回顧

ガン告知

  2012年8月16日午後3時、わたしは母と病院にいた。先週月曜日の6日から検査入院していのだが、その経過説明が医師からあるのだ。
 診断はズバリ、肺ガン。
 先週の火曜日に胃カメラを飲んだ、と母が言っていた。実は肺カメラだったのだ。ファイバースコープの先で肺組織を一部切り取り、培養して検査したところガンであると判明した。
 これにて、わが両親は二人ともガン持ちになってしまった。父の方は、2年前に胃ガンをファイバースコープで切除しているのだ。この時は、手術後に培養でガンと判明した。
 肺ガンは脳への転移がありうるという事で、今度は脳をMRIで検査すると言う。治療方針は転移の有無で大きく変わる。
 脳MRIなら、わたし自身が3年前にうけている。その時もガンの疑いであった。
 わたしの場合、ガンではなかった。頭蓋骨の内側が左右不均等に成長していて、その骨のでっぱりが腫瘍のように見えたらしい。精密スキャンでつながった骨と判明したのだった。
 鏡を見れば、わたしの頭蓋骨は外側も左右不均等だ。もともと首が右へ傾いてるし、さらに左へねじれている。首をまっすぐ立てようとすると、肩が傾いてしまう。顔の中心線をなす鼻の左側に傷があり、眉間にも傷が入ってる。歯の上下が平行線にならない。右の奥歯が無いせいかなあ。こんな頭蓋骨なら、なんでもありだね。


 9月13日、医師から治療の途中経過の説明があった。
 放射線照射をして、腫瘍は縮小が見られる。レントゲン写真の黒い影は半分くらいになり、アバラ骨が写ってきた。なるほど、肺ガンが見つけやすいのは、あばら骨があるから、と納得できた。
 しかし、父の方はと言えば、血液検査で前立腺ガンを示す数値が高いし、食道ガンを思わせる数値も出ている。胃ガンの転移であろうか。

 昼、父とすき屋へ。牛丼ミニを食う。父はスプーンを使う、指先に力が入らない様子。
 午後1時、病院の母を見舞う。なんか、歩き方がおかしい。運動不足のようだ。
 エレベーター前のホールで、母が携帯電話を使った。すごい大声だ、コンクリートの天井と床で響く響く。10メートル離れていても、電話の相手の声まで聞こえる。耳が悪くなってる人の、よくある電話の話し方らしい。

 10月になった。
 ようやく、母が退院して帰ってきた。そして、タバコをふかす。肺がんなのに・・・・
 朝、母が居間でウロウロ。ズボンもはかず、パンツまる出し。
 おねしょした、と言う。下着を替え、濡れた布団を丸めようとしていた。力が無いから、てんで小さく丸められずにいた。結局、男のわたしがやるはめになった。
 うむ、と考えた。昼飯後、母と薬屋さんへ行く。介護のコーナーで、防水シーツを買った。おねしょ対策なら、これが一番だ。
 翌朝、また母が騒いでいた。連日でおねしょした。
 が、今度は防水シーツの上にシミを作っただけ。布団はきれいなままだ。さっそく役に立ってしまったよ。
 防水シーツを洗うと、昼前には乾いた。

 10月30日、父の定期診療。レントゲン写真と心電図取り。
 心臓に異常あり、と出た。二系統ある心筋神経のうち一系統が、ほぼ死んでいるらしい。片方でも心臓は動くのだが、残る一方が止まれば、心臓は動かなくなる。危ない片翼飛行の状態と言う訳だ。


