おおっ神よ!

 
真珠湾への帰還



12月1日


 アメリカ合衆国50番目の州、ハワイ州オアフ島、真珠湾に朝が来た。
 午前8時、記念艦ミズーリの艦尾に星条旗が掲げられる。
 時計を確認して、指揮官が国旗揚げの指示を出した。横に控えていた軍楽隊が国家を演奏する。
 国旗が朝の風をはらんでたなびいた。
 ミズーリの艦首方向には、もう一隻の記念艦がある。戦艦アリゾナ、1941年、日本軍の攻撃で爆発、沈没状態となった。当時の姿のままで保存されている。その上には白亜の記念館が乗っていた。
 ミズーリ艦上で演奏される国歌が、アリゾナ記念館まで聞こえてくる。
 いつもの真珠湾の風景だ。

 日めくりカレンダーを1枚取り、月が変わったと実感した。もう年末、今年も末だ。
 アーノルドは机の写真を見た。サングラスの父と7才の自分が写っている。しかし、今の自分は80代の半ばになる年寄りだ。
 写真の父は、あの日に年を取らなくなった。それは1941年の12月7日、日本軍が真珠湾を攻撃した日だ。
 ふっ、アーノルドは首を振り、立ち上がった。まだまだ足腰は丈夫だし、目だって・・・たまに眼鏡が必要になるくらいだ。
 ドアを開け、外に出て深呼吸する。常夏のハワイだが、早朝、オアフ島の空気は涼しい。
 毎朝の日課、シュワルツ自動車修理の敷地を巡る。
 半筒型の建物は、元は軽飛行機の格納庫だった。昔の滑走路だった所は、今は自動車が通う道路だ。倉庫になっていたのをシュワルツが手に入れ、自動車修理の工場とした。以来、40年が経った。
 妻が死んでからのやもめ暮らし。子供たちは独立し、カリフォルニアで働いている。年寄り一人だけの気ままな生活だ。
「あう、なんて事だい」
 怒りより、落胆が足を萎えさせた。敷地の端、またゴミを捨てられていた。
 今日のは段ボールの箱、動かそうとしたら底が抜けた。ゴミが地面に散らばった。箱の下半分に水が浸みて、段ボールが弱っていたのだ。
 はあ、ため息が出た。
 工場で使う手押しカートにゴミを拾い集めた。ペットボトル、酒瓶、ビール缶とコンビーフ缶、鼻紙、エロ本・・・どれもベトベトだ。
 きこきこ・・・カートを押すと車輪が鳴る。アーノルドの膝と腰も鳴った。
 工場脇の蛇口をひねり、水を出す。手を洗い、ゴミも洗いながら分別だ。
 はて、これは何だろう?
 それを手にして、アーノルドは首を傾げた。小さな瓶のようだが、ガラスではない。鉄でもアルミでもなく、陶器でもない。後で調べよう、と小瓶を脇に置いた。
 分別を終え、それぞれの種別にゴミ箱へ入れた。手を洗い直し、顔も洗った。
 小瓶だけを手に、中へ。工場の中にプレハブの事務所兼住居を置いている。ドアから中へ入った。
 どて、イスに体を投げた。朝から疲れてしまった。
 机に小瓶を置き、朝食の準備をする。今日はハムサンドだ。厚切りのパンにバターとマヨネーズを塗り、レタスに厚切りハム、そしてトマトをサンドした。ハワイ特産のパイナップルはボウルに盛った。

 プップー、外でクラクションが鳴った。
 アーノルドはドアから出た。トラックが来ている、荷台に小型の2ドア車が載っていた。塗装は色あせ、元の色合いを想像するのも難しい。
「へーい、シュワルツ、元気かい。こいつ、なんとかなるかなあ」
「なんとかなるも、古いやつだなあ」
 中古車販売のキャメロンは商売仲間、安値で仕入れた中古車を修理するのはシュワルツで、高値で売れれば、儲けは山分けだ。
 さて、とアーノルドは荷台に上り、車を見た。
「ミツビシ・コルトか。旧過ぎて涙が出てくるぜ」
「バッジを良く見ろ、これはクライスラーのダッジだぜ」
 アメリカ車と主張するキャメロンに、アーノルドは首を振る。ボンネットを開け、エンジンの脇のバッジを指でこすった。汚れが落ち、車の形式と車台番号が現れた。
「ほら、ミツビシ・メイドインジャパンとなってるだろ」
「あれれ、デトロイトのクライスラーじゃないの?」
「OEM、相手先ブランドと言うやつだ。日本の三菱が作り、クライスラーの名前で売ってたんだ」
 1970年代前半、アメリカで販売されたダッジ・コルトは、日本では三菱ギャランで流通した。当時、クライスラーと三菱自動車は資本提携の関係にあった。エンジン排気量1600cc未満の車は、アメリカでは軽自動車の感覚で乗られる。もっぱら女性が使う自動車だった。
「ミツビシって、ゼロファイターのミツビシかい?」
「そう、そのミツビシさ」
 荷台が動き、車が地面に降ろされた。
 手のひらで車体を叩く。パンパン、乾いた音がした。塗装の表面は粗目になっているが、下の鉄板の状態は良さそうだ。
 ドアの縁に指をそえ、下へとなでた。おできのようなコブがある。指先でつつくと固い。サビの浮き上がりなら柔らかいので、これは塗料が垂れて固まったものだ。この車体は何度か再塗装されていると見た。半世紀近くも前の車、そうまでして使いこまれたのは幸せと言うべきだ。
 オアフは大きな島だが、大陸ではない。いつも潮風がある。機械は潮風で早く錆びる。多くの自動車が10年保たずにスクラップと化す中で、今日まで生き残ったのは奇跡に近い。
「とりあえず、直せるかどうか。そこを診てくれ」
「ああ、でも数日かかるよ」
 アーノルドの答えに、キャメロンは納得した。
 荷台をもどし、キャメロンのトラックは出て行った。
 はてさて、とアーノルドはミツビシ・コルトの運転席に乗る。くたびれきったシートが尻に痛い。エンジンキーをひねると、反応は無い。
「おおっミツビシよ」
 あきらめて、車体を押した。
 久しぶりに工場の扉を開ける。ガリガリガリ、油ぎれで開くのに力が要った。
「ほら、仲間が来たぜ」
 アーノルドは誰に言うでもなく声をかけた。
 建物の中に飛行機があった、床面積の半分を占める大きさ。その横にミツビシ・コルトを停めた。
 飛行機も修理中で、前部のエンジンとプロペラが外れている。この状態で機種を言い当てられるのは、よほどのマニアだけだろう。

 陽が暮れてきた。
 何するでもなく、アーノルドは事務所のベンチに寝ていた。そろそろ消灯の時刻。売り上げの少ない工場に、日々の電気代は重い。
 やるべき事はある。ミツビシ・コルトの診断と修理、飛行機の修復と年寄りの手に余るほどだ。しかし、気力が湧かない。
「父さん・・・」
 机の写真に目をやり、また閉じた。
 年を取ったせいだろうか、昔の事ばかりが頭をよぎる。もうすぐ、またあの日が来る。父の時間が止まった・・・あの日が。
 ことり、写真の前の小瓶が倒れた。転がり、床に落ちて栓が外れた。
 瓶の口から何かが漏れ出た。それは沸き上がり、風通しのために開けっ放しの窓から出て、工場の中空に雲を成した。
 バリリッ、稲光が走った。
 とたん、電気が落ちて、工場は暗くなった。
 バリッ、また稲光だ。昼の太陽より厳しい光が、一瞬、工場に満ちた。
 風が吹いて、アーノルドはベンチから落ちた。眩しさに、薄目で周囲を見渡す。
 ババン、雷鳴があって、静寂が訪れた。風も止んだ。
 ベンチの陰から顔を出し、アーノルドは工場の天井を見た。崩壊する予兆は無い。
 と、誰かいると気付いた。
 薄闇の中に人影があった。隆々たる筋骨の背中、裸の男が立っていた。
 パシッ、音がして、また照明が点いた。男の背が照らされて、よりはっきり筋肉が見えた。
 男は悠然と振り返り、しゃがんで床の小瓶を拾った。年は30前後だろうか、前から見ても堂々たる筋肉美の肉体だ。
「だ、誰だ?」
 アーノルドは声をかけた。男がゆるりと顔を向ける。
「神である」
「か・・・み?」
 意味が理解できなかった。変わった名前、とだけは判断できた。
「出て行けっ、ここはおれの家だ!」
 声が震えた。裸の変態男とは付き合いたくない、それだけだ。
「わかった、出て行く」
 あっさり男は言った。ゆるり、背と尻を向け、出口のドアへ歩こうとした。
「待てっ! 素っ裸で外を歩いたら、いくら街外れでも、近所迷惑だろ」
「では、どうしろと?」
 つい、アーノルドは常識論をぶってしまった。男は歩を止め、首だけ振り返る。
 どうすべきか、と考える。風でひっくり返った棚を起こした。戸を開いて、中からお古の上下ツナギな作業着を出した。
「ほら、これを着れば、外でも歩けるさ」
「いただこう」
 アーノルドが投げたツナギを、男は着た。サイズは背丈がピタリ。でも、胸周りと腕周りが小さいようでパンパンだ。裸の変態男がシュワルツ自動車修理から出て行く心配は無くなった。
 改めて、男を見た。表情はあくまで沈着冷静、裸で出歩く変態に見えない。いや、どこから来たのか、それさえ聞いてない。
「おまえは誰だ、どこから来た?」
「神である。すでに言った」
「かみ・・・?」
 また訳のわからない答えが来た。机の電話機に目をやった。変質者に侵入された、と通報すべきだろうか。
 男が手の小瓶をかざした。
「これに体を封じておいたのだが、まさか見つける者があろうとは。せっかく見つけてくれたのだ。何か、一つ、願いをかなえてやろう」
「願いを・・・かなえる?」
 ようやく、神を自称する者だと理解できた。しかし、いよいよ胡散臭い。
「か・・・神と言うなら、おれの願いくらい・・・とっくに知っているんじゃないのか?」
「知っている」
「なら、聞く必要も無いだろう」
 アーノルドは目配せしながら言う。風で吹き飛んだ金庫を探していた、中に拳銃が入っているやつだ。
「おまえの心には多くの願いがある。かなえてやれる願いは、一つだけだ。おまえは選ばなければならない。選んだ証として、願いを言うのだ」
「願いを・・・」
 どきどき、アーノルドの胸が高鳴る。何を願うべきか、確かに迷っていた。拳銃で目の前の男を撃ち殺す、と願うべきかとも思っていた。
 拳銃の金庫を見つけた、机の下だ。
 同時に、机の上の写真を見た。7才の自分とサングラスの父が写っている。
「父さん・・・だ。父さんに会いたい」
 言って、つい笑ってしまった。70年以上前に死んだ人間に、どうやって会おうと言うのか。
 男は涼やかな目でアーノルドを見ている。そして、ひとつ頷いた。
「アーノルド・シュワルツ、その願い、かなえよう」
「え?」
 全身から力が抜けた。


12月2日


「アーノルド、早くして」
 リビングから母の声がした。
 日曜日になると、いつも母は朝早くからそわそわ。教会へ行くためだ。普段と違って、お出かけ前の化粧にオシャレに忙しい。ついでに、子供の服にまでうるさい。
 時計が8時を過ぎている。チリンチリン、玄関の呼び鈴が鳴った。となりのおばさんが迎えに来たよう。
 ごーっ、飛行機が低空で飛び去った。窓から見れば、飛行機の編隊が飛んで行く。あの方角は真珠湾だ。
 どーんどーん、変な音が聞こえた。
 玄関から外に出た。
 と、衝撃に体を揺さぶられた。母は玄関前に倒れ、ガラス窓がガタガタ鳴った。
 向かいの屋根の彼方で、真珠湾の方で大きな黒雲が上がっていく。戦艦アリゾナが爆発した爆煙だった。
 アーノルドの父の時計が止まった。

「父さん!」
 叫んで、アーノルドは夢から覚めた。
 体を起こすと、ギギッ、ベッドがきしんだ。横座りになって、ふうと息をついた。
 あの日の夢を見たのは何年ぶりか。体を揺さぶる衝撃波の感覚が耳に残る、昨日の事のように生々しい夢だった。
 寝ぼけ眼で事務所に出る。
 あれ、と首を傾げた。いつもと雰囲気が違う。
 自分以外の誰かがいる。
 彼は事務所の机の前、イスに座っていた。
 父さん・・・と呼びかけそうになった。口先まで声が出そうになって、やっと押し止めた。
「お早う」
 イスを回して、神はアーノルドに言った。
「ああ、お早う」
 失望して、アーノルドは挨拶を返した。昨日、突然現れた神を自称する男が、まだいた。消えてくれていれば、むしろ割り切る事もできた。
 朝食は昨日と同じサンドイッチとボウルに山盛りのパイナップル、そして牛乳。違うのは二人で食べている事。
「神も食べるのか」
「わたしは神である。しかし、この体は普通の人間だ。維持するためには食べねばならぬ、飲まねばならぬ。食べて飲めば、出る物もある」
 神もオシッコやウンコをするらしい。ちょっと想像したくない事実。
「あれは?」
 神は事務所の壁を見た。衣紋掛けに上下の服がかけられている。その下、床には革靴も置いてある。
「あれは父さんの服だ。母さんの遺品の中に、父さんの服のサイズがあった。それを元に作ってもらった。おれとは、ちょっぴりサイズ違いなので、ああして飾っている」
 語りながら、アーノルドは父と母の思い出にひたった。
 つい、涙ぐんでいた。年のせいだろうか、昔を思い出すとなってしまう。
 がた、音に顔を上げた。見ると、神が服に手をかけていた。
「おいおい、それは父さんのサイズで」
 神は服を着た。背丈、肩幅、胸周りに股下もピタリ、測ったように合った。靴もピタリで履けた。
 アーノルドは言葉が出ない。なぜ、と自分に問う。
「さあ、出かけよう」
「どこへ?」
「願いをかなえられる場所へ」
 ごくり、アーノルドはツバを呑んだ。サングラスをした父の写真を振り向き、深呼吸した。

 真珠湾へ。
 ウィーラー陸軍基地の横を通り、ゆるい下りの道を行く。愛車サターンは車齢が20年と少し、まだまだ若いはず。
 追い越して行く車は無視して、アーノルドは正面を向いて運転し続けた。最近は40マイル以下の速度でも、ハンドルを持つ手が緊張する。
「代わろうか?」
「おまえは無免許だろう。たとえ神でも、免許も無いやつに運転されられるか」
 アーノルドは肩を怒らせ、神を叱った。
 毎週走る道だ。年は取っても、安全に問題は無いはずだ。
 神は反論せず、助手席で静かに景色を見ていた。
 99号線を行く。左にアロハスタジアムが見えて来た。右折で駐車場に入った。今日も観光客の車で一杯だ。
 車を止めた。ちょっとタイヤが枠線を踏んでいるが、車体が大きくはみ出た訳ではない。よし、と頷いた。
 チケットを買い、入場する。
 胸がどきどきしてきた、本当に願いはかなうのか。振り返ると、神の顔が強張っている。向こうも緊張の様子。
「あら、シュワルツさん」
 マーサ・ウインストンが話しかけてきた。夫のスタンも一緒にいた。夫婦は共に80半ば過ぎ、アーノルドより年上のアリゾナの遺族である。
「今週も、ですか。熱心に通ってますね」
「ええ、今回は特に、スタンの咳が治らなくって。お父さんにお願いしよう、と思いましたの」
 へえ、とアーノルドはスタンを見た。とたん、ごほっ、と咳がでた。痰混じり、音が濁った咳だ。
「お願い・・・ですか。そう言う事なら、神様に願ったほうが」
「神様なんか、あてに出来ないわ。お願いするなら、やっぱりお父さんの方よ。子供の頃、まだ7才の時、わたしは川で溺れそうになった。お父さんは一番に川へ飛び込んで、わたしを助けてくれたわ」
 マーサは笑い、夫と記念館の方へ行く。
 アーノルドは神を振り返った。
「神様なんか、だってさ」
「良い心がけだ」
 皮肉を言ったつもりが、あっさり返された。

