回顧
2007年、9月末日、秋の始めと言うより夏の終わり、わたしは会社を辞めた。 ずっと辞めたいと思っていた。辞めるきっかけが、会社の方から来た。早期定年退職の募集だ。 1日だけ考え、応募した。 18年も勤めたし、歳も53になるし、膝やら腰やら肝臓やらもボロボロだし・・・・色々あって、失踪願望があった。会社から消えられる、となれば願ったり叶ったりだ。 辞めた翌日は寝坊した。 いつも午前5時には起きて、出社していたので、朝の9時は大寝坊だ。 駅前のファミレスでモーニングセットを食う。電車に乗り、横浜の中心へ。 ストリップで夕方まで過ごした。黄金劇場は踊り子の年齢が高い、30代は若手だ。もしかすると、わたしより歳上の女が裸をさらして踊る。乳房を揺らし、尻をふって、股を開いて見せる。たるんだ肌、余った肉に、むしろ親近感を抱くわたし。 辞めて数日、会社から郵便が来た。退職後のあれこれのための書類だ。 市民税とか社会保険とか、役所で手続きするものがあるらしい。文章を読んでも理解が難しいので、直接窓口で聞く事にした。幸いに、役所は歩いて行ける距離にある。 役所の次は職業安定所だ。最近はハローワークなどと、変な和製英語をあてていた。 まず、あれこれと求職の登録をした。そして、機械でデータを検索。時代は進んでいた。 何かしたい、やりたい事があった訳じゃない。 一人になって、他とのあれこれを断ち切りたかっただけ。結婚してないし、家庭も無い。外とのつながりは、仕事だけだった。 朝、駅前のファミレスでモーニングセットを食べる。 携帯ワープロでテキストを打つ。へたくそな、自分だけが読む小説を作る。前回まで打ち込んだ分を読み返して終わる事も多い。一日かけて、やっと一行進むなんて、ね。 昼、近くのコーヒーショップへ移動。またワープロをいじる。人と会わないから、自分の脳内だけで完結する物語作りに没頭できる。 どこかへ投稿するのが目的ではない。頭にあふれた物を掃き出しているだけだ。 一本完成すると、少し頭の中の曇りが晴れる。 数日、茫然自失。そして、また書き始める。もやもやが頭に湧いてきて、それを吹き払わなければ、ね。 再就職支援の講座に行く。前の会社が用意したやつ。 別に、何かしたいとは思わないが、暇はあるので、とりあえず顔を出す。 場所は横浜駅前のビルの中だ。たらたらと何かしてるふりをして時間を潰し、終われば、駅前をぶらぶら。またストリップに行き、年増のおっぱいをながめた。 求職の登録が終わり、またハローワークへ行く。 ホームヘルパー2級の講座のチラシを見つけた。棚を探すと、3枚もあった。 以前から関心のあった分野だ。遠いけど70代80代の両親もいる。窓口で相談したら、まず説明会へ行くよう、言われた。説明会も求職活動としてカウントする、らしい。 三つの内、一番近い説明会へ行った。夕方なのに、会場はほとんど女。わたしには苦手な雰囲気だ。 大勢の人に混じると頭痛がする。求職活動を証明するハンコをもらい、会場を出た。すっかり暗くなっていた。 またストリップに行こうか、と考えながら、夜の街を歩いた。 繁華街の端、薄暗い道に古い看板が光ってた。ソープランドだ。 こんな外れで営業する古びた店は、激安店と相場は決まってる。今のわたしに相応しい。 スプリングの抜けたソファーで待ち、いよいよ部屋へ。あばらの浮いた痩せのおばさん、わたしより年上かも。 この夜、わたしの好みは太めだ、と認識した。歳は関係ない、抱き枕にはたっぷりの肉が必要だ。 昔、パソコンの記事にあった。いや、まだマイコンと言う言葉が主流だった頃の事。 CPUの消費電力は、何もしていない完全待機では、やや多い。少し仕事をさせてやると最低状態になる、らしい。 スクリーンセーバー等のプログラムは、そんな目的で開発された。最近では、ウイルス感知ソフトがその役割を担っているとか。 人間も同じかもしれない。 何もせず、じっとしているのは、けっこう疲労する。