 年が明けて・・・・・いや、年の暮れから父の様子がおかしい。めっきり出不精になった。風呂へ行こう、と誘っても、行こうと言ってくれない。
 1月7日、風呂へ誘うが、やはり父は行くと言わない。ボイラーが壊れて、もう我が家の風呂は使えないのだ。午後、市役所へ行って、介護の手続きを聞いた。プロのアドバイスが必要な時が来た、そう感じた。
 1月8日、母と市立病院へ。新年初めての定期検査だ。まあ、経過は順調であった。
 1月11日、朝から父はベッドの中で荒い息だ。ちと、いつもより悪いみたい。10時過ぎて、近くの沼崎病院へ出向いた。介護の相談をするためだ。介護の申請には、主治医の同意が必要、と市役所で聞いていた。あちらも相談をうけるのは慣れた感じで、あれこれ順序経ててくわしく教えてくれた。
 家に帰ると11時を過ぎていた。母が父と話して、病院へ行く、という事になっていた。父も自分の容態が悪いと実感していたようだ。しかし、すでに午前の診察受付は終わりに近く、行くなら午後2時以後の診察時間にするしかない。
 午後2時を過ぎた。父は着替えたものの、椅子から立ち上がろうとしない。息が苦しいのだ。よくよく見れば、どうも朝飯からとっていない様子、ただ事ではない。
 午後3時過ぎに、やっと病院につけた。歩けば200メートル無い距離だが、今の父には無限に遠い所かもしれない。
 簡単に診察して、急性肺炎の診断。そのまま緊急入院のはこびとなった。

 3階の病室に入った。点滴開始だ。
 でも、となりのベッドの様子が変だ。
 見舞いの人が多いけど、赤ちゃん以外は沈黙な雰囲気。看護婦さんが来て、これからお体をきれいにさせていただき、それから改めてお別れを・・・・・て、死んだの?
 翌日、父はとなりの部屋へ移った。点滴に加え、鼻に酸素チューブを付けた。
 ベッドの横にポータブルトイレがある。部屋からトイレまで遠いので、間に合わない時は、ここでするのだ。
 良い事だ。家でも、ベッドからトイレまでは遠い。間に合わずに廊下に漏らしてしまう場合があった。退院までに探しておこう。

 1月24日、午後に父の見舞い。少し元気になったみたい。相変わらず、点滴と酸素チューブを付けている。
 2週間の検査の結果は・・・・・肺ガンだった。ただし、血液検査のデータからすれば、レントゲン写真の上のガンが小さいらしい。写真に写っていないところにガンがかくれている可能性が高い、との事。ガンの全体像がわからなければ、治療のかけようが無い。年齢的にも体力的にも、父の治療は選択肢が少ないのに・・・・
 父の足が腫れている、。入院前から腫れてたけど。
 一昨年の秋に検査で短期入院した時は、すっかり腫れがひいたものだ。入院してだいぶ経つのに、まったく腫れたまま。

 2月、介護申請が通って、新しい保険証が来た。要介護2、とある。
 普通は申請から2ヶ月くらいかかるらしいけど、わずか1ヶ月で来た。入院してる場合は早くできるのかな。
 ついでなので、母の介護申請をする事にした。

 4月初め、ようやく退院。
 新しい診断は、BOOP肺炎。肺が繊維質化していく病気らしい。数回繰り返すと、肺がつぶれて、呼吸不能で死にいたる・・・・肺の脳梗塞みたいなものだった。
 母の介護保険証が来た。要支援1、だって。
 母のお姉さんが近くに住んでる。歳は90歳を過ぎている。こっちも申請しておこう。デイサービスとかも、姉妹二人なら行きやすいはず。二人合わせて180歳だよ。

 家族三人で風呂へ行く。
 前はとなり町の温泉まで行ってたけど、少し近くのスーパー銭湯にした。つか、あの温泉は施設内が禁煙になってしまった。銭湯の方は、食堂に喫煙席があるのだ。
 風呂上がり、三人で軽く食事して、父と母は、それぞれにタバコ。肺ガンと胃ガンが一緒にタバコだ。
 帰ると言う時に、父が立てないと言う。
 こんな事もあろうかと、車いすを用意してあった。食堂から車まで、てくてく押した。

 12日、わたしの通院。軽い便秘を言ったら、どっさりと新しい薬をくれた。
 こんなに毎日飲んでたら・・・・・肝臓や腎臓がボロボロになりそうだね。いやいや、とっくになってるかもしれない。毎日、昼過ぎに来る疲労感や睡魔は、単に年のせいだけじゃないだろう。
 3日ほどして、ひどい下痢が! 胃が下腹がよじれる痛み。
 何かと考え、薬のせいと気づいた。新しい薬の中に、一昨年も同じように下痢をしたのが混じってる。過敏反応と言うやつだ。あの時はそれと気づかず、ずっと飲み続けて、1週間で5キロ以上も痩せた。
 薬を止めたら、また三日ほどで腹の痛みは治まった。恐怖のダイエット薬は封印して捨てた。
 今回、体重は2キロ減だった。これはこれで良しとしよう。


