介錯人心得
A Suppoter for SEPPUKU



 雲が切れて、半月が青い光で辺りを照らす。
 坂下三郎は河原の藪に座り込んでいた。
 夏の終わり。夜露が草を濡らして、体温が空へ逃げて行く。
 脇差しを抜き、腹に当ててみた。思い直して、首筋に当ててみた。
 死ねない・・・・
 決断できぬまま、脇差しを捨てた。
 はあ・・・ため息をつき、草の上に体を横たえた。目が覚めたら、冷たくなっている自分を想像した。


一、 十文字


「三郎、起きなさい。もう朝ですよ」
 障子戸越しに母の声。
 三郎は重いまぶたを開けた。
 畳二枚の物置同然な部屋、ここで寝るようになって十年が過ぎた。
 井戸で顔をすすいだ。冷たい水で、肌が痛いほど。その足で居間へ。
「おはようございます」
 小声で戸を開け、入った。
 父と二人の兄が待っていた。三郎の膳も置かれている。
 じろり、皆の目が厳しい。
 三郎だけが異形だった。ひげは伸び、髷は崩れている。
「三郎、喰いながら聞け」
 父が言い、朝食が始まった。
「岡田様より、婿のお話が来た」
「むこ・・・ですか」
 武家によらず、三男坊ともなれば、どこも処遇に困るもの。まして、坂下家は下級の貧乏武家で、三郎は無役の部屋住みだ。
 本来ならば、婿入りの話は喜ぶべき事のはず。しかし、父の顔は渋い。
「岡田様・・・岡田実継様の家には嫡男がおられたが、先月、病でな。娘があるので、早急に跡取りの婿を探している」
「おかだ、さねつぐ・・・」 
 三郎は名を聞き、首を傾げた。思い当たらない。もとより、人の名と顔を覚えるのは得意ではない。
「岡田様は、家のお役目が・・・アレなので、わしから行けとは言わぬ。おまえが決めろ」
「わたしが?」
 武家の縁談は、総じて、本人に決定権が無い。親同士が、あるいは上からの命令で決まる。
「今日、岡田様は上郷の本多屋敷で仕事をなさる。行けば、会える。会って、婿となるかならぬか、決めるが良い」
「今日・・・ですか」
 三郎は飯を食べながら、また首をひねった。
 二十歳になった武家の三男坊。縁談など、自分には縁の無い事と思っていた。

 三郎は腰に一本差しで出かけた。
 ひげも剃らず、髷も結い直さぬまま。浪人と言われて、仕方ない風体だ。
 坂下の家は下郷町にある。藩の城下にあって、下級武士が住む下郷町は城の外堀であり、上級武士が住む上郷町は内堀だ。
 門構え、塀の造り、三郎には居心地の悪い所だ。
 城の門前を曲がり、本多屋敷を探した。人だかりがある、武士ばかりか町人もいる。目指す所だった。
 屋敷の門には槍の番人が睨みを利かしていた。人集りは裏手へ動く。三郎も習った。
 立派な門も塀も正面だけで、横に回ると生け垣だった。裏の生け垣は腰の高さで、庭が丸見えだ。
 集まった人に樽酒がふるまわれていた。餅に菓子も出ている。
 三郎は干物をもらい口にした。
 人の頭越しに庭を望むと、屏風が立てられ、畳が三枚敷かれていた。
 切腹の座だ。武士ならば、すぐに分かる。
 それを見物させようとしているのだ。
 おおお、見物の衆が声を上げた。
 切腹の座の対面にある廊下に三人が現れた。裃の検使たちが並んで着座した。
 庭の奥の床几に、若い武士と年増の女が腰掛けた。親子であろうか、二人とも顔が暗い。

 岡田実継は手洗い桶の水に自身を映した。
 髪に白い物が混じり、良い年頃になったと実感した。若造と侮られてはならじと、髪を白く染めた頃もあったが、今は昔だ。
 従者の木元大悟を連れ、屋敷の奥へ向かう。
 太い木組みの格子で囲まれた座敷牢へ来た。タスキに槍の番兵が二人、ぎろりと眼を向けてくる。
 牢の奥、壁に背をもたれ、白装束の侍がいた。今日の切腹人、本多政門だ。
「本多様、お時間です」
 岡田は格子の前に正座して声をかけた。が、返事が無い。
「本多様」
 再度、呼びかけた。やはり返事は無い。
 耳をそばだてると、ぐぐぐ、いびきが聞こえた。
 朝、介錯を勤める挨拶をした。酒を一杯、飲み交わした。それが利いたか。
 かんかん、扇子で格子を叩いた。はっ、と声を出し、ようやく目を覚ました。
「本多様、お時間です」
「おお、そうであったか」
 本多は裃と袴を直し、立ち上がった。
 牢が開けられた。
 岡田の先導で、本多は廊下を進む。従者の木元と二人の番兵も続いた。

 裏庭に出た。
 本多政門は辺りを見渡す。切腹の座が造られていた。
 座に対面する殿上には、三人の検使がいた。傍らの床几には息子の忠克、妻のしず。垣根の向こう側では、町人ら見物の衆がいた。
 本多は畳の上に腰をおろし、検使に深々と頭を下げた。
 岡田と木元は、本多の背後に並んで座った。二人の槍番兵が屏風の左右に陣取る。
 三人の検使の中に座る海内網只が、懐の書状を出して掲げた。
「上意である」
 海内は書状を開き、うやうやしく読んだ。
「本多政門。この者、日頃の行いに鑑み、諸般の事情に照らし、切腹を申しつける。藩主、稲葉篤則」
 海内は読み上げ終わると、書状を返して、本多へ文面を向けた。
「殿のお言葉、確かに賜りました」
 本多は静かに平伏した。
 左手の検使、山中才蔵が扇を閉じて語りかけた。
「時に、辞世の句などは用意されたか。こちらには来ておらぬ」
「あ、いや・・・忘れておりました」
 場に小さな笑いが起きた。
「それよりも、検使の方々にお礼を申します。我が家の庭で最期を迎えたい、との願いを聞き入れて下さった」
 本多は、また頭を垂れた。
「もとより、筆遣いは下手、弁も立たぬ身でござる。そこの佐竹どのが、我が身にかけた嫌疑を晴らす術も無く、こうして腹を切る事に相成りました」
 右手の検使、佐竹小十郎に皆の注目が集まる。その顔はひきつっていた。
「しかし、この本多は、殿に対し二心無き事は明白。今こそ、その証を立てましょう!」
 本多は膝立ちになり、三宝の小刀を手にした。
 どしっ、三宝を蹴飛ばし、あぐら座りに腰を下ろす。裃を落とし、両袖から手を抜き、裸の上半身をさらした。帯を断ち、袴の前を下げれば、へそ下の黒い毛も露わだ。
 右手の脇差しを天に掲げ、身を反るように顔も天を向いた。
 ほおおっ、息を吐き、刃を左の脇腹に入れる。
 すすす、一気に左脇腹へ刃を走らせた。肉が割れ、たらたらと血が流れ出た。
 なおも顔は天を向いたまま。刀を両手で持ち、胸に当てた。
 こっこっ、刃が胸の骨に当たりながら下へ行く。鳩尾へ来て、ずぶり、深く入った。
 両脇をしぼり、二本の腕で小刀を押す。両腕が腹の肉を支えて、血は流れても、傷は開かない。
 だだっ、一気に臍まで切り下ろした。
 腹から力が抜け、体が前屈みに。臍下の皮を切って、ぽろり、手から小刀が落ちた。手の押さえを無くし、腹の肉が左右に開いた。赤い塊が中から出てくる、内蔵だ。
 本多の顔から精気が抜け、頭が前へ倒れる。首が屈曲して行った。
 岡田は音も無く立ち上がり、抜刀していた。ゆるり、一歩、そして半歩進んで間を詰めた。
 第三と第四頸椎の間を狙い、やや斜めに切り込んだ。
 ごっ、わずかに骨に当たるが、頸椎を断ち切った。ぶわっ、血潮が噴き出す。
 本多は前のめりに倒れた。腹と首から流れる血が、畳の上に広がる。
 岡田は大刀を畳に刺し、脇差しを抜いた。
 落ちた頭をおさえ、残る喉の気管と皮膚を切り、胴と離した。
 脇差しを置き、両手で本多の首級を縦にして持ち上げる。切り口から、たらたらと血が落ちた。
 木元が三宝を拾ってきた。
 滴る血が少なくなった。首級を慎重に三宝の上に立てた。
 岡田は三宝を掲げた。本多の頭と自身の頭を同じ高さにする。
 番兵たちは片膝をついて頭を垂れた。切腹人へ礼をとる。
 岡田は三宝を揺らさぬようにして、検使の前へ進んだ。
「お見事でござった」
「もののふ、かく有るべし」
 海内と山中は唇を震わせていた。佐竹は言葉が出ない。
 岡田は首級を置いた三宝を掲げたまま、妻の方へ進んだ。
「ご主人、お返し致します」
 妻は黙して、ただ両手を合わせる。
 本多の息子、忠克が礼を言った。首級を受け取り、母の前に置いた。
 検使たちは退出した。介錯人も帰る時だ。岡田は木元と共に下がる。下人たちが庭に入り、首級を失った胴体を片付けようとしていた。
 忠克は切腹の座の前を通り、垣根の方へ向かった。そして、深々と一礼した。
「皆様、本日は父の最期を看取っていただき、ありがとうございました。残った酒と肴は持ち帰り下さい」
 言い終わり、また礼をした。
 あまりの事に押し黙っていた衆は、おおおおっ、と堰を切って声を出した。
「あれは、十文字・・・十文字てやつだな」
「こいつは末代までの語り草だ」
「今時、あんな腹の切り方ができる侍がいたなんて、あんたの父さんは偉い人じゃ」
 口々に本多を称える。忠克も笑みを返した。
 町人たちを押しのけ、太い商人風の男が進み出た。ぐいっ、強く手を握ってきた。
「この家はどうなる? 廃絶なら、侍など辞めにしろ。うちの婿に来い。十文字腹の子息を婿にしたとなれば、わしも鼻が高い」
「いえ、そこまでの沙汰は、未だなので」
 突然の勧誘に、忠克は首を振る。と、後ろから袖を引かれた。
「勝手に話を進めるでない。十文字腹の子息を町人に取られては、武門の恥だ」
 着替えた山中才蔵が来ていた。
「父上に二心無き事は、見事な最期で明らかとなった。この上は、かけられた嫌疑を晴らすべし。わしも手を貸す」
「ありがとうございます」
 垣根の外と内、両側から手を握られた。忠克は苦笑い。
 あらぬ嫌疑をかけられながら、さしたる抗弁をしなかった父を、今朝まで軽蔑していた。今は侍として、新たな尊敬の念が沸いてきた。