少しでも何かしていると、疲労を感じなくて済む。 人は最も疲労しない状態を求めて、常に何かをし続けるのかもしれない。 年が明けて2008年。 昨年暮れ、アパートを建て直す、と大家から通告があった。 引っ越しの準備を始めた。7年暮らした部屋には、ゴミが溜まっていた。ちまちま片づける。やってもやっても、部屋が片付かない。 業者に頼み、ゴミを引き取ってもらった。部屋がわずか広くなっただけで、少し心が落ち着いた。 部屋のゴミは、心に溜まったゴミでもあった。部屋が片付くにつれ、心と体が軽くなった。 3月、わたしは北海道に帰ってきた。 新しいアパートに入った。親が近くに住んでいる。 新しい仕事はタクシー、たまに親戚を乗せる事になった。 その人は、車いすの生活になっていた。家と病院の往復を手伝う。家への帰りがけに、薬局でオムツを買う。 わたしが50を過ぎるくらいだ、警察署長だった人がこうなっても不思議無い年月の経過。 別の親戚のおばさんは、数年前に夫と死別していた。今はボランティアで障害者を支援していて、わたしの車に彼らと乗る事もあった。 皆が年をとり、昔とは違う生活をしていた。 母の新しい趣味は、わたしが休みの日に、昼にファミレスでランチ。夜には、郊外の温泉へ。美容師としては、ほぼ引退していて、店のほうは人にまかせて、好き勝手に動く。 休日、ゆっくりしたいのを叩き起こされ、朝から温泉へ行く事になった。 湯につかっていると、人を呼ぶ放送があった。母の姉の名前だ。 同姓同名が身近にいるらしい、不思議な気分で風呂からあがった。 ロビーで母が出てくるのを待つ。と、救急車が来た。ストレッチャーが女湯から出てきた。乗っていたのは母だった。 母は浴室で倒れた。朦朧とする中で、お姉ちゃんの名を言ったのだろう。それが、さっきの放送だったのだ。一緒に来ている夫や息子を忘れ、頼りにしたのは実の姉だった。 母は即日入院、後頭部を三針縫った。糸ではなく、ホッチキスの針みたいなやつを三つ、だ。 ある日、仕事帰りに家に寄った。携帯で呼ばれたのだ。 札幌にいるはずの弟がいた。左目の上にケガをしていた。 昨夜、ドライブに出かけ、あてもなく走るうちに帰ってきてしまったらしい。片道160キロのドライブ、高速使っても。 で、朝から母と温泉に行った。上がりがけに転んで、顔から床に激突、救急車で運ばれた・・・・らしい。 ああ、あの母にして、この息子あり。親子で同じ事やってるよ。 結局、わたしが弟の車を運転して、札幌まで送る事になった。帰りはバスだ。 車の中で、弟と話をした。 軽度の「うつ」を患っていて、通院中らしい。不眠、耳鳴り、周期的な頭痛が続いているようだ。 「うつ」なら、わたしにも自覚がある。前の会社にいた時は、自殺願望があった。それは殺人や破壊の衝動とも重なった、実行せずに済んだのは幸運だったのだろうか。やがて事故死願望へ変わり、突発性の病死願望へとなった。会社を辞めて、それらは消えた。 わたしより多趣味で、外交的で、友人も多いはずなのに、それでも「うつ」になるとは。 また年が明けて2009年。 昨年の暮れから、昼夜交代のシフト勤務になった。酒をやらないし、酔っ払いの相手は苦手だ。 よく行き先を聞き違える。週に1度、いや2度くらい。付き合いの無い人の言葉を正確に聞き取るのは、けっこう難儀するのだった。 耳が悪くなったなあ。いやいや、悪いのは頭の方さ。 雪が溶けて、春になった。 左目に異常を感じた。視界が狭い。 前の会社で仕事してた時、突然、左目が半分見えなくなった。左の視野の下半分がブラックアウトした。三日ほど続いた。痛みは無かったので、週末に病院へ行こうと思ってたら、週末になる前に直ってしまった。 また来た、と思った。 今度は視野の上半分が暗い。鏡を見たら、まぶたが落ちてた。指でまぶたを押し上げると、視野は復活した。眼球じゃなかった。 顔面に力を込め、えいっやっ、と左のまぶたを開く。これで視野は確保できた。