 6月19日、未明、午前三時、たたき起こされた。おやじが騒ぐ。
 小便が出ない!
 小便しようと気張るが、ウンコが出るばかり。部屋のあちこちにウンコが落ちてる。ずいぶん苦しいようだ。
 とりあえず、ウンコを片付けて、救急車を呼ぶか考えた。考えて、通っている泌尿器科がある病院に電話してみた。まだ深夜だよ。
 当直の医師がいた。すぐ来い、と言ってくれた。
 東の空が白みかけてる街を、車で走った。病院の裏口、救急玄関に入る。三時半ごろ。
 膀胱に管を入れて、無理矢理排尿させた。約400ccばかり。一旦帰り、明るくなってから出直して診断をうける手はずとなった。
 五時ごろから、また苦しみだした。小便が出ない、と言う。
 八時過ぎに病院に行く。受付はしたけど、まだ医者は出てきてない。
 九時から診察開始。レントゲン撮って、CT撮って、また管を入れて強制排尿。
 これからしばらく、管を入れってぱなしで、尿袋をぶら下げる生活となった。少なくと数ヶ月は続くもようだ。
 おやじには介護ではなく看護が必要と言われた。幸いにも、すでに要介護2の保険証はある。まだサービスは受けてないが、手続きは簡単に進むだろう。
 おしっこ袋をぶら下げては、銭湯へ行けない。デイサービスで風呂に入るしかないね。

 21日、夜、右足が痛む。
 右の足首関節がキリキリとくる。古傷のところだ。
 同時に、右ひざも痛む。右の尻もだ。腰痛から来る痛みだろうか。あるいは、脳梗塞が新しい段階に入ったか。
 明け方、痛みは治まった。

 父が臭い。オシッコの臭いだ。
 聞けば、漏れた、と言う。着替えだ、着替えだ。
 足がおぼつかないので、手伝うことになる。こんな事もあろうかと、使い捨てな紙のボディータオルを買っておいた。
 パンツにズボンまで染みていた。着替えの途中で、上のシャツにも黄色い染みを見つけた。上着も着替えだ。結局、上から下まで全部替える事になった。
 チンチンに管を入れて、オシッコは尿袋に出るようになっているのだが、なぜか外に漏れてしまう。意思と関係なく漏れる、厄介だね。
 オシッコのシミは、ただ洗っても取れない。毎度、漂白剤に浸け置きしてから洗う。手に付くと痛くなる、とほほ。

 7月、まだ足が痛い。
 でも、夜の痛みは、どうやら靴下が悪いようだ。脱いで寝ると、それほど痛まない。冬は寒さ対策として、はいたまま寝ていたのだ。
 それが、急に痛みを感じるようになったのは、なぜか。暑さだろうか。汗が靴下にたまり、皮膚をシメつけて・・・・なんて、面白くない。昼間は、さして痛まないのだから。

 訪問看護のお姉さんの勧めで、父はオムツをはく。薄いリハビリパンツと言うやつ。
 チンチンを尿パッドでくるめば、オムツはさほどよごれない。これで、痛い漂白剤を使わずに済む・・・・かな。

 8月16日、父のデイサービス。お風呂の日。
 その夕方、腹のへそ周囲に、赤いみみず腫れができていた。汗疹のひどいやつと思い、ローションを塗った。
 翌朝の17日、父のシャツを着替える。小便がもれて、シミになっていたのだ。
 脱がして、驚いた。腹のみみず腫れがひどくなっていた。左の脇腹から背中まで広がっている。一部には水がたまり、水疱になっている。9時に訪問看護へ電話すると、土曜であり、盆休み明けでもあり、対応できる病院は多くないらしい。
 連絡をとってもらい、午前中なら、と内科でかかっている沼崎病院を推してくれた。
 行くと、帯状疱疹で緊急入院となった。今年、3回目の入院だ。

