2級死刑専門特別刑務所

 


 死刑・・・死をもって刑罰とするのは、実は最も古い刑のかたち。
 だが、昔は罪の重さにより、死刑のやり方が違った。重罪人には苦しんで死ぬ刑を、軽犯罪者には苦しまずに死ねる刑を執行した。
 現代においては、ほとんどの場合、死刑はただ1種類のみである。

 令和X年、増え続ける凶悪犯罪者を収監する刑務所の不足が現実化した。また、刑務官のなり手不足も常態化した。そして、刑務所予算も底をついた。
 ここに至り、国会は刑法を改正した。無期懲役を廃止し、懲役7年以上は2級死刑とした。刑が確定後半年を過ぎた死刑囚には、以後の予算割り当てを無しとした。これにより、年間、百億円以上が節約されるはずである。
 死刑廃止を訴える人権団体もあるが、彼らにも金の問題は解決できない。税金で重犯罪者を養う事の是非が問題なのだ。金は人権に優先する政府課題であった。



1. 死刑囚ご一行様到着




 富士に登って山の高さを知り、大雪に登って山の広さを知れ・・・昔の人が言ったそうな。

 この諺にある大雪山を南に見て、高速道路を走る。
 冬であれば、南の十勝岳から連なる火山の峰々が大雪山まで真っ白になる。夏の短い間だけ、蒼い山脈となる。何度も火を噴いては、麓を火砕流と泥流で襲った荒ぶる山たちだ。
 高速旭川北インターから1台のバスが一般道に出た。窓には金網がある、囚人護送車だ。
 国道40号方面へ向かった護送車は、すぐ左へと曲がった。東鷹栖の市街を抜け、田圃の中道を行く。国道と平行して北東へ向かう道だが、途中、小高い山の麓で途絶える。
 そこに白亜の城が建っていた。
 これこそ旭川刑務所、日本では数少ない2級死刑専門特別刑務所である。つまり、ここの囚人は全員が死刑囚なのだ。

 護送バスが重々しい扉をくぐる。
 扉が閉まり、一般社会と隔絶された空間になった。
 金網の窓の中で、囚人たちは目を見張る。護送バスから10メートルほどの所に、5人の刑務官が並んでいた。
 刑務官は右腰のホルスターから拳銃を抜き、壁の的に狙いをつける。銃口には太い筒が付いている、消音器である。
 ぽっぽっ、銃口から青い煙が出た。的が揺れて、穴が開く。
 旭川刑務所が新しい囚人を迎える儀式のひとつであった。
 刑務官らは銃をホルスターに納めると、左腰からナイフを抜いた。素早い抜刀からの突き、威嚇をせずに斬り付ける技を見せた。
 刃渡りは40センチ、本格的な山刀である。ぶんぶん、刀を振り、腰を落として突きをする。道場剣法ではない、実践的な型を披露する。

「降車!」
 号令がかかった。車内の囚人たちは目を乗降口にやる。すでにドアは開いていた。
 囚人たちの胸には大きな番号札がある。1番から順にバスを降りた。今回は9番まで、頭が白くなった者、毛の薄い者、猫背の者、胸を張ってふんぞり返る者、立ち姿はそれぞれ。皆が手錠をかけられ、腰が短いロープでつながっている。一人だけが逃げられないようにしている。
「整列!」
 号令があり、9人の囚人はバスの前に並んだ。
 バスの側面トランクが開けられて、バッグや袋や段ボール箱が下ろされた。死刑囚たちの私物だ。
「囚人9名、お引き渡しいたします」
「囚人9名、引き渡しをうけました」
 バスの乗務員と刑務官が短いやりとり。敬礼を交わして、引き渡しが終わった。
 刑務官は建物の入り口を指した。
 囚人たちの列は無言で歩き始めた。
 その背では、バスが扉の向こうへ出て行く。一瞬、緑成す田圃と畑な外の世界が見えて、また見えなくなった。

「着席!」
 号令があって、囚人たちは1列に並べられたイスに腰を下ろす。前には机があった。
「長旅お疲れさま、楽にして」
 女の刑務官がペットボトルの茶を配っていく。囚人たちの目が大きな胸に集まった。
 すでに手錠は無く、腰のロープも無い。ただ、背後には銃と刀の刑務官が目を光らせている。
 ワゴンを押して、男の刑務官が机の前を行く。囚人たちの胸番号を見て、同じ番号の付いたファイルを机に置いた。
「さて・・・」
 女刑務官が正面に立った。
 目元の小じわから見れば、歳は40過ぎか。身長は170センチ以上、大きな胸に引き締まった腰回り、尻から太股のラインは肉付きが良い。
足元はつま先が広めのスニーカー、足音が無いタイプだ。
「旭川刑務所にようこそ。わたしは大沢マリア、諸君らが入る第4棟の刑務主任である」
「主任さんですか・・・」
 1番の胸番号を付けた囚人がつぶやいた。鼻の下は長くのびている。
「目の前のファイルを開いてほしい。最初のページは、諸君らの死刑執行承諾書の写しだ。法務大臣の署名捺印、自分の名前がある事を確認してくれ」
「しけい・・・しょうだくしょ?」
 囚人たちはファイルを開く。ペットボトルを口にして、首をひねりながら文書を読む。
「自分の名前を確認できたかな。2ページ以後は、当刑務所での過ごし方などだ。諸君らは死刑判決が確定して、ここへ来た。法の定めにより、死刑執行は判決確定から6ヶ月以内である」
「6ヶ月以内・・・」
 2番の胸番号の囚人が、ほおをひくつかせた。
 大沢マリアは薄く笑みを浮かべて囚人たちを見る。何か品定めする目つき、菩薩のような慈悲の笑みではない。
「諸君らは2級死刑であるので、刑執行の方法と日時を選択できる。方法はファイルの後半に例がある、そこから選べる。6ヶ月ある、ゆっくり選べるだろう」
「6ヶ月で選べなかったら?」
 3番の胸番号の囚人が言った。
「諸君らへの予算は6ヶ月分だけだ。それが過ぎたら、食事も水も提供できない。つまり、飢え死にを選択した事になる」
「飢え死に・・・て、人権蹂躙だ!」
 4番の胸番号の囚人が叫んだ。
「諸君らは死刑判決が確定している。すでに人権は停止された身である」
 大沢主任は冷徹に答える。それでも、笑みは絶やさない。
 5番の胸番号の囚人が手を上げた。
「おれは再審を請求している。絶対に選ばないぞ」
「それでも、予算は6ヶ月までだ。以後は外部の支援者に頼ることができる。水と食事と暖房などで、月に10万と5千円が必要だ。ベットや服などは差し入れしてもらえ。第6棟では、そのようにして7年以上も住んでる者もいる」
「外部の・・・が無かったら?」
「再審を請求するなら、それなりの証拠があるはずだ。ならば、支援者もいるだろう。舌先三寸だけで再審の請求が通るほど、法律は甘くできていない」
 5番は手を下げた。
「しかし、何事にも例外はある。今回は、8番と9番が女性である」
 大沢主任が端に座る女囚人に目を向けた。
「死刑判決が確定した身であっても、妊娠が確認されると、刑の執行は停止される。子に罪は無い、これは判例として確立している。なので、出産してから、また6ヶ月以内に死刑が執行される」
 女囚人は目をむいた。8番は若い、30歳くらいか。が、9番は白髪頭の老女だ。
 6番の囚人が手を上げた。
「主任は大変にセクシーでいらっしゃる。あなたとしながらなら、死んでも悔い無しですね」
「しながら?」
「もちろん、アレをしながら・・・です」
 へっへっへっ、6番は口を歪めて笑いを投げる。
 大沢は小首をひねり、向き直った。
「まず、健康診断を受けてもらおう。心臓疾患や肺気腫、脳梗塞などの既往症があると、バイアグラ100ミリグラムの摂取でも行為の最中、または直後に死亡する例があるらしい。経口摂取より静脈注入なら、さらに利き目があるだろう」
「バイアグラが100ミリ・・・」
 6番は反応に苦慮する様子。
 バイアグラは6ミリグラムか12ミリグラムの錠剤が市販されている。1回分の8倍を静脈注入されたら、健康な者でも無事では済みそうにない。
 7番が手を上げて立ち上がる。
「まだるっこしい事、言ってんじゃねえ! おれは生き飽きてんだ、とっとと死にてえんだよ!」
「死にたいのか」
 大沢は眉も動かさず、手招きした。7番に机の前へ出るよう促す。
 全員が注目した。
 胸に7番を付けた男は背筋をのばし、ゆっくりと机の前に出た。
「もう一度聞く、死にたいのか?」
「おう、死にたいね」
 しゅっ、大沢が右腰から拳銃を抜いた。0.3秒、肩も揺らさぬ早業。銃口が7番の眉間に狙いをつける。SIG−P220は自衛隊が正式採用の銃、サイレンサー付きの銃身は太く大きく、威圧的ですらある。狙いをつけてから、ゆっくりと左手で右手をサポートした。
「これが最期だ、死にたいか?」
「お・・・おう、死にた・・・ひっぷっ」
 ぽしゅっ、銃口から小さな煙が出た。衝撃波も銃声も小さかった。室内での銃撃でも反響は少ない、サイレンサーの威力だ。
 7番は仰向けに倒れた。手足が痙攣する。顔面の中央、眉間に穴が開いていた。血は出ない。
「確認!」
 大沢の号令に、後方の刑務官が前に出てきた。7番の左右に膝まづき、鼻に手を寄せて息を、手を取って脈を診る。
「呼吸、弱い」
「脈、弱い」
 報告を聞きながらも、大沢の拳銃は7番を狙ったままだ。
 弾丸は後頭部へ貫通せず、7番の頭の中で止まった。サイレンサー付きの銃ゆえ、弾丸の初速は低く抑えられていた。
 ドアが開いて、白衣の医者が入って来た。続いて、ストレッチャーも来た。
 7番の手足は痙攣している。体の中に酸素があるため、まだ筋肉は動けるのだ。脳から指令が来ないので、統一された動きにならないだけ。
 医者は腕の時計を見る。
 テレビや映画では、頭を撃たれた者は全く動かなくなるものだが、現実は違う。さばかれた鯛のように、筋肉に酸素のあるかぎり動く。
 痙攣が小さくなってきた。
 医者が指示すると、二人の刑務官は7番から離れた。
 聴診器を耳に、医者は7番のシャツを開く。胸に手をあて、聴診器を心臓の部位にあてた。
「心拍・・・無し。呼吸・・・無し。瞳孔・・・拡張。死亡を確認しました」
 医者は静かに言った。しかし、7番の右の指はかすかに痙攣しているように見える。
 大沢は銃をホルスターに納めた。机に座る8人に目をやった。
「我々は死刑執行官である。諸君らは死刑執行承諾を受けた身だ。希望するなら、いつでも、どこでも死刑を執行してあげよう」
 大沢の口元には笑みがあった。
 7番はストレッチャーに載せられ、運び出されて行った。
「人殺し!」
 8番の女が叫んだ。
 大沢はゆっくりと振り向く。
「そうとも、わたしの手は血まみれだ。が、おまえも同じだ。死刑判決を受けるからには、何人殺した、何人傷付けた? それを忘れたとは言わせない」
 大沢野言葉には淀みが無い。新しい入所者が来る度、同じような騒動が起きる。
 今日は一人の死刑を執行した。文書上の扱いは、それだけである。
 8番は口をつぐんだ。
 9番は窓の外を見ながらつぶやく。
「あたしゃ、銃殺はイヤだな」
 大沢は左腰のナイフを抜いた。首の高さで横に薙ぐ動作をすると、大きな胸が揺れた。
「銃がイヤなら、これで喉をかき切ってやろう。首の横、頸動脈を切れば、ほとんど瞬間的に意識は無くなる。腹を刺すのもあるが、こちらは意識が無くなるまで時間がかかる」
 大沢はナイフを鞘に納めた。銃のホルスターからアイスピックを出した。先端には長さ10センチほどの針がある。
「血が流れるのが好かないのであれば、これで心臓を刺す。血は半滴も出ない。首の後ろ、頸椎のすき間から延髄を切る手もある」
 大沢はアイスピックで刺す動作を披露する。また、8人に笑みを投げた。
 もう、言葉は返ってこない。沈黙だけが流れた。
「今日は長旅で疲れたろう・・・それぞれの部屋へ案内させる。そこで、ゆっくりと考え、自分の死に方を決めろ」


2.死刑囚たちが集う部屋


 旭川刑務所・囚人の心得の1、刑務官に対して2メートル以内に近寄るべからず。
 許可無く近付くと反乱の意思有りとして、銃撃を含む処置を受ける場合がある。必ず、許可を受けてから近寄るべし。

 新しい囚人は3組に分けられた。3人と4人と、女の2人の組に。
 3人は新しい番号を胸にした。
 42112・・・42117・・・42119・・・4棟の2階で、11番目の部屋らしい。
 3人は列になって廊下を行く。それぞれ自分の私物を抱えていた。その前、2メートル以上先に刑務官が行く。列の後にも、2メートル以上離れて刑務官が付く。
 廊下の端に来た。先導する刑務官が足を止め、回れ右で振り向く。3人も足を止めた。
「ここが4211号室である。名札を確認して、入室せよ」
 言われて、3人はドア横の名札を見た。
 2番、高蔵健。7番、須賀原文太。9番、潮賢治。3人の名前がかけられていた。
 刑務官がドアを開いた。
 分厚い造り、壁側のパッキンも厚い。防音ドアである。部屋で少々の事があっても、廊下まで音は漏れそうにない。
「2番、高蔵健、入ります」
 つい、前までいた刑務所の習慣で名乗った。入り口で背筋をのばし、礼をして入る。
「7番、須賀原文太、入ります」
「9番、潮賢治、入ります」
 習って、後続の2人も名乗って入った。ドアが音も無く閉められた。

 3人はドアを背にして、部屋を見渡した。
 手前にはテーブルと向かい合った長いす、トイレと流し台があり、IHヒーターにはヤカンが乗っている。
 奥にはベッドが8台並んでいた。『4』は欠番なので、9番まであっても8人だ。
「新入りさん、いらっしゃい。自己紹介してくれると、ありがたいな」
 1番のベッドで寝ている男が言った。
 高蔵は肯いた。クツを脱いで棚に入れ、座敷に上がって咳払いをした。
「自分は高蔵健、45歳、九州は福岡の産まれです。え・・・と、酒に酔って、通りがかりの人を殴って、家に帰りました。翌日、家に警官が来て、おれが殴った人が死んだ、と伝えられました。あの程度で死ぬなんて、まるで思わなかった・・・」
 高蔵は言い終わり、頭を深く下げた。口はへの字にむすび、感情を押し込めている。
 須賀原が肩を揺らして上がった。
「おれは須賀原文太、38歳、福島の出じゃけえ。長距離トラックをころがしておったけど、ある日、何か急にハンドルがとられて・・・停まって見たら、車の床下に自転車と若いのがひっかかってた。警察の調べじゃあ、1キロ以上も引きずってたらしい。まあ、缶ビールを3本空にして走ってたけえ、気付くのが遅れた・・・ちゅうことで。前の年に免停くらってたけど、無視して走ってて事故ってもうた」
 須賀原は首を左右に振る。
「お二人は酒がらみか」
 他から声があった。
 潮が背を丸めて上がる。
「あたしは潮賢治と申します。51歳になります、京都の・・・京都言うても、日本海に近い山の方です。ラーメン屋やってましたが、客の朝鮮人が毎度のように代金を踏み倒すんで、つい、カッとなって絞め殺してしまい・・・ました。それから、朝鮮人の仲間が押しかけて、包丁で何人か切ってやり返しましたが・・・警察が来て、はい」
「よくやった!」
 1番が手を叩いて応えた。潮はさらに背を丸めて頭を下げた。

「今度は、こちらの番だな」
 1番はベッドの上であぐらに座り直した。煙草に火をつけ、ぷうと煙を吹く。
「おれは半沢直紀、43歳、群馬の赤城山の麓で産まれた。昔から、火が好きで・・・よくゴミ箱とかに火をつけてた。で、あの日は、火が家に飛び移って、一家5人が焼死してしまった。あれは・・・よく燃えた。あの火に飛び込んでみたい・・・と思って見物してたら、警察につかまってな」
 へっへっへっ、半沢は煙草をくゆらす。枕元のシーツには焼け焦げの跡があった。
「ここって、煙草が?」
「色々ゆるゆるなムショでよ。おれたちゃ死刑囚だから、寝たばこで火事が起きたら、全員焼け死ぬまでドアは開かないだろうな」
 半沢は口を歪めて笑う。潮はドアを振り返ってしまった。
 長いすの男が手を上げた。ゆるりと3番のベッドに行き、横座りした。
「山下泰義、54歳、生まれは・・・どうでもいいや。いつも使いっ走りで、誰かの背にくっついていた。そしたら、人殺しで死体遺棄の手伝いをやらされるはめに。女を車に連れ込んで、皆でハメて締めて、山に捨てて・・・で、こんな事になった」
 はあ、山下は肩を落として吐息をついた。
 5番のベッドで、若い顔が上体を起こした。
「坂口丈太郎、32歳、東京で生まれて・・・ガッコ卒業してからホストになって、ずっとヒモしてた。30になったら、いい女がひっかからくなって、やっと子持ちの女のヒモになったら、そこのガキがうざくて・・・蹴ったら死んで、かかってきた女も張り倒して・・・ここに来た」
 坂口は言い終えると、また両手を開いて寝た。
 高蔵は首をのばした。6番のベッドは、布団をかぶったまま顔を出そうとしない。
 半沢が手と首を振った。
「そいつは・・・名前は志村隆、歳は50前のはず。30年近く引き籠もりして、寝ている両親をナタでめった切りした凶悪なやつさ」
 ひえ、高蔵は首をすくめた。
「お・・・おれは・・・」
 志村が布団から顔を出した。
「おれは違う、裁判なんか受けないぞ。心神喪失の精神障害の・・・裁判なんか出なくて良いはずだ」
「自分をキチガイ扱いたあ、立派な死刑有資格者だぜ。引き籠もりはしていても、ずいぶん法律には明るいようで」
 半沢がからかえば、また志村は布団をかぶってしまった。
 8番のベッドで老人が正座していた。
「わたしは嵐勘九郎と申します。今年77歳、先年にガンを患って、余命3年と宣告されております。わたしは大きめの組の頭を務めてまして、下の者の暴走を止めなかった、黙認したのが罪に問われました。死ななくてよい人を死なせた・・・そう言う事でした」
「嵐の親分さんでしたか」
 須賀原は向き直り、頭を下げた。

 高蔵は私物の段ボール箱を2番のベッド下の引き出しに入れた。
「死刑囚だから、個室だと思ってた」
「おれたちは2級死刑だ。個室をもらえるほど、重大な犯罪者じゃねえ」
 高蔵の疑問に、半沢が答えた。
「1級死刑囚様たちは別の高級な刑務所へ行く。たぶん、みんな個室だ。で、死刑執行日はお役所まかせ。いつ、その日が来るか、念仏でもとなえながら待つのさ」
「わたしらは自分で選べるんでしたね」
「6ヶ月以内と、時間は限られているがな」
 高蔵はベッドに身を横たえた。引き出しの箱からファイルを出し、開いた。ぱらぱら・・・ページをめくり、閉じて胸に置いた。

