ハ ル !

本作は俳優・中島春雄氏の昭和28年から29年の仕事を元にしたフィクションである。
けっして、セミドキュメントではない!
作中、多く実在の人物と同姓同名の者が登場するが、こちらもフィクションだ。
中島春雄の家族と、彼が住むアパートに関しては、完全な作り話である。そこの人、間違えないように!

 

 
昭和28年7月


 あっちぇぇっっ!
 梅雨明けの太陽が東向きの窓から差し込む。耐えかねて、中島春雄は体を起こした。
 深海の猛獣すら起き出しそうな暑さ、ちょっと頭が痛い。
 朝の6時だが、すでに汗まみれだ。手ぬぐいを片手に四畳半の部屋を出た。
 おんぼろアパートの廊下の中ほど、共同炊事場の戸を開けた。すでに一人が朝餉の準備をしている。その対面の流し台で顔を洗う。顔だけでなく、頭にも水をかぶる。さらに、濡れ手ぬぐいで上半身を拭いて、ようやく汗が引っ込んだ。
 部屋から持って来た急須に水をいれる。茶葉は昨日の物だ。部屋に持ち帰り、丼の冷や飯にかける。ぬるい茶漬けと瓶詰めの塩辛を合わせ、男の朝飯だ。

 上はシャツ一枚、尻に手ぬぐいをぶら下げ、中島春雄はアパートを駆けだした。今年24才、筋骨たくましい体から若さがほとばしる。身長168センチは、この時代では大柄な方である。
 風に汗が飛び、下駄が土埃を舞い上げた。走って行く先は、わずか500メートルほどの所にある東宝撮影所だ。東京都世田谷区成城は映画の街、映画に係わる人々が住んでいた。
 平成の現代では都市の真ん中であるが、この時代、撮影所の周囲は田や畑が多かった。
 農耕機械も普及しておらず、馬や牛が草を食む風景が広がっている。残飯や糞尿回収の馬車が家々を巡り、肥料や飼料にしていた時代だ。バキュームカーはアメリカ軍が日本に持ち込んだが、まだまだ軍施設から離れた所までは来ない。都市化の波が押し寄せるのは、もう少し後の事であった。

 撮影所の入り口をくぐり、中島が向かったのは木造平屋の建物。入り口の看板は「全映連・演技協社」と墨書きされていた。いわゆる「大部屋俳優」たちが所属する会社で、ここから各撮影現場へ派遣される建前である。
「お早うございます」
 元気な声で玄関を抜け、事務前の長いすに腰を下ろした。時計は7時を回ったばかりだ。
「やあ、いつも早いね」
 白髪頭の事務長が麦茶のヤカンを手に出迎えた。
 中島は手であいさつして、ヤカンから麦茶を湯飲みに取る。カラカラとヤカンの中で氷が鳴った。
「中島くん」
 事務長が呼んだ。こういう時は仕事がある。
「9時から、第3ステージの4、安西組ね」
「安西さん・・・すか」
 監督の名前が組の呼び名になる、これは撮影所の習慣だ。第3ステージは、主に時代劇用のオープンセットである。武家屋敷、町人街、長屋に掘り割り等が造り込まれていた。
 配役票をもらうと、作品名が書かれてない。となると、何かの撮り足しか、撮り直しだろう。
 8時が近くなる。役者の卵たちが事務所にあふれ、中島は立ち上がった。下駄を鳴らして撮影所の奥へ、第3ステージの小屋へ向かう。
 ステージ小屋の入り口の立て看板を見た。安西組の予定が貼られている。
「お早うございます」
 元気な声で存在をアピール、小屋に入った。
 安西組のセカンド助監督、納谷が人の集まりをチェックしていた。
「やあ、中島くん、今日はよろしく。君は・・・河津さんのふき替えだ。河津さんが来たら、衣装を合わせて」
「ふき替え、ですか」
 ふん、中島は鼻息をついた。ふき替えはアメリカ映画で言うところのスタントイン、またはスタントマンの事。顔は写らないが、その他大勢の役ではない。
 ならば、と小屋を出てセットへ行く。青空がまぶしい。
 掘り割りに水が入れられていた。船は出されていない。架けられた橋の上にファースト助監督の鷲尾がいた。
「お早うございます」
 また元気な声であいさつした。
「おはよ」
 鷲尾は水面を見下ろしたまま、気の無い返事。朝一番から水を入れているのに、掘り割りの水位が上がらないのだ。
 お早うございます、と各所から声が上がった。監督の安西、撮影の冬馬、今日のメイン出演者である河津清司郎が現れた。
「あれ、水が低いね」
 安西の指摘に、鷲尾は眉をしかめて首を振る。
「危ないなら、これは・・・止め、にするか」
 今日のシーンは助監督の鷲尾が提案した。一昨日までに、河原でラストシーンを撮影していた。が、ラッシュを仮に編集してみると、どうも見栄えがしない。そこで、橋から落ちる場面を挿入しては、と進言したら通った。
 監督からすれば、どうしても必要なカットではない。やらなければ、フィルムを使わずに済む。フィルムの節約も監督の腕の内、と言われている時代だ。
「ちょいと見てみましょう」
 中島はズボンを脱ぎ、下着姿で掘り割りに降りた。慎重に足を入れ、水の中に踏み込んだ。
 橋の真下へ行く。水かさは股上、深さは80センチほどか。船を入れるシーンなら十分なのだが。
「浅いなあ。やっぱり危険だ」
 橋の上で安西が首を振る。
 むっ、中島は口をすぼめた。この場面が中止となれば、提案した助監督のメンツがつぶれる。出演するはずの中島はフィルムに残れない。
 なんとかしなくては、と中島は水から出た。その足で橋に上がる。
 橋はセット、江戸時代の橋を模した物だ。欄干は30センチあまりと低い。そこから水面まで3メートルほどある。
「できるかどうか、一回、落ちてみましょう」
 中島の提案に、皆がギョッとした眼差しを向けた。
 故郷の山形では、子供の頃から川遊びをした。橋からの飛び込みと素潜りには少々の自信がある。
 へへっ、中島は笑って鼻をこすった。欄干に腰掛け、さらに手をついて身を低く屈めた。そこから転がるようにして、橋から身を投げた。
 水深は浅いので、頭から落ちても足から入っても、底に体が着いてケガに通じる。この場合は、体を横にして尻から、あるいは背中から着水するのだ。
 ばっしゃーん、どでかい水しぶきか起きた。
 体を大の字にして着水したものだから、しぶきが横へ盛大に広がった。一度は全身が沈んだが、すぐ浮き上がる。橋の上で見る監督に笑顔で手を振った。
 ぱちぱち、安西は手を叩いた。
「すごい、すごいよ。この水しぶきなら撮る価値があるぞ」
 いてて・・・と中島は声に出せない。
 子供の頃は体が軽かったので平気だった大の字落ちだが、大人になって体が重くなった今、水面が板のように固く感じた。けれど、これで撮影が始まる。もう一度落ちて、痛い思いをする。
 ふっ、こんな事ができるのは俺だけさ。中島は鼻息で気合いを入れた。

 河津清司郎はベテランの俳優だ。もっぱら悪役を演じている。今回の役柄は仇討ちを受ける浪人だ。河原で仇討ちに逢い、そのまま川に流されて終わりを迎えるはずだった。
 さて、撮り足しである。手傷を負い、よろける足取りで橋の上に来た。前には白装束の仇討ちが、後ろには助太刀が立つ。追い詰められ、河津は橋の中央で欄干に寄りかかる。
「カット! はい、みんな動かないで。河津さん、中島と入れ替わる」
 監督の号令一下、橋の両側の俳優は動きを止めた。中島は走って橋に上がり、河津に寄る。
 背丈は同じくらいでも、肩幅は若い中島の方が広い。カメラに体を正対させなければ目立たないだろう。
「中島先生、よろしく」
 河津は場を退き、中島が欄干に寄りかかった。よろしく、とベテランから持ち上げられた。若手としては力が入るところ。
「手は、もうちょい先ね」
 中島の姿勢に一口入れて、河津は橋から降りた。カメラマンがオーケーサイン、フレームから河津の姿が出た。
 顔を下向きにしても、中島は橋の両側で動かない俳優たちを見ていた。どれも見知った大部屋俳優だ。今日は、彼らもふき替えだ。
「用意・・・スタート!」
 監督の号令だ。
 中島は欄干にもたれながら、少し体を起こす。が、次には脱力して欄干に突っ伏し、ずるりと腰が欄干を越えた。
 ばっしゃーん、大きな水しぶきがひろがった。
 水に沈んで、中島は体を回転させた。背中から水面に浮き上がる。これも演技の内、悪役が切られて死んだのだから、顔を上にして浮き上がるのは無い。
 1・・・2・・・3・・・中島は水の中で数えていた。息を止めて死体の演技も楽じゃない。
 ・・・9・・・10・・・まだカットの声がかからない。少し焦れた。
「はい、カット! おーい中島くーん、なかじまぁっ!」
 水の中でも、安西監督の大声は十分聞こえていた。
 中島は悠然と足を水底に下ろし、起き上がった。頭に手をやり、かつらを確認した。ずれてない、これがふっとんでいたら撮り直しだった。
「脅かすなよ」
 助監督やカメラマンも安堵の笑みを投げてくれた。

 中島は衣装部屋に入る前に裸になった。悪役らしい大袈裟な衣装はずぶ濡れ、衣装係に返して風呂へ入った。
 湯に全身を沈め、鯨のように頭を出して息をついた。普通なら、名のある俳優や女優くらいしか風呂は使えない。大部屋俳優が撮影所の風呂に入るのは、こんな機会だけだ。
 がらら、戸が開いて、河津清司郎が入って来た。
「おおっ、中島先生、いらしたんですね。ささ、お背中、流しましょう」
「やだなあ、逆でしょう」
 ままま、と河津は強引に中島の背をとった。若手としてはベテランの誘いを断り切れない。
「ケガは無いようですね、良かった」
 河津は中島の背を見て、うんうんと何度も頷いた。
「橋から落ちる時のね、手足から力が抜けているところが、とても良かった。へたなふき替えさんだと、落ちる時になって、突然元気良くピョーンと飛んでしまう事がある。そういうのだけは避けたかったんですよ」
「へえ」
 中島は生返事をした。自分では意識していなかった細かい所だ、指摘されて嬉しくなった。
 実は、今日のふき替えは河津が中島を指名してものだった。監督だけでなく、ベテラン俳優も新人俳優の目利きをする。河津の期待する以上の演技ができたようだ。
「キングコングがね、ビルから落ちる時、途中で何度かひっかかるんです。あれと同じ悲哀がある落ち方でしたね。味がありました」
「キングコングですか・・・」
 キングコングは1933年にアメリカで公開された古い怪物映画だ。この年の冬、リバイバル上映されて人気を博していた。
「惚れちゃあいけねえ女に惚れた男の末路、と言いますかねえ。人魚姫を男に置き換えると、あの映画になる」
「人魚姫がキングコング?」
 へへへ、河津は笑った。
 中島は首をひねるばかり。童話の愛らしい人魚姫と、どう猛な巨大ゴリラの共通点が分からない。
 風呂上がり、河津は財布から100円札を出し、中島に握らせた。
「また、この次もお願いしますよ」
「ありがとうございます」
 中島は深々と頭を下げた。河津は手を振り、軽い足取りで出て行った。
 撮影所からの帰りがけ、中島はラーメン屋に寄った。ゆで卵を二つ、多く入れて食べた。汗をかきながら麺をすすり、汁を残さず飲んだ。
 河津さんのふき替えなら、次は火の中でも飛び込んでやるさ。つい、そんな気になっていた。

 7月27日、中朝連合軍と国連軍は朝鮮戦争休戦協定に署名した。3年前に始まった戦争は、1年以上の長い膠着状態を経て、ようやく休戦に至った。



昭和28年8月


 今年の盆は帰らない、中島春雄は決め込んだ。
 撮影所は短い盆休みである。金を使わないためには、ジージー鳴く蝉の声を浴びながら、ひたすらアパートの一室で暑さに耐える。
「中島さん、小包来てますよ」
 管理人が戸を叩いて言った。
 はーい、と返事して玄関まで取りに行く。差出人は故郷の母、ハルであった。中島春雄は中島家の三男、名は母からもらった。
 ずしりと重い包みを部屋まで引きずる。また、一汗かいた。
 包みの中は、米と味噌、缶詰に乾物。ついでに手ぬぐいと下着・・・等々。
 手紙が入っていた。開くと、懐かしい母の筆跡だ。

 今年の盆も帰れないかの。何かあったら、いつでも帰っといで。
 映画館には、よく行きます。どんな物を着ていても、息子の背中を見間違えたりしねからの。

 母ちゃ・・・汗が吹き出て、目にしみた。
 中島春雄は山形県酒田に生まれ育った。酒田の言葉では母を「かか」と呼ぶ。けれど、少し鼻にかかった発音なので、東京者には「がが」と聞こえるようだ。
「ハルさん、こっちも盆は寝てよう日かい」
 戸を開けた顔を見せたのは、角の部屋の寺田だ。小脇に原稿用紙と新聞を抱え、撮影所に出入りする脚本家志望の若者の一人。
「また、どんなの書いたの?」
 中島が問うと、寺田は小首をひねって笑った。いつもの事だが、今度のは自信作らしい。
「しかし、まいったぜ。ロスケめ、簡単に休戦条約を結んだと思ってたら、裏でやらかしやがった」
「裏で?」
 ロスケとは、ロシアを指す侮蔑の言葉。昭和20年8月9日、ソビエトは一方的に中立条約を破棄、大日本帝国に宣戦を布告した。以来、ソビエトを嘘つき、裏切りと忌み嫌う者たちは多い。朝鮮戦争では北側を支援していたのがソビエトだ。
 寺田が新聞を開いた。
 ソビエト連邦政府の発表である。8月12日、初の水素爆弾の実験が成功とある。爆発力はTNT火薬にして400キロトン、広島型原爆の20倍以上だ。地震波の観測から、アメリカ軍も爆発を認めていた。
「400・・・20倍・・・か」
 中島は首をひねった。数字が大き過ぎて、どうにも想像ができない。
「広島型原爆が皇居の上空で爆発したとすると、焼け野原になるのは山手線の内側くらいだ。けども、ロスケの水爆なら、この世田谷の成城まで火の海になっちまうのよ」
「ここいらまで、かよ」
 ひええ、中島はうなった。
 先月、朝鮮戦争が休戦となった。しかし、単にドンパチが一時休みになっただけ。平和は見せかけかもしれない。

 盆休み明け、中島春雄は黒沢組へ行く事になった。
 脚本をもらうと、野武士の斥候1が役どころ。しかし、セリフは斥候2が主で、斥候1は「おう」とか「うむ」とか応えるだけだ。ふき替えではないが、少し落胆した。撮影所内で、毛皮の陣羽織みたいなのを着て衣装合わせ。写真を撮って、よしとなった。
 そして、静岡県御殿場のロケ地に向かうよう指示された。
 夜行列車に乗り、翌日の早朝、駅前の松屋旅館に着いた。そこは黒沢組の常宿、スタッフとメインキャストが勢揃いで待ち構えていた。
 ようやく、斥候2を演じる上田吉二郎と顔合わせとなった。
 朝飯をもらい、顔を洗おうとしたら、黒沢監督が声をかけてきた。
「そのまま、そのままで。さあ、現場に行くぞ」
「でも、ヒゲも剃ってないし」
「ヒゲなら、もっと伸ばしてね。半分寝ぼけた感じも良し、斥候だからね」
 黒沢明は43才、働き盛りだ。体からエネルギーがこぼれるよう。
 強引にバスへ乗せられた。若手の大部屋俳優ゆえ、座らずに吊革につかまった。
 山間の未舗装路をバスが行く。ガタンゴトン、右へ左へ揺れた。揺れる中、斥候2の上田が中島に話しかけてきた。
「聞いたか? このシャシン、制作中断になるかもしれないって、さ」
 古い映画人は、映画をシャシンと呼ぶ事がある。映画が活動写真と呼ばれていた時代の名残を示す言い方だ。
「中断?」
「本来なら、今頃は完成してなきゃいけないんだ。これまでに撮った分で仕上げろ、と会社から催促されてるらしい」
 へえ、中島は生返事だけ。
 ポケットから丸めた脚本の抜粋を見た。『7人の侍』は3人の斥候の場面だけでも、かなりの分量だ。しかし、黒沢作品の場合、脚本の分量と完成フィルムの尺数は一致しない。
 4年前、中島は黒沢作品『のら犬』に出演した。が、中島の出演場面は完成したフィルムの中に無かった。編集で場面ごとカットされてしまったのだ。
 同じく『のら犬』に出演していたのが三船敏郎、その時は2年目の新人だった。今日はバスの最前列に座っていた。すでに、日本映画界で押しも押されもせぬスターとなっている。この『7人の侍』でも主役級だ。
 中島は振り返り、ちらりと三船を見た。こちらは未だに大部屋俳優である。
 この年、三船敏郎は33才。軍でカメラマンをしていて、そのつてで映画界に入るきっかけを得た。俳優志望でなかったのに、俳優として才能を爆発させていた。
「おれが出る場面を撮り終えてからなら、何が起きても良いさ。完成したフィルムに俺の姿が残っているなら、なお良しだ」
 はあ、中島はため息をついた。ふははは、上田は笑いを返してきた。

 御殿場のセットは村の道を塞ぐ馬防柵である。高さは5メートル、幅は10メートル、太い木で組んである。なだらかな斜面の下にあり、一部ながら村の家も建てられていた
 村のメインとなるセットは世田谷の撮影所近くにある。この馬防柵では、多数の騎馬がからむシーンが予定されていた。馬を都内に移動できないので、ここに村の一部を建てたのだ。
 セットに着き、スタッフはキャメラや照明の準備。キャストは衣装を着ける。中島は不精ヒゲもそのまま、ぶ厚い毛皮の陣羽織な野武士の衣装を着た。大刀は背負う、腰に差すには長物だった。
「やっぱり、まだヒゲが薄いなあ。もっと濃いのにしてよ」
 黒沢監督がメーク係に指示をとばした。
 付けヒゲが何種類か試され、最後に加藤清正ばりのごわごわしたヒゲを付けた。
「うん、とても強そうだ」
 監督のオーケーが出た。
 ようやく、柵の前に斥候が3人揃った。斥候1は横綱の土俵入りなら露払いに当たる役、セリフ回しは横綱の斥候2がする。
 さて、3人の斥候は身を屈め、柵に沿って歩く。中ほどで斥候1は立ち止まり、柵の木に手をかける。ぐぐぐ・・・力を込めるが、柵は揺れもしなければ軋みもしない。
「素人の造りじゃねえ、村のもんが自分でやれるはずもなし。誰か、造り方を教えたやつがいるに違えねえ」
 斥候2が柵の頑丈さを分析して言った。斥候1はしびれた腕を振り、頷くしかない。
「あっ、あれ」
 斥候3が柵越しに村の中を指差した。刀を担いだ菊千代が歩いている。
「違う、あいつじゃない」
 斥候2は否定した。
「みんな、どこだあ?」
 菊千代が仲間を呼ぶ。
 斥候2は頭を下げた。1と3も従って頭を下げる。
「やっぱりだ。村のやつら、侍を雇いやがった。お頭に報せるぞ」
 斥候2は1の尻をたたく。3人は身を低くしたまま、柵から離れた。しかし、すぐ藪に隠れ、村を見張る。
 柵の向こう側、村の中に、また菊千代が姿を現した。勝四郎が追って出て来て、最後に久蔵がゆらりと現れる。勝四郎が身振りで何かを訴えるので、菊千代と久蔵は後ろに付いて行く。
「少なくとも3人か、もっといるかも知れねえな」
 斥候2が指折り数える。1は肩を回し、すでに戦闘態勢だ。
「カット! よし、オッケー!」
 黒澤監督が号令をかけた。
 簡単過ぎる、危ないなあ・・・中島はイヤな予感がした。4年前、出演場面を丸ごと切られた古傷が痛んだ。
 8月も中旬になると、日の落ちるのが早く感じる。5時前、今日の撮影は終わりとなった。
「明日からは、いよいよ時代劇の本番、ちゃんちゃんバラバラをやるぞう」
 黒沢の大声が帰りのバスに響いた。

