おおっ神よ!

藤島康介著「ああっ女神様!」より

 

木曜日


 5時のチャイムが鳴った。
 鵜納芽埜子はシャワーを浴び、会社を後にした。
 勤める今鐘工業株式会社は街外れにある。バスに乗って街を目指せば、それが家路だ。
 バスを降りて、アパートへ。買い置きを考えれば、今晩と明日朝の食事はある。身軽な帰宅だ。
 アパートの名前は本田荘。看板の荘の字は、草と上書きされたまま。誰かのイタズラらしい。
 前の道路にゴミ箱がある。金網のカゴで、カラスたちがゴミをあさってパーティを開けないようにしてある。
 と、そのカゴの中に不審な袋があった。
 芽埜子の目が半透明な袋の中身を察した。フタを開け、袋を取り出した。
「お帰り。何、それ」
 アパートの前で竹ぼうきを使っていたのは、大家の本田江樫。頭の毛も残り少ない老爺。
「誰が捨てたか、めっちゃくちゃです」
 芽埜子は袋を破り、中身をぶちまけた。レシート等の紙くず、コーラのアルミ缶、缶コーヒーは鉄製、ポテチの袋はビニール、栄養ドリンクの瓶、全く分別されていない。
「袋を開けんで、これが分かるのか。さすがゴミ屋さんだね」
「ゴミ屋じゃありません。わたしが勤めているのは資源再生、リサイクル会社です」
「やっぱり、ゴミ屋さんだろ」
 芽衣子は議論をあきらめた。
 江樫が分別ゴミ用の袋を用意してくれた。ゴミを分けて入れていくと、小さな瓶のような物が残った。
 陶器か、プラスチックか、触れて重さを見たけど、はてと首をひねるばかり。
「わからん物は、燃えないゴミで出すようにしてるが」
 江樫が言った。
 芽埜子は笑ってポケットに入れた。後で、ゆっくり調べよう。

 二階の隅、そこが芽埜子の部屋。
 ポケットから成分不明の瓶を出し、テーブルに置いた。上着を脱いで、タンスの上の小さな扉を開く。両親の位牌に手を合わせ、黙して帰宅を報告した。
 6+6の二間で一人暮らしだ。遠慮無しに服を脱いで、下着だけになった。
 洗面台の鏡に映る自分と目が合った。くねっ、しなっ、チョイとポージング。
 ふっ、息をもらして、折りたたみベッドに倒れ込んだ。
 仕事でゴミに触れ、家に帰ってもゴミに触れた。朝から晩までゴミの生活。ついでに、部屋もゴミが散乱してる。女らしくない、男の部屋のよう。
「どっからか、いい男が沸いて現れないかなあ・・・」
 芽埜子はつぶやいた。
 孤独が心臓を押しつぶしそうだ。全身がだるい。
 今、地震が起きたら、半裸の姿で家の下敷き。飛行機が落ちてきて、あるいは流星がアパートを直撃して、木っ端微塵な自分を空想した。
 テーブルから瓶が落ちた。芽埜子は気付かない。
 瓶の蓋が外れ、中身が出て来た。水でもガスでもない何かだ。
 何かは泡立つかのように体積を増し、床から天井へ湧き上がった。天井の照明あたりで黒雲となり、雷が光った。
 突然、室内に突風が吹いた。芽埜子は隅に逃げて小さくなった。
 強い稲光で目がくらんだ。風が止んだ。
 家具もゴミも吹き飛ばされ、壁沿いに溜まっていた。芽埜子は頭からゴミを払い、顔を上げた。
 部屋の中央に誰かいる。
 人間だ。背が高い。
 盛り上がった二頭筋、はち切れそうな三角筋、縦に割れた背筋・・・男だ。
 えくぼのある尻、風船のような大腿筋・・・筋肉だらけな裸の男の背中から見ていた。
 男が身を屈め、床に右手を伸ばした。両足が開き、尻が割れて、股がのぞいた。
 ひええっ、芽埜子は声を出してしまった。
 男は床から瓶を拾うと、ゆっくり振り返る。
 ひいっ、芽埜子は両手を眼前に置き、視界の一部を遮った。男が正対して向いたが、へそから太ももを隠して見た。
「あ、ああ・・・あんた、誰?」
「神である」
 男は冷静な顔と声で答えた。
 神を自称する変態露出狂だ。しかも、家宅不法侵入だ。
「で、でで・・・出て行け!」
 うむ、と男は肯いた。ぷいと背と尻を向け、玄関へ踏み出した。
「待って!」
 男は足を止め、また振り向いた。ひいっ、芽埜子は手で視界の一部を遮る。
「女の部屋から裸の男が出たら、世間体がまずいでしょ」
 男は小首を傾げ、床の菓子袋を拾い、股間に当てた。どうだ、と目配せしてきた。
 ぷるぷる、芽埜子は首を振って、否と答えた。
「この体を封じる時、他の物は入れなかった。せっかく見つけてくれたのだし、何か一つ、願いをかなえてやろう」
 男は瓶を掲げ、ひとつ肯いた。
「願いを、ひとつ?」
 怪しげな男の、疑惑ぷんぷんな申し出だ。芽埜子は半歩壁側へ逃げる。
「神様みたいな言い方して。なら、自分が着る物くらい、ちゃちゃっと作ってみれば」
「やってやれない事は無い」
 自称神な男は辺りを見渡し、部屋の広さを確かめた。
「ここの空気を材料にして、作るとして。うむ。数分真空になるが、隙間から空気が入って、すぐ気圧は元にもどる」
「真空・・・て、息できないでしょ。もっと神様らしく、ポンと作れないの」
 芽埜子の剣幕に、自称神な男の額がゆがんだ。
「無から物を作るのは面倒がある。新たに作る空間と、この空間との境界面で物理的な衝突が起きて、ランダムなエネルギーの放出が発生する。今、宇宙に広がる背景放射というやつだ」
 難し物言いに、芽衣子は反応できない。
「サイコロを振るのは趣味ではないが、物理反応の連鎖だから、この世の約束事の中である」
 自称神の男が左手をかざした。何かする気だ。
「待って」
 芽埜子はストップをかけた。ひっくり返った洗濯物かごから、パジャマのパンツを見つけて投げた。
 では、と男はパンツを着けた。女物だから、ピンク生地の股間がもっこりと盛り上がった。三段に割れた腹筋の下にテントが張って、危ない雰囲気が満々だ。
 芽埜子は手をおろした。視界を遮らずとも、恐ろしげな物を見てしまう危険は無い。
「あんた、本当は何者?」
「神である」
 男は淀みなく答えた。
 芽埜子は自分がほとんど裸と気付いた。わずかに残る下着は、いたずら心で買ったレースの薄物、肌が透けてしまう品だ。
「さっきの話の続きだ。ひとつ願いをかなえてやろう」
「願いを・・・て。本当に神様なら、あたしの願いくらい、とうに知っているはず」
「知っている」
 あっさり男は言った。
「しかし、おまえは選択していない。おまえの心の中には、多くの願いがある。かなえてやれる願いは一つだ。選択の証拠として、口から言葉として出すのだ」
 あう、芽埜子は言葉が出ない。
 自分の胸にある願いが何か、それすら分からなくなった。
 目を下げ、また見上げた。堂々たる逆三角形の上体、太い首の上に頑丈そうな顎、白い歯並び。
「あんた、よく見れば、けっこうイケメンよね。あんたみたいな良い男と、ずっと一緒に暮らせたら・・・なんて、だめ?」
 言って後悔した。裸の男を前にして、裸の女が発情しているみたいだ。
「鵜納芽埜子、その願い、かなえよう」
 男が言った。神の言葉として、頭の中に響いてきた。


金曜日


 鵜納芽埜子はバス停にいた。
 朝8時、すでに街は騒々しい。永山2条20丁目から、国道39号を下る便に乗る。
 これで通うようになって、3年になる。
 この道は、旭川の中心街から東北方向へ伸びる。昔風に言えば、丑寅の方角だ。
 橋を渡ると、田園地帯。でも、国道沿いだけは工場が並ぶ。
 いつからか、ここには廃物廃品の処理工場が集まるようになった。工場と言っても、見た目はバラックばかりだが。
 芽衣子は今鐘工業前でバスを降りた。
 道路一本向こうは、隣町の当麻という所。バラック建ての二階屋が今鐘工業だ。