 潮は長いすでファイルを開いていた。山下が横から見ている。
「やっぱり、これかな」
「あんたもそれか。まあ、ここに来たやつの半分は、それを選ぶらしいが」
「へっ、あなたもですか。そ、そうなんですか」
 潮が開いたページは『移植献体』と題されている。
 移植医療の進歩により、移植用の臓器は常に不足している。皮膚、角膜、心臓、肺、胃、肝臓、腎臓、骨髄・・・移植できない部位の方が少ないくらい。だが、移植に適した臓器の確保が難しいのも事実だ。血液やリンパ液の型など、移植適合を判断する基準は厳格化されていた。
「これなら、あっしが死んでも、部分は生き残りますね」
「重量を比べたらなら、半分が誰かの体の中で生きるかもな」
 潮はページを読んでいって、小首を傾げた。
「細菌やウイルスの感染症が無いこと、薬物依存が無いこと、転移性ガンが無いこと・・・なんか、難しいなあ」
「移植する臓器が病気持ちだと、病気まで一緒に移植してしまう。それを防ぐだめだよ」
「もしや、あなたも?」
 潮が聞くと、山下は肯いた。
「健康診断と検査は受けた、今は結果待ちさ。ガンの診断は1週間以上かかるらしい」
「まな板の鯉ですね。刺身になるか、クズとして捨てられるか」
 潮は次のページを開いた。

「あなたは、死に方を決めているのですか?」
「いや、まだ何も」
 嵐に問われて、須賀原は首をすくめた。
「わたしはガンだし、年寄りなので、移植献体は希望してもだめです。対立してた組の人や、わたしに恨みを抱く人が来たら、殺してくれないかと夢想しております」
「親分さんほどになれば、半年過ぎても、外から支援が余る程あるでしょうに」
 嵐は首をゆっくり振った。
「わたしの組は・・・もう有りません。警察に解散届けを出しました。みんな、今頃はどうしているやら」
「おれの兄貴が、そちらの世話になってました。ケンカで死んだと聞いた時、せいせいしたなあ。その頃からかなあ、妙に酒を飲むようになった・・・兄貴も酒癖が悪くて、よく殴られた」
 須賀原は右のわき腹をさする。そして、左手をひたいにやった。兄の思い出はゲンコツの痛みと一緒だ。

「郵便!」
 ドア横の小窓が開いて、封筒が3通置かれた。
 坂口が素早くベッドから立った。封筒を手にして、自分宛のを見つけた。
「半沢さん、山下さん、来てるよ」
「おおっ、来たか」
 半沢は立ち上がり、坂口から封筒を受け取る。山下はため息をして、両手で封筒を手にした。
 封筒を破いて開け、中の書面を見る。
 半沢はため息で書面を放り投げた。
「ウイルス性肝炎の疑い・・・献体として不適格、だってよ」
「肝炎くらいなら」
 高蔵が書面を拾った。
「移植待ちの患者なんてのは、たいがいが体の弱い連中さ。ちょっとしたウイルスにも抵抗力が無い。移植手術は人為的に免疫を落としてやる事だし、その辺は厳格なのさ」
 臓器移植前には、必ず感染症の検査が行われる。が、すべての感染症を事前チェックするのは不可能だ。数年前まで、狂犬病が事前チェックの対象になっていなかったため、移植後に狂犬病を発症して死亡した事例もある。
 ふう、山下は書面を読んで、何度もため息をつく。
「梅毒、淋病の抗体を検出。献体として不適格・・・まあ、身におぼえはあるけど。ゴム着けるのが嫌いで、いつも生でしてたし」
「エイズも混じっていそう」
「かもな・・・」
 潮は軽口をたたいてしまい、自分の口に手を当てた。山下は苦笑いするだけ。
 皆の目は5番のベッドに向いた。
 ちっ、舌打ちして、坂口は封筒を投げ捨てた。
「薬物依存的経歴を認める・・・不適格だそうで」
「せっかく若い臓器なのに、もったいないですなあ」
 嵐がつぶやいた。
 坂口の腕や足にはタトゥーがあった。彫り込む時に痛み止めとして使ったか、ホスト時代からの習慣だったか、今さら問うても意味が無い。
「所詮、おれらは死刑囚だ。そんな判決を受ける者の体がクリーンなんて、あり得ないよな」
 半沢が窓の外を見ながら言った。


3.献体か、さもなくばクズか



 旭川刑務所・囚人の心得の2、囚人間のトラブルは自主的に解決すべし。
 基本的に、刑務官はトラブルに介入しない。所詮、6ヶ月以内の付き合いである。

 朝、7時前に朝食が運ばれて来た。
 麦飯、納豆、卵焼きとナスの漬け物、ワカメの味噌汁。茶はティーバッグ、部屋で湯を沸かして入れる。
 9時前、食器の回収。
 人によっては、卵焼きや漬け物を残し、おやつにして食うことも。

 死刑囚は懲役刑ではない、何がしかの労働は無い。一般の懲役刑では職業訓練も課されるが、死刑囚には無縁無用の事だ。
 死に方が決まっていない者は、死刑例を書いたファイルと朝から晩までにらめっこだ。
「病理解剖献体・・・」
 須賀原はファイルのページを開いて首をひねる。嵐が顔のしわを深くし、にこやかに答えた。
「若い外科医の卵たちのために、練習台になる献体ですよ。わたしは、それにしようかと思います。死んで、何日もホルマリン漬けになったのより、切ったら血が出る方が実際の手術に近いでしょう。わたしは全身にガンがあるので、それを摘出する実地もできます」
「生きたまま切り刻まれるのは、ちょっと」
「麻酔はかけてくれると思いますが」
 須賀原は首をすくめた。
 潮はファイルのページをめくり、手を止めた。
「臨床治験・・・献体?」
「薬の実験台になる献体だよ」
 山下が解説した。
「普通は、薬の効果と安全性を確かめる試験の事なんだが。おれら死刑囚にするのは、薬の致死量の確認が大きいはずだ。何日もかかるので、おれとしては気が乗らねえや」
 ふむ、潮は治験の文章を読んでいく。確かに、時には数週間もかかる場合があるようだ。
「6ヶ月目ギリギリで受ければ、わずかでも命を延ばせるかもしれませんね」
「毒中が体に回って、もがき苦しむかもしれないんだ。おれは楽に死にたいや」
 ウーンとうなり、潮は次のページをめくった。
 高蔵はファイルを閉じたまま、じっと表紙を見ていた。
「どうした、見ないのか?」
 となりの半沢が声をかけた。
「なんと言うか、死ぬ決断がつかないです。臆病、優柔不断・・・色々と言葉はあるでしょうが、もっと思い切りのいい男と思ってたのに」
「何人も殺した奴が、いざ殺される側になって、死にたくないと泣き叫ぶのは昔からさ。幕末に、岡田以蔵なんて、ちょー有名な殺し屋がいた。捕まったら、ちょっとした拷問にも悲鳴を上げて、女よりも軽くペラペラと白状したってよ」
「そんなものですかね」
「そんなもんさ」
 二人は顔を合わせず、また黙りこくった。

「健康診断を受ける者は準備せよ」
 ドア横の小窓が開けられ、刑務官が言った。
 高蔵、潮、須賀原の3人はドア前に立って待つ。
「行ってらっしゃい」
 嵐が声をかけた。
 ドアが開き、3人は廊下へ出た。

 健康診断は第2棟で行われる。
 渡り廊下を行くと、先日一緒に入所した顔と出会った。8人中、7人がそろった。再審を申請している、と言った男の顔だけが無い。
 女の刑務官、大沢マリアとも再会した。つい、潮は鼻の下を伸ばしていた。
 健康診断は医師と看護師の仕事だが、銃と剣で武装した刑務官が立ち会う。男5人、女2人に分かれた。
 素裸になり、身長と体重を量る。
 裸の体を前と後ろから写真撮影する。
「目を閉じて」
 看護師の注意がきた。赤いライト、青いライトでも撮影。紫外線なら目に有害だ。
「これは何の検査ですか?」
「皮膚の移植適性を診る検査です。皮下の病理診断もします」
 高蔵は質問して、難しい答えに首をひねった。
 須賀原は腕をさすった。手首から肩にかけて、いくつもタトゥーを彫っていた。
「おれの腕からは、皮膚の移植は不可だよな・・・」
 服を着て、次へ進む。
 イスに座り、採血をする。
 太い注射針が静脈に打たれた。小さな試験管へ血液が採られていく・・・いくつも、いくつも。
「どんだけ採るんで?」
「検査項目別に採ってます」
 潮の質問に、看護師は笑顔で答える。試験管が並んで、10個以上も採られた。
 ウイルス性肝炎、梅毒、淋病、エイズ、ヘリコバクターピロリ、ガン、狂犬病、水虫・・・素人なりに色々な病気を思い浮かべて、必要かもしれないと肯いた。
 綿棒で鼻の穴、口から細胞を採取。
 トイレへ行って、検尿。綿棒を肛門に挿して、検便の代わりとした。

 3人が部屋に帰ると、もう昼食の時間だった。
 ビニール袋の生ソバが8個、タレの入った鍋、薬味が盛られたトレーが来た。
 新入りの高蔵と潮が給仕を務めた。
 と、嵐が首を振った。
「わたしは1袋は多過ぎて、とても食べられません。手伝って下さいな」
 丼に入ったソバを箸でつまみ、他の丼へ移す。半分だけを残した。
 潮は手を合わせて、頭を下げる。元食べ物屋だけに、こんな心意気には感謝してしまう。
「何もせんで、食って寝て・・・養豚場のブタみたいな生活だ」
「最近、高級なブタ肉やトリ肉は、ちゃんと散歩させたりして育てるらしい」
「地鳥とか言ったな。おれらはブタやトリ以下か」
 それぞれに言い合いながら、テーブルでベッドで食事は進む。
 半沢が丼を手にしたまま、窓際に立った。外を見ながら、ソバをすする。
「何か?」
「お葬式だ」
 高蔵も丼を持って窓際へ行く。
 中庭が見えた。刑務所を囲む大壁の隅に、丸い塚があった。刑務官が整列して、小さな扉を開く。何かを中に納めて、扉を閉じた。
「あそこは合同墓だ。おれらみたいな死刑囚の骨は、親族でも引き取らない。で、所内の合同墓に入れるんだ」
「お墓ですか」
「法律があって、死後24時間以上経たないと、死体は火葬できない。おとといあたり、死刑が執行されたんだろう」
「おととい・・・」
 と、高蔵は思い当たった。
 入所の説明会で、刑務主任が死刑を執行した。囚人の頭を正面から銃で撃ち抜いた。
 美しく、冷たい女の顔が目によみがえった。
「はい、ごっそさん」
 半沢はソバを食い、タレを飲み干す。丼を返しに行こうとした。
「まずいっ、こんなモノ食えっか!」
 丼が飛んだ。ソバの麺とタレが飛び散る。志村のしわざだった。
 ああ・・・ため息で、潮は転がる丼を手にする。須賀原はちり取りと雑巾を出した。
「ついに地が出たな。何年も引きこもってる間、そうやって親に当たり散らしてたんだろう。おれも、他人の事を言える立場じゃねえが」
 山下が丼を置いて立ち上がる。
 ひいっ、志村は布団をかぶって隠れた。
「部屋を汚しておいて、自分で片付けろい!」
 半沢が怒鳴る。が、志村は布団から出てこない。
「ったくよ、うざいヤローだ」
 坂口が6番のベッドに近寄りかけた。
 嵐が坂口の肩をたたいて、首を振った。代わって、6番のベット横に立つ。
「あんた、死に方を決めてないはずだね。今、わたしが決めてあげよう」
 ズボンのベルトを外し、布団をめくった。胎児のポーズで身を縮めている志村の首に、細いベルトが巻き付いた。
 嵐は志村の頭に足を乗せた。両手でベルトを引き、足で頭を押さえつけた。
 志村の手が嵐の足にかかる。ズボンのすそを引くだけ、力が無い。
 ひっふっ、志村の口から悲鳴は出ない、わずかに荒い息がもれるだけ。喉を絞められ、声は出すに出せない。顔が真っ赤になった。
 ベルトが首の肉にくい込んでいく・・・ぽきっ、めきっ、何かが折れる音がした。
 志村の手足が力が抜けた。わずかに痙攣している。
 高蔵はドア横のインターホンを取ろうとした。その手を、坂口が止めた。
「必要無い、全部見てるから」
 坂口は天井のカメラを指した。360度の視野で部屋を監視しているはずの機械だ。
「しかし・・・」
 高蔵はカメラと6番のベッドを交互に見た。いつ刑務官が来るか、それが分からない。
 志村の顔色から赤みが抜けて、徐々に白くなっていく。
 半沢が嵐の肩をたたいた。
 はっあああ・・・嵐が大きな息をつく。悲鳴にも聞こえる声をもらした。肩と手が震えている。
 半沢は嵐の肩を抱いた。ゆっくりと志村から引き離す。手がベルトから外れる、その先は首に巻き付いたままだ。
 志村の手足は小さく震えている。
 山下はゆっくり近寄り、首のベルトを外そうとした。
 引いても、ベルトは動かない。肉が噛むと言う状態、くっついてるよう。
 皮膚とベルトを剥がすようにして、やっと引き抜けた。
 ひゅううう・・・志村の口から音が出た。生き返ったかと思った。
 気管が開いて、肺の空気が出てきたのだ。胸がしぼんでいく。
 静かになり、志村の顔と手足は血色を無くした。ロウ細工のような白い肌になっていた。

 かちり、鍵の音がした。ドアが開いた。
「全員、そのまま動かないように!」
 刑務主任・大沢マリアの声が響いた。7人は立ちつくす。
 大きな胸を揺らして、マリアが入って来た。右手は腰の拳銃にかけている。
 次いで、白衣の医師が入って来た。6番のベッドへ行き、志村を診る。
「呼吸、無し・・・心拍、無し・・・瞳孔、拡張・・・死亡と認めます」
 大沢は肯き、廊下の刑務官に指図する。
 2人が入って来て、志村を抱えて出て行く。廊下にはストレッチャーが来ていた。
 シミの付いた布団を丸め、枕も一緒に出す。ベッド下の私物も持ち出された。
 6番のベッドが空になった。
「早く死ねば、それだけ予算が浮く。諸君らは死刑囚である。今日は経費節減に協力をいただき、感謝する。これからも、よろしく」
 大沢は7人を視野に入れたまま、部屋を後にした。
 ドアが閉じられ、かちり、また鍵の音がした。

 半沢は尻もちをつくようにベットに腰かけた。
「死刑囚同士が殺し合えば、刑務官の手間がはぶける・・・てか」
 高蔵と潮は無言で床の掃除を再開した。
 部屋は静かになった。が、嵐は9番のベッドで手を震わせていた。
「親分さん・・・」
 須賀原が話しかけた。嵐は自分の手を見つめている。
「初めてです・・・この手で、初めて・・・人を殺しました。以前は・・・やれっ、早くしろっ・・・と、殺しを命令してた」
 須賀原はつばを飲んだ。自分も人を殺したが、あれは事故だった。だが・・・と考える。無免許で酒を飲んで、人をひき殺しても気付かない・・・そんな状況で運転していた。半分以上は故意の殺人と変わらない、通り魔と同じだったと思い直す日々だ。
「殺せないヤツはクズだ・・・と、下の者に怒鳴り散らした事もありました。でも・・・命令だけするわたしは、クズ以下だった・・・」
 嵐は震える両手で顔をおおった。
 細かい息づかいが指の間からもれてくる。泣き声のようにも聞こえた。


4. 今夜、ブタ小屋に死す


 旭川刑務所・囚人の心得の3、刑務所内では人間として最低限度の待遇を保障する。が、所外では害獣と同等とみなし、駆除の対象となる場合がある。

「郵便!」
 ドア横の小窓に封筒が置かれた。坂口が素早く動き、封筒を見た。
「高蔵さん、潮さん、須賀原さん、来てるよ」
 坂口が封筒を配って歩いた。
「坂口さんは、こういう事は早いですね」
「まあ、ホスト時代のくせかな」
 嵐の誉め言葉に、坂口はてれた。
「健康診断が、もう?」
 須賀原は封筒を開いて、落胆のため息。嵐が首をのばし、書面をのぞいた。
「若年性動脈硬化・・・アルコール性胃炎初期、肝炎初期、腎炎初期・・・献体として不適格・・・酒ばっか飲んでたし、順当なとこかな」
「初期なら、治療すれば」
「タトゥーを入れると、肝臓をやられる場合があるんだ。肌に針を刺して、染料を入れるからね・・・知ってたつもりだけど。考えてみれば、酒を飲み始めたのと、タトゥーを入れたのは同じ頃だ」
 ふうむ、須賀原は頭を右に左に揺らした。酒とタトゥーの関係に思いをよせる。が、専門家でもないから、何か思い付くはずもない。
 胃炎はトラックドライバーの職業病である。運転だけでなく、荷崩れへの注意が胃を締め上げる。
 長距離を走れば、トイレを長時間がまんしなければならない。そうして、腎臓と膀胱と痔を病んでいく。苦しみを一時的に忘れようとして、酒を飲む。さらに体は病んでいく・・・どうどう巡りだ。
 高蔵は文書を読んで、手を震わせていた。半沢が目をやり、首をひねる。
「どうした?」
「エイズ抗体あり・・・献体として不適格・・・人違いじゃないのか!」
 高蔵は文書を読み直す。でも、身長や体重は合っている。やはり高蔵の検査記録だ。
「抗体だけなら、まだ発症してないって事だろ。あれは潜伏期間が長いらしい、20年とか30年になる場合もあるっつうぜ」
「自分は浮気した事が無い。結婚前に女と付き合った事だって、ほとんど」
「身に覚えが無いっつうなら、奥さんからもらったんだろ。昔には、歯医者の歯石除去で伝染したこともあったらしい」
 半沢の指摘に、高蔵は息を呑んだ。かちかち、歯が鳴る。
 3度深呼吸して、ばたとベットに倒れた。
「自分には何も言う資格が無い・・・すべて了解の上で結婚したし。裁判が始まって、別れたし」
 高蔵は目を閉じ、口を一文字に結ぶ。言いたい事はあるが、腹に呑み込んでおく。
 潮は文書を読んで、頭をかいた。
「1次検査、問題無し・・・献体として適性を認める。2次検査の要あり・・・」
「おっ、合格だね」
 ぱちぱち、山下が手をたたいた。
「なるほど、健康だからこそ、うまいラーメンも作れた訳だね」
「2次・・・て、何を調べるんでしょ」
「移植を受ける側とのマッチングだろうな。血液型とかリンパの型とか、色々あるらしい」
「こんなジジイの体、もらってくれる人がいるんでしょうか・・・」
 潮は天井を見上げた。
 プロ野球ロッテ・オリオンズの村田兆治はマサカリ投法で知られた豪腕投手だった。が、1982年、ひじを故障、投げられなくなった。肘の腱が断裂したのだ。
 病床にあった祖父が「兆治、この腕やる。持ってけ!」と言ったと云えられる。間も無く、祖父は死んだ。
 翌年、村田はアメリカに渡り、腱の移植手術を受けた。そして、復活。1989年5月、通算200勝を達成した。
 潮は右手を上げた。村田の祖父の言葉を反芻した。