 バスが旅館の手前で停まってしまった。
 旅館の玄関前には大きな星のマークのジープがいた、アメリカ軍の車だ。旅館の番頭がバスへ駆けて来た。
「クロサワ!」
「ミフネ!」
 アメリカ兵たちが大声でバスを指差す。すわ、逮捕か、連行か? バスの中が緊張した。
 黒沢が悠然としてバスから降りた。と、アメリカ兵たちの中から将官らしき人物が進み出て、背筋を伸ばして敬礼した。他の兵たちは整列して敬礼した。御殿場にあるアメリカ軍の基地から来たらしい。どこからか、黒沢明が逗留中の情報を得たようだ。
 黒沢に呼ばれて、三船もバスから降りた。アメリカ兵と映画スターとの握手会が始まった。サイン会が続き、記念撮影となった。黒沢の背は高い、大柄揃いのアメリカ兵の混じっても同列だ。
「朝鮮での戦争が一段落して、連中も気楽だね」
「本国へ帰る前に遊んでるんじゃないの」
 嬉々とするアメリカ兵をみながら、バスの中から安堵の声がもれた。
 2年前、ベネチア映画祭で『羅生門』がグランプリを取り、昨年はアメリカのアカデミー賞も取った。クロサワの名は世界的になっていた。
 映画は鉄砲より強いかもしれない・・・吊革で待ちながら、中島は思った。
 アメリカ兵が帰り、旅館前の騒動が終わって、ようやくバスから降りられた。部屋へ行く者もいるが、中島は風呂へ一直線。どんぶ、と頭から温泉につかった。
 湯の中でのんびりしてると、大きいのと小さいのが入って来た。大きいのは黒沢明、小さいのは土屋嘉雄だ。土屋は『七人の侍』で起用された新人俳優。新人だが26才、中島より年上である。
「わたしはねえ、ジョン・フォードの『駅馬車』が好きでねえ。一対一の決闘からインディアンに騎兵隊、医者に娼婦にお尋ね者、何でもありの作品だ。朝鮮の戦争が日本に飛び火して、映画が作れなくなる・・・そう思って、何でもあり、のこれをやり始めたんだ」
「何でもあり、ですか。でも、日本に駅馬車はありませんよ」
「それだけは入れられなかったなあ。麓の村から、山の村へ旅する場面・・・それくらいしか、イメージが残せてない」
 二人は親子のように語り合う。中島に入る余地は無かった。
「そうそう、イノさんが戦争物を撮ってるんだ」
 黒沢は本多猪四郎をイノさんと呼ぶ。山本嘉次郎監督の下で共に学んだ後輩だった。
「大作らしいですね。この次は、現代劇もやってみたいなあ」
「三船ちゃんが呼ばれてたな。君も見学がてら、端っこに出てみたら良い」
「出て良いのですか?」
 うん、と黒沢は頷く。
「戦争が、いつまた始まるか。朝鮮のは休戦しただけだからね。次に始まったら、初っ端に原爆が来るかもしれない」
「原爆が・・・すか」
 映画は原爆にかなわない・・・湯の中で中島は思った。

 翌日、場面は山の中だ。
 斥候3人は森の中を歩く。馬をつないでおいた場所へもどり、野武士の頭へ村の状況を報告する。
「侍を何人雇ったか、それが分かればなあ」
 斥候2がつぶやく。
「いっそ、奴らの一人を捕まえて、そいつから聞き出せば良いな」
 斥候2の言葉に、斥候1は太い腕をさすって頷く。
 望遠レンズで3人の隊列を撮っている。音は後入れ、少々間違っても気にしない。
 場面が変わり、馬をつないでおいた近く。
 太い木のところで、斥候1は足を止めた。だれか、木の下に座っている。侍の一人、久蔵である。
 ゆらり、久蔵は立ち上がる。両手は下げたまま、肩の力は抜けている。細面で強さは表に出ていないが、知恵のある目つきだ。
「こいつだ。殺すな、捕まえろ」
 斥候2が背中から小声で指示、斥候1は頷いた。胸を張り、背の刀に手を伸ばす。
 びゅん、一瞬の早業。久蔵は刀を抜いた。下から逆袈裟に切り上げた。
 斥候1は動かない・・・
「切ったんだから、倒れろよ」
 久蔵役の宮口清二が焦れた。
「今のは遠い、切れてない。だから、倒れないよ」
 中島は首を振ってこたえた。切っ先は見えなかったが、鼻先の風が弱かったので、遠いと判断したのだ。
 よっこらしょ、カメラ横の黒沢監督が立ち上がった。
「確かに、今のは遠かった。あれで倒れたら、普通の時代劇だよ。これはアラカンさんの主演じゃない。アラカンが刀を切り下ろしたら、何メートル離れていようが敵役は倒れなきゃいけない。でも、これは違うんだ」
 アラカンこと嵐寛寿郎の時代劇と言えば、鞍馬天狗の連続物が人気だった。共演には可憐な美空ひばりもいる。
「宮口さん、ちょっと腰が引けてたね。だから、刀が遠くなった」
「このいかつい顔が押して来るんだもの、誰だって引けるよ」
「久蔵は達人なんだから、どんな顔だって引いたりしないばずだ」
 黒沢が中島を見て、にやりとした。見た目では久蔵より強そう、それが斥候1の大事なところ。
「それに、下から切り上げるのは、第1撃としてわかりづらい。やっぱりね、上から切ってよ」
 うむうむ、宮口は口を尖らせて頷く。
 黒沢はカメラの後ろへ行く。
 スタート! 監督の号令が響いた。
 カメラから見て、右手に斥候1、左手に久蔵。二人の間は60センチほど、刃をつぶした模造刀であるが、当てずに切り下ろすのは難しい距離だ。
 斥候1が動いた。背負った刀の柄へ、ゆるりと右手が行く。
 びゅっ、久蔵が抜いた。どっ、斥候1の左肩を打ち、腹へと袈裟懸けに切り下ろす。
 むう、斥候1の体は朽ち木のように倒れた。
 ストップ、カット! 監督の号令が出た。でも、カメラの横で頭をかかえてしまった。
「ほら、当たったぞ。痛かっただろう」
「まあ、ちょっとね」
 心配する宮口に、中島は左肩をもんで答えた。
 ここで、毛皮の陣羽織の意味が理解できた。模造刀がまともに当たっても、ぶ厚い毛皮がガードしてくれるのだ。
「当たった・・・か。刀が肩に当たって、一瞬止まった。あれは菊千代の剣法だよ。久蔵は達人なんだから、刀は止まらず、すぱっと切り抜けてほしいなあ」
「すぱっ・・・とね」
 宮口は刀の振りを再現した。相手に当たってしまうと、刀が止まるのは必然だ。
「じゃあ、こうしよか」
 宮口は右足を引っ込め、左足を半歩前に出した。右片手で抜刀して、中島の右肩から反袈裟懸けに切り下ろす。そして、自身の右へ、カメラ側へ刀を逃がした。刃が当たらずとも、切り口はカメラの死角に入っている。
「おおっ、不意打ちぽくて、良いねえ」
 黒沢はご満悦の顔。ひとつの演技にダメが出ても、すぐ次の提案ができるのが良い役者の条件だ。
 監督がカメラの後ろへ行った。助監督が合図、カチンコが鳴った。
 久蔵と斥候1が対峙する。
 斥候2に促され、斥候1の右手が動いた。と、久蔵が抜刀、斥候1を右肩から反袈裟懸けに切り下ろす。
 斥候1は声も無く倒れる。
 草に顔をうずめ、中島は事態の推移を待つ。脚本では、木の上から菊千代が飛びかかり、斥候2を取り押さえる。逃げ出した斥候3を、久蔵が追って切る。
「オッケー、カット!」
 監督の号令が飛んだ。
 3つ数えてから、中島は身を起こした。ぴしっ、宮口の刀が当たった瞬間、肩に軽い衝撃が来た。もっと強い当たりだと、顔に出ただろう。脚本では、訳も分からず倒れる事になっていた。それらしい演技ができたようだ。
 あとは、この場面が編集で切られない事を祈るだけだ。

 8月23日、ソビエト軍は量産型原子爆弾RDS−3Tの実験を行った。爆発力はTNT火薬40キロトン以上、広島型原爆の倍以上だ。
 
 8月26日、アメリカ軍横田基地にB−36爆撃機の編隊が展開していた。朝鮮戦争の休戦後に発動されたビッグスティック作戦である。
 B−36は主翼の幅が70メートルもある巨大な戦略爆撃機、量産型原子爆弾Mark6を搭載して太平洋を無着陸で横断飛行できた。アメリカ本国から、原爆を直に日本へ空輸できる時代の到来である。


昭和28年9月


 中島春雄は本多組に配属となった。『太平洋の鷲』は山本五十六を描く大作である。ドラマ部分は撮り終えていて、見せ場となる戦闘場面の撮影に入ったところ。
 長さ100メートル、幅は20メートル以上、巨大な空母のセットが東京湾に面した海岸に組まれた。実物大の零式戦闘機、97式艦爆が並べられて、本物の空母のよう。昭和17年の『ハワイ・マレー沖海戦』でも同等のセットが組まれたが、資料不足からアメリカの空母の写真を元に組んしまい、完成試写では物議をかもしたと云う。今回は、ちゃんと日本の空母の資料をそろえてセットが組まれた。
 中島の役は甲板員、元海軍の経験が買われての起用だ。
 山形に生まれ育ち、14才の時に横須賀へ出て海軍に入った。飛行機乗りを志望していた。予科練に入って、いよいよと言う時に終戦、軍艦に乗る機会は無かった。映画の中とは言え、甲板に立つ気分は爽快である。
 三船敏郎も『七人の侍』を抜けて、ここでは飛行隊長役を務める。終始落ち着いた口調、ベテランパイロットの雰囲気を出す。ただし、菊千代のヒゲはそのままだ。これを終えたら、また時代劇の世界へ戻らねばならない。
 監督の本多猪四郎は42才、黒沢明より1才下ながら、落ち着いた雰囲気だ。スタッフを信頼して、黙して準備ができるのを待っている。
 セットは艦首を南に向けていた。右舷側からカメラを向ければ、左舷に広がる海原と水平線まで撮れる。向こう岸の千葉県沿岸まで見渡せる日は、冬や台風一過の時に限られ、そう多くは発生しない。
 甲板に飛行士と甲板員が整列、出撃前の場面。艦橋に艦長らが並び、出撃前の訓示を行う。
 ぱぱぱっぱ、ぱー・・・
 ファンファーレが鳴り響いた。甲板員らは笑いをこらえ、整列を乱すまいとする。
 艦長となりの士官役が双眼鏡を手に、右舷方向の様子を見た。
「各馬、一斉にゲートイン。間も無く出走でありまーす」
「よーし」
 ベテラン役者の軽妙なアドリブ、NGとはならず、そのまま普通にカットの号令が出た。
 この空母のセットは、東京品川の近く、大井競馬場の東側の海岸にあった。後にモノレールが建設される場所である。セットの右舷近くには厩舎が並び、甲板から競馬場のコースが一望できた。
 次は、甲板の両側に甲板員が整列した。出撃の場面だ。
 ぐむむむむ・・・電気モーターで零式戦闘機のプロペラが回る。
 中島は首をひねり、また背筋を伸ばした。本物の零式のエンジン音を知る者には頼りない音だ。フィルムには、後から元気の良い音が入るはずである。
 排気管のアップ撮影では、発煙筒で煙を出す。自転車用の手押しポンプで煙を加速した、小道具係も大変だ。
 三船敏郎の隊長が零式に乗り込み、艦長と甲板員に敬礼を投げた。
「帽ふれーっ」
 号令で、中島は帽子を取って振る。並んだ甲板員役も帽子を振る。
 零式は脚のロープで牽引された。5人がかりで引っ張り、ゆるゆると艦首の方へ動いた。10メートルほど進んで、カットとなった。
「帽ふれーっ」
 また号令がかかった。中島はさっきより大げさに帽子を振る。
 2列目の零式がロープに牽引されて動いた。

「なんでえ、海軍なら麦飯だろう。こんな物を食ってたんじゃ、脚気になっちまうぜ」
 三船敏郎が昼の弁当に菊千代の顔で文句をたれた。白飯の握りが二つ、タクアンが三切れ、それが一人前だった。他はヤカンの茶を回し飲みである。
 ちっ、三船は舌打ちして魔法瓶を出す。椀に盛ったのは豚汁だ。『七人の侍』の時も、三船は自前のおかずを用意していた。
 中島は会社の出す弁当だけで昼飯を終えた。貧乏な大部屋俳優には、毎日おかずを持参する余裕は無い。
 甲板を見ると、小道具係が人形の準備をしていた。木製の骨格に、石綿入りの袢纏のような服で肉付けして、その上に飛行服を着付ける。
「それで、何をするの?」
「火を点けて、燃やすのさ。手足を紐で引いて、苦しんでいる演技をさせる」
「人形なら、燃えない石綿の服は要らんだろう」
「一回でオッケーとなるとは限らない。何度もやり直すためには、木の骨組が燃えちゃ困るのさ」
 ふーん、中島は首をひねる。
 気が付くと、本多監督も横で首をひねっていた。
「人形は・・・やっぱり人形だなあ」
「せっかく石綿の服を作ったんだから、普通に人が着ても、燃えないと思うけど」
「燃えないはずだけど、誰が着てくれるんだい」
 ははは、本多は笑いながら中島を見た。
 3秒考えた。
「やってみましょうか」
 中島は軽く答えた。本多監督の目つきが変わった。

 中島は下着だけになり、石綿入りの袢纏を着ける。股下まであるので、膝が締まらない。さらに飛行服を着れば、いよいよ毛皮を二重に着込んだような気分になった。
 よったよった、酔ったゴリラか直立したクマのような足取り。中島が甲板に進み出ると、皆が見て笑った。
「せっかく人が着たんだ。人形ではできない場所で撮ろう」
 本多監督が指した所は、なんと零式戦闘機の翼の上だ。しかし、石綿の着込みのせいで足が上がらない。踏み台をもらい、なんとか翼に上がって立った。
 小道具係が飛行服の背に仕掛けをする。ハケで薄く油を塗った。
 中島は翼の上から周囲を見た。誰もが注目している。まるで主演俳優になった気分だ。しかし、他に火や煙の小道具は無い、ダメもとの撮影とわかった。
 2台のカメラが見上げる角度で中島をとらえていた。横からの画角で、中島の横顔が写り込むはず。こんな撮られ方は初めてだ。大部屋俳優のはずなのに、主演俳優がとなりにいないのに・・・考えるのを止めて、じっと監督の声を待った。
「用意!」
 監督が号令した。
 カチンコが鳴った。監督の合図で、小道具係が中島の背に火を点けた。
 中島はじっと待つ。監督からスタートの号令がかからない。
 背中が熱くなってきた。自分からは見えないが、かなり火は大きくなったはずだ。
「よし、スタート!」
 やっと声が来た。中島は翼から降りようとした。が、足が動かない、股下まである石綿の袢纏のせいだ。
 えい、小さく跳び降りた。
 ばったん、顔面から甲板に突っ込んで倒れた。立ち上がろうとするが、石綿のせいで手足が動かない、突っ伏したままもがく。
「よし、カット! 消せっ、消せっ!」
 バケツの水がかけられた。じゅうっ、熱で水が蒸発するのがわかった。
 小道具係が飛行服と石綿の袢纏を脱がしてくれて、ようやく中島は立ち上がった。
「くそう・・・全然、まるで動けなかった」
 中島はNGを覚悟した。ひどい演技だった、編集で切られるだろう。
「はい、ご苦労さん」
 監督が中島の肩をたたいた。軽く頭を下げ、中島はセットの隅で座り込んだ。
 次の場面の準備が始まった。アメリカ軍の攻撃で、甲板で火災が起きるのだ。カメラの前で火を焚き、煙幕もかける。甲板員の衣装と顔はあらかじめ黒く汚してある。

 撮影所で屋内場面を撮る。空母の艦内のセットが組まれ、実物大の零式戦闘機が運び込まれた。
 中島も甲板員の衣装で入った。
「ああ、中島くん、それじゃダメだ」
 本多監督に呼び止められた。
「でも、自分の役は」
「飛行甲板で燃えるとこ、撮ったろ。艦内でも飛行服を着てくれないと、画がつながらないよ」
「帽振れ−もやりましたよ」
「中島の兄弟が飛行士と甲板員で乗っている、そういう事にしよう。早く着替えて来なさい」
 はいっ、監督に敬礼、回れ右で駆けだした。
 あの場面はNGではない、中島は衣装部屋へ全速力で走った。

 今年の春、特殊効果の雄、円谷英二が東宝に復帰した。
 復帰にあたり、東宝が用意したのは600坪の屋外特撮ステージ。ステージと言っても、何も無い真っ平らなグランドだ。『ハワイ・マレー沖海戦』で造った真珠湾のセットを再現するには、これでも最低限の広さだった。
 今回の『太平洋の鷲』では、ミッドウエー海戦の場面が重要になる。
 ミニチュアの空母が特撮ステージに置かれた。20分の1スケールの空母は、長さが10メートル以上ある。その上に長さ50センチもある飛行機のミニチュアが並べられた。火と煙のスケールの問題から、これ以上は小さくできないのだ。
 海面は画面から外して撮るので、地面に置かれた空母が可笑しく見えた。
 中島は撮影を見学した。
 ぱぱぱっ、派手な音でミニチュア空母の上は火花と火炎に包まれた。小さなキノコ雲が立ち上がる。
 空母が炎上して横転する場面は、このミニチュアを漁船にかぶせ、実際の海に浮かべて撮る計画である。
 10年前は勝つ戦争映画を作っていたのに、今度は負ける戦争映画を作る。なんか違う・・・胸にこみ上げるものがあった。


28年10月


 ありら〜ら〜っ、朝から歌声がアパートの廊下に響いた。
 ジン・ヨーコは渋谷のクラブで歌っている。夜中働いて、明るくなってからの帰宅だ。
「ヨーコ、あんたの声は特別なんだから、こんな所で安売りしないで」
「はーい、オモニ」
 母親役のソヨンが苦言をたれた。
 中島春雄は共同炊事場から出て来たところで、二人と出っくわした。
「お早う、ずいぶんご機嫌だね」
「へへ、クラブにラジオのディレクター来た。レコード会社のプロデューサーも来た。あたし、認められた。レコード歌手、ニダーッ」
 おめでとう、と祝いを言って、中島は自室へ向かう。部屋の前で振り返ると、またソヨンが苦言を呈している模様だ。
 昨日の残り飯に熱い茶をかけて、瓶詰めの塩辛で男の朝飯とする。
「中島さん、電報ですよ」
 管理人の呼ぶ声に、中島は玄関へ行った。