 帽子とマスクで頭部を被い、長袖の上着に丈長のエプロン、ビニール手袋で肌の露出は最小限だ。そんな出で立ちでコンベアの左右に並んだ。
 ここはゴミの分別ラインだ。
 ゴロンゴロン、ベルトが動いて、コンベアに載ってゴミが来た。旭川から北と東、北海道の北部と東北部から集まってきたプラスチック系のゴミが流れて来る。
 ゴミ袋を開けると腐敗臭が出る。収集日から数日経っているせいだ。夏は腐敗が早くなる。コンベアに載る前にシャワーで洗うが、とても消えない。
 腐ったゴミから、プラスチック以外の異物を取り除く。異物が混じっていると、リサイクルできないのだ。
 ひたすら人海戦術で精密分別が行われる。
 ピンポーン、チャイムが鳴った。
 コンベアが止まる。壁を見上げると、時計は12時だ。
 ゴム手袋は半日で使い捨て、専用のゴミ箱へ。もちろん、リサイクルされる。
 分別ラインで働くのは、近隣の農家から通う主婦たちが多い。ほとんど昼休みは家に帰る。
 芽埜子は休憩室のテーブルに着き、コンビニ弁当を開いた。
 同じテーブルに、茶と味噌汁、サラダと手作り総菜が花開いた。一緒に昼を取る井上、冬馬、久川さんの三ババ。互いをキッコ、ユーミン、アーヤと呼び合っている。がはは、といつも元気な笑いだ。
「芽埜子ちゃん、色気が無いお昼ねえ」
「お嫁さんになる気があんの?」
「賞味期限切れの歳には早いしょ」
 五十女三人がかりのいじり。一人二十代の芽埜子に返す言葉は無い。
「あれ」
 妙に着飾った女が入って来た。一緒の男はブレスレットや耳や指に光物が一杯。二人は4人に一礼し、奥の事務室へ。
「麻美女史よ。今頃、あの格好で出社?」
 食事の箸を止め、じっと事務所のドアを見つめる女4人。
 と、ドアが開いた。
 ふたたび、食事を再開する4人。
 麻美と男が出て来て、テーブルの前に立つ。プン、と香水の匂いも来た。
「皆様、麻美純子は寿退職いたします。今日は報告と、これまでのお礼に参りました。では、皆様の健康をお祈りしつつ、お別れでございます」
 うやうやしく、麻美は頭を下げた。箸を手にしたまま、4人も頭を下げた。
 麻美と男は出て行った。4人は窓へ追う。
 玄関前に、金色のレクサスマークが眩しい大型セダンがあった。麻美は後席に乗り、セダンは音も無く出て行く。
 見送る猫背の男がいた。三ババが声を殺して笑った。
「御曹司、ふられたね。ああ、かわいそ」
「ああも根暗じゃね、瓶底メガネだし」
「こんな零細企業の次男坊じゃあね」
 猫背は今鐘鼓朗だ。
 一応、今鐘工業の社長の息子だが、次男である。長男の方は、プラスチックリサイクルの親会社へ進出し、幹部になったらしい。で、次男は地方の子会社で下働きをしてる。経営にも回らず、毎日ゴミと格闘していた。
「芽埜子ちゃん、チャンスよ」
「この会社で、二十代の女は鵜納ちゃん一人だけになった」
「余り物でも玉の輿・・・かもしれない」
 三ババは勝手に妄想、芽埜子と鼓朗をくっつけたがる。否、と首を振って答えた。

 会社帰り、古着屋に寄り、スーパーで買い物。
 土日分を含めて、金曜の夕方は買い物が多くなる。今回は二人分だし、どれほどが適量か難しい。
 両腕にずしりと買い物袋、肩が重さで痛くなった。
 アパートの階段を上り、ドアの前に立つ。耳をそばだてると、中は静かだ。
 あいつはいない・・・かもしれない。淡い期待が胸をよぎった。
 買い物袋を置き、カギを外し、ドアを開けた。中は暗い。
 壁を探り、スイッチを入れた。照明が点いて、部屋が明るくなった。
「おかえり」
 男がいた。
 神を自称する男は、部屋の真ん中に座っていた。
 女物のTシャツを無理矢理着て、胸の真ん中で生地が裂けてる。厚く広い胸板がちょっとセクシー。
 あれっ、と部屋の雰囲気が変わってるのに気付いた。
「簡単に片付けておいた」
 部屋が整理整頓されていた。カレンダーは垂直になり、カーテンの撚れも消えている。ゴミは全てゴミ箱に入っていた。
 整理タンスを開けると、下着が幾何学的にたたまれ、数学的な整列状態。
 神業・・・の言葉が喉から出かかった。ぐっと呑み込んだ。
「あんたの服よ。着てみて」
 礼は言わず、古着屋の袋を押しつけた。
 神は袋の中を取りだし、開いて見た。
「下着を先に着てね。上と下を間違えないように」
 うむ、と神は肯いてパジャマのズボンを下げた。きゃっ、芽埜子は背を向ける。
「脱ぐ前に、言ってちょうだい」
 しかし、もう遅い。芽埜子は見てしまった、男の股間に成る巨大な物を。赤ん坊のなら何度も見たが、大人の物を生では初めてだ。

 食事の支度を、と芽埜子は立ち上がった。
 こんこん、ドアを叩く音。開けると、大家の江樫翁がいた。
「頼みたい事がある」
 大家の頼み事となれば、これは断り難い。とりあえず、聞くだけは聞いておこう。
 アパートの裏は大家の家、その横の小さな納屋に案内された。
「孫の宗一郎の遺品だ。1年以上ほったらかしだった、そろそろ2年か。始末して良い時期と思って、なあ」
 言われて、去年か一昨年の大騒ぎを思い出した。アパート前に、パトカーが何台も集まった。他人事ゆえ、すぐ忘れてしまっていた。
 戸を開けても、中は暗くて見えない。ぼんやり、積み上げられた品々がある。
「遺品整理は専門の業者がいるはずですが」
「あんたはゴミ屋さんだし、似たようなもんだろ」
 またゴミ屋と言われた。反論しようとして、老人の認識を変えるのは至難とあきらめた。
「仕事もあるし、さらにこれを、と言われても」
「そうか。やってくれるなら、家賃を割り引きしても、と思ってたのだが」
「やります。ぜひ、やらせて下さい」
 断りかけたが、家賃が安くなるなら、受けない方は無い。拳を作って、引き受けてしまった。
「急がんから、ゆっくりやってくれ。欲しい物があれば、あんたの好きにしていいよ」
 忘れたがっているのだろうか。江樫翁はぞんざいな物言いだ。
 納屋の闇の中に、何かいるような気がした。
 明日は土曜の休みだ。明るくなってから、と戸を閉めた。


土曜日


 また、清らかな夜が過ぎた。
 トーストと牛乳、シーザーサラダと目玉焼き、久々に重量級の朝食。
「あんたさあ・・・男と女が、ひとつ部屋で過ごす意味が分かってんの?」
 芽埜子はパンを口に、嫌みを垂れた。
 はて、と神は視線を返した。
「願いは、ずっと一緒に暮らす、だ」
「いえ・・・確かに、そうだけど。男と女は・・・」
 論戦を挑んで、勝てる見込みは無い。芽埜子は口をつぐんだ。
 神と一緒に暮らしても、左団扇なゴージャスライフとはいかないらしい。逆に、ヒモを抱え込んだ気分になった。

 ばたん、納屋の戸を開けた。奥まで光が差す。
 埃っぽい空気の中、山と積まれた荷物があった。整理されてない、大物が奥にあるようだ。
「さあて、始めますか」
 芽埜子は長靴と長エプロンを着けた。防塵マスクとゴーグル、腕カバーに軍手もした。帽子をかぶり、肌の露出を最小限にする。ゴミ分別のプロとしては、これくらいは常識の装備だ。
「ふむ、これは」
 神は芽埜子を押しのけ、納屋に入る。力まかせに荷物を押しのけ、外にほうり出した。
「ちょちょっと、それじゃあ、かえって手間が」
 あわてる芽埜子。神はかまわず、荷をドリルの勢いで荷を外にほうる。
 がしゃがしゃ、神が大荷物を見つけたようだ。暗い奥から押し出して来たのは、バイクだ。けれど、後ろにタイヤが2本ある3輪式。
 江樫が来て、目を丸くした。
「おお、宗一郎の。一番、やっかいなのを見つけよったな」
 芽埜子は埃だらけのバイクを一周して、尾部にナンバープレートを見つけた。
「まだ廃車手続きをしてなかったんですね」
「は・・・いしゃ?」
「廃車手続きです。法律上は、このバイクは生きてます。道路を元気に走ってる、と思われてますよ。自動車税の催促が来てたはずです」
 江樫は腕組みで考えた。
「言われてみれば、宗一郎宛に何かの催促が来てたなあ。よくわからんので、しばらく払っていたが、面倒になって止めた」
 以後、来る手紙は全て、納屋に放り込んだらしい。
 税金を納めなければ、廃車手続きもできない。その納付書は、神がぶちまけたゴミの中だ。頭が痛くなった。
 神はヘルメットを見つけた。半球型のクラシックスタイルで、耳当てから顎ヒモはレザー製。
 それが二つあった。名前が付いていた。一つには本田宗一郎、もう一つには本田智恵子と。
「ちえこ・・・?」
「宗一郎のコレだよ」
 江樫は小指を立てて笑った。
「式を挙げる前に事故って、みんなパアさ、ね。そいつ、欲しけりゃ、好きにして良いよ」
 江樫は背を向け、家に入って行った。肩が泣いているかのように震えていた。
 神は宗一郎のヘルメットを見た。左側のキズは、転倒した時のものだろう。
「整備用の道具はそろっている。この納屋は、これ用のガレージだ。すこし手入れすれば、走れる」
「乗る気なの?」
 芽埜子は開いた口が閉まらない。
 振り返り、アパート前の道路を見た。向こう側の歩道に小さな一輪挿しがある。そこで宗一郎が死んだのだ。

 午後から街に出る事にした。
 芽埜子はデートの気分。発掘した宗一郎のジャケットとブーツを神に着せると、サイズがジャストにフィットした。やや変質男気味の神が、実にイイ男に変身した。自分の願い事に、少しだけ自信がわいた。
 JR永山駅から旭川駅へ。新築成った駅舎から街中へ出た。
 すれ違う男たちは、猫背だったり、痩せ過ぎのガリガリだったり、腹の肉がズボンからはみ出た太り過ぎだったり。見た目、神に優る者はいない。一緒に歩く芽埜子は、ちょっと鼻が高くなった。
 買い物公園通り歩く。一条通りを渡ると、聖書を抱えて訴える男がいた。
「あなたは神を信じますか、あなたは?」
 某宗教の勧誘だ。
 長谷川一則はあせっていた。ほとんどの人は聞かないふりで通り過ぎるばかり。一人でも教会へ連れて行かねば、今日のノルマは果たせない。
 と、長谷川は筋骨隆々たる男に目を付け、語りかけた。それは、神だった。
「あなたは神を信じますか?」
「うむ、わたしである」
 想定外の反応に、長谷川の思考は一瞬フリーズした。
「いや、そそ・・・そうじゃなくて。天におられます我らの父、神を信じるか、と言う事で」
「わたしは、ここにある。教条主義に陥るな、目の前の真実をこそ見よ」
 ずい、神は踏み出して迫る。長谷川は腰が引けた。
「わたしは、聖書にある神の言葉を・・・」
「それは、ただの印刷物である。そんな物に信仰を頼るべからず。耳を閉じるな、直に言葉を得る機会をこそ信じよ」
 長谷川は自己崩壊寸前。アスファルトに座り込んで、つい涙ぐんでしまった。
 ぐいぐい、芽埜子は袖を引き、神を連れて行く。
「お仕事のジャマしちゃ、だめよ」
「彼を正しい道に導こうとしただけだ」
 神は考えを変えない。芽埜子は首を振り、立場の違いを思った。
「あの人たちは、神の代理人を自称して生活するのよ。本物の神様が現れたら、代理人は失業しちゃう。明日から、どうやって食べていくの?」
「なるほど、うむ。信仰ではなく、労働問題としての布教活動か。その見方には同意しよう」
 ふう、芽埜子は息をついた。
 世の常識と神の信念は、対立する場合があると納得した。だからこそ、世間と宗教の間に、何千年も争いが絶えないのだ。