「検査合格の者は部屋を移動する。準備せよ」
 刑務官の声があった。
 潮は私物をベッド下から出し、ドアへ行く。
「みなさん、短い間でしたが、お世話になりました」
 深々と頭を下げた。ラーメン屋だった頃からの習慣だ。
 嵐が頭を下げて応えた。
「あんたの体は、あんた一人のモノじゃなくなった。気を付けてね」
「移植待ちとなりゃ、すでに国有財産だ」
 半沢も冗談まじりに声をかけた。他の者たちは手を振った。
 ドアが開き、潮の丸い背は出て行った。

 移植献体予定者が行くのは第5棟であった。
 棟に入る前、潮は腕輪をもらった。左手首に着けると、外せないタイプ。囚人を遠隔管理する腕輪だった。
 渡り廊下から移ると、風景が変わった。廊下の両側にドアがいっぱい並んでいる。
 5226号室の前で刑務官は足を止めた。
「名前を確認して入りなさい」
 潮はドア横の名札を見た。潮賢治と名前がある。
 3畳ほどの個室だ。トイレと小さな洗面台もある。ベッド脇にはテーブル、独房と言うには開放的な雰囲気。
「体温計が置いてある。朝と夕、計って記録しなさい」
「1日に2回ですね」
 潮は私物の箱をベッド下に置いた。座ってみれば、ベッドのマットレスは厚いものだった。寝ていて背中が痛くなることは無いだろう。

 2階から3階に上がる、また別の風景があった。
「ここは図書室、気に入った本は自室に持ち帰って読める。あちらはトレーニングジム、心と体を健康に保ってほしい」
「健康でないと、アレできませんものね」
 刑務官の言葉に肯き、潮は図書室を見た。何人かの囚人が静かに読書中だ。
 ジムに入れば、ランニングマシンにベンチプレス台など、トレーニング機器がそろっていた。
 ダンベルを持った刑務官が寄ってきた。胸と肩の筋肉がはちきれそうだ。
「5棟刑務主任、藤岡浩だ。トレーニングの事なら、何でも聞いてくれ。素人が使い方を誤ると、体を壊してしまう場合もあるからね」
 むきむきっ、ダンベルを持ったままポーズを決める。
 また一人、寄ってきた。こちらも腕回りや太股が爆発しそうな筋肉だ。
「5棟刑務副主任、佐々木剛司です。柔道やレスリングなら、お相手するよ。ボクシングなどの打撃系はサンドバッグがある」
「よ・・・よろしく」
 潮は頭を下げた。筋肉1号と2号だな、心の中で二人にあだ名を付けた。ラーメン屋時代から、客にあだ名を付けて覚えていた。

 夕刻、潮は食堂に行った。
 5時から7時まで、各自が行って、食事をとる。ご飯と味噌汁、茶は自分でよそう。セルフサービスな食堂、食い放題である。
 4棟より人数が少ないので、食堂の方が場所的に効率的なのだ。
「刑務所という感じがしない所だなあ」
 潮はアジフライをかじり、豆腐の味噌汁をすすった。塩分控えめな味噌汁、それでいてカロリーは十分と感じた。
「おれらがどこにいようと、これでわかっちまうからなあ。放任主義なのさ、その日までは」
 となりに座った男が左手首の腕輪を振り、笑って言った。年齢は潮と同じくらいか。
 食べている者を見れば、潮は一番年寄りの部類と思えた。献体では若い臓器が求められている。
「その日までは・・・か」
 潮は左手首の腕輪を見直した。

 食後、7時が過ぎると、窓の外が暗くなってきた。
 潮は3階に上がった。ジムのベランダに立ち、夜風に当たった。
 鉄格子の無いベランダ、東の黒く沈んだ大雪山が残光の空に切り立って見えた。南には旭川の市街が地平までキラキラ光っている。
「街の灯りが、とてもきれいねアサヒカワ・・・ブルーライトアサヒカワ・・・」
 つい、昔の歌をくちずさんでいた。
 自分は何がしたかったのだろう・・・手すりにもたれて考えた。献体が人生のゴールになる・・・一応選んでみたものの、納得できない別の自分がいた。
 思い返せば、ラーメン屋になったのも自分の意思ではなく、単に成り行きだったような気がする。流されてラーメン屋になり、流されてケンカして、成り行きで人を殺した。いつも・・・いつもだ。
 その瞬間と瞬間には、何か強いものがあったかもしれない。でも、思い出せない。結局、何も無かったのかもしれない。
 8時になれば、空は真っ暗になった。月は出てない。星のまたたきと街の灯の輝きがまぶしい。
 もうすぐ消灯時刻だ。潮は部屋に帰ろうと思った。
「どけっ!」
 突然の声、背を押されて倒れた。
 3人がベランダに現れた。
 ちぎったシーツをつないだロープを垂らし、一人が支える。一人が降りて行った。次ぎに、また一人が。
 きっ、潮をにらんで、最期の一人が降りて行った。鼠小僧か、ルパンかと思う早業だ。
 何が起きているのか、訳も分からず見ているだけだった。
 筋肉1号と2号の刑務官が来た。
「あの・・・え、と・・・あれが」
 潮は尻もちをついたまま、手振りで説明しようとした。でも、言葉が出てこない。
「部屋にもどりなさい」
 藤岡がやさしく言った。潮は肯く。

 大沢マリアはマグカップに濃いコーヒーを煎れた。湯気と香りを鼻にして、目が冴えた。
 監視室に入り、壁に並んだテレビモニターを見た。
「いました」
 監視官が画面のひとつを指す。手元のスイッチで、メインのモニターに出した。
 3人組が壁沿いに行く。立ち止まり、ロープを上に投げた。下の者が支え、ロープを登る。上の者に引っぱられ、残った者も壁を上がった。
「なるほど・・・2人組では越えられない壁が、3人組なら越えられるか」
「警備の新しい課題ですね」
 マリアはマグカップに口をつけ、電話機を取る。外部一斉通報のボタンを押した。
「お知らせします、こちらは旭川刑務所です。2級死刑囚の3人が脱走しました。かねて契約の方には、臨時に刑務官と任命します。脱走犯に出会ったら、まず身の安全の確保をして下さい。その上で、適切な処置をお願いします。以上、旭川刑務所からのお知らせでした」
 マリアは受話器を置き、マグカップを飲み干した。
 旭川刑務所から2キロの範囲では、猟銃を所持する農家や自警団と特別契約を結んでいた。それが発動された。
「あの3人、献体予定者だったのに」
「もったいないが、外に出て汚染された。あきらめよう」
 マリアは監視室を後にした。


 脱走のリーダーとなったのは久羅曹、中国系の男だった。永住権は持っていたが、判決後に国外追放と思っていた。それが死刑となり、脱獄を企てた。中国と日本の間には犯罪人引き渡し条約が無い。中国へ帰ってしまえば、自由の身になる・・・はずだ。
 応じたのは李弐山、通名は武宇丹三という韓国系三世だ。特別永住権のため、国外追放は有り得ず、言葉も知らぬ母国への帰国などはイヤだった。しかし、死刑から逃れるためには、海を渡る覚悟が必要と感じた。日本と韓国の間には犯罪人引き渡し条約があるが、政治犯は別枠だ。あれこれ差別などと主張して、政治犯として取り立ててもらうのだ。
 雨宮ちか夫は2人に引きづられて仲間になった。どうせ死ぬなら、もう一つ何かをやりたかっただけ。たまたま、それが脱走になった。
 3人は道路に出た。
 しかし、月の無い夜であった。
 刑務所前の道路では、街灯は100メートルにひとつだ。3人は闇にまぎれて、刑務所から離れつつあった。
 刑務所の近くには高速道路があった。通過する自動車の音が獣のうなりにも聞こえる。
 と、近寄ってくる光を見つけた。異常に明るい車である。サイレンは聞こえない。
「あれは・・・消防車かな」
「火事は近くに無いようなのに、ライトがすごいな」
 久と李は道路に出た。雨宮は足を引きずって追う、塀から降りる時に挫いていた。
 光る車はゆっくり近付いて来る。
 3人は上着を脱いだ。囚人服は目立ち過ぎる。

 東鷹栖農業自警団3号車は夜道を徐行運転していた。
 夜は犬や猫、キツネや鹿と遭遇するとかわしきれない。クマならともかく、キツネや鹿をはねると、動物愛護の方から非難が来る。
 3号車の屋根には投光器があり、左右の田圃を照らしていた。ビデオカメラで録画もしている。
 夏から秋にかけ、作物泥棒が横行する。トラックで来ては、田圃1枚の作物を丸ごと盗っていく。対策は夜間の見回りくらいしか無い。こんな晴れた夜が特に危ない。
 作物を食い荒らす鹿や熊も同様にやっかいだ。自警団の役割は広がっていた。
「脱走だってよ」
 森次浩二は助手席で通信を受けた。スマホのアプリを開く。脱走の3人の顔写真が送られてきた。
 運転席の古谷敏夫首を振った。
「こんな事もあろうかと」
 森次は後ろからエアガンを出した。アメリカのM4A1ライフルを模したゴツいやつだ。銃身にマグライトをくくり付け、夜間の活動に怠りは無い。
 古谷は胸のホルスターに触れた。H&Kの拳銃USPを模したガスガンが入っていた。こちらも銃身下にLEDライトを付けてある。
 双方とも、通常の弾丸はプラスチックだが、田圃にプラスチック弾を撒くのは良くない。田圃を汚染しない弾丸として選んだのは、丸薬肥料だった。ちょうど同じ直径のがあったのだ。距離5メートルでの射撃なら、プラスチック弾と同等以上の威力があった。
「見ろ!」
 古谷はアクセルをゆるめた。さらに速度が落ちた。森次は通信機を入れた。
「3号車より、3線18号付近に不審者3人あり」
 古谷は車を停止した。ヘッドライトの光の中、道の端に3人が立っていた。
「1号車、7線20号より向かう」
「2号車、2線6号より向かう」
 他車から応答が来た。応援の到着まで、ゆっくり事を進めなくてはならない。

 古谷はミッションをPにして、サイドブレーキをかけた。
 周囲の闇に目をこらす。作物泥棒のトラックを探すが、何も見えない。人だけを降ろして刈り取り、後に搬出のトラックが来る場合もある。
 森次はライフルを持って車から降りた。銃身に付けたライトを点灯、3人組に向けて照らした。
 上着は無し、シャツ1枚だけの3人である。北海道の夜は気温が急降下する、逆に疑ってしまう服装だ。

 久は笑顔で右手を上げた。敵意の無いのを表したつもり。
 森次はライフルを水平にかまえていた。距離は7メートルほど、ライトの中心は先頭の男の胸にあたっている。
「止まれ、動くな!」
「いや、おれらは・・・ただ」
 森次の制止に、久は足を止めた。車を奪って逃げるつもりなのだ。が、ライトのまぶしさに、ライフルが見えていなかった。
 そうだ、と久は雨宮に目配せした。
「こんばんは、よい天気ですね」
 雨宮が笑顔で進み出た。その背後から、久と李は車の運転席を狙った。
「動くな!」
 森次は撃った。ぽっぽっぽっ、破裂音がして、弾丸が雨宮の腹に当たった。
 うぎゃ、久はわき腹に痛みを感じた。撃たれるとは想定外だ。李も頭と腕に痛みがきた。
 3人は逃げした。
 が、道路横は用水路だった。巾は1メートルほど。
 久と李は飛び越えて、畑の方へ逃げる。どほん、雨宮は水路に落ちてしまった。足を挫いていて、ジャンプができなかった。
「2人、菱見農場の方へ行く!」
 古谷がスマホに叫んだ。
 と、近付くライトに気付いた。屋根に赤色灯がある、警察のパトカーだ。

 がばごぼ・・・雨宮は水面に顔を出した。
 用水路はU字型コンクリートをつないだ造りだった。水草がコンクリートの表面に茂って足がすべる、浅いが流れる水に押されて立ち上がれない。挫いた足が痛い。四つ這いで用水路の中を右往左往するばかりだ。
 と、ライトを浴びて、雨宮は目を上にやった。
「雨宮ちか夫と認めます」
 刑務官、藤岡が言った。

「リーペングイシーめ、フェイク銃でおどかしやがって」
「チョッパリはニセ物ばかりだ」
 久と李は闇の畑を歩いた。
 フェイク、ニセとエアガンを呪っても、体の痛みは本物だ。肉が裂けてないだけで、肌には突き刺すような痛みが何カ所もある。
 草をかき分けて進むと、建物が前にあると気付いた。
 壁に耳をあてると、ふぶっ、きいっ、動物の声がした。豚舎だった。
 建物の向こう側には灯りがある。2人は壁に沿って灯りの方へ歩いた。
 豚舎が壁が終わり、納屋と民家の前に出た。と、ライトが家の前を昼間のように照らした。泥棒除けのセンサーライトだ。
 民家から人が出て来た。白髪頭で、猟銃を手にしている。
 この家の主人、菱見源太郎である。ハンターベストにコンバットナイフを差して、手にするのはレミントンM870、12番のサボット弾を入れて、戦闘準備は整っていた。
 サボットの中は木のスラッグ弾だ。鉛弾を使わないのは、害獣駆除で田畑を汚染しないため。農業を営む者のマナーである。もちろん、クマが相手なら鉄や鉛の弾丸を使わねばならない。
「どんなお客さんかと思えば、噂の脱走さんかい。ここはお門違いだよ」
 久と李は肩の力を抜いた。爺が相手だし、銃はニセとたかをくくった。
 2人は目配せして、左右に分かれる。両側から襲って、爺を制圧する算段だ。
 どん、低い音が響いた。
 レミントンが火を噴き、李の左太股に当たった。ズボンの布地に10センチほどの穴が開き、血と肉片が飛んだ。
 至近距離の銃撃だ。木製の弾丸であっても、対人殺傷力は十分以上にあった。
 ふ・・・ああっ、小さな声で李は後ずさりに倒れた。痛みより、全身を衝撃が貫いて立っていられなかった。今度もエアガンと思い、すっかり油断していた。
 農閑期には刑務所へボランティアで行く菱見源太郎であった。臨時ではあっても、刑務官の仕事を託されて誇りに思っていた。
 久は小石を拾い、爺に投げつける。菱見がひるんだスキに、ライトの範囲から逃げ出した。
「しまった」
 源太郎は闇に目をこらした。が、コントラストが強くて、年寄りの目では何も見えない。
 数台の車が来た。
 自警団の2号車と警察のパトカー、町内会長の車も来た。どやどや、エアガンやライフルを手に、頼もしい援軍が降り立った。
 視線をもどして、失策を知った。李の姿が無い。
 源太郎は2人とも見失っていた。
 2号車から降りた自警団の曽根は、すぐ地面の血痕に気付いた。足跡をたどれば、豚舎へ続いていた。豚舎の前扉には鍵がかかっていない。
「中だ!」
「後ろを見張れ」
 声を掛け合い、豚舎を囲んでいく。源太郎は口に指をあて、静かにと促した。
「大声はやめてくれ、ブタのストレスになるから」
 自警団は肯きを返した。
「もう一人はどこだ?」
 声に振り返ると、源太郎の前に大きな胸があった。男なら、つい顔をうずめたくなる。
 大沢マリアが来ていた。
 今年72歳、枯れかけていた菱見源太郎の男が・・・ずきっ、うずいた。

 がちゃん、きゃあ、母屋の方から何かが聞こえた。異常な事はすぐわかった。
 大沢マリアは母屋に走る。菱見源太郎も追って走った。
 玄関から女が出て来た。よろける足取りで、源太郎を見つけた。
「お爺ちゃん、知らない男が! ゆり子を!」
 長男の嫁の弘子であった。ゆり子は弘子の娘で3歳、源太郎には孫にあたる。
「ゆり子が! オー、マッゴッ!」
 源太郎は猟銃を落としかけた。
 マリアは悠然と母屋へ足を進めた。

 玄関から中に入る。居間から奥の部屋への敷居の前に、源太郎の長男、郁夫が包丁を手に奥の部屋をにらんでいた。
 マリアは郁夫の横に立ち、奥を見た。
 久羅曹が幼い女の子を抱えて座り込んでいた。手には包丁がある。
 源太郎が来て、郁夫に下がれと促す。猟銃に対して包丁、こちらに分ができた。
「その子を放せ」
 マリアが静かに言った。
「るせーっ、近寄ると殺すぞ!」
 久は怒鳴り返した。
 源太郎はレミントンをコックした、発砲準備完了だ。が、マリアの手が銃口をふさいだ。
「その子を放せ、わたしが身代わりになろう」
 マリアは笑顔をたもち、部屋の中へ一歩進んだ。
「くっ、来るなっ!」
 また、久は叫んだ。包丁の切っ先が幼子の顔に迫る。
 マリアは腰のベルトを外す。銃のホルスターと刀が鞘ぐるみで付属している。重い音で床に落ちた。
「ほら、わたしは武器を持っていないぞ。服の下に隠していると疑っているのか。なら、脱ごう」 
 マリアは上着を脱ぎ捨てる。シャツのボタンを外し、これも脱いだ。ズボンを落とし、靴下も取る。上と下、残るは2枚になった。
 ごくり、すぐ横で源太郎がツバを飲んだ。
 女ながら、鍛えられた背中と尻まわりである。毎日、死刑囚を相手にする筋肉があった。
 マリアのブラとパンティーは木綿の厚手、肌は透けてない。白い生地が肌と艶めかしいコントラストを作る。尻に現れるシワのひとつが、男の劣情を刺激してやまない。
 が、右の背中、腰のあたりには大きな彫り物があった。バラとトゲのあるツタが描かれている。美女とバラは良しとして、ツタにあるトゲは刑務官の覚悟を表すかのよう。
「まだ、足りないか」
 マリアはブラに手をかけた。ぽろり、大きな乳房が露わになった。指先ほどもある大きな乳首が男の煩悩を刺激する。
 腰の小さなパンティーも下ろして捨てる。一糸まとわぬスッポンポンの全裸で仁王立ちだ。
 尻回りは大層なボリュームながら、やや垂れて見えるあたりは歳相応であった。
「さあ、これでどうだ。そちらに行くぞ」
 マリアは入って行く。部屋の中央で立ち止まり、両手を広げて無抵抗のポーズをとる。
「裸の女が恐いのか? 立っていると、恐いか・・・では、座ろう」
 マリアはゆっこり腰をおろした。尻を床に着け、M字開脚で股間を久に見せつける。へそ下の黒い茂みは濃く、そこからのびる肉の割れ目が男の目を捕らえて放さない。
 久は女の子を放し、ズボンを下ろす。
「ええいっ、や・・・犯ってやるぜ!」
 右手の包丁を前に突き出して、左手でマリアの足を抱えた。
 ここぞ、とマリアは両足で久の頭と腕を挟んだ。前三角締めが決まった。
 久は逃げようと身を引きかけた。へそ下の茂みに顔を押し付ける位置、幸せな場所だ。しかし、三角締めの受け身としては悪手だった。逆に膝で肘を極められ身動きがとれなくなった。
 マリアの細い指が久の目を突いた。グリッ、眼窩に指先が入った。
 ぐああっ、久は悲鳴をあげた。
 マリアは指先に残るヌメリを確認した。眼球破裂まではいかなくとも、視力を奪うに十分な攻めだった。足の締めを解き、立ち上がる。
 久は顔を手でおおい、転げ回った。眼球は人間の急所、ほとんどの格闘技でも攻めたら反則になる場所だ。
 マリアは久の頭を左足で踏んで固定、右足でアゴを上から体重をかけて蹴った。もう一発蹴ると、ごりっ、下アゴが外れた。
 さらに一発、今度は頸椎を蹴り折った。アゴが外れており、首の支えが無くなっているから、小さな力で折れた。
 足に体重をかけてひねる、ぶちっ、気管がつぶれた。
 ぐぼぼ・・・久の口から空気が漏れる。放っておけば、数分で窒息死するだろう。