 ハハ、キトク、スグカエレ

「か、か・・・母っちゃ・・・」
 思わず唇が震えた。山形の実家からの報せは不幸を含んでいた。
 中島は東宝撮影所へ走った。演技協社の事務に休みを通告、このへんは大部屋俳優の気楽さだ。そして、またアパートへ走った。
 簡単に着替えの下着をカバンに詰め、アパートを飛び出た。
 上野駅に着いたら、もう昼だった。東北線の蒸気機関車が頼りない。仙台まで走って、明日の朝である。そこから乗り換えて山形へ、明日の夕方に着くかどうか・・・故郷が無限に遠く感じた。

 列車の運行時刻表などは目安でしかない、そんな時代の鉄道旅。山を越えると、空気が変わった。
 秋めいた風が窓の隙間から吹き込む。故郷が近い・・・
 ギギギ、シュウシュウ・・・蒸気機関車の息吹、うたた寝から目覚めた。
 がしん、列車が止まった。
「しゃかったあ〜、しゃかったあ〜」
 江戸なまりの気抜けた駅名放送、中島は列車を降りた。久しぶりに吸う故郷の空気だが、うれしさは無い。
 改札を出ると、見知った黒服がいた。
「あんちゃ」
 中島春雄は兄の哲夫に声をかけた。
 酒田言葉では「兄」の事を「あんちゃ」と呼ぶ。「あに」の「に」の発音が崩れて「ん」になっているのだ。「あに」の「あ」が消えて「にーちゃん」となる東京言葉とは対照的である。
 春雄は母の事を尋ねようとしたが、言葉が出なかった。家に向かって歩く兄、哲夫と並んで黙したまま行く。
 駅から歩いてほど近い所に『中島精肉店』がある。中島春雄の実家だ。
「ほら、あれ」
 兄の哲夫が言った。
 春雄は顔を伏せていた。忌中の字は見たくなかった。
 恐る恐る顔を上げると、中島精肉店は通常営業している。店には客も来ていた。
 店の奥、50代半ばの女が接客していた。懐かしい顔だ。
「おお、ハル坊、帰ったか」
 喜色満面で春雄を手招きする、母のハルだ。
「あんちゃ」
 春雄は兄を振り向く。へへへ、いたずらな笑いがあった。

「ほんに、もう、大げさでの。ちいと気分が悪うて、横になってただけなのに。やれ医者や、やれ電報や、て。あれっから、恥ずかしゅうて、街の皆さんに顔向けできんわ」
 夕食の席で母は笑った。春雄のために馬刺しを出してくれた。
「ほんに顔真っ青で、息も絶え絶えだったし、の。哲夫が慌てたのも、ありゃ当然よ」
 父の一哲がしわの増えた顔で笑う。兄の哲夫の名は父からもらっている。
「ハルよ、仕事はどうだ?」
 兄が話題を振ってきた。まだ小さい長男をひざに乗せ、すっかり父親の貫禄が出てきた。
「うん『太平洋の鷲』を撮り終えたばかりだ。短いけど、横っ面が映るはずだ」
「おっ、背中から横顔に出世かい」
 めでたい、と皆が喜んだ。
 5年前まで、春雄が店を手伝っていた。長兄の哲夫が復員して来て、三男の春雄は兄に店の仕事を譲った。そして、俳優の道に入った。
 すでに、兄には嫁があり、子供もできていた。よほどの事が起きなければ、ここに春雄の居場所は無い。

 翌朝、仏間で戦死した次兄の位牌に手を合わせた。
 店が開く前に駅へ向かう。兄の哲夫が一緒に来てくれた。
「こんなにもよう、あれこれもらっちまって、復員して来た時のあんちゃみたいだ」
 春雄は両手に大きなカバンを持ち、背にはリュックを負った。どれもパンパンに物が詰まっている。
「足りない物があったら、いつでも報せえよ。おまえも、すっかり東京言葉になってまって。次はの、嫁さん連れて来い」
「よめ、か。そいつは、難しいかな」
「連れて来たらな、父ちゃも母ちゃも大喜びだ」
 ひええ、春雄はうなった。両手と背中の荷物より重い宿題が来てしまった。映画の主演を取る方が、まだ簡単そうだ。
 蒸気機関車が駅のホームに入って来た。
 店の開店時刻が近い。兄は改札をくぐらなかった。
 春雄は一人で列車に乗った。また、東京まで一昼夜かけて行く長旅の始まり。

 10月15日、イギリス軍は南オーストラリアで原子爆弾の爆発実験を行った、トーテム作戦と呼ばれた。爆発力は広島型原爆より小さかったが、前年のハリケーン作戦の実験と合わせ、イギリスの原爆は実用段階に達した。
 この爆発コアを使う爆弾はブルーダニューブ(青きドナウ)と呼ばれた。

 10月21日、東京の東宝系映画館で『太平洋の鷲』の公開が始まった。
 この時代の映画は、フィルムのプリントが出来上がり次第、順次地方都市へ配給する。東京に比べ、山形の酒田あたりでは2週間遅れの公開が普通だった。1ヵ月遅れも珍しくない。
 東宝は『七人の侍』を制作中断とした。監督黒沢明には、すでに撮ったフィルムで作品を仕上げる事が要求された。


28年11月


 中島春雄は山本組へ配された。『坊ちゃん社員』の脚本をもらい、セットへ行った。とある会社の正門、守衛2が役だ。
 主役、坊ちゃんな社員の小林は同僚の川口と会社を訪問。アポ無しなので、当然入れてもらえない。川口が得意の話術で守衛1の気を引く。そのスキに、小林が身を屈めて正門の突破をはかる。が、気付いた守衛2が襟をつかんで引き戻す。
 また、セリフは無しか・・・中島は黙して頷いた。うまくいけば、少し顔が写るだろう。
 リハーサルが終わり、いよいよカメラが回る本番だ。
「はい、スタート!」
 監督の号令でカチンコが鳴った。
 小林が身を低くして正門を抜けようとする。中島の守衛2が気付く。
 守衛2が右手を伸ばし、小林の襟をつかんだ。が、本番だけに、小林がさらに行こうと大きく暴れた。
 中島の守衛2は左手で小林のベルトもつかんだ。米俵を横に抱えるように小柄な小林を吊り上げた。
 あわあわ、小林が情けない声を発し、空中で手足をばたつかせた。のっしのっし、中島は正門の外まで歩いて、やっと小林を地面に降ろす。
「カット!」
 監督の山本が大笑いで号令をかけた。脚本に無い動きだが、喜劇的展開は歓迎だ。
「キングコングかよ」
 小林があきれた顔で中島を見上げた。
「柔道では、あそこからひっくり返す投げが加わるよ」
 にやり、中島は胸を張った。海軍で鍛えた体、柔道は二段だ。

 夜の撮影が無ければ、大部屋俳優は早く帰れる。
 金が無いから、やる事は体を鍛えるために走るくらい。安い料理で腹を満たせば、電気代を節約するため早く寝るだけだ。
 廊下の足音を子守歌に、何度か寝返りをした。と、がらっ、近くの戸が開いた。
 どしどし、足音が枕元に響いた。
 ずしっ、布団の上に何かが乗って来た。中島は何者かを布団ごとはねのけ、立ち上がる。電球を点け、部屋を見渡した。
「あっ!」
「あれえっ?」
 素っ頓狂な声で下着姿の二人は顔を見合わせた。
 ジン・ヨーコが部屋を間違えたあげく、中島の布団に潜り込もうとしたのだ。部屋を見て、ヨーコは間違いに気付いた。
「女に夜這いをかけられて、おれは嬉しいけど。レコード歌手になるんだろ、君はまずいよな」
 中島は布団の上に腰をおろした。ヨーコは声も無く泣き始めた。
「レコード歌手、もうダメ。店もクビ、オモニもどっかへ行った・・・」
「そんな・・・」
 ヨーコがオモニと呼ぶジン・ソヨンは、ジン・ヨーコのレコード歌手デビューを仲間内に宣伝した。ヨーコが歌うクラブに、ソヨンが呼んだ客が押し寄せた。ソヨンとヨーコは朝鮮系ゆえ、呼び込んだ客も朝鮮系が多かった。が、客が北と南に割れてケンカを始めた。店が破壊され、店主は朝鮮人客の入店を禁止とした。ついでに、従業員の中から朝鮮系も解雇した。歌手のヨーコも解雇されてしまった。ラジオ局とレコード会社もトラブルを嫌い、ヨーコと縁を切った。
「せっかく朝鮮の戦争が終わったのに、日本で続きをしなくても、ううっ」
 中島もため息しかつけない。
「おっ母さんは、どうしたの?」
「もっと歌のうまい子がいる、と言って・・・いなくなった」
 ヨーコとソヨンの二人を、中島は親子だと思っていた。実は、名字が同じだけだったらしい。朝鮮では、名字の種類が極端なほど少ない。
「あたし、もう一人。どうして良いか、まるで分からない」
 また泣き出すヨーコ。中島は頭をかくばかり。
「でも、きみは歌がうまい。他のクラブでもキャバレーでも、すぐ店は見つかるさ」
「何軒か・・・行った。でも、朝鮮人とわかると、ダメと言われた」
「また、店を壊されるかも、か」
 日本国内では、在住する朝鮮系住民の衝突事件が相次いでいた。戦争中、朝鮮半島から多くの難民が押し寄せ、朝鮮人コミュニティーだけでは養いきれなくなったのだ。難民は失業者となり、さらに北系と南系に割れて抗争を繰り返していた。
「歌だけなら、ヨーコ、日本人に負けない。でも、おしゃべりになると、言葉が違うから、朝鮮とバレる」
「そ、そうかね。ヨーコの日本語は、おれよりまともだと思うけんど」
 中島は布団の上で横になる。元より、考えるのは苦手な方だ。
 言葉・・・と聞いて、のどに痰がからんだ。時折、大部屋俳優の仲間から指摘されるのだ。中島は山形言葉が抜けてない、と。
 中島は山形の酒田に生まれて育った。14才の時、横須賀に出て来て海軍に入った。海軍ではゲンコツで言葉を直された。命令の受け答えは標準語が要求される場所であった。2年で終戦になり、山形に帰って、家業の肉屋を3年手伝った。
 山形言葉が原因でセリフがもらえないとしたら、これは悲しい事だ。けれど、山形言葉は誇りでもある。何を今更、直す理由があるものか。
「戦争がお休み中だ。いっそ、お国に帰ったら?」
「ヨーコ、チェジュの人よ。韓国に帰ったら、たちまち殺されるよ!」
「殺される?」
 ヨーコは5年前の春、日本へ来た。韓国で起きた事件から逃れ、密入国同然であった。
 それは韓国で4.3事件と呼ばれていた。昭和23年の春から半年ほどの間に済州(チェジュ)島で起きた事件である。日本からの独立に反対する派と、大韓民国独立派の抗争と言われる。あるいは、北から進入した武装勢力が起こした南北戦争の先駆け、とも。ともかく、事件が収まった時、28万人いたはずの島民は3万人ほどになっていた。大韓民国政府は千人規模の虐殺が起きた事を認め、他の島民は日本へ脱出したと説明した。しかし、密入国を含めて、日本政府が把握する済州島からの脱出者は5万人ほどでしかない。両政府の発表を認めるなら、20万人の島民が朝鮮海峡のどこかで消えた事になる。
 21世紀になり、大韓民国政府は見解を変え、済州島事件で1万人以上の虐殺を認めた。しかし、行方不明の島民の数には足りない。
 のろのろとヨーコは服をかかえ、部屋を出て行った。
 数日後、ヨーコのいた部屋は空き部屋になった。

 中島春雄は本多組へ配属となった。『太平洋の鷲』は予告編の段階から評判が良く、その続編的なものとして『さらばラバウル』が始まった。帝国海軍の物語なので、実物大の零式戦闘機や衣装など、使い回せる小道具大道具は多い。配役も同じで、中島は飛行場要員としての出演だ。
 やっぱり、セリフは無しか・・・脚本をもらい、中島はほぞを噛む。
 今度の作品は飛行士が主役、空戦場面が見せ所になる。が、本物の零式戦闘機は無い。
 操縦席をカットして、内部から撮るセットが作られた。背景にはスクリーンプロセスのスクリーンがある。場面に応じて、味方機の編隊を投影したり、敵機を映したりする。
 この装置は円谷英二が東宝へ復帰する時に持ち込んだ、彼の自作の機械だ。スクリーンの周辺光量が不足したり、投影機とカメラの同期がずれたり、色々と気難しい問題を抱えた装置でもある。
 俳優への指導は本多監督が行い、背景の装置は円谷と彼のスタッフが動かす、そんな二人三脚な撮影が続いていた。
「はいっ!」
 本多監督が合図した。背景のスクリーンには敵機が映っている。敵機の機銃が光を放つ、機内のセットで火薬が火を吹く。俳優は苦しい表情だが、操縦桿から手は離さない。
「カット!」
 監督の号令。俳優が煙の満ちたセットから跳び出て、ふうと息をついた。
「ハルさん」
 助監督が呼んだので、中島はイスから立ち上がった。今日は飛行服を着て、いつものふき替えである。服の下には、例の石綿の袢纏を着込んでいた。
 中島はセットの操縦席に着いた。海軍に入った時は飛行士が志望だった。
 飛行服の手と足に薄く油が塗られた。別のカメラが寄って、手足のアップを撮る段取りだ。スクリーンプロセスは使わない、画面に顔は入らないはず。
「用意」
 手に火がつけられた。カチンコが鳴った。
 火が大きくなる。
「はい、スタート!」
 やっと監督の声が来た。火の着いた腕を振り、あるいは操縦桿を持ち替えて逆手で火を叩く。しかし、火の勢いは止まらない。
「はい、カット」
 カチンコが鳴った。ゆらり、中島は手足に火がついたままセットを出る。他の場面で、また操縦席のセットは使う。火が移ってはいけない。
 待機していた衣装係が湿った布で手足をくるみ、消火した。布を外すと、また白い煙が立ち上った。
「よくやるねえ、きみ」
 帽子の背が低い人が言った。50才過ぎの年寄りなスタッフのよう。危ない撮影に、あきれ顔だ。
「火より、水の方が得意なんですよ。零式が沈没する場面があればなあ、もっと色々できるのに」
 うっしし、中島は笑って答えた。ふーん、父と同年輩な年寄りは首を傾げた。それが円谷英二との初対面だった。

 東宝は『七人の侍』に制作再開の決断をした。黒沢明が編集したフィルムは、野武士が村の上の丘に現れるところまでだった。これでは公開できない。
 しかし、再開には厳しい条件も付いた。場所は撮影所近くの村内部のセットのみ、馬は2頭まで、ロケは無し。やるとすれば、脚本の大幅な変更が必要となる。
 黒沢は条件を承諾した。


28年12月


 馴染みのラーメン屋で夕食とした。
 また、卵をもらって入れた。この時代、卵は高級食材だ。ラーメンに卵を落とすのは贅沢な事だった。
「ハルさん、最近は羽振りが良いね」
「まあ、ね。セリフは無いけど、仕事は順調に入るようになった」
 客が切れて、店主が話しかけてきた。
「今度のは、どんな役だ? また、死ぬ役かい?」
「そうだね。また、そろそろだよ」
 にやり、中島は笑みを返した。
 持っている脚本に、中島が死ぬ場面は無い。けれど、監督から指名されたら、どんなふき替えでもやる覚悟はある。ほとんどの場合、ふき替えは死ぬ場面だ。


 撮影所の中にラバウルの市街が作られ、ドラマ部分の撮影。『さらばラバウル』はモブシーンがあった。中島は大部屋俳優らしく、その他大勢の市民役が主になった。
 主演の池辺良らがカメラの間近で演技する。振り向いて、カメラに顔を向けたい誘惑にかられた。しかし、それをやればNGだ。
 池辺良は35才、元陸軍中尉だけあって、毅然とした軍人役は地と言えた。元は監督志望だったらしいが、甘いマスクを女優たちから誉められて、俳優の方で活躍している。
 飛行場のロケでは、飛行場要員として元海軍の本領が出せる。
 実際の撮影場所は飛行機格納庫の裏側だ。現代の飛行機が並ぶ滑走路は撮せない。格納庫の裏手なら、土と芝のグランド。ラバウル飛行場に見立てられるロケーションがあった。
 アメリカ軍が駐留するようなって、ほとんどの飛行場は滑走路が舗装された。太平洋戦争中、ラバウルの滑走路は一部が鉄板で舗装されたが、ほとんどは草地であった。東京近郊では、ラバウル飛行場に見立てられる飛行場が少なくなっていた。
 並んだ零式戦闘機の前で、中島は脚本を読み直した。後半、ラバウルがアメリカ軍の空襲を受ける場面がある。
「また、燃えるあれ、やりますか?」
 中島の質問に、本多監督は首を振った。
「あの場面は・・・ねえ。フィルムの上では良かったけれど、会社の重役連に怒られたよ。高い小道具を燃やすような事をするな、とね」
 はあ、と中島は頷いた。今回は燃えなくて済むらしい。でも、その分、出番が減ってしまう。
 ラバウルが空襲を受ける場面は、ミニチュアを含む特殊効果班が受け持つ事になっていた。

 海岸の砂浜でロケ、対空機銃の陣地が造られた。
 アメリカ軍機からの機銃掃射をうける場面。顔はヘルメットに隠れるが、中島の出番だ。陣地の中で機銃の引き金をにぎった。
「スタート!」
 監督の号令でカチンコが鳴った。地面に埋めた火薬の列が順に点火された。
 パパパッ、砂煙が列を成して立つ。陣地の中でも火薬が炸裂、もうもうと煙が立った。
 煙に包まれながら、中島は機銃の横に倒れた。
「はい、カット!」
 監督の号令、周囲のスタッフが動く。カメラの位置を変え、別アングルから撮影の準備だ。
 中島はのそりと立ち上がる。衣装係から手ぬぐいをもらって顔をふいた。
「次は爆撃をうけるよ。中島くん、できるかい?」
「はい」
 監督の注文に、中島は軽く答えた。
 ヘルメットを替え、眼鏡と濃い付けヒゲをする。これが顔を守る物だ。衣装の下に、腹から胸まで板を入れた。耳栓も忘れてはいけない。
 陣地の中には人形が置かれた。
 中島の役は、軍刀を振りかざして対空指揮をする士官だ。
「用意、スタート!」
 カチンコが鳴った。
「撃てーっ、撃てーっ!」
 中島が機銃の向いている方向へ軍刀を突き上げた。
 ぼんっ、陣地の横に埋めてあった火薬が爆発した。土と砂を巻き上げ、中島の体を正面から直撃した。
 後方へ横受け身で倒れた。軍刀は手から落としている。
 ぱらぱら、飛んだ土やら砂やらが落ちて来て、中島の顔をたたいた。
 1・・・2・・・3・・・倒れて、中島は数えていた。カメラに背を向けている、角度を間違えていない自信はあった。
「はい、カット!」
 監督の号令が聞こえた。
 中島は体を回し、大の字になった。それから、ゆっくり体を起こした。爆発の近くにいたので、平衡感覚が崩れていないか確かめなければいけない。
 衣装係が来て、眼鏡とヒゲを取ってくれた。手ぬぐいをもらい、顔の土と砂を落とす。
「ケガは、大丈夫かい?」
 本多監督が声をかけてくれた。
「大部屋俳優ですよ」
「同じだよ。顔は俳優の命だ、大事にしろ」
 はい、中島は頭を下げた。