が、気を抜くと、まぶたが落ちる。 ウエイカップ、左目! 10月の始め、その日は夜勤だった。夜明け前に終わる早上がりのシフトだ。 もうすぐ日付が変わる、その頃だった。急に耳鳴りがした、キーンと左の耳だ。 何かの拍子に耳鳴りは起こり、数秒か数分で収まる、今度もそうだと思った。でも、違った。1時間経っても、まだキーンキーンと鳴り続けている。 さらに、耳の穴が痺れてきた。普通じゃない。 仕事が終わる頃、痺れは痛みになってきた。耳たぶから耳の周囲へ、範囲も広がった。キーン、耳鳴りも続いている。 会社で一休み、家に帰ると明るかった。早起きの母に迎えられた。 耳鳴りと耳の痛みのダブル攻撃でグッタリだ。病院行きを勧められた。 耳が痛いので、耳鼻科へ行った。あれこれ検査があって、難聴を指摘された。耳鳴りとセットで出る症状らしい。 治療開始から3ヶ月経っても直らなければ一生続く、との託宣が下った。 痛みもあって、仕事ができる状況じゃない。会社へ行って休みをもらう。「突発性難聴」と言う病名を会社の人から聞いた。 会社から帰り、目眩が来た、車の運転中だ。時速60キロを超えるあたり、フワリと加速感と言うか振動を感じなくなった。やばいっ、と速度を落とした。40キロくらいに落ちると、また普通にもどった。 50キロ速度規制の道を40キロで走る。これが、今のわたしには安全速度だ。とろとろと家に帰った。 耳鳴りが始まって4日目、耳の痛みに耐えかねて、また病院へ行く。 突発性難聴は痛みを伴う病気ではない・・・・らしい。じゃあ、何? 耳の穴の中でゴキブリかムカデが暴れてる、この痛みは気のせいじゃない。 紹介状をもらい、脳神経外科の病院へ行く。即日、検査入院となった。 1週間程度の入院が、結局は10日間もいた。聴覚神経周りの腫瘍の疑いだったけど、実はもっと奥の、脳梗塞だった。 わたしの脳は実年齢より年寄りらしい。 聴覚神経と顔面神経は近いため、脳梗塞が両方を刺激している・・・・みたい。単純な突発性難聴ではない。 脳梗塞は治らない病気だ。もげた指が生え替わらないように、死んだ脳細胞は再生しない。 耳の周辺の痛みはそのまま、痺れの範囲が広がった。顔の左半分が痺れる。鼻の先、舌の先までピリピリチリチリ痺れる。 キーン、ブーン、と耳鳴りも続く。高音と低音のふたつが交互にハウリングする。 耳鳴りと痺れは、強くなったり弱くなったり、楽になったり苦しくなったり。気にするのも嫌になる。 はたと気づいた。もしかしたら、ずっと前から難聴は始まっていたのではないか。行き先を聞き違える事が多々あった。あれは、難聴からくる事態だったのでは、と。 結局、仕事をギブアップ、辞めた。 運転してて、時折来るフワリと浮き上がるような目眩、事故を起こしてからでは、後悔にならない。 いっぱい薬をもらって、がんばって飲む。腹が痛くなった。医者に訴えたら、胃薬が追加になった。薬の量だけでゲップが出そう。 雪が降ってきた。 新年が来た。2010年、時が早く過ぎていく。 耳鳴りが始まって3ヶ月が経った。聴力は半分くらい回復した、らしい。耳鳴りは・・・よくわからない。まだまだ、ずっと続いている。痺れと痛みは、かなり軽くなった。 この後は、劇的な症状の改善は期待できないだろう。今の状況に慣れるしかない。 耳鳴りのせいか、ひどく疲れる。首筋が痛い、筋肉痛なのか神経痛なのか。どっちでも良いけど、雪はねのキモは足腰だ。そう思うと、腰まで痛くなってきた。 疲れて眠ろうとして、目を閉じる。ぐらぐらぐら、ベッドが揺れ出す。目眩の変形だ。 心を静かに保ち、揺れと付き合いながら、ゆっくり眠りに落ちる毎日。 2月末、早朝、電話で母に呼び出された。 札幌の弟から、助けを求める電話が入ったらしい。以前にも、発熱で助けを求められたけど、今度は違う事みたいだ。 父を残し、母と車で出た。 午前9時過ぎ、札幌に着いた。アパートのドアを開ける、鍵は持っていた。 弟は玄関近くで寝て・・・・いや、倒れていた。