 裏庭の井戸端で、岡田は手を洗った。
 ずいぶん血を浴びていた。切腹人が大きく体を切り裂いたからだ。
 顔を洗い、血をぬぐう。木元が着替えを用意してくれた。
「岡田様」
 聞き覚えの無い声に振り向くと、浪人風の若い男が垣根から挨拶した。
「坂下三郎です」
「さかした・・・おお、三郎どのか」
 昨日、彼の父に、城で縁談を持ちかけた。すでに殿の許しは得ていた。
「今日、暇かな。我が家へ来てみぬか」
「はあ」
 三郎は生返事をした。この風体では、門前払いも覚悟していた。
 着替えた岡田と従者の木元、そして三郎は本多屋敷を後にした。
 城の門前を通り過ぎ、塀に沿って、裏手へ進む。上郷を出て、搦め手門へ来た。
 山と森へ向かう道へ入る。人家が途切れた。
 小さな橋を渡ると、道の右側に石垣に囲まれた家があった。その向こうには畑がある。
「城の丑寅を守る、それが我が家の役割よ」
 石垣の上に板塀を立てれば、たちまち砦に早変わりする家だった。武家屋敷と言うよりは、見てくれは農家のよう。
 よく見れば、道の左にも、木に隠れて家があった。
「あれは木村様だ。あちらは、後でな」
 案内されるまま、三郎は庭先の縁側に腰を下ろした。
 茶が出たので、すすると美味い。家で飲むのと、全く違う。茶葉のせいか、入れ物か。
 岡田は庭の中ほどで、木の枝を拾った。太さは二寸ばかりの物。
 三郎の前にもどり、枝を腰の高さにかまえた。
「これを切ってみろ」
「これを、ですか」
 三郎は立ち上がる。ゆるりと刀を抜いた。
 岡田の手から五寸ほどの所に狙いを付け、びゅん、斜めに切り下ろした。
 枝の先が落ちた。
 岡田は切り口を見る。ひとつ、うなづいた。
「うむ、これだ。この太刀筋が欲しかったのだ」
 岡田は脇差しを抜き、ひゅん、残った枝を切った。落ちた枝の先を拾い、首を振った。
「ここ数年、できなくなった」
 枝を岡田から渡され、三郎は切り口を見た。ひげのように、細い切り残しが伸びていた。
「余程の手練れでも、最後の一分二分は切れずに、折ってしまう。この様に、な」
 今度は、三郎が首をひねった。
「わたしは、城での修練では・・・打たれてばかりで」
「おお、木刀の打ち合いは弱かったな」
 月に一度、城に無役の若侍が集まり、武術の修練が行われていた。槍で、刀で、組み打ちで、どれも三郎は苦手にしていた。相手も無く、修練の庭の隅で、一人で木刀を振っていたものだ。
 岡田は剣術指南を補佐して、修練の場で見守ってきた。木刀打ちの強さと、真剣の太刀筋は別の物だ。
「我が家は先代から、介錯人の役をいただいている。誰を介錯する事になるか、予測はつかない。友など、いない方が良い」
 ごくり、三郎はつばを呑んだ。
「父上から、縁談の事は聞いておるな」
「はい。岡田様に会い、自分で決めろ、と言われました」
「で、どうする」
「すでに、門をくぐっております」
 三郎は静かに頭を下げた。

 家に帰ったのは日没だった。
 もう布団を敷いて、寝る支度をしていた。貧乏所帯ゆえ、灯りの油を倹約するのが身についている。
 居間で両親と対座した。
「決めました」
 三郎は言った。父も母も、うむと頷いた。
「いつ、ですか」
「明日に」
 急の事、母は目を丸くした。無駄な食い扶持が減るのは、早いに越したことは無いが。
「支度にと、頂きました」
 三郎は懐から二十両を出した。岡田から預かった物だ。
 はうっ、父と母は声を詰まらせた。初めての大金を見つめ続けた。
 岡田から、幾つかの断りが付いてきた。
 一つ、三郎は身一つで婿入りする事。
 二つ、祝言は極内々で行い、坂下家からの列席は無用の事。
 三つ、三郎は坂下と縁を切り、以後は付き合い無用の事。
「それも、やむなし・・・だな」
 父は口をへの字にして答えた。

「三郎、起きなさい。もう朝ですよ」
 翌朝、いつもの声に目が覚めた。
 風呂が沸いていた。日頃の垢を落とし、髪も洗った。
 髭などを剃り落とし、髷を結い直した。昨日までの赤黒い顔が、すっかり白くなった。
 朝餉の後、母が着物を出してくれた。父が登城の時に着る物だった。腰の二刀も父の物を貰う。
 昼前、三郎は坂下の家を出た。父と母が見送ってくれた。
 手には風呂敷包みが一つ。三郎は振り返らなかった。


二、 意趣返し


 その夜、岡田の家人だけで祝言が行われた。
 棟続きに住む木元の息子が、先月に嫁を取っていた。岡田の嫡男が死んで、祝言をせぬままだった。ついでなので、一緒にする。
 居間の上座に二組の夫婦が並んだ。厩番の老夫婦も土間に来て、総勢は十三人の祝いとなった。
 三郎は初めて嫁と会った。歳は二十一と言う、行かず後家と陰口をたたかれる年頃だ。
 三三九度の杯は、酒が苦手なので息を止めてした。
「坂下家より、三郎どのが婿に来てくれた。これよりは、三郎の名はそのままに、岡田三郎実種を名乗る」
 当主、岡田実継が宣した。
 実種の名は、死んだ嫡男の名前だ。そのまま三郎が継ぐのだ。

 祝言もお開きになり、三郎は奥座敷に下がった。
 すでに枕を並べた布団が敷かれていた。
 行灯の明かりの中、女が三人いた。妻となる美津、義母となる奈把、前の実種の妻だった美和。
 三人とも、重い雰囲気だ。三郎も正座して向き合う。
「婿どの、我が娘、美津をよしなに頼みます。けれど、事前に明かしておかねばなりません」
 美津が寝間着の袖を外す。左肩から乳房が露わに、薄明かりでも痣が見えた。
 体を回し、背中を見せた。三つ四つの傷痕がある。
「わたしは傷物でございます。こんな汚れた女に触れたくない、と言われて仕方ありません。わたしとは形だけの夫婦として、子作りなどは美和さんとお願いしたく」
 三郎は答えに窮した。
 それは四年前の出来事だった。
 実種と美和が夫婦になった。どちらも歳は十六才、この時代では普通の婚儀だ。
 その一ヶ月後、四人の賊が押し入った。抵抗した実種は重傷を負い、美津は掠われた。
 岡田実継は三日間探して、山奥の炭焼小屋に賊を見つけた。槍で四人を突き殺し、娘を救い出した。
 しかし、美津は四人がかりで叩かれ、蹴られ、犯されていた。身体中が傷と痣だらけ、ついでに男の精液で汚れていた。
 調べてみると、賊の四人は、その一年前に切腹した者の縁戚だった。介錯人を逆恨みしての凶行だった。
 家にもどり、美津は実種の看病に生きる道を見いだした。昨年には外を歩けるほどに回復していた。今年になって、また体調が悪化し、先月、ついに実種は死に至った。
「そんな傷くらい、見せびらかし、自慢する男は多いものですが」
 軽口で答えてみた。
 三郎の期待に反して、女たちの反応は鈍い。別の答えが必要なようだ。
「此度の婿入りは、貧乏武家の三男坊には過ぎた話しと思っておりました。さらに妾まで持てるとは、男冥利な事です」
 美和が手をついて頭を下げた。
「あたし、この家に来て四年、子供もできませんでした。あの家には帰りたくないです。妾でも、何でもします。お願いします」
 美和は、実は孤児らしい。遠縁の家で育てられたが、ずっと下女の扱いだった。厄介払い同然で、岡田へ嫁いで来た。
 三年子無きは去れ、と言われる武家の嫁。夫の死で、いよいよ立場が不安定になり、美和は焦っていた。
「わたしは、美津の婿になるために来ました。物事には守るべき順番があります。妾の話しは、また明日に」
 義母と美和が下がり、部屋には三郎と美津が残った。
 三郎が先に布団へ入った。美津は傍らに座ったまま、黙って背を向けている。
「油がもったいない。そろそろ、消しますよ」
 三郎が告げると、ようやく美津は動いた。布団の中、三郎の左に美津が入った。肩をすぼめ、肌が触れ合わぬようにしている。
 行灯を消した。部屋が闇に包まれる。美津は息を止めているのか、音が無い。
「実は、わたしにも・・・明かしておかねばならぬ事があります」
「え・・・?」
 美津の声が聞こえた。確かに、となりで寝ている。
「わたしの家は貧乏で、色町で遊ぶ余裕など無く・・・なので、女とひとつ布団で寝るのは、今宵が初めてです」
 女の前では、格好をつけたいのが男。でも、どうやれば格好をつけられるのか、それを知らない三郎だ。
「恥ずかしながら、今夜は、美津どのに手ほどきをお願いしようと・・・・すみません。もう、眠りましょう」
 女を口説いた事すら無い三郎だった。言葉を重ねるのを、今夜はあきらめた。
 右へ頭を倒し、闇の中で目を閉じた。酒のせいか、すぐ睡魔が来た。
 ふと気付く。左腕が重い。
 美津が顔を寄せて来ていた。
 ゆっくり腕をずらし、美津の肩を抱いた。顔を左へ寄せると、美津の匂いが心地良かった。

 翌朝、明るくなってから目が覚めた。
 三郎と美津は、二人だけで遅い朝餉を取った。
 家人は皆、畑へ出かけていた。禄は少ないが、広い畑を耕して、喰うに困らぬ家だ。戦国以前には普通だった、半士半農な生活である。
 鍬を手に、野良着の実継が帰ってきた。
「二人とも、起きたか」
 手と足の土を落としながら、父は三郎と美津を振り返る。じろじろ、なめるように見て、にっと笑った。
「婿どの、午後に殿へお目通りがある。支度を怠るな」
「ええっ、今日ですか」
 美津の方が先に反応した。自分の膳を片付け、台所へ立った。
 三郎は妻の早変わりに唖然とした。かくも機敏に動ける女と思っていなかった。