 いよいよアリゾナ記念館に入った。最近は観光客が増えて、ビーチサンダルやハワイアンシャツの軽装・・・と言うより、遊び着のままで来る者も目につく。つい舌打ちしたくなる。
 スマートフォンで自撮り棒を伸ばす若者の横を通り、父の名の前へ進んだ。
 アーノルドの父、ウエルナー・シュワルツ大尉は第2砲塔の士官だった。振り返ると、満潮でない今は、第2砲塔の台座が海面から出ている。
 振り向き、また父の名を刻んだ壁に寄り添った。
 背後を行き来する人の中から、突然、父が話しかけてくる・・・かもしれない。どきどき、胸が高鳴った。
「お父さん、お願いよ。スタンの咳を治してちょうだい」
 数メートル先で、マーサが彼女の父の名前に向かい、コツコツと頭をぶつけるように願い事をしていた。その後ろで、夫のスタンが困ったような顔でいる。
 深呼吸して、アーノルドは背筋を伸ばした。
 見ると、神が眉間にしわを寄せていた。
「いかん・・・な」
「やっぱり、ダメなのか」
「彼らは眠っている、起こされるのを望んでいない」
「彼らは?」
 アーノルドが願ったのは、父と会う事だ。
「彼らはチームだ。一人だけを起こす訳にはいかない」
「父さんは砲塔の士官だった、部下もいた。確かに、砲塔を動かすチームの一員だ」
 うーむ、神はうなるように声をもらし、口を一文字に結んだ。
 どうやら、今日は父に会えないらしい。残念と思いつつ、ほっと胸をなでおろす。
「チームをまとめて起こす・・・となると、けっこう大事になるだろうな」
「うむ、考え方を変えよう」
 神は踵を返して、記念館を早足で出る。アーノルドは追いかけた。
「神なんだろ。そのへんのところ、うまくやれないのかい?」
「おまえは、自然に目覚めるのと、無理矢理たたき起こされるのと、どちらが良いか?」
「たたき起こされるのは、ちょっと」
「寝覚めの悪いのが混じっていると、後々、面倒の元になる」
 はあ、また残念に思いつつ、納得もできた。

 またサターンに乗り、40マイル以下の速度で走る。
 シュワルツ自動車修理の敷地に入り、止まった。アーノルドは深呼吸して、胸をおさえた。今日も事故無く帰って来れた。
 工場の前にピンクのピックアップトラックがいた。ドアが開いて、女が降りた。姪のメアリーだ。手に大きな篭を持っている。
「お爺ちゃん、帰って来たわね。今日も無事で良かった、神様にお祈りしたからね」
 メアリーは手の篭をアーノルドに渡す。中にはパンにお菓子、調理済みの肉やワインもある。週に一度の事だが、ありがたくも迷惑に感じる時もある。
 そして、メアリーは一枚のパンフレットを出して来た。
「パトリック神父様がハワイにいらしたの。明後日よ、教会で説教なさるわ。必ず来てね」
「いや、おれは・・・ちょっと、その」
 姪の勧誘は強引だ。食い物付きなので、断り難い。
 メアリーは二十歳過ぎて、すぐに結婚した。そして、妊娠。その頃から、宗教にのめり込んだ。のめり込みが過ぎて、離婚。小学校に入る前の娘がいるシングルマザーとなった。
 今日は小さな娘が来ていない、ちょっと安堵した。あの子がいると、何でもイエスと言ってしまう爺マインドが怖くなるアーノルドだ。
「あら?」
 メアリーがサターンから降りた神に気付いた。
「うちのお爺ちゃんを見ててくれたのね、ありがとう。あなたは神を信じていますか?」
「うむ、今、わたしはここにある。それは確かだ」
「え?」
 アーノルドは手で顔をおおった。神に布教を始めた姪に、ただ無事を祈る。
「いえ、私が言うのは、天にまします・・・」
 がっ、神の手がメアリーの頭をつかんだ。天を仰ぐ顔を、力づくで神の顔の正面へ向ける。
「どこを見ておるか。目の前の真実を見よ」
 メアリーは神の手を払いのけ、聖書とパンフレットを差しだした。
「乱暴な人ね。あなたも聖書を読みなさい。パトリック神父様のありがたい説教を聞けば、今までの人生が間違っていた事に気付くはずよ」
「ただの印刷物である。こんな物に依っている信仰など、剣や銃を突きつける犯罪者と変わりない」
 神はメアリーの手を払いのけた。聖書とパンフレットが地面に落ちた。
 きゃあ、悲鳴を上げて聖書を拾うメアリー。きっ、と神をにらみ返した。
「なんて事を! 教会に行ったら、あなたの不信心さを皆に言いつけてやる!」
 金切り声で神を罵倒し、メアリーはピックアップに乗った。中指を立て、急アクセルで発進して去った。
 あー、アーノルドは口が開いたまま。そして、ため息。
 以前、同じように布教を拒否した。そうしたら、翌日に集団で布教にやって来た。
 あの時と同じ騒動が繰り返されると思うと、胃が痛くなってきた。入院したら、病院へ布教に押しかけて来る。やっかいな連中を抱えている姪なのだ。

 工場に入り、神は飛行機を見た。
「なかなか良い物だ。しかし、抜け殻だな」
 へへ、アーノルドは誉め言葉ととらえた。神の横に立ち、機体の説明を始めた。
「もう10年になるか、カハルウ近くの洞窟で発見した時はフレーム丸出しのボロボロだった。ここまで修復するのに、ずいぶん手間と時間をかけたよ」
 近くのロッカーに、修復のために集めた資料が入れてある。ロッカーを開き、ファイルの一つを手にした。
「日本海軍の97式攻撃機、3人乗りだ。こいつは3号と呼ばれるタイプ、エンジンはゼロファイターと同じ940馬力の栄型」
 機体は尾翼部分が塗装未完で、下塗りだけのくすんだ色だ。日の丸も入ってない。素人目に、有名な零式戦闘機と見分けはつきにくい。操縦席の風防が大きく長いのが、顕著な差として認められる程度か。
 エンジンは機体から外され、今は架台に乗っている。星形と呼ばれる空冷ピントンOHVのエンジン。
「こいつは、軍事マニアからプラットアンドホイットニーのコピーなんて陰口をたたかれてる。博物館によっては、本当にアメリカ製のエンジンに換装して飛ばしてるところもある。おれとしては、オリジナルで飛ばしたいね」
「良い心がけだ。しかし、まだ抜け殻だ」
 また、神が同じ事を言った。何が抜け殻なのか、とんと見当が付かない。
「これが見つかった所へ行きたい」
「こいつが、か? しかし、他人の土地だし。行って、勝手に入る訳にはいかない」
 アーノルドの説明に神は頷いた。


12月3日


 カハルウへサターンを走らせた。
 距離的にはホノルルから山越えの道の方が近いのだが、あちらの道は観光バスなどで混雑し易い。それが嫌なので、ノースショアを回る海岸線の道を選んだ。
 崖下の道を行き、カウェラベイを回る。1941年、日本機の編隊が真珠湾へ向かったのと逆のコースだ。
「日本の編隊のほとんどは、カウェラから西回りで真珠湾を目差した。でも、何機かは編隊からはぐれたのか、東回りのコースを行った。もちろん、真珠湾上空で編隊に戻れたやつもいた。けれど、そのまんま、行方不明になったのもいた。日本側の記録にもある。あの機体は、そういうやつの一つなのさ」
 アーノルドは調べた事実を披露する。神は右手の崖を見上げた。
 昔々、オアフ島は今の何倍も大きかった。現在のハワイ島ほどの大きさだった時期もある。しかし、プレートテクトニクスで海底に乗って西へ移動、火山のホットスポットから外れた。噴火が終わり、やがて、島は割れた。割れた外側が崩れて太平洋に落ちた。その時、太平洋の北海岸には大津波が押し寄せたはずだ。島は何度か割れて崩れて小さくなり、今のオアフ島の形ができた。割れた面は崖となり、高さ300フィートを超える断崖絶壁の海岸線を形作った。
 空気が変わり、湿度が高くなる。額に汗がにじんできた。
 エアコンのノブをひねる。しかし、温風が出て来るばかり。窓を全開にして、エアコンは切った。
「故障か?」
「ガスが抜けたか、コンプレッサーか。帰ったら、また修理だ」
 アーノルドは首を振った。何度も修理してきた車だ。どこがいかれたか、だいたいの見当はつく。

 崖を見上げる道を南東へ行く。
 カハルウで右折、さらに崖際へ迫る道に入った。
「シュワルツさん、久しぶり」
 マルコア・ハミルトンが日焼けした顔が迎えてくれた。昨日、電話で土地に入る許可をもらっていた。
「あの洞窟は崩落の危険がある。入るのは勧めないよ」
「ああ、でも・・・たぶん、今日は崩れないよ」
 アーノルドは神を振り返り、平静な顔を見た。
「早く、嫁さんをもらえよ」
「そう言われても、ちょっと。サーフボードにも乗れない運動音痴なもんで」
 アーノルドのいじりに、小柄なマルコアは苦笑いする。年だけならメアリーと同じくらいなのだが。
 若い女たちは筋肉隆々なサーファーや、ホノルルのホテルで働くスマートな男に目が行く。農業や漁業の家業を継ぐ男には不利なご時世だ。
 マルコアの案内で崖下へ行く。草が生い茂り、細い木が連なって歩くにも苦労する。
「今は手入れしてないので、こんなになったけど、1941年当時は畑だった。だから、飛行機が不時着できた」
「そして、洞窟に隠した・・・と」
 10年前、あの機体を出す時、草を刈って開いたはずの道が無くなっていた。自然の回復力に驚くばかり。
 小雨が降ってきた。雨粒が草と葉を叩く、耳に騒々しい。
 切り立った岩の壁に達した。
 岩と岩の狭間に、ぽっかりと口が開いていた。真ん中の一番高い所で20フィート、入り口付近の幅は70フィートほどもある。
「何度見ても、大きいなあ。飛行機がすっぽり入るはずだ」
 アーノルドは洞窟の天井を見上げ、息を飲む。マルコアが笑った。
「自然の洞窟じゃない。昔々、ネイティブハワイアンの戦士たちが作った砦の一つさ。進駐して来たアメリカ軍や宣教師と、アメリカの後ろ盾を受けたカメハメハの一族と、オアフの戦士たちは戦った。200年前からある遺跡だ、まだ認められてないけど」
「200年前の砦・・・だったのか」
 アーノルドは洞窟の入り口に立ち、壁を手でなでた。10年前には、飛行機ばかりに気が行って、洞窟の歴史を鑑みる事は無かった。
 ハンドライトで足元を照らしながら、神は奥へ進んだ。次第に狭くなるが、天井の高さは変わらない。
「サーファー連中が度胸試しで来るらしい。あいつらが残したゴミだらけだよ」
「うむ、彼らは戦いを望んでいない」
「は?」
 マルコアの忠告に、神は答えた。しかし、マルコアには首を傾げる答えだった。
 たき火の跡があった。新しいので、サーファーたちのだろう。周囲には紙くずやビールの空き缶が散乱している。
 さらに奥へ進み、神は足を止めた。壁の端にライトを当て、マルコアを呼んだ。
 石を積んで段になっていた。何かで飾れば祭壇に見える。タバコの吸い殻が空き缶に盛られて、供物のように見えた。
 薄い石を除けると、下に何かある。ぼろぼろの紙に包まれた物を取り出した。指でつまむと、紙は砕けた。古い油紙のようだ。

 ハミルトンの家へもどった。マルコアはガレージを自分の部屋にして、色々な機械を置いている。
「一昨年、お爺ちゃんが死んで、遺品を整理してたら、日記が出てきた。飛行機が来た日の事が書いてあった」
 マルコアは棚から古いノートを出した。開くと、色あせた紙に豆粒のような字が並んでいる。昔は紙が貴重品だったので、昔の人は字を小さく書いて紙を節約したのだ。
 ルーペの下に置き、問題のページを読んだ。
「12月7日、昼前、畑に飛行機が降りた。翼と胴体に赤い丸のマーク。降り立った3人は礼儀正しく、戦士と見えた。飛行機を砦に安置し、彼らを村の客人としてもてなした。彼らの一人は英語が話せた。彼らと話し合い、そこでアメリカと日本の戦争を知った・・・」
「ラジオを聞いてなかったのか、村に警察や軍はいなかったのか?」
 アーノルドは疑問を呈する。
「村にラジオは無かったんだね、当時は高価だったし。ランプが主流の村では、まともに電気が来てなかったようだ。金持ちの白人やカメハメハの一族は、山向こうの乾いた土地に住んでいたし。警察や軍は、何日かごとに巡回してたようだけど」
 むう、アーノルドは口をつぐんだ。
「アメリカ人の家では当然の物も、ネイティブの家では・・・か」
 70年前、ここは貧しいネイティブハワイアンの村だった。山を隔てて、天と地ほどに生活は違っていた。自分たちをアメリカ人と思っていない村人は、日本軍を敵と見なさなかった。その事を、今の人間が責める理由があるのか。
 あの時代、軍関係者を主体とするアメリカ人はハワイで最も裕福な層だった。同等の生活をしていたのは、アメリカと関係の深いカメハメハの一族だ。中国や日本からの移民たちは、一段低い生活をしていた。さらに貧しい、昔ながらの生活をしていたのがネイティブだった。そんな階層社会はハワイ政府が意図的に作りだした。
 ネイティブを含め、ハワイ全体が豊かになるのは戦争終結後の事。太平洋航路の要衝として、ハワイは世界的な観光地になった。ネイティブの生活と習俗は観光資源として重用された。
「誰かが通報して、アメリカ軍が村に来たのは3日後だった。ほら、このページさ」
 マルコアはノートのページをめくる。
「軍が来ると知り、日本兵たちは浜に出た。村長に歓待の礼をのべると、短刀を胸に刺して死んだ。死体はアメリカ軍が持ち去った。砦に安置した飛行機の事は教えなかった・・・」
 ふう、アーノルドは長いすに身を投げた。
「日本人ならハラキリが有名なのに、胸を刺して死んだんだね。首を切れば、もっと簡単に死ねたのに」
「サムライは首切りを嫌うんだ。日本では、喉を突くのは女の死に方だ。そして、ハラキリは難しい、なかなか死ねない。その状況では、死にきれずに苦しんでるうちに、捕虜になりかねない。たぶん、あばら骨の下から心臓を突き刺して死んだんだ」
 アーノルドは日本兵の自害に同情していた。10才の頃には、日本人を殺したいと願っていたはずなのに。
 マルコアはノートを閉じた。
 洞窟から持ち帰った油紙の包みを開く。パリパリ、紙が砕けていく。
 鉄の箱が出て来た。錆びて、穴も空いている。箱を開けると、革表紙のノートがあった。
 慎重にノートを開く。しかし、紙と紙が張り付いて開かない。ゆっくり剥がすと、写真が出て来た。3人の男が並んでいる。
「日本兵か!」
「たぶん・・・きっと」
 日本の字はマルコアもアーノルドも読めない。コンピューターで翻訳をかければ、なんとかなるだろう。
 後ろで、神は二人をじっと見ていた。
 いつの間にか、雨が止んでいた。