昭和29年1月


 映画見たよ。中島春雄の名前が出て、思わず手を合わせた。

 中島春雄は母からの手紙を何度も読み返す。少し親孝行が出来た気分、胸が軽い新年だ。
 今年もアパートで一人、寝正月である。25才になり、これまでと違う事をせねば、と気がはやった。
「中島さん、お客様ですよ」
 管理人が呼ぶので、玄関へ出て行く。
「やあ、おめでとう」
 玄関で待っていたのは、なんと本多猪四郎である。思わず平伏して、新年の挨拶を返した。
「今日はヒマかな、すぐ出られるかい?」
「こんな格好で良ければ」
「クロさんの家に行くんだ。きみは筋骨の方が売りだから、裸で良いくらいだ」
 中島は首をひねった。監督ともあろう立場の人が、たかが大部屋俳優を誘いに来た。意味が分からなかった。
 アパートの前には車が待っていた。乗って待っていたのは助監督など、スタッフだった。
 後席にでかい中島が乗って、全部で5人。車内は狭くなった。
「あのう、クロさんて?」
 後席で肩をすぼめ、中島は行き先をたずねた。
「黒沢だよ、ほれ監督の」
「黒沢監督ですか!」
 本多猪四郎は黒沢明の助監督を務めた事がある。戦前は、山本嘉次郎の下で共に助監督をした間柄である。

 柏江の黒沢邸に着く。スタッフたちは、それぞれ正月の品を手に玄関前に整列した。中島だけは手ぶらだ。
「明けましておめでとうございます」
 本多が玄関を開け、一番に声を上げた。
 女性に案内され、5人は奥の座敷へ。主人の黒沢明を囲んで、土屋嘉雄や三船敏郎、志村喬もいた。
「おおっ」
 黒沢が声を上げて手招きする。中島は本多が連れて来たスタッフの顔を見た。
「きみを呼んでるんだ」
 本多に肩を押され、黒沢の近くへ。
「やあ、おめでとう。イノさんのラッシュを見せてもらったら、きみが活躍してたんでね。今年もよろしく」
「よろしく・・・いえ、すみません。自分としては、目立たないようにやってたつもりですが」
 がははは、黒沢が笑いころげた。撮影所を離れると、笑い上戸な黒沢である。
「きみのようなのが、30人いればなあ。日本映画もアメリカ映画に肩を並べる作品作りができるんだが」
「自分が、30人?」
 たかが大部屋俳優を指して、ずいぶんな言い方だ。正月の祝いにしても、上げ過ぎと感じた。
「アメリカにはジョン・カナットと言うやつがいる。『駅馬車』でジョン・ウエインのふき替えをやった。ウエインより小柄だから、よく見ればわかるはずだ。走る馬車の屋根に登ったり、馬から馬へ飛び乗ったり、すごいやつだよ」
「ジョン・カナット・・・」
 中島は拳を握りしめた。これが言いたくて、黒沢は中島を家に呼んだと知った。
 後に、ジョン・カナットは『ベン・ハー』でチャールトン・ヘストンのふき替えをやり、戦車競争の場面を盛り上げた。
「アメリカには、ふき替え俳優の組合があってね、作品作りに深く関与するらしい。30人、と言った訳だよ」
「ふき替えの組合が・・・」
 24才の若造には、組合などと言う頭は無い。日本映画の未来を少し見た気分になった。

「イノさん、そっちはどう。もうそろそろ、仕上げだろ?」
 黒沢は話題を変えた。中島は一歩下がり、本多を振り返った。
「うん、そうなんだけど。画がうまく・・・つながらない、困ってる」
「つながらない・・・?」
「物語の真実味を深めようとすればするほど、模型が・・・模型として自己主張してしまって。なかなか割り切れなくって、うん」
 人間が出る実写画面と、模型の飛行機が飛ぶ画面の質感の差に、本多は悩んでいた。スクリーンプロセスも、画の質感に大きな差があった。
「おれも『すばらしき日曜日』では、書き割りの背景で悩んだけどね。だから、今度のでは書き割りを使ってない」
「狸御殿や孫悟空では、書き割りや模型の城が、むしろ愛らしくて。あんな風に開き直れたら、と思うよ」
「あれ、本多さんは狸御殿が好きなんだ?」
 横から土屋が割り込んだ。うん、と本多は頷く。
「今回のはあきらめて、次を考えながらやってはいかがです?」
 志村も助け船を入れて来た。
「次か・・・戦記物の閉めには、東京大空襲をやりたいなあ」
「さすが、イノさん。次は大空襲か」
 そう言って、黒沢が中島を見た。三船も視線を投げて来た。
「はい、存分に中島を燃やして下さい。兵隊に医者、警官と消防団と・・・女郎と、着替えて燃えましょ。隅田川を流れる死体もできます」
「すでに、半分できたようなもんだ」
 してやったり、黒沢は何度も頷く。
「あのう、わたしも火には強いです」
「おまえさんは、顔が火ぶくれで倍に腫れ上がったろ」
 土屋の自己推薦に、三船は首を振った。『七人の侍』の中で、野武士の山塞を燃やす場面。土屋は逃げ遅れ、火に顔をさらしてしまった。顔面が赤く火焼してしまった。カラー映画だったら、しばらく出演できないほどの症状だった。
「実は、少し書いてみた」
 本多がカバンから原稿の束を出した。おっ、皆の目が集まる。原稿は次々と手渡しされ、土屋の手で止まった。
「もしも、大空襲をラジオで実況中継してたら、と言うやつなんだ」
「実況中継ですか!」
 ごほん、土屋は胸をたたき、痰を落とした。原稿をかかげ、酒の徳利をマイクにして読み始めた。
「ここ浅草から東を見れば、南は千歳から北の本所まで、一面は火の海。空には赤黒い煙が立ち上り、煙の切れ間に、悠々と飛ぶ敵機の姿が。彼らはサーチライトを気にする様子も無く、我らが住む下界を見下ろすかのようです。あっ、敵機の新しい編隊が現れて、真っ直ぐこちらへ向かってまいります。あれが爆弾を落としたなら、わたしも燃える火の海で苦しむ人々の後を追う事になりましょう。ああっ、敵機の胴体が割れて、爆弾槽を露わにしました。いよいよ最期の時が迫ってまいりました。あああっ、焼夷弾が投下されました。すごい数です。わたしの頭上は、すでに炎で一杯です。ついに最期です、さようなら皆さん、さようなら・・・ああっ・・・」
 ごろん、土屋は真上を見上げて倒れてしまった。焼死体のように手足が固まった状態だ。
 もらったばかりの本を、よくも淀みなく読み続けられるものだ。しかも、感情まで入ってる・・・中島は感心していた。おれにはできない、と自分を省みた。セリフをもらえない理由を、今更ながら納得する。
「狸御殿のラジオなら、そんな中継もありそうだ」
 志村が頷くと、黒沢も同意を示した。が、三船は菊千代の仕草で首を傾げた。
「本物のラジオなら、一番先に逃げ出して、はるか遠くの安全な所から中継してる。こんな根性のあるやつなど、いるのもか!」
 ふん、と三船は鼻息を荒くする。
 あっ、倒れた土屋が外を見て声を上げた。
 窓の外に、白いものが降っていた。
「火じゃなくて、雪か」
 黒沢は手が震えていた。『七人の侍』の脚本には無い要素だ。秋までに完成させる予定だったから、冬の気候は考慮されていない。また、脚本の書き換えが必要になるかもしれない。
 中島は雪を見て、つい笑みを浮かべていた。山形の酒田では、今頃は雪が屋根の高さまで積もっている頃だ。 
 


29年2月


 中島がアパートへ帰ると、ハガキが来ていた。差出人はジン・ヨーコだ。
 横浜の店で働いているらしい。お誘いのハガキだった。
 ラブレターではなかった。ちょっと落胆して、机の上に置いた。

 中島は、また安西組へ配された。
 配役票に作品名が無い。今回も撮り直しか、撮り足しか。時間が許す限り作品を良くしたい、と思うのは監督の業であろうか。
 セットへ行く前に試写室へ呼ばれた。監督と並んで座り、ラッシュを見た。
「このカットを撮り直したいんだ」
 安西が合図して、映写技師がフィルムを回した。
 いつものチャンバラ場面、下からのアングル。切り合う内に、悪役は少しづつ後退。ズバッ、と切られて、階段を転がり落ちる。
 落ちながら、悪役は手足をもがくように動かし、階下に達して動かなくなった。
「見てて、悪役が哀れになる。ズバッ、と切られた瞬間に絶命して欲しいんだな」
 ふむ、と中島は考える。
「切られて、仰向けに落ちますか、うつ伏せで落ちますか?」
「まかせるよ。ズバッ、と死ぬ。それで頼む」
 はい、と頷き、また考えた。上を向くか、下を向くか。

 今回は屋内セット。行くと、人でいっぱいだ。午前中、他の組が使っていたらしい。大道具係が襖を入れ替え、階段の手すりを交換し、セットの模様替えをしていた。
 衣装を着けずに階段を上がった。階下まで落差4メートル、長さ6メートルほど階段だ。
 上から見ていたら、下に安西監督と冬馬カメラマンが現れた。前回のアングルと照明を再現しなくてはならない。
「試しに、落ちてみます」
 中島は手を振って言った。いいよ、と監督も手で応えた。
 階段の縁に立って背を向け、ズバッ、と切られた振り。足から力を抜き、ぼてと尻餅をつく。そのまま後方回転で階段へ。
 ごろりんごろりんごろりん、3回転して階下に着いた。ばた、と大の字で死体の演技。
 監督を見上げると、首を振った。
「尻餅をつくまでは良かった。でも、その後は、前のと一緒だ」
「やっぱり、一気にドドーッと落っこちる方ですね」
 中島は起き上がり、肩を回した。ゆっくり落ちたので、受け身を十分に使った。どこにも痛みは無い。
 落ちてみて、少し考えた。今のように回転すると、顔がカメラに向く瞬間ができる。一気に落ちても、仰向けでは顔がカメラを向く。やはり、うつ伏せで落ちるべきだ。
「胸と腹に血袋を仕込んで落ちれば、階段に血の跡がドドーッと」
 おおっ、中島の提案に安西がうなった。しかし、すぐには頷かず、目を閉じて考え込んだ。
「なかなか良いねえ。やってみたい・・・けど、後の掃除がなあ。大道具に怒られるなあ・・・やっぱり、血は無しで落ちてくれ」
「はい」
 中島は頷き、助監督と衣装部屋へ行った。
 この階段のセットは、これからも色々な作品で使い回される。汚したり傷付けたりせぬように演出するのも監督の腕だ。

 2月10日、東京の東宝系劇場で『さらばラバウル』の公開が始まった。
 遅くとも、来月には、山形の酒田でも公開されるはずだ。

 ヨーコに会ってみよう。中島はハガキを持って電車に乗った。
 夕方、京浜急行の黄金町駅に着いた。橋を渡り、ハガキ片手に店を探した。
 いつの間にか、赤線に入っていると気付いた。親不孝通りの二つ名を持つ通りも近い場所、ヨーコの店は近いはずだ。道端の人に聞いて、ようやく着いた。
 店は無くなっていた。火災の焼け跡だけがあった。
「この店を探しに来たの? 残念だったね、うちで遊んでおいでよ」
 厚化粧の年増女が話しかけてきた。聞けば、ハガキの日付の翌週に火事が起きたらしい。
 ハガキをポケットに入れ、中島は帰り道へと足を向けた。空が暮れてしまっていた。
「お兄さん、寄っていきなよ。飲むだけでいいよ」
 店の軒先から女たちの誘う声がする。遊び慣れてない者には、ちょっと苦手な雰囲気の街だ。
「ハルさん!」
 名前を呼ばれ、中島は足を止めた。当たりを見るが、見知った女はいない。
 と、左手に抱きついて来たのは赤い髪の女だ。薄着の胸を腕に押し付け、肩に頬をすり寄せた。
「来てくれたんだね、うれしいっ!」
 言われて、まじまじと女の顔を見た。厚化粧だが、ブラウスの前を開いているけど、膝丈の足の出る短いスカートだが、確かにヨーコだった。
これでスカーフにサングラスで決めれば、銀座を闊歩するパンパンガールだ。
 終戦後、進駐軍の兵と交際する女たちは、彼ら好みのアメリカンな服装をした。一部の男たちは、外人に媚びる女としてパン助やパンパンと呼んだ。やがて、パンパンは娼婦を指す言葉となった。 
「火事で死んだかと」
「チェジュだって死なずに逃げたよ。火事くらいで、死にますか」
 ヨーコに腕を引かれるまま、中島は建物の間の道へ入った。
 足元をよく見れば、排水路の上に板を置いただけ。そのまんまドブ板通りだ。半間幅の道の両側には、一間幅の店が軒を並べている。店の暖簾の向こう側には、疲れた顔の女たちがいた。
 あの映画より壮絶だな、中島は去年見た映画を思い出した。赤線の女たちを描いた作品だったが、現実の赤線は、もっとじめじめと湿った暗い道にあった。
 谷口千吉が監督した映画『赤線地帯』は売春街を描いた作品。この時代、売春は女性の職業の一つとして社会的に認知されていた。しかし、性病の封じ込めと人身売買の防止を理由に、警察は売春を認める場所を狭めようとして、地図の上で赤い線を引いた。赤線の呼び方の始まりだ。
 実は、中国系住民の多い場所、朝鮮系住民の多い場所にも、線は引かれていた。
 当時は、人種隔離政策がアメリカやヨーロッパでも普通に行われていた。日本でも同様だった。ただし、戦前には日韓同祖論や日中同祖論を展開していた手前、日本の隔離政策は徹底を欠いていた。それが中国系や朝鮮系住民が住む地域での犯罪や騒動を助長していた。
 世界的に人種隔離などの差別政策に見直しの機運が起こるのは、1968年のメキシコオリンピックで、表彰台の黒人選手が黒手袋を掲げ、自国であるアメリカ国旗に抗議の意を示してからだ。
「ただいま」
 ヨーコは店に入った。カウンターだけ、奥行きは三間ちょっとくらい。割烹着の遣り手婆がタバコをふかして留守番をしていた。
 さあさあ、とヨーコは中島の腕を引く。カウンターの前を通り過ぎ、店の奥へ連れ込まれた。急な階段を上り、物置兼廊下を奥へ、行き当たりの部屋の戸を開けた。
 ヨーコは裸電球を点けた。部屋は二畳間、押し入れを含めて、やっと三畳か。
「これ、クラブで歌ってた頃の?」
 中島は衣紋掛けのドレスを指した。スパンコールでキラキラ光るタイトなワンピース、下には白いハイヒールの靴が置いてあった。
「残ってるの、それだけよ」
 ヨーコは頷き、店からビールの小瓶を持って来た。
 また、中島は部屋を見渡した。窓は板で塞がれている。隙間から、外で客を誘う声が聞こえてきた。
「チェジュから逃れて、初めて来たのが、この街だったの」
「ここが、初めての日本なのか」
 6年前、済州島で騒乱が起きた。島の女はなぶり殺し、男は皆殺しな状況。キム・イルソンに案内されて、日本へ脱出した。船から船へ乗り継ぎ、上陸したのは横浜だった。その後、男は寿町へ、女は黄金町へ送られた。着いてみると、多額の借金を負わされていた。キム・イルソンはジン・ヨーコを色町に売ったのだ。
「一生懸命働いて、借金を無くして、オモニと町を出た。でも、また帰って来ちゃった」
 ははっ、ヨーコは自嘲の笑い。立ち上がり、服を脱ぎ始めた。
「待ってよ。おれ、こういう所の相場は知らないから、手持ちが」
 中島は財布を開いた。中には大の札が2枚あるだけ。ヨーコが見て、その2枚を取ってしまった。
「おっと、帰りの電車賃が必要だよね。ハルさんは特別だし、これから贔屓にしてね」
 ヨーコは札の1枚を返してくれた。そして、服をぬぎ、下着も取った。少し太ったのか、腹の肉がゆるんで見えた。
「ハルさんも脱いで。それとも、あたしが脱がしてあげようか」
「いや、自分で脱ぐよ」
 ここまで来れば、覚悟を決めるしかない。中島は上着を脱ぎながら、またヨーコの体を見た。電球のせいか、黒ずんだ乳首が気になった。
 その夜は終電車を乗り継ぎ、ぎりぎりアパートに帰る事ができた。

 2月28日(アメリカ・ワシントン時間)、アメリカは太平洋ビキニ環礁にて実用水素爆弾の実験を行った。キャッスル作戦の内、ブラボー・ショットは8メガトン以下の爆発を予定していた。しかし、実際には倍の15メガトンと言う大爆発となった。当時、この大爆発は成功の内とされた。
 この爆発コアを使った水素爆弾はMark−17と呼ばれた。全長7.5メートル、直径1.5メートル、重量18トンと怪物級だ。
 


29年3月


 3月1日、太平洋ビキニ環礁周辺にて、大量の放射性降下物が報告された。ブラボー・ショットが予定外の大爆発だったせいだ。
 水爆は地上に設置されていた。爆発は島を吹き飛ばし、直径2キロ、最大深さ80メートルの穴を作った。大量の土砂が空中に舞い上がり、放射能を帯びて降って来た。
 日本の漁船、第5福竜丸はアメリカ軍が設定した危険区域の外で操業していたが、もろに降下物を浴びてしまった。

 共同炊事場で顔を洗って、中島は廊下で足を止めた。
 カタタンカタタン、奥の部屋から機械の音が聞こえてきた。以前はヨーコがいた部屋だ。
「行ってきます」
 戸が開いて、若い女が出て来た。目が合い、あわてて頭を下げた。
「こんにちは。あっ、初めまして、そこの部屋の中島です」
「飯田です。撮影所に届け物なので、失礼します」
 女は玄関へ急ぐ。
 中島は呆然として見送ってしまった。と、部屋の中から声をかけられた。
 ミシンを止め、年増の女が出て来た。深々と頭を下げてきた。
「娘が失礼しました。飯田でございます。引っ越したばかりですが、仕事が立て込んでしまって」
「撮影所に?」
 聞けば、東宝撮影所の衣装部から繕い物を請け負っているとの事。大部屋俳優としては、いっぱい世話をかける人たちになる。
 今出かけたのは、娘の明子。部屋でミシンをしていたのは、母の恵子。父は戦死して、母子家庭らしい。
 あの娘とは、撮影所で会えるだろう。中島は春の予感を胸に、今日の出勤へ準備を始めた。