 昼前、岡田実継と三郎は家を出た。
 見送る美津を振り返り、実継は吐息した。
「婿どの、礼を申す。あれの笑顔など、何年ぶりか」
「そうなのですか」
 賊に襲われて以来、いつも美津は泣いていた。弟が死んで、後を追うのでは、と心配もした。
 娘は三郎と一夜を過ごし、妻として、新たな自分を見出した様子。
 実継は、そこで言葉を呑み込んだ。涙が一緒に出てしまいそうだ。
「殿の前へ行くのに、こんな格好で良いのでしょうか」
 三郎は今日の着物をつまみ、不安を漏らした。新しくもない、地味な全くの普段着だ。
「我らは負う役が役である。華美な装いは厳禁だ」
 役と聞き、三郎は頷いた。介錯人の家の婿になった、自分の立場を再認識した。

 搦め手門から城に入った。
 すぐの庭で、えいっおうっ、かけ声が響く。若い藩士たちが刀や槍で修練していた。
「確認して来る。ここで待っておれ」
 義父は一人で奥へ行った。
 三郎は庭を見下ろす縁側に座り、藩士たちの修練をながめた。
「おっ、坂下の、ではないか」
 声に、はっとした。振り向くと、三人組が寄ってくる。
 筆頭は佐竹一之進、そして山中繁介と内海波之助。いずれも藩の重鎮の子息たち。
「稽古に来たのなら、ちょうど手が空いておる。手合わせとまいろう」
 佐竹が誘う。いつも強引だ。
「今日は別の用です。あと、わたしは岡田家に婿入りしました」
「おかだ・・・ああ、そんな噂があったな」
 誘いの手を引っ込め、三人組ははやし立てる。
「あの岡田の婿とは」
「動かぬ、逃げぬ者を切るなら、お主にもできるか」
「手向かいせぬ相手なら、楽なものだ」
 嘲りの笑いを三郎に浴びせ、三人は離れた。さらに他の者へ話しかけ、三郎を見返して笑った。
 うぐ、喉にこみ上げる物があったが、こらえて飲み込んだ。
 いつも、こうだった。ずっと、あの三人にからかわれ、いじられて来た。思い余って、死のうとした夜があった。結局、死にきれなかった。
 岡田の婿になり、何か変わるかと期待したが、同じだった。
「婿どの」
 義父の呼ぶ声に、我に帰った。
「お目通りだ、来ませい」
 三郎は立ち上がり、義父に付いて、御殿の奥へ進んだ。修練のかけ声が遠くなった。
 初めて入る場所、城のどこいらか見当がつかなくなった。
 と、義父は立ち止まり、正座した。三郎も習って座る。
「岡田実継、参りました」
「よし」
 義父の声に応えがあり、障子戸が開いた。立ち上がり、部屋に向かい、また座って頭を下げた。三郎も習って頭を下げた。
「近う」
 その声に、義父は立ち上がり、部屋に入り、中ほどで座る。三郎も習って、半歩後ろに座って頭を下げた。
「顔を上げい。その者は?」
「婿をとりました」
 義父に促され、三郎は頭を上げた。わずか数歩のところに、城主、稲葉篤則が座っている。家を継いで、まだ数年の若い殿だ。
「岡田・・・さ、三郎実種です」
 声がうわずった。息が苦しくなって、また頭を下げた。
「時に、爺よ」
 殿の口調が変わった。近親者に対するような口ぶり。つい、三郎は顔を上げて見入った。
「先の、本多の死に様が、な。あれだこれだと、奥にまで聞こえて来る」
「少々ならぬ返り血をいただきました」
 ほう、と殿は座り直す。
 介錯人は切腹人と適切な間を置ける。返り血を浴びる事は、めったにある事ではない。
「本多の家は廃絶とせず、息子に継がせようと思う。禄は減らすが、な」
「お心のままに致しませ。あれの息子も、殿の御ために、良き死に様を見せてくれましょう」
 義父は言うと、また頭を下げた。切腹人の代わりに頭を下げた、そう見えた。
 その夜、三郎は布団に入ると、たちまち眠入った。美津の温かさと、昼間の気疲れのせいだ。

 翌朝、目が覚めたのは明るくなる前。
 東の空に薄明かりが来て、三郎は厠に立った。その帰り、庭の隅に義父の姿を見つけた。
 向こうも気付き、手招きした。行くと、そこに小さな墓標があった。
「先代が介錯の役を頂いて、以来、切腹人の血が入った土を持ち帰っている」
 墓標の周囲は、少しだけ土が盛り上がっている。切腹人が流した血は、ほとんど座っていた畳が吸ってしまう。土に流れるのは、ほんの少しだけ。一つかみの土を持ち帰り、庭にまいて供養してきた。
 三郎は墓標に手を合わせた。
「昨日、城の庭で、三人に絡まれておったな」
「あの三人は、いつもの事ですから」
 三郎は苦笑いで答えた。義父は首を振った。
「まあ、捨て置くことだ。あんな連中は、そのうち事を起こす。そして、腹を切る。おまえが介錯してやれ。その場で、如何様にも仕返しができる」
「仕返し・・・ですか。まさか、した事が?」
「ある」
 義父の顔に怒りがあった。

 岡田実継が先代より役を引き継いで、未だ間も無い頃である。
 その切腹人は、実継にとり、過去に因縁があった。いざ、介錯の時になり、怒りで実継の刀が止まった。
 切腹人は小刀を腹に刺したまま、苦しみ悶えた。
 出血で切腹人が失神した。ようやく、実継は介錯した。

「後悔したよ」
 義父の顔から力が抜けた。
「それ以後、切腹人に対しては、常に白紙の心で臨むよう心がけている」
 介錯に私情を持ち込むな、義父の教訓は重い。
 痛みのあまり、切腹人が見苦しく振る舞う事は多い。そうならぬようにするのも、介錯人の仕事の内である。
 三郎は墓標に向かい、また手を合わせた。 


三、 薄皮


 秋になった。
 三郎は城へは出ず、もっぱら家で野良仕事にいそしんだ。冬に備え、木を切って薪を作り、畑で収穫をした。百姓になった気分。
 昼は畑で汗を流し、夜は布団の中で美津と一汗する。日中は寡黙なのに、美津は闇の中で饒舌だ。三郎は女のお喋りを子守歌に寝る毎日。
 年の瀬になって、美津が体調を崩した。冷たい布団で独り寝となった。
 新年の祝いで、美津が妊ったと言われた。木元の嫁も妊り、二重の慶事となった。
 その夜、寝所には二組の布団と三つの枕があった。
「旦那様、子が腹に入りましたので、夜は一緒できません。なので、いつぞやの話しの通り、美和さんと」
 美津と美和は、並んで頭を下げた。正妻公認の妾だ。
 妻と妾が同居するのは、よくある時代だ。同室で布団を並べるのは、珍しい事だろう。
「これで、あの家に帰らなくてすみます」
 美和は三郎の左に寝て、嘆息をもらした。
 両親と死に別れ、上級武士の家に引き取られた。しかし、下女として使われた。十三の時、家の当主に手籠めにされた。さらに息子にも。時には、二人がかりでなぶられた。ここへ嫁に出る時は、払い下げと言われた。
「昔の事だ。今は、おれの女だろ」
「はい」
 日中はにぎやかなのに、美和は布団の中で小さくなっている。
「あたし、男の子を産みます。美和さんは、女を産んでね」
 三郎の右に寝る美津が語りかけた。
 二人の女は、男になぶられた経験を共有していた。仲が良く見えたのも道理。
 今夜は同じ男を夫として、心の傷を癒やし合っていた。
 布団の中は、また温かくなった。

 陽が高くなり、木の芽がほころび始めた。
 義父が城から帰って来た。緊張した面持ちだ。
「明日、上郷の山中屋敷にて、切腹がある」
 介錯人の家に婿となって初めての事。三郎は胃が縮み上がった。
 倉を開け、長櫃から刀を出す。五本ばかりを並べ、刃を見た。反り曲がり捩れを入念に調べる。
 三郎は刀を振り、柄の具合も確かめた。久しぶりに手にした真剣は軽かった。野良仕事で体が鍛えられたせいか。
 翌朝、三郎は風呂に入り、髭を剃って髷を結い直した。数ヶ月ぶり、腰に大小を差す。
 岡田実継と木元大悟、そして三郎を加えて出かけた。

 どん、午の刻を告げる太鼓が響いた。
 風が無いので、城下でもよく聞こえた。
 岡田実継はゆるりと立ち上がる。腰には脇差しの一刀、右手に大刀を鞘ごと持つ。三郎も習って続いた。
 屋敷の奥へ進む。
 座敷牢の格子の前に座った。
 白装束の切腹人は牢の隅、壁に向かって小さくなっていた。
「佐竹様、お時間にございます」
 佐竹小十郎は蒼白な顔で振り向いた。わずか半年で、髪は白くなってしまった。
 よろめく足取りで、牢から出た。
 岡田が先導し、佐竹が続く。三郎も続いて、列を成した。
「佐竹様、美和は元気にしております。娘、婿とも睦まじく、良い家族になりました」
「そ、そうか」
 岡田の語りかけに、佐竹は気のない返事。
 庭に出て、足が止まった。おえっ、佐竹は吐いた。
 白と黄色が混じった泡を地面に落とし、はあはあ、背中で息をした。
 岡田が促すと、また佐竹は歩き出した。
 庭の中ほどに屏風が立ち、三枚の畳が敷かれていた。三宝には短刀がある。
 はっはっはっ、佐竹の息が細かくなった。
 支えられるようにして、ようやっと、佐竹は着座した。その左後方に岡田は正座する。
 三郎は屏風の左手に座った。何かあれば、義父を補佐できる位置だ。
 切腹人に対する縁側に、ずらり、裃の検使たちが並んで座っている。その中央、内海網只が書状を出した。
「佐竹小十郎重利、切腹を申し付ける。稲葉篤則」
 内海は読み上げると、書状を返して、文面を佐竹に示した。
 かくかく、人形のような動きで、佐竹が頭を下げた。
 風が庭を吹き抜けた。
 佐竹はじっとして、頭を下げたまま。動きが無い。
「佐竹どの、時は過ぎております。早う、腹を召しませい」
 検使の一人が焦れた。他もひざを揺らしたり、拳を叩いたり。
 佐竹は顔を上げた。所在無げに辺りを見回し、後ろを見た。
 岡田は目が合うと、つい笑みを返した。
 三郎は義父の手の動きに着目した。調子を取っていた。口が動き、歌を詠み始めた。
 はあ、よいっ、しづや、あああ、よいっ、しづ、ううう、はいっ、
 しづや、ああ、しづ、うう、よいっ
 佐竹は着物の前を開き、腹を出した。小刀を手にして、刃先を当てた。
 あうっ、小さくうめき、刃を離す。
「ためらい傷は恥ですぞ。ひと思いに召されよ」
 検使が促すので、佐竹は刃を腹へもどした。ひいっ、また小さく悲鳴を出した。
 しづの、おお、よいっ、苧環、いいい、はいっ、繰り返し、よいっ
 岡田は歌いながら、ゆるりと立ち上がった。
 佐竹は刃を腹に沿って動かす。ちろちろ、赤い線が左から右へ伸びた。
 遠き昔の、おおお、夢を、おお、見る、ううう、はいっ
 しゅっ、岡田は大刀を振り下ろした。にぶい音があって、佐竹の頭部が落ちた。
 三郎は義父が刀を抜くのを見逃していた。