 シュワルツ自動車修理にもどった。
 工場の玄関前に箱があった。伝票を見て、アーノルドは声を上げた。
「やっと塗料が来た。これで97式の残りを塗れる」
 箱を開けた。塗料の缶が入っていた。どれも環境に優しい水性塗料だ。
「濃い青緑は機体の上面、上から見た時は海面と同じ色になる。薄い青がかった灰色は機体の下面、下から見上げた時は空の色になる。こっちの赤は国籍を示す日の丸、白は日の丸の下地に塗る」
 おもちゃを手にした子供の顔で、アーノルドは箱を工場へ運び込んだ。
 スプレーにコンプレッサー、乾燥用のライトを出す。塗装の準備だ。立っている者は神でも使え、と神に指示して手伝わせた。
 97式は最高速度でも時速は300ノット以下、外部に爆弾などを吊したら100ノット以下が巡航速度になる。これくらいの速度なら、使い慣れた自動車用の塗料で十分だ。
 どどど、車の音がした。工場前に複数台が来た様子。
 アーノルドは準備の手を止めた、いやな予感がする。窓からみれば、ピンクのピックアップと並んでピカピカの新車が列を作っていた。
 神が外へ行く。あわてて追った。
「あれよ、あの男!」
 メアリーが金切り声で神を指差した。
 後ろのミニバンから長身の男が降り立つ。右手で十字を切り、ゆるりと向き直る。左手に大きなハードカバーの本がある、聖書だ。
「わたしはパトリック神父の助手を務めるファーロングと申します。あなたですか、昨日メアリーさんと言い争ったのは」
「言い争いなど、していない。わたしは真実を述べただけだ」
 ふっ、ファーロングは余裕を見せつつも、ぴくりと眉を動かす。
「とりあえず、あなたのお名前から伺いましょう」
「名など、好きに呼ぶが良い。ただ、わたしは神としてある者」
「えっ?」
 意味不明な答えに、ファーロングは反応に困った。メアリーから聞いた通り、神を自称する者とは理解した。
「神を知らぬ者は、時に尊大に振る舞うもの。神の言葉に耳を傾けぬ者には、等しく罰が下ります。そうならぬ前に改心なさい」
 また、ファーロングは右手で十字を切った。
「罰が下るとは、誰がどこから下すと言うのか」
 神が言い返した。
 ぐっ、ファーロングの口が歪んだ。
「天の神は全てをお見通しです。神の御心を感じようと努めなければ、あなたが歩こうとするたび、大地はあなたを嫌い、足元に穴を空けては、あなたの歩みをジャマするでしょう」
 言いながら、ファーロングが踏み出した。
 何という不運か、その足元にポッカリ穴が空いていた。穴に足をとられ、ファーロングは大転倒した。顔から地面に突っ込んだ。
「こ、これは・・・」
 ファーロングは顔の土を払って立ち上がる。と、後ろ足が穴に入り、今度は背から転倒。前も後ろも土まみれになった。
「きゃあ、ファーロング様っ!」
 メアリーが悲鳴を上げる。男の耳には痛い高音域の悲鳴。
 アーノルドは工場脇の洗い場へ行く。バケツと雑巾、モップもある。
 メアリーも駆けつけた。蛇口をひねり、バケツに水を入れようとする。
「良いですか、迷える方よ。改心して、神の御心に従うのです。さもなくば、空行く鳥たちはあなたを嫌い、あなたの上を飛ぶたび、あなたに糞を落とすでしょう」
 その時、影がファーロングを過ぎった。ぺちゃ、肩に白い物がかかった。緑色が混じった液体状のものだ。
 何か、と空を見上げると、また影が過ぎった。べちゃっ、今度は顔にかかった。少し口と鼻に入った。何という不運であろうか・・・
 アホーッ、工場の屋根でカラスが鳴いた。
 本来、ハワイにカラスはいなかった。しかし、いつの頃からか住み着いていた。貨物船などに乗って渡って来たと推測されている。
 神は黙してファーロングを見ているだけ。
「あなたの汚れた魂を、この聖水で清めてあげましょう」
 けほっ、喉の糞を吐き出し、ファーロングが懐から小瓶を出した。その栓を抜こうとした時、横から水の噴流を浴びた。
 何と言う不運か、メアリーが蛇口をひねった。その先にホースがつながっていた。水がホースを伝わり、ホースの口が水の圧力でファーロングに向いてしまった。
 土まみれの上に、糞を落とされ、ついでに全身に水を浴びた。ファーロングは言葉を無くした。
 メアリーが蛇口を閉めて、ファーロングは息をついた。聖水の小瓶は泥の中に落としてしまった。
「今日は・・・ちょっと・・・またにしましょう」
 ファーロングは神に背を向けた、足取りはゾンビのよう。
 まさか・・・と、アーノルドは神を見直していた。


12月4日


 夜明けの道をステーションワゴンが行く、ボディは少しサビが浮いていた。運転するのはマルコア・ハミルトンだ。
 マルコアはシュワルツ自動車修理の前に車を止め、勝手知ったる他人の家と玄関をくぐった。で、足を止めて息を呑んだ。
 工場の中は、半分がビニールで覆われていた。少し曇ったビニールの部屋の中に、97式攻撃機があった。尾翼まで塗装され、翼と胴体には日の丸も入っている。
「わおっ」
 機体に触れようとして、マルコアは手を止めた。まだ乾いてないかもしれない。
「お早う」
 アーノルドはビニールの外から声をかけた。マルコアが小躍りしてビニールの部屋から出た。
「いよいよ完成だね」
「どうかな。今日はエンジンの試運転をしてみよう」
 神が朝食の準備をしていた。皿は2枚で間に合うはずだったが、もう1枚が必要になった。
 いつものようにサンドイッチとパイナップルに牛乳の朝食。違うのは3人がテーブルを囲んでいる事。
「ほら、見てよ」
 サンドイッチを頬張りながら、マルコアがノートパソコンを開いた。
「赤外線で撮ったり、紫外線で撮ったり、画を重ね、コントラストを調整して、こうなったよ」
 日本兵の写真がクリーンナップされていた。まだ30才前であろう若い顔が並んでいる。
「真ん中がオノダ中尉、攻撃機の指揮官だ。航法と爆撃を担当してた。左が操縦のマツイ軍曹、右が後方銃座のエンドウ一等兵だ」
 むう、アーノルドは画面に見入った。ようやく、修理中の機に乗っていた者の顔と名前がわかった。
「写真は、もう一枚あった。こちらはオノダ中尉の家族だね。妻はヨネ、子供は7才でタロウと言うらしい」
「7才!」
 キモノ姿の妻、横に立つ帽子の子供。あの当時に7才ならば、アーノルドと同じだ。
「ノートの最後の文を翻訳できたよ」
 マルコアは画面を切り替えた。日本語の文章に平行して、英語の文章が並んだ。
「真珠湾への第一次攻撃に参加するも、投下装置不具合により、魚雷を抱えたまま帰艦する。修理して、第二次攻撃に出発。岬前でアメリカ軍戦闘機と遭遇。編隊からはぐれる。この頃よりエンジンが不調。飛び続けるのは困難となり、魚雷を外洋に向けて投下。近所の草地に不時着した・・・もうすぐアメリカ軍が来るらしい。ここで戦っても、また逃げても、村人に迷惑となる。御国への奉公は成らず、村人からの御恩に報いる事も成らず、進退窮まる・・・」
「日本から1万キロ以上も旅して、はるばるハワイまで来て、何もできなかったか。それで、自決か・・・」
 アーノルドはコーヒーを入れ直した。父、ウエルナー・シュワルツの無念を思った。
 父は戦艦アリゾナの36センチ主砲塔の士官だった。真珠湾を攻めた日本軍は航空機が主力だ。飛行機相手に、ましてや真珠湾の中では36センチ砲の出番など無い。湾の外に出れば、主砲を撃つ場面があったかもしれない。父は砲塔の中で、じっと時を待つしかなかった。待つ内に、火薬庫に爆弾が命中した。

 ホノルルのホテルのスイートルーム、神父のパトリックは朝食を取っていた。説教を控え、ステーキは700グラムと軽めにした。
「尊師様、お手紙が届いております」
 助手のバンジョーがテーブルに大きな封筒を置いた。個人的な手紙ではなく、神父への通信だ。
「ったく・・・人の朝食のジャマをするのが、教会本部は好きだな」
 封筒の表を見れば、教会本部から来たとわかる。大概の場合、大きな封筒は悪い報せだ。
 ナイフを置き、フォークは口にしたまま、封筒を開いた。文書を取り出し、フォークを口から取って皿の肉に刺した。
 もぐもぐ、肉を噛み砕きながら文書を読む。ごくりと飲み込み、首を傾げた。
「破門、だそうだ。麻薬業者と癒着が・・・それが、どうした。わたしは麻薬中毒患者を増やしておらん。救いを求めて来る患者に、少々の施しをしているだけだ」
 文書を投げ出し、パトリックはフォークを取る。食事を再開した。
 肉を全て胃袋に入れ、グラスのワインを飲み干した。げふっ、と息をついて、ナプキンを置く。食後の葉巻に火を点けた。
「破門となりますと、今日の説教は?」
「無論、予定通りだ」
 バンジョーは一礼して下がった。
 パトリックは葉巻で煙をくゆらせながら、部屋をうろつき歩く。いらいら、食後の消化に悪い心理状態。
「尊師様、今日の服はどうしましょうか」
 助手のクロフォードが服を持って来た。
 数種並べて見る。背広にするか、ガウンにするか。破門となった今は、黒の背広が良さそうだ。白のネクタイを合わせて選んだ。
「教会本部からの件、どう信者に伝えましょう」
「放っておけ。奇跡を起こしてみせれば、どちらが真実かわかる」
 奇跡、と聞いてクロフォードは身を固くした。
 ふふふ・・・はははは・・・パトリックは笑った。自身を鼓舞する笑いであり、教会本部を嘲笑った。
「アヘン、ヘロイン・・・麻薬は数多い。しかし、どれもアメリカの歴史と深く結びついている。先住民に麻薬を与え、その常習性をもって教会へ誘致した事実は否定できない。麻薬が傷付いた戦士の苦しみを癒やしたればこそ、イギリスに打ち勝ち、アメリカは独立を得た。麻薬があったればこそ、北軍は南軍に勝てた。麻薬のおかけで、日本を打ち負かした。麻薬がアメリカを作ったのだ」
 ふう、とパトリックは深呼吸した。興奮が収まらない。
「今更、麻薬を否定しようとする教会本部に、どれほどの存在価値があるのか。最早、あれらは形骸である。いや、形骸でしかあり得ない。あえて言おう、カスであると!」
 拳を振り上げ、パトリックは断言した。
 窓の外、ホノルルの空は晴れていた。

 アーノルドは工場の扉を半分開いた。太陽のまぶしさに、サングラスをする。
 マルコアにも手伝わせ、エンジンを載せた架台を外に出した。
 神は柱にもたれ、二人のする事をじっと見守る。
 バッテリーをつなぎ、気化器にガソリンを入れた。星形エンジンの真ん中、クランクシャフトに木製のプロペラを取り付け、手で回す。まず、オイルを機械になじませなくてはならない。
「ずいぶんスムーズになった」
 アーノルドはプロペラから手を離し、肩をもんだ。機械の調子は良さそうだが、自分の肩に引っかかりを感じた。
「ゼロファイターはプロペラの根元に大きな三角のカバーがあるけど」
「あれは可変ピッチ機構のカバーだよ。97式はカバーを付けない事が多い。今日は固定プロペラで試験だ、カバーは無し」
 プロペラの反対側、エンジン後端のエナーシャにクランクを着け、ゆっくり回す。
 電気回路をつなぎ、スロットルレバーを少し開いた。
「よおし、いってみよう」
 アーノルドはレバーを引き、エナーシャのクラッチをエンジンにつないだ。
 バルル・・・パパパッ・・・
 プロペラが回った。排気管から黒煙が出る。古いオイルが燃えて、やがて煙は薄い青へ。
 げほっげほっ、煙を吸ったマルコアが咳き込んだ。
 最新の自動車のような排気ガス処理のデバイスは無い。排気には強い刺激臭がある。プロペラの起こす風がガスを拡散して、少し臭いは薄くなった。
 ガタガタ、架台が振動した。まだエンジンは低回転だ。
 パパパッ、パパパッ、不連続な排気音。排気管が短いので、排気が空気に当たって衝撃波を作っている。これは排気抵抗になり、エンジンの出力ロスとなる。
 排気抵抗を減らすには、十分な長さの排気管を組み合わせ、排気と排気を干渉させる方法が自動車で使われている。しかし、長く重い排気管を飛行機は嫌う。飛行機は小さな排気抵抗よりも軽量化を優先しているのだ。
「よし、止めろ」
 アーノルドは指示した。マルコアはスロットルレバーを倒した。
 バババッ、エンジンの回転が上がった。架台がさらに震え、ずりずり、土煙を巻き上げて動き出した。
「逆だ、エンジンを止めろっ!」
 アーノルドが怒鳴った。が、エンジン音にかき消され、マルコアには通じてない。
 バババッ、架台が動く、プロペラの推進力で。生き物のようにアーノルドを追かける。回転するプロペラと接触し、命を落とした整備士は数知れない。
 パパ・・・ぷすん、エンジンが止まった。風と土煙も収まった。
 気化器のガソリンが尽きたのだ。燃料タンクをつないでないのが幸いした。
 命拾いで、アーノルドは大きく肩で息をした。訳がわからず、マルコアはポカンとするばかり。
 熱くなったエンジンからは、鉄が焼ける臭いがした。オイルとガソリンの臭いも混じり、自動車工場らしい雰囲気だ。
 パパーッ、クラクションを鳴らしてピンクのピックアップが来た。メアリーだ。
 ドアが開いて、ぴょんと飛び出したのは女の子。両手を掲げてアーノルドに駈け寄った。
「おじいちゃん!」
「おおっ、マカナ、また来てくれたんだね」
 アーノルドの爺マインドが爆裂、顔が土砂崩れを起こした。
 メアリーも降りた。娘と抱き合うアーノルドを見て、にっと意味深な笑みを投げた。
「お爺ちゃん、いよいよ今日よ。パトリック神父様の奇跡を見て、人生を考え直す時よ」
「奇跡だと?」
 メアリーの言葉に反応したのは、神だった。
「奇跡・・・ですか」
 へへへ、マルコアはアゴをなでて、鼻をひくつかせた。
 あっちの男二人は予定外。むむ、メアリーの笑顔も凍り付いた。
「おじいちゃんも行くの?」
「おおっ、マカナのためなら、地球の裏側だって飛んで行くさ」
 孫にも等しい娘には、決してノーと言わないアーノルド爺である。