 3月14日、第5福竜丸が静岡県焼津港に帰った。
 乗組員は原因不明の病で苦しんでいた。急性の放射線障害だった。当時は「原爆病」と呼ばれた。

 中島は安西組へ配された。配役票では『怪談・金貸し算右衛門』とある。が、中島の役名が無い。セリフは無い、と脚本をもらう前に分かってしまった。
 夏場、7月から8月にかけて公開される作品は、この時期に制作がスタートする。場合によっては、地方から先に公開が始まる場合があるからだ。
 撮影のセットが配役票に無かったので、とりあえず安西組の詰め所へ行く。セカンド助監督が待っていた。本格的なクランクインは、まだ先のようだ。
 助監督に連れられ、特殊効果の棟へ行った。安西監督、ファースト助監督にカメラもいた。
「中島くん、来たね。さあ、1の衣装と化粧をしてくれ」
「1の?」
 言われて、掲示板を見た。画がいっぱい貼ってある、幽霊や亡霊の画だ。ピクトリアルスケッチと言うものらしい。
 イスに腰掛け、化粧係に顔をまかせた。傷を書き込み、腫れ物を付け、乱れた髪のカツラをかぶる。ボロボロの着物を身につけ、幽霊の出来上がりだ。
 衣装係に見覚えがあった、同じアパートの飯田明子だ。
 幽霊となった中島は黒バックの前に立つ。実は、スクリーンプロセスや合成の素材を撮るのが今日の目的らしい。
 今日の撮影は特殊効果のカメラマンがするので、安西組の冬馬は横で見るだけ。
 特殊効果を仕切る親爺は50過ぎ、円谷英二だ。ポーズをとる中島に、幽霊らしく肩をすぼめろ、背を丸めろと注文を付けた。かつては、一般映画の撮影を務めた事もある映画の職人、単なる特殊効果の親爺ではないのだ。
「1は終わり。次は、2の衣装で撮るぞ」
 安西監督も特殊効果は初めてらしい。全て親爺にお任せの様子。
 中島はイスに腰掛け、1の化粧を落とす。2の化粧は片目が飛び出し、唇がただれていた。
 1は斬殺死体、2は首吊り自殺、3は水死体、4は焼死体で・・・それぞれ幽霊にも物語が設定されていた。
 少ない俳優を演出で多く見せるのも監督の腕の内、安西は中島を選んだ事に自信を持っていた。しかし、何事にも限界はある。5の幽霊を撮ったところで、我慢しきれなくなった。
「幽霊が男だけと言うのも・・・おおっ」
 安西は衣装を用意している飯田明子に目を付けた。
「きみ、幽霊できるよね。セリフは無いし、立ってポーズを取るだけだから」
 強引に幽霊の化粧を施し、乱れ髪のカツラをかぶせて、女の幽霊を仕立てた。6と7の幽霊は明子がした。
 現場でスタッフが役者に混じる事は、モブシーンなどで良くある。セリフが無いと、出演料は出ないけれど・・・

 夕刻、アパートに帰ると、電報が来ていた。差出人は故郷の兄、発信の日付は昨日である。

 ハハ、シス

 短い言葉。だが、心臓が止まりかけた。四畳半の部屋で読み返す、全身の力が抜けて突っ伏した。
 翌朝、演技協社の事務に休みを通告した。小さなカバンを手に駅へ、足が重い。売店で新聞を買い、蒸気機関車に乗った。
 車窓を過ぎ行く景色をながめながら、水爆マグロの記事を読んだ。第5福竜丸の船員は、全員が入院したらしい。入院したくらいでニュースになるとは、天皇陛下や皇太子殿下でもあるまいに、なんとも平和な風景だ。
 もしも、この手に水爆があって、それを使えば母が生き返ると言うなら・・・使ってやる。他人が何人死のうとかまうものか・・・つい、不遜な考えが頭を過ぎる。実際、そんな事をしたら、母に叱られる。他所様に迷惑をかけるなっ、と頭を叩かれるだろう。いや、叩かれるくらいで済むなら、水爆くらい何発でも・・・
 ぐるぐる、思考は堂々巡りするばかり。
 山越の夜行列車の車内は、故郷が近くなるにつれ人が減っていった。明るくなり、酒田が近くにる頃には、席の半分以上が空いていた。
 酒田着は、ほぼ時刻表の通りだった。山に雪が残る季節であり、少しくらいの遅れは北国の常識として覚悟していたのに。
 早く着いても、喜びは無い。むしろ気が重い。
 とぼとぼと、駅から歩く。実家は遠くない、俯いて歩いた。
 足を止めた。家が近い事は周囲でわかる。顔を上げた。
 中島精肉店は営業していた。店先には若い女がいた、兄の嫁さんだ。彼女が気付いて手を上げた。
 嫁さんに呼ばれ、兄の哲夫が出て来た。
「春雄、帰ったか。昨日は休んだが、今朝からいつも通りにの。母ちゃ一人抜けただけで、倍も大忙しだあの」
「肉はナマ物だからの」
 店を3年手伝ったから、春雄は商売の事は熟知している。
 見慣れない女が店の中にいた。実は、嫁さんの母親が来て、仕事を手伝ってくれていた。母がいなくなっても、ここに春雄の居場所は無い。
 嫁さんの腹が大きくなっていた。生まれるのは夏頃になる。故郷は変わっていく。
 仏間に上がると、仏壇に位牌が増えていた。言葉無く、ただ手を合わせた。
「こんなんがあったでの」
 哲夫が衣装箱を出してきた。箱の表に「春雄」と書いてある。
 去年の秋に帰った時、置いて行った服が箱の中身だった。破れかけだった袖も裾も尻も、きれいにツギが入っていた。
「母っちゃ・・・」
 言葉に詰まる。
 その日、家族で映画館へ行った。『さらばラバウル』の出演者の中に「中島春雄」の名を見つけ、ハルは手を合わせた。帰って来て、疲れた・・・と言って横になった。少し休むだけ、と皆は思った。
「いつまでも起きて来んので、呼びに行ったら、もう・・・」
「そっか、見てくれたんか」
 これからが親孝行のし時、と思っていた。だが、母は逝ってしまった。
 その日、春雄は仏間に寝た。
 翌日、母が入った中島家の墓を参った。そして、昼過ぎの列車で、また東京へ向かった。
 手には母が作ってくれた衣装箱。兄に言って、母の位牌と小さな写真を分けてもらった。荷物が軽い・・・けれど、とても重い。
 列車が南へ走る。故郷が彼方に去って行った。  

 東宝撮影所に不穏な噂が流れた。準備中の大作の企画が頓挫した・・・らしい。このままでは、秋以降の興行に穴が開きかねない。
 先月末、ようやく『七人の侍』がクランクアップし、一息ついた矢先の問題発生だ。またしても、撮影所の所長が辞表を準備したとか、しないとか。
 桜の季節が来たが、今年は花散らしの風が強いかもしれない。


29年4月


 中島春雄の四畳半には小さな茶だんすがある。その上に母の写真と位牌を置いた。信心深い訳ではないので、仏壇の体裁は知らない。けれど、母への思いは形より心と割り切った。
「母っちゃ、今日も行ってくるでの」
 ぱん、と手を打って会わせた。
 部屋を出て、廊下を行く。奥の部屋からは、早くもカタタンカタタンとミシンの音が聞こえた。

 中島春雄は渡辺組に配された。配役票の作品名は『暗黒街の堕天使』だ。今回もセリフは期待無しだ。
 バスで移動、街外れの田圃の中に来た。
 さて、題名にある「堕天使」になり損ねた男、谷戸がオンボロ車で逃走中の場面。左わき腹の傷がうずき、シフト操作を間違えてエンスト、車は田圃の真ん中で立ち往生。谷戸は車を捨てて走ろうとするが、傷でふらつく。あぜ道を走ると、痛みに身を屈めた。
「はい、そこでストップ。中島くんと交替」
 渡辺監督の号令で、カメラはストップした。谷戸を演じる俳優もポーズしている。中島はカメラの後ろから出て、谷戸の位置へ行く。ポーズをまね、左わき腹を手でおさえた。
「はい、それでは・・・用意」
 監督が号令をかけようとした。が、助監督が両手を上げて待ったをかける。若いが、周りが見える助監督である。
「陽が陰ります。しばらく、そのまま」
 中島は空を見上げた。流れる雲が太陽にかかろうとしていた。
 撮影現場が雲の影に入った。急に空気が冷えて感じた。
 助監督が中島に駈け寄る。ヤカンと湯飲みを持って来た。
「水と手ぬぐいは十分あります。思い切って落ちて下さい」
 へへ、中島は笑みで足元の泥田を見た。朝方に雨があったのか、水は濁っている。まだ田植え前、水を張って土に馴染ませている時期だ。
「ちょっと考えたんだけど」
「何でしょ」
「落ちて、ぱったりと動かなくなるか。それとも、少しジタバタした方が良いか、と思って」
 脚本を見れば、泥田に落ちて動かなくなる、としか書かれてない。そこにディティールを加えるのが俳優の演技だ。
「1,2くらいは手足を動かしても。けれど、ゴキブリのように、いつまでも這いずり回らないで下さいよ」
「了解です」
 雲を見て、助監督はカメラの所にもどる。中島もボーズを取り直した。
「もうすぐ雲が切れます。みなさん、用意願います」
 助監督の声が現場を引き締める。カチンコがカメラの前に差し出された。
 雲が通過して、また辺りが明るくなった。
「はい、スタート!」
 監督の号令が来た。中島はそろりと足をあぜ道から落とす。と、ずるっ、足元が滑った。
 ああっ、小さな声を上げてしまった。
 しかし、体勢は立て直せない。崩れるように、中島は泥の中へ落ちた。ずぶ、左足が沈んだ。体を支えようとした左手も泥の中へ沈む。
 助けて、と右手をかざす。が、カメラが回っているのを思い出した。
 右手を落とし、身を泥の上に置いた。片手片足は沈んだままだが、体まで沈む様子は無い。
 ゆっくり息を止めた。脚本に従い、死んだ演技をする。
 1・・・2・・・3・・・じっとして数えた。なかなか、カットの声が来ない。
「はい、カット」
 監督の号令が出た。ぱちぱち、中島の演技を誉める拍手。応えるように、中島は右手を上げて振る。
「中島さん、出て下さい。もう良いですよ」
 助監督の声に、また中島は手を振る。振り方が変、と誰もが気付いた。
「助けて、ちとあんべ悪りい。ここ、底なし沼だ」
 重い泥が中島の左手と左足を捕らえて、抜くに抜けない状態になっていた。
 水を入れた直後の田は、泥の固さや深さが均一になっていない。田植えまで、泥を平らにする作業を何度も繰り返す。
 中島は馴らされていない泥田に体を沈めてしまった。
 ロープを投げてもらい、なんとか脱出した。

 仕事の帰り、アパートの玄関で、中島は寺田と鉢合わせした。いつものように、寺田は新聞と本を両手に抱えていた。
「撮影所のお偉いさんに調べ物を頼まれてしまった」
 へー、と中島は声を返し、やり過ごそうとした。が、考え直した。明日は休みだ、寺田の調べ物に付き合う事にした。
 大部屋俳優として4年過ごした。これから先も映画界で食っていくとして、そろそろ別の道を模索すべき時と思っていた。
 寺田の部屋で集めた資料をスクラップにして整理する。原爆関係の記事が多かった。ビキニでアメリカ軍が行った実験の記事もある。
「15メガトンの水爆・・・どれくらいの威力なんだ?」
「広島の原爆の1000倍の威力、そう言う意味だ」
「1000倍・・・」
 中島には理解し難い数字が並ぶ。寺田は事も無げに答えた。
 広島型原爆では、空中に摂氏6000度のプラズマ火球が出現した。火球の直径は300メートルと推測される。
 1000倍の威力を持つ水爆ならば、火球の体積は1000倍になり、直径は3000メートルにもなる。火球の内部は原子すら破壊されるプラズマ状態だ。爆心から5キロの距離でも、鉄をも溶かす1000度以上の高温になる。15キロ離れた所に立つ人でも、露出した肌が重度の火傷を負うだろう。しかし、熱線は水爆の威力の第一段階である。
 次ぎに衝撃波が来る。火球から来る衝撃波と、地面を這うようにして来る衝撃波がある。地上にある物は、二つの衝撃波に吹っ飛ばされる。
 地を這って来る超音速の衝撃波は、熱線で数百度になった瓦礫や土埃を伴う。火砕流のようなものだ。
 爆発から10秒ほど過ぎると、熱線は弱くなり始める。火球が縮小しながら上昇するので、爆心は急に負圧となる。爆心に向かう風で、地上の物は吸い込まれるように爆心へ飛んで行く。爆心に向かった風は中心でぶつかり、反転して第3の衝撃波となる。
「メガトン水爆の一発で、関東平野は火の海の底に沈む・・・そういう事さ」
 寺田が笑う、怪談に出て来る幽霊のような凄味を効かせて。
「昔、日本軍が南京でやった時は、現場の兵隊が汗水たらして、返り血浴びて、手足が動かなくなるほど頑張ったのに。アメリカやソビエトさんは、爆弾のたった一発で、それ以上の事をできるのね」
 中島が茶化して返した。寺田は含み笑い、別の何かを思い付いたようだ。
「南京ではね・・・駐屯していた日本軍1万余が人口10万人の都市で、20万人を殺した事になってるらしいな」
 日中戦争の最中、南京で起きた事件には諸説が入り乱れ、多様な数字が飛び交っていた。一応、東京裁判の数字が既定事実としてされるが、各方面に異論が存在する。
「中国だもの。役所が把握していた合法的人口が10万としても、他所から来て勝手に住んでるのが10倍いて不思議じゃないさ」
「日本軍が動員できた兵力の最大数は2万5000人ほど。そこからからすれば、身元を確認できる犠牲者が1500人余りと言うのは説得力がある。何年もかけた事業じゃない、1ヶ月ほどの出来事だからね。軍隊の論理からすれば、短期間に20万人を殺すには3倍以上の兵力が必要になるはずだ」
「そんな、日本中の陸軍を集めたって、そんな数にならないよ」
 東京裁判が間違っている、寺田は確信している様子だ。
「アメリカは東京大空襲で、広島を原爆で、一晩で一瞬で、10万人以上の市民を殺した、何度も何度も。アメリカ軍は残虐な軍隊だ。しかし、もっと日本軍は残虐非道なやつらだった・・・そんな事実を連合国は必要とした。だから、作った。南京事件の犠牲者を水増しして、大虐殺に仕立てた」
 中島は首をひねった。事実をねつ造するアメリカと、黒沢監督や三船敏郎をスターとしてもてなすアメリカ兵が重ならない。
「連合国は、ドイツを爆撃して100万人以上の市民を殺した。だから、ヒットラーのドイツは、連合国よりも残虐非道である必要があった。ユダヤ人の虐殺が宣伝されてるけど、300万人の犠牲者は水増しの可能性があるぜ」
「むう・・・」
 中島には反論の材料が無い。しかし、寺田の言い分に納得できるものでもない。
「戦争に勝ったから何でも言えるし、何でもできるんだよな。大切なのは、まず、戦争に勝つ事だ」
 なんとか、中島は言葉を絞りだした。寺田も頷いた。
「次ぎに戦争が起きて、アメリカとソビエトが原爆水爆を落とし合う戦争なら、3日で終わる・・・と、誰かが書いてた。そして、その次の戦争は棍棒と石の戦いになる、とも」
「3日? 昔、日中戦争は3ヶ月で終わる、と偉い人が言ったはずだよ」
「実際には、10年以上もかかって、負けたんだっけ。そこから計算するなら、原爆と水爆の戦争は4ヶ月以上もかかる。血を吐きながら走り続ける悲しいマラソン・・・だな」
 二人は黙りこくった。
 原爆と水爆の戦争が起きて、双方全滅になるとは限らない。第1次大戦のように、また第2次大戦のように、どちらかの陣営の一方的勝利になる事もありうるだろう。その後、裁判の場で、勝った方は負けた方を残虐非道と貶めるのだろうか。

「今日から特殊技術の方ね」
 演技協社の事務はぶっきらぼうに言った。配役票には作品名も監督名も無い。
 さて、中島春雄は撮影所の中をてくてく歩く。特殊技術は昨年出来たばかりの部署ゆえ、その棟は撮影所の端っこだ。『さらばラバウル』の撮影以来、何度も行った事があるので、迷う心配は無い。
「おはようございます。中島春雄です、よろしくお願いします」
 ドアをくぐり、元気な声であいさつした。
「ああ、きみが中島くんか。円谷だ、よろしく」
 眼鏡の年寄りくさい親爺が話しかけてきた。実は、特殊効果の長、円谷英二だった。すでに何度か会っていたが、名乗り合うのは初めてだ。
 こっち、と部屋へ案内された。壁一面に画が貼ってあった。どれも何か怪物を描いてあるように見えた。怪物がビルディングを破壊している図だ。ピクトリアル・スケッチと当時は呼ばれていた。
「今度、こういうのが暴れる映画の企画が持ち上がったんだ。けど、こいつをどう動かしたら良いか、見当がつかない。そこで、きみに動きを作って欲しい」
「動きを作る?」
 言われて、また中島は画を見た。どの画も同じ怪物に見えない。鬼瓦のような顔があったり、トカゲのような顔もある。怪物の姿が確定してないのだ。
「あのお、脚本では、どう動く事になっているので?」
「いや、まだ脚本は無い。こんな怪物が東京湾に現れて、ついには上陸して、街を壊しまくる。決まってるのは、そこだけだ」
 粗筋すら無いようだ。
 しかし、映画界では珍しい話しではない。ディズニーのドナルド・ダックは声が先にあって、キャラクターがガチョウに決まるまで紆余曲折、ずいぶん時間がかかったのは有名だ。
「監督は誰ですか?」
「だから、まだ何も決まってないんだ。水爆の影響で、こいつが怪物化して、日本に現れる。今のところ、ここまでだ」
「水爆か・・・」
 中島はつぶやき、また画を見た。姿は不定だが、身長が数十メートルと言うのは一致している。とても大きな怪物だ。アパートの寺田が水爆を調べていた訳だ。
 天井を見上げ、怪物を頭の中に描く。つい、横須賀上空を通過して行くB−29の編隊を思い出してしまった。
「我が輩は怪物である。名前は、まだ無い。どこをどう歩いて暴れるのか、とんと見当がつかぬ」
 有名な小説の冒頭をもじってつぶやき、画だけの怪物とにらめっこした。

 4月26日、東京の東宝系劇場にて『七人の侍』の公開が始まった。
 しかし、これは4時間近い長尺の作品だったので、大都市など一部の劇場に限られた公開だった。輸出と地方向けの短縮版は、今も編集の途上である。

 4月26日、アメリカは太平洋ビキニ環礁で、キャッスル作戦の内、ユニオン・ショットの爆発実験を行った。爆発力は6.9メガトンであった。


29年5月


 5月1日、メーデーの祭りに合わせ、ソビエトは航空ショーで爆撃機ツポレフTu−16を公開した。原爆搭載可能なジェット爆撃機がアメリカやイギリスだけでない事を誇示した。