 控えの間にもどり、介錯に使った刀を油でぬぐう。しっかり血糊を落とさねば、切れ味が鈍るのだ。
 屋敷の主、山中才蔵が現れた。
「本日は、ご苦労にござった」
 膳に茶と菓子を載せて来た。
「佐竹のやつ、薄皮一枚しか切っておらぬ。あれで切腹したつもりであろうか」
「どのように切るかは、切腹人が決める事ゆえ」
 ぷんぷん、山中は肩を怒らせる。
「危うく見苦しき事になりかけました。あの歌など、お手前、見事でございました」
「いや、お恥ずかしい」
 岡田は謙遜して頭を下げた。
 三郎は茶だけを飲み、菓子は懐に入れていた。

 夜、美津に持ち帰った菓子を与えた。
 腹の子が欲するのか、美津は大食いになった。何でも、口に入る物は食べてしまう。
 布団に入り、三郎は昼間の事を思い出した。
「父が、歌を!」
 美津は驚くばかり。聞いた事が無かったからだ。
 三郎は歌が気にかかり、父の抜刀を見逃した。同じ事が切腹人にも起きて、腹を切る痛みを、少しでも感じずに済んだのだろうか。
「切腹人は、佐竹小十郎と言うのですか」
 今度は美和が驚いて声を出した。美和は佐竹の家から嫁に来たのだ。
 美和は元気にしている、と義父が言ったのを思い出した。切腹人の緊張を解くためだったのだろうか。
 くくく、美和が三郎の肩にしがみつき、かすかに声をもらした。泣いているのか、笑っているのか。


四、 打ち首


 入道雲が高くそびえて、蝉がやかましく鳴いている。
 三郎は午前の野良仕事を終え、午後は庭で剣術に勤しむ。義父にほめられた太刀筋を鍛えるのだ。
 美津が家の縁側に座って針仕事だ。腹は満月のように大きくなり、母になる日も近い。
 義父は城から帰ると、三郎に言った。
「明日は木村様を手伝いに行け。浪の河原にて、打ち首がある」

 翌朝、腰に大小を差して、道の向こう側、木村家に出かけた。
 岡田より二回りも大きな家、人も大勢だった。
「親父様より、話は聞いております。今日はよろしく」
 木村藤兵衛と賢五の親子に挨拶されて、三郎は恐縮した。二人とも大きな体だ。
 こちらも切腹と係わる家だ。岡田が介錯した後、首級を失った胴を始末するのが木村である。
 そして、この家が負う主なる役が罪人の斬首であり、その死体の始末だった。
 三郎と家人を含むと、総勢は十人近い。荷車には各種の道具を乗せ、筵で覆った。
 木村家の一団が城下を行く。
 道行く人が避けて、往来の真ん中が開いた。斬首役人の行列は畏怖されている。

 城下町を抜け、田畑となる手前の河原、竹矢来が組まれていた。
 見物人が集まり、すでに賑やかだ。酒やら飴やら弁当やら、物売りも来ている。
 この時代、処刑は人気の見世物であった。
 竹矢来の一角に幕が張られている。三郎と木村家の一同は、その中で待つ。
 待つ間に着替えだ。タスキを掛け、袴のすそを絞り、手甲足甲を着ける。決闘へでも行くかのよう。
 太陽が高くなり、汗がにじんだ。
 おおおーっ、見物人が声をあげた。罪人が到着した。

 筵が敷かれ、その上に並んで座る罪人たち。
 皆、後ろ手に縄で縛られ、縄の端は杭につなげられている。逃げるに逃げられない。
 どーん、刻を告げる太鼓が打ち鳴らされた。
「夜嵐の甚平、と配下の四名、近隣の百姓家を襲い、殺し、盗みなど繰り返す事、甚だし。よって、死罪申し付ける」
 検使が書状を読み上げた。
 地方の藩の主、稲葉篤則は刑務所に相当する施設を持っていない。刑罰は追放が基本だ。
 武士が罪を犯せば、武家社会から追放して町人になる。町人が罪を犯せば、城下町から追放して、野山に住む百姓か木こりになる。野山に住む者が罪を犯せば、この世から追放・・・死罪となる。刑を決める殿に近ければ、情状が入る場合もある。しかしながら、下の者ほど、紋切り型の刑罰となりがちだ。
 いよいよ、斬首役の登場。
 木村藤兵衛は五尺の太刀を手にしている。換えの太刀は家人が持って続く。
 息子の賢五は六尺の木刀を構えている。鉤付きの六尺棒を持つ家人たちが続く。
 そして、刎ねた首を入れる大タライを引きずる家人たちも来た。
 三郎は腰に大小を差し、少し離れて見守る。
 大タライが賊の頭の前へ、夜嵐の甚平の膝前に置かれた。
 鉤付き棒が縄を締め、前のめりの姿勢をとらせる。
 が、甚平は抵抗した。身を反らせ、首を刎ねさせまいとする。
 ごん、賢五の木刀が甚平の後頭部を一撃。くうう、低い声で頭が前へ垂れた。
 しゅっ、藤兵衛が太刀を振り下ろした。
 ぽとり、頭が大タライの中へ落ちた。
 藤兵衛の目がとなりの男に移る。
 ひいいいっ、男は体を細かく震わせた。また揺らすから、そのままでは狙いが定まらない。
 賢五が木刀を振るった。両足を打ち据えると、ごすっ、骨が折れたような音がした。
 あああっ、男の動きが止まった。
 ごっ、賢五の木刀が男の後頭部を叩いた。頭が前へ垂れ、首筋が露わになる。
 しゅっ、藤兵衛が太刀を振り下ろした。
 木村父子と家人の連携に淀みは無い。言葉を交わす事も無く、打ち首は粛々と進んだ。
 四つの首が落ち、残るは一つ。女だ。
 疲れた顔だが、美しい。ごくり、三郎は唾を呑んだ。
「ねえ、お侍さん、煙草をおくれよ。いいだろ、ねえ」
 女は顔を上げ、猫のような声でねだった。
 うむ、藤兵衛は頷いて、太刀を地面に刺して立てた。腰の煙管を抜き、女の口に入れてやる。印籠の煙草を詰め、火をつけてやった。
 一つ、二つ、女は煙をふかした。とろりと目がゆるんだ。
 風が木の枝を揺らす。鳥の声、川の水音。ついさっき響いた男の悲鳴が、となり町だったような静けさ。
「ありがとね」
 女は煙管を上げ、返す仕草。
 藤兵衛は受け取ると、そのまま口にした。背筋を伸ばし、プカリと煙をふかした。
 女は静かに頭を垂れた。細いうなじが露わになる。
 藤兵衛は横目で女を見ていた。女の体から力が抜けた一瞬を狙い、太刀を振り下ろした。
 落とされた首級は、晒し台に並べられた。
 見物人が石を投げた。男の首級に当たった。どっ、と笑いが起きた。
 端に女の首級がある。
 物売りが果物を置いて、ぽんと手を合わせた。
「ええ死に様、見せてもらいました。あんじょう、お逝きな」
 見物人が次々手を合わせる。祭りの終わりだ。

 家に帰ると、夕餉の時刻だった。
 膳に並んだ碗と皿が、晒し台の首級に見えた。
 食べ始めると、美津が腹痛を訴えた。つい、何か傷んだ物があったか、と思った。
「来た来た、来たよ」
 義母が、美和が色めき立つ。陣痛が始まったのだ。
 男どもを居間に捨て置き、女たちは奥へ行ってしまった。女たちの祭りが始まったのだ。
 翌朝、小さな産声があった。
 男が産まれた。名を小太郎とした。
 数日後、木元の嫁も男を産んだ。


四、 二度打ち


 年が明け、また花が咲いた。
 美和が女を産んだ。美津と美和から、美々と名付けた。三郎は一男一女の父になった。
 美津は二人目が欲しい、と夜な夜なせがむ。そして、兆しが来た。
 今年は、殿が江戸へ上がる。三郎は義父と参勤行列の末尾に付いた。
 三郎には初めての長旅である。

 江戸屋敷は国の城と同じくらいの面積だった。違うのは、天主閣が無い事。家臣が屋敷の中に住む事。
 岡田は屋敷の隅に四畳半ほどの部屋をもらった。他の大半の武士が大部屋だから、役の上からも特別な計らいである。
 野良仕事ができず、三郎は暇を持て余した。
 屋敷に出入りする中間の者から庭いじりを教わった。庭師の真似事を始めた。
「ついに、武士をやめたか。よう似合っておるぞ」 
 佐竹一之進、そして山中繁介と内海波之助の三人組が囃し立てた。彼らも江戸に来ていた。
「逃げぬ物、反撃せぬ物を打つのは得意のようじゃ」
 太刀筋を鍛える。その目的があったから、罵詈雑言も気にしない。
 幹を揺らさず、小刀で枝を打ち落とす。枝を揺らさず、葉を落とす。気を静め、集中しなければならない。
 ひゅっ、しゅっ、一振りごとに気合いを込める。
 やがて嘲笑は遠くなった。

 暑さの盛りが過ぎて、秋が来た。
 国の義母から文が届いた。
 美津が男を産んだ。十日後、子は死んだ。美津は臥せっているが、小太郎と美々は元気・・・と。
 ふう、三郎は息をついた。文を開いたまま、動けなかった。
 幼児死亡率の高い時代である。三人産まれて、まだ二人生きている。上等の部類だ。

 年の瀬も押し迫った日、騒動が起きた。
「山仁伸介の介錯をしてくれ」
 藩主、稲葉篤則は岡田を呼び出し、そう告げた。早朝から悲痛な顔である。
 岡田実継は介錯人だ。仕事を申し付けられれば、従うのみ。
 三郎と義父は奥の座敷に向かった。
 座敷牢ではない。山仁伸介は右手に深い傷を負っていた。
「それは仕方なしとして、それなりの方が検使に来るのでしょうな。下っ端では、腹を切る甲斐が無い」
 山仁は不敵な笑みを作った。