 アーノルドはメアリーのピックアップに乗った、マカナと一緒だ。マルコアのステーションワゴンで神はついて行く。
 ドールプランテーションの先に真新しい建物があった。前の駐車場には車があふれている。
 メアリーに率いられ、マカナを抱いたアーノルドが行く。神とマルコアが続いた。
「お早うございます」
 入り口のドア前でファーロングが出迎えた。神の姿を見て、一瞬たじろぐも、やや引きつった笑顔を作った。
「あなたもいらしたのですか。今日は運命の日になるでしょう。パトリック神父と出会えば、全てが変わります」
 さらに言葉を重ねようとして、ファーロングは口を閉じた。昨日の事を思い出してしまった。
 神は一瞥しただけで何も語らず、彼の前を素通り。中へ入った。
 講堂には静かなBGMが流れていた。大理石の床板を踏みしめ、中ほどの列の長いすに皆で座る。
 マルコアは十字架のキリスト像に注目した。台座から棘の冠まで、金色を存分に使った豪華な作りだ。
「中世イギリスのある教会では、あの像に細工をしたらしい。説教の途中で目と口をパクパク動かしたんだって。それを見た信者が、奇跡が起きた、と驚いたり喜んだりした」
「時々、キリスト像やマリア像が涙を流した、とニュースになるね」
「昔は、像の眼に宝石をはめ込む場合があった。像本体との熱伝導率の差から、眼球の宝石が結露して水が溜まり、流れ出す。傍目には、涙が流れるように見えただろう」
「色んな見方があるものだ」
 マルコアとアーノルドの歴史談義に、メアリーは歯を剥いた。
 神はゆるりと集まった聴衆の顔を見た。根っからの信者は半数くらい。他は、アーノルドのように誘われて来た人たちだろう。パンクな衣装にサイケなメーク、明らかに場違いな者も混じっている。
 BGMが止まり、静かになった。
 祭壇にパトリック神父と弟子たちが並んだ。
「真の神ならば、人は皆、その言葉の前にひれ伏すだろう。が、わたしは凡俗の身、ただの人である。神の言葉を伝えようとしても、耳を傾けぬ者、耳を塞ぐ者のなんと多い事か。ゆえに、時には、こんな物を手にする必要にかられる」
 パトリックは剣を取り出した。身の丈1メートル、柄だけでも50センチはあろう銀色に輝く大剣だ。
 弟子たちが手に板を持って、パトリックを囲んだ。
 ぶんぶん、大剣が振られた。
 パカンパカン、板が次々に割れて床に落ちた。メアリーが立ち上がって拍手、他の信者からも拍手がわいた。
「カラテの試技と同じだ。木の木目に沿って叩くと、小さな衝撃で板が割れる」
 マルコアが解説する。アーノルドも頷いた。
 パトリックは剣を水平にして、観衆へ目を向けた。特に、板割りの技に驚いていない者を注視した。マルコアとアーノルド、そして神を。
 割れて床に落ちた板が片付けられた。
 バンジョーがボウルを持って来た。黒い液体が入っている。
 パトリックはハケで黒い液体を剣に塗る。銀色の刀身が黒くなってしまった。
 この時、一滴の液体がハケからこぼれ、床に落ちた。が、パトリックは気にもとめない。
「神よ、我に力を!」
 パトリックが剣を天に向けて掲げた。バンジョーがロウソクの火を近づけると、ぼう、剣が燃えた。
 ぶんぶん、パトリックは火の着いた剣を右手で2度3度振る。
 左手に布を持ち、燃える剣の根元をつかんだ。ひゅっ、布を剣の切っ先まで滑らせると、炎は消えていた。
 パトリックが剣を掲げた。さっきまでとは剣の輝きが違う、金色になっている。
「奇跡だ、銀の剣が黄金の剣になった!」
 バンジョーが叫んだ。
「パトリック様、ハレルヤ!」
 またメアリーが立ち上がり、拍手を送る。他の信者も習って立ち上がり、拍手を送った。イエイッ、とパンクな奴らまで拳を突き上げる。
 はあ・・・アーノルドは肩を落として、ため息をした。
「なんだ、火メッキかよ」
「物知りだな」
「まあ、自動車修理を長くやってると、色々な塗装やメッキの知識が付いてしまってね」
 神がほめる。しかし、自動車修理の常識を誉められても、プロとして嬉しくない。
 タールなど油性の液体に金粉を混ぜておく。それを塗り、火を点けて油分が無くなると、後に金の薄膜が残る・・・これが火メッキだ。古代メソポタミアなど、3000年も前からの技術である。問題は火の温度だ。高温の火だと、下地の金属が変性してしまう。より低温の処理ができる水銀アマルガム法が現れると、火メッキは廃れてしまった。現代では化学メッキ、電気メッキに真空蒸着など、より強度の高いメッキ技術が存在する。
「確認しよう」
 神が立ち上がった。マルコアの前を通って長いすを抜け、通路へ出た。
 拍手が続く中、パトリックと神が対峙した。
 すたすた、近寄る男にパトリックは目を見張った。バンジョーを一瞥し、シナリオに無い出来事を警戒した。
「待て、何者だ?」
「神である」
「えっ?」
 あり得ない答えに、パトリックもバンジョーも戸惑う。ファーロングだけが両肩をすぼめた。
 神はパトリックの手から剣を奪った。あまりの早業に、パトリックの手は剣を持っていた時のままだ。
 左手で剣の柄を持ち、神は右手の爪を剣に立てた。切っ先から柄の根元まで引き下ろす。
 ギギギギイーーーッ、耳に痛い音が響いた。マカナは両手で耳をふさいだ。
 神は右手を剣から離した。ふっ、右手の先に息を吹き、爪に付いたカスを落とした。
 剣には切っ先から根元まで、爪の痕が付いてしまった。黄金の刀身に銀色のスジが3本、金が剥がれて地の銀色が出た。
 火メッキは古い技術だ。故に、熱や湿気、衝撃などに弱く、剥がれやすい。
「アーノルド・シュワルツ、君は正しい。これは確かにメッキだ」
 神は剣に付いたスジが皆に見えるように示した。そして、振り下ろした。
 バン、剣が大理石の床に刺さった。切っ先が見えない、20センチ近くもくい込んだ様子。
 キイイーーーン、床に刺さった剣は細かく震え、金属音を発した。やがて、静かになった。
 パトリックは剣の柄をにぎり、抜こうとした。両手で引いても、足をテコにしても、剣はビクともしない。
「王の器ではないな」
 神は首を振る。
 パトリックは剣にかけた手から力を抜き、肩で息をする。大量の汗が額から顔に流れた。
「きさま・・・な、何者だ?」
「すでに言った。神である」
「な、何を戯言を! きさまこそ、神の怒りを思い知れっ!」
 剣から手を離し、パトリックが顔を赤くした。
「神を騙るより、神の前にひれ伏す事を覚えよ」
 神は静かに言った。
 パトリックの顔が、さらに引きつる。ああっ、ファーロングは昨日の事を思い出して目を閉じた。
「おのれ、言わせておけば」
 パトリックは手を伸ばして踏み出した。
 と、何と言う偶然か、剣に油を塗る時に、油の一滴が床に落ちていた。その上にパトリックの靴が乗った。
 つるるーん、足が滑って、パトリックは神の足元へダイブ。どってーん、大の字に突っ伏した。
「あ、ひれふした」
 マカナが言った。子供らしい素直な言葉だ。
 頭を床に打ち付け、パトリックは気が遠くなった。立とうとするが、目が回っている、また床に突っ伏した。
「尊師様」
 バンジョーが駈け寄り、剣に手をかけた。と、パキン、床板が割れた。
 グラリ、剣が揺れて、厚さ数ミリの床板パネルがめくれた。下地のモルタルが崩れて、剣が倒れた。
「なんだあ、薄っぺらなパネルだな」
 マルコアは足元の床を踏み直した。大理石の床と思っていたが、プリント化粧パネルだった。見かけと違い、以外と安普請のよう。
「そ、其奴を取り押さえろ」
 パトリックが倒れたまま声を搾り出した。弟子たちが出入り口を固めた。
 と、何と言う偶然か、弟子の一人の靴紐がほどけた。踏み出した足に靴紐がからまり、神へ向かってダイブ、床に大の字に突っ伏した。
 倒れた一人に足をひっかけ、また弟子の一人が神へ向かってダイブした。またもや、神の前にひれ伏す形になった。
 頭を床に打ち、鼻を打ち付けて鼻血をたらす弟子たち。他の弟子たちも、足元を気にして踏み出せなくなる。
「帰ろう、用は済んだ」
 神はアーノルドに語りかけ、出入り口へと足を運ぶ。遮る者はいない。
 ファーロングを一瞥し、神は扉を開けて外へ。ぎぎっ、扉が変な音をたてた。蝶番の油が切れたような音だ。
 アーノルドとマルコアが続いて外に出た。メアリーはマカナを抱き、泣き顔で叔父の背を追う。
 皆が外に出た。と、パトリックは立ち上がった。床に縛り付けられていた感覚が消えた。
 追え、と叫ぼうとして・・・ぎぎぎっ、建物が発する異音に気付いた。
 座っていた信者たちも、異音に気付いて立ち上がる。パンクな若者が外へ駆けだした。皆が続く、パニックになった。
「冷静に、座って下さい」
 バンジョーが叫んだが、誰の耳にも届かなかった。
 ぐらり、十字架が傾いた。キリスト像が外れて弾んだ。手足がもげ、頭がふっとんでバンジョーに当たった。ビニール製の人形であった。
 神はマルコアの車に乗り、駐車場を出た。メアリーのピックアップが続いて出る。
 バックミラーで教会を見た。
 パラパラ、プラモデルのように建物が崩壊していく。薄い土煙が立った。
「ひでえ、安っぽいなあ。信者からから集めた金は、どこへ行ったんだか」
 マルコアが首をひねる。
「どこへだろな・・・」
 神も首を振る。
「神様でも、知らない事があるの?」
「世の中には、あえて興味を向けたくない事もある」
「了解です」
 マルコアは納得して、前方へ目を向けた。


12月5日


 3人でテーブルを囲み、いつものようにサンドイッチとパイナップルの朝食をとる。
 テレビでは、教会が倒壊したニュースを流していた。
「あれだけの事故にもかかわらず、信者の皆様に死傷者はいません。これぞ、神の御業です」
 パトリックが胸を張ってインタビューに答えていた。彼の鼻には大きな絆創膏がある、昨日の転倒で傷付いた鼻だ。
 彼の後方では、空の下で十字架の立て直しが進んでいる。建物は後回しだ。
 と、十字架が揺れて、キリスト像が傾いた。手足の取り付け角度が歪み、シェーッ、とんでもないポーズに。
「カットしろ!」
 パトリックが叫んでカメラのレンズを手で塞いだ。

「いよいよエンジンを機体に取り付けるぞ」
 アーノルドはビニールの養生をはがし始めた。工場の半分を覆っていただけに、薄くて軽いが大量だ。丸めて畳んで、それでもサターンより大きな山になった。
 ビニールの山を工場の外に出し、ロープでくくって、さらに小さくする。ゴミのコンテナに押し込んで、終わったら昼が近かった。
 マルコアはエンジンと97式の機体を見て、笑顔をかくさない。
「試験飛行は何時? パイロットは誰?」
「いや、何も決めてない。まず、機体を組み上げてからだ」
「おれ、やりたい」
 アーノルドは目を剥いた。
「免許あるのか?」
「これが見つかってから、月2回のスクールに通ってる。夜間飛行はできないけど、日中の有視界飛行はできる」
 マルコアは免許証を出して見せた。
「地上滑走くらいなら、大丈夫だろうが。昔の飛行機だから尾翼が小さい、今のより難しいはずだ」
「たぶん、そうだろうね」
 マルコアは機体をなで、早くもパイロットの気分になった。
 パパーッ、クラクションを鳴らしてピンクのピックアップが来た。
 メアリーが大きなバスケットを手に降り立つ、いつものように食材が溢れるほど入っている。反対側のドアからは小さな女の子が出て来た。
「おおっ、マカナ」
 アーノルドが両手を広げて迎える。
「ゴディー、昨日はかっこ良かったよ」
 マカナが抱きついたのは神の方だった。
「ゴディー?」
 アーノルドが嫉妬で口を尖らした、ちょっと涙目になる。
 神はマカナに呼ばれて、はてと眉を歪めていた。
 昨日、教会で「神(GOD)である」と自分を言った。マカナはGODを名前と思ったらしい。
 メアリーとマカナが加わり、今日のランチは5人で取る事になった。

 ホノルルの市街地を見下ろすホテルのスイートルーム、窓から見る空は晴れていても、パトリックの顔は曇りである。おまけに、顔の真ん中の鼻には大きな絆創膏がある。
 ソファに足を投げ出し、ウイスキーのボトルに手を伸ばした。足音に、栓を抜きかけて止めた。
「尊師様、彼らが来ました」
 バンジョーが頭を下げて報告した。彼のあごにも絆創膏がある。
 パトリックはグラスに刺してあったチョコポッキーを1本取り、部屋を出た。カリカリ、細かく噛み砕きながら、バンジョーに続いて歩く。
 廊下の突き当たり、バンジョーが扉を開いた。すでに室内は煙が充満していた。
 ハンカチで鼻をおさえ、部屋に入った。虚ろな目つきで煙を吸う4人がいた。カーター、ニクソン、チャールズ、ドナルド、海兵隊上がりの傭兵たちだ。
「最近は、飛行機でも空港でも禁煙ばっかで、やっと吸える所に着いた。ああ、ほっとした」
 カーターが細い紙巻きタバコを口にして言う。彼の腕は入れ墨だらけで、肌の面積の方が少なく見えた。
 昨日までカリフォルニアのロサンゼルスにいた。急の呼び出し、空の旅でハワイに着いたばかりの4人だ。
「で、今回は何をやるんですかあ?」
 ニクソンが肩を回して言う。盛り上がった筋肉は見せかけだけではない。後ろから相手の首をねじって殺す、音無しの暗殺を得意にしている。
 ファーロングがテレビを入れた。教会の監視ビデオを再生して見せる。神を大写しにして静止画にした。
「此奴だ。神を自称する愚か者よ」
 むう、とチャールズが胸のロザリオを握った。
「そいつは、いけねえな。マリア様が怒るぜ」
 ドナルドは新しい葉を紙で巻き、また火を点ける。ふう、天井に向けて煙を吹いた。
「んで、どんな風にやるんですかい?」
 質問に頷き、パトリックはイスに腰を下ろした。
「衆目の前で殺せ。奴の死体が人の目に触れるように、な」
 無茶な要求に4人は顔を見合わせた。それぞれのポーズで考え始め、実行にかかる問題を洗い出した。
「となると、こちらも人に見られる事を覚悟しなければ。変装が必要だな」
「英語は使わず、アラビア語でいくかね。アッラー・アクバルってやれば、立派なイスラムのテロリストだ」
「なら、ライフルはAK−47で決まりだ」
 3人の意見は出たが、ドナルドは黙したまま考えている。
「他は、まかせる」
 パトリックは立ち上がり、ファーロングに後を任せて部屋を出た。
「こいつは、今どこにいるんだ?」
 ようやくドナルドが口を開いた。
「信者の1人が監視している。今から見に行くかい?」
 ファーロングの提案に4人は頷いた。