 とろとろと歩くうち、買い物公園の端、二人は八条まで来た。
 左右の手の平が天を仰ぐ彫刻、手の噴水前で何かしている。「神の拳」と横断幕の字があおっていた。
 神、と字を読んだところで、芽埜子はイヤな予感がした。
 ひょおーっ、ちょぇやーっ、気合いがビルの壁に響く。
 大山升起は演舞に力を込めた。
 貧弱な坊やとか幼児体型の嬢ちゃんの見物衆に、筋骨隆々たる男が現れた。見かけだけの素人に、負ける訳にはいかない。
 助手に持たせた5センチ厚の板を、手刀で、横蹴りで、頭突きで割った。
 10枚重ねた瓦を上からの正拳で割った。
 ふう、と息をついて筋肉男を見た。驚いた風も無く、飄然としている。
「いよいよ、天然石を素手でカチ割りまーす」
 司会が拍手を求めた。ぱちぱち、まばらに音が返ってきた。
 左手で石を持ち、台で斜めに支えた。きええいっ、気合いを入れて、右の手刀を振り下ろした。
 パン、二つに割れて、石の片方が飛んだ。
 ころころ、石は神の足下まで転がった、拾い上げ、その割れた面を見た。
「すごいね」
「うむ、ああまで的を外した打撃で割ってしまうとは、驚きと賞賛を禁じ得ないな」
 素直じゃない。芽埜子は口を歪ませた。
「ヘイ、ユー。的を外す? どーゆー意味ですか?」
 司会が妙なイントネーションで神を問うた。
 神は石片を左手の平に置き、右手の指先でつつく仕草。
「的を無視して、無理矢理力づくで割った事がすごい、と誉めている。そこに至る修行はすさまじい事であったろう」
 誉めているのか、けなしているのか、神の言葉に大山の顔が赤くなる。
 ぱん、神の手の平で石が割れた。
「きちんと的を射抜けるなら、力は要らぬ。神を騙るなら、せめて、これくらいはして欲しいな」
 芽埜子の予感的中。神は喧嘩を売っていた。
 大山升起は演舞台を降りた。いやーっ、はあーっ、気合いで威圧する。
 見物人が間を開いた。大山から神まで、ジャマ物が無くなった。
「下郎、謝るなら、今だぞ」
「神を騙る前に、神の前にひれ伏す事を覚えよ」
 両者、一歩もゆずらず。
「我がフルコンタクト神拳の威力、己が肉と骨の痛みで味わえい」
 たあああーっ、大山が咆吼と共に右正拳で突っかけた。
 この時、見物人の一人が缶コーヒーを飲み終えた。マナー違反にも、道路に投げ捨てた。空缶はころがり、大山の足下へ。
 なんと言う不運か、大山の踏み出した足は缶の上に乗った。
 あっ、大山の体が前に飛んだ。前のめりに、アスファルトの路面へ突っ込んで、大の字となった。
 ころころころ、大山が踏んだ缶がころがって行った。
「あ・・・ひれ伏した」
 見物人が言った。
 大山は鼻血を出し、路面から顔を上げた。
「きさま、運が良かったな。しかし、それもここまでだ」
 大山は構え直し、きえええーっ、横蹴りを入れるべく踏み出した。
 この時、見物人の一人がバナナを食い終えた。マナー違反にも、皮をポイ捨てした。皮は内側を上に、大山の足下で開いた。
 なんと言う不運か、大山の踏み込んだ足は皮の上に乗った。
 蹴り足を振り上げながら、大山は滑った。がしゃがっしゃあん、大山は神を通り過ぎ、ゴミ箱へ突っ込んだ。
 土曜日にゴミの収集は無い。誰かがゴミを不法に捨てた。それを真似て、また誰かがゴミを捨てた。不法投棄が連鎖して、積み上がったゴミ山であった。
 未分別のゴミの中に、大山は埋まってしまった。
 ゴミ山が動いた。
 ぶるぶる、背を震わせてゴミを落とし、大山が姿を現せた。映画「モスラ対ゴジラ」のゴジラのごとし。
「おれ様ともあろう者が・・・きさま、許さんぞ」
 大山が立ち上がる。その頭から、みかんの皮が落ちた。
 この時、見物の輪の外でバスケットボールを楽しむ若者たちがいた。ゴールへシュートしたボールが外れ、あらぬ方向へ飛んだ。
 なんと言う不運か、大山の頭にボールが直撃した。ぐぐっ、踏ん張って堪えた。
「こ・・・こんな事で、おれ様の鋼鉄の意志は、断じて折れはしない」
 なおも、大山は神に向かい、歩を詰めた。
 この時・・・以下略して、なんと言う不運か、大山の後頭部にバトミントンのシャトルが当たった。
 さらに、ゴルフボールが大山の顔面を襲った。前歯が折れた。
 しゅるしゅるとフリスビーが飛んできて、大山の頭の上に乗った。
 わん、と犬が飛びかかった。たまらず、大山はダウン。
 実は、幼児期の体験から、犬に対し重度のトラウマがあった。もう声も出ない。
 犬はフリスビーを口に、揚々と主人の元へ去る。
 アホーッ、カラスが鳴いて、横断幕に糞を垂らして飛び去った。その振動でロープの結びが外れた。横断幕は地に落ちた。

 二人は帰る事にした。
 永山へのバスは、四条九丁目から出る。買い物公園通りを駅方向に戻った。
 と、四条通りの手前で、妙な集団がビラをまいていた。のぼりに「オメガ原理教、真の奇跡を体験せよ!」と書いてある。
 神の足が止まった。芽埜子は早く帰りたかったが、袖を引いても、逆に引きずられた。
「この街には、神を騙る者が多い。捨て置けん」
 ビラをもらい、四条通りに面したビルに入った。最上階の多目的ホールで、彼らが何かをしているようだ。

 場内は薄暗かった。ステージだけが明るい。
 芽埜子と神は最後列のイスに座った。ほぼ満席のにぎわい。
 しょおーこーしょおーこー、しょこしょこ、しょおーこー・・・
 歌声が響く。ステージでは、歌と踊りのショーの最中。素人芸丸出し、見てる方が恥ずかしくなる。
 ショーが終わり、静かになった。
「皆様、お待たせしました。本日の司会を務めるジョー・ユーです」
 ジョー・ユーと言っているが、本名は上祐と書いて、うえひろし。格好付けで、ジョー・ユーと自称している。
「我らの尊師、麻墓昭光のご登場であります」
 ジョーがテレビショッピングのようなトーンの声で、主役を紹介した。
 麻墓は丸く突き出た腹をローブでかくし、女信者に両手を引かれて出て来た。実は、太り過ぎで運動不足、それゆえの腰痛と膝痛で歩くのもつらいのだった。
 スーツ姿の信者が仏像を手に登壇した。今日のサクラだ。
 像を受け取り、ステージ中央の台に置いた。コンコン、叩くと陶器の音がした。
 左手に碗を取り、右手にハケを持つ。ぶつぶつ、念仏を唱えながら、ハケで碗の液体を塗っていく。仏像が銀色になった。
「さあ、いよいよ尊師の法力が奇跡を呼びます」
 ジョーの声が上ずった。
 両手に印を作り、麻墓は低く念仏を唱える。仏像に強力なライトが当たり、銀色に輝く。
 うー、やー、たあーっ、麻墓の気合いが響いた。
 仏像の色が変わる。やがて、金色になった。
「奇跡・・・奇跡が起きた! ご覧あれ、像が黄金仏になったあっ!」
 おおおっ、場内が歓声に揺れる。
 が、最後列の席に、がっかりしている女がいた。
「なあんだ、アマルガムじゃない」
 芽埜子は恥ずかしそうに肩を落とした。下手くそな手品を、宗教まがいの演出でショーアップした舞台にあきれていた。
「なかなか物知りだ」
「まあ、ゴミ分別のプロとしましては、18金と金メッキくらいは見分けられないと、ですね」
 神がほめた。へへへ、芽埜子は照れる。
 常温で液体の水銀に金の粒子を混ぜ、合金としたものをアマルガムと言う。これを目的の物体に塗り、火などで加熱すると、水銀は蒸発して金の薄膜ができる。古代エジプトの頃からある、最も古い金メッキ技術のひとつだ。日本では千年以上前、奈良の大仏が建立時に、この方法で金メッキが施された。
「確かめよう」
 神は立ち上がった。
 止めようと、芽埜子は手を伸ばしたが、遅かった。
 中世ヨーロッパでは、多くの錬金術師たちが金メッキ技術を駆使して詐欺を働いた。アマルガムメッキは古い技術だから、すぐに剥がれてバレた。現代に残るのは、漆器の金細工など、伝統工芸の中だけである。
 そんしそんし、と歓声が続く。列席者の大半は信者だ。
 そんな者たちを押しのけ、神は最前列から登壇した。
「君、君いっ、困るよ。いったい、誰だね」
「神である」
 ジョーの問いに、神は答えた。予想外の言葉に、ジョーは反応できない。
 神は台上の黄金物を取り上げた。メッキだから軽い。
 ぎぎぎぎっ、仏像に爪を立てて引いた。金メッキが剥げて、キズになった。
「鵜納芽埜子、おまえは正しい。確かに金メッキだ」
 場内が静まりかえる。
「おお・・だ、だが・・・ああっ」
 麻墓が神に歩み寄る。よろける足取りだ。
「体の節々が痛いだろう。指先に痺れもあるな。こんな事をしているからだ。もっと自愛する事だ」
 神が指摘したのは、麻墓の急性に近い水銀中毒だった。
 アマルガムを熱してメッキをする近くで呪文を唱えてきた。水銀の蒸気を最も多く吸い込む場にいたのだ。慢性水銀中毒は水俣病として知られている。また、イタイイタイ病も多数の患者が出た。
「お、おまえは誰だ?」
 またジョーが言った。
「神である」
 用は終わった。神は踵を返し、ステージを降りる。
「捕まえろ!」
 ジョーの命令にステージ奥の信者が立った。
 神を追ってステージを降りる所で、古くなった階段が崩れた。どたたたっ、折り重なって倒れた。
「さあ、帰ろう」
 神は芽埜子を促した。
 出口のドアを信者たちが固めた。
 この時、ドア横の消化器を足でひっかけた。古い消化器は安全ピンが折れていた。ボン、倒れた衝撃で粉末消化剤が噴き出した。
 水銀の蒸気に煙感知器が反応し、非常ベルが鳴る。スプリンクラーが作動して、場内に水のシャワーが降り注いだ。
 わーっ、きゃーっ、悲鳴と非常ベルが混じり、場内は大混乱。
 神と芽埜子は、とっくに出ていた。
 バスに乗ると、夕方が近かった。大雪通りの陸橋を越えると、永山から当麻まで約15キロ、国道は一直線だ。
 真っ直ぐ前方を見る神。その横顔を見ながら、芽埜子は傾げていた首を直した。
 やっぱり、本物の神様かもしれない・・・ふと思った。