 26日、父を見舞う。
 背中の疱疹がひとつ破けた。出血していた。
 疱疹の皮膚は弱い。体重がかかっていたところに、寝返りで破けたのか。これまで痛みは無いと言っていたが、さて、これからはどうだろう。
 退院する、家に帰る、と父は言う。痛みを感じないので、病気の自覚が無いようだ。病院の医師も看護師も困り果てている。
 家に帰って、どうする? 疱疹が直りきってないから、デイへ行って風呂に入る事もできない。さらに皮膚が裂けて痛みが出たら、すぐ再入院だ。帯状疱疹の後遺症は神経痛が多いらしい。きちんと直してから、帰ってきて欲しいものだ。

 9月4日、父が退院。
 帰る帰るを連発するので、とうとう根負け。認知症の症状かと疑ってしまう。
 疱疹は、表面が乾燥して、徐々に剥がれていくはず・・・・と病院側。ベッドのシーツに、大きな小便の跡があった。あっちも、持てあましていたのね。
 それ以上に心配したのは、廃用性症候群だった。病院では、ベッドで寝たきりだったので、ひどい運動不足に陥っていたはずだ。食事はベッドで、トイレへは車いすで行っていた。
 家では、食事はテーブルで取り、トイレまで自力で歩く事になる。
 とりあえず、父が家でしたのは、タバコだった。

 11月7日、月一度、父の通院。今日は泌尿器課へ受診。混んでた。
 待合室で、しばし待つ。
 と、急に鼻がむずむずしてきた。臭い! でも、おしっこの臭さではない。
 喉まで、きた。咳が出る。
 芳香剤の臭さだ。わたしは過敏症なのだ。あえて商品名を上げるなら「花王ハミング」の過敏症だ。四人家族でわたしだけ、これなのだ。
 待合室の中に、ハミングをたっぷり使って洗濯をした物を着てる人がいる。
 目までピリピリしてきた。
 父を置いて、その場を離れる。売店でホット缶コーヒーを買い、もどる。
 缶の口からのぼる湯気で、ハミングの攻撃がやわらぐだろうか。ちびちび飲む。鼻、喉の痛みは軽くなった。目では消えた。いいぞ、缶コーヒー。

 2014年も三週目になった。
 父の要介護度が3になって、病院とデイサービスとケアマネージャーが集まった。今後の方針を話し合ったのだが、その後から、父の様子がおかしくなった。
 腰の痛みは常態化した。朝から晩まで動く度に、痛いと言う。
 いよいよ寝たきりが近い、そんな予感がする。

 17日の朝、父は具合が悪い、と起きてこない。
 母は9時に予定通りデイサービスへ出かけた。
 さて、父だ。昨日の夕方、夕食は半分だけで寝た。今朝は食べてない。水すら飲んでない。
 看護師へ電話すると、すぐ二人で来てくれた。
 父は背中、腰に痛みがあるようだ。こんな状態では、明日のデイサービスは無理だろう。
 看護師の判断は早く、救急車を呼ぶ。わたしは保険証を探し、玄関を開けて待つ。
 近くの整形外科へ緊急入院の運びとなった。診断は、腰椎の圧迫骨折だ。過去に何度も折れている痕があり、また折れて、ついに強い痛みが出たらしい。筋肉がやせ細り、骨を支えられないのだ。
 
 ここのところ、耳鳴りを強く感じる。
 左の方は相変わらずながら、右の方が強くなった。時には、左右が同じくらいの強さで鳴る。
 四年前・・・・いや、もう五年前になるか。左耳が突発性難聴になった。耳鳴りと目眩いで仕事を辞めた。右耳は二年後に始まった。
 頭部と左顔面のしびれ、つーか痛みも、また強く感じる。
 脳梗塞が新しい段階に入ったのだろうか。

 26日の朝、鳥が死んでいた。居間で飼っていたインコが、カゴの底で仰向けになっていた。
 うちのインコは長生きだった。かれこれ十数年だ。普通の倍も生きた鳥だった。
 前日、鳴きもせず、母の手の中に寄り添ってきたらしい。いつもなら、手を寄せると逃げてしまうのに。お別れ、だったのだろうか。
 あるいは、父の身代わりか・・・・

 二月になり、街とテレビは冬祭りとオリンピックで、ちょっと騒がしい。
 トイレで、ふと思った。
 ウンコが細い!
 10年前なら、太くて黒々としたのが、ゴトンと音をたてて便器に落ちたものだ。
 最近のは、半分くらいの太さで、スルリと音も無く便器の底へ吸い込まれて消えてしまう。色も薄い、と言うか、明るい。
 大腸がウンコを圧縮して固める力を失ったのだろう。これも年のせいか。

