良田は腹がたってきた。 「おまえが鉄砲で来たから、こちらも鉄砲で返しただけだ。言葉を聞きたけりゃ、言葉で来いっ」 言うだけ言って、比良田は息を整える。ひょい、ライフルを森の奥へ投げ捨てた。 川上の強気は、相手が無抵抗の時だけのものか。襲うのは、相手が反撃しないのを前提とたものか。せっかく戦おうと心に決めたのに、全く拍子抜けだ。 「叔父さん」 哲夫がなだめるようにささやく。 「比良田さんの本は読んだよ。悲しい話しだけど、それほど悪い話しじゃないよ」 川上が顔を上げ、ちらと哲夫を見た。けど、すぐ顔を伏せてしまった。 くっ、くくう・・・小さな声で川上は泣いた。 木の間から点滅する赤色燈が近付いて来た。ようやく、警察が来たようだ。サイレンの音は雪に吸い込まれたか、ほとんど無音の到着。 そして・・・ 今日は裁判所へ行った。 比良田は川上満治の裁判を傍聴した。被害者として意見を求められたが、今回はパスした。 裁判が終わり、正門から駐車場へ行く途中で声をかけられた。 比良田が足を止めると、わらわら、新聞とテレビの記者たちに囲まれた。口々に裁判の感想を、犯人への言葉を聞いてくる。 「殺す気は無かった・・・か、便利な言葉だねえ。実弾入りの鉄砲を人に向けて、ズドンと撃っておいて、殺す気は無かった・・・らしい。酒を飲んで時速100キロで暴走して、軽自動車とぶつかり、車外に落ちた人を数キロ引きずっても・・・殺す気は無かった? 原爆を落として街を焼け野原にしても、殺す気は無かった・・・と言い出しそうだ」 極端な喩えに、あわわ、と無言の記者たち。さすがに返す言葉が見つからないよう。 じゃね、と比良田は車に乗り込んだ。とっとと裁判所を出た。 インタビューは苦手なのだ。 思いを心の内に溜め、言葉を練り、文章をつづるのが小説家。でも、記者が求めるのは、食べた物を吐き出すような言葉。言った後で、胸焼けがしてくるばかり。 国道を走ると、すっかり道端からは雪が消えている。木陰に黒い融け残りの雪があるだけだ。 大雪山を見上げると、まだ上半分は真っ白。その名にふさわしく、風情のある景色である。 橋を渡り、本の看板を見つけた。駐車場に入って止めた。 郊外型の大型書店だ。品揃えは豊富だが、店の半分はビデオレンタルとゲームが占めている。これも時代の流れだ。 比良田は童話と絵本のコーナーに立ち寄った。 昨日、美里が男の子を産んだ。 名前は「憂」と付けた。男でも女でも通じる名前、と用意しておいた。 そこで、むらむらと創作意欲が湧いた。分野は童話と絵本だ。言葉を厳選し、俳句か短歌のような言葉数で物語を紡がなくてはならない。難しく、やり甲斐を感じた。 プルルル、ポケットの携帯電話が鳴った。あわてて店の外へ出て、携帯を開く。恵美子からだ。 「美里ちゃん、明日に退院ね。母子ともに健康、順調よ」 「そっか。そしたら、みんなで一緒に役所へ行こう」 「オッケー」 「と、ね。光江ちゃん、できたよ。12週目、確定ね。式の日取りを考えなくちゃ」 「それは、すごい。後で見舞いに行くよ」 携帯を切り、ふうと息をついた。 旧人類を卒業しようすると、どこでも連絡が来てしまう。落ち着いて本を読む間も無くなりそうだ。 しかし、携帯電話くらいでは、旧人類から半歩も抜け出せない昨今らしい。今更ながら、スマートフォンやタブレットが気になる。 川上に襲われた事件以来、ポルノ小説は書いてない。出版社が遠慮したのか、連絡も疎らになった。ペンネーム羅夢雷を封じる時が来たか、と感じている。少し寂しくもあるが。 明日は役場へ行き、美里と結婚の届け出をする。その後、出生届けを出せば、比良田は還暦過ぎにして一児の父となる。 しかし、徳川家康や上原謙など、比良田より高齢で子作りをした強者は多い。 おれなど、まだまだ・・・だよな。 比良田は車に乗り、キーをひねった。ブルルン、エンジンが身を振るわせた。 < 終わり > 後書き 比良田彰彦(ひらたあきひこ)・・・また使ってしまった、この名前。 ラムピリカ、今回の作で一番の発見でした。ラム・・・おおっ、我が青春の日々よ!
2017.1.15
OOTAU1 |