日曜日


 朝食の後、神はバイクの修理にかかった。
 芽埜子は階段上から見下ろし、また部屋に戻った。鏡に向かい、笑顔を作り、プンと怒り顔になる。
「女よりバイクかい・・・」
 それとも、鵜納芽埜子には女としての魅力が無いのか。会社の三ババに言われていた事を思い出し、つい不安になった。
 座り込み、ノートパソコンを開いた。
 エクスプローラーでバイクを検索する。宗一郎のバイクを探すのだ。
 車検証を開くと、所有者は本田江樫だった。所有権の移動に手間は無いだろう。3輪バイクは普通自動車の免許で運転できる、芽埜子にも乗れる物だ。
「これだ」
 目指すバイクを見つけた。
 ホンダ・ゴールドウイング1500・・・3輪改造・・・
「ひえっ、高っ!」
 つい、声を上げた。
 中古なのに、百万とか二百万の値段が付いてる。物の状態によるのだろうが、タダで貰うには過ぎた物だ。
 きちんと鑑定したら、あれは百何十万の値が付くのか。芽埜子は爪を噛んでしまった。

 芽埜子は部屋を出て、納屋の前へ行った。
 バイクは後輪がジャッキで持ち上げられている。車体下にトレーがあり、エンジンオイルや冷却液を抜いている。
 神が納屋から出て来た。未開封のオイル缶や冷却液缶を持ち出した。
「ガソリン以外、何でもある。これは女物だ」
 神が芽埜子の渡した箱の中は、ピンクのライダースーツだった。ブーツと手袋のセットだ。サイズも合いそう。
 嬉しくなり、部屋にもどって着替えた。ネームタグは本田智恵子だった。
 鏡に向かってポーズ、きつめの胸元を開いて峰不二子の気分。髪の長さが足りないが、まあまあの見栄えだ。
 納屋前に戻ると、神が外から帰ってきた。ガソリンを五リットル缶で買ってきた。
 新しいエンジンオイルを入れ、冷却液を入れ、バッテリーも入れ替えて、準備完了。
 スターターボタンを押した。ブルル、エンジンが動いた。後輪もゆっくり回る。
 エンジンをアイドルで回し、横に座って耳を傾ける。異音の有無を確認する。
「こんな面倒しなくても、神様なら、ちゃちゃっとしたら?」
 せっかく着替えたのに、神は芽埜子を無視してバイクばかり見てる。女として、面白くない。
「最短距離の道は最善の道ではない、目的によるが。きちんと手順を踏み、手間をかける事で、よみがえる事もある」
 禅問答が返ってきて、芽埜子は口をつぐんだ。
「お疲れでーす」
 元気な声で、女の子がティーワゴンを押して来た。
 紅茶とお菓子を神へふるまう。芽埜子にも勧めてきた。
 かわいい・・・つい、腰が引けた。女の目にも、かわいい娘だ。
「宗一郎さんのバイク、動くんですか」
「順調だ、問題無い」
 エンジンは滑らかに回っている。ミッションやチェーンからも異音は無い。
 こんな娘、アパートにいたっけ? 芽埜子は記憶を探る。でも、思い出せない。
「あたし、本田智恵子です」
「ちえこ・・・さん」
 娘が自己紹介して、芽埜子はライダースーツのネームを見直した。
「じゃあ、本当は、あなたがバイクを持っているべきじゃ」
 金曜日の夜、江樫翁から聞いていた。宗一郎の嫁であれば、バイクの真の相続人だ。
「あたしはダメです、運転できないし」
 えへっ、智恵子が笑った。
 ぐぐうっ、芽埜子は唇を噛む。
「おうおう、そうしてると、いよいよ宗一郎が帰ってきたみたいだ」
 江樫翁がタオルを首にして現れた。
 うむ、神は肯き、立ち上がった。
 バイクのハンドルに手をかけ、アクセルを回した。ぐおおっ、エンジン音が高まり、排気音が大きくなった。
 アクセルをゆるめ、ブレーキレバーを握る。ガックン、車体が揺れて、回るタイヤが止まった。
「ストップランプ良し、ウインカー良し・・・」
 神はバイクにまたがった。体重をかけ、車体を前後に揺らす。タイヤとサスペンションの具合を見た。
「概ね、問題無し。後は、走って確かめるだけだな」
「わおっ」
 智恵子がぴょんと跳ねた。
 あたしにはできない・・・芽埜子は智恵子の仕草を見て、首筋をかいた。

 バイクの試運転は芽埜子がする事になった。
 ヘルメットをかぶり、ゴーグルを着ける。芽埜子の髪は峰不二子ほど長くないので、赤いスカーフを首に巻いてみた。
 バイクにまたがり、膝を締めて車体を脚ではさむ。スタータースイッチを押すと、プルル、と小さな振動でエンジンが始動した。
「あたしも!」
 智恵子が芽埜子の背にしがみ付いた。ヘルメット無し、女の子らしい横座りでリアシートに着く。
 ノーヘルはマナー的に良くないが、この車では義務ではない。振り向くと、神が手を上げ、行けと促した。
「試運転だ、慎重に。異変を感じたら、止まる。これが基本だ」
 芽埜子も手を上げ、出発を合図。アクセルをひねると、バイクは動き始めた。
 道路に出る手前でブレーキ、左右を確認して、深呼吸した。
「宗一郎さん、行ってきまーす」
 知恵子が手を振る。道路の向かい側、一輪挿しに向かって言った。そこは宗一郎が死んだ場所だ。
 またアクセルをひねる。
 3輪バイクはターンが苦手、徐行で道路へ。左折し終え、直進になってからスピードを上げた。
 国道が近い。スピードを落とし、どう戻るか考えた。
「そこ、あそこから曲がって」
 智恵子が街方向を指す。よし、その気になった。
 徐行で曲がり、国道に合流した。街まで真っ直ぐの道、試運転に好都合だ。
 流れに乗ると、速度は60キロまで上がった。風が体を包む。
 朝、値段を知って、貰えないと思った。今は、欲しいと思いだしていた。
「そこ、そこを曲がって」
 智恵子が指示する。減速し、徐行で左折して止まった。
 ふう、大きく深呼吸した。いつの間にか、環状線の手前まで来ていた。
 自分で運転すると、時間が短く感じた。快感だ。
「ここです。あたし、この三階に入院してたんですよ」
 左手は大雪病院だった。永山では古い病院のひとつ。
「毎朝、宗一郎さんは、ここに来てくれました。あたしは、あの窓から手を振ってました」
 へーえ、芽埜子は思い出話しに笑みをこぼした。ラブストーリーは好きな方だ。
「退院の時は、二人でこれに乗って帰るはずでした」
 あう、芽埜子は息を呑んだ。宗一郎は事故で死んでいた。アンハッピーエンドは嫌いだ。
「じゃ、帰ろうか」
「はい」
 智恵子は芽埜子の背に顔を寄せた。声が出なくなった、泣いているのか。
 バイクは一番線に出て左折、帰路へ入った。

「あれが動くとは、なあ」
 江樫は新聞の束に座り、息をついた。
「色々思い出したようだな」
 神は老人と並んで座った。真っ直ぐ前を見れば、道路の向こうに一輪挿しがある。
「智恵子さんは良い子だった。宗一郎には過ぎた嫁だったよ・・・それが、あんな事に」
 納屋の荷物、その中から宗一郎と知恵子のアルバムが出て来た。
「具合が悪い、風邪気味かな・・・て、病院へ行ったら、余命三ヶ月ときた」
 病室で、智恵子が笑っている。どのページも、笑顔の写真ばかりだ。
 宗一郎は毎朝、病院へ行った。あの朝、いつものように病院へ行くと、智恵子が窓に出てこない。あわてて病室へ行くと、智恵子は急死していた。家に電話があったのは、宗一郎が家を出た後だった。
「それから、どこをどう走ったか・・・大きな音がしたと思えば、そこで事故って、首を折って・・・」
 アルバムのページは空白になった。
 江樫は道路の向こう、宗一郎が死んだ場所に花を置くようになった。