 下あごを外し、頸椎を折り、気管を潰す・・・この三段の攻めを、絞め殺しの異名で知られたプロレスラー、エド・ストラングラー・ルイスはフロント・ヘッドロックの角度を変える事でやれる、と言った。最も簡単確実に人を殺せる技、と自己評価した。
 ライバルのジョー・ステッカーは、クロックヘッドシザースで同じ事ができると言った。
 プロレスの第1期黄金時代、1930年代の事だ。
 が、どちらの技もプロレス的には欠陥があった。技をかけられて苦悶する相手の顔が、観客からは隠されて見えない。エド・ルイスが試合で多用したヘッドロックは、相手の顔が観客から見えるコンベンショナルな方だった。ジョー・ステッカーも胴締めの方を得意技とした。
 2人が引退すると、フロント・ヘッドロックとクロックヘッドシザースは裏技の部類になっていった。
 フロント・ネック・チャンスリーやサーフボートホールド、エアプレーンスピンなど、より派手で見栄えの良い技が求められる時代が来た。
 1972年、ブルース・リーが監督・脚本・主演を務めた映画「ドラゴンへの道」にて、フロントヘッドロックは本来の必殺性を再確認されることになった。以後、ハリウッドのアクション映画では、フロントヘッドロックで相手をノックアウトする場面が定番となる。

 マリアは部屋の奥に目を向けた。
 女の子がうずくまっていた。緊張の目で見ている。知らない男と女が戦った、その場面を目の当たりにした。
「もう大丈夫」
 マリアは女の子を抱いた。
 ても、彼女の手は縮んだまま。抵抗は無いが、知らない人への恐怖が体を縛っている。
 マリアは女の子を抱き上げ、部屋の入り口へ行く。源太郎が待っていた。
「お母さんは?」
「あ・・・おーい、弘子!」
 言われて、源太郎は振り返り、玄関へ呼びかけた。
 母親が顔をのぞかせた。
 とたん、女の子はマリアの腕をすり抜けた。母親へ一目散に駆け、腕の中に飛び込む。
「ゆり子!」
 母に抱きしめられ、うわぁぁん、声を上げて泣き始めた。抑えていた感情が爆発した。
 マリアは背を向けて、頭をかいた。ずっと見ていたい気もするが、照れかくしのつもり。
「あの・・・お召し物を」
 源太郎の言葉に、裸なのを思い出した。

 マリアは服を着て、源太郎と共に豚舎へ向かった。
 警官と刑務官、町内の組合の者たちが静かに建物を囲んでいる。脱走犯が入って、約1時間が過ぎようとしていた。
「裏の扉は破られていません。出入りできるのは前だけ。まだ、中にいるはずです」
 源太郎の息子、郁夫が現状を報告してくれた。
「ブタのストレスを考えると、夜明けまで大勢で囲むより、手っ取り早くヤツを外に出したいところです」
 養豚業の立場から、早期の解決を求められた。しかし、大勢で中になだれ込んでは、これもブタのストレスになる。少人数で入り、脱走犯を外に誘導したいところだ。
 時計を見れば、まだ夜半前だ。
「まず、こっち側の扉を開いてしまおう。それで、中に2人くらいで入って・・・かな」
 マリアが提案すると、皆が同意した。
「では、それで行きましょう」
 源太郎は家の主人として、扉を開けた。他の者は扉の陰に身を屈めて待機する。
 マリアは源太郎の横に立ち、豚舎の奥を見た。照明のスイッチは入れない、時間外の点灯はブタのストレスになる。
「あまり臭いがしない」
「昔は、豚小屋は臭い汚いの代名詞でしたね。でも、これが現代の豚舎です。このような衛生的な環境で育てております」
 務めて穏やかに話す。怒鳴り声はブタのストレスになる。
 豚舎の中央には給餌器が走る通路がある、床はコンクリートだ。その両側に並ぶ柵の中がブタたちの部屋、ブタの足は短いので柵は低い。ぶぶっ、ぶひっ、ブタも時間外の客に興奮した声をもらしている。
 源太郎の先導で、マリアは豚舎の中を行く。
 入り口から右側には1番から奇数番号札の柵があり、左側には偶数番号札の柵が並ぶ。
 薄闇の中、人は見当たらない。柵の中でブタにまぎれているようだ。
 ゆっくり歩いて、豚舎の奥に達した。左右は11番と12番の柵だ。扉が開かないのを確認して、振り返る。
 豚舎の通路中ほどに、郁夫がいた。異常を見つけ、ハンドライトで柵の中を照らした。
「あ・・・いた」
 その言葉に、マリアと源太郎もゆっくり寄る。急な足音はブタのストレスになる。
 7番の柵の中をライトで照らす・・・1つの柵には10頭のブタたち、揺れるブタの白い尻の間に人の手が見えた。
「おい、臭うぞ」
「臭うね」
 源太郎が鼻を動かす。息子の郁夫も動かした。豚舎の中はブタたちの臭いがあふれているが、いつもとは違う臭いもしていた。
 郁夫は7番の柵の中に入った。やさしくブタたちを押しのけ、手の方へ行く。
 それを見つけると、頭を振り、またゆっくり出て来た。ふう、と大きく息をつく。
 今度は源太郎が柵に入った。
 ブタたちを押しのけ、レミントンの銃口で手に触れた。が、動かない。
 さらに一歩寄り、理由を知った。
 李弐山の顔は耳と鼻が無くなっていた。ブタが食べてしまったのだ。太股の傷にかじりつくブタがいた、骨が大きく露出している。
 ケガをして、豚舎に入り、柵の中でブタに隠れたつもりだったのだろう。が、血の臭いにブタは食べ物が来たと思った。ブタは雑食性、何でも食べてしまう。傷口をかじられ、倒れたところで顔の柔らかい肉を食われた。喉をかじられ、シャツの脇から横腹を食い破られた。
 いつもと違う臭いは当然だった。人の血と尿が柵の中に流れていた。
「キャトルミューティレーションだな、これは」
 源太郎も首を傾げたまま柵から出た。

 にぶい朝日が菱見農場を照らす。どんよりした空模様だ。
 久羅曹と李弐山の死体は運び出されて、警察の車両も集まった。事件の現場検証が行われているところ。
 豚舎に入る検察官は白い防護服に身を包んでいる。これ以上、豚舎を汚染しないための配慮だ。
 ゆり子は母の弘子から離れない、コアラのようにしっかり抱きついている。
 養豚場の経営者、菱見源太郎と郁夫の顔は暗い。
「全頭検査が必要かなあ」
「7番は出荷できないぞ」
 ううむ、と経営上の問題で頭を揺らす2人であった。
「あのブタ、出荷できないのか?」
 マリアが尋ねた。
「7番のブタどもは想定外の物を口に入れてしまいました。肉質とか、衛生面とか、保証ができなくなります」
 ブタは目の前の物を何でも食べる。そのため、体内に毒を溜め込みやすい。フグの肝臓が猛毒性になるのも、食べる物の毒を溜め込むからだ。
イスラム教で、ブタを汚れた獣とするのは理由あっての事である。
 日本の養豚業でも、ブタの餌に残飯を与えて頃は、食中毒リスクの高い食材として嫌われる傾向が強かった。が、現代では、きれいな飼料と清潔な豚舎で育てられ、食中毒リスクは極めて小さくなった。
「そうか、災難だったな」
「いやいや、エエ物見せてもらいましたし、あいつらには感謝するくらいですよ」
「ええもの?」
 昨夜の事を思い出し、源太郎の鼻の下がのびる。マリアは思い当たらず、首をひねるばかり。
「そうだ、7番のブタっ子どもは刑務所に寄付します。みんなで食べて下さい」
「寄付とは・・・ご協力に感謝します」
 マリアは頭を下げた。食材の提供は経費節減になる。
 源太郎はマリアのシャツのボタンが一つ取れているのに気付いた。頭を下げた時、開いたシャツの下に素肌がみえた。バラの彫り物を思い出して、また鼻の下がのびた。


5. 男の道、女の道


 旭川刑務所・囚人の心得の4、2級死刑囚は自らに死刑を執行できる。刑務官は死刑執行が確実に行われるよう手伝う。

 死刑囚専門の刑務所にも面会室がある。
 この日、42111番、半沢直紀は面会室に入った。鋼線入り防弾ガラスの向こうに、やつれた妻の珠代がいた。
 直紀の側には段ボール箱があった。珠代の差し入れだ。刑務官立ち合いで開封されていた。中身は下着に缶詰、お菓子と煙草。
「ちょうど切れたところだ、ありがとう」
 直紀はセブンスターの封を切り、さっそく1本に火をつけた。
 公共施設ながら、旭川刑務所内は禁煙ではない。煙草が死刑囚の死期を早めるなら、問題無しとされている。
 煙が喉を通って胸に入り、ふうと一息した。
 直紀はガラスの向こうに目をやった。珠代は目をふせたままだ。
「なんか、あったのか?」
「この前、火事の遺族と道で会ってしまって・・・あんたの亭主、まだ生きとるらしいね・・・て言われた」
「離婚の書類には、ハンを押したぞ」
「まだ、役所に出してない。いまさら離婚したって、放火魔の妻から・・・元妻になるだけ。子供も同じ。何も変わらん・・・世間の目は」
 直紀は煙草の煙をくゆらす。顔の周りを煙がただよう。が、煙は珠代の側には行かない。
「じゃ、どうしろと?」
「あんた、いつまで生きとる気や。2級死刑は死ぬ時を自分で決められるはず。あんたが死んで・・・やっと、うちらは自由になれる」
「とっとと死ねと・・・」
 直紀は煙を呑み込んでしまった。喉がつまり、一瞬、息ができなくなった。
 げほっ、咳払いして、やっと息ができるようになった。
「わかった。じゃ、死ぬよ」
「いつ?」
「今日、これからでも死んでやるさ」
「ほんとうに? 今度こそ、本当だね」
「ああっ、死んでやるよ!」
 直紀は煙草をにぎりつぶしていた。
 最期まで、珠代は直紀の目を見なかった。

 半沢直紀は段ボール箱を抱えて部屋にもどった。箱をテーブルに放りだすと、山下が勝手に箱の中を物色する。
 1番のベッドに行き、入所の時にもらったファイルを開いた。この1ヶ月ほどはベッド下に入れっぱなしだった。
 死に方のページをめくり、火刑のところで手を止めた。半沢は放火で死刑判決を受けた。江戸時代なら、放火犯は火あぶりの刑が普通だ。
 むう、半沢はうなる。
 屋外で磔の焚刑は、旭川刑務所は対応していない・・・ちょっとがっかりする文章に出っくわした。煙が上がれば火事と思われるし、死刑囚の悲鳴は近所迷惑かもしれない。
 対応するのは、生きたまま棺桶に入り、炉に入る。10分ほどで火を止め、炉から出して死亡確認する。24時間後、炉に再点火して骨にまで焼き上げる。
 棺桶は2種類がある。木製の棺桶なら、中の囚人は熱と煙のため、1分ほどで失神、一酸化炭素中毒で死ぬ。
 段ボール製の棺桶では、紙は簡単に燃えてしまう。炎が肌と肺を焼いて、囚人は2分以上もがき苦しむ。刑務所の炉は火力が弱いため、苦しむ時間は比較的に長い。
「火あぶりは苦しそうですね」
 高蔵がファイルをのぞいて言った。半沢は首を振った。
「放火魔にはふさわしい死に方かもな。けど、火あぶりでも、やり方しだいで楽に死ねるよ。八百屋お七の火あぶりは、たぶん楽な方だったはずだ。まだ子供だったし」
 天和2年(西暦1682年)12月28日、江戸で大火が起きた。後にお七火事と呼ばれるようになる。
 が、お七と言う女が放火したのは自宅で、しかも3ヶ月後、ぼやで済んでいた。ぼやであっても、江戸で火付けは重罪だ。少年法も無い時代、お七は鈴ヶ森刑場で火あぶりとなり、死体は3日間の晒しとされた。数年後の溝談などで、お七が十代前半の若さだっと知られるようになり、人々の同情をかうようになる。
 半沢はお七の火刑を楽な方と推測した。足元の薪に湿ったのを使い、煙で刑人をいぶすのだ。刑人が煙を吸って失神したのを見計らい、それから火を強めて焼く。刑人が苦しむ時間は短い、楽な火刑のやり方である。
 西暦1431年5月30日、異端審問に破れたジャンヌ・ダルクは火刑に処せられた。まず、強い火で焼いた。服が燃え、髪が燃えて、彼女は悲鳴を上げた。そこで、火が消された。わずかに燃え残っていた服をはぎ取った。重度の火傷で苦しむ裸の魔女を、観衆は楽しんだ。体液と血液が火傷から流れ落ち、失神して後、消し炭になるまで焼いた。苦しい火刑の代表例だ。
「やっぱり・・・苦しいのは」
 半沢は首を振った。
 自分の付け火で死んだ一家5人の死に様を思う。2階に2人、1階に3人の遺体があった。お七のように死ねたのはいただろうか、玄関の戸の前の死体はジャンヌ・ダルクのように苦しんだか、思うほどに喉と胸が痛くなってきた。

 ページをめくると棺桶刑があった。
 密閉した棺桶に入り、中の空気を入れ換える。窒素ガスを入れると、中の酸素濃度が16パーセント以下になった時点で、人間は呼吸困難になる。さらに10パーセント以下になると、失神から窒息死に至る。
 酸素ガスを入れた場合、酸素濃度が30パーセントを超えた時、人間は酸素中毒の状態になる。さらに上げると、皮膚表面の化学反応が制御不能になり、人体は低温発火の状態となる。全身に火傷のような痛みが走り・・・失神する。
「どっちも苦しそうだな・・・」
 半沢は死ぬ決意が冷えていくのを感じた。
 棺桶刑は火を使わない火刑だ。刑務官や死亡確認をする医者には、仕事が楽な刑だろう。

 またページをめくる。
 自己銃殺刑のページがあった。
 刑人はイスに座り、体を固定する。刑人の前には自衛隊が使う89式小銃がある。銃口は刑人の頭部、または心臓に狙いをつけている。刑人は手元のスイッチで、銃の引き金を・・・
 次のページには、自己斬首刑があった。
 刑人はギロチン台に頭部を固定する。手元のスイッチで2メートル上に固定されていた刃を落とし・・・
 むむむっ・・・半沢は首を傾げた。
 刑務官に頼らず、自分の死の瞬間を自分で決定する死に方だ。しかし、その時になって、はたしてスイッチを押せるのか。自信が無い。
 死んでやる、と妻に切ったタンカが虚しく思えてきた。


 ポーン、4棟監視室のインターホンが鳴った。4211号室からと表示されている。
 刑務官、大沢マリアは受話器を取った。
「き・・・決めたぞ、死にたい」
「了解した、伺おう」
 大沢は受話器をもどし、モニターを見た。緊張した面持ちの男が映っていた。

 大沢は部下2人を伴い、4211号室のドア前に立った。
 ドアを開けると、正面に半沢直紀がいた。ファイルを開いて示した。高所からの飛び降り刑のページだ。
「これで死にたい」
 半沢の言葉に、大沢は肯く。
「で、何時を望むか?」
「今日・・・これからでも」
「よろしい。当刑務所には、それに対応した場所がある。案内しよう」
 大沢は眉も動かさず、踵を返した。付いて来い、と背中で語る。
 半沢は部屋を振り返り、小さく手を振った。
 山下も小さく手を上げて返した。高蔵は頭を下げた。
 坂口は笑って、大きく手を振った。
「行ってみて、やっぱり飛び降りできません・・・て、帰って来たりしてね」
 イヤミな言葉が投げかけられた。半沢は笑みだけを返した。

 そこは第3棟の屋上だった。
「あそこから飛び降りてくれると、後始末が楽だ」
 大沢が手で示した。金網フェンスの一部が切り取られ、縁に手すり付きの台が設けられている。
 半沢は台に上がり、下をのぞいた。3階建ての屋上から地面まで、落差は約10メートル。
「あれは・・・?」
 半沢は首をのばした。台から真下、建物の壁際にプールがある。縦横5メートルほどか、水が青く光っている。
「コンクリートや普通の地面に落ちると、血の跡が残る。後始末がやっかいなのだ。あれの深さは30センチほど、頭から落ちれば即死できるはずだ」
「頭からね」
「体を横にしたり、足から落ちたりすると、着地後、数秒から数分は意識が残る場合がある。死刑執行の終了は、あなたが息絶えた時だ。着地後に息があっても、我々は救命処置をしない。息が絶えるのを見守るだけだ。そこは了解を願う」
 大沢が死刑としての事務的な解説をする。半沢は頷くだけ。
 と、向かいの建物が第4棟と気付いた。2階の端の窓は4211号室だ。高蔵が窓際に立ち、じっと見ている。
 半沢は顔を上に向けた。
 今日の空は雲が多い。その切れ間が谷のように見える。谷底は深い青さ、底が知れない。
 空に吸い込まれそうな気がした。
 死んでやる・・・妻に向かって言った。あれは自分の言葉だったのか、自信が無い。
 視線を水平にもどすと、東から南へ大きな山が見えた。神々の庭、とアイヌの人たちが言った山々だ。ギリシャ神話ならオリュンポス山になろうか。
 刑務所の塀の向こう側、南には街もある。死刑判決が確定して、行くことはできない場所だ。
 10メートル下の地面に落ちるか、4211号にもどるか、他にできる選択は無い。
 ふう・・・ふう・・・ゆっくり深呼吸した。
 息を吐いて、腹がへこめば・・・自然に上体が前へ落ちる。前屈みになって、足の力を抜けば・・・
 半沢は頭から落ちて行った。
 しかし、生存本能が働いた。迫る地面から目をそらそうと、体をひねる。後頭部が下になった。
 2001年9月11日、アメリカのニューヨークで、旅客機が国際貿易センタービルに突っ込むテロが起きた。ビルの上層階はジェット燃料で火災となった。
 火に追われ、多くの人が窓から身を投げた。何人かの姿がカメラに・・・下を見ず、地面に背を向けて落ちる人が撮られた。目的のあるスカイダイビングではない、本能が死を拒否した姿だった。

 落下時間は1秒ほど。ばしゃ、水しぶきがあがった。
 半沢直紀はプールの端に落ちた。右の足首がプールの縁に乗ったままとなった。
 刑務官が寄り、状態を見た。
 半沢は仰向けだった。胸が水の上に出ていたが、プクプク、口から小さな泡を吹くうち、顔も胸も沈んだ。首の角度が急だ、頸椎を骨折したよう。頭から落ちれば、よくある状態。
 白衣の医師が来た。
「落ちて、どれくらいか?」
「まだ1分と少々です」
「もうしばらく待とうか」
 刑務官は頭をかいて、医師はプールに背を向けた。
 ストレッチャーが来た。死体を入れるビニール袋と、ドライアイスを入れたバッグも一緒だ。
 医師は腕時計を見た。落下から6分が経過した。
 ゆっくり振り向き、プールの縁に腰をおろした。沈んでいる半沢の腹を押した。ぷく、口から小さな気泡が出た。
「呼吸・・・無し」
 水の中から半沢の手を取り、脈を診る。
「脈・・・無し」
 聴診器を水の中に入れて、水中の胸にあてた。
「心音・・・無し。死亡と認める」
 医師が合図して、刑務官が2人がかりで半沢をプールから引き上げる。濡れたまま死体袋に収めた。
 ドライアイスのパックを半沢の胸に置いた。腹に置き、両の脇にはさめた。死体の腐敗防止の意味もあるが、心臓の再起動を阻む意味もある。
 死体袋が閉じられた。ドライアイスの蒸気が袋の中に満ちる。ドライアイスは二酸化炭素の固体だから、万が一に息をふきかえしても、すぐ窒息するはずだ。
 ストレッチャーに死体袋は載せられ、死体安置所へ運ばれる。死亡診断書を提出して、死亡時刻から24時間以上過ぎて後、法に基づいて焼かれて骨になる。