 中島春雄は今日も上野の動物園に来た。怪物の動きを作れ、と依頼を受けた。人間ではない動物たちの動きを見て、真似ようと考えた。
 ゴリラは止めた。真似たらキングコングになってしまう。二足歩行のトカゲはいないので、代わりを探す。あれこれ見て、象の前足の動きに注目した。すり足にも似た足の運びを、オリの前で観察した。
 飼育係や警備員、他の客が変な目で見る。しかし、こっちも仕事だ。
 午後、撮影所の特殊効果へ顔を出す。円谷の前で動物たちの動きを再現して見せた。
「よし、明日はフィルムに撮ろう」
 円谷が言った。中島に求められたのは、今で言うところのモーションアクターだった。だが、当時はデジタイズ装置が無いので、フィルムからロトスコープで取り出す事になる。1コマづつの手作業だ。
 ディズニーが『白雪姫』をアニメ化する時、より自然な人間の動きをアニメに取り込むため、ロトスコープを使った。以後、人間が主役の作品ではロトスコープを使い続けた、声優とモーションアクターが一致する場合は少なかったが。
 怪物の人形が作られていた。全身が鱗におおわれて、背丈は50センチほど、さらに尻尾が40センチ。ロトスコープで取り出した動きを、この人形で再現する計画だ。

 中島は簡易の怪物衣装を着た。手足は鱗が描かれて、帽子の上に怪物の目と口を付けた。尻から尾を生やすようにベルトで固定した。靴には大きな三本の爪、恐竜の足を再現している。怪物のピクトリアル・スケッチとにらめっこし、改めて動きをイメージした。
 今日のカメラは小型の16ミリ、その前で待っていると、どやどや、大勢が現れた。本多猪四郎がいた、監督を引き受けたのだろうか。企画を立ち上げた田中友幸、東宝の重役である森岩雄もいる。
 円谷は重役に頭を下げ、中島の方へ向いた。
「さあ、始めよう」
 中島は頷き、一同に礼をした。そして、ポーズ。カチンコが鳴った。
「まず、周囲を警戒します」
 言って、中島は直立の姿勢。動物らしく、やや膝を曲げた立ち。脇を締め、ガードを下げたボクサーのように両腕を腹のあたりに置く。頭を左右に振って、周囲を見渡す。頭の動きは間欠的にする、動物園で見た動きだ。
「獲物を見つけ、近寄ります」
 中島は体を90度屈め、肩を揺らして歩く。尻尾はぴんと立った。
「敵に襲いかかります」
 柱を敵に見立て、中島は低い姿勢のまま頭突きをかました。帽子に怪物の口があるので、噛み付いたように見えるはずだ。ごつんごつん、何度か頭突きをした後、ゆるりと後退した。倒れた敵を確かめるように、頭を床に近づけた。
「はい、ストップ」
 カメラが止まって、円谷が声を出した。フィルムのロールを使い切ったのだ。
「これを作るとして、公開はいつ頃かね?」
「中止になった『栄光のかげに』と同じく、秋から年末に。早ければ10月、遅くとも12月で」
 森の質問に田中が答えた。
 ぎくっ、円谷は眼鏡を直した。先月、田中から話しを持ち込まれた時には、公開時期は想定していなかった。
「できるかい?」
 森は円谷に話しを振った。
「やり方次第です。まず、脚本を出していただいて」
 平静を装って答えたが、円谷は胸を押さえた。やってみたかった分野であるが、キングコングは作るのに7年もかけた作品だ。
 ちょっと、と本多が中島を手招きした。
「さっきの、周囲を見るの、やってくれ」
 中島は頷き、周囲を警戒する直立のポーズをとった。
「よし、そのまま」
 本多が言うので、中島はポーズで直立したまま固まった。
 腰を落として、本多は中島をぐるりと回って見る。前で止まり、イスを持ち出した。
「これ、ビルディングね」
 左右にイスを置き、その間から中島を見上げる。胸ポケットからタバコの箱を出し、床に置いた。
「これ、人だ」
 さらに本多は視点を下げる。ついには、床に寝転がって中島を見上げた。
 円谷も同調し、床に寝転がった。田中は上着を脱いで、床にあぐら座りだ。
 まだ視点が高い、と本多は横顔を床にこすり着けた。上の目を閉じて、下の目だけで見た。床を地面に見立て、タバコの箱を人間に、その視点で中島を見上げる。
「夜、怪物が街に現れる。街の灯りは怪物の下半分しか照らさない、上半分は闇の中だ。夜の闇の中に巨人が立っている、そう見える。サーチライトが怪物の顔に当たり、立っているのは人間でないと知る」
 本多の中で、怪物が動き始めた。
「この怪物は水爆の影響で地上に現れる。水爆は人間が作った。だから、怪物は人間のように見える瞬間があって良い。始めから終わりまでトカゲであってはいけない」
「人間のように見えても・・・良い」
 いつもは静かな本多が熱く語った。円谷が復唱し、中島も口の中で復唱していた。
「この怪物が火を吐く場面を作ろう。ただの火ではなく、鉄をも溶かす火だ。原爆の熱線が鉄を溶かしたように、こいつも鉄を溶かすんだ」
「生き物が出す火じゃない」
「ただの生き物じゃない、水爆の具現化だよ」
 むむむ、本多に押され、円谷は口をつぐむ。
 森と田中は乗ってきた本多にご満悦だ。他の監督候補には断られていた。本多にまで断られたら、この企画が挫折しかねない。
 人間のように見える事もあり、鉄をも溶かす火を吐く怪物・・・想像を超える場面をしめされ、中島の頭の中は乱気流状態になった。
「田中さん、いらっしゃいますか。香山さんから至急の届け物です」
 女子事務員の可愛い声がした。大きな封筒を抱えている。
「おおっ、原作が来たか」
 田中は振り向き、立って封筒を受け取る。
 原作・・・と聞いては、本多も円谷もじっとしていられない。立ち上がって、封筒に駈け寄った。
 きゃあああっっ!
 金切り声が特殊効果の棟を揺るがした。悲鳴を上げたのは、封筒を届けに来た女子事務員だ。
 本多と円谷の顔は半分潰れていた。怪物に見立てた中島を見上げ、床に顔を押し付けていたせいで、顔半分が土に汚れて真っ黒け。原爆の熱線を真横から受けたような有様になっていた。

 5月14日、アメリカは太平洋ビキニ環礁にて比較的小型の原子爆弾、ネクター・ショットの爆発実験を行った。爆発力は1.7メガトンほどだった。一連のキャッスル作戦で、最も予定の爆発力に近い威力を示した。
 この爆発コアを使う爆弾はMark−15と呼ばれ、翌年から実戦配備された。

 本多の意見に従い、怪物のデザインはやり直された。恐竜を模した姿から、オリジナルな怪物へと変化した。
 円谷も怪物の特殊効果を変更せざるを得なくなった。プロデューサーが言った公開期日に間に合わせるためには、キングコングのような人形アニメーションは時間がかかり過ぎる。原作を読めば、火や煙や水とからむ場面が多い。小さな人形ではスケール感が出すのが難しい。最小を想定しても、人間が中に入る大きさの着ぐるみが必須と判断できた。
 原型デザイン、人形製作、着ぐるみ造り、全てが同時作業となった。

 夕刻、中島がアパートに帰ると、廊下の奥に見慣れぬ男がいた。飯田の母娘が対応していたが、手招きで助けを求められた。
「以前、この部屋にすんでいた女の人を調べているんですって」
「ジン・ヨーコを?」
 中島が名を言うと、男は警察手帳を出してきた。芳賀と言う刑事であった。
 ちょっと考え、中島は部屋からハガキを持ってきた。彼女からのお誘いのやつだ。
「この部屋を出て、しばらくして来たハガキです。行ってみたら、店は火事で無くなっていました」
「この店は・・・これは放火でした」
「放火?」
 刑事の答えに驚いた。
「で、先日、この女が川で浮いてたので。事件か、事故か、あるいは自殺か・・・と調べております」
「事故か、自殺か・・・ヨーコが死んだ?」
 戦時中でもあるまいに、人が死ぬ原因は多くなかろう。しかし、イヤな言葉を思い出した。
「ヨーコはチェジュの人、国に帰ったら殺される・・・と言ってたなあ」
「ちぇ・・・じゅ?」
「朝鮮の済州島の事です。帝国海軍の軍港があった島、と言うくらいしか、自分としましては」
 海軍の事を語る時、中島は軍隊調の言葉遣いになってしまう。知らず、背筋まで伸ばして言っていた。
「ほう、君は海軍だったか。元陸軍一等曹長、芳賀であります」
「元海軍横須賀訓練所属、中島訓練生であります」
 互いに軍隊調の敬礼を交わした。
「そうか、日本人にしては変な名前と思っていたが、朝鮮人だったか。なら、昨今の抗争事件の延長で調べてみましょう」
 芳賀は礼を言い、静かにアパートを辞した。
 自分の四畳半に帰り、母の位牌に手を合わせた。
 ついでに、ヨーコの冥福を祈った。少なりとも情を交わした女が死んだ、胸に重いものが来た。
 朝鮮人同士の抗争は飽けやらず続いた。この事態を収めるため、朝鮮人の帰国事業が始まるのは翌年の事である。しかし、帰国事業は北側への帰還に限定された。南側の朝鮮人は日本に留まり、残った一部の北側朝鮮人との騒動が続くのだ。


29年6月


「着ぐるみの試着をするよ」
 昨日、中島春雄は言われていた。いよいよ、新しい仕事の本番である。
「お早うございます」
 元気な声で特殊効果の棟に入った。奥のステージの隅に、それはあった。前後左右から木枠で支えられ、着ぐるみは直立していた。
 わおっ、中島は小さく声を出した。怪物の頭は2メートル以上の高いところにある。大きくどっしりした腹と足、そこから上へ徐々に細く、下から見上げた時に、遠近法で背が高く見えるようにデザインされていた。
「お偉いさんが来るので、それから試着ね」
 造形の開米栄三が言った。線は細いが、黒沢明と同じくらいの背丈がある人だ。
 中島はイスに座って待つ事にした。見上げながら、戦艦長門の艦橋の偉容を思った。横須賀にいた頃は、日本海軍の象徴として憧れたものだ。
 しかし、戦後、戦艦長門はアメリカ軍に引き渡された。昭和21年6月、原爆実験クロスロード作戦の標的艦となった。2度にわたる至近距離の原爆攻撃にも長門は沈まなかった。しかし、その後、人目を避けるように、夜の太平洋に姿を没した。
 クロスロード作戦で使われたのは、長崎に落とされたファットマン型であった。空力的に不安定な事が、この実験で明らかになった。命中精度が広島型原爆に劣るとされ、新型原爆の開発が促進された。
 どやどや、人の声が聞こえた。田中プロデューサー、本多監督、特殊効果の長、円谷も来た。中に知らない顔もあった。
「じゃあ、手塚さん、お願いします」
 田中が声をかけたのは、初めて見る顔の男だった。ベテランの顔をしていた。
 手塚勝巳は京都から来たベテラン俳優だ。この企画を知り、自ら田中に売り込んできた。
 ゲテモノと言われかねない企画だけに、誘っても断る俳優が多かった。出る、と自分から言ってくれる俳優は貴重だ。
 スタッフに助けられ、手塚は着ぐるみへ体を入れていった。
 おれは当て馬か・・・中島は肩から力が抜けた。所詮は大部屋俳優、まだ5年とちょっと、新人に毛が生えた程度の男、と自分を蔑んだ。
「よし、オーケイ。枠を外しまーす」
 合図をかけあい、左右の木枠が外された。怪物が支えもなく、自力でたった。
「はい、歩いてみて」
 円谷が言った。が、怪物は反応しない。
「歩いて!」
 開米が口を着ぐるみに寄せ、大声で指示した。着ぐるみが分厚くて、中では外の声が聞こえないのだ。
 こくこく、怪物の頭が揺れた。指示を了解したようだ。
 あふ、中島はあくびをした。頬杖で遠くの怪物を見ていた。
 怪物の体が前後に揺れた。尻尾を引きずるので、やや前傾姿勢をとり、ようやく右足を前に出した。
 次いで、左足を出す。一歩進む度、前傾が深くなり、怪物の背が低くなっていく。
 5歩・・・6歩・・・ついに、怪物は床に手をついた。そのまま、バタリと伏して倒れた。
「どうした?」
 開米が寄って、耳を着ぐるみに当てた。
「動けん・・・助けて・・・出してくれ・・・」
 中から悲鳴にも似た声が聞こえてきた。
 開米がスタッフを呼んだ。着ぐるみの背を開くと、中の手塚が顔を出した。
「重いと言うか、固いと言うか、まるで動けないよ。どこまで試してたんだ?」
「おれが入って、立ったよ」
「立つ、だけ?」
「歩くのは・・・やってなかったなあ」
 開米の説明に、手塚が頭をかかえた。円谷と本多も頭に手をやった。
 怪物の表皮は原爆のキノコ雲がモチーフだ。ゴツゴツとした硬質な感じを出すため、ゴムを焼いて固めて貼り付けていた。それが重さと固さの原因だった。
「見た目だけは、なかなか良いのに」
 本多はため息。スタッフを責める事もできず、スタジオをぐるりと見渡した。と、隅っこのイスに座っている中島を見つけた。
 中島は立ち上がり、手招きする本多に歩み寄った。
「きみ、できる?」
「やってみましょう」
 競馬場横のセットで言ったように、軽く答えた。
 手塚が倒れた場所に、スタッフが木枠を組み立てた。えいしょえいしょ、4人がかりで着ぐるみを起こす。木枠を支えるスタッフも入れたら、グロテスクな白雪姫と七人の小人のようだ。
 木枠の支えで、また着ぐるみが直立した。
 中島は上着を脱いで、ついでにズボンも脱ぐ。手ぬぐいを頭に巻いて鉢巻きにした。
 底が平らな下駄を履き、いよいよ着ぐるみに入る。ばりばり、背の開口部を広げるだけで、着ぐるみは不気味な音をたてた。
 右足を入れた。底を確かめるのに、足先を右往左往させて、なんとか一番下を見つけた。左足も同じように足先で探って入れた。
 両腕と頭を一気に入れた。背筋を伸ばし、頭を一番上の帽子状のところに入れた。ずしり、首に重さが伝わった。
「閉めるよ」
 開米が言うと、ばりばり、不気味な音があって、真っ暗になった。のぞき穴も空気穴も無い、密閉状態だ。
 ずしっ、ずしいっ・・・首と肩に重しが乗ってきた。着ぐるみを支えていた木枠が外されたのだ。両足を踏ん張り、重みに耐えた。
 手塚が数歩で潰れた訳がわかった。着ぐるみは重量が100キロを超えていた。立っているだけで、腰と足が痛くなってくる。
 何か聞こえた。
「えっ、何?」
 大声で聞き直す。
 耳をそばだてると、歩け、と微かに聞こえた。外と中をつなぐ通信機が必要と感じた。
 歩こう、と決めて足を踏み出そうとするが、足は着ぐるみにぶつかっただけ。進めない。
 着ぐるみは無視して、とにかく歩こう・・・そう覚悟した。
 うおおおっ、気合いをかけて右足を前に出した。ばりばり、着ぐるみのあちこちで音がした。
 でやあああっ、さらに気合いをかけ、背筋を伸ばして左足を前に出す。ばりりっ、また着ぐるみが音をたてた。
 ばりばり、ばり・・・着ぐるみが悲鳴を上げていた。腹が裂け、脇の下が破れ、股に穴が空いた。中島の声が外に漏れ出てきた。
 うおおっ、たああっ、声を上げながら、中島は歩いた。一歩ごとに背筋を伸ばし、前傾が深くなり過ぎないように注意した。少しづつ息は楽になってきた。ばりばり、何かが裂ける音がしたけど、気にせず歩いた。
 円谷は腰を落として、着ぐるみの後を追う。カメラアングルを探して、前へ後ろへ回って見る。
 本多は四つ這いで着ぐるみを追う。床すれすれの視点から着ぐるみを見上げ、すでに気分は本番のよう。
 ごとっ、何かにぶつかった。ごっ、頭がぶつかる、足もぶつかった。前に進めない。
 ぱんぱん、誰かが着ぐるみをたたいた。
「壁だよ、止まれ」
 開米の声だ。中島は足を止めた。
 ばりばり、また音がして、着ぐるみの背が開いた。
「ああ、もう、ボロボロにしやがった」
 開米が顔を出した中島に言った。
「もう少し、柔らかく作って、動きやすいようにしないと。これでは、撮影で使えないよ」
「そうですね。破けたところにマチを当てて、蛇腹のようにすれば、動きやすくなるでしょう」
 円谷の意見には、開米も反論できない。
「空気穴と外を見る穴も」
 ふうっふうっ、中島は息を大きくつきながら言った。振り返れば、10メートル以上歩いたようだ。歩いた後には、着ぐるみから剥がれて落ちた皮膚の断片が列になっていた。
 本多は背を壁につけて座っていた。
「そうかあ、こんな風に怪物は吼えるのかあ」
「いいえ、吼えていたのは中島春雄です」
 中島は監督の言葉に反論した。うん、頷きが返ってきた。
 手塚が着ぐるみから出るのを手伝ってくれた。
「よくやった。こいつはお前のものだ」
 ベテランが肩をたたいて、新米に役を譲ってくれた。
 この日、脚本の準備稿が特殊技術に渡された。『G作品』と仮題が付けられていた。まだ、怪物に名前は無い。

 6月22日、アメリカ軍横田基地に6発のジェットエンジンを持つB−47爆撃機の編隊が展開した。原子爆弾搭載の爆撃機にジェットの時代が来た。
 6月25日、試作爆撃機YB−60の飛行試験が終了した。B−36の機体を流用し、翼を替え、ジェットエンジンにした機体だ。しかし、より大きく速い爆撃機をアメリカ軍は求めており、不採用とした。

 準備稿に基づき、新しいピクトリアル・スケッチが描かれた。
 東京湾で船を襲う怪物、街に上陸してビルを壊す怪物、火を吐いて鉄塔を溶かす怪物・・・全てが具体化してきた。
 中島は会議に参加し、怪物の動きを頭に入れた。
 着ぐるみは新しいのを製作中だ。また半月ほどかかる予定だ。


29年7月


 外の特殊効果用グランドで土嚢を積んで列を作る。中島も手伝った。俳優から土方になった気分だ。
 土嚢の列の下側をセメントで固めれば、簡易のプールが出来上がる。
 去年の『太平洋の鷲』の時から作りためた船の模型を浮かべれば、怪物が暴れる東京湾に見立てた水面になった。東京湾は内海なので、あえて波を立てる必要が無い。
 脚本に従い、夜の東京湾の場面。屋外オープンセットの撮影なので、もちろん夜に行う。プールの後方、ホリゾントには照明を当てず、夜の空に見立てた。ホリゾントと照明の効果は、円谷が一般映画のカメラマンをしていた頃からの技巧だ。夜の場面は特殊効果を入れ易い。
 中島が壊した着ぐるみは、上半身と下半身、尻尾と三つに分割された。湾内の場面では、怪物は上半身しか現れない。上半身と尻尾があれば撮影は可能だ。
 尻尾をテグスで吊し、水上に引き出す。龍が暴れるような画面になった。
 その尻尾の根元、実際にはつながってないのだが、つながって見えるように上半身を沈めた。水上には背びれがあるのみ。
「よし、そこで起き上がって」
 円谷の指示で、中島は上体を起こそうとした。が、重い。水が着ぐるみの中に入り、重さが倍になってた。
 ひざを折り、頭だけを水上に出した。
「だめだよ、胸から上を出すんだ」
「水が重くて、立てません」
「ああ、水か」
 中島の訴えに、円谷は少し考えるポーズ。
 圧縮空気のボンベがプールの横に置かれた。つないだホースは重りを付けてプールの底を這わし、着ぐるみの中に端を固定した。
「はい、スタート」
 円谷の号令でボンベのバルブが開けられた。着ぐるみの中に空気が入ってきて、急に浮力が大きくなった。
 倒れる・・・中島は両足を踏ん張り、着ぐるみを支えた。浮くまいと、逆に腰を落とした。着ぐるみの下から漏れた空気が、周囲に泡を作り、水面を暴れさせた。
 船の模型が波にもまれ、転覆しそうに傾く。その近く、暴れる水面に、怪物が立ち上がった。
 どうだ、と円谷は拳を掲げた。
 東の空が明るくなってきて、この日の撮影は終わった。
 模型を並べ、市街地を作るのには手間がかかる。怪物の東京上陸場面が撮影出来るのは来月になるだろう。