 アーノルドが電動クレーンのリモコンを操作する。
 星形エンジンがチェーンで吊られ、架台の上で浮いた。手で押し、機体に寄せる。慎重にボルトと穴を合わせて入れた。ナットをねじ込んで、仮止めする。チェーンを外して、架台を遠ざけた。
 ふう、アーノルドは息をついた。出来上がる前に自身の寿命が尽きるかも、と一時は諦めかけた復元が、今は完成の目前となった。
 右のナットを締めて、次は左のナットを締める。また右を締め、左を締める。タイヤのナット締めと同じ手順で、エンジンを機体に固定した。
 スロットルのリンクをつなぎ、燃料パイプを付け、回転計のコードをつなぐ。最後にバッテリーのコードを接続。
 神とマルコアにプロペラを持たせ、星形の中央のシャフトに入れて、ナットを締めた。機首にプロペラが付き、やっと飛行機らしくなった。
 実戦では、97式も三翅プロペラを着けていた。しかし、今は戦争ではない。試験段階であり、整備も簡単なピッチ固定の二翅プロペラを着けた。
「よし、外に出すぞ」
 工場の扉を開いた、右から左まで全開にする。外の光が建物内にあふれた。
 燃料が入ってない97式の重量は2トンちょっと、大型のピックアップ4WD車より軽いくらい。主翼下の左右脚をつなぐ牽引バーをサターンで引けば、ゆるゆると外へ出た。
 工場の扉を閉め、外の風が吹き込まないようにした。
 まだエンジンが裸でむき出し、飛行機としては恥ずかしい姿。それでも、完成に近付いた形は美しく感じた。
「マルコア、乗れ」
 アーノルドが指示する。
 わおっ、マルコアは喜んで翼に上がった。風防を開いて、小柄な体を操縦席へ入れた。97式の機体は細くて、席は狭い。大柄な体で乗り込むのは難儀するので、マルコアは適任だ。
 アーノルドも翼に上がり、操縦席をのぞく。
「日本の字だ。読めるか?」
 マルコアは首を振った。それでも、飛行機として計器の形式は同じ。よく見れば、ある程度は理解できる。
「チョークレバーを半分、スロットルを一目盛り開ける。そして、電源だ」
 スロットルを上げ下げする手信号を確認して、翼を降りた。機体の下にもぐり、牽引バーを確認。こいつが車輪の輪留めの代わりだ。
 アーノルドは神を手招きした。クランクを手渡しして、エナーシャを回すように言う。
 昨日は回した後で、肩に痛みを感じた。神の体は若い、力仕事を任せる。ついでにマカナからも離せる。
 97式には電動セルスターターが無い。バイクのキックスタートの要領で、エナーシャを手で回してエンジンを始動する。
「よし、行こう」
 アーノルドが声をかけた。
 神がクランクを回して、離れた。操縦席のマルコアがエナーシャをエンジンにコンタクトする。
 ブルルル・・・バン、排気管から煙が出て、エンジンが動いた。
 アーノルドは機体の正面に立ち、回るプロペラを見た。ちゃんと円運動している。右側に寄り、次に左側へ寄り、エンジンの振動を見る。機体とエンジンの結合具合を見た。機体の軸線とエンジンの軸線は、きちんと一致している。そのためにエンジンカウルを着けないでいる。低速回転では問題無い。
 手を上へ振り、スロットルを開く合図をした。
 マルコアは右手で了解の合図。左手のスロットルレバーを手前に引く、目盛りを一つだけ。また、一つだけ進めた。
 パララララ、エンジンの回転が上がる。機体の振動も増える。
 プロペラの起こす風が主翼に当たり、揚力が発生している。機体が上へ行こうとして震えているのだ。
「よし、もういい」
 アーノルドは両手を下に振る。マルコアはスロットルレバーを閉じた。
 しゅううう・・・プロペラが止まり、排気が止んだ。
 アーノルドは手袋をして機体に寄る。エンジンと機体の接合部に触れ、がたつきの有無を確認する。すべて問題無し、会心の笑みを浮かべた。

 さて、シュワルツ自動車修理から少し離れた道路っ縁、すすボケた色のミニバンが駐まっていた。
「あれだ、あの白髪頭がシュワルツだ。ちょい離れた筋肉野郎がターゲットだよ」
 双眼鏡をのぞきながらファーロングが言った。
 ドナルドは指で工場の大きさを測る仕草、その頭をカーターが抑えた。
「落ち着け、爆弾魔。ここは街外れだ。あれを吹っ飛ばしても、衆目の前で、と言う条件に合わない」
 ドナルドは口をへの字にして、かくと肩を落とした。
 後席では、ニクソンとチャールズが付け髭を試していた。
「これでどうだい、誰が見てもイスラムテロリストだぜい」
「昔々、汝殺すなかれ、と神は言われた。が、異教徒は別、人にあらずだ。バンバン殺して、神への奉仕とできる。シナイ山を出てから、モーゼは契約の箱を抱えて大勢の異教徒を殺した。マリア様もほめて下さる」
 ニクソンは付け眉毛をして、さらにアラビア風の装いを目差す。チャールズはロザリオを手に天を仰いだ。
「おっ」
 ファーロングが声を上げた。
 シュワルツ自動車では、工場の扉を開けて飛行機を入れる様子。

 工場の端から、アーノルドは長さ17フィートほどの架台を引き出した。直径30インチほどのボンベのような物が乗っている。
「見ろ、97式が装備する魚雷・・・ダミーだけど」
 ペンで魚雷の頭を叩いた。カーン、音が中で反響する。中は空っぽのよう。
「先端の信管や尾部のスクリューは飾りだ、動かないよ。でも、こいつを腹に下げてこそ、真珠湾に来た時の97式攻撃機になる」
「うーん、なるほど」
 アーノルドの説明に、マルコアは両手を握りしめてうなる。
「ったく、男ってのは」
 メアリーが呆れ顔。その横で、マカナが大きなあくびをした。
 夜が近付き、メアリーとマカナは帰った。

 シュワルツ自動車修理に夜が来た。工場は照明を落とし、明るいのはコンテナの事務所だけ。
 男3人がテーブルを囲んで明日の打ち合わせだ。 
「明るくなったら、エンジンカウルを付けよう。魚雷も下げて、見た目は完成だ」
 アーノルドは言って、その後の面倒な手続きを考えた。機械的には飛べても、法律的には、まだ飛んではならない97式である。
「まだ、飛ぶには不足があるの?」
「航空法に準拠した通信機とか、翼端の色付きマーカーライトとか、足りない物だらけさ。なにせ70年前の・・・外国の飛行機だ」
 簡単に空に上がれないと知り、マルコアも落胆の色を隠せない。
 はあ、2人ともため息。マルコアはテーブル上のボウルからパイナップルをつまんだ
 気が付くと、神の姿が無い。
 神は事務所を出て、離れた所から97式を見ていた。照明を落とした工場は闇の中、窓から差す街灯の淡い光が機体を照らしていた。
 パイナップルを口に入れ、マルコアが事務所から出た。
「彼らが来た」
「彼ら?」
 マルコアは目をこらしてもぐもぐ、神と同じ方を見る。薄明かりでシルエットになった97式の近くに、何かがいた。
 アーノルドも立ち上がり、事務所から出た。機体の近くに、確かに三つの何かがいた。
 手探りで照明のスイッチを探した。
 ガチン、柱のスイッチを入れた。工場内が明るく照らされた。
「今のは?」
 アーノルドは機体に駈け寄る。何かがいたはずの場所に立ち、右往左往して探した。
「彼らは去った」
「去った?」
 神の言葉に、してはならない事をしたと悟った。
「しかし、今のは?」
 アーノルドは動揺していた。どきどき、心臓の鼓動が治まらない。あるはずが無い、そう思っていた物を見てしまった。
 マルコアも同様だ。胸を手で押さえ、ぎぎ、歯を食いしばる。
「そうか、あれが必要だったのか。あれが無いと、やっぱり乗れない」
「あれが?」
 マルコアもアーノルドと同じ物を見たはずだ。しかし、感じた事には差があるようだ。


12月6日


 97式の機首にカボチャのようなエンジンカウルを装着した。ようやく飛行機らしい姿になった。
 プロペラも、97式本来の三翅プロペラを着けた。可変ピッチ機構は最低で固定した状態。
 工場の扉を全開にし、97式を外に出した。
 左右の主脚にしっかり輪留めして、マルコアが乗り込む。今日は操縦席に簡易トランシーバーを置き、地上との連絡に不備は無い。
 アーノルドが機体の正面に立ち、トランシーバーで指示を出した。
「電源オン、スロットルは1目盛り開け」
「了解」
 マルコアが復唱して機器を操作した。神はプロペラに手をかけ、指示を待っている。
 アーノルドが右手を回し、ゴーのサインを出した。神がエナーシャにつないだクランクを回せば、ブルルン、エンジンが黒煙を吐いた。
 パパパパッ、プロペラが回転して、排気が薄くなる。エンジンは順調に動いている。
 アーノルドは体を右に傾け、また左に傾けてカウルを注視した。エンジンカウルはプロペラの直後にあり、最も強い風を受ける部品だ。これが低速回転で震えるようでは、飛行機が離陸するなどあり得ない。
 マルコアは操縦桿を倒し、方向舵を動かした。まだ低回転で低ピッチなので、機体の尻が右へ左へ揺れただけ。
「オーケイ、停めろ」
 アーノルドの指示でマルコアは電源を切る。プルンプルン、すぐにプロペラが止まった。
 また工場の扉を開き、97式を中に入れた。
「よおっし、次は買い物だ」
 マルコアが張り切って言った。何を買うか思い付かないアーノルドは、イスに腰を下ろして頷くだけ。
 プルル、事務所の電話が鳴った。
 アーノルドが出ると、メアリーからだった。以前は週に一度の訪問だったのが、今週は毎日だ。
「おじいちゃん、どこか行く予定は?」 
「いや、別に何も」
「今、ショッピングセンターに来てるの。一緒にランチしない?」
 もう疲れたから、とアーノルドは断りを言おうとした。が、電話に可愛い声が混じって来た。
「おじいちゃんも来るの?」
「おうおう、マカナのためなら月までだって行くさ」
 電話を切り、アーノルドは立ち上がった。ほとんど条件反射で爺マインドが爆裂、反省も疑念も無し。

 マルコアの運転でお出かけだ。男3人で乗ると、小さなサターンは暑苦しい。
 真珠湾を通り過ぎ、オアフ最大のショッピングセンターへ。地下の駐車場に車をいれ、エスカレーターで階上のフロアへ。
 あう、アーノルドは目をつぶった。年をとったせいか、ケバケバしい色の看板やチカチカ光る文字盤が苦手になっていた。そんな物が溢れているのがショッピングセンターだ。
 フードコートへ行くと、ソフトクリーム店の前で出会えた。
 アーノルドはマカナの頬からクリームを指ですくってなめる。甘さに顔がゆるんだ。
「ランチの前に買い物して来る」
 マルコアが別行動を言い出した。時計を見れば、まだ午前の11時。
「ついでだし、みんなで一緒に」
 メアリーが言った。結局、皆でマルコアに付き合う事になった。
 さて、マルコアが行こうとする店はショッピングセンターの端、駐車場への出入り口に近い所だった。
「ミリタリー・・・WWU?」
「ワールドウオー2の事ですよ」
 マルコアの解説で、ショーウインドーの陳列が理解できた。第二次大戦時の軍服などのレプリカを売る店だ。
 アメリカ軍のみならず、ナチスドイツ軍、ソビエト軍、日本軍の軍服もある。マルコアは日本軍の中でも、飛行服の前で足を止めた。
 革製の飛行帽、ゴーグル、ライフジャケットを兼ねた上着は海軍独自の物。日の丸の鉢巻きに日本刀までセットになっている。
「た・・・高い」
 マルコアは唇を噛んだ。値札が想定より2桁ほど予算オーバーだ。
 アーノルドは首を振った。こんな小物まで凝る必要を感じてないし、飛行機本体の方でやる事が山積みだ。
 メアリーは店の品に興味無し。ふと店の外を見たら、ウインド越しに見知った顔がいた。
「あら、ファーロング様?」
 しかし、いつもの牧師姿ではない。メアリーと目が合ったとたん、ファーロングはプイと背を向けて去った。
 他人のそら似だったのか、とメアリーは首をひねる。
「ここはまずい、帰ろう」
 神が口をへの字に曲げ、店から出て行く。
「ゴディ」
 マカナがメアリーの手をすり抜け、神の後を追った。

 ファーロングはターゲットを確認して、ミリタリーショップの前から退いた。待機していたニクソンとチャールズに目配せ、そのまま歩いて距離を取る。
 濃いヒゲと眉で変装した二人は、バッグからAK−47を取り出した。弾倉を確認、安全装置を外し、コックを引いて初弾を送った。
 周囲の人が銃を持つ二人を見て、じわじわと離れて行く。そのために、ゆっくりと支度しているのだ。巻き添えは最小限に、しかし、観客は最大限に。それが雇い主の注文だ。
 ターゲットの男が店から出て来た。
「さあ、始めるぞ」
「おう」
 ニクソンとチャールズは短い合図を交わし、ターゲットを見すえた。
 一方、神も機関銃の男たちを見すえた。顔を向けたまま、ゆっくり壁つたいに歩く。
 AK47を天井に向け、ニクソンは引き金に指をかけた。
「イーッシャ、アッラー!」
 叫びながら3発撃つ。
 きゃあ、買い物客らが悲鳴で身を屈め、あるいは走り出した。人の輪が二人から離れ、間が大きくなっていく。
 神は足を止めた。きっ、とテロリストに向かい立つ。
「愚かな。言葉の献げ方を間違っているぞ」
 ターゲットは怯む様子を見せない。それどころか、怒りの言葉を向けて来る。ニクソンはAK47を水平にかまえた。都合良くも、ターゲットは壁を背にしている。流れ弾が他人に当たる心配は無い。
「ゴディ」
 マカナが神の腰にすがり付いた。払いのける事もできず、神は背後へ隠す。
 ニクソンはターゲットを見て笑った、子供を護る盾を気取るとは。機関銃の弾丸は後ろの子供まで貫通する威力がある、無意味なのだ。
「アッラー、アックバル!」
 チャールズが撃った。子供に当たらぬよう、ターゲットの頭を狙った。
 バン、弾丸が神の右耳をかすめ、壁に当たった。グレープフルーツを割ったような穴を掘った。
 神は動じない、じっと狙撃犯を見つめる。
 ぎりっ、チャールズは歯ぎしりした。表情も変えないターゲットは可愛くない。
「マカナっ!」
 メアリーが駆けつけ、マカナを抱いてしゃがんだ。神が後ろ手で背をたたき、メアリーとマカナを背後に動かす。
 巻き添えが二人、これは想定の範囲内。ニクソンとチャールズは共に引き金にかかる指へ力を込めた。
 2丁のAK47が火を噴いた。
 着弾の煙にターゲットの姿がかすむ。だが、まだ立っている。
 ババババッ・・・・弾が尽きた。1丁あたり30発の弾倉が空になった。
 神は背後で震えるメアリーを見た。マカナもメアリーの手の中で小さくなっている、二人とも無事だ。
「よし」
 静かに頷き、神は進み出した。
 ニクソンとチャールズは唖然、弾が一発もターゲットに当たっていない。二人の腕前が良かったのか悪かったのか、背後の壁には57発の弾痕で人型のレリーフができていた。
 が、驚いてばかりいられない。ターゲットが迫って来た。
 ニクソンは替えの弾倉をポケットから出す。空の弾倉を捨て、新しいのをはめようとするが、うまくいかない。
 チャールズはAK47を捨て、ポケットからトカレフを出した。銃口をターゲットに向けようとして、その腕をつかまれた。
 神はつかんだ腕を上へ向けさせた。銃口が上を向き、流れ弾の危険が小さくなる。
 バン、トカレフが暴発した。
 弾は天井に当たり、コンクリートのブロックが剥がれて落ちた。
 ゴン、コンクリート片がニクソンの頭を直撃。不幸にもカツラが取れて吹っ飛び、失神して倒れた。AK47に新しい弾倉は着いてない。
 チャールズは腕を振りほどこうともがいた。バンバン、また暴発した。
 と、何と言う不幸な事か、トカレフから射出された空薬莢がチャールズの口に入った。
 あっふがああっ、口の中が、喉の奥が焼けた。白い煙が口と鼻から出た。
 神はもがくチャールズの手から拳銃を奪うと、手を放した。
 チャールズは喉をおさえ、ようやく薬莢を吐き出した。もがくうちに、付け髭が取れた。口の中が焼けただれ、まともに息もできない。くの字に体を曲げて倒れ、呼吸困難で痙攣を始めた。
 メアリーは薄目を開け、周囲を見た。
 神を中心にできた人の輪から拍手が起きた。テロリストが二人とも倒れて、安全が帰ってきた。
 が、神は拍手に応えない。ガラス扉の向こう側、駐車場へ目をやった。
 カーターはエンジンをかけた。アクセルを床まで踏み込むと、きゅきゅっ、タイヤが鳴った。
 軍用車ハンヴィーを全速力でガラス扉に突っ込ませた。フロントガードのおかげで難なく扉を突破、店内へ乱入した。
 アクセルをゆるめず、ターゲットに向かって突進した。
 本来はニクソンとチャールズの逃走のために待機していたのだが、これはセカンドプランだ。ターゲットもろともニクソンとチャールズを轢き殺し、計画達成と証拠隠滅を一挙に図る。
 あと数メートル・・・カーターはターゲットの目を見た。怒りも驚きも無い、静かな目があった。
 ハンヴィーはマンホール上にさしかかった。
 と、この時、何と言う偶然か、水道管が破裂した。マンホールの蓋が水圧で飛び、ハンヴィーの車体底を直撃した。
 2トンを超えるハンヴィーの車体が宙に跳び、ひっくり返った。
 屋根から床に落ち、カーターは車内で宙吊りになった。目が回る、衝撃で平衡感覚をうしなっていた。回る目で、ハンヴィーを囲む大勢の足が見えた。
 武装警備員が来て、ハンヴィーを囲んでいた。
 ファーロングは事態の推移を見守るのを止め、よろけるように現場を離れる。あまりの偶然の重なりに、己の信仰を疑いたくなっていた。
「おお・・・か、神よ・・・」
 メアリーも震える口でつぶやいていた。
「わたしは、ここにある。大丈夫、もう安全になった」
 神は静かに答えた。
 メアリーの手の中で、マカナが神を仰ぎ見ていた。アーノルドは両手をにぎり、何もできなかった自分を恥じた。
 ちょうどマルコアは会計を終え、店の外を見た。ひっくり返った車、噴水・・・目を丸くした。