 左折して、一番線から国道を渡った。
「さあ、もうすぐ家に着くよ」
 速度を少し落とし、芽埜子は言った。知恵子が顔を起こした。
「はい、あたしは帰って来たのね。ああ、やっぱり、待っていてくれた」
 智恵子が前方を指した。
 アパートが近い。道路の向かい側に誰か立っている。男だ。
 彼は笑っていた。ゆっくり手を上げた。
「だたいまっ、宗一郎さん!」
 智恵子が立ち上がった。
「危ないっ!」
 あわてて止めた。少しショックがあった。どきどき、心臓が苦しい。
 背が軽い。芽埜子は振り返り、辺りを探した。
 誰もいない。智恵子がいない。
 バイクが止まったのは、一輪挿しの所だった。
 よおっ、道路の向こう側、アパートの前で神が手を振っていた。
 芽埜子はバイクを納屋の前へ入れた。
「ちち・・・智恵子さんが・・・」
「それで良い」
 芽埜子はうろたえていた。何が起きたか理解できない。
「願いはかなえられず、思いは世に留まり続けた。今、願いはかなり、二人の思いは・・・」
「二人の?」
 芽埜子は振り返り、一輪挿しを見た。
「バイクを乗り続けてやれ、二人のために」
 神の言葉は力強いが、やさしく聞こえた。


月曜日


 また日常が始まった。
 コンベア上を流れるゴミ、ゴム袋でつかみ、分別する。臭いも音も、これまでと同じだ。
 ガタン、コンベアが停まった。とりあえず、目の前のゴミを分別して、また動き出すのを待つ。
 なかなか動かない。
 コンベアの上は分別が終わり、きれいになった。みんなで床掃除を始めた。
「時間前ですが、休憩に入ります」
 場内放送があり、歓声が起きた。故障は深刻なよう。
 長めの休憩後、建物の外を掃除する。ゴミの搬入口から、コンベアの始発点が見えた。
「あれあれ、御曹司がゴミまみれだわ」
「千年の恋も覚めちゃうかな」
「芽埜子ちゃん、あんなでも玉の輿と思う?」
 三ババが話しを振ってきて、芽埜子は目をむいた。
 今鐘鼓朗がコンベアの前で奮闘していた。ゴミをかき分け、機械を掘り出している。
 そこは最もゴミの腐敗臭がきつい所だ。勤まる者は少ない。
 トラックが運んできたゴミは、ほとんどビニール袋に入っている。袋を開けて中身を出してから、コンベアに載せる。これは完全に手作業だ。
コンベアに乗ると、シャワーを通し、油汚れや臭気を薄くして、分別ラインに来るのだ。
 鼓朗は孤軍奮闘。ベルトと歯車の間にからまったゴミを、手を突っ込んで取り出す。
 すごいなあ・・・
 芽埜子は男の背に見入った。

 昼休み前、休憩室に集まった。
「みなさん、午後は臨時休業とします。こちらが指定する方以外は、午後は有給休暇とします、パートの方も含めて」
 社長の説明に、わあ、と声が出た。
 分別ラインの女たちは、ほとんどがパート労働者だった。有給休暇など、他の世界の出来事と思っていた。
 法律上、パート労働者も有給休暇の権利を有している。これで役所の指導を受けずに済むと、ほくそ笑んだ社長だった。
 芽埜子はシャワーを浴びた。弁当を取ってから帰るつもり。
 休憩室にもどると、例の三ババもいた。テーブルに手作り総菜が花盛り。
「あれあれえ、芽埜子ちゃん、手作りなの?」
「ついに、女に目覚めたんだ」
「二人分作って来なくちゃ」
 芽埜子の弁当は、今日はコンビニで買ってない。二人分の食費を考え、自炊を増やそうとしていた。
 ひょいパク、3人の手が芽埜子の弁当に伸びた。
「味付けは・・・まあまあ、かな」
「もっと角度を付けて切ると、おかずが大きく見えるよ」
「包丁の刃がなまってるよ。切り口が甘いわ」
 ベテラン主婦たちの厳しい指導。料理が素人の芽埜子は、ただ聞くだけ。

 アパートに戻ると、まだ午後1時を過ぎたばかり。太陽がまぶしい。
 神は納屋を整理していた。
「宗一郎宛の手紙だ」
 小さな箱に一杯の手紙、その中に自動車税の納付書があった。これを納めないと、所有権の移動などの手続きができない。
 財布の中を見ると、銀行へ行かねばならない残額だ。相続のための費用と思えば、やむを得ない。
 試運転の続きで、ピンクのライダースーツを着て出かける事にした。
「待て、わたしも行く」
 神が言った。なにやら険しい目だ。バイクに気になる点があるのだろうか。
 前に座り、ハンドルをにぎる芽埜子。後ろに男を乗せ、バイクを出した。変な感じだ。

 いつもの銀行は国道に出て、すぐだ。バイクなら、三分とかからない。
 横の駐車場にバイクを入れた。芽埜子はATM玄関へ行く。
 神はバイクに座ったまま、銀行の表玄関を見ていた。その前に黒いミニバンが停まった。
 乗っていた4人は、ナーダル、アッブース、マフムンド、ラシャーディ。遠い国から出稼ぎに来た仲間だった。しかし、仲介者は行方不明、雇い主とは喧嘩して、帰国の金も無くした。
 相談の上、彼らは決意した。異教徒の財産を奪うのだ。道具は国の仲間から手に入れた。いざ、その時が来た。
 ナーダルが車に残り、3人が銀行に突入する。打ち合わせの通り、作戦が始まった。
 神は動いた。ATM玄関に入ると、同時に、3人が表玄関から入った。
 アッブースは真っ直ぐ窓口に向かった。大型のバッグを投げ込み、係の女の額にS&W・M29の8インチバレルを当てた。
「カネ!」
 女は数秒動かなかった。銃口で小突くと、震える手を札束に向けた。
 ひい、きゃあ、他の職員と客が声を上げた。彼らを抑えるのはマフムンドとラシャーディの仕事だ。
「アッラーフ、アックバール!」
 マフムンドが叫び、AK47で天井を撃った。
 芽埜子はATMから現金を取り出したところ。後ろにいた神が振り向き、怒りの声を出した。
「泥棒ども、言葉を捧げる相手を間違えているぞ」
 神はマフムンドに向かって踏み出した。芽埜子がジャケットの裾を引くが、逆に引きずられた。
 マフムンドはAK47の銃口を向けた。外すはずが無い距離だ。相手は怯まない。
「ウーッ、アッラーフ!」
 一発撃った。神の耳元をかすめ、パン、後ろの壁に穴が開いた。
 ラシャーディも銃口を神に向けた。全く怯んでない様子に、逆に腹が立った。
 あああっ、叫びながら撃った。
 AK47の弾倉は三十発入り、一気呵成に撃ち続けた。
 カチッ、弾が切れた。
 煙の中に人が立っている。神には一発も当たらず、全て外れていた。
 マフムンドの射撃技術の未熟を責めるべきか、ラシャーディの曲撃ちをほめるべきか。二人の六十発が壁に作った弾痕は、みごとな人型のレリーフとなっていた。
「よし」
 神は背の芽埜子が無事と確かめると、悠々歩を踏み出す。
 マフムンドは替えの弾倉を出した。しかし、うまくはまらない。
 ガチャッ、弾倉が入った。レバーで初弾を送り、銃口を上げると、神がいた。
 むんず、と神は銃身をつかんだ。
 マフムンドは無理矢理にトリガーの指に力を込めた。
 ばん、弾はラシャーディの腹を撃ち抜いた。低くうめいて倒れた。
 振りほどこうとするが、銃口が自分の鼻先に来た。首をひねると、耳元で暴発した。
 鼓膜が破れ、脳幹まで衝撃が来た。部屋が世界が回って、マフムンドは倒れた。
 神は窓口のアッブースを見た。ずいと足を進めた。
「アルゥハムドゥルアッラーフ!」
 M29を神に向け、指に力を込めた。
 カチッ、銃は沈黙した。不発だ。
 カチカチ、何度やっても撃てない。つい、銃口をのぞいた。
 バン、とたん暴発した。
 天井に着弾して、蛍光灯が頭に落ちてきた。石膏の防火ボードが破片になって振りそそぐ。
 神が迫った。
 アッブースは銃を捨て、右足ブーツのナイフを抜こうとした・・・が、抜けない。
 抜こうとして、つい片足立ち。バランスを崩して倒れた。
 職員が飛び付いて、抑え込んだ。店内の3人が捕らえられた。
 神は玄関の外を見た。まだミニバンが停まっている。
 ナーダルは逃げようとした。ハンドルをにぎり直すと、正面から車が突っ込んできた。
 ぐしゃっ、ノーブレーキで軽ミニバンが衝突した。
 衝撃で動けないナーダルは、しぼむエアバッグの向こうに知っている顔を見た。今朝、アルバイトでドラッグを売った男だ。口から泡を吹いている。かなり利いているようだ。
 状況は片付いた。
 神は芽埜子を振り返った。涙と鼻水を垂らし、ぐずぐずの泣き顔だ。