 高蔵は窓際から離れた。2番のベッドにうつ伏せに倒れて寝た。
「やったのか?」
 坂口がベッドで天井を見ながら問う。
 高蔵は答えなかった。


 4211号室の片付けを終え、大沢は監視室にもどった。
 布団と枕とシーツはクリーニングに出し、使用済みの下着と靴下は燃えるゴミに出す。他の私物は処分して、1番のベッドを空けた。差し入れは他の囚人たちが分けていたので、手がかからなかった。
「主任、4307号室で、ちょっと」
 監視の声に、大沢は壁のモニターを見た。
 4棟の3階は女の死刑囚たちの部屋がある。画面には、1人が寄って集って虐められている様子が映っていた。
 女は腕力が弱いから、イジメはねちねちと続くばかり。なかなか死体を作るところまでいかない、
 刑務官は囚人間のトラブルに介入しないが原則だ。が、いつまでも決着のつかないケンカは、やはり困りものだ。
「あれは・・・入ったばかりの子だな」
 大沢は手元のマウスを操作して、机のモニターに囚人のデータを表示した。
 1回、2回、頭を揺らした。手で膝をうち、立ち上がった。
「4211号室に新しい布団と枕を!」

 大沢は2人の部下を連れ、4307号室へ来た。
 ドアを開けると、中の女たちはベッドでしおらしく迎えた。
「43075番は部屋を移動する。準備せよ」
 大沢の言葉に、5番のベッドで布団が動いた。左目にクマを作った顔が出てきた。
「布団は後ほど始末する。私物を持って出て来い」
 大沢はドアを開けたまま、廊下に出て待つ。

 階段を降り、2階の廊下の端に来た。
 大沢は新しい名札を部屋の前に差した。42116番、江波京子が加わった。
「今度は、仲良くやれ」
 ドアを開け、江波の背を押して、部屋に入れた。
 江波は目を疑った。自分以外は皆、男だ。
 振り向こうとしたら、ドアが閉まった。
「今度は若い人だね。自己紹介くらい、できるね」
 9番のベッドから、嵐が声をかけた。
 老人の言に、江波は頷いた。
「え・・・江波京子、28歳。東京の品川、駅の近く・・・今は南品川とか言うようになったけど、新馬場の川岸で育って・・・」
「28とは・・・本当に若いね。何でまた、死刑なんかに?」
 問いには答えず、むむっ、江波は口を閉じた。
 目を伏せたまま6番のベッドへ行く。狼の群れに迷い込んだ子羊の気分だ。
 高蔵と山下も目をこらす。胸のふくらみと腰の張りから女と知り、どう反応して良いか迷うばかり。
 坂口は元ホスト、女がとなりのベッドに来ても動揺しない。昔のクセで、つい商売を考える自分がおかしかった。
「30前とは、よっぽどだなあ。女と見くびっちゃ、いくつ命があっても足りなそうだ」
 肩をすぼめて、首を小刻みに振った。
「そんな・・・たいした事してない。子供がうるさくて、寝られなくて・・・3日ほど出かけて、帰って来たら・・・死んでた。警察が大勢で来て、押し入れを探されて、前の子供を入れといた袋を見つけられて・・・」
「育児放棄か、2人も!」
 坂口は江波に背を向けた。
「男なんて・・・最初の妊娠は17の時だった。5人か6人がかりで、何度も何度も、次の日の朝まで。痛くて、苦しくて、ベタベタで気持ち悪くて。後で、妊娠に気付いたけど、誰にも言えないままお腹が大きくなって・・・苦しくなって公園のトイレに入ったら、便器に赤い動く物が落ちた・・・」
「かんべんしてくれ」
 山下は両手で顔をおおった。彼には身に覚えのある事だ。
 嵐は首を振る。
「3人も・・・もったいない、実に。せっかく妊みやすい体でありながら、子育ての気力も技能も、支援する者すら無いとは」
「ふんっ、男なんて」
 江波はベッドに大の字となった。
 坂口は上向きに寝返りをうつ。ホストの務めとして、女の不機嫌を直すのは第一のスキルだ。
「17歳と言えば、オーストリアの女王マリアテレジアが結婚した歳だな。それから20年間で、16人の子供を産んだ。夫が死んで、記録は途切れた。再婚はしなかったので、17人目はできなかった。15人目の子が、かの有名なマリーアントワネットだ」
「マリア・・・16人! 子を産む機械でもあるまいに」
「女王だけに、何人産んでも、育てられる環境が十分にあったんだな」
 江波は口を尖らせた。品川の下町で育った身、どこぞの女王様と比べられても困るだけだ。
「日本で有名なのは、前田利家の妻、お松様だな。12歳で結婚して、すぐに第1子を出産した。第2子は18の時で、合わせて11人の子を産んだ」
「12とか18とか、淫行条例違反でしょ!」
「昔はね、初潮が来たら結婚、それが普通だったのさ」
 江波は坂口に背を向けた。あまり不機嫌は治らなかったようだ。
 嵐は笑みで2人を見ていた。ケンカ調ながら、話は通じている。
 須賀原はベッドであぐら座りしていた。
「もしかしたら、それは刑務官の温情かもしれない」
「おんじょう?」
「ここに入る時、説明していた。妊婦は死刑の執行が停止される、と」
「死刑が!」
 江波は首をのばした。忘れていた事を思い出した。
 はっはっはっ、高蔵が笑った。
「昔、そんな映画がありましたね。確か、ソフィア・ローレンが主演だった」
 それは、日本公開が1964年、『昨日、今日、明日』と題された作品。3話構成のオムニバスで、その中の『ナポリのアデリーナ』が妊婦の物語だった。
 イタリアには、妊婦は出産後半年まで逮捕されない・・・と言う法律があった。それを逆手に取り、妊娠と出産を繰り返して逮捕を免れて、とうとう7人の子持ちに。が、夫が体調不良で妊娠に失敗。ついに逮捕されてしまい、子連れで刑務所へ・・・そんなコメディである。
 きゃははは、江波は笑った。
 嵐も真顔で頷いた。
「なるほど、妊娠と出産を繰り返して、死刑の執行停止を続けられる訳だ」
「刑務所で育児ができるの?」
「出産後、半年以内に死刑執行が法律の前提だ。ちゃんと里親は手配してくれるだろう」
「自分の手で育てられないんだ・・・育てた事、無いけど」
 江波は枕を抱いて、ため息をついた。
 妊娠すれば、1年以上は生き延びることができる。女だけの特典だ。いや、腹の中の子供が生きる権利を認めた判例である。ただ、付随的に、死刑囚の母親の刑執行が延期されるだけ。
「問題は、誰が父親になるか・・・だね」
 ぼそり、江波はつぶやいた。
「そうか・・・そうだな。刑の執行が停止されるのは母親だけだ。男の方は延期されない。めでたく妊ませられても、子供の顔を見る事はかなわない」
 高蔵はうめく。
 山下が手と首を振った。
「おれ、父親にはなれない。子供ができても、先天性梅毒なんてなったら、かわいそうだ」
「それを言うなら、自分もです。先天性エイズなんて、シャレにもならない」
 高蔵と山下は顔を見合わせ、笑みを交わした。
「梅毒・・・エイズ・・・」
 江波は2人をちらと見て、ふう息をついた。この部屋で輪姦の危険は無さそう、そこは理解できた。
 残る3人の男に目をやる。9番の老人は考えなくて良いだろう。
「決めたっ! あたしは生きるぞ、腹の子を利用してでも。産めるだけ産んで、生きられるだけ生きてやる。さあ、誰が種付けするの?」
 坂口と須賀原は目を合わせた。
 うむ、と須賀原が頷き、坂口を指した。
「こういう場合、やはり若い方が良いじゃろう。少しでも若けりゃあ、それだけ精子の元気が良いだろうし」
「おれが・・・するの」
 坂口は自分を指して、口が開きっぱなしになった。
「さあさあ、種付け始めよ。石にかじりついても、股おっぴろげても、あたしは生きるんだ」
「最高齢の出産記録は60歳くらいのはずだ。そこまで産み続けられたら、最初の子供は成人してる。減刑嘆願くらい出してくれそうだね」
 高齢出産の記録は多い。日本では60歳が最高齢だが、海外では66歳での出産がギネス公認の記録だ。70歳を越える出産記録もあるが、生年月日が不正確として、ギネスが公認していなかったりする。
「今から60まで・・・30人くらい産むのか。人数でギネスに載りそう」
「がんばってくれ、お母さん。おれが協力できるのは、最初の1人だけだ。毎年、協力してくれる男を確保しなくちゃな」
「そう・・・そうだったね」
 坂口と江波は肩を抱き合った。
 まだ、外は明るい。種付けは消灯時間が過ぎてからだ。


6. 夕張炭鉱特別刑務所


 旭川刑務所の刑務官は所内の寮か、隣接の官舎に住んでいる。官舎は独身者向けと妻帯者向けの2種あり、他に住む事は許されない。所内で異常事態が発生した時、すぐに刑務官が総出で対応するためである。

 空が白くなってきた、曇りの明け方。
 佐々木剛司は独身者向けの官舎へ行った。大沢と表札のあるドアの前に立ち、ブザーを押す・・・反応が無い。
 ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。
「大沢、入るぞ」
 声をかけて、ドアを開けた。そして、後悔した。
 部屋の様子を何と書いてよいものやら・・・あえて喩えるなら「腐海」であった。
 6畳の部屋の床には、あらゆる物が散乱していた。壁と天井にも、あらゆる物がひっかけられている。何が何と判別不能な散らかりようだ。
「大沢、生きてるか?」
「おお・・・」
 佐々木の声かけに、部屋の中央にあった布団が動いた。むくりと盛り上がり、中に人が入っていたと知った。
 腐海の主「王蟲」が現れ・・・大沢マリアが寝ぼけ顔を布団から出した。爆発した寝癖の髪と白い顔、長崎原爆のキノコ雲のよう。
「おまえな、セルフネグレク子と名前を変えるか?」
「ほっとけ・・・何の用だ、朝早くから女の部屋を襲って」
「今日は夕張へ出張で早出だ、知ってるはずだ」
「う・・・ん、そうだったかも」
 大沢は這って布団から出てきた。身に着けているのは薄手のシャツと小さなパンティーだけ、へそが丸出しだ。物干しから今日の下着と靴下を取り、のろのろと着替え始めた。手を止め、振り返ると、佐々木は背を向けていた。
「着替え中の女を襲って犯すとか、今ならチャンスだぞ」
「あえて言うが、おれに男色の趣味は無い」
「今・・・すっごく屈辱的な事を言われたような気がする」
「屈辱とか言う前に、少しは女を自覚しろ」
 佐々木は背を向けたまま、部屋を出て行った。

 囚人護送車は旭川刑務所の正門を出た。
 運転席に佐々木、大沢は助手席だ。後ろに2席、刑務官用のイスがあって、その後ろは金網と防弾ガラスの壁。その後方に囚人用の席が10人分ある。
「こんな早くに出かけるなんて」
 大沢は開ききらない眼で不満をもらす。
「5時に出れば、向こうへ8時前くらいには着ける。夕張の食堂は美味くてボリュームたっぷりなんだ」
「飯が目当てか。ちょいとラブホに寄って、一汗かけば、より美味く感じるかも」
「何度も言わせるな、おれに男色の趣味は無い!」
「大沢マリアは生まれた時から、DNAの全てが女だ!」
 佐々木が拒否しても、大沢が誘う。いつもの会話・・・意外と、話が合う二人であった。
 護送車は早朝のインターから高速に入り、南へ走った。


 岩見沢で高速を降り、一般道へ。山越えの道で夕張に入った。
 かつては炭鉱で栄えた街。閉山後、観光などを模索したが、最終的に国の施設を誘致した。
 北海道に旭川と並び立つ2級死刑専門の夕張刑務所である。炭鉱跡を塀で囲い、刑務所にしたのだ。

 佐々木は夕張刑務所の正門前に護送車を停めた。
「もう1台、来た」
 大沢がミラーを見て言った。
 旭川から来た護送車の後ろに、倍も大型の護送車が並んで停まった。扉が開いて、2台は並んで中に入った。
「おおっ、動いてる」
 大沢は鉄筋建てのビルの天辺に巨大な車輪に見入った。ぐるぐる回っていた。
 夕張刑務所は炭鉱刑務所であった。地下深くから石炭を搬出するトロッコをケーブルで牽引するリグが回っていた。
 太い煙突からはもくもくと黒煙が吐き出される。石炭を燃やすボイラーからの煙だ。刑務所内で使われる電力と温水を作っている。
 坑道から出る温水は、比較的に低温なので、刑務所の外へ格安で販売していた。温室栽培の夕張メロンは、すでに全国的ブランドだ。
 護送車を降りて、大沢は耳が痛くなった。
 ゴーゴーガーガー、機械の音があふれていた。稼働する炭鉱の機械群が発する音だった。
 後ろの護送車から、ぞろぞろと囚人が降りた。20人近い人数、日本で頻発する凶悪犯罪・・・2級死刑を言い渡された者たちだ。
「若いのが多いな」
「まあ、ここへ来るのは20代の連中ばかりさ」
 大沢は護送車の前に並んだ若い顔を見て、ため息をついた。青い果実どころか、身が入り始める前の若者たちだ。

 夕張側の刑務官に案内されたのは、食堂だった。
 収監されている囚人たちの食事時間は過ぎて、後片付けの食器洗いの音が響く。それでも、セルフサービスの棚には多くの物があった。
 佐々木はうれしそうに皿へ物を盛っていく。タンパク質を意識して、肉が大目だ。
「刑務所のメニューとは思えない量だな」
「ここの囚人たちは石炭掘りで働いてるから。カロリーとタンパク質をいっぱい採らないと、倒れてしまうよ」
 大沢は焼き魚にサラダを皿に盛った。腹は減っていたが、カロリー控えめ目を心がける。
「ここの食堂で働いているのも囚人だぜ」
 佐々木が耳打ちしてくれた。
 見れば、40代50代の顔が皿を洗い、昼の仕込みを始めていた。夕張に来て、20年は経つだろうベテランの手際だ。
 テーブルに行くと、壁際の方に着いたばかりの囚人たちが食事をしていた。若いだけに、ばくばくと勢い良く口に入れていく。
 壁際には刑務官が並び、囚人たちの食事を見守っていた。右腰には拳銃、左の腰には短刀を差している。装備は旭川と変わらない。

 大柄な刑務官が囚人たちのテーブルの前に立った。
「わたしは夕張刑務所の刑務官主任、近藤勇一朗である。食べながらで良い、手元のファイルを見てほしい。諸君らの死刑執行承諾書の写しがある。自分の名前と法務大臣の署名捺印を確認しろ。諸君らは死刑判決が確定して、この夕張に来た。その事を忘れるな」
 パラパラ、静かだった食事風景にファイルを開く音が加わった。
 細身の刑務官が近藤の横に立つ。
「わたしは刑務官副主任、土方敏三だ。死刑執行承諾書、確認したか? 簡単に、当刑務所の掟を説明する。刑務官に反抗する者は、即時に死刑執行する。生産を妨害する者は、即時に死刑執行する。その他、刑務所の治安を乱す者は、即時に死刑執行する。詳しくは、ファイルを読んで理解しろ。理解できない場合、意味もわからずに死刑執行を受ける場合がありうる。諸君らは死刑囚だ、自分の身分だけは理解しておけ」
 大沢は聞きながら首を振った。
 乱暴な言い方だ、囚人たちの反抗を誘っているみたいに聞こえた。案の定、笑い声が起きていた。
 土方は下がり、近藤が口を開いた。
「ファイルの最終ページは労働契約書である。読んで確認してから、日付と名前を書き込んでくれ。諸君らは2級死刑判決が確定している、本来であれば、死刑執行は判決確定後、半年以内である。が、この夕張刑務所で働く間は、刑の執行が延期される。と言うのも、この夕張刑務所は黒字経営なのだ。諸君らは犯罪を起こし、国家に損害をあたえた。その少しでも返済したまえ」
 囚人たちは契約書を読む。が、文章を読むのは苦手な顔ばかり。手早く署名する者がいれば、ペンを持って固まってしまう者もいる。
「初めの3ヶ月は試用期間である。以後、ここで働ける者は無期限の雇用となる。当刑務所は黒字経営なので、諸君らには北海道の最低賃金が適応される。今年は時給835円、月給ではなく時給だ」
 おおっ、囚人の一部から声が上がった。
「諸君らは事件を起こし、被害者から慰謝料などを請求されているだろう。死刑であの世へ逃亡して踏み倒す・・・そんなつもりの者がいるかもしれない。が、それはやめておけ。ここで働き、しっかり返済すべきだ。ここで7年以上働いて、慰謝料の8割以上を返済した者には、2級死刑の判決が取り消される特典がある」
 わおっ、また声が上がった。
「当刑務所は黒字経営であるから、社会福祉も充実している。死刑判決が取り消され、出所の暁には、最長9ヶ月の失業保険給付を受けながら新しい人生を模索するも良いだろう。もちろん、厚生年金も付く。老後の心配はいらない」
 ほよよ・・・大沢の方がうなった。
 以前の長期懲役刑の問題点は、刑が終了して出所後の生活破綻だった。保険も無く、年金も無く、生活保護だけがセイフティネットだった。犯罪者を税金で養う事への批判があふれた。夕張刑務所のシステムならば、刑終了後に自活の途も見つけやすいだろう。
 と、囚人の中から手が上がった。胸に13番の札がある。
「おれ、慰謝料を4000万も請求されてんだ。ここって、1年で返済できる金額は?」
「月々10万円ほどを返済する例が最も多い。つまり、年120万円の返済額となる」
「4000万の8割ゆーたら、3200万やど。毎年120万返しても、30年近くかかるじゃねえか。おれ、今年27じゃ。出られる時は、もう50過ぎのジジイになっとる。んなら、死んだ方がマシじゃあ!」
「そうか・・・死んだ方がマシ、か」
 むっ、近藤の口が真一文字になった。
「おまえ、前に出ろ」
 土方が13番の囚人を指差した。
 手を上げた13番は立ち上がる。ゆっくりテーブルの前に出て、土方と対峙した。
「他には、同じように思う者はいるか。前に出て並べ」
 土方は薄い笑みで語った。
 1人が立ち上がり、さらに2人が前に出て来た。4人の囚人が並んだ。
「偶然にも、今日は旭川から人が来ている。働く意思の無い者は、これから旭川刑務所に行ってもらう。死刑執行は半年以内が原則だ」
「半年・・・」
 席に着いている者たちもファイルを見直す。
 土方の口元が吊り上がる。
「しかし、第3の選択肢も存在する。どこへも行かず、今ここで死刑執行を受ける・・・と言う選択だ」
「回りくどい事、言ってんじゃねえっ。おれは死刑判決をもらったんだ。とっとと死にてえんだよ」
「そうか・・・そんなに死にたいか」
 土方は流し目を粋がる13番にやった。半歩、足を向けた。
「最期に聞く、死にたいか?」
「おおっ、死にた・・・ひっ!」
 どっ、土方は閃光の抜刀。13番の胸に短刀が突き刺さった。
 土方は刀から手を放し、半歩退く。
 胸に刀が突き立ったまま、13番はかすかに震えていた。胸の中央の少し左、あばら骨の間を抜けて、刀は心臓を貫いた。
 ううっうっ・・・13番はうめき、体を硬直させて後方へ倒れた。ごん、後頭部が床をたたいた。
 ひゅ・・・口から空気がもれる音がした。腹がへこみ、胸がしぼんでいく。
 刀は刺さったまま、わずかに血が服にシミを作る。大きな外出血は無い。それでも、出血は体内で起きていた。心臓から血があふれ、となりにある肺を圧迫して、肺の空気を押し出していた。
「確認!」
 土方の命令に応えて、壁際にいた刑務官の1人が駈け寄った。
「呼吸、弱い。脈、弱い」
 報告に、土方は頷く。また、流し目を並んで立つ3人にやる。
 13番の口元はかすかに震えていた。指先も膝も、小さく痙攣している。刀が刺さって心臓は止まっても、体内には酸素が残っていた。
 しかし、時間が経つと、痙攣の間隔が長くなった。
「諸君らは死刑囚である。法務大臣は死刑執行を承諾した。いつ、どのように死刑を執行するかは現場の判断に委ねられている」
 近藤が静かに言った。
 並んでいた3人から、2人が席にもどった。1人は立ちすくんでいる。
 大沢は味噌汁の残りを腹に流し込んだ。塩味が濃い味付けだった。さすが、炭鉱で汗して働く者たち向けの食事だ。