 早朝からやっている弁当屋で飯を買い、中島はアパートに帰った。昼間は寝て、夕方になったら出勤だ。
 弁当を食べ、布団の上で横になり、脚本の準備稿の第二稿を読んでいたら、もよおした。本を持って便所へ、読みながらふんばった。
 うーむ、うなりながら首を傾げる。
 便所から出て、また首をひねる。
 寺田が中島を見て笑った。
「いよお、熱心だね」
「いや、ちょっと納得できない所があってね」
「どこが?」
 中島が首をひねったのは、孤独な研究を続ける科学者が作った兵器だ。軍隊がロケット弾や機関銃で攻撃しても平気な怪物が、たかだか一個人が作った兵器で退治されてしまう・・・軍隊経験者として、どうにも納得し難い。
「怪物が一匹だけだから、あり得ない事じゃあないよ」
「そ、そうかなあ・・・」
「ほとんど一人で、あるいは少人数で超兵器を作った例はあるからね」
 寺田は部屋へ中島を招いた。積み上げた資料の山から、フリッツ・ハーバーとルイス・フィーザーの文書を引っ張り出した。
 フリッツ・ハーバーはドイツのカールスルーエ大学の教授だった。アンモニア合成法を確立した優れた化学者である。第1次世界大戦が始まると、軍から兵器開発の要請を受けた。砲弾に何らかの薬剤を入れ、威力を増す研究をした。ハーバーは、空気より重い毒性ガスをボンベから直接散布する方法を提案して、軍は受け入れた。化学者として、人体に有害なガスを合成するのは簡単だった。戦争でなければ、失敗作として捨てられるはずの毒性ガスは、こうして兵器として世に出た。
 しかし、すぐフランス軍も同様の毒ガスを開発、兵器として使い始めた。こうして、戦争は毒ガスの撒き合いになった。両軍で9万の兵が死んだ、と云う。負傷者は100万人を超えた。
「ハーバーは研究室で毒ガスを作った、少人数の助手がいただけだ。軍が認めたので、毒ガスは工場で作られるようになった。この時に、多くの人間がかかわった」
「毒ガスを作るだけなら、研究室で十分か」
 中島は頭をかき、ちょっと納得。しかし、また首を傾げ、まだ納得しきれない自分を考えた。
 アメリカのハーバード大学で化学教授をしていたルイス・フィーザーは、軍から安くて効果の高い兵器の開発を相談された。アメリカ国内に豊富にあり、かつ安価な材料として、ガソリンに目を付けた。ガソリンの粘度を増し、簡単には流れたり蒸発しないようにした。ドロドロのゲル化したガソリンは小量の火薬でまき散らしても、高温でゆっくりと燃えた。
「ネバネバのガソリン?」
「東京大空襲で使われた新型の焼夷弾、ナパームだよ!」
「東京の・・・大空襲で!」
 中島は正月の出来事を思い出した。本多監督は言っていた、次は東京大空襲をやりたい、と。
 東京への空襲は、毒ガスや原爆も使用の候補となっていた。ナパーム焼夷弾による攻撃は、毒ガスや原爆以上の威力を現した。昭和20年3月10日の空襲では、死者は8万人以上、火災の被災者は100万人以上と云われる。
「フィーザーは大学の研究室でナパームを作った。実験は大学構内のグランドでやった。この段階まで、係わった人数はごく少数だ。原理ができてしまえば、後はアメリカの工業力で大量生産さ」
「なる・・・ほど」
 脚本を開いた。こちらの科学者には軍隊や工場の支援が無い。だから、作れたのは1発だけ。納得がいった。
「戦後、ハーバーはノーベル賞を取った。フィーザーはアメリカ議会から金メダルを授与された。それぞれ、お国の英雄になった」
「こっちの科学者とは、えらい違いだ」
 脚本の科学者は英雄になる道を捨て、自分が作った兵器と心中してしまう。怪物退治に栄光は無く、悲劇だけがある。

 本多監督と田中プロデューサーを招き、撮り始めた特殊効果の試写が行われる事になった。中島も手塚と共に同席した。
「まず、鉄をも溶かす火を吐く怪物と言う事で、こんな場面を作ってみた」
 円谷が説明して、映写機が回った。
 闇に浮かぶ送電線の鉄塔、強い光で照らされている。と、鉄塔がグニャリと曲がり、倒れてしまった。
 ああっ、本多が嘆息をもらした。
「こいつはすごい。準備稿には無い場面だけど、なんとかして入れよう」
 うん、円谷は満足げに頷いた。
 ロウ細工で鉄塔を組み上げ、強いライトで炙る。それをコマ落としで撮影した効果だった。
「次は、東京湾で暴れる怪物だ。人物の場面では、仮の画を入れてある」
 円谷が合図して、別のフィルムがかけられた。
 夜の水面、怪物の頭の上半分と背ビレが水面を行く。貨物船の横を通る。
 船の操舵室、船員は気付かない。ここは仮の画、『太平洋の鷲』のNGフィルムを流用していた。
 波を立てて怪物が立ち上がる。甲板で驚く船員たちは仮の画、今度は時代劇のフィルムから流用だ。
 ボン、と爆発するように船は火に包まれ、沈没していく。怪物は背ビレを水面に出したまま、悠々と去って行く。
 本多は腕を組み、首を傾げている。
「ダメだな。怪物が小さく見える」
「いや、縮尺は合っているよ。東京湾の深さを25メートルとして、水面に出ている怪物の身長は50メートルの半分で25メートル。船の長さは100メートルで」
「尺は関係無い」
 理詰めで行こうとする円谷に、本多は反論した。
「怪物は、常に見上げるほどの大きさでなければいけない。それが怪物の強さを、恐怖をもたらす」
「しかし・・・」
「船員が操舵室から怪物を見下ろしていた。あれは、ああいう事は絶対いけない」
 むう、口を尖らせて円谷は不満をかくさない。
「そこの、お前も何か言えよ。主役だぞ、これの」
 本多は振り返り、後ろの中島に言った。突然の事で、中島は反応できない。
 手塚が中島の肩をたたいて、よし、と声を返した。
 準備稿の第三稿をもらった。怪物の名前が「ゴジラ」と表記されていた。

 アパートに帰り、中島は母の位牌に手を合わせた。
「母っちゃ、おれは主役をやるぜ。顔は出ないけど、セリフは無いけど、主役だ。監督が言ってくれたんだ」
 祈りながら頭を下げた。涙がこみ上げてきた。


29年8月


 仮題「G作品」の配役は困難していた。
 ここはプロデューサーの腕の見せどころだ。田中は東宝の演技研究生の中から、背の高い二人を呼び出した。「G作品」の脚本から抜粋した場面でカメラテストを行う事にした。
 南海サルベージの事務所の場面、若い二人が出会う。宝田明と河内桃子は、ここで初めて顔を合わせた。
 本多は二人に満足し、このフィルムを使う事にした。
 配役が成って、脚本の決定稿「ゴジラ」が出来上がった。

 8月5日、ジェットエンジン8発のB−52爆撃機の量産型が初飛行した。怪物的な水素爆弾Mark−17を2発も搭載して、太平洋を無着陸で横断できた。アメリカの核包囲網が空からソビエトを包み込もうとしている。

 本多猪四郎を監督とする「ゴジラ」の製作が発表された。
 新聞雑誌向けには、ゴジラの原型人形を撮った写真を加工した物が公表された。怪物が東京の銀座で暴れる、そんな内容が分かる写真だ。
 プロデューサーと監督に連れられ、主演の3人が特殊効果を訪れた。宝田明、河内桃子、平田明彦、いずれも新人と言って良い。
「今度『ゴジラ』で主演を勤める宝田明です、よろしくお願いします」
 大きな声が響いた。20才になったばかりの青年は、背も高いが声も高い。
「どあほっ!」
 ドスの効いた声が返ってきて、宝田は身を固くした。
「ちゃんと脚本を読め。主役はゴジラだ!」
 手塚がベテランの貫禄で怒鳴り返したのだ。その手で中島の肩をつかむ。
 円谷が歩み寄り、3人に優しく声をかけた。
「ゴジラが生きるも死ぬも、君たち次第だ。しっかり頼むよ」
 はい、と強く返事して、宝田は頭を下げる。河内は笑みを絶やさない。平田は特殊効果のカメラやセットに興味を示した。3人とも、すでに役が入っている。
 いい顔してるなあ・・・遠くから3人をながめ、中島は大部屋俳優の自分を思い出した。

 伊勢の志摩で大掛かりなロケが行われる事になり、エキストラを含めた撮影隊が出発した。合成を使う場面があるので、合成のスタッフも同行した。その間、東宝撮影所では東京の場面の準備が行われる。
 特殊効果では、新しいゴジラの着ぐるみを使って、東京の破壊場面の撮影が始まった。
 夜、外のグランドに模型の街並が現れた。特殊効果にあるのは小さな屋内ステージなので、街のような大きな物は外に作るしかない。
 今夜は国会議事堂の場面、模型の議事堂をゴジラが破壊するのだ。
 議事堂は他の模型とは縮尺が違い、33分の1で作られている。25分の1ではゴジラより背が高くなるためだ。この辺は本多監督の要望に合わせてある。だが、このために、他の模型と並べられない不都合も生じていた。
 照明のセットが終わり、カメラも置いた。中島はゴジラの着ぐるみに入り、スタートの号令を待つ。
「風!」
 係が両手を上げた。円谷も顔を上げ、鼻で風をうかがう。
 ざざーっ、撮影所近くの雑木林が鳴った。静かな夜は、風の音が遠くからでも聞こえる。
 ふわー、微風が模型の街を通り過ぎた。
 屋外のミニチュア撮影は風に敏感だ。縮小された町並みには、そよ風でも大風に化けてしまう。火と煙がからむ場面では、無風が最低条件となる。
 ざざーざーっ、雑木林が揺れて鳴る。押し寄せる波の音にも聞こえる。
 円谷は手でバツ印を出した。風が止むまで休憩だ。
 手塚が着ぐるみの背を開いてくれた。中島は手ぬぐいで顔の汗を拭き取る。
 と、中島を大自然の声が呼んだ。
「すまんけど、ちょっと、便所へ」
 着ぐるみの中には下着だけで入ってる。簡単に上着を肩にかけ、中島は便所へ走った。
「あれだけ汗を出しながら、まだ出す水が体にあるのか」
 手塚は中島の若さに舌を巻いた。
 便所で踏ん張る。けど、なかなか出ない。体から水分が汗で出てしまい、ほとんど腸に残っていない。
 ぽとり、ひとかけらが出て、そこで諦めた。
 腹をさすりながら、中島は現場へもどる。
「あれ?」
 ゴジラの着ぐるみが見えない。スタッフが議事堂の模型の裏に集まっていた。
 円谷が中島を見つけて笑った。
「変だと思ったら、ハル坊が入ってなかったのか」
「すいません」
 中島は走った。議事堂の裏にはゴジラが倒れていた。
 着ぐるみの背が開かれて、手塚が顔を出した。手招きで交替を促す。
「俺には、中島春雄のふき替えは無理だよ」
 手塚が笑って首を振る。中島は頷いた。
 中島が便所へ行くと同時に、風が止んだ。円谷は撮影開始を告げた。中島がいないので、代役に手塚がゴジラに入ったが、何歩も進めずに倒れしまったのだった。議事堂の模型が無事だったので、続く撮影に支障は無い。

 夜が明けて、中島はアパートにもどった。
 撮影所の風呂で汗を流して来たが、帰り道で汗をかいてしまった。四畳半に入る前に、共同炊事場で顔を洗った。
「あら、中島さん、今頃お帰りですか?」
 声をかけてきたのは、飯田の母の方。
「ええ、ここんとこ、ずっと夜の撮影なので」
「大変ですね。夜と言えば、うちの娘が出た怪談の映画を見てきました。あんなにブスに撮らなくても、と娘が怒るやら悲しむやら」
「それなら、男の幽霊は自分です」
「ですってね。中島さんの幽霊は可愛かったわ。素顔が怖いから、幽霊の化粧で見栄えが良くなったのね」
「か、かわいい・・・ですか」
 誉められたのか、けなされたのか、よく分からない気分で四畳半に入った。
 母の写真の前に座り、今夜の撮影を振り返った。
 ハル坊・・・円谷に言われて、懐かしかった。故郷では、母が春雄をハル坊と呼んでくれていた。
「母っちゃ・・・」
 中島は手を合わせ、写真に頭を下げた。

 夜になって、今日も撮影の時間が来た。
 屋外に組み立てられた新しい模型の街は、かちどき橋と隅田川だ。ゴジラが橋をひっくり返し、悠々と東京湾へ帰って行く場面。
 中島は着ぐるみに入り、股下まで水につかる。尻尾が水に浮き、着ぐるみに浮力がかかる。少しだが、動きやすく感じた。
 どっこい、どこからか水が着ぐるみの中に入ってきた。足が重くなり、むしろ動きづらくなった。だあーっ、気合いをかけてセットの川を中を歩く。 
 かちどき橋の模型は議事堂と同じ縮尺、やや小さめに作ってある。ゴジラの巨大さを際立たせるためだ。
 手をかけ、えいやっとひっくり返した。川面に波が立ち、堤防に寄せて砕けた。高速度撮影をしているので、仕上がりはスローになるはずだ。
 これにて、大掛かりな街の破壊場面は終了である。が、特殊効果は道半ば、合成素材が出そろったに過ぎない。


29年9月


 特殊効果の撮影は屋内が主となった。
 スクリーンプロセスのスクリーン前にゴジラが立つ。2メートル四方のスクリーンに投影されるのは燃える街だ。炎を背に立つゴジラの場面。
「そこで、ゆっくり振り向く」
 円谷の指示に従い、中島はカメラの方へ体を向けた。今回はカメラが通常速度の撮影、ゴジラの演技はスロー気味に行う。
「はい、カット」
 手塚が着ぐるみの背を開けてくれた。中島は頭を外に出し、深呼吸をした。屋外と違って、着ぐるみから出ても涼しくない。
 さて、カメラの前にガラス板が置かれた。電信柱と電線が書き込まれている。
 これはグラスワークと呼ばれる手法。スクリーンプロセスと一緒にやれば、水平に置かれたマルチプレーンカメラのような効果が出る。
「ハル坊、スクリーンの方へ体を倒して、斜めに立ってくれ」
 円谷の指示が来た。ゴジラを見上げるアングルで撮りたいらしい。スクリーンには燃える夜空が投影される。
 スクリーンプロセスではカメラのパンティルトが大きく制限される。スクリーンとカメラが正対していないと、スクリーンの画像が歪んで撮れてしまう。また、スクリーンの端では投影の光量が不足しやすい。
 だから、ゴジラが斜めになって、擬似的にカメラが上を向いたようにする。これも視覚のマジックだ。
 ところが、着ぐるみ100キロの重さを支えて斜めに立つのは、いくら中島でも無理があった。
 手塚が台を持ってきて、これに腰掛けるように言った。カメラが撮るのはゴジラの上半身だけ、座っていても問題無し。このへんはベテランの機転だ。
「もう少し、体を倒して。そう・・・その角度」
 円谷の指示に従い、中島は体を左へ傾けていく。オーケーが出たところで、着ぐるみの背が閉じられた。
「用意・・・スタート」
 カチンコが鳴り、カメラが回る。中島はゆっくり上半身を回す。そして、何かを見つけたように、地上に向かって頭を下げる。
「はい、カット」
 1・・・2・・・と数えて、中島は体を垂直に直した。腰と足に痛みがきた、100キロを左足だけで支えるのは無理があった。

 大型のスクリーンプロセスの前に、新聞社の編集室がセットで組まれた。窓から外が見えている設定である。大型だけにスクリーンの幅は5メートル以上、高さも3メートル以上ある。
 円谷は機械の操作に専念して、本多監督が俳優へ演出する。
 机の上には山積みの書類、その間で背を丸めて原稿を書く記者たち。中島も記者の一人として混じった。
 カメラに背を向けて席に着くと、スクリーンが良く見える。列車が出入りする駅が映されていた。ゴジラが上陸する前の平和な東京の場面だ。
 手塚は編集長役、ベテランの顔が実に偉そう。
「カット」
 本多監督の号令で、場の緊張が解けた。
 次の場面の準備が始まる。机にいた記者たちは退席し、残るは手塚の編集長のみ。照明が落ちて、夜の場面だ。
 スクリーンに夜の街が映し出された。ゴジラに蹂躙され、炎に包まれている画面だ。
 中島はカメラの後ろに立って待機する。カメラ横と天井の小道具係も位置について、待機の体勢が整った。 
「では・・・用意、スタート!」
 本多監督の号令、カチンコが鳴った。手塚は薄暗い編集室に一人たたずむ。窓の外は、火に包まれた東京の町並みだ。
 手塚はタバコを口にし、ライターで火を点けようとする。カチカチ、ライターから火が出ない。セリフ無しで不安を浮かべる表情は、さすがベテラン俳優だ。
 と、手塚の手に天井からチリが落ちた。
 本多監督が合図した。中島は天に向かってゴジラの咆吼!
 がおおーっっん!
 その声が合図だった。天井の小道具係が壊れた梁と天井板を落とす。次いで、カメラ横にいた小道具係が壁板を倒し、レンズ前を塞いだ。ゴジラが新聞社の建物を壊した設定の場面だ。
「はい、カット!」
 本多監督が大笑いで中島を振り返った。当の中島は、大声の張り上げ過ぎで喉にきていた。
「おお、びっくりした。すごい声だね」
 円谷があきれ顔で言った。耳が痛い、と手を耳にやる。
「本物のゴジラだからね」
 本多が満足気に言う。ぜえぜえ、中島は言葉が出せずにいた。
 誰か、助けて・・・梁と机にはさまれ、身動きならない手塚が弱々しく手を振っていた。落ちてきた梁は軽く作られていたが、倒れた時に変な姿勢で挟まってしまった。手足に力がはいらず、自力で這い出せないのだ。
 