火曜日


 朝まで夢も見ず、ぐっすり眠った。あんな事があったのに、不思議に寝覚めは心地良い。
 芽埜子が会社に出ると、静かだった。
 事務所に行くと、今鐘鼓朗がコーヒーを飲んでいた。
「連絡、行きませんでした?」
 芽埜子は首を振った。分別ラインは臨時休業、と電話連絡が昨日のうちにあったらしい。
 芽埜子のアパートに電話はあるが、携帯電話は持たない。昨日の午後は出かけていたので、連絡を受けられなかった。
「せっかく出て来たんだ、鼓朗を手伝ってやってや」
 社長の許可で、芽埜子は仕事をする事になった。
 資材搬入口へ行く。ゴミ持ち込み口とは言わない。
 コンベアの回りは開けられ、ゴミ袋は無い。ベルトが外されて、コンベアのフレームが丸出しだ。
「ベルトとモーターを交換します。昼前には業者が来て、作業が始まります。明日は通常操業ですよ」
 瓶底メガネの鼓朗が説明してくれた。
 床に消毒液を撒く。フレームにこびり付いた汚れを落とす。
 たちまち芽埜子は息が上がった。ゴミの分別とは体の使い方が違う。
 11時過ぎ、トラックが搬入口に来た。コンベアの修理業者だ。
「おお、昨日より臭いが薄くなったね」
 業者が言った。
 ほとんど臭いを感じてない芽埜子は、あらためて鼻を動かした。消毒液の臭いの方が強い。鼻がゴミの臭いを感じなくなっている。勤めて3年の月日を思った。

 搬入口は業者にまかせ、芽埜子と鼓朗は会社の裏手へ行った。
 裏には、処理後のプラスチックペレットが山積みだ。
 分別したプラスチックゴミは溶かされ、固形化される。最終的にビーズ状のプラスチックペレットになる。これを親会社に売って、今鐘工業は成り立つ。ペレットはリサイクルで、新たなプラスチック製品になるのだ。
 めったに来ない場所。芽埜子は鼓朗の後ろに付いて歩く。
 鼓朗は背が高い。肩幅は広く、筋肉質な手足。後ろから見上げると、神に似ていた。
 でも、前に回ると、猫背で瓶底メガネ。似ても似つかないのだった。
 ペレットの山の隅で、男たちが集まっている。
「おお、若大将。女連れとは、珍しい」
 古株の社員に言われ、鼓朗は苦笑い。
 芽埜子が注目したのは、男たちがいじっている機械。大型のストーブみたいだ。
「臭いが無くなったね」
「燃焼温度が1000度を超えました」
 プラスチックペレットを親会社に売っても、利益は限られている。ならば、自社で燃料にして経費節減しよう、と言う研究だ。
 石油から作られるプラスチックは、重量あたりの熱量が大きい。ただ、低温で燃やすと、刺激臭をともなう有毒ガスが出る。排ガスを無害にするためには、高温で燃やさなければならない。特別な専用ボイラーが必要だった。
 鼓朗は大きな背を丸め、燃焼窓から火の具合を見る。
「大学から返事が来ました」
 古参から封筒を受け、中の手紙を開く。読む内、半分笑みを浮かべた。
「共同研究の予算が付いたそうだ」
 鼓朗が手紙をかざして言うと、いえい、男たちが歓声を上げた。鼓朗は鼻から息を出し、また口元を締めた。
 個人的な研究と違い、共同研究ではデータの正確さが要求される。これまで以上に、実験は慎重に進めなくてはならない。
 いい顔してる、と芽埜子は思った。

 昼になった。
 芽埜子と鼓朗は事務所へ。と、社長が青い顔で震えていた。
「真一が・・・真一が、バカやりおった」
 今鐘真一は親会社で幹部クラスだ。経理を預かり、株や先物で利益を上げて地位を築いた。それが、今度は大損失を出したらしい。
「本業を疎かにするから・・・あの、バカめ」
 社長は机に顔を伏せた。鼓朗は弁当と茶を前に置いた。
「まあ、なんとかなるって」
 自分の弁当を開き、テレビを入れる。別の話題を振ろうと考えた。
 芽埜子は並んで座る。先週まで麻美女史がいた席だ。
「おかず、余計に作ったので、食べます?」
「ありがとう」
 芽埜子が勧めると、鼓朗は素直に箸を付けた。神と違い、笑顔が返ってきた。
「あっ、鵜納さん」
 鼓朗が瓶底メガネでテレビを見た。昨日の銀行強盗が映っていた。
 携帯電話や監視カメラやの映像が編集され、放送していた。機関銃の前で毅然とする神、その背で小さくなってる芽埜子だ。
「お前もいたのか?」
 社長がテレビを指し、鼓朗を見た。神を鼓朗と見間違えている。
「あっ、こっちでも見てた。凄いねえ、若大将」
 古参の社員が現れた。こっちも間違えている。鼓朗は首と手を振り、否定した。

 どどどっ、地響きを立て、大型乗用車の列が会社前に練り込んで来た。
 ぞろぞろと降り立つ異装の男たち。その中に上裕がいた。彼らはオメガ原理教の一団だ。
 事務所に入るや、上裕は芽埜子を見つけた。土曜日に見たし、テレビのニュースでも見た女だ。
「こいつだ、間違い無い。連れて行け」
 男たちに両腕をつかまれ、芽埜子は抵抗できない。
「待ってください、何ですか」
 鼓朗が立ちふさがるが、上裕のまゆが動いた。
「こいつもだ、逃がすな」
 鼓朗も捕まった。
 外に引きずり出され、芽埜子と鼓朗は別々の車に押し込まれた。
「尊師の御意志である。我がオメガ原理教に仇為す者には、必ずや神罰が下るであろう」
 上裕の上ずった声が天に響いた。

 バイクを納屋に入れた。
 諸々の荷物やゴミが片づき、ここはバイクの車庫である姿を取り戻した。
 神は納屋の前で夕焼け空を見上げた。芽埜子の帰りが遅い。
 江樫が来て、納屋の様子に満足を評した。
「おお、すっかりキレイになったの。さっき、部屋で電話が鳴ってたようだ」
 神はうなづき、部屋へもどる。階段を上るところで、電話の音が聞こえた。
 薄暗い部屋に入る。電話は鳴り止んでいた。
 電話の前に座った。
 窓の外は、すっかり暗くなった。黙して待つ。 
 時計が進む、午後7時・・・9時・・・10時・・・
 ジリリリ、電話が鳴った。
「鵜納です」
「その声だ。おまえだな、あの時の男は」
 電話の向こうには、上裕がいた。見かけで今鐘鼓朗を連行したが、すぐ別人と気付いた。
「女をあずかっている。おまえが一人で来るのだ」
「よかろう」
 神は受話器を置き、立ち上がった。
 部屋を出て、納屋を開けた。エンジンをかけ、バイクを外に出した。
 宗一郎のジャケットを着込み、ポケットのサングラスをかける。
 江樫が音に気付き、出て来た。
「おいおい、こんな時間に出かけるのか」
「心配無い。帰って来るよ」
 サイドブレーキを外し、アクセルをひねる。バイクは道へと出た。

 橋を渡り、石狩川を超えて、東鷹栖へ出た。一直線の国道を街へと向かう。深夜に近い時間帯、交通量はわずかだ。
 上裕が指定した場所へは、こちらの道が近い。
 北海道警察のパトロールカーが国道脇で待機していた。ノーヘルで疾走するバイクを発見、直ちに追跡を始めた。
 サイレンを鳴らし、赤色燈を回してバイクに追いついた。
「そこのバイク、停まりなさい」
 山田巡査がスピーカーで命令した。しかし、神は首を振り、加速してパトカーを引き離す。
「やろう・・・追えっ、追えぇっ!」
 山田はハンドルを取る新見の頭をたたいた。
 3輪バイクでは、ヘルメット着用は義務ではない。ちょいと注意してやろとしただけだ。
 今は、法定速度違反と公務執行妨害で引っ括る決意に燃えていた。

 時刻は11時を過ぎた。
 神居古潭の国道脇、オメガ原理教は夜の集会をしていた。
 照明灯が複数のテントを明るくしていた。尊師は暗いのが苦手なのだ。
 あーにゃーはんたら・・・うんたら・・・
 ステージ上で、麻墓昭光が意味不明、聞き取り不能の教を唱える。それを受けているのはジョー・ユーこと上裕だ。
 上裕は麻墓に一礼し、立ち上がる。振り返り、集まった信者へ向いた。
「本日、わたしは尊師よりホーリーネームを頂きました。アーイエバ・・・これが、わたしの信仰の名です。これより、アーイエバ・上裕を名乗ります」
 ぱちぱち、しずかな拍手。
 集会は休憩に入った。麻墓と上裕はステージを降りて、幕の裏へ。
 後ろ手に縛られた芽埜子と鼓朗がいた。麻墓と上裕は二人を見下ろし、首を振った。
「尊師、われらの集会を妨害した者たちです。いかが、はからいましょう」
「ぱ・・・ぴっ・・・ポアせよっ!」
 滑らかに口の回る上裕に、麻墓は口元を震わせて言葉を出した。顔の片側が歪み、言語障害が出ている。
「おおっ、不信心者の魂を救済する究極の法。この者たちも、きっと尊師に感謝するでしょう」
 上裕はゆっくりと礼をする。
 麻墓は蚊帳に入り、ソファで体を横にした。
 枕元で香を焚き、気分を整える。
「もうすぐ12時だ。日付が変わると同時に、おまえたちはポアされる」
 上裕は口元に笑みを浮かべた。
 ポア・・・その意味がわからず、芽埜子と鼓朗は顔を見合わせた。