 それは一昨日の事。
 山仁は所用の帰り道、三人の酔漢と出会った。すれ違いざま、三人が抜刀して襲いかかった。
「稲葉篤則の家臣、山仁伸介である」
 名乗って応戦した。三人を撃退したが、右腕に深手を負う。
 昨日になり、九千石の大身旗本、大内久米守の使者が訪ねて来た。山仁が戦った三人は、大内の家人だった。
 三人の内、一人は刀傷が深く、すでに死んでいた。屋敷に帰り着けなかった。他の二人は臥せっている、と言う。
 相手が浪人や町人なら問題も無かった。しかし、武家同士が江戸の城内や市中で戦う事は、御法度に触れる事態だ。事の是非を問わず、喧嘩は両成敗が原則である。
 山仁に非は無い。三人を一人で撃退して、武勲を立てたと言えるほど。ただ、場所が悪い。
 事を収めるべく、稲葉篤則は決断した。

 昼前、大内家から家老、中内典善が来た。頭に白いものが混じる眼光鋭い老爺だ。
 中庭に畳を二枚敷き、場が作られた。庭に面した雨戸が閉められて、この場を覘く者は無い。
 三郎は山仁を支え、その畳に上に座らせた。前に三宝が置かれ、短刀が載っている。
 岡田実継が後ろに控え、三郎は離れて控えた。
 江戸家老、前田正綱がすわる。となりに大内の家老、中内が座った。
「伸介よ、上意である。おまえは死なねばならぬ。おまえの役は、弟の伸二郎が継ぐ。憂い無く逝くが良い」
 前田の言に、山仁伸介は黙って頭を垂れた。
 包帯で動かぬ右腕を不器用に回し、山仁は着物の前を開く。
 左手で腹をたたき、右手を三宝へのばした。が、小刀がつかめない。指先に力が入らない。
「介錯人どの、お願い申す」
 山仁は振り返り、助けを求めた。岡田は懐中から紐を出し、山仁の右手に小刀を縛り付けた。
「あの、大内様のお方、今日だけの家老職ではありますまいな」
「家老と言うより、剣術指南役のような目ですな」
 山仁と岡田は、ささやく声で語り合う。
 三郎は見た。切腹人と介錯人が笑みを交わしていた。
 がつがつ、小刀を畳に刺し、固定の具合を見た。何度か深呼吸して、刃を左の脇腹に当てた。
 ここで、山仁は首をひねった。
 右腕に力が入らない。刃が肉に切り込まない。
 左手を小刀に添えた。力を込める方向を探り、ひとつ見つけた。
 小刀の尻を押し、ぐいと腹に押し込んだ。激痛が脳天まで突き抜け、上体が左へ傾いた。
 腹を横に切り裂こうとするが、小刀は深く入り過ぎた。右手まで腹に密着している。
 両手で右へ小刀を押すけれど、体ごと揺れるばかり。
 息が尽きて、目前が暗くなってきた。痛みは感じず、悪寒が体を震わせた。
 頃合い、と岡田は確信した。
 前屈みになり、腹筋が上下から刃を噛んでいる。どう力を込めようと、小刀は動かない。
 大刀を抜いて、上段にかまえた。と、腕が止まった。
 切腹人の体が震えている。首筋は露わだが、頸椎のつなぎ目を狙えない。
 振り下ろした太刀が、ごっ、骨に当たってはね返された。
 あうっ、両足を踏ん張り、岡田は体勢を立て直す。
 山仁の体の震えが止まった、首に入った太刀傷のせいだ。
 今度こそ、と狙い定めて首を刎ねた。

 三郎は義父と稲葉屋敷を出た。
 今夕、山内屋敷で、あちらの二人が切腹する。その検使を命じられた。
 しかし、着いてみれば、意外な事態が起きていた。
 山仁伸介と争い、生きて屋敷に帰った二人が死んでいた。元々傷を負っていたが、昼過ぎに容体が急変、二人とも静かに息を引き取った、と言う。
 検使としては、三人の死を確認しなくてはならない。
 屋敷奥の板間に、それらは安置されていた。
 最初に死んだ一人は、首級が桶で塩漬けになっていた。今日死んだ二人は、布団で寝かされていた。
 はて、と三郎は目を疑った。
 灯りのせいか、二人の顔が赤らんでいる。死化粧をしたかのよう。桶の中の首級は、死体らしく蝋のような青白さだ。
 疑問を抱えたまま、大内屋敷を後にした。
 戻ると、急ぎ主君へ報告した。
「あれは、毒を盛られたようです」
「毒を?」
 義父は二人の死に顔を評して言った。
「傷が深く、腹を切る力が残っていなかったか。切腹の沙汰に承服せず、抵抗したか。いずれにせよ、他家の者が詮索すべきではない、と考えました」
「それで良い」
 主君、稲葉篤則は肯き、大きなあくびをした。もう夜更けだ。
「殿にお願いしたき議があります」
 義父は両手をつき、主君に向かって伏した。
「この岡田実継、腹を切りたく思います」
「なぜ?」
「山仁殿を介錯する時、二度打ちをしてしまいました」
「二度打ち?」
 介錯においては、一度目で骨を断ち、一皮残した状態を最善とする。しかし、山仁の介錯では、一度目は骨に当たって断ち切れなかった。二度目で、やっと骨を断った。
「二度打ちは、これが二度目でございます。前にした時、次は腹を切ろう、と覚悟を決めておりました」
「しかし、たかが、そんな事で」
「先代の殿にお仕えしてより、多くの方々の介錯をしてまいりました。彼らへの、わたしなりの義理立てでございます」
 ぬぬ、稲葉は口を曲げた。若造のへたな説得は、年寄りの耳に入りそうにない。
「わかった。しかし、腹を切る前に、隠居して家督を譲っておけ」
「有り難きお言葉、いたみいります」
 義父は額を畳に擦りつけ、半歩後退した。三郎と同列で主君に向かうかたち。
「これよりは、おまえが岡田実継を名乗れ。よいな」
 主君、稲葉篤則の言葉に、三郎は半歩前進して伏した。
「爺の切腹には、この稲葉が立ち会うゆえ、勝手に腹を切ってはならん。しかと、申し付けるぞ。では、隠居殿、今日は大義であった」
 義父は、もう一度平伏し、部屋を辞した。
 はあ、稲葉は大きな息をつき、三郎を手招き。初めての仕草に、三郎は戸惑った。
「介錯の手数が増えた減ったくらいで、いちいち腹を切られてはかなわん。少し間を置けば、気も変わろう」
 主君の配慮が嬉しかった。

 翌朝、義父は国へ帰る事になった。
 主君よりの沙汰だ。江戸屋敷で切腹騒動が連続してははならぬ、との配慮である。
 一人帰る義父を見送り、三郎は緊張した。江戸勤めは、まだ一年以上残る。その間に切腹があれば、三郎が介錯の役をする。
 腹の奥から酸っぱいものがこみ上げる気分がした。


五、 介錯指南


 稲葉篤則が二年ぶりにお国入り。夏の入り口だった。
 それに合わせ、三郎は故郷に帰って来た。江戸へ上がる時は岡田の婿として。今は岡田の当主として、家に入った。
「お帰りなさいませ」
 妻の美津が、妾の美和が頭を下げた。義父と義母にも頭を下げられ、気恥ずかしく感じた。
 江戸では、仮に岡田実継として通したが、ここでは義父が実継だ。三郎は実種の名にもどる。
 小太郎と美々は大きくなり、木元の男の子と三人でにぎやかだ。義父は孫に囲まれ、すっかり好々爺と化している。
 午前中は城に勤め、午後は田畑で汗を流す。夜は、妻と子作り。忙しいが、充実した毎日。
 そして秋、美和に兆しが来た。今度こそ、と女の顔に気合いが満ちる。
「婿殿、頼みがある。殿にお目通りをしたい」
 義父が言った。
 その翌日、三郎は義父と登城する。
 家を出る時、見送る義母と美津に深々と礼をした。年寄りのする事は、時に妙なものと思った。