 大型スクリーンプロセスの前では、列車の車内を傾けて組まれた。窓の外にはゴジラの牙や目玉が大きく映される。ゴジラが列車を持ち上げたと言う設定だ。
 ぞろぞろ、大部屋俳優が大挙して来た、列車の客の役である。中島も眼鏡に背広で通勤客を演じる。
 しかし、傾いたセットに乗り込むのは大変だ。踏み台を重ねて、あるいはハシゴを使って席によじ登る。位置に着いたところで、傾いた席でカメラのスタートを待つ。みんな引きつった顔で席にしがみついている。
「はい、みんなも元気いっぱい悲鳴を上げてね」
 本多監督が楽しそうに指示を出す。早くカメラを回せ、と文句を言えない俳優たちが傾いた席で待っていた。
 スクリーンプロセスが動いた。ゴジラの口が大きく映される。
「用意・・・スタート」
 監督の号令が出た・・・と、真っ暗になった。スクリーンプロセスも止まった。
 わわっ、きゃあ、本物の悲鳴があって、傾いたセットで俳優が耐えきれず落ちた。どすん、ばたん、人が落ちる音が闇に響いた。
「停電だ!」
「灯りを」
 いくつか声があって、誰かが棟の扉を開けた。外の光が差し込んだ。照明が無くては仕事にならない。皆が外に出た。他の棟からも人が出て来ていた。撮影所全体が停電しているようだ。
 停電が珍しくない時代だった。増える電力需要に送電線や変圧器の容量が不足し、安全装置が働いて停電となる。
 今回は、まだ暑い季節ゆえ、各撮影現場では照明に加えて扇風機を使っていた。そこへ、大電力を食う大型スクリーンプロセスが動いた。ブレーカーが落ちて、東宝撮影所は停電状態となった。
 大部屋の俳優たちが無傷で外に出た。本多監督は彼らの後から出て、ふうと大きく息を吸った。
「中島くん、きみは潜水ができるらしいね」
「スキューバの方です。素潜りは少々です」
 中島を見つけて、本多が聞いてきた。ふむふむ、と何やら考えている風。
 ぞろぞろ、円谷と特殊技術のスタッフがスクリーンプロセスの点検を終え、ようやく外に姿を現した。
「円谷さん、何日か中島くんを貸してよ。伊豆の方で撮り足しがある」
「ああ、いいよ。ハル坊、行っておいで」
「はい、行ってきます」
 簡単なやりとりで、中島は特殊技術を離れ、本編撮影の方へ組み込まれた。ゴジラの全身着ぐるみを使った撮影は終了していた。この先は、ゴジラの小型人形ギニョールを使った撮影が少し残る程度だ。

 ああ、いいよ。ハル坊、行っておいで・・・
 熱海へ向かう列車の席で、中島春雄は母を思い出していた。
 円谷の親爺さんは母っちゃと同じ言い方をする・・・死んだ母と円谷英二が重なった。
「はい、どうぞ」
 助監督が弁当を買ってきてくれた。主演級の俳優と同じ待遇に、中島は恐縮して受け取った。
「これをやってもらうから」
 対面に座る本多監督が脚本を開いて指した。芹沢博士がオキシジェンデストロイヤーを抱いて海に潜る場面だ。
 今回は平田明彦の代役である。セリフ無しのふき替えなら、中島にとっては得意の分野だ。
「志摩でも潜水場面は撮ったけど、あの模型が無かった。そこんとこだけ、撮らなきゃならん」
 へへへ、本多は笑って言う。
「監督、今回は楽しそうですね」
 中島は本多の笑顔を見ながら返した。
 スクリーンプロセスでの撮影でも、今回の本多は笑っている場面が多い。『さらばラバウル』の撮影では、しかめっ面ばかりが印象に残ったものだ。
「まあね。これくらいの絵空事になれば、もう笑うしかないよ」
 本多の初監督作は、志摩の海女を描いた物語。水中場面は何度も経験済みである。
「そうだ!」
 中島は思い出した事があった。『ゴジラ』の脚本で納得できない点があったのだ。今日は本多監督が目の前にいる。質問するなら今だ。
「監督、思うのですが・・・なぜ、ゴジラは日本を、東京を襲うのでしょう? 水爆で海底の住処を失ったのなら、水爆を使った国を襲うべきでは?」
 中島の真剣な疑問だった。が、本多は笑って首を振った。
「ゴジラには、日本とアメリカの見分けはできないよ。人間のせいで住処を失って、人間に怒っている。それだけさ」
「人間のせいで・・・」
 太平洋戦争で、日本とアメリカの戦争に巻き込まれた南洋の人々がいた。彼らは怒りをどこに向けるべきか? そんな議論があった。日本へ怒るべきか、アメリカに怒るべきか、先進国全体に怒るべきか・・・今のところ、国連が拠り所となっているようだが。

 本編と特殊効果とも、『ゴジラ』の撮影は9月半ばには終了した。編集作業が本多監督を中心に始まった。
 公開は11月初旬からと決定された。

 休みを使い、中島は『七人の侍』を観に行った。上映時間は2時間半、一般劇場向けの版である。
 中島が演じる野武士の斥候1は、登場と同時に切られて倒れた。顔は映っていたが、ほんの数秒というところ。
「わっ、上田さん、かわいそう」
 斥候2を演じた上田吉二郎を観て、中島は自分以上の哀れを思った。いっぱいあったはずのセリフが、ほとんど完全に切られていた。
 製作中断で脚本が書き替えられたせいか、上映時間短縮のための編集のせいか、野武士と七人の侍たちとの知恵比べの要素は無くなっている。ひたすらに、侍たちと村人の交流に主眼を置いた物語になっていた。
 それでも、良い印象は残った。去年撮った『太平洋の鷲』や『さらばラバウル』は負け戦の物語だった。多大の犠牲を払いながらも、これは勝ち戦の物語だ。


29年10月


 中島春雄は渡辺組に配された。今回の作品名は「暗黒街の赤い星」、役名は配役票に無いのでふき替えと判断できた。
 題名の赤い星、谷戸が追っ手から逃げる場面。トラックを奪い、走って逃げる。
 谷戸を演じる役者はトラックを運転できない。運転席のアップは別撮りで、トラックが走る場面では中島が運転する。
 しかし、運転を誤り、トラックは事故で動かなくなる。谷戸はトラックを捨て、走って逃げる・・・はずだった。
「事故は止めだ。故障でトラックは動かなくなって、捨てて逃げる・・・とする」
 渡辺監督が苦渋の表情でスタッフに告げた。営業から、トラックを壊す許可が下りなかったらしい。
「こんなボロ車を壊す事もできんたあ、ねえ」
 中島はトラックのタイヤを蹴った。しかし、と考えた。どんな故障で動かなくなるか、その状況を思った。
「バッテリー上がりで、ぷっつんと動かなくなる・・・のが、一番簡単かなあ」
 渡辺監督は車に詳しくないらしい。
 中島は俳優になる前、しばらく進駐軍でトラックの運転をしていた。故障も何度か経験した。
「見た目に派手で、誰でも故障と納得できるのは・・・ラジエーターに穴が開いて、オーバーヒートでエンジンが焼き付く場合ですね」
「派手に故障するものかい?」
「ええ、焼き付きの青い煙と白い水蒸気が、場合によっちゃあ、トラックを包み込むくらいに出ますよ」
 むうう、渡辺は考える。経験者が言うのだから、そう言う事もあるのだろう。どうやって再現するか、そこが問題だ。
 さて、撮影再開。
 谷戸のトラックは突然エンジンが停止した。キーをひねっても反応無し。と、運転席に煙があふれてきた。ペダルと床の隙間から、ハンドルの根元から進入して来た。
 車の床下で、中島が発煙筒を焚いていた。この時代の車は床が隙間だらけなのだ。
 谷戸は運転席から降り、トラックの下をのぞく。エンジンから水が滝のように落ちて、地面を流れて行く。
 中島がヤカンの湯をラジエーターにかけていた。冷却水が漏れ出した状況を再現した。多くの場合、ラジエーター本体より、それにつながるパイプに穴が開いて漏れるものだ。
 煙はボンネットからあふれ、運転席の窓を白く染めた。素人が手出しできる状況ではない。
 谷戸はトラックを諦め、走って逃げる。
「カット」
 渡辺監督は満足して号令した。トラックを傷付ける事無く、故障を演出できた。
 ふう、中島は息をついた。ふき替え俳優のはずだったのに、特殊効果の仕事をした気分だ。

「えっ、また特殊効果へ?」
 演技協社の事務で、中島は聞き直した。
 配役票には作品名も監督名も無い。何をするかは向こうで聞け、と投げやりな言い方だ。
 特殊効果棟横のグランド、東京湾に見立てたプールがあった場所にイスが並べられていた。イスの正面側の台は注連縄が飾られ、ゴジラの人形が祭られていた。
「おお、ハル坊、来たね」
 懐かしい呼び方で、円谷が迎えてくれた。
「いったい、何事ですか?」
「田中くんがね、ヒット祈願をやろうと、そう言う事なんだ」
「祈願祭ですか!」
 すでに『ゴジラ』の予告編が劇場にかけられていた。観客の反応は良い。
 インドネシアとの合作『栄光のかげに』で使うはずの予算で『ゴジラ』は作られた。予定より少なめで完成した。余った予算は宣伝に使う、映画界の常識である。宣伝のやりようで、より大きなヒットが出る場合もある。
 プロデューサー田中友幸にとり、祈願祭は本格的な宣伝の一歩であった。

「今度は、これだよ」
 祈願祭が終わって、円谷が中島に脚本を渡した。新作の題名は『透明人間』である。
「透明な人間をやるんですか・・・」
「普通の人間の場面は、他の役者がやるから。君には、透明な場面をやってもらうよ」
「透明な場面を・・・黒バックの前を黒装束で歩く、とか?」
「おお、わかってるじゃないか」
 円谷は本気である。実は、数年前にやった題材だ。当時は、現場に特殊効果を理解できる俳優やスタッフがおらず、苦労した思い出ばかり。
 中島は映画的な透明化の手法を理解できる俳優。彼がいれば、特殊効果もやり易いはずだ。

 アパートへ帰ると、安西監督が来ていた。
「出演交渉、成立だよ!」
 誰と、と思っていたら、飯田の母娘がいた。
「うちの娘が主演だなんて。まともにしゃべれるか、どうか」
「大丈夫! 主演だけど、セリフは無い役ですから」
 母は不安を隠さない。娘の方は眉間にしわを寄せ、あれこれ思案げである。
 安西監督は胸を張り、意気揚々としてアパートを辞した。
「どんな脚本ですか?」
 飯田明子に聞くと、ぶ厚い脚本を見せてくれた。題名は『口先大工と唖女房』とある、安西監督なら時代劇だろう。明子は唖女房の役、セリフは無い訳だ。
 主演だけどセリフが無いでは、ベテラン女優には断られたろう。ならば、と新人を抜擢だ。新人ならば出演料も安くつく、出演料を抑えるのも監督の腕の内である。
 ページをめくり、出演者を見た。なんと、ベテランの落語家や漫才師が列挙されていた。こんな口達者な演技者たちの中に、言葉を持たない唖女房を配するのだ。逆に目立つはずだ。
 また、考えた。これは『ゴジラ』と同じ構図かもしれない。ゴジラも吼えるだけ、言葉を持たない出演者だ。けれど、唖女房は皆から愛される存在らしい。人間から嫌われ、ついには滅ぼされるゴジラと好対照だ。

 10月23日、ソビエトは新型の原子爆弾RDS−3Iの爆発実験を行った。爆発力は62キロトンであった。内部構造を見直し、より少ない核物質で大きな爆発力を得られるようになっていた。


29年11月


 11月3日、東京など都市部の東宝系劇場で『ゴジラ』の公開が始まった。

 本多が特殊効果を訪れた。手に新作の準備稿『獣人雪男』を持って来た。
「ゴジラは海から来たので、今度は山からだ」
 ふーん、円谷は脚本を開き、雪男の出番のページを探す。
「また、ハル坊に頑張ってもらう事になりそうだ」
 中島は身震いしていた。またしても、自分が着ぐるみの中に入るのだろうか。
「この雪男は、普通の人間より少し大きいくらいだ。大きくし過ぎると、キングコングになってしまうからね」
 本多の説明に、中島はほっとした。ゴジラのような重い物を着ずにすむなら、何でも来いである。
 すでに『透明人間』の特殊効果は、ほぼ終わっていた。『ゴジラ』とは違って、仕事の量が少なかった。間を入れず、新しい仕事に着手できる体勢だ。

 今日は平日だが、休み。中島春雄は脚本を枕に寝て曜日を決め込んだ。
 ふと目覚め、また脚本を開く。読みながら『ゴジラ』を思い出した。
 ゴジラは大戸島で山根恵美子を見た。そして、恋をした。恵美子を追って、東京へ出た。恵美子を探すうち、街を壊していた。そこで、恵美子を諦めた芹沢と出会う。俺たちがいなければ、恵美子は幸せになれる・・・そんな思いと共に、ゴジラと芹沢は心中する。
 ゴジラの物語を再解釈するうち、大きなあくび。つい、涙がにじんだ。
「よっ、こっちも休みかい」
 寺田が入って来た。いつもならダボシャツ姿なのに、今日は背広にネクタイまで締めて、妙に着飾っている。
「みんなで映画を観に行こう、てところさ。休みなら、一緒に行こうや」
「映画、ねえ。どんなやつを?」
「ゴジラだよ、ずいぶん当たってるらしいぜ」
「ゴジラなら、有楽町の日劇で観ると良い。ちょっと特別な場所だよ」
 中島は寝転がったまま、動く気が出ない。
「寺田さん、中島さんも行くの?」
 女の声がして、びくと中島は身を起こした。飯田の母娘が一緒らしい。30秒で身支度をして、廊下に出た。
 あれ? 廊下で見知らぬ女性に出会った・・・いや、それは飯田明子だった。けれど、以前とは印象が全く違った。
「あの、撮影の方は?」
「あれは、もう終わりました」
 安西監督はクランクインからアップまでが短い。早撮りも監督の腕の内、を自慢する人だ。編集で不都合が見つかれば、また撮り直しが来るかもしれない。
 飯田明子は1本の主演を果たした女優だ。素では、中島より強い光を放ち始めていた。

 山手線有楽町駅を降りた。
 さすが都心だ。四階建ては低い方、六階建てや七階建てのビルが軒を並べている。
「やめろよ、田舎者みたいで恥ずかしいぞ」
 キョロキョロ町並みを見上げる中島を、寺田がいさめた。ゴジラの着ぐるみで壊した町並みと思えば、感慨も新たになるのだった。
 丸い日劇が見えてきた。派手なゴジラの看板、休日にはアドバルーンを上げるらしい。
 外に行列が無く、すぐに入場できた。が、中は満員に近いにぎわい。スクリーン前、最前列に空席を見つけて座った。
 中島が売店で買ったキャラメルを出した。寺田らに配って、自分の口にも入れた。
 開演のブザーが鳴って、場内が暗くなった。
 ニュース映画と予告編に続いて、同時上映の喜劇が始まった。
 後ろの席から、きゃはは、わはは、と映画に関係無く笑いが起こる。おしゃべりも聞こえる。
 半分寝たふりで、中島は席に深く身を沈めた。
 喜劇に「終わり」の字が出た。ちょっと、場内のざわめきが途切れた。
 ドーンドーン、ゴジラの重々しい足音が響いた。ガオオオーン、ゴジラの咆吼。「ゴジラ」の題名が映し出された。
 寺田が中島の肩をたたいた。中島春雄の名を出演者の中に見つけたのだ。うん、と頷き返した。
 本編が始まると、また後ろの席から笑いとおしゃべりが聞こえてきた。聞こえないふりで、画面を見上げた。
「ゴジラだ、ゴジラが来た!」
 山根博士が家を飛び出して行く。
 本多監督は東京湾の戦いを切ってしまった。唐突に、ゴジラは上陸し、品川駅で列車を踏み潰し、大暴れを始める。
 あれ?
 中島は後ろの席の異変に気付いた。笑いもおしゃべりも聞こえない、妙に静かだ。
 さらに腰を深く落とし、頭を左に回し、後ろを見た。誰もが、じっと画面に見入っていた。
 今度は右の後ろを見た。やはり、同じようにゴジラの暴れる様を見ていた。
 頭をもどし、自分も画面のゴジラを見上げた。銀座を蹂躙し、日劇の前を通り過ぎる・・・と、巨大な尻尾が日劇のビルに当たった。
 きゃあ、うわあっ、あちこちから悲鳴が上がった。自分たちがいる劇場が倒壊したのだ。
 ざわめきはすぐに収まり、静かになった。
 このゴジラは俺が演じたんだ! 中島は誇りを感じた。
 芹沢がオキシジェンデストロイヤーを手に東京湾に潜る。
 これは俺が演じた芹沢だ、中島は撮影を思い出した。しかし、その先にゴジラがいる。こちらも中島が演じた。
 俺が、俺を殺そうとしている・・・どちらも俺だ。
 画面が泡であふれた。泡の中で、芹沢は消える。ゴジラも骨になって消えてしまう。

 劇場の出口で、見知った顔と出っくわした。田中友幸プロデューサーが入場者から券のもぎりをしていた。大入りを体感しようと、東宝の本社の者まで出張って来ていた。
 向こうが気付かないので、中島は通り過ぎて外に出た。今日は一緒の飯田明子も、主演映画が公開された後では、こんな風に映画を観られなくなるかもしれない。
「いやあ、なかなかでした。大当たりもむべなるかな」
 寺田が難しい言葉で映画を評した。
「中島さんは、どこに出ていたの? 注意して見てたけど、最後までわからなかったわ」
 明子が首をひねりながら聞いてきた。
「脇が目立つなんて、ろくなモノじゃないよ。俺がわからなかった・・・つまり、監督が良い仕事をしただけさ」
 へへへ、ちょいと鼻をこすり、中島は作品を自評する。
「そんな事、言わないで。どこに出てたか教えてよ」
「ずいぶん重要な役をしたんでしょ、徹夜徹夜で撮影に行ってたんだから」
 催促に答えるべきか、少し迷った。
「じゃあ、ヒントを。こんな役をやったんだ」
 中島はグルリ、日劇ビルに向き直った。
 少し腰を落とし、前傾姿勢をとる。両手は脇を締め、ガードを下げたボクサーのようにした。そして、ゆっくりと、すり足で踏み出した。
 ドーン、中島の頭の中で、ゴジラの足音が響いた。
 中島は顔を上げ、空に向かって口を開けた。
 がおおーん、ゴジラが吼えるポーズだ。

『ゴジラ』の大ヒットを受け、東宝は『獣人雪男』の製作を延期、代わりに『続・ゴジラ』の製作を決断した。

 翌、昭和30年、中島春雄は東宝専属の俳優になった。

 世田谷区成城の田園地帯を、都市化と言う怪物が暴れまわる時代が目前に迫っていた。



<  お わ り  >


中島春雄
平成29年8月7日 永眠
享年 88歳



後書き

西岸良平作「三丁目の夕日」の初期作に、怪獣の着ぐるみに入る俳優の話があります。
中島春雄がモデルか、とも思うのですが・・・西岸的二枚目に描かれているので、ウルトラマンになる古谷敏さんの物語にも見えてしまうOOTAU1でした。


参考文献
「スーツアクター」ソニーマガジンズ刊・破李拳竜著
「特撮・円谷組」洋泉社刊・東宝ゴジラ会著
「クロサワさーん!」新潮社刊・土屋嘉雄著
「円谷英二・特撮世界」勁文社刊・著
「核兵器事典」新紀元社刊・小都元著
「巨人機の時代」文林堂刊・著

2017.8.12
OOTAU1