4時か5時頃トイレに立ち、そして倒れた。腰の痛みで体も起こせない。 痛みが治まるのを待って、病院へ行こう、と話し合った。しかし、待っても待っても、痛みが引かない。 昼近くになった。母は腹がすいた、と言い出した。弁当を買ってこよう、と部屋を出た。 アパートの前で大家さんと会った。車を置いてる事情を話すと、救急車を呼べ、と急かされた。 弟は即日入院となった。 実は、昨日の午後、病院で診察を受け、入院を勧められていた。それじゃ明日にでも、とアパートへ帰って支度をしたらしい。しかし、事態は急転した。 一晩で、腰の椎間板が壊れた。慢性的な痛みはあったが、一気に症状が進むとは思いつかなかった。 3日後、手術となった。背中を15センチも切る大手術になった。 3月、弟はベッドで寝たきりだった。オムツの生活。 4月には、車いすで動けるようになった。 5月になると、杖で歩行訓練となった。年は40代半ば、若いから回復も早い。 6月に退院、旭川でリハビリの段取りをとる。しばらく一人暮らしは無理だ。 ある自動車工場で事件が起きた。辞めた従業員が車で敷地内を暴走、何人かを刎ねた。 わたしがやりたかった事だ。また、他人に先を行かれてしまった。工場に乱入し、従業員を殴って斬って殺して、設備を壊して火を着けて・・・・そんな妄想に取り憑かれた時期があった。結局、やらずじまい。 どうせ、おいらは優柔不断、決断できない男さ。 秋葉原の歩行者天国をトラックで蹂躙し、何人も殺したヤツがいた。おれだって、やりたかったぜ。でも、やりたいと思うだけで、いつも寝てしまった。 どうせ、おいらは夢想するだけ、実際には何もできない男なんだ。 8月、弟は旭川の生活を切り上げ、札幌でリハビリを続ける事にした。仕事へ復帰するなら、一人暮らしの生活を取り戻さなければ、ね。 9月末日、母は長年営業してきた美容室を閉めた。 開いた部屋に、わたしはアパートから移った。 2011年、テレビは中国との対立とか、民主党の内輪もめとかで騒がしい。 耳鳴りは続いていた。左顔面の痺れと左耳周辺の痛みは、まあまあ軽くなってきた。舌の痺れがあると、グルメを気取れない。困ったね。 1月末、また親戚筋で葬式。 昨年の秋から、毎月のように葬式がある。みんな、年をとったんだな。 3月、あの日、あの時、わたしはトイレにいた。便器に座り、ウンチを出すべく気張ろうとしていた。 と、目眩がした。世界がユラユラと揺れる。わたし的には珍しい目眩。 前にも、トイレで踏ん張ったとたん、頭が爆発するような頭痛にみまわれた事があった。今度もか? いや、これは地震だ、と気づいた。周期が長いので、遠くの震源だろう。揺れて、まだ揺れている、震源地では大地震に違いない。 テレビを入れた。正しく、大地震だった。 その日は深夜まで、テレビは地震と津波を放送し続けた。 4月末、父の様子がおかしい。めっきり食欲が無くなった。 母の勧めで、胃カメラの診察を受けた。 で、すぐ入院。胃ガンの切除手術となった。胃カメラを使うので、麻酔を使うけど簡単な手術だった。 病院が近くでもあり、母は散歩をかねて、毎日見舞いに行く。やっぱり夫婦だ。 2週間とかからず、父は退院した。 そして、秋が来て、また冬が来た。 病院から父へ手紙、胃ガンの術後検診のお誘いだ。いやだ、と首を振って、手紙はゴミ箱へ。 キーン、また耳鳴りだ。右耳に来た。左ほど強い耳鳴りではない。 顔面の右側にも痺れ、ついに顔中が痺れる。左が強く、右がやや弱い痺れ。 また新しい脳梗塞か。 もう、考えるのもおっくうだ。 病院へ行く。検査をすると、やはり右耳も難聴になっていた。 これで、両耳が突発性難聴になった。もっとも、聴覚障害者の認定をもらえるほどの難聴ではない。そこまで強い障害なら、耳鳴りも感じなくてすむのだろうか。まったく半端な難聴だよ、わたしには相応しいかもしれないけど。 貝殻をかぶせなくても、キーンキーン、わたしの耳は鳴り続ける。 |
つづく