 シュワルツ自動車修理に戻ると、もう日が暮れていた。
 夕食はメアリーが用意してくれたスキヤキだ、日本から来たシチューのような料理。
 若い頃は分厚いステーキが好みだった。紙のように薄いスライス肉の料理など軽蔑したものだ。
 それが20年ほど前、この料理を知った。薄い肉がアゴと歯に優しい、胃もたれも少ない。女や老人向けの肉料理と言えるだろうか。
 料理にちなみ、スキヤキソングをBGMにした。軽やかながら、少し悲しげなメロディーだ。でも、追悼の歌のよう。故人の霊を食卓に招く・・・そんな日本の風習が歌詞に織り込まれている。
 マルコアが紙袋を開け、買い物を披露した。革の帽子、ゴーグル、日本海軍旗の鉢巻きだ。
「予算の都合で、これしか買えなかったよ。ジャパニーズ・ライジングサン! これを着ければ、気分はサムライ・スカイソルジャーだ」
 ははは、アーノルドは力無く笑いを返した。
「ジャパニーズ・ライジングサンか・・・けれど、太平洋戦争当時、アメリカ軍はダウニングサンと呼んでたぜ」
「ダウン・・・イング?」
「一般人が呼ぶ時は、せいぜい・・・レッドサンだったはずだ」
 日本人は太陽を赤く塗って表現する。朝日も夕日も同じ赤で描いてしまう。そんな日本の風習を理解しないまま、アメリカ軍は日本の旗をダウニングサン(夕日)と誤解していた。
 ヨーロッパ絵画では、朝日は黄色で表現する事が一般的だ。太陽神アポロンが乗る黄金の馬車の輝き、それを黄色系で表すのだ。赤く塗るのは夕日だった。だから、昔のアメリカ人は日本の旗を夕日と思っていた。実際、アメリカから見れば、日本は太平洋の西側、日が沈むところにある国である。
「アメリカ人がライジングサンと言うようになるのは、つい最近になってからさ。そう、マイクル・クライトンの小説からじゃないか。まだ30年も経ってないはずだ」
「つい最近なの・・・」
 80才を過ぎたアーノルドには最近の出来事である。が、30才前のマルコアには生まれた時からの事だ。
 1980年代末から90年代初め、勢いのある日本経済を指してアメリカ人は思った・・・太陽が西から昇る、と。それを小説にしたのが1992年の「ライジングサン」だ。21世紀になってからは、さらに大きな中国が現れた。
 気が付くと、神は事務所の窓縁にいた。
「彼らが来た」
 神は静かに言った。
 アーノルドは立ち上がり、窓へ行く。マルコアも並んで見た。
 街灯の明かりが外から差すだけ、薄暗い工場の中、97式が中央にある。その横に、何かがいた。
 昨夜と同じものが来た。それは確信できた。
 ごくり、ツバを呑んで、アーノルドは事務所を出て薄闇の中へ。電灯のスイッチを手探りし、はたと手を引っ込めた。
 抜き足・・・差し足・・・ゆっくり、音をたてずに97式へと近付く。
 それは人間だった。3人だ。
「ハロー、こんばんわ」
 声を抑えて挨拶の言葉をかけた。が、彼らは反応してくれない。
 アーノルドは彼らの前へ回り込む。97式との間に立った。
 彼らの顔を近くで見た。マルコアが復元した写真で見た3人だ。
「どうだい、君らが乗って来た97式攻撃機だ。わたしが復元したんだ。まだ地上テスト段階で、空に上がれる状態じゃないけどね」
 3人がアーノルドへ顔を向けた。が、表情は変わらず、また97式の方へ顔を向けてしまった。
「こいつを復元するには、ずいぶん手間がかかった。8割くらいは新しい部品になった。でも、おかげで、きみらが乗ってた当時よりパワーアップしてるぞ、20パーセント以上は確実だ。ガソリンはアメリカ製のハイオクだし、エンジンオイルも抵抗の少ない新品だ。そして、こんな部品も最新の物になった」
 アーノルドは部品を手にして出した。右手にはピストンリング、左手にはエンジンヘッドボルトだ。
 ピストンリングはピストンエンジンの内部抵抗の大きな要素だ。ピストンシリンダーの内壁と接触して、燃焼ガスを封じ込める役割がある。ヘッドボルトはピストンシリンダーとシリンダーヘッドを密着させ、燃焼ガスのエネルギーをピストンに伝える。
「君らが生きてた当時、日本はこれが弱かった。だから、ゼロファイターを含め、日本の戦闘機は故障率が高く、整備時間が長めで、稼働率は低かった。開戦当初、日本軍はアメリカと互角以上に戦えたが、戦闘を重ねていくと、まともに飛べる機体はどんどん減った。そして、ミッドウエーの頃には逆転した。以後は、日本軍はじり貧が続いて、ついにゲームセットとなった」
 アーノルドは自説を述べて彼らを見た。まだ反応は無い。
「なぜ、これが弱かったか? つまるところ、溶鉱炉の温度管理とか、プレス機の圧力管理とか、ねじ山の表面処理とか・・・設計図や完成品を見ただけじゃ分からない部分だな。どんな最新技術も、そんな根っこのところを疎かにしたら成り立たないものさ」
 ふふっ、アーノルドはピストンリングを手に自慢の笑み。が、彼らは反応しない。
「オノダ、マツイ、エンドウ・・・だよね」
 マルコアが近寄り、小声で語りかけた。頭に巻いた日の丸の鉢巻きを自慢気に指差す。
 3人は反応しない。と、滑るように動いた。扉を抜け、外へ出て行った。
 アーノルドとマルコアは3人を追って出た。
 街灯から離れた薄闇の中、道路の縁に3人はいた。じっと南東の方を見ている。
 その方角には真珠湾がある。さらに先、ホノルルの街が不夜城のごとく夜空を照らしていた。
「そう、おまえさんたちは、真珠湾へ行くはずだったんだな」
 アーノルドは3人と並んで立ち、一緒に南東の夜空を見た。
「でもな、爆弾や魚雷でアメリカと戦っても、アメリカ人に悲しみや憎しみを植え付けるだけだ。アメリカと戦い、なおアメリカ人から尊敬された男がいるぞ。ヒデオ・ノモ・・・トルネード!」
 アーノルドは野茂の投球フォームをまねて見せる。次に、バットを振る仕草、ふりこ打法をまねた。
「イチロー・スズキはたくさんのメジャーリーグ記録を書き替えた。彼らこそ、真の戦士だ。彼らの勝利に、アメリカ人は喝采したんだ」
 拳を掲げて力説するアーノルドだが、3人の姿は闇に溶け込んで消えてしまった。
「仲良くなれたみたいだね」
 マルコアが言うと、アーノルドは首を振った。
「はてさて、どうだかな。死んだせいか、ちっとも人の話しを聞こうとしない奴らだ」
 二人は真珠湾の方角へ顔を向けた。
 輝くホノルル市街の上、星がまたたいている。今夜は、やけに多く見える気がした。


12月7日


 日めくりカレンダーを一枚取る。日が進み、12月7日となった。
 アーノルドは洗面台の鏡に向かい、入れ歯の具合をチェック。ひげ剃り後をチェックし、薄くなった髪に櫛を入れた。
 今日は父の命日だ。国立墓地に墓碑はあるが、あそこにあるのは名前だけ。実際には、父の遺骸はアリゾナの中にある。
 背広を着て、ネクタイを締めた。時計を見ると、朝の7時を回ったところ。
 ガラガラガラ・・・工場から音がした。扉が開く音だ。
 何事か、と事務所のプレハブから出た。
 神が牽引バーを取り、97式を外へ引き出すところ。たった一人で2トンにもなる機体を、たいした腕力だ。
「おいおい、何をする気だ」
「初飛行だってさ」
 アーノルドが問いかけると、マルコアが答えた。
 日本軍の飛行帽をかぶり、鉢巻きもしている。網目のベストにトランシーバーと携帯電話を入れ、通信も確保した。
「飛行登録もしてないのに、パラグライダーじゃないんだ。勝手に飛んだら、それこそ法律違反で」
「問題無い、今日だけだ。マルコア、乗れ」
 神がアーノルドに反論した。牽引バーを外して、新たに輪留めを主脚にはめた。
 マルコアは神の指示に従い、操縦席へ入る。計器を確認、エンジン始動の準備をした。
「この規模の機体が飛ぶ時には、事前に飛行プランを提出して」
「大丈夫。真珠湾で会おう」
「真珠湾で?」
 ぱくぱく・・・真珠湾と聞いて、アーノルドの口は動かなくなった。
 今日は父の命日だ。毎年、真珠湾のアリゾナに詣でている。神も行くと言う、97式で行くつもりらしい。
「オーケイ、準備良し」
 マルコアが操縦席で合図した。神は機体の横に立ち、イナーシャにつないだクランクを回した。
 ブン・・・ブルル・・・ばばば・・・エンジンが始動し、プロペラが回った。
 神はプロペラの回り具合を見ながら、主翼の後ろへ行き、ひょいと操縦席の風防へ手をかけた。マルコアの後ろ、爆撃手の席へ入る。
「待てっ、こんな所から飛べるはずない。ここは滑走路じゃない。駐車場じゃ、滑走距離がとれないだろ」
「必要なのは滑走する路ではない、十分な向かい風だ」
 神が言うと同時に、北からの風が強くなった。
 まともに立っていられず、アーノルドは工場の中へ逃げた。壁に張り付き、97式を見守る。
「風に負けるな。回転を上げろ、ピッチを高く」
 神がトランシーバー越しに檄を飛ばす。マルコアは操縦桿を握り、機体が風に吹かれて揺れるのを抑えた。
 操縦席の正面、計器板に写真を貼った。この機体の乗務員だったオノダ、マツイ、エンドウが並んだ写真だ。
「少しは手伝えよ、真珠湾に行きたいだろう」
 マルコアがつぶやくと、オノダが笑ったように感じた。
 さらに風が強くなった。
 マルコアはスロットルを一杯に開けた。
 ごとん、機体が揺れた。主脚の車輪が輪留めを乗り越えた。
 プロペラピッチを高くする。が、それ以上に向かい風が強い。機体の尾部が持ち上がった。
 よし、とフラップを下げた。数メートルも滑走してないが、ふわり、機体が浮き上がる。
「飛んだ・・・」
 アーノルドは壁から顔を半分出して見た。自分が復元した飛行機が、カイトのように空に舞い上がる。
 たちまち高度は100フィートほどになった。マルコアは少しフラップをもどし、操縦桿を押し続けた。向かい風だが、対気速度は十分と言えない。機首が持ち上がったら失速しかねない。
 向かい風が弱くなった。高度が落ちる。
 まだだ、マルコアは操縦桿を押し続ける。地面が迫った。
 97式は機首を上げ、木の枝をぎりぎり越えて、また空へあがった。
 風が止んで、静かになった。さっきの突風が嘘のよう。アーノルドは工場の扉から出て、北へ飛び去る97式を見送る。
「あれっ、真珠湾は逆方向だろ」
 南の方を見て、また北の空の97式を見た。まだ、高度は300フィートほどか。
 ジリリリ・・・事務所の電話が鳴った。
 アーノルドは工場の中へもどる。突風が吹き込んだ直後だが、さほど中は荒れていない。
 コンテナの事務所に入る。まだ電話が鳴っていた。出ると、初めて聞く男の声だ。
「やあ、見てましたよ。あれが飛ぶとは、ねえ」
「おまえは誰だ?」
「実は、あの飛行機に爆弾を仕掛けた者です。機体の下面、ボンベみたいなのをぶら下げてる所に仕掛けました。たった今、リモコンで爆弾は起動しました。起爆装置は、今流行りのドライブレコーダーを使ってまして、事故の衝撃を感知すると爆発する仕組みです。空を飛んで、着陸する時のショックでドカーンと行きます。クールなやつでしょ」
 ほとんど一方的にまくしたてる奴である。実は、パトリックが雇った殺し屋の一人、ドナルドであった。
「なぜ、爆弾の事を教える・・・今すぐ、リモコンで爆発させないのか?」
「いやあ、こちらにも都合がありまして。あの、神を自称する男の死に様を、なるべく多くの人に見てもらいたいのです。こうして報せて、着陸の時に多くの見物人が集まれば、爆発はビッグショーですよ」
 へへへ、笑い声を残して、電話は切れた。
 アーノルドは本気にしたくなかった。しかし、ドライブレコーダーの衝撃感知機能を使った爆弾には真実味があった。一部のドライブレコーダーはバッテリー内蔵で、車の電源に依存しない物がある。そして、飛行機の着陸には大きな衝撃が来る。自動車の接触事故以上の衝撃だ。まだ操縦の素人でしかないマルコアに、衝撃の無い着陸は無理と言うもの。
 かちかち、歯が鳴った。