「おお、爺よ、久しいな」
 主君、稲葉篤則は上機嫌で迎えてくれた。
 南蛮渡来の金平糖を茶が共にある、江戸でおぼえた味だ。すこぶるな午後。
「おかげさまで、家はすこやかです。娘には、年明けに新たな子が産まれます」
 実継は深々と一礼し、口を一文字にして顔を上げた。
「殿におたずねしたき事があります。江戸で、腹を切るお許しをいただきました。その後、何時の沙汰がありません」
 一瞬、場の空気が凍り付いた。稲葉は三郎を見て、歯ぎしり。すっかり忘れていた事である。
 三郎も息を呑んだ。忘れていなかったのか、と腹がしびれた。
「わしは爺に切腹を許した。それは確かだ。で、何時したいのだ」
「もしも、お許し願えますれば、今日、そこの庭で」
 茶坊主の手から茶碗が落ちた。
 沈黙の時が流れた。
「では、お許しを頂いた、と言う事で」
 実継は立ち上がり、縁側から庭に降りた。羽織を脱いで、地面に敷き、その上に座る。
「できますれば、介錯を婿に願いたい」
 実継の声。稲葉は小さく頷く。
 三郎は庭に降り、義父の左後ろに片膝で腰をおろした。稲葉が肘掛けを持って縁側に座る。
「爺、わしは切腹を許した。が、命じてはおらぬ。気が変わるのも許す」
 実継は笑顔を返し、また深々と一礼した。
 右手に置いた大小から、脇差しを抜き、後頭部に持って行く。髷をつかみ、元結いを切った。
 三郎は義父から遺髪を受け取り、懐に入れた。まさか、とまだ信じられずにいた。
 実継は帯をゆるめ、襟を下へ開く。へそを出して、ぽん、とたたいた。
 脇差しの刃先を左脇腹に当てた。一度二度、ゆっくり息をして気を整える。
 ざざっ、三郎の膝が震え、つま先が滑った。
「音を出すな!」
 実継ぐは脇差しを下ろし、振り向いて三郎を叱った。
「腹を切ろうと、せっかく溜めた気が散ってしまった。また、やり直しだ」
 三郎は冷や汗で頭を垂れる。
 改めて、実継は深呼吸をひとつ。脇差しの刃先を左脇腹に当てた。
 かちゃちゃ、三郎の手が大刀の鯉口を鳴らした。
 ぎり、実継は歯ぎしり。手で待ったの合図をし、脇差しを置いた。
 稲葉は肘掛けを抱き、声を殺して笑った。
「この場の主役は切腹人である。介錯人は脇役として、存在する事さえ意識される必要は無い。風のごとく、空の雲のごとく、この庭の事物と一体になるのだ。切腹人が心静かに腹を切る、そういう空気となれるのが、良き介錯人である」
 言い終わると、実継は脇差しを持ち、また深呼吸した。
 木村藤兵衛と賢五の父子が庭の隅に現れた。静かに腰を下ろし、事を見守る。
 やる気を無くしてくれたら、と三郎は願った。
 刃先を腹に当て、実継は後ろを振り向いた。婿と目が合う。瞼で礼をした。
 顔を主君に向け直す。
 息を吐いて、体の力を抜いた。
 前夜、しっかり研いだ切っ先が腹の中に入った。痛みは思ったほどではない。
 刀を右へ引こうとして、刃が深く入り過ぎている、と気付いた。しかし、やり直しはできない。
 体の軸を右寄りにして、背を反り気味にする。刃が腹筋を裂いた。
 左手で刀の峰を押す。じわり、刀が浮いて、腹の外に出て来た。
 刃がヘソまで来た。しかし、そこから進まない。
 上体が右へ傾いているので、右側の腹筋が固く締まっている。切るに切れない。
 体を左へ傾ける。と、前へ屈んできた。
 少し腹筋がゆるんだ。刀を右へ押し進めた。息が詰まり、目の前が暗くなってきた。
 頃合いが近い、と三郎は見た。義父の手は止まり、刀が進まなくなった。
 三郎は立ち上がる。太刀を抜いて高くかまえて、逡巡した。
 斬るべきか、それとも・・・
 殿を振り見ると、肘掛けを抱えて歯を震えていた。
 義父の体が前へ屈んでいく。これ以上倒れては、首を落とす間合いから外れてしまう。
 一歩踏み出した。
 はっ、気合いを入れて、太刀を振り下ろした。手応えはほとんど無かった。
 血潮が噴き出す。頭の重みを無くし、屈んだ体が少し起きた。
 背に冷たいものが一滴流れた。
 一歩後退して、間を入れた。呼吸を整える内に、流れ出る血の勢いが失せた。
 太刀を地面に刺し、脇差しを抜いた。踏み込み、頭と胴をつないで残る薄皮を切った。
 三郎は義父の首級を両手で持ち上げた。切り口から血がししたり落ちる。
 首級を自分の頭と同じ高さに掲げ、三郎は殿の前へ進んだ。
「近う、もっと近う」
 稲葉は三郎を呼び寄せた。縁側の直下に、首級が来た。
 ごくり、唾を呑み、言葉を絞り出した。
「今日はご苦労。大儀であった」
 義父、岡田実継への言葉だ。三郎は義父の首級と共に礼をした。
 庭師たちが箒と水桶を持って来た。稲葉は立ち上がり、彼らを一喝。
「するな、そのままで! 爺の血である、汚れではない」
 庭師たちは居場所無く、のろのろと消えた。
 替わって、木村父子が戸板を持って来た。義父の胴を処置するためだ。
 両手を合わせて祈り、ゆるりと胴を載せる。血まみれの羽織を上体にかぶせると、まだ頭があるかのよう。

 午後、三郎は手桶を抱えて家に帰った。
 桶の中は義父の首級である。
 義母と妻の美津は、ただ黙して迎えた。朝の様子から、何事か起きるのを予感したらしい。
 日が暮れて、仏間で義父の首級と二人だけで過ごす。昼間、義父が言った言葉を思い出した。
 介錯人は脇役・・・風のごとく、雲のごとく・・・庭の事物と一体になり・・・
 ロウソクの揺れる灯りの中、義父の言葉が浮かんでは消えた。


六、 上打ち


 三日だけ喪に臥す。
 四日目に登城すると、早速に主君から声がかかった。
 庭に床几を置いて、稲葉篤則は書を読んでいた。足下の地面は黒い。義父の血が土に染みこんでいる。
 稲葉が読んでいたのは史書だ。織田信長の配下、羽柴秀吉の軍が鳥取城を攻めた時を記したもの。

 天正九年(西暦1581年)六月、羽柴秀吉は因幡へ出兵、二万の軍勢で吉川経家が守る鳥取城を包囲した。
 このとき、鳥取城には二十日分の兵糧しか残っていなかった。家を焼かれて行き場を失った農民が逃げ込んで来て、鳥取城は一気に人口が膨れあがり、食糧不足に陥った。
 鳥取城は毛利からの援軍を期待したが、羽柴秀吉が大軍で海路も陸路も完全に封鎖している。援軍は阻まれて到達できず、完全に孤立した。
 食糧の尽きた鳥取城は、地獄となった。籠城開始から四ヶ月が過ぎた十月には寒さも増し、四千人の餓死者が出た。
 干し殺し、渇殺しとも呼ばれる惨劇だった。
 十月二十五日、吉川経家は兵士の助命を条件に切腹した。こうして、鳥取城は開城した。

「吉川の心意気は立派だ。配下の者の命と引き替えなら、腹の切りがいもあろう。しかし、この切腹を介錯した者の素性がわからぬ。彼の近習であろうか、城内に残る強者であろうか。あるいは、羽柴から派遣された検使の一人だったのであろうか・・・」
 稲葉は書を読みながら、疑問に首をひねる。
「もし、わたしが吉川ならば、断じて・・・敵側から介錯人を借りたりしません」
「うん、そうか。おまえも、そう思うか」
 三郎の答えに、稲葉も頷いた。
 藩主となって、両手に余る者に切腹させた。だが、切腹を直に見たのは初めてだった。切腹の重みを、改めて噛みしめる日々だ。
 ふう、ひとつ息をし、書をひざに置いた。草履で黒ずんだ土をいじると、ぶーん、虫の羽音が首筋をかすめた。
「もしも、わしが何かの不始末で腹を切る事になったら・・・なったら、この首は、そちに任せる。良きにはからえ、な」
 あうっ、三郎は言葉が返せなかった。主君を介錯するなど、想像した事も無い。
 何も考えられぬまま、その場を辞した。
 えーい、とー、かけ声が響く。修練が行われている庭に出た。
「おおっ、そこを行くは、父の首を刎ねた介錯人殿ではないか」
「婿に入って、家の父が切腹、家督は総取り。うらやましいかぎりだのう」
 例の三人組に見つかった。
 佐竹一之進が歯を剥いて迫る。
「わしが切腹する時は、介錯人殿の手は借りぬ。己の首は己の手で刎ねて見せよう」
 三人組は笑いながら去る、いつものように。
 下っ端の罵詈雑言は、軽すぎて耳に入らない。
 主君の介錯する時を思えば、鎮守の杜の大木すら首より細く感じる。考えるより太刀筋を鍛えよう、と心を決めた。

 義父が死んで三日も経つと、家には新しい日常ができていた。
 三郎は普通に岡田の当主として振る舞う。朝は武士として登城し、昼からは百姓姿で野良仕事。かつて、義父がそうしていたように、三郎もしていた。
 義父の書庫を開いた。収められていたのは、やはり役目柄か、切腹と介錯にまつわる物が多い。
 中でも三郎が注目したのは、関ヶ原の合戦後に起きた事だった。

 慶長五年(西暦1600年)、関ヶ原の戦いで、西軍に属していた小早川秀秋が裏切る。その攻撃で大谷隊が壊滅、西軍は総崩れとなった。
 関ヶ原から脱出したが、病身の大谷吉継は力尽き、山中で切腹して果てた。
 介錯を務めたのは湯浅五助。病み崩れた醜い顔を敵に晒すな、と吉継は言い遺していた。五助は主君の命を守り、首級を戦場から離れた場所に埋めた。
 その時、藤堂高虎の軍に所属する藤堂高刑に発見された。私の首の代わりに、主君の首を埋めた事を秘して欲しい、と五助は死に際に頼む。
 徳川家康は高刑の手柄を褒めつつ、大谷吉継の側近である五助なら主君の居場所も知っていたはず、と詰問した。高刑は五助との約束を守り、頑として在処を言わなかった。

 これには、別の言い伝えがある。
 合戦後、山中で大谷吉継の首の無い遺体が見つかった。徳川軍は山中を捜索して、湯浅五助を捕らえる。
 首級の在処を求め、五助は拷問にかけられた。しかし、五助は口を割らない。拷問の最中、悶死した。
 大谷吉継の首級は、ついに発見されなかった。

 どちらの伝が真実であろうか。
 どちらであろうと、己の主君を介錯した男は、自分の命より主君の遺命を大切にしたのだ。
 書を閉じ、三郎は自問した。
 五助のようにできるだろうか・・・
 誰かに答えを求めても意味は無い。その時が来たら、三郎として事を為すだけだ。


七、 突き抜け


 年の暮れ、美和が体調を崩した。
 流産だった。腹に入ったと知ったばかりの時に、流れてしまった。
 美和の悲嘆は深い。流産は癖になりやすい、と言う。
 年が明けて、美津が産気づいた。
 二日がかりの難産ながら、元気な産声は男であった。
 しかし、美津が起き上がれない。三日目の夕方、三郎は粥を美津に食べさせた。
「あなたのおかげで、こんな女でも、子供が産めました。ほんに、ありがとう・・・」
 幸せそうな顔で美津は眠った。
 翌朝、美津は息をしていなかった。
 美和が近隣の農家を回り、お米と言う名の乳母を探し出した。昨年末にお稲という名の女を産んだばかりで、子連れで家に来た。
 次男は命を繋いだ。小次郎と名付けた。
 子が産まれたばかりであり、美津の葬儀は後回しになった。子育ての体勢を整えるのが先だ。
 美和が手をつき、お米の事を願い出た。
「お米さんを、この家に置いてやって下さい」
 唐突だったが、三郎は頷いた。
「お米は望むだけ、この家にいられる。小次郎の乳母殿を粗末に扱えるはずは無い」
 義母も賛同してくれた。武士にとり、産みの母と乳母は対等の存在だ。
 三郎が岡田の当主として、初めてした大きな決断だった。
 以前から、美和はお米を知っていた。
 農家の三男坊に嫁入りしたが、なかなか子ができず、兄嫁たちと折り合いが悪かった。ようやく孕んだと思えば、夫が頓死した。子が産まれたけれど、お米を守ってくれる家族はいなかった。
 小次郎とお稲に、お米は交互に乳を与える。双子の母のような図だ。
「二人は乳兄弟だ。お稲も粗末にはできない」
 授乳の風景を見て、三郎は笑みで言った。美和は小太郎と美々を抱きながら聞いていた。