 左手に旭橋のアーチを、右手に平らな旭西橋を見る新橋の上で、神はバイクを停めた。
 街を街灯とネオンサインが照らしている。静かで平和だ。
 後方、元町の方からサイレンが近付いて来た。
 パトカーだ。やっと追い付いてきた。
「そのバイク、停まっていなさい。動くなーっ」
 山田はマイクでがなった。
 神は左手を上げ、アクセルをひねる。バイクは橋を降り、四条通りへ向かった。
「追え、追えぇーっ!」
 マイクを切り忘れた山田の声が、橋の上で響いた。
「あのバイク、変です。こっちを振り切ろうとしてない。どこかへ連れて行く気かな」
「からかいよって、もう許さんぞ。応援呼んで、必ずとっ捕まえてやる!」
 山田は頭に血が上っていた、新見の意見も聞く耳無しだ。
 夜の街に、複数のサイレンが鳴り始めた。


水曜日


 ゴゴゴ、蚊帳の中で麻墓がいびきをたてる。病的な響きだ。
 上裕はイスを立ち、麻墓に背を向けた。
 時計が12時を回った。上裕はステージ中央出て、両手を広げた。
「尊師はお休みであります。本日の式次第は、これよりアーイエバが行わせていただきます」
 ぱちぱち、疎らな拍手が返る。手を合わせ、皆に頭を垂れた。
 尊師へは力一杯の拍手、その他へは小さな拍手、それが教団の決め事だ。
 夕方から、ずっと香を焚いてきた。香が頭の芯まで利いた頃。 
 アーイエバが合図した。芽埜子と鼓朗は縛られたまま、アーイエバの横に引き出された。血走った目が二人に集まった。。
「さあ皆の衆、この不信心者の魂を救済しよう。ポアするのだ!」
 おおポア! 一斉に声が上がった。
 芽埜子と鼓朗はステージから下ろされた。
 信者たちが囲む。その圧力で、二人は坂道を下る。
 その先は暗い谷だ。神居古潭の谷底から、石狩川の暴れる水音がした。

 旭川の夜景を背に坂を登る。
 丘の上の美術館を右に見て、下り坂へ。サイレンが追ってくる。
 神はアクセルを握る手に力を入れた。
 街灯が少なくなった。闇の中に、かすかに山の稜線が見えた。いよいよ神居古潭、谷沿いの道だ。

 新たな照明が点き、闇の中に吊り橋が浮かんだ。長さは20メートルほど。
 かつて、国鉄の駅へ渡る橋だった。トンネルができて谷沿いの鉄路が廃止されると、サイクリングロードとの橋になった。
 ポア、ポアの声に押され、芽埜子と鼓朗は橋の上に押し出された。
 二人が並ぶと、もう橋の幅だ。ゆらゆら、一歩ごとに足下が揺れた。
 橋の中央に来た。橋を吊るワイヤーが一番低くなる所。手すりより低い。
 二人の手縄が手すりに繋がれた。
 アーイエバが大きな線香束を手にして来た。
「さあて、おまえたち不信心者の魂を救済する時が来た。まず、肉体と魂を分離する」
 そう言って、火の点いた線香束を芽埜子の顔に寄せた。煙が全身を包む。
 ぐらり、酔ったように目眩がした。手すりにもたれ、かろうじて立つ。
 アーイエバは笑みで、線香束を鼓朗へ向けた。
 線香束の先が瓶底メガネに触れた。プラスチックレンズが焼けて濁った。
「ポアせよ」
 アーイエバの命令一下、芽埜子と鼓朗は橋から釣り下げられた。
 足の下は闇だけ。冷たい風が吹き上げる。
 芽埜子は腕を吊すロープを見た。滑りやすいビニール製だ。揺れるたび、少しずつ緩んでいく。
 せっせーあなごい、あじゃせーさもあい・・・
 橋の向こうで、信者たちが歌い踊る。不信心者を殺す儀式だ。
 闇の谷間に歌が響く。風と川の水音が混じり、橋の揺れが強く感じた。
「こんな場面、映画で見ました。怪獣が出て来て、生け贄を食ってしまうんです」
 鼓朗が強がりで言った。芽埜子は首を振る。
 映画では、ヒロインだけは助かる。でも、男の命は保証外だ。
 がーうー、がーうー、信者たちの歌声が高くなった。
 アーイエバも線香束を振り踊った。
 ポアの儀式を主導した。病気で正気を失った麻墓に代わり、アーイエバ・上裕が尊師になるのだ。

 長いトンネルを抜け、谷沿いの道を走る。対向車は大小のトラックばかり。
 ゆるい右カーブの先にトンネルが見えてきた。
 その手前の右側に、ライトで浮かび上がったテントの列がある。
 神はアクセルをゆるめ、テントの手前にバイクを停めた。
 赤色燈のスティックを手に、数人が出て来た。
「今夜、ここはオメガ原理教の貸し切りだ。一般人は立ち入り禁止だよ」
 バイクを降り、彼らに向かって宣した。
「人ではない、神である」
 神はバイクを降り立つ。サングラスをポケットにしまい、ジャケットを脱いでバイクにかけた。
 むきむきっ、筋肉を誇示して神は歩を進める。痩せた信者たちは道を開けた。
「待ちな。勝手に、それ以上行ったら、これがモノを言うぜ」
 切り裂きのジャックがナイフを突き出して言った。
 ひく、神が眉を動かす。
「あ、ちょい待ち」
 ジャックは、手のナイフが折りたたまれたままと気付いた。脅しになってない。
 ナイフを開いて出そうとする・・・が、出て来ない。
 ぐー、がー、ぎー、ごー、げー・・・はあはあ、息が切れた。いくらやっても、ナイフが出ない。
 諦めた時、ぴょんとナイフが飛び出た。鼻に刺さった。
 ひいっ、鼻から血が噴き出す。ジャックは鼻をおさえて、転げ回った。
 神は谷に向かう。テントをくぐるのが近道だ。
「待てっ。信者でなければ、それ以上行ってはならない」
 テントの下に、多くの人影があった。
 ブルース・イが立ちはだかる。彼の背後に7人の部下が並び、道を塞いだ。
 上着を脱いでポーズ、筋肉を誇示する。
 あたっ、うわっちゃー、きゃやーっ、奇声を上げて次々とポーズを決める。ぎっ、見得を切って、神を睨んだ。
 しかし、神は泰然として歩を進める。
 ひゅんひゅん、イの右手が背からヌンチャクを出した。
 あちゃ、と殴りかかろうとすると、ヌンチャクの片方の棒が無い。棒はふっ飛んで、手下の一人の頭を直撃していた。
 ならば、とイは左手で背からもう1本のヌンチャクを出した。
 今度こそ、とヌンチャクを振るうと、手からすっぽ抜けた。別の手下の首に巻き付いて、窒息でダウン。
 きああーっ、ブルース・イは奇声でジャンプ、必殺の跳び蹴りを・・・しようとして、ごん、テントの梁に頭をぶつけた。
 イは後頭部から墜落して気絶した。残る手下は逃げた。
 神は坂を下り、闇に浮かぶ吊り橋を目指した。

 ポアの儀式は佳境に入った。
 えーせーせな、ええーせーせな、いずらーあなぼの、そなばおそなぱ・・・
 歌と踊りは絶好調だ。
 アーイエバも線香束を振り、足踏みで踊る。
 ひゅう、風が吹く。線香の煙が横に流れ、踊りの足下を揺さぶった。
 びゅうびゅう、突風になった。皆、体を低くした。
 がしゃんがしゃん、吊り橋が音をたてて揺れる。ぶら下がる二人は振り子のよう。
 吊り橋の上にいた数人は、四つ這いで脱出。
 歌と踊りが止まった。と、風も止んだ。闇の谷間は、また静寂になった。
 坂を下りて来る人影がある。アーイエバは注視した。
 盛り上がった筋肉、自信満々の歩き、顔が見えなくても誰か分かった。
「来たな、ようやく。あの二人と、共にポアしてやる・・・うっ」
 さらに脅しの言葉を重ねようとして、突風に吹き飛ばされた。他の信者たちも地面に這いつくばり、風に耐える。
 橋への道を塞ぐオメガ信者たちは、風で左右にに押し分けられた。
 神は開いた道を悠然と歩く。その場だけは風が無い。
 アーイエバは銃を抜いた。SIG/ザウアーP220は自衛隊が採用する信頼性の高い物だ。
 が、風で手が振れる。狙いが付けられない。
 神は無風地帯を歩き、橋を渡り始めた。
 アーイエバは指先に力を込めた。バン、小さな衝撃、銃は火を噴いた。
 バン、バーン、銃声は風に吹き消された。弾も外れた。
 神の歩みは乱れない。
 ずるっ、また揺れた。ロープがゆるんだのか。
 落ちる・・・芽埜子は目をつぶった。足の下は闇、風と水の音があるばかり。
 ロープが引かれる。腕の痛みが強くなると、体が上がり出した。
 頭が手すりより上になって、引き上げているのが神と知った。体をあずけ、橋の上に。
「遅いよ、バカッ」
「元気であるな、よろしい」
 神は芽埜子のロープを解いた。腕と肩が痺れて痛い。
 さらに鼓朗も引き上げた。起重機のような剛力だ。
「ありがとうございます」
「うむ」
 鼓朗は礼を言う。瓶底メガネはレンズが濁り、まともに物が見えないが、前に命の恩人がいるのは分かる。
 どん、小さな音がした。神の体が揺れた。
 何かが芽埜子の顔にかかった。手でぬぐうと、血だ。
 神の脇腹に大きなシミが広がる。よろけて、手すりにもたれた。
「大丈夫ですか」
 落ちそうな神を、危うく鼓朗が支えた。
「わたしは神である。しかし、この肉体は、すべて人間と同じだ。ケガをすれば、血も出る。役割が終われば、消えるのみ」
 神の体から力が抜ける。頭が手すりから外へ、ずるずると落ちる。鼓朗は支えきれない。
「危ない!」
 芽埜子も神の体をつかもうとした。が、遅かった。
 神は闇の谷底へ落ちて行った。パシャ、川の流れに小さな水音が加わった。
「か、神・・・神様のはずじゃ・・・神なのに?」
 芽埜子と鼓朗は橋の下の闇を見つめた。