 若い刑務官、沖田宗二の案内で刑務所内の病院へ行く。
「今日、旭川へお願いする囚人は、ここにいます」
 1階は診察と治療を行い、2階はリハビリ施設だ。ランニングマシンやウエイトトレーニング用の機器があり、佐々木が鼻を動かした。3階が病棟となる。
「ケガや病気の者は、1日4時間ほどの軽い仕事をしながら、ここで体力の回復をはかります」
「仕事優先か」
 大沢が言うと、沖田はさわやかな笑みで応えた。
 入院が3ヶ月以上の長期になると、夕張刑務所は囚人の解雇を検討する。旭川へ移送されると、半年以内に死刑執行の手筈となる。

 2階の端、会議室に4人の囚人がいた。胸には入所したてと同じように番号札が付いている。
 窓にはカーテンがかけられ、外を見る事はできない。テーブルとイス、ホワイトボードだけの部屋。会議室と言うにも寒々しい。
 大沢はファイルを受け取り、簡単にプロフィールを見た。
 1人は若い、夕張に先月来たばかり。もう1人は1年半、あとの2人は10年以上働いたベテランだ。
「ここで働く気力とか、体力を無くした人達なので。そちらにお願いしなければなりません」
 沖田は笑顔で語る。が、右手は腰の拳銃にかけたまま。これから護送車へ移動する間が、最も緊張を要する時間となる。
「ここには、石炭掘り以外の仕事も多いでしょうに」
「職種は様々あります。便所掃除もズリ山の草取りも立派な仕事です。働く意欲があれば、あらゆる仕事があるんですが」
 沖田の言葉を反芻して、大沢は4人を見た。1番は目が死んでいる、2番は口をへの字にしている、事情はそれぞれのようだ。
 ブオーッ、外からサイレンの音が聞こえてきた。
 沖田は窓に駈け寄り、カーテンのすき間から外を見た。携帯端末を手にして、所内の情報を見た。
「3番坑道で事故のようです。現在、坑道を閉鎖して、中の作業員は退去を始めました」
「今度は・・・何人死ぬんだ?」
 3番の胸番号の囚人は唇を震わせた。
「死ぬと決めつけるなよ。夕張刑務所は黒字経営だ。死んでも、ちゃんと労災が出る。受取人は犯罪被害者が優先だけど」
「労災が出るのか」
 大沢は感心した。死刑囚だけに、死に損と思っていた。
「労災が出るとすれば」
 佐々木は暗算をしてみた。
 夕張での労働は最低賃金が基本だ。時給835円で1日8時間、労災の死亡保険金は日給の1000日が法定支払いである。835X8X1000で668万円となる。慰謝料の支払いが8割未満で途切れる場合には、有力な金額だろう。
 4番はテーブルに顔を伏せてしまった。げほおっ、濁った咳をした。
「もう・・・粉塵まみれの・・・真っ黒になった・・・そんなのは見たくない」
 先月にも事故があった。1人が生き埋めで死亡、2人が坑内火災で焼死していた。5人は入院中だ。3番と4番の囚人は、先月の事故の生き残りであった。
 夕張刑務所では、死刑囚の事故死は死刑執行と同じと定義されている。夕張の事故はニュースにならない。
 沖田は携帯端末を見た。
 現状、坑道内に12人がいるらしい。小規模の落盤のようだ。まだ火災は確認されていない。

 夕張からの帰り道、護送車には5人の囚人が乗ることに。
 1番の囚人はスキップで乗り込んだ。
「もう、暗くてじめじめした穴に入らなくてすむぜ」
 へへへ、席に着いて笑った。
 他、4人は言葉も無く乗った。
 5番の囚人は顔が青ざめたまま。目を閉じると、となりに立つ囚人を笑みで刺し殺した刑務官の顔がうかぶ。



7. 献体の時



 朝、刑務官の佐々木は官舎の玄関を出た。大雪の峰から吹き下ろす乾いた風は心地良い・・・はずの朝。
 外の空気を胸に入れ、げふっと咳き込んだ。
 向かいは独身者用の官舎、その2階の通路に・・・ほとんど裸の女がいた。下乳がのぞく小さなタンクトップ、布地のシワと肉の割れ目を見間違えそうな薄物の小さなパンティー、大沢マリアだった。
「あいつ!」
 佐々木は走った。彼自身、下はジャージに上はTシャツ、サンダル履きの格好だ。
「こらあ、朝っぱらから!」
 5メートル前で急停止、佐々木は静かに怒鳴った。大声を出しては近所迷惑になる。あまり接近してはレイプと間違われそうだ。
 大沢は眠そうな顔で手を上げて応えた。はあ、ため息をつく。
「義姉が来てるんだ」
「お姉さんが?」
 佐々木は耳をそばだてた。大沢の部屋から何事か物音がしていた。
「鬼の大沢主任を追い出すとは、どこの毘沙門天様かと思えば」
 ドアがかすかに開いていた。のぞき込もうとしたら、がばと開いた。どさどさ、ゴミの詰まったビニール袋が転がり出てきた。
 マスクとゴム手袋、割烹着で武装した女が部屋を占領していた。ギーギーとうなる掃除機が竜にも見える。竜使いが腐海で暴れていた。
 佐々木は大沢に目をやる。うつむいて、手すりにもたれていた。背中のバラとツタの彫り物が、今朝ばかりはしおれた感じだ。
 きゅーん・・・掃除機が停まった。
 割烹着が出て来た。マスクを下げて素顔を出せば、姉らしく少し年上な顔が現れた。
「これはまあ、大沢の姉で、大沢麻里香にございます。いつもいつも、妹が迷惑をかけてすみません」
 ぺこぺこ、語りながら頭を下げるので、佐々木も同じように頭を下げて返した。麻里香・・・「か」が姉で「ア」が妹なのか、のどまで出かかった言葉を呑み込んだ。
「マリアちゃんも、少しは女の子の自覚を持ちなさい」
「はーい」
 姉の忠告に妹は反論もできず、ただ頷くばかり。
 ちゃん・・・女の子・・・すっかり妹してる大沢マリアの顔を見て、佐々木はほおが痙攣しかけた。
「さて、できたゴミ袋は」
「それは、わたしがあずかって、責任を持ってゴミの日に出します。主任にまかせると、部屋に置いたままになる」
「すみませんねえ、お願いします」
 佐々木はゴミ袋を両手に持ち、階段を降りた。片手に3袋づつ、かさは大きいが男の腕力で持つ。重量は1袋1キロ強か、朝のダンベル運動のかわりだ。
 さて、残された大沢マリアは恐る恐る自室を見た。ぷちっ、パンティーのゴムが切れそうな衝撃をおぼえた。
 かつては人を寄せ付けぬ腐海であった場所は、緑の畳がかがやく清浄の部屋と化していた。

 大沢マリアはいつものように出勤した。
 旭川刑務所に入れば、いつものように冷たいが美しい刑務官だ。
 監視室のモニターで異常を見つけた、4211号室だ。8番のベッドに数人が集まっている。

 嵐勘九郎は1階の医務室に移された。
 ベッドに横向きで寝る。口元にタオルを置いた。仰向けに寝ては、痰がのどに詰まる危険があった。
「喀血ですね。病状は良くありません。普通なら、入院して治療です」
 今日の担当医、田宮耕治は25歳、まだ研修医だ。旭川市内の病院から、持ち回りで派遣されて来ている。
 旭川刑務所は2級死刑専門ゆえ、人の死を診る機会が多い。医師として、大切な経験を積める場なのだ。
「この囚人は死刑囚だ。治療の必要は認められない。2級死刑では、病死や事故死も刑死と同等に見なされる」
 大沢は法的な建前を述べた。
 従来の1級死刑では、刑人は必ず刑死しなければならなかった。そのため、刑執行の当日まで病気やケガの治療が行われる。刑の執行が延期される内に、老衰死してしまう刑人が出るほどだ。
 田宮はカルテを手に、首をひねる。
「ガンが全身に転移して、末期状態ですね。胃と大腸、肝臓もやられてます。肺に血が溜まって、呼吸困難になりかけてます。喀血がきたので、治療しなければ・・・余命1ヶ月以内・・・と思われます」
 大沢は黙して頷く。
 ごくり、嵐がのどを動かした。
「ついに・・・ついに、来たんですね」
 枯れた声をしぼり出すように、嵐が言った。
「治療は却下されましたが、苦しさを散らすために、医療用のモルヒネなどは投与できますよ」
 嵐は田宮の言葉に首を振る。
 震える手をのばし、大沢の手に触れた。
「時が・・・来ました。あれで・・・死にます」
「献体をするか?」
「はい・・・」
 息の合間に、嵐は語る。息が浅い。肺が溺れかけている。
 大沢が目配せすると、田宮は手引き書を開いた。
「嵐さんは、まず血液検査を。全身のCT行い、最新のカルテを作ります。それに基づき、手術の手順書を作成しますので・・・これに3日かかります」
「3日・・・」
「それから手術の手配をしますので、少なくとも1週間後」
 ごくり、嵐はつばを飲んだ。
「耐えられるか?」
「それくらいなら、生きて・・・いられるでしょう」
 嵐は目を閉じた。力をこめてまぶたを閉じている、苦しみを堪える顔だ。
 刑務官が嵐をストレッチャーに移した。横向きのまま、体をバンドで固定する。第2棟で献体前の検査が始まる。
 大沢は小さく礼をして見送った。

 5棟の5226号室、潮は図書室から借りてきたDVDを見ていた。プレーヤーも借りてきた。
 アニメを図書室で見るのは気が引けた。一人だけで、まったりと楽しみたいと思った。
 ラーメン屋をやっている時は、いつも営業時間に放送していたので、ちらちら横目で見るしかなかった。テレビに真正面向いて見るとは、いったい何十年ぶりか。
「えーい、お星様にかわってお仕置きよっ!」
 セーラーエンジェルのスティックが風を切り、光の刃が飛んだ・・・アニメの女の子は架空の存在、見る者は空想を重ねやすい。
 若い頃と趣味が変わり、女の子が悪と戦う物語に惹かれるようになっていた。ラーメン屋に来る客の求めに応じてチャンネルを合わせ、いつからか、自分でチャンネルを合わせていた。
 破壊的なアクションシーンであっても、笑顔で鑑賞できるのはセーラーエンジェルの良いところだ。男が主役のアニメでは、つい握り拳になってしまうばかり。
 こっこっ、ドアがノックされた。
 はいと応え、潮は反射的にDVDプレーヤーの停止ボタンを押した。
「おじゃまする」
 刑務官の藤岡だった。何やら神妙な雰囲気だ。
「潮さんは移植献体を希望されている。明日、移植を執行して良いかな?」
「1級死刑では、当日の執行直前に報されると聞いてましたが」
 潮の問いに、藤岡は真顔で応える。
「腹の中を空にしてもらう必要があるので、前日に言い渡す場合があります。今回は急患だし、向こうも移植を時間単位で待っている」
「急患ですか」
「火事でね、全身火傷なので。潮さんの血と皮膚が必要です」
「あたしの血と皮膚が・・・」
 潮は自分の腕をさすった。
 ラーメン屋の厨房は熱の職場だった。火と熱湯で、小さな火傷は日常だ。寸胴鍋をひっくり返した時もある、危うく全身に熱湯を浴びそうになった。中華鍋を持つ手が滑った時は、頭から油を浴びそうにもなった。ガスホースに足をひっかけた時は、火を吹くコンロが顔に向かって飛んできた事も・・・
「火傷してる人の事、見られますか?」
 ダメ元と、潮は聞いてみた。
 藤岡は肯き、タブレットを出した。画面を何度かスライドさせ、止めた。
 画面には包帯だらけの顔がある、酸素チューブで呼吸を維持していた。並んで、火傷前の写真があった。元気いっぱいに笑っている。
「若い子みたいですね」
「今年19歳、職業はアニメーター、アニメ会社に入って2年目・・・だそうです」
「2年目・・・ですか。やっと、いっぱしの線が引けるようになってきた頃ですかね」
「なんか、詳しいね」
 へっへっへっ、潮は頭をかいた。
「ラーメン屋になる前は、そっち方面のマニアに片足を突っ込んでましたんで」
 笑いながら、ふと考えた、アニメーターが全身火傷の火事とは。紙とセル、燃えやすい物に囲まれた仕事だが、逃げる時間が無いほどの火事は考えにくい。原画を守って逃げ遅れたのだろうか。
「務めていたのは平成アニメと言う会社です。そこへ暴漢が入って、ガソリンを撒いて火を。爆発同然に建物が燃えた。まだ現場は煙が出て、身元不明の焼死体が大勢いると」
「へ・・・あの会社ですか!」
 潮は手元のDVDのケースを見た。セーラーエンジェルは平成アニメも参加していた作品だ。
 ごくり、ツバを飲んで、落ち着けと自分に言い聞かせた。
「移植待ちは、この子だけですか?」
「マッチングができている子たちは、こちらですね」
 藤岡はタブレットの画面をスライドさせた。子供の写真が表示される。
「眼球・・・胃・・・肝臓・・・腎臓・・・心肺・・・骨髄とマッチングしてます」
「若い子・・・ばかりですね」
「10代が中心です、下は12歳から上は21歳くらい。移植した臓器がフィットすれば、若い子は回復も早いので」
 ふむ、潮は頷いた。年寄りの臓器は健康を取り戻すきっかけだ。健康になれば、年寄りの臓器は若い細胞に食われるように交替する。
「あっ、この子、知ってる!」
 何度かニュースで見た顔が出てきた。
「彼は水泳の選手です、21歳。急性白血病で、現在は治療リタイア。骨髄移植を受けているが、まだ足りないらしい」
「オリンピック級の選手となれば、普通の倍も血が要るでしょうね」
 ふうう・・・潮は深く息をした。
 自分のひざを叩く、ぽんぽん。腹に力を込め、背筋を伸ばした。
「わかりました。この体、使って下さい」
「ありがとう、執行開始は明日の早朝。今夜の食事は軽めに、7時以後は水か茶のみにして下さい」
「早朝から・・・」
「臓器を運ぶ飛行機の都合です」
 藤岡は深く礼をして、部屋を出て行った。
 潮も長々と礼をして返した。
 旭川空港に着陸する1番機は午前8時過ぎ、離陸は9時ごろ。それに合わせて手術を行うと理解できた。
 静かになって、またDVDプレーヤーの再生ボタンを押した。
「とおっ、反省しない子にはエンジェル・ハート・・・ブレイク!」
 セーラーエンジェルの必殺技が画面を飾った。
 潮は人差し指でセーラーエンジェルの輪郭をなぞる。ラーメン屋になる前、同人誌を作り、8ミリフィルムで線描きアニメを作った頃を思い出した。

 夜、2棟の1階は灯りが消えなかった。手術室の準備が進む、外部の医療関係者が泊まり込みである。

 目が覚めると、まだ時計は3時だった。また眠ろうと目を閉じるが、胸が高鳴ってしまう。
 潮は身を起こして、ベッドに横座りした。
 図書室から借りてきたDVDをケースにもどした。プレイヤーのコンセントも抜き、たたんでくくる。
 便器に座り、じっと便意を待つ・・・色即是空と考えていると、ぽちゃっ、小さな音がした。
 洗面台で手を洗い、顔を洗って、頭に水をかけて髪も洗った。タオルで髪の水気を取れば、気分がひきしまった。
 手を打って、体温計を脇にはさんだ。最期の検温だ。
 36.2度・・・問題は無い。
 ぬるくなった茶を飲んで、ぷうと息をついた。
 こっこっ・・・廊下を足音が近付いてきた。
 足音は部屋の前で止まった。
「お早うございます。起きてますよ」
 潮の方から声をかけた。
 ドアが開いて、藤岡が顔を見せた。
「お早うございます。いい顔、してますね」
「ありがとうございます」
 潮はベッドから立ち上がる。腹と腰に手をやり、背骨を直立させた。時計は4時を過ぎた。
「さっき、ちょっと思ったのですが」
「何か?」
「あたしの頭は、そんなに密度のある髪じゃありませんが、移植に使うでしょうか」
「どこを使うかは、医師が判断します。わたしには何とも」
「そ・・・そうですね」
 潮は冗談をとばした。そんな軽口でもたたかねば、泣き出してしまいそうだ。
 藤岡が先導して廊下を行く。その後ろを潮が行く。さらに後ろ、2人の刑務官が続いた。
「言っておきますが、潮さんの事情は向こうに知らされません」
「けっこうです。あたしは、彼らと一つになる。それ以上はいりません」
 潮は藤岡の大きな背を見て歩いた。

 5棟から渡り廊下を行って2棟へ。
 廊下にまで消毒液の匂いがただよう。手術室の前に来た。
「着替えて下さい。下着は無しで」
 藤岡は手前の部屋に案内した。
 着替え室で一人になった。頭と腕の穴がある貫頭着が置いてあった。パンツも靴下も脱いで、素肌に1枚だけになった。
 スリッパを履き、部屋を出た。
 手術室のドアが音も無く開いた。
「お世話になりました。行きます」
 潮は藤岡に礼をした。3人の刑務官が礼を返してきた。