 先週末から足が痛い。
 左足のひざ下、ふくらはぎの外側の下半分に痛み。歩くと痛みが出る。立ち止まり、しばらく待つと痛みは消える、また歩き出すと痛みがぶり返す。
 右足は腰痛の影響で、いつも何らかの痛みがある。ついに、左にまで来たか。
 知人の整復師に相談、診てもらった。
 閉塞性動脈硬化!
 実は、よくあるらしい。
 足の動脈が詰まり、血流が減って、運動すると筋肉が酸欠になり、痛みとなる。運動を止めると、弱いながら血流があるので、酸欠症状が無くなり、痛みは消える・・・・・こういう事らしい。
 血管が細くなってるのは、脳梗塞がいっぱいあるから、分かっていた。頭だけでなく、足にも来たのだ。
 痛みが止まらなければ、手術する事になるらしい。おおっ、恐い。

 三月になった。
 父は寝たきりが続いている。腰椎の骨折だから、へたに体を動かせないのだが、それがために廃用症候群になってしまった。筋肉が衰え、間接が固まって、いよいよ体が動かないのだ。
 骨折の方は治りかけているのに、筋肉が体を支えられないのでは、また折れてしまう。
 相談の結果、リハビリが中心の療法へ切り替え、転院を視野に入れる事となった。
 今いる病院は、あくまで骨折の治療がメインの所。リハビリはサブでしかない。

 四月、いよいよ父の反応が鈍くなった。
 入院直後には、ウンチが出た、ひげ剃れ、もち食いたい、と色々要求してきた。それが、ほとんど無くなった。
 かすかに言うのは、退院か、と。家に帰りたいらしい。
 寝たきりで、自力で寝返りすらできない、おむつの点滴状態では、家での生活は不可能だよ。

 寒の戻り、また雪が来た。
 おしっこ袋が黒い。昨日までは、そうだった。
 今日のおしっこ袋は、真っ赤だ。完全な鮮血。
 記録を見れば、尿量は以前の半分になっている。腎臓が停止しているか、腎臓と膀胱をつなぐ尿管で異常が起きたか。どちらにしても、新しい事態になっている。
 これでは、リハビリ施設への転院は無理そうだ。

 13日、久々に高速に乗ってロングドライブ。
 路面温度が高い。冬タイヤなので、時速80キロ以上でスリップの感触が来る。耳を壊してから、こうした揺れに弱いのだ。
 道々、首の長い鳥を見た。白鳥だ。
 雪解け水が溜まった田んぼで、羽を休めている群れ群れ。春だ。
 ヤマトタケルは死後に白鳥となり、諸国の空を巡ったとか。国を追放されて、なお、国に帰ろうとした者の悲劇。
 病院から電話。父の様態が変わったらしい。
 誤嚥性肺炎を起こしたらしいので酸素吸入を始めた、との報。体が弱った老人がかかる、典型的な病気だ。生きるためには食わねばならず。食うたびに、誤嚥の危険を冒さなくてはならない。難しいものだ。

 15日、朝の10時、病院から電話。病状の説明をする、と言うので、午後3時ごろ行くと答えた。
 その30分後、また電話が来た。状態が急変したらしい。
 昼過ぎ、病院に着いた。大部屋から個室に移り、心電計がつながれていた。
 波形は弱い。普通の半分の振幅しか表示しない。そのくせ、心拍数は100前後。ベッドで寝てるのに、外を走っているみたいだ。
 あと数時間くらいかも、と医師は言う。人の心臓が止まる時期を予測できるらしい。幾多の経験によるのだろうが、悲しいスキルだ。
 母を家に帰し、一人で父に向き合う。売店でパンとコーヒーを買って食べた。
 心電計の線がカクンと落ちて、しばらく下に張り付いた。細かい拍動をともないながら、ゆっくりと元の高さに戻ってきた。心臓が収縮して硬直したのだろうか、こっちの心臓も止まりかけた。
 6時ごろ、血中酸素の値が昼頃の半分に落ちた。いよいよです、医師が言う。家族を呼べと促された。
 7時前、心電計が直線になった。心臓が止まった。でも、のどは動いて、呼吸はしている。数秒あって、また心臓が動いた。
 また心臓が止まった。ややあって、のどがゴクリと動く。と、また心臓は動いた。
 三回目か四回目の心臓停止、今度はのどが動かない。待っても、動かない。さすってみるけど、動かない。
 母と弟が来た。
 医師は、父の死を告げた。
 心電計には、まだ数秒おきに微弱なパルスがある。計測のために機械が出すパルスだろうか。それとも、神経か脳の一部が生きていて出すパルスだろうか。
 母を弟にまかせ、もうしばらく病院に留まった。