 春になり、花が咲いた。
 昼前、三郎が城から帰って来た。緊張の面持ちで号令する。
「明日、切腹がある。用意いたせ」
 いよいよ、岡田三郎実種が介錯をする時が来た。
 義父が集めた刀を出して調べる。反り、捩れを見て、柄の釘を確かめた。
 明日の切腹は二件ある。正午に多田屋敷で、暮れ六つには内海屋敷だ。
 昨日、城内で二人が喧嘩した。どちらも稲葉篤則の藩士である。殴る蹴るくらいでは怒りを収められず、両者が刀を抜いて刃を交わした。事の起こりより、城内での抜刀が問題となった。
 両成敗により、両名とも切腹。ただし、両家には咎め無しで一件落着とする。
 藩主、稲葉は決断した。
 
 多田屋敷の牢は倉の中だった。ぶ厚い壁と屋根で、どんなに騒いでも声が外に漏れない造り。
 厚い扉をくぐり、戸棚の並びの奥に座敷があった。
 畳の端、太田仁左右衛門は酒樽を枕に寝ていた。
「太田様、お時間です」
 三郎は静かに呼びかけた。
「おう」
 ふて寝の眼を半分開き、太田は体を起こした。あごの髭を剃る気力も無い。崩れた身形のまま、倉を出た。
「刃を一合、それで腹切りとは・・・ああ」
 肩を揺らしながら歩き、ため息の太田だ。
 中庭では、三畳に白い屏風があった。三宝には短刀がある。
 どっかと胡座で腰をおろし、検使の方へ体を回した。三郎は太田の左後ろに座る。
「太田仁左右衛門、切腹申し付ける」
 検使の多田有恒が書状を読み上げ、返して文面を太田に向けた。へい、と体を斜めにしたまま返事をする。
 横柄さに、多田の顔が歪む。
「検使殿、一言申し上げる。この太田、生来の不精者ゆえ、切腹の手順と言うか、作法なりが思い出せません。習ったはずではありますが、一晩かけても、頭に戻ってまいりません。どなたか、教えていただければ幸い。いや、言葉ではなく、実演していただけたら、なお宜しい」
 庭を見回し、太田が声をかける。
 切腹を実演しろ、と言われてできるものではなし。皆、腰が引けている。
 視線が次々と回されて、ついに三郎へ回った。
 気付いて、太田も振り返る。
「そうそう、介錯人殿であれば、幾度も切腹に立ち会っておられるな」
 三郎は検使を振り見た。頷いたので、一礼して太田へ向いた。
「介錯人は切腹をお手伝いする役にて。その立場からなら、少々は語る事ができます」
 ふむふむ、太田は首を縦に振る。
「切腹に手順や作法は無い、と申せます」
「無い?」
「切腹人は、自分がやりたいように、したいように腹を召す事ができます。古くは、千年ほど前、自刃の刑と呼ばれいた頃は、体のどこを切っても良かった」
 逆に、太田は頭をひねる。
「しかし、なぜ、腹なのだ?」
「今より五百年前、源平合戦の頃までは、武士の自害としては、のどを突く、首を切るのが主でした。腹を切るのが武士の最期として定着するのは、戦国時代の後半、つい最近の頃と言えましょう。ただ、それ以前より、贄としての切腹があったようです」
「贄、とは?」
 それを語ると長くなる。三郎は検使に目配せをし、また太田へ向いた。
「かつて、山中鹿之助は天の月に願をかけました。我に七難八苦を与えたまえ、願わくば、我が一族に幸いを与えたまえ、と。自身を贄とし、一族全ての分の苦しみを一身に受けて、一族の者には幸せを、と祈ったのです。鹿之助は平穏な生活を望まず、終生を戦の中に置きました」
「今は、天下太平だ。そんな生き方はできない」
「戦を切腹に置き換えましょう。一族全ての・・・十人分、二十人分の苦しみを一身に負うためには、簡単に死んではなりません。長く、深く苦しむために、腹を切る・・・これが、贄としての切腹です」
「長く深く苦しむために腹を・・・」
 太田は腹をおさえ、ぐうと声をもらす。
「殿は、あなたに切腹を命じられた。素直に腹を切れば、あなたは忠臣だ。殿には、忠臣の家族を守る義理があります。しかし、反して腹を切らぬとなれば、あなたは逆臣です。逆臣の家族に、どのような処遇が与えられるか・・・ご想像下さい」
「腹を切れば、まだ忠臣の一人・・・か」
 右へ、また左へ、太田は体を揺らす。はたと揺らすのを止め、天を仰いだ。
「おかしい。長く苦しむために腹を切るなら、介錯人の役割は何であろうか」
「真に。本来であれば、首級を胴より切り離すのは、切腹人が息絶えた後でございます。腹を切るので、切ってから半日後や、三日後にもなりえます。もしも、太田様がお望みであれば、そのように致します」
 おいおい、検使が声を上げた。
「それはそれは、ちと、面白そうだ」
 あわてる多田の顔を見て、太田は笑みをうかべた。命懸けのいたずらである。
「あ、いや、普通に介錯を願いまする。この太田、半日も三日も腹を切ったまま、さような胆力は・・・」
 太田は項垂れ、検使の方へ向き直った。
 着物の前を開き、腹を出した。手刀を縦横に走らせ、切り方を思い浮かべる。
「恨みも無き相手を切る、か。介錯人とは、大変なお役目でござるなあ」
「ありがとうございます」
 切腹人に同情され、三郎は頭を垂れた。
 太田の顔から力が抜ける。仏像のような安らかな口元だ。
 三郎は斜め後ろから見ていた。美しい、と思った。
 太田は右手に短刀を持った。ゆるりと腹に切っ先を向ける。
 背筋を伸ばす。すーはーすーはー、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
 両手で柄を押し、へそから真っ直ぐ刃を腹に入れた。
 三郎は立ち上がり、大刀を抜いて上段へかまえる。
 カッカッ、聞き慣れない音がした。切っ先が骨に当たっている。背骨に刃が達したのだ。
 ぶるる、体が震えた。刃が背骨に沿う大動脈を裂いた。
 腹の中で大出血が起きていた。みるみる顔が蒼白になり、上体が前へ傾いていく。
 頃合い、と三郎は大刀を切り下ろした。
 太田の首級が落ちた。
 その胴の背に血のにじみがある。切っ先が背まで突き抜けていた。

八、 後腹

 内海屋敷の座敷で、三郎は木元と時を待った。
 屋敷の主人であり検使である海内網只から、切腹人について注意を受けた。昨夜より一睡もせず、時折、大声を上げている。逃げようとした事も数回だった、と。
 庭に篝火がたかれ、陽が傾いても暗い所は少ない。畳が敷かれ、屏風も置かれて、場は整った。
 陽が山にかかった。
 三郎は奥座敷に行く。
 見張りの者が数名、部屋を囲んでいた。
 障子戸越しに部屋をうかがうと、ごとごと足音が右往左往している。落ち着かない様子が手に取るようだ。
「小谷様、お時間です」
 三郎が声をかけると、足音が止んだ。
 つっかえ棒を外し、戸を開ける。部屋の中ほど、小谷進介は背を丸めて立っていた。
「ご案内します。どうぞ」
 三郎は静かに礼をした。
 進介の前を三郎が、後ろを木元が歩く。見張りの者たちも続いた。
「かか、かっ・・・厠へ」
 小谷が腰を震わせて言う。やむなく、行かせた。見張りの者たちが厠を囲んだ。
 春は糞尿の臭いが強くなる。目に涙がにじんだ。
「このまま、ここに籠もる気では」
 木元が心配して言う。
「雪隠詰めでござるなあ。逃げるなら、わたしは庭に出てからするが」
 三郎も軽口を交えて答えた。
 がたっ、戸が開いた。進介が出て来た。

 空に陽の光は無い。しかし、庭は篝火でいよいよ明るい。
 進介は庭を隅々まで見渡す。要所に槍の番兵が立ち、蟻の這い出る隙間も無い。
 検使の内海網只が座った進介を見据え、書状を取り出した。
「小谷進介、切腹申し付ける」
 書状を返して、進介へ文面を向けた。
「やだ・・・たかが、刀を合わせたくらいで・・・切腹なんて、やだっ」
「黙りませい、進介」
 内海の左にいた進介の父、小谷浩介が怒鳴った。
「殿の命に反し、腹を切らぬと言うなら、ええい、わしが首を切り落としてくれる」
 腰の脇差しに手をかけ、浩介が片膝で迫る。その手を内海がおさえて、冷静にと訴えた。
 父の剣幕に、進介は腰砕けで後ずさり。後ろに座っていた三郎に当たった。
「お静かに。お助けします」
 三郎は進介の耳にささやいた。
「皆が、あなたが逃げるのでは、と警戒しています。まず、皆の警戒を解くため、芝居をしましょう」
「し、芝居を?」
 三郎は進介を押し戻し、また三宝の前に座らせた。
 検使に目配せして、三郎は進介の横に座る。皆に聞こえるよう、大きな声で語りかけた。
「小谷様、切腹の稽古はしましたか。無いならば、それから始めましょう」
 進介はけげんな顔で肯く。
 三郎は右手の手刀で腹を切る仕草、進介が習ってした。
「へその左右は肉が厚く、刀が入りません。もっと左の脇下、肉の薄いところから切り始めます。左の脇を締めて、ひじは腰に付けます」
 進介は三郎の指示に従い、手刀を左脇腹に当てる。
「皆の警戒が緩んできました。もう少し、芝居を続けましょう」
 三郎のささやきに、また進介は肯く。
「背筋を伸ばして、腹の肉を薄くします。体をやや右へ傾ける気持ちで、左腹の力を抜きます。そうして、刀が腹に入ったら、左手で刀の峰を押します。左手を腹に沿わせて滑らせて、体から離さないように」
 三郎は半歩下がり、進介と間を入れた。周囲を見て、また進介に顔を寄せた。
「今度は、実際に刀を手に稽古しましょう」
 進介が三郎を見た。すこし怯えている。最後の助言を与えた。
「芝居を続けて。わたしが合図したら、わたしに体当たりしなさい。そして、その方へ走りなさい」
 進介は肯いて向き直り、小刀を手にした。三郎は立ち上がり、進介に背を向けた。
 あっああ、わざと声を出して背伸び。目を後ろに流して、進介を見た。
 背を丸めて、腹を切る仕草を繰り返す進介。合図を待っているのだ。
 音を出さずに太刀を抜き、振り向き、首を刎ねた。
 首級が転がった。
 三郎は太刀を捨てた。
 血を吹く頭の無い進介の胴に、背から抱きついた。右手を小刀ごとつかみ、腹を左から右へ切り裂いた。
 髪から袴まで、進介の血を浴びた。
 立ち上がり、進介の首級を拾う。三宝に載せ、検使の前へ進んだ。
「ご覧あれ。小谷様、横一文字にて果てられました」
 しばし固まっていた内海は、ごくりと喉を鳴らし、ようやくに声を出した。
「あ、あ・・・天晴れなる横一文字・・・である」
 内海の左に座る進介の父、浩介の前に三宝を置いた。
「ご苦労様・・・」
 父として、息子の死は悲しいもの。息子の切腹に、せめてもの労い言葉を絞り出した。