 プルル、胸の携帯電話が鳴った。
 マルコアは有線ヘッドセットのボタンを押した。手放しでも通話ができる。
「爆弾だ、そちらは大丈夫か?」
 アーノルドの緊張した声が来た。おいおい、と心の中で突っ込む。
「こちらは間も無くドールプランテーション上空、進路は北西、速度は約70ノット、高度は約600フィート。どうぞ」
 下界を見ながら現状を報告した。ようやくプロペラの回転反力への補正の慣れ、97式を真っ直ぐ飛ばせるようになってきたところ。
「爆弾を仕掛けた、と言う奴から電話があったんだ。魚雷懸架装置のどこかに仕掛けた、と言ってた。飛行前の点検で気付かなかったのか?」
「飛行機本体は点検したつもりだよ。でも、確かに魚雷の方は・・・何やら良く分からなかったし」
 マルコアは言を濁した。飛行に関係無い魚雷は、点検する意味を感じなかった。ダミーであるし、今回は投下できなくても問題無いはずだ。
「着陸時の衝撃を感知して爆発する仕組みらしい。なめらかに降りられるか?」
「なるほど、ね。でも、着陸は・・・飛行以上に素人なので」
 どうすれば良いか、マルコアは判断に迷った。飛行機を飛ばすだけで、すでに精一杯やってる。この上、爆弾の事まで考えてられない。
 ぽん、神がマルコアの肩をたたいた。ヘッドセットを取り、通信を交替した。
「大丈夫、問題無い。真珠湾で会おう。通信、終わり」
 神はボタンを押し、通話を切ってしまった。ヘッドセットをマルコアに返し、前方を指差した。
 山の向こう側に海が見えた。

「何が大丈夫だって・・・?」
 アーノルドは呆れ果て、ツーツーと鳴るだけの受話器を置いた。そして、腕組みで考えた。
 爆弾の予告だ。警察に通報するのが一般的だろう。問題は、警察がどこまで信用してくれるか。違法に飛んでいる飛行機に爆弾、と言う状況は良くない。
 ジリリリ、また電話が鳴った。頬を引きつらせ、ゆっくり受話器を取った。
「お早う、お爺ちゃん。今日は真珠湾に行く日よね」
 メアリーの元気な声、アーノルドの肩から力が抜けた。
「いや、実は・・・今日は」
 それどころじゃない、と言いかけると、別の可愛い声が飛び込んで来た。
「おじいちゃんも来るの?」
「おおっ、マカナのためなら、銀河系の向こうまで一っ飛びさあ!」
 爺マインドが炸裂、不安も迷いも吹っ飛んでいた。

 97式は海上に出た。
「ようし、ここで進路を反転しよう。ゆっくり、ゆっくりと行こう」
 神が指揮官の席から言う。マルコアは頷き、操縦桿を左へ少し倒した。
 わずかづつ機首が左を向く。今日、初めて飛ばす機体だ。急な操作は厳禁である。徐々に、少しづつ転進した。
 左の視野に陸地が入って来た。もうちょっと、と気を引き締めた。
 同時に、北東の方から近付く小型飛行機にも気付いた。飛行高度は同じくらい、危険な状況だ。

 パイパーPA−46の後席で、パトリックはひざを揺らしていた。
「あれだ、飛んでいるぞ」
 操縦席のバンジョーが言った。機長席のクロフォードが双眼鏡で確認する。
 濃い緑色に赤い日の丸、遠くからでも良く見える機体だ。ゆっくりと旋回して、機首を南西側へ向けたところ。
「このまま接近しろ。距離は500フィートくらいで並進する」
 クロフォードの指示にバンジョーが頷いた。
 スロットルを少し絞り、速度を落とす。急に接近しないようにした。

「よし、このまま真っ直ぐ飛べば真珠湾だ」
 マルコアは操縦桿を垂直にもどした。180度の旋回を終え、機首は陸地を向いた。
「速度を保て、機体を安定させろ」
「了解。言わなくても、やってるよ」
 神が指示してきた。マルコアが応じて答えた。
 ごそごそ、神がロープを持ち出し、腰に結んだ。さらに一方の端を座席のパイプに結んだ。
「爆弾を外してくる。揺らすなよ」
 神はゴーグルをして風防を開け、身を乗り出す。風が操縦席に吹き込むので、マルコアもゴーグルをした。
「どこへ行く気?」
「爆弾は機体の下側だ」
 神は風防をつかんで、足を翼に降ろした。
「揺らすな!」
「あんたが気流を乱しているんだよ!」
「了解した」
 神はロープの張りを確認する。ついに全身を外に出し、主翼の付け根に身を屈めて置いた。
 ぎしっぎしっ、ロープが風防とこすれて悲鳴のような音を上げる。
 97式は海からノースショアの崖を越えて陸地の上空へ、眼下は緑のパイナップル畑だ。

「何をする気だ?」
 双眼鏡で97式を見ながら、クロフォードが言った。バンジョーは首を傾げるばかりだ。
「もっと寄せろ」
 パトリックは席から身を乗り出して言った。まさか、と思うばかりだ。
 PA−46と97式の距離は300フィート以下、民間機としては危険な距離になった。
 97式の機上でアクロバットが始まっていた。人間が外に出て、主翼の上にいる。じりじりと後退して、主翼の後縁から機体の下をうかがっている。そこには長さ17フィートほどの魚雷が吊られている、ダミーだが。
「爆弾を・・・どうにかする気か?」
「神を気取るにも程がある」
 パトリックの頬がピクと震えた。

 神は主翼の後縁に伏せ、胴体の丸みに沿わせながら、足を機体の中心線へ降ろして行く。魚雷の尾部に足先が届いた。
 ロープの張力を確認して、ついに主翼の下側に体を入れた。魚雷の懸架装置が目前にある。
 しかし、ここからは時速50ノット以上の風圧が壁になる。体が前へ進まない。かろうじて体を横滑りさせ、上体も魚雷に沿わせた。
 懸架装置から魚雷を抱えるように出た腕の向こう側に、何かがある。見れば、懸架装置と同色のガムテープで固定されていた。
 手を伸ばすが、わずかに届かない。
 風圧に逆らい、1インチづつ体を進める。ぎしっ、ロープが伸びきった。
 腰の結びをゆるめ、さらに体を進めた。ついに指先がガムテープに触れた。
 ぴりぴり、端からガムテープを剥がしていく。機体が揺れて、手を止めた。
 また体を1インチ進め、前側のガムテープを剥がす。テープの中から爆弾の本体が現れた。
 これ以上はロープの結びをゆるめられない。爆弾をわし掴み、力尽くで剥がしにかかる。
 ガムテープをねじると、びりっ、切れた。
 爆弾を懸架装置から外せた。
 よし、神は爆弾を捨てた。

「おっ、帰って来た」
 ドナルドは双眼鏡で空を見ていて、接近する小型機に気付いた。翼に赤い丸が描かれていて、他と見間違えようがない。
「どうする?」
「もちろん、追っかけましょ」
 ファーロングは頷き、車のエンジンをかけた。
 日の丸の飛行機が頭上を通り過ぎる。急発進で道路に出た。
 と、その時・・・ゴン、ボンネットに何かが落ちた。風にガムテープが舞って、そのまま鉄板にくっついた。
 ピピピッ、ドライブレコーダーの衝撃感知が作動していた。衝撃から前の3秒間、後の3秒間の記録を残し、また通常の上書き動作にもどる。それを利用して爆弾をボンとやる仕組みだった。
 バゴン! ボンネット上で爆弾が炸裂した。
 爆発でボンネットが凹み、下のエンジンが車体から脱落した。軽くなった車体はフロントサスのバネで撥ね上がり、路面に落ちたエンジンを飛び越えた。ラジエーターやら、排気管やら、ドライブシャフトやらの部品を道路にまき散らし、路外の草地に突っ込んで止まった。
 ファーロングとドナルドはシートベルトをしていたので、ほぼ無傷だった。なぜか、エアバッグは作動してない。
「いったいぜんたい、何がどうなったんだ?」
「よく・・・わからない」
「事故ったのは分かるが、エアバッグが動いてないようだ」
「電装系がやられたからかな・・・」
「それくらいで動かないなんて・・・、整備不良か設計ミスか、リコールだな」
 ファーロングとドナルドの二人は座ったまま動けない。車から脱出する気力も無く、意味の無い問答を続けるのだった。
 一般の自動車は対物、対自動車の事故を想定して作られている。対爆弾を想定した物は無い。今回、エアバッグの不動作はリコールの対象にならないだろう。
 ボン、道路に転がったエンジンが火を噴いた。漏れたエンジンオイルが火元だが、量は多くない。

 早朝であるが、アリゾナ記念館前の駐車場は混雑していた。12月7日は真珠湾の特別な日だ。
 そんな混雑の中でも、ピンクのピックアップを見つけるのは容易だった。
「おじいちゃん」
「おおっ、マカナ、今日も元気そうだね」
 可愛い声を耳にして、アーノルドの目尻は地面に突き刺さる勢いで下がった。
「ほんと、今日は人でいっぱいね」
「まあ、今日はしかたないさ。あっちの方も賑やかそうだね」
 あまりの混雑に、メアリーはうんざり顔だ。
 アーノルドは道路の向こう側にも喧騒を見ていた。アリゾナ記念館の向かい側、そこはアロハスタジアム、フットボールの試合では5万の観衆が集まる所だ。
「あっちでは、バザーがあるみたい。アケボノやムサシマルのスモウチャンピオンが来てるらしいわ」
「おお、ヨコヅナが来てるのか」
 うむ、アーノルドは頷く。
 太平洋戦争後、ハワイの男たちは海を渡り、身ひとつで日本の相撲に戦いを挑んだ。そして、最高位の横綱まで昇る男たちが出た。横綱は日本のヒーローだ。その日本のヒーローになって、真珠湾攻撃のリベンジを果たした。
 ハワイの男たちが日本で戦っている時、おれは何をしていた・・・アーノルドは自身の半生を振り返る。はあ、と息をついて首を振った。
「ちょっと、オヤジに会ってくるよ。後で、ヨコヅナを見に行こう」
 はーい、マカナが手を上げて返事した。
 アーノルドも手を振って応え、一人でアリゾナ記念館へと歩いた。

「爆弾を外したようだ」
 クロフォードの報告に、パトリックの顔が紅潮した。
 双眼鏡でのぞけば、神を自称する男は悠々と飛行機の下から出て、操縦席へもどるところ。
「ファック! こうなったら、わたしが直接やろう」
 パトリックは座席下のケースを開け、M16ライフルを出した。海兵隊にいた時は狙撃兵だった、そのスキルを発揮するのだ。
 窓の銃眼から銃口を外に出した。標的の飛行機は約300フィート先、狙撃としては近過ぎるほどの距離。
「揺らすな、このまま」
 クロフォードの指示にバンジョーは頷いた。
「でも、もうすぐ真珠湾です。一般機は進入禁止の空域ですよ」
「すぐケリはつく!」
 パトリックは息を整え、窓の向こうの飛行機に狙いをつけた。
 狙撃兵だった頃は心臓撃ちを得意にしていた。頭を撃つと顔が潰れて、撃った相手を特定するのに難儀する。顔を傷付けない心臓撃ちが狙撃・・・暗殺の極意と心得ていた。

 真珠湾が見えてきた。そこはアメリカ海軍の基地だ、一般の航空機は進入禁止の空域である。
 マルコアは迷っていた。そろそろ転進するべきか、直進を保って神の帰還を待つべきか。
 ぎしっ、ロープがきしんだ。
「ただいま」
 神は風防に手をかけ、顔を操縦席の後方に出した。
「お帰り、早く入って。真珠湾が近いよ」
「うむ」
 神は胴体に身を這わせ、主翼付け根で立ち上がる。操縦席に入ろうとした。
 しかし、それは狙う側から見て、最も標的が大きくなる姿勢だった。
 バン、バン・・・風防ガラスの1枚が割れた。神の頭から5インチと離れていない風防ガラスが砕けた。
 うっ・・・ぐぐっ、神の動きは止まった。
「早く、入って」
 マルコアがせかした。
 が、神は応えない。左の背中から脇の下に、銃弾を受けていた。弾は貫通し、97式の胴体にも穴を開けていた。
「わたしは神である。が、この体は普通の人間のもの・・・役割が終われば、消え去る・・・」
 マルコアが振り返ると、ずるずると神は体を下げていく。操縦席へもどれそうにない。
 97式は自動操縦装置が無い、操縦桿から手を離せない。後席へ手を伸ばす事もできない。
 直進する内に、ついに真珠湾に入った。建物が無いから、水面ぎりぎりまで高度が下げられる。
 フラップを半分下げ、スロットルを1目盛り開けた。高度を下げて、速度を落とす。
 振り返ると、神の手が風防にかかっていた。まだ機体にしがみついている。
 高度は100フィート以下になった。大型船のマストが上に見える。
「ひええっ」
 真珠湾に入って、マルコアは後悔した。
 湾内は船だらけだ。船と船の間をぬって飛ぶ。湾内のフォード島の飛行場を探さなくてはならないが、船ばかりで飛行場を見失っていた。

 手応え有り、確かに当たった。だが、心臓を外したようだ。
 もう一度、とパトリックはM16の照準を当て直す。次こそは心臓を撃ち抜いてやる、決意を込めた。
 と、PA−46が傾いた。
「揺らすな!」
「でも、もう真珠湾です。進入禁止の空域ですよ」
「このまま、真っ直ぐ追うんだ!」
 バンジョーは機首を立て直す。前の97式を追い、高度を下げて真珠湾へ突入した。

 アーノルドはアリゾナ記念館に入った。
 毎週のように来る場所だが、12月7日は特別な日だ。軽装の者は少なく、礼服が目立つ。
 マーサ・ウインストンを見つけた。父の名前の前で、懸命に祈っている。
「お父さん、スタンを助けて。もう年だと言うのは知ってるけど、もう少し一緒にいたいの」
 マーサの夫が救急車で入院した。状態は良くないらしい。
 アーノルドも父の名前の前に立った。
 真珠湾で会おう・・・神の言葉を思い出した。この真珠湾のどこで会うつもりなのか、空を見上げてしまった。
 時計は午前8時になろうとしていた。
 ぶーん、どこからかエンジン音が聞こえた。自動車でも船でもない、レシプロ飛行機のエンジン音だ。

 腕時計を見て、国旗掲揚士官は合図した。
 記念艦ミズーリの艦尾、毎朝8時の行事が始まる。
 音楽隊の指揮官が指揮棒を振り上げて・・・その手が止まった。
 ブーン、聞き慣れないレシプロ機の音が近付いて来た。音楽隊の全員が振り向き、接近する飛行機に注目した。
 機首は丸く、星形エンジンの機体だ。主翼と胴体には赤い丸が描かれて、胴体下には魚雷がつり下げられている。日本の攻撃機だ。
 高度を下げつつ、日本機はミズーリの艦尾に接近した。
 操縦席の横、外側に人がいた。
 あっ、音楽隊の誰もが声を上げた。日本機から人が落ちた。
 ミズーリの横の水面に水しぶきが上がり、波紋が広がる。
 どどーん・・・6万トンのミズーリが揺れた。それは艦首の先で起きた。
 巨大な水柱が立ち上がった。1トン級の爆弾が水面下で爆発したような大きさ、高さは150フィート以上、ミズーリのマストより高く上がった水柱だ。