 葬式から一週間が過ぎた。
 毎日、ちまちまと遺品の整理とゴミ出し。父の腕時計が出てきた。去年の夏、電池を替えてくれ、と頼まれたのだが、店で修理不能と言われた。
 火曜の7時半で止まっている。死亡時刻にほぼ等しい。偶然・・・・だよね。
 日付を合わせ、祭壇の隅に置いた。

 さて、葬儀の祭壇には、花や果物、お菓子が副えられていた。
 列席者の供物だ、いらないのに。しかし、これも父の人徳の現れとしておこう。
 葬儀が終わって、捨ててはもったいないから、果物とお菓子は食べる。毎日、毎日・・・・リンゴにバナナにグレープフルーツに、お菓子は賞味期限切れの物が出てきた。でも、食い終わらない。
 おえっぷ、つい胃液が逆流しかけた。
 パイナップルは縮んでブヨブヨに柔らかくなった。つまり、腐ってしまった。ミカンを指でつつくと、ぷよよんとはずむ。中がどうなっているのか、皮をむくのが怖い。そのまま捨てた。
 体重が増えて体脂肪率が上昇して、血糖値とコレステロールと中性脂肪が、などと考えていると、オヤジの後を追って逝きそうだ。ああ、意外に、その日は近いかもしれない。

 五月、いろんな花が咲き始めた。赤やらピンクやら、街が色づいた。
 友人が里帰り、久しぶりに会った。
 彼の家も大変らしい。妻の母が体調悪化、下の世話で忙しいとか。
 もうひとつ切迫した問題は、父の祭壇に供物のお菓子を置いていった事。せっかく片付きかけてたのに。またしても、賞味期限が今月半ばだ。ううっ、体重が、血圧が・・・・・

 毎朝毎晩、母は父の位牌に手を合わせる。こんなに信心深いとは思わなかった。
 美容院経営の必要から、神や仏の祭事には詳しかった。その日に合わせ、客が来るから。
 今、母が信じているのは、神でも仏でもない。ただ、つい最近まで生きていた夫の存在だ。

 父の死から、もうすぐ一ヶ月。
 わたしの通院、血圧の薬が切れた。
 2月ごろから続く、左足すねの痛みを相談した。足が腫れて、むくんでいる・・・・らしい。
 足のむくみは、父と母にもあった。いわゆる老人病だ。足の筋力が衰え、足に降りてきた血液を上体に押し上げる力が無くなる。酸素が足りない血液が下半身にたまり、色々な症状が現れる。足の皮膚が乾燥し、角質化するのは代表例。
 思えば、わたしは今年六十になる。いよいよ老人の仲間入り。

 健康保険証を役所に返し、父の年金を母へ移す手続きをして、後処理進行中。
 物置に灯油のポリタンクを見つけた。空と思っていたのだが、満杯に入っていた。それも七個だ。
 ポータブルの灯油ストーブは、ここ三年ほど使ってない。とすると、少なくとも四年前のものだ。近くのスタンドに相談すると、無料で引き取ってくれた。古い灯油を燃やすのは危険だからね、揮発性の油は時間とともに変質してしまう。
 映画の中で、気づかずに同じ物ばかり買いためてしまう男がいた。アルツハイマー病の映画だった。
 あの当時に、もう父の認知障害が始まっていたんだね。
 認知と言えば、母も危ない。
 去年までは、レストランの支払いで、1円の単位まで小銭を数えて出していた。ここ最近、100円以下の計算を面倒くさがる。始まっているのかも・・・・しれない。

つづく・・・?