 月明かりの下、家路を歩いた。
 役目を果たすためだったが、騙して首を刎ねた。腹に重い物が残った。
 闇の中から、進介が声をかけてくるような気がした。
 家に着くと、風呂に湯が入っていた。
 頭から湯を浴び、こびり付いた血を洗い流した。
 湯船に身を沈めて、胸一杯に湯気を吸い込む。手足の緊張がゆるみ、眠気さえ覚えた。
 ふと、格子窓の向こうの闇に、進介の顔があるように感じた。入って来いと誘うが、闇の中で動かない。
「だんな様、だれと話してるの」
 お米が入って来た。乳の匂いが湯殿にあふれた。
 腰巻きひとつになり、お米は胸を洗う。大きな乳房が揺れる。
「いつも、ご苦労さん」
 小次郎が吸い付く乳首を見て、つい戯れ言が出た。
「女だから、子供がおっぱいを欲しがると、ふふ、嬉しくて」
 お米は胸を張り、女の誇りを誇示する。
 対して、男の誇りは何であろうか。三郎は両手を見て、人の首を刎ねる事か、と考えた。
 湯船を出て、お米を抱きしめた。
「あれあれ、だんな様」
「ずっと、この家にいろ。どこへも行くな」
「おらも思ってました、お願いします」
 三郎は格子窓を見た。まだ進介が見ている気がした。
 進介、まだ生に未練があるなら、お米の腹に入って子になれ。この家の子になれ。
 そう念じながら、三郎はお米の中に精を放った。


九、 扇子切腹


 雨上がり、入道雲がまぶしい空に湧き上がる季節になった。
 えーい、とー、かけ声が響く。
 三郎は修練の庭の隅にいた。次なる介錯人を探していた。
 他藩では、介錯人は持ち回りになる場合があるらしい。ひとつの切腹に、二人も三人も介錯人が待機する場合もある、とか。いざ介錯の時になって、臆病風を病む者がいるのだ。戦国の世は遠くなり、太平の気風が天下を被っている。
 しかし、当藩では岡田家だけの役だ。もし、三郎が怪我でもしたら、介錯人がいなくなる。
 家で従者を務めてきた木元の太刀筋は、父子とも良くない。小太郎と小次郎は幼すぎる。
 首を振り、三郎は庭に背を向けた。
 義父の遺訓に従うなら、徒党を組むような者は介錯人に不向きだ。今、庭を見渡しても、一人で孤独に稽古を積む者はいない。

 城を出て、上郷を一人で歩く。
 たらたら行くうち、下郷へ来た。なつかしい風景だ。
 この角を右へ曲がれば、産まれ育った家だ。行きたい衝動にかられたが、一息ついて、逆へ足を向けた。
 ふっはっ、ふっはっ、木刀を振る気合い。
 川のほとりで、一人木刀で稽古をする姿があった。
 見覚えのある横顔だ。近付くと、佐竹一之進だった。向こうも気付いた。
「なんだ、首切り殿か。こんな所で、何用かね」
「佐竹様が下郷の外れで稽古とは、珍しい事と思いまして」
 かつては藩の重鎮の一人であった佐竹家も、今は禄を減らされ、下級武士の扱いだ。役も与えられず、家も上郷の屋敷から下郷の小さな物へ。
 山中繁介や内海波之助とも疎遠になり、一之進は一人で稽古をやるようになった。
「おまえさんは良いなあ。逃げない、反撃もしない奴を切って手柄になる。うらやましいよ」
 一之進は肩を揺らして毒づいた。
 三郎は反論しない。河原の柳に近寄り、脇差しを抜いた。
 しゅっ、垂れ下がる柳の枝を狙い、一本切り落とした。切り口を見て、よし、と肯く。
「佐竹様、これができますか? できるなら、あなたにも介錯人が勤まります」
 一之進は脇差し抜き、柳に向かった。
 しゅっ、風を切る音。
 柳の枝が揺れた。葉が落ちた。
 何度も切りつけるが、枝はしなり揺れるだけ、切れない。葉だけが、もげて落ちた。
 三郎は見ていた。腕に力が入り過ぎている。刀に速さは無く、刃の向きと振りの方向も一致していない。力まかせの木刀打ち剣法だった。
 はあはあ、息が切れて、一之進は脇差しの手を下ろした。
「佐竹様、今のあなたに、人の首は落とせない」
 三郎は踵を返し、家路を目指した。

 一之進は稽古を止め、町人街へ出かけた。
 店で酒を飲んだ。飲むほどに胃がしびれ、吐き気をおぼえた。
 なぜ、なぜ・・・佐竹が下郷に住まねばならん・・・あんなボロ家で寝ねばならん・・・なぜ・・・
 色々な事が頭の中で渦巻き、こめかみに突き刺さるような痛みがきた。
「あんた、さあ、どこまで飲むの? 金あるの?」
 女給の言葉が胸を突いた。
「おのれ、武士を愚弄するかっ!」
 一之進は大刀を抜き放った。
 きゃあ、ひえぇ、悲鳴を追いかけ、刀を振るった。
 つまづき、前のめりに倒れた。そこを蹴られて、殴られた。
 腹の底から逆流して、黄色く濁った酒を吐いた。全身の力が抜けていった。
「番所に使いを」
「突き出せ」
 町人たちが一之進をなぶる声が響く。手と足が荒縄で縛り上げられた、首にも縄がかかった。もう、口も手も動かない。

 武士が泥水の上、抜刀して町人に切りつけ、あげく反撃されて捕縛された・・・たちまち噂が広がった。
 三郎は城で噂を聞いた。まさか、と思いながら、家に帰ると刀の用意をした。
 夕刻、城から使者が来た。
 翌午の刻、本多屋敷で切腹がある、と。

 翌日、本多屋敷の奥の座敷牢前に、多田正隆と本多忠克、二人の検使が立った。
「佐竹一之進、本日であるが、扇子切腹といたす。そのよう、心得よ」
 検使の長、多田は佐竹を見下ろして告げた。
「せんす・・・とは、どのような事でしょうか」
 一之進は片膝で座ったまま首をひねった。
「切腹の座において、貴公の前の三宝に扇子が載っている。それに手をかける・・・それをもって、腹を切ったと見なし、介錯する。これが扇子切腹である」
「切ったと見なし? つまり、実際には、腹を切らないで介錯してしまう?」
「然様である」
「そ、それでは打ち首と同じだ」
 一之進は二の句が継げない。あうあう、と口だけが動いた。

 元禄十五年(西暦1702年)十二月、旧赤穂藩の浪人四十六人が江戸の吉良屋敷に押し入った。浪人たちは吉良義央を探しだし、これを殺害した。死者十六人、負傷者多数の事件となった。
 翌年二月、浪人たちは切腹となった。しかし、普通の切腹ではなかった。三宝には木刀があり、木刀に手をかけたところで、腹を切ったと見なして介錯された。
 後に、木刀が扇子となり、扇子切腹と呼ばれるようになる。
 切腹の形式化だ。

 午の刻が近い。
 三郎は座敷牢へ行った。
「佐竹様、お時間です」
 白装束となった一之進は、口元を震わせながら牢を出た。
「いい気味、と思っておろう。まさか、こんな事で腹を切る・・・いや、切る事さえできんとは」
 はあっ、何度も吐息をする。それでも胸の違和感は消えない。
「わたしの介錯は不服ですか? しかし、いつぞや、自分で自分の首を刎ねる、と言う御仁がおりましたな」
 言って、三郎は後悔した。切腹人には白紙の心で臨むよう心がけて、と義父の遺訓を思い出した。
 心がけの難しさに、首を何度も振った。

「佐竹一之進、武士にあるまじき所行多く、藩の名誉を汚す事甚だし。打ち首も当然ながら、罪一等を減じ、切腹申し付ける」
 多田正隆の声が中庭に響いた。
 一之進は黙して頭を下げた。
 目前の三宝には白い扇子があった。どうやって腹を切り、首を刎ねるか。不可能な事が頭の中で空回りした。
 三郎は迷っていた。いつ立ち上がり、抜刀するか、その時がつかめない。
 聞けば、江戸の扇子切腹では、介錯人は抜刀して切腹人の後ろで待機するらしい。しかし、抜刀した状態で、庭の事物とひとつになれるか、存在が感じられぬようになれるか、まるで分からない。
 陽が陰り、冷たい風が吹いた。
「介錯人どの、そちらに美和と言う女がおりましょう。抱き心地はいかがかな」
 一之進が口を開いた。はて、と三郎は首を傾げた。
「よく働く女です。かわいそうに、子を二度も流しました。生まれてから死ぬより、女には辛い場合があるようです」
 答えて、三郎は心が冷えていくのを感じた。一之進への同情が消え、役目を果たそうとする義務感が残る。
「皆、待ちくたびれております。早く腹を召しませい」
 三郎は片膝立ちとなり、半歩間を詰めた。
 一之進の横顔が見えた。泣いていた。
 介錯人に喧嘩を売ったつもりが、相手は乗って来ない。すべて空振り、空回りだ。
 身を前に屈ませ、右手を三宝に伸ばした。
 ぽつり、手の甲に雨粒が当たった。

 雨上がり、三郎と木元は家に帰った。
 庭の塚に向かい、一握りの土を足した。本田屋敷の庭から持ち帰った、佐竹一之進の血が混じっている土だ。
「茶になさいますか、湯になさいますか」
 美和が台所から言った。
「汗を流したい、湯にしよう」
 三郎は着物の胸を開き、戸をくぐる。美和の手を引き、風呂へ誘った。
 美和の背を流してやろう、と思った。身ぎれいにして、次こそ、ちゃんと子を産むのだ。男ならば、一之進の名も良い。




 世が明治となり、士農工商の身分制が崩れると、切腹刑は無くなった。自決切腹が軍人の中に残ったくらい。
 最後の切腹として、世の人に記憶されているのは、昭和四十五年(西暦1970年)十一月二十五日、三島由紀夫の自決切腹である。



 

 

< おわり >


後書き
ずいぶん苦しんだけど、なんとか書き上げました。
次は人が生きる話しにしよう。

2018.1.18

OOTAU1