 手術室にはいり、ドアが閉められた。
 待っていたのは3人ほどの医師と看護師たち。頭の先から足元まで手術着で、目だけを出している。
 潮は背筋をのばし、深々と一礼した。
「皆様、本日は良き死に場所をいただき、ありがとうございます。どうか、あの子たちのために、皆様の良き手際をお願いします」
 言い終わり、潮は腹の力が抜けた。背が丸くなさった。
 案内されるまま、手術台に体を横たえた。
「血の採取から始めます」
 左手がベルトで固定された。ちく、針が刺された。管を赤い血が通って行った。
 気付くと、足がベルトで固定されていた。右手も固定されていた。
 手術台が折れて、足が持ち上げられる。血が上体に集まり、より早く血液が採れる。
 頭が左右から板ではさまれた。いくつかの電極を付ける。胸にも電極が付いた。
「心電、出ました。脳波、出ました」
 看護師の報告、マスク越しのおだやかな声だ。
「血液、400採れました。次のパックに代えます」
 一般的な献血では最大量が採れたらしい。今回は採れるだけ採るはずだ。
 新しい顔が手術台の横に立った。手術着で目だけだが、藤岡とわかった。
「呼吸、早まります。心拍、上昇」
「血液、800採れました。次のパックへ」
 潮は視界に異変を感じた。視野が狭くなってきた。
「す・・・すみません」
 潮は叫んだ・・・が、声がかすれた。腹が動かず、強くしゃべれない。
 藤岡が顔を寄せてきた。意図は通じたようだ。
「あ・・・あの子たちの写真を」
 藤岡は頷いた。
 潮の眼前にタブレットを差し出した。画面をスライドさせ、笑顔のアニメーターを映す。
 涙がうかんだ。視野が暗くなってきた・・・色が抜けて、視野の中央だけに明かりがある。
「酸素吸入」
 看護師が酸素マスクを潮の口に当てる。
 潮の口元が半開きになった。
「意識混濁」
 看護師の言葉に、藤岡は手術台を離れた。
「電気麻酔」
 医師が命じた。
 化学麻酔では体液や血液に影響があり、移植後の臓器に拒絶反応がありえる。このため、移植臓器を生体から取り出す時には、電気麻酔が多用されていた。神経系に電流を入れるので、後遺障害の危険性から普及していない麻酔法である。が、死刑囚に行うならば問題無し。
「麻酔、入りました」
 脳波を見ていた看護師が報せた。
 医師が隣室のドアに手を上げた。ぞろぞろ、大勢が入って来た。
「血液採取、続行。皮膚から始める。大腿部の右と左、肩と上腕部の右と左を取る。次は顔面で、両頬と額、頭部の前側。それから胸腹だ」
 チーフの医師がてきぱきと段取りを言う。
 潮は裸にされた。デルマトで線を書き入れ、皮膚に切り取る部位を示していく。
 手術台の両側に生理食塩水を満たしたトレーが並んだ。はぎ取った皮膚を保存するためだ。
「皮膚が終われば、眼球を摘出する。角膜の切り取りは、向こうで行う。それから心肺の取り出しだ」
 医師の言葉を聞きながら、藤岡はドアの方へ下がった。
「死刑執行開始」
 立会人として、藤岡は宣言した。

 赤色灯をパカパカさせ、刑務所から車が出て行った。
 藤岡は手術着を脱ぎ、いつもの刑務官服になって手術室前に待機していた。真新しい木の棺がストレッチャーに載っている、潮のための物だ。
 手術中のランプが消えた。
 ドアが開き、ぞろぞろと医師と看護師が出て来た。
 彼らを横目で見送り、藤岡は棺を伴って中へ行く。
「大腿骨、よし。上腕骨、よし。骨髄の取り出しは向こうで」
 最期のトランクが閉じられた。搬送係の者がトランクを肩にかけ、足早に出て行く。
 手術台横に立つのは、2名を残すのみ。簡単に筋肉を縫い、遺体がばらけないようにする。皮膚の代わりにガーゼで全身をおおい、ミイラのような遺体が出来上がった。
 藤岡は潮の頭部を見た。ガーゼがかかって、帽子をかぶっているみたいだ。
「頭皮も取ったのですか?」
「取りました。頭髪の汚れは感染症の原因になりえますが、向こうの様子では使うかもしれません」
 医師の答えに、藤岡は頷いた。
 手術台のシーツごと、軽くなった遺体を棺に移した。ドライアイスを棺内の要所に置いて、蓋を閉じた。
「死刑執行・・・完了」
 藤岡は目を閉じ、つぶやいた。
 医師から死亡診断書をもらい、棺の上に置いた。
 これから1日、霊安室に置く手続きがある。

「心拍、上昇。呼吸、加速」
 製薬会社の庄司研究員がテレメーターの数値を読み上げた。
 大沢マリアはテレビモニターを見て、首を左右に揺らす。
 投薬治験献体を申し出た死刑囚であった。被験者は部屋の中をうろつき歩いている。
「今、投与している薬と言うのは?」
「本来は鎮静剤として開発してました。他の治験で、少数にせん妄症状が報告されて、やり直しがきました。投与量が標準の20倍で、この状態です」
「鎮静・・・どころか、興奮してるぞ」
「体質によるかもしれませんが、鎮静と興奮の効果が逆転する閾値を見つけなくては」
 と、テレビの被験者が壁に頭をぶつけ始めた。
「危ない・・・ビデオ録画、停止」
 大沢は手を振り、部下に行かせる。庄司はしぶしぶスイッチを切った。しかし、テレメーターの記録だけは続いている。
 部屋に2人の刑務官が入った。警棒で被験者を捕り押さえ、後ろ手に縛り上げる。ベッドに上げて、体を固定した。抵抗は少ない。
 被験者が狂ったのか、脱走を企てているのか、刑務官は見極めなくてはならない。今回は、簡単な方だった。
 大沢は研究員に目をやった。命令に反して録画を続けていないか、その手元を確認した。
 こんなビデオが外部に流出したら、人権派を自称する団体やらが騒ぐかもしれない。が、被験者は死刑囚なのだ。一般人を被験者にする治験より、はるかに人道的なのは明かだ。
「被験者を代えるか?」
「いえ、このまま様子を見ましょう。せん妄が出た後、心臓発作の報告もありますので」
 大沢の提案に、庄司は首を振った。
 ピピピッ、テレメーターが異常を知らせた。
「不整脈あり」
 庄司の口元に笑みが浮かんだ。研究員として望んだ経過が現れたのだ。
 被験者はベッドでぐったりしている。意識が無くなったように見えた。
 テレメーターの心電図が暴れていた。突然ピークが来て、しばらく途切れる。呼吸も浅く、途切れ途切れだ。
 ピーッ、テレメーターが心拍停止を告げた。呼吸も停止した。
「救命処置は?」
「このまま、様子を見ます」
 庄司は自発的な心拍再開を期待していた。が、心臓は止まったままだ。
 1分が過ぎた。
 被験者の心臓は動かない。
 秒針の動きがゆっくりに感じる。
 大沢は自分の呼吸を数えた。脈を取らなくても、胸の奥で心臓が動いているのがわかる。
 6分が経過した。
「死刑執行完了、お疲れさん」
 大沢が声をかけると、庄司は頷いた。
「血液のサンプルを採ります」
 小さな声で答えがあった。テレメーターの記録が止められた。

 夕刻が迫り、大沢は病室を見舞った。
 酸素吸入と点滴を受ける患者がベッドにいた。嵐勘九郎は大沢に気付き、薄目を開けた。
「明日、正午過ぎから始める」
 大沢の言葉がわかったのか、嵐は小さく頷いた。いよいよ、病理解剖献体の予定が決まった。
 震える指先がベッドのガードに上がってきた。
 大沢は細くなった嵐の指に手を重ねた。
 ぜーっ、ぜーっ、嵐の息づかいが耳に聞こえる。
「すみません・・・あなたには、本当に・・・ひどい事を・・・」
「いや、別に」
 老人の弱々しい言葉に、大沢は軽い笑みで応えた。
 嵐は目を閉じた。骨と皮だけになった手がガードからすべり、布団に落ちた。
 大沢は嵐の手を布団の中に入れてやった。
 点滴液の袋の表示を見た。血液の粘性を下げたり、血管拡張作用のある薬が少量入っているらしい。血圧を下げる効果もある。
 それ以上に、血栓が心臓や脳で詰まっては、明日の手術に影響が出る。それまでは確実に生かしておくためだ。

 屋上に出ると、ちょうど日没の時刻だった。空は晴れて、ほとんど雲が無い。
 大沢は東を見た。
 大雪山の山嶺が赤く輝くようだ。
 日没の直後、日光が山を直射しない時間帯、晴れて雲の無い時にだけ現れる赤い嶺だ。
 が、数分後に赤みは消え、山は青い闇におおわれた。薄暮の空の下、シルエットになった山がそそり立つ。
 葛飾北斎は日没後の一瞬にだけ現れる赤い富士山を絵にして、時を止めて見せた。毎日のように山を見ていても、赤い山を目にできるのは希な事である。

 うーん、大沢マリアは寝返りをうった。
 義姉が掃除した部屋、きれいになって落ち着かない。匂いが違うし、自分の部屋と言う感覚が無くなってしまった。
 布団を蹴りとばし、あきらめて起きた。カーテン越しの薄明かり、外は明るくなりかけている。
 今日は嵐勘九郎の死刑執行がある。
 胸を反らせて大きく息を吸い、腹がへこむほど吐き出した。乳房が揺れて、乳首がシャツとこすれた。

 バスが正門から入って来た。
 外科医や看護師の卵たちの若い顔が降りる。手術の準備が始まった。
 嵐勘九郎は点滴液が変えられた、血管拡張作用のある薬は入っていない普通の点滴液だ。手術中の出血を抑制するためである。
 そして、麻酔の準備。
 教官の医師が麻酔医の卵に指示して、少しずつ行う。

 大沢マリアは手術着に着替え、手術室へ行く。
 手術台には嵐勘九郎が横になっている。麻酔は入り、深く眠っていた。
 そして、手術台を囲む医師と看護師の卵たち。総勢20人以上、満員の通勤バスのような室内。
「静粛に」
 指導教官の医師、蒲原が手を上げた。
「すでに麻酔が入っている。患者の容体は安定している。これより、手術を行う。うち合わせ通り、1番目は胃ガンの切除だ。2番目は下降結腸の大腸ガンを切除、3番目は肺ガンで右肺の全摘出となる。患者は高齢であり、手術中に容体の急変が予想される。あわてず、落ち着いて手術を続行すること。患者は死刑囚である、死んでも医療事故とはならない」
 部屋の隅で、大沢は見守っている。
「死刑執行開始」
 刑務官として献体の始まりを宣言した。
 蒲原が医学生を指し、執刀を命じた。

「脈、弱まります」
「自発呼吸、停止」
 看護師が容体の急変を報せた。
 胃ガンの手術は終わっていた。大腸ガンの方も切除が済んで、縫合を残すのみだ。
「縫合、続行」
 蒲原が命じた。
「心肺蘇生を」
 下半身と上半身で、別々のチームが仕事をする。
 口にエアポンプの付いたマスクが挿入された。手で丸いボールポンプを押し、強制的に肺へ空気を吹き込む。
「脈、回復しません。細動状態になりました」
「開胸、心臓マッサージを直接行う。ハサミでやれ」
 蒲原の新しい命令が出た。
 右肺の全摘出は予定されていたから、開胸手術は予定通りだ。そこに心臓マッサージが追加された。
 メスで胸の筋肉を切り開く。ハサミを使い、肋骨を切っていく。1本ごとに、バチッバチッ、大きな音が手術室に響いた。
 肺の摘出だけならば、ノコギリを使って丁寧に肋骨を切る場面。が、心臓マッサージは秒を争う。ハサミで切る方が速いに決まっている。

「全員、気をつけ!」
 蒲原の号令が手術室に響いた。
「献体に対し、礼!」
 手術台に向かい、全員が頭を垂れた。
 緊張が解け、ため息がもれる。同時に、笑いとも泣きとも聞こえる声が。

 手術室のドアの外、大沢マリアは通常の刑務官副で待機していた。横には棺を載せたストレッチャーがある。
 ドアが開いて、医師と看護師の卵たちが出て来た。
 彼らを黙礼で見送りった。列が途切れたのを見計らい、ストレッチャーを押して手術室に入る。
 蒲原が一礼して出迎えてくれた。
「献体者をお返しします」
 礼を交わし、ストレッチャーを手術台の横につけた。
 嵐勘九郎の体は縫い目だらけ、肌の色は死体らしく蒼白だ。シーツにくるみ、棺に納めた。ドライアイスのブロックを要所に置いて、蓋を閉じる。
「死刑執行完了」
 大沢マリアはつぶやくように言った。
 蒲原から死亡診断書をもらい、棺の上に置いた。


8. 再会と別れ



 ふんっ!
 刑務所の職員用通用門の前で、大沢マリアは自分に気合いを入れた。これが最近の日課だ。
 近くに別の職員がいる時は、気合いを小さめにする。今さらだけど、力を入れ過ぎるとガスが漏れる場合もある。

 出勤すると、机に新しいファイルが来ていた。
「新規採用刑務官・・・人を増やしてくれるのか」
 ファイルをめくる。採用予定は3人のようだ。年齢は51歳と53歳の男、48歳の女。年齢的に、定年まで10年以上は働ける人たちだ。悪くはない。
「おじさんとおばさん・・・か」
 4月の定期増員ではない、移動でもない。臨時の増員と言う事は、2級死刑の判決確定が多く出る見込みなのだろう。
 刑を厳しくしても、犯罪は減らない。困った世の中だ。世に盗人の種は尽きまじ・・・歌舞伎の石川五右衛門が辞世の句とした言葉が重い。
 ファイルを見ていて、女の名前が気にかかった。
 まさか・・・と思ったが、同姓同名という場合もあるだろう。本人に会えば分かる事だ。

 渡り廊下で第6棟へ来た。
 大沢マリアは鉄格子のドアを開け、6棟側の刑務官と敬礼を交わす。
「囚人を引き渡します」
「囚人を引き受けました」
 言葉を交わして、敬礼の手を下ろした。
 痩せた男の囚人が鉄格子のこちら側に来た。私物を入れた段ボール箱を抱えて、泣きそうな顔だ。
「4211号室に空きがあるので、そちらに入ってもらいます」
 大沢が告げると、囚人は黙して頷いた。
 こっこっ、鉄筋コンクリートの建物は足音がよく響く。
 大沢は先導して廊下を行った。女の尻に欲情して襲ってきたら、自衛的処置として死刑を執行する準備はある。
 が、何事も無く、4211号室の前に着いた。
 ドア横の名札に42111番、富岡正治を加えた。
「あなたに残された予算は3ヶ月分だ。早めに死に方を決めてくれ」
 大沢は富岡に言葉をかけた。肯きは返ってこなかった。

 富岡は4211号室に入り、言葉も無く1番のベッドへ行った。
「新人さん、自己紹介くらいしなよ」
 となりのベッドから高蔵が声をかけた。
「富岡・・・正治です、52歳になります。6棟に9年ほどいました」
「おおっと、新人どころか、大先輩でしたか」
 高蔵は頭を下げた。
「6棟て、1ヶ月に10万とか要るんだろう。お金持ちだったんだなあ」
 山下が首をひねりながら言った。
「去年、母が75で死にました。先月、父が82で死にました。親戚とか、誰も出してくれなくなって」
「なるほど、親だけが命の綱だったと」
 むう、と部屋に重いものが漂った。
「9年・・・て事は、108ヶ月。1千万以上も刑務所につぎ込んだのか。良いパトロンだけど、70や80を過ぎては酷な事だ。命も縮む金額だな」
 坂口が含み笑いで言った。
「あんただって、それくらいの客がいたでしょうに」
 江波が横から口をはさんだ。
「太客と言われるのでも、100万も使ったら、飽きて次の子に乗り替えていったな。そういう客を何人持てるかで、上級ホストと中級のランクが付く。1千万なんて、神級の客だぜ」
「中の上くらいだったから、ヒモになって、子供を蹴って殺したんだ」
「はい、人の親になる資格が無いヤツです。親になる前に、死刑執行の期限がきます」
 坂口と江波は自嘲の笑み。どちらも、子供を殺した経験者だ。
 須賀原はじっと富岡の顔を見ていた。うつむいて、人の顔を見ようとしない。
「で、あんたは何をして、刑務所に入る事に?」
「学校を卒業して、会社に勤めたけど・・・なんか合わなくて、辞めて・・・次のとこも次のとこもダメで・・・うつ病と診断されて、生活保護を3年くらい・・・でも、突然、保護の打ち切りを言われて、役所の人をなぐって・・・刑務所に」
「うつ病は、時々、意味も無く攻撃的になると聞くな」
「それからは・・・仮出所したけど、金が無くて・・・万引きして、捕まって・・・また刑務所に入って、仮出所して・・・近くの家に入って飯を食ったら、また捕まって・・・また刑務所にはいって・・・」
「累犯か。小さな罪を重ねて、刑期が積もり積もって7年を超え、ついに2級死刑か」
 富岡は口を閉じた。
 須賀原も問いかけを止めた。よく似た人間が身近にいた事がある、自分の兄だ。暴力団に入り、刑務所から仮出所しては、弟のアパートに来て金をせびった。他人の前では平身低頭ながら、家族に対しては暴力的な男だった。兄が死んだと知った時は、むしろ安堵したものだ。
 ああっ、富岡は頭をかきむしって声をあげた。
「おれだって・・・おれだって、日本国民だ。健康で文化的な最低限の生活をする・・・権利はあるはずなのに!」
 ふしししっ、坂口が薄笑いを投げた。
「権利ねえ。憲法を言うあたり、法律には詳しいようだね。裁判を何度もうけて、弁護士に吹き込まれたかな。けど、権利を主張するできる人と言うのは、国民の義務をしっかりやってきた人だぜ。権利と義務は板の裏表、イコール記号で結びついている。これは受け売りだけど」
「義務・・・」
 富岡の手が止まった。
「義務て・・・何?」
 江波が首を傾げて言う。
「憲法の言う国民の三大義務は、勤労と納税、そして教育だ。健康で文化的な生活を営む国民は、仕事をして、税金を納めて、日本語の読み書きと会話をこなす教育を受けている必要がある。そんな話しさ。中国人が知人をたよって日本に来て、すぐに生活保護を申請した事があった。仕事もしてない、税金も納めてない、日本語も満足に話せない人間が、いきなり国民の権利を主張した。そりゃ、問題になるよな」
 坂口は富岡に目をやった。
 働いた期間は短く、ほとんど税金は納めていない男だ。生活保護と刑務所を出入りして、税金で食ってきた。
 ふっ、坂口は自分がおかしくなって噴いた。ヒモになり、女に食わせてもらっていた元ホストと、どれほどの差があるのか。ホスト時代、女から現金などをもらっても、収入として申告した事は無い。税金は店から出る給料の中だけで払っていた。
 つんつん、江波が坂口をつついた。
「ねえ、女が子供を妊んで産むのは、義務なの権利なの?」
「女が子を・・・そういう条文は憲法に無い・・・はずと思う。男とか女とかの概念も、憲法には無いかも。天皇と国民の関係を言うところは有名だけど」
「げげーっ、憲法の上では、女が子を産む必要は無いんだ」
「かも・・・しれない。憲法は栄えて、国が滅ぶかな」
 坂口はホスト時代の法律論議を思い出していた。酒が入ると、高尚な議題と下ネタが結びつくのは多い。
 山下が身をのりだしてきた。
「優生保護法の裁判で、子を産む権利をと訴えた人たちがいたはずだ」
「断種手術で奪われたのは、子を作る身体能力でしょ。手足の切断に近いはず。権利とは違うと思う」
「健康な人間は子を作る能力があるもの。でも、憲法には何の規定も無いとは」
「あなたの言う通り、健康で文化的な生活の権利の中に、子作りは含まれると解釈されているのかもしれない。よく分からんけど」
 法の専門家でもないので、すぐ議論は行き詰まった。もとより、国民の義務を果たしてこなかった者たちだ。
 高蔵が首をひねった。
「健康で文化的な生活・・・か。人が子を作るのは、娯楽や贅沢と同じなのかなあ」
「法的には、同じ扱いかもしれませんね。だから、女の子育てはキャリアとして認知されていない」
「何人も子供を産んで育てても、社会的にキャリアと認められないのか。厳しいなあ」
「男社会では、です」
「そうだ、男のキャリアには子を産んで育てる・・・は無い」
 坂口も言葉が尽きてきた。ホストと客の会話では、法律談義は長くつづかない。すぐに芸能や旅行など、より身近な話題に移っていく。
 男には子を産む能力が無い。でも、育てる事はできる。政治家の世界では、後継者の育成は大事な仕事である。ヒトラーやムッソリーニなど、後継者の育成を怠ったばかりに、自身の政治的成果を無に帰し、後世に悪名だけが伝えられる例は数多い。
「昔は、貧乏人の子だくさんと言ったのに。今じゃ、金持ちだけが子作りできる時代だな」
 山下が首を振ってつぶやいた。