 アリゾナ記念館が揺れた。突然、水が津波のように襲いかかり、記念館はひっくり返った。
 アーノルドは頭から水をかぶり、壁にたたき付けられた。衝撃に上も下もわからない、渦巻く水に体を揉みくちゃにされた。
 あの日、アーノルドは自宅前でアリゾナの爆発を感じた。日本軍の攻撃機から投下された爆弾がアリゾナを直撃した時、父もこれと同様の衝撃を感じたのだろうか。
「父さん・・・父さん・・・」
 水の中でもがきながら、アーノルドは父を呼んでいた。

「うわっ」
 マルコアは操縦桿を右へ倒した。ぎりぎり、前方に立ち上がった水柱を左に見て、かわして飛ぶ。
 それはただの水柱ではない。水しぶきの中から、何かが姿を現した。
「うおおっ」
 バンジョーは操縦桿を左に切る。水しぶきの中から現れた何かを、ぎりぎり避けた。
「ファック! ジャマするなあっ!」
 パトリックはM16の引き金に力を込め、現れた何かに銃撃した。

 水煙が収まり、記念館があった水面に戦艦が姿を現した。
 アーノルドが水面に顔を出すと、鉄の壁に当たって驚いた。
 いったい何か、と鉄の壁を見回し、艦尾にある『ARIZONA』のレリーフを見つけた。
 36センチ砲三連装砲塔を艦の前後に二機づつ配置したペンシルベニア級戦艦アリゾナ、真珠湾に勤めるアメリカ海軍の者なら見間違えようが無い。マストの先端には堂々と星条旗が風をはらんでいた。
 しかし、アリゾナは浮上する時に、上に乗っていた記念館をひっくり返してしまっていた。
 記念館を訪れていた人は、皆が水の中に落ちていた。

「あれは、どこへ行った?」
 クロフォードは97式を見失ってしまった。突然、目の前を遮った水柱のせいだ。
「あそこ、あっちだ」
 パトリックが東方向にいる97式を見つけた。M16の弾倉をチェックして、今度こそと舌舐めずりをした。神が落ちるのを見逃していた。
 バンジョーはスロットルを開け、高度を上げながら機首を東へ回す。
「あれは・・・何だ?」
 旋回しつつ、ミズーリの艦首の先に現れた戦艦を見た。
 戦艦は動いていた。12.7センチ砲の砲塔が向きを変え、砲口を持ち上げた。
 バン、バン、砲が火を噴いた。
 至近距離の爆発でPA−46は方向舵とエルロンをやられた。機体の傾きを制御できず、きりもみ状態になって湾の水面に落下した。

 あっぷ、アーノルドは水に沈みかけた。
 12.7センチとは言え、砲撃の衝撃波を至近で受けてしまった。耳をやられ、アリゾナの舷側にしがみ付いているのがやっとだ。
 ふと、振り返り、東の空を見た。
 飛び去ったはず97式が旋回している。アロハスタジアムの上空で向きを変え、こちらに向かって来た。
 アリゾナを沈めたのは日本海軍の97式攻撃機だ。急降下爆撃とも、水平爆撃とも言われている。
 あの日の再現だ・・・
 アーノルドは確信した。今度は勝てる、と。

「目標発見、前方戦艦!」
「魚雷攻撃、用意!」
 マルコアは我が耳を疑った。聞こえるはずのない声が聞こえた。
「オノダか? マツイか?」
 マルコアは操縦桿を握り直した。ロープが風に舞っている。神は落ちたらしい。早く着陸して、警察に捜索願いを出さなければならない。
 が、操縦桿が動かなくなっていた。右にも左にも、まるで動かない。
「目標、正面! 進路、そのまま!」
 また聞こえた。攻撃機の士官、オノダの声だ。
「オノダ、止めろ! マツイ、操縦桿を返せ!」
 マルコアの叫びは虚しかった。
 97式は徐々に高度を下げ、電信柱や街灯すれすれの高さで行く。アロハスタジアムの駐車場を越え、真珠湾に浮かぶ戦艦アリゾナの左側面に向かって一直線だ。

 ごろごろごろ、アリゾナの船体が震えた。
 舷側に張り付いてたアーノルドは異変に気付いた。震えの原因は主砲だ。4機の36センチ砲三連装砲塔が一斉に向きを変え、砲口を左舷に向けた。97式を迎え撃つ体勢に入った。
 三連装砲塔が4機、計12発の36センチ砲弾が撃たれたら、たとえ直撃しなくても、至近の衝撃波で97式は空中分解だ。
 アリゾナの勝利は・・・アーノルドは笑みを浮かべた。
 だが、と考えた。
 97式はアロハスタジアムを背に突っ込んで来る。迎え撃つ36センチ砲の仰角はゼロに等しい、水平砲撃だ。砲弾は97式を木っ端微塵に砕いても、まだエネルギーは大きく余る。そして、そのエネルギーのままアロハスタジアムを・・・
 スタジアムでは、今日はバザーが開かれている。多くの人々が平和を楽しんでいる。日本で戦い、勝利を得て帰って来たヨコヅナも来ている。そこをアリゾナの砲弾が直撃する!
「だめだ、撃つなアリゾナ!」
 アーノルドは叫んだ。
 しかし、ぶ厚い鉄の壁の奥にいる砲塔士官に届くのか。
「父さん!」

 きゃあ!
 メアリーは身を屈めた。突風に、マカナを抱きしめていた。
 頭上、わずか数メートルのところを飛行機が通過した。
 胴体に赤い丸が描かれていた。シュワルツ自動車修理の工場で見た飛行機だ。
 その飛行機が戦艦アリゾナに向かって行く。迎えるアリゾナは、全ての大砲をこちらの方に向けていた。

「撃てーっ!」
 オノダの号令がマルコアの耳に響いた。がしゃ、後の爆撃手席でレバーが動いた。
 魚雷が97式から投下された。軽くなり、97式は揺れた。
 操縦桿が帰ってきた。マルコアはスロットルを開き、操縦桿を引く。急上昇を目差した。
 アリゾナの二つのマストの間を通り、97式はミズーリの上を通過して行く。

 魚雷の航跡が来た。
 アーノルドは目を閉じた。
 また、アリゾナは負ける。
 でも、今度は一緒だ。アーノルドは頭を舷側に押し付けた。
 ゴーン、魚雷がアリゾナの左舷に衝突した。しかし、爆発は起きない。
 アーノルドは目を開けた。彼が97式のために作った魚雷はダミー、爆薬は入ってない。爆発は起きないはずなのだ。
 ゴーン、ゴーン・・・アリゾナの艦内を音が巡っている。
 アリゾナは撃たなかった。自身の勝利を捨て、市民の命を守った。
 急に悲鳴が聞こえてきた。
 アリゾナは浮上する時、上にある記念館をひっくり返した。来ていた人は、アーノルドと一緒に水へ投げ出されていた。
「助けて・・・助けて、お父さん」
 マーサが溺れかけていた。が、アーノルドも舷側にしがみ付いているのが精一杯、助けに行く余裕は無い。
 ガシャ、カシャ・・・別の音が船体を伝わって来た。
 どたどた、足音もした。
 アーノルドは上を見た。アリゾナの甲板に人がいる、大勢いる。声をかけ合い、何かを始めた。
 浮き輪が投げ入れられた。ロープも投げられた。アリゾナの乗組員が救助をしている。
 若い水兵が甲板から飛び降りた。
 溺れるマーサを抱いて、水から顔を出させた。
「ああ、お父さん・・・お父さん」
 マーサは水兵に抱きつく。だが、その姿は90才近い老婆ではない、わずか7才ばかりの幼女に見えた。
 対岸からボートが近付いて来る。
 まだ行けない、まだボートには乗れない。アーノルドは舷側をつたいながら、甲板に上がる方法を探った。
 縄ハシゴが降ろされていた。甲板から上陸用舟艇などへ乗り移る時に使うやつ、大勢が一斉にハシゴを下るのは映画で良くあるシーン。
 アーノルドは縄をつかんだ。足をかけ、手に力を込め、ハシゴを登る。80過ぎの体に縄ハシゴはきつい、息が上がりかけた。

 はあはあ・・・足が震える、手がしびれてきた。
 もう登れない、と諦めかけた。
 目の前に手が降りてきた。大きな男の手だ。
 アーノルドが手をつかむと、向こうも強い力でつかみ返してきた。ぐい、と体を引き上げられた。
 ついに甲板へたどり着いた。
 はあふう、四つ這いで息を整え、ようやくアーノルドは顔を上げられた。引っ張り上げてくれたのは、サングラスをした士官だった。
 シュワルツ自動車修理の事務机の上にある写真のまま、ウエルナー・シュワルツ大尉がいた。
「やあ、久しぶりだね」
 ウエルナーはサングラスを取り、素顔で笑みを投げかけた。
 アーノルドは言葉が出せない。父の顔には見覚えがある。ここ一週間ほど、ずっと一緒だった気がした。
 なぜ、そんな気がするのだろう。でも、ようやく父に再会できた。それ以上の詮索は無用だ。
 ずっと、父に会いたいと思っていた。会って、何をするかは考えた事が無い。何を・・・と思っていたのは、はるか昔、7才の頃だ。
 80過ぎの爺には、もう父に対して思う事は無い。けれど、7才のアーノルドには、父に会って・・・会ってしたい事が山とあったはずだ。
 ウエルナーが手を差し伸べてきた。
「父さん・・・」
 7才のアーノルドは父の手を握った。子供の小さな手では、両手で握ってもかなわない大きな手だ。
「母さんが・・・母さんが泣いてる。葬式で、暖炉の前で、ベッドで・・・父さんの写真を手に、涙をいっぱい流して泣くんだ。母さんは女だから、しかたないよね。でも、ぼくは男だ、泣かないよ。ぼくが泣いたら、よけい母さんが泣いてしまう。だから、泣かない。涙は流さない・・・一滴も出した事なんか・・・」
 7才のアーノルドは語った、70年以上も胸にしまっていた言葉を。語りながら、流すまいと誓っていた涙があふれてきた。
 父の手に引かれて、7才のアーノルドは父の胸に顔をうずめた。
 大きな父の手が7才のアーノルドを抱きしめた。もう言葉は出なかった。涙と嗚咽が止められない。
「ありがとう」
 父が耳元でささやくように言った。
 大きく息を吸って、7才のアーノルドは父の胸から顔を上げた。嗚咽も治まってきた。
「今日は、よく来たね。ついでに、古い友まで連れて来てくれた」
 ウエルナーが空を見上げた。97式が旋回して、またアリゾナの上を通過した。
「あれは敵だよ」
「ああ、実に手強いやつさ。なめてかかると、痛い目に遭う」
 にっ、ウエルナーは右の頬を吊り上げて笑った。7才のアーノルドも右の頬を吊り上げて笑い返した。
「さあ、お帰り。みんな待ってる。おまえが降りて行かないと、船も帰れない」
 ウエルナーが甲板の下を指した。
 岸から来たボートが横付けしている。記念館に来ていた人を救助していた船だ。救助を手伝ったアリゾナの水兵たちは、縄ハシゴを登って甲板に帰って来ていた。
 7才のアーノルドは頷いた。父の手を引き、一緒に行こうと誘った。
 ウエルナーは息子の手を優しくほどく。
「わたしは行けない、ここには仲間がいる。ここが、わたしのいるべき場所だ、これまでも・・・これからも」
 ウエルナーは立ち上がり、サングラスをした。シュワルツ大尉として、7才のアーノルドに敬礼した。
 ごくり、7才のアーノルドはつばを飲み、敬礼を返した。
「回れ、右! 前へ、進め!」
 大尉の命令が下る。7才のアーノルドは父に背を向け、縄ハシゴへ向かう。振り返るのは命令に反する。

 記念艦ミズーリの艦首では、国旗掲揚の隊が事の成り行きを見ていた。
 アリゾナ記念館はひっくり返り、海中に没している。投げ出された来場者は、戦艦アリゾナの乗組員らに全員が救助されたようだ。
「あっ、しまった、忘れてた」
 指揮官はアリゾナで翻る星条旗を見た。そして、思い出した。まだ、今日はミズーリで国旗を掲揚してない。
「準備!」
 急遽、国旗のロープを艦首のポールに結ばせ、音楽隊を整列させた。
 指揮棒をかざして、演奏開始。星条旗がポールに昇って行く。
 ちらり、指揮官はアリゾナを見た。
 甲板に乗組員が整列し、ミズーリの国旗に向かって敬礼していた。
 しかし、演奏が進むにつれ、アリゾナの甲板から乗組員の姿が薄れていく。そして、静かに水密扉が閉じられた。
 国家の演奏が終わりに近付く。戦艦アリゾナの姿が薄くなった。
 指揮棒を下ろし、国家の演奏が終わった。指揮官が振り返ると、戦艦アリゾナは元通り、錆びた姿で水面下にあった。
 ただ、星条旗だけは海上で翻っている。その星が49コである事に気付く者は少なかった。

 ふう・・・アーノルドはボートで座り込んだ。80才を越える身に縄ハシゴは堪えた。
 父に会いたい・・・願いはかなった。
 やはり、あれは神だったのか。そう思って神の顔を思い出そうとするが、とんと思い出せない。会ったばかりの父の印象が強すぎて、神の顔が記憶に残ってない。
 まあ、良いか・・・神より父だ。良い心がけだ、とマーサにも言った。
 ボートが岸に着いた。
 メアリーとマカナに再会し、アーノルドは自身の生を実感できた。


そして・・・


 アーノルド・シュワルツは仕事を辞め、養老院に入った。歳相応の生活へ、シフトチェンジを図る。
 シュワルツ自動車修理を引き継いだのは、マルコア・ハミルトンである。電子機器の扱いに長けて、最近の自動車ならお手の物だ。
 マーサの夫、スタンは危機を脱し、退院して家に帰った。
 メアリーは例の教団から抜け、今はネイティブハワイアンのための活動をしているらしい。相変わらず、何かのカルトにハマりやすい女だ。

 復元された97式攻撃機は当局に没収されたままだ。シュワルツは返還を求めていない。処分の決定には時間がかかりそうだ。

 オノダ、マツイ、エンドウらの遺品は日本に引き渡された。遠からず、遺族の手に戻る。

 パトリックらが乗ったPA−46は真珠湾に墜落したが、海軍の手で救助されていた。飛行禁止空域への不法侵入など、幾つかの罪に問われている。ファーロングとドナルドらの傭兵たちは、爆発物の使用で逮捕された。
 麻薬や詐欺で、教団の活動に法の裁きが入る日は近い。

 神の肉体は役割を終え、再び小瓶に封じられた。
 小瓶は真珠湾の中を漂いながら、ゆるやかな流れのままに湾の外へと出て行く。その先は太平洋だ。
 どこへ行くのか・・・それは、神のみが知る。



<  おわり  >




後書き

前作「おおっ神よ」では、神の出現シーンを・・・シュワちゃんの代表作の冒頭シーンを念頭にして書きました。
本作では、より分かり易いよう、シュワちゃんの名前を拝借してます。

キロ、トン、ノット、センチ、メートル、マイル、フィート・・・色んな単位がごちゃ混ぜに出て来ます。細かい事は気にせず、おおらかな気持ちで読みましょう。

2017.6.15
ootau1