「ポア!」
 アーイエバは叫んだ。
 ついに邪魔者を片付けた。P220を頭上にかざし、信者たちを振り返り、彼らの賞賛を求めた。
 ぱちぱち、疎らな拍手が来た。
 ちっ、アーイエバは舌打ちした。尊師と同等の存在になったと自負しただけに、信者たちの評が気に入らない。
「もう一度だ。あれをポアせよ!」
 橋の上の二人を指し、命令を出した。実績を重ね、存在感を増すしかない。
 信者たちの数人が橋を渡る。中央にいる二人を捕まえようとしていた。
 腕と肩が痛い。芽埜子は立ち上がれずにいた。
 鼓朗は痛みを押して、芽埜子の前に立った。
 おおおっ、ゾンビのような声で信者が迫った。話し合いは通じそうにない。
「ちょっと待って・・・だから、すみません・・・」
 鼓朗は腕を払いながら、声をかけた。
 聞く耳持たぬ風で、信者たちの腕が袖に、首にからみ付く。パキ、瓶底メガネが落ちた。
「この・・・わからず屋っ」
 ごすっ、鼓朗の拳が信者の一人を倒した。
 ぐおおおっ、信者たちのゾンビ声が高まった。
 鼓朗は右の信者の服をつかむや、左右に引き裂いた。左の信者の服も引き裂いた。
 あれええっ、いやあーん、まいっちんぐ・・・
 信者は下着まで破け、裸になってしまった。風に吹かれて、股の物をブラブラ、逃げ出した。
「すごい・・・」
「ゴミ袋を破いて開くのは、いつもやっているからね」
 芽埜子があきれ声、鼓朗は弁解した。
 オメガ原理教の信者服は、今は教団内製である。アーイエバら幹部が材料費をピンハネして、良い生地ではない。また、素人の縫製のため、糸の解れが日常的にある。破けやすい安物であった。
 鼓朗は芽埜子の手をとり、立ち上がらせた。しかし、逃げようにも、橋の両側はオメガの信者たちが固めていた。
 芽埜子は鼓朗の素顔を初めて見た。いつも瓶底メガネだったが、それが無い顔が・・・この1週間、一緒だった男に似ていた。
「あなた・・・あなたって?」
 記憶を探り、思い出せない。誰と似ているのか、誰と一緒だったのか・・・
「何だ、あれ?」
 岸の国道側、電気照明に混じって、ゆらゆら赤い光があった。鼓朗の裸眼視力では、何か判別できない。

 テントの中、麻墓昭光はソファで寝ていた。寝ぼけて、香炉を蹴飛ばした。
 絨毯に火が点いた。強い香を焚くため、炉の温度は高かった。
 服の端が燃えだし、さすがに目が覚めた。
 あわてて逃げて、蚊帳を倒した。それも燃えだした。
 あっあっあーっ、言葉にならぬ悲鳴で麻墓は走る。服の火が広がる。
 服を破って脱いだ。駆け寄る信者たちを、燃える服の切れ端で叩く。彼らの服も燃えだした。生地は値が安く、可燃性が強かった。
 サイレンを鳴らし、パトカーの集団が旭川方向から来た。挟み打ちで札幌方向からも、トンネルをくぐって来た。
 バイクを追ってきて、道路沿いに止まっているのを見つけた。
「おいおい、何だあ、ありゃあ?」
 山田はマイクをにぎったまま、口が閉じられない。
 テントで火災が起きている。まだ初期の火だ。
 そのテントの中で、裸の男が火の点いた布を振り回している。他にも裸の者たちがいる。
「応援が必要だ、刑事課を呼ぼう。消防と・・・救急も」
 パトカーを止め、警棒を出して降りた。平和な地方都市勤めだった。狂人と対するのは初めてだ。

 サイレンが集まって来た。邪魔者が増えた。
 アーイエバは焦った。ポアの儀式を早く完了せねばならない。
「ポア−!」
 アーイエバは叫んだ。P220で橋の中央に立つ二人を狙った。
 ガチッ、銃は固まった。すでに全弾を撃ち尽くしていた。
 鼓朗は胸のポケットから予備のメガネを出した。度が強くなる前の物だ。視力補正が0.2までだが、無いより益し。
 橋の入り口、何かの武器を持つ者を見つけた。逃げずに突進した。
 どっ、鼓朗はアーイエバの腰にタックル、押し倒した。
 手の武器は拳銃だ。両手で腕をねじると、手から銃が落ちた。
 が、アーイエバの左パンチが鼓朗の顔面にヒット、予備のメガネが割れて落ちた。視界がぼける、相手が見えない。
「抵抗するな、不信心者め。せっかく、おまえたちの魂を救済してやろうとしているのに」
「余計なお世話だ。自分の事は自分でするよ」
 二人は互いに襟元をつかんで、締め上げた。アーイエバの教団服は、特別に良い生地なので破れにくい。
 カーン、金属音がして、アーイエバが力を無くして倒れた。その後頭部に大きなコブが。
 芽埜子がフライパンを持っていた。どこから手にいれたのか、聞くのはためらわれた。
 鼓朗は足下のメガネを拾った。右のレンズが割れてるが、左は無事だ。
 と、上方からまぶしい光が降り注いだ。天から二人を迎えに来たかのよう。
 信者たちが光から逃げる。
 バラバラ、ヘリコプターが轟音をたてて直上に来ていた。警察か、消防か、数機の光が見える。国道にはパトカーのライトが点滅していた。

 神居古潭の谷間に遅い朝日が差し込んだ。
 オメガ原理教が設営したテントは、すっかり焼け落ちてしまった。
 山田巡査は国道で交通整理だ。現場に駆けつけた一番手なのに、交通課ゆえの仕事をしている。
 ちらり、国道の脇に停まっているバイクを見た。ホンダ・ゴールドウイング1500の3輪改造仕様だ。
「おれらは、あのバイクを追っかけて来た・・・はずだ、よな」
「そう、そのはずですが。なんで、追っかけたんですかねえ」
 山田と新見は顔を見合わせた。
 バイクを追い始めた・・・そのあたりから、記憶が不連続だ。追跡の理由が思い出せない。
 麻墓は薬物依存状態として、警察病院へ収容された。他の信者も薬物中毒が疑われた。
 火元となった麻墓の寝所から、燃え残った香炉が回収されていた。灰からでも、香の成分は分析可能だ。
 現場から拳銃と薬莢が発見された。殺人未遂を視野に、刑事立件があるかもしれない。
「まあ、いいか」
 山田は首を振った。
 大事の中の小事だ。忘れても、問題無いだろう。
 鼓朗と芽埜子は、焼け跡の縁でコーヒーを飲んでいた。
 刑事課の人が来て、帰宅許可をくれた。
 昨日、オメガに拉致された時、すぐ父親が警察に連絡していた。誘拐事件は被害者の安全を優先し、初動は隠密に進む。翌日に被害者救出は上出来である。
「お二人とも、お宅と連絡がついてます。午後、事情を伺いに係の者が行きます、よろしく」
 二人はバイクの前に立つ。芽埜子は首をひねった。
「なぜ、ここにあるのかしら。誰か、乗って来たのかなあ?」
 バイクのシートにジャケットがある。宗一郎のだ。
 鼓朗のジャケットが少し破けていた。着替えさせると、サイズはピタリだ。
「今鐘さん。お宅の方で、携帯に出ない、と心配されてますよ」
 刑事に言われ、鼓朗は携帯電話を出した。仕事中は電源を切っているので、昨日からそのままだった。
 電源を入れると、ぴぴぴ、すぐ鳴った。親の社長からだ。半ば泣き声で、無事を喜んでくれた。
 帰る、と伝えて電話を切った。
 トランクからヘルメットを出してかぶり、芽埜子はバイクにまたがる。鼓朗はリアに座った。
 エンジンをかけ、バイクを走らせた。
 以前にも鼓朗を後ろに乗せて走った・・・そんな気がした。

 台場のトンネルを抜け、橋を渡って環状線を行けば、永山までは最短時間だ。
 アパートの納屋前にバイクを止め。芽埜子は深呼吸した。これまでの最長ドライブだ。
「おお、帰って来たか。若いモンが朝帰りか、ったく」
 江樫翁が竹ぼうきで払い、ぷいと背を向けた。あれ、と芽埜子は首をひねる。
 鼓朗がアパートに来たのは、今日が初めてのはず。前から知っていたような口ぶりだった。
 宗一郎のジャケットを脱ぎ、鼓朗は芽埜子を見た。
「あの、鵜納さん、実は・・・お願いがあります」
「何? あたしにできる事なら」
 鼓朗は唾を呑み、また深呼吸。言葉が口から出そうで、出ない。
「一晩、色々あったしね。お願いは一つにしてね」
「はい・・・一つだけ、お願いします」
 一つだけの願い・・・芽埜子は、それをした事があったような気がした。何時だろう、何を願ったのだろう・・・思い出せない。
 鼓朗はメガネを外し、顔を寄せて来た。
「芽埜子さん・・・ぼくは、あなたとずっと一緒に暮らせたら、と思います」
「一緒に・・・ずっと?」
 うん、と鼓朗は大きく肯いた。
 芽埜子の目から、一筋、涙がこぼれた。
 ・・・鵜納芽埜子、その願い、かなえよう・・・
 いつか聞いた言葉が、胸の中で響いていた。


 闇の谷間に消え、川に落ちた神の肉体は、また小瓶に封じられた。
 瓶は流れのままに、いずこへか去った。
 どこかの水辺で、また誰かが手にするかもしれない。
 そこで何が起こるか・・・神のみ知る事である。





< おわり >




本多知恵子さんの思い出のために・・・田と知の二文字が違うけど・・・
2013年2月18日(49歳没)
これを書き出してから、知りました。アニメから離れてたもので。
   

2014.2.8

OOTAU1