 1日の仕事が終わり、大沢マリアは刑務所の通用門を出た。
 冷えた空気に気付くと、白い物が降ってきた。
「あれ・・・もうすぐ冬だっけか?」
 周囲を見渡せば、田畑の刈り入れは終わっている。木々の葉は色を失って落ち始めていた。日暮れも早い。
 季節の変わり目を失念していた。

 塀に沿って歩き、狭い道路を渡れば官舎だ。
 独身用官舎の階段を上がり、2階の廊下を行けば、すぐ我が部屋に着く。
 と、手前の部屋に明かりがあった。住人はいないはず、ずっと空き部屋だった。
 ドアに新しい表札が貼られていた。
 猪上紀久子・・・なつかしい名前だ。大沢はドアに向かい、ノックしてみた。
「はーい」
 女の声が返ってきた。ちょっと記憶と違う感じ。首をひねった。
「はじめまして、新任の猪上紀久子です。よろしく」
 ドアが開いて、住人が顔を出した。やや太めの女だった。目尻はたれて、おかめ顔だ。
「大沢マリア、となりの部屋です。4棟の刑務主任をしております」
 大沢もゆっくり頭を下げてあいさつとした。
 また、じっくり互いの顔を見合った。記憶を探り、過去に見た顔の老けた様子を想像した。
「やっぱり、猪上主任だ」
「あっあららっ、もしかして、あのマリアちゃん!」
 お互いを確認してしまえば、20年ぶりの再会だ。きゃっきゃっ、2人とも20代に返って声を上げてしまった。

 20年前、大沢マリアは事件を起こして、禁固6ヶ月の判決を受けた。執行猶予が付いていたが、拒否して女子刑務所に入った。そこの刑務官だったのが猪上紀久子だ。
 柔道で国体にも出場した経験者の猪上は、囚人に柔道を教えていた。男に伍する力と技を身に付ければ、男が起こす犯罪に巻き込まれる危険性が少なくなる・・・そんな理屈だった。
 アメリカでは、刑務所でボクシングを教えて、囚人の矯正とした所があった。マイク・タイソンは少年刑務所でボクシングを学び、後に世界チャンピオンにまで上り詰めた。
 大沢は猪上から柔道を学んだ。

 猪上の部屋に上がって、お茶とお煎餅で女子会となった。
「あのマリアちゃんが主任さんとは、立場が逆になったのね」
「猪上主任に教えていただいた柔道、いろいろな場面で役立っております」
 大沢にとっては、猪上が刑務官の先輩である事に変わりは無い。
 女子刑務所の道場で、互いに汗を流した。大沢が刑期を満了して出所した日と、猪上が刑務官を退職した日は同じだった。
「あれから20年、あの時の子が刑務官になってたとは、指導した者としては幸いな事かしら」
「猪上主任の退職・・・あれは、できちゃった婚でしょ」
「な、なぜ知ってるの?」
「まあ、女の勘です。最期の1ヶ月、急に組み手をしなくなって、皆で噂し合ってました」
「そっかあ、バレてたのかあ」
 えっへへへ、猪上は笑いで場をごまかす。
 が、すぐに、しんみりした顔になった。
「子供が東京の大学へ行って、やる事が無くなってしまって。で、昔の仕事を思い出したの」
「母親が刑務所で働くのは、子供の自慢になりますか?」
「そこが問題よ。母親の評価って、自分の満足よりも子供の満足が優先なのよね。子供が育ってしまうと、今度は自分のために何かをしたい、そう思うようになった」
「自分のために・・・ですか」
 昔から、女を直接的に評価する事は少ない。子供を産んで育てて、その子の社会的評価が母親の評価と重なる。
「で、今回、応募してみて分かったけど。女のキャリアにとって、主婦や子育ては空白期間の扱いなのね。いっぱい仕事してたのに、納得いかないわ」
「男が作った制度だから、そうなるんでしょ」
「キャリアは家の外で積むもの、家の中でやる介護もキャリアにならないし。女の仕事がキャリアの対象じゃないって、間違ってる」
 大沢は自制していた。20年前には、猪上が聞き役で、自分はしゃべってばかりだった。不思議な立場の逆転だ。
「そうそう・・・」
 猪上が言い出して、言葉を切った。昔からのクセ、話題を変えようとしている。
「昔、あんたの親分だった嵐勘九郎が、ここにいたはずね」
「よくご存知で。先日、死刑を執行しました。わたしが立ち合いました」
「そっか、あんたも過去からフリーになったのね。かつての手下に看取られたなら、あの人も本望でしょ」
「そう・・・思いたいです」
 珍しく、女の会話に少し長い沈黙がはさまった。


 翌朝、3人の新人は4棟の刑務官事務室で顔合わせした。
「大塚元春、53歳。この春、夕張刑務所から出ました。まだ慰謝料の支払いが残ってまして、がんばります」
 元炭鉱マンはがっちりした体つき、20年以上も石炭を掘っていただけはある。声も大きいが、礼もきびきびしている。
「若山富三、51歳です。5年前まで警察官してました。親の病気で退職しましたが、介護も終わり、復職です。よろしく」
 介護が終わる・・・親の死去を、そんな風に表現する時代がきていた。核家族が一般的になった現代では、終末期介護のために休職や退職を余儀なくされる場合は多い。
「猪上紀久子、48歳です。大昔、札幌の女子刑務所で刑務官をしてました。結婚退職しましたが、子育ても終わり、復職です。よろしく」
 最後に、猪上がゆるりと礼をした。
 ぱちぱち、拍手で新人紹介が終わった。
 大沢が前に出て、3人に警棒を渡した。
「当面、3ヶ月は仮採用なので、拳銃や刀などの所持は認められない。この警棒はスタンガンを内臓していて、手元のスイッチで先端の電極から電流を出す。必ず、支給の非導電性手袋を着用するように」
 猪上は警棒を手にして首を傾げた。20年前とは言え、女子刑務所では警棒を必要としなかった。もっとも、得意の柔道で受刑者を捕り押さえた事は何度もあった。

 大沢は猪上を伴って棟内を巡回した。男の新人は男の刑務官にまかせた。
 一般の刑務所と違い、ここの囚人は房を出入りしない。廊下は静かなものだ。
 きゅるきゅる、車輪を鳴らして行く食事を運ぶ台車とすれ違う。巾1メートル、長さ3メートル、高さも2メートル弱ある台車。それをマスクと割烹着の女が2人で前と後ろについて運ぶ。
「あの人たちは?」
「職員です、当刑務所の。多くは、近隣の農家から来てる主婦。たまに、車で通う人もいます」
「あ、そうなんだ」
 大沢の答えに、猪上は目を剥いた。
 普通の刑務所なら、囚人の中から料理当番を選んだりする。が、ここでは全て職員の仕事になる。死刑囚の世話は手間と金がかかるのだった。

 刑務所にも昼が来る。
 刑務官も人間、時間が来れば腹も減る。猪上らは持参の弁当を自分の机で広げる。
 大沢は第1棟にある厨房へ弁当を取りに行った。朝、注文しておいた。昼前は厨房の忙しい時間、刑務所だけに囚人用の食事を配るので人手が足りないほど。刑務官の分まで配達してくれない。
 厨房のカウンターの箱に料金を入れ、日替わり弁当のパックを取る。セルフサービスの所内弁当屋であった。
 大沢は弁当を手に、休憩所のテーブルに行く。給茶機で茶を取り、席に着いた。今日はシャケ弁当、大根とカボチャの煮付け付きだ。
 箸を付けようとしたら、厨房の方がにぎやかになった。配膳を終えて、皆が帰って来たようだ。
「いらっしゃいませ、ありがとうございます」
 女子高生のような声をかけてきたのは、実は60歳近い女性。
「坂口さん、面会は午後2時だ。忘れないで」
「はい、ありがとうございます」
 大沢の声かけに、かわいい声で返事が来た。
 坂口朱美は58歳、5ヶ月ほど前から厨房で働いている。先月あたりから、休みを多く取りがちだった。
 大沢は弁当を食べた。大根もカボチャも塩分控えめな味付け、労働をしない死刑囚向けの料理に準じていた。

 午後1時半を過ぎて、坂口朱美は割烹着を脱ぎ、身支度をした。
 受付の刑務官に持参した段ボール箱をあずけ、控え室で時を待った。鏡を見て、髪を直そうとしたが、指先が震える。
 2時が近付いた。控え室には1人だけ、今日は他に誰もいない。
 胸が高鳴る。顔が熱くなり、頭痛がしてきた。
「坂口さん、3番へ」
 刑務官が案内をした。
 厚めの防音ドアを開け、中へ入る。イスが2脚ある。弁護士帯同で面会する場合もある。
 鋼線入り防火ガラスの向こう側が囚人の席だ。手を触れ合う事はできない。
 首をのばして見れば、向こう側に段ボール箱があった。事前に刑務官へ渡した差し入れ品だ。
 時計が2時を過ぎた。
 向こう側のドアが開いた。
 坂口丈太郎が現れた。母と息子、1ヶ月ぶり面会だ。
 ガラス越し、丈太郎は手を上げて挨拶にかえた。ホスト時代からの仕草だ。段ボール箱の中を見て、また笑みをうかべた。
「いつもいつも、ありがとう」
 息子の礼に、母は悲しげな顔で頷く。
「ごめんね。実は・・・」
 朱美は言葉が途切れた。胸が痛い、胃が締め付けられるように腹の中で固くなっている。
 丈太郎は母の異変を察していた。ホストの習い、女の笑顔を誘う言葉を探した。が、ここは沈黙して、笑顔で次の言葉を待ってみる。
「実は、お父さんが入院したの」
「確か・・・先月、退院したばかりだろ」
「様子を見るということで退院したけど、やっぱり具合が良くならなくて・・・いっぱいお金を使ってしまって」
「親爺も年だから、しかたないかもね」
 丈太郎はただ一人の子供、父が30代になってから生まれた。すでに還暦を過ぎ、定年退職していた。
「ここは・・・来月から、毎月10万以上払う必要があるけど、そのお金が無くなってしまって・・・ごめんなさい」
「ああ、その事だったの」
 丈太郎は答えが頭に浮かばなかった。
 孝行息子を演じるなら、どう言うか考えた・・・母さん、ぼくのためには1円たりとも使う必要は無いから・・・首を振った。死刑判決を受けた男が口に出す言葉ではないだろう。
 おれに死ねと言うのか・・・と怒鳴り散らすのは映画的にありそうだ。しかし、首を傾げた。元ホストとして・・・中級のホストとしては、女の涙は見たくない。上級だったら、女を泣かせて男を上げるのかもしれないが。
 母は重大な問題にぶつかり、今にも泣き出しそうだ。
 丈太郎は頭をかきながら立ち上がる。首を回し、肩を回した。
「そう悩むことないよ。歌にもある、そのうち何とかなるだろう、てさ。今日は、ありがとうね」
 丈太郎は左手で段ボール箱を抱え、右手を振った。笑顔で背を向け、ドアをたたく。面会の終了の合図だ。
 面会室を出る息子の背に、母が声をかけた。
「ごめんなさい・・・ごめん・・・」
 息子は振り返らず、小さく右手を振って応えた。


 4211号室にもどり、坂口丈太郎は段ボール箱をテーブルに置いた。そのまま、自分のベッドへ行く。
 10秒間突っ伏して、仰向けに寝返る。ベッド下からファイルを出して開いた、何ヶ月ぶりかだ。
 自己胴切り刑のページで手が止まった。古い言い方なら切腹である。

 死刑囚は座面の低いイスに座る。ベルトで上体を背もたれに固定する。座面は前傾していて、腹部に肉がたまらないようになっている。
 古典的に自力で腹を切る方法もあるが、テコを使った補助具なら小さな力で切れる。腹部に極所麻酔をかけ、痛みを感じないようにもできる。
ただし、麻酔は筋肉にだけ効くので、内臓に刃が達すれば苦しむことになる。
 一般的な横一文字切りは、へそ又はへその下を横に切り開く。実は、切ってから絶命するまでに最も時間がかかる切り方。長い苦しみに耐える胆力を持つ者、と江戸時代の武士は示そうとしていた。が、切ってから数時間とか半日も生きているので、立ち会う者が待ちきれない。介錯で首を落として簡略化する様式が追加された。
 みぞおちから縦に腹を切る縦一文字切りでは、横隔膜を裂くことができる。肺と心臓が腹の中に落ちて、たちまち心臓麻痺が起きる。短時間に絶命する。
 へそから背骨に向かって刀を突き入れると、背骨近くの大動脈と大静脈を切断できる。腹の中で大出血が起こり、ほとんど瞬間的に失神、数秒で絶命する場合がある。

 坂口は腹に手をやった。
 あの時、坂口は5歳の子を蹴り飛ばした。怒りにまかせ、倒れた子の頭を蹴り、腹を蹴った。
 なぜ怒っていたのか、理由は思い出せない。身の回りの全てが怒りをぶつける対象だった。
 子は痙攣しながら、口から黄色い汁を吐いた。はっ・・・はっ・・・は・・・3回ほど息をして、動かなくなった。
 母親が救急車を呼んだ。医師は内蔵破裂、吐しゃ物がのどに詰まって窒息・・・死んだと言った。
 どう腹を切りば、あの子と同じ苦しみを味わえるか・・・考えたが、首を振った。やはり、苦しい死に方はイヤだ。
 ページをめくる。
 自己銃殺刑のページがあった。
 西洋において、頭部を撃つ銃殺刑は、斬首刑に代わる貴族のための処刑法として始まった。楽に死ねるから。
 平民は長く苦しむ絞首刑が一般的だった。貴族が絞首刑にされるのは身分剥奪の意味も込められていた。宗教がからめば、火刑や水刑が行われた。さらに苦しい死である。
 19世紀末、化学工業の発達により火薬の値段が劇的に下がる。軍隊が銃殺刑を取り入れ始めた。新兵の度胸付けを兼ねて、派手な銃声が劇的効果として好まれた。
 目を閉じて、自分の最期を思った。
 これまでは生き続けるのが親孝行と思っていた。いつの間にか、家の事情は変わってしまったようだ。
 これがいい・・・坂口は立ち上がり、ドア横のインターホンに向かった。

 2級死刑囚が決断した。刑務官は応えるのが仕事だ。
 大沢は猪上と共に自己銃殺刑用の部屋へ行った。
 死刑囚が座るイスを点検し、銃をセットする。
 イスに厚めの板を置いて、銃に弾丸を入れた。
「これで死刑をするんだ」
「ここは死刑囚専用の刑務所です。死刑執行は日常業務のひとつ、慣れて下さい」
 猪上は20年ぶりに実銃に触れた。訓練で標的を撃ったこともあるが、人に銃口を向けた経験は無い。
「死刑か・・・そうだね、あれも死刑だったね」
「あれも?」
「2度目の子が、出生前診断で奇形と言われたの。3日ほど考えて、堕胎したわ。あれも死刑だよね、あの子に罪は無かったけど」
「法律上、胎児は母親の体の一部とされています。堕胎は手か足の切断と同じです」
 大沢は冷徹に答えた。
 猪上は首を傾げる。母にしてみれば、未だに割り切れないものがある。
「障害児の養育は多くの肉体的、経済的な負担を伴います。加えて、事故に遭う危険性も大きくなる。100年前なら、間引きとして正当化されていた事です」
「現代では、間引きが出生前診断になっただけ・・・」
 うーん、猪上は首を左右に揺らして、あの時の決断を思い出す。でも、すでに過去の事だ。やり直す事はできない。
「100年前、妊娠中絶手術は多くの危険を伴いました。しかたなく、人々は子が生まれてから、育てる価値が有るか否かを判断しました。レントゲン写真で分かるのも、無頭症や無脊椎症など極端な奇形に限られていました。現代では、DNA鑑定や音波診断で多くの奇形が妊娠中にわかります。出生前診断で多くの胎児が処分されている時代です」
「法律の上では、胎児の処分なのね」
「この辺は義姉からの受け売りです、産婦人科の医師なので。現代の法律では、出産後の間引きは殺人になります」
 大沢は手で合図、猪上をイスの左につかせた。自身は右につく。
「あんたも女でしょ。子を産んだことくらい、どうなの?」
「流産なら、1度あります。女子刑務所に入る前、あなたに会うより前です」
「そっちも辛いよね。で、相手は誰? もしかして、嵐勘九郎とか」
「その辺は・・・ご想像におまかせします」
 大沢はイスの右側ひじ掛けにあるボタンの安全装置を外した。猪上も左側の安全装置を外す。
「行きます。3・・・2・・・1・・・」
 大沢の合図で、左右のボタンを同時に押した。
 ババン、狭い部屋に銃声が響いた。イスに置いていた標的の板に、深い穴ができていた。こげた臭いが広がる。
「準備完了」
 大沢は安全装置をもどした。部屋のドアを開け、空気を入れ換える。

 4211号室へ行く。
 大沢はドア横の名札から坂口丈太郎を外してポケットに入れた。ふう、ひとつ呼吸を入れた。
 ドアを開け、中に向かって言った。
「坂口丈太郎、準備はよいか」
「おう」
 坂口は手を上げて応えた。立ち上がり、皆に頭を下げた。
「では、そうゆーことで。皆さん、ごきげんよう」
「行っちゃうの?」
「おれは判決から6ヶ月目なんだ。もう、決めなきゃいけない時期だったのさ」
 江波が問うから、作り笑いで答えた。
 山下が身をのりだした。
「種付けは終わってるのか?」
「まだ分からないよ。うまくいってなかったら、後は頼みます」
 もう一度頭を下げ、ドアに向かった。売れないホストの退場だ。
 江波は坂口の背を見送った。生き続けるために、あと何人の男を見送ることになるのか。これを最期にしたい・・・ふと思った。

 大沢の先導で坂口は廊下を行った。後ろには刑務官が2人、逃げようとしたら即刻で死刑執行の体制。
 無言の行列は1階の奥のドアまで続いた。
 4102の番号がドアにあった。対面は壁のように見えて、実は防火扉。何か起これば、4102番のドアを封鎖するように閉じる。
 坂口は息をし直して、口を一文字に閉じたままドアに正対した。
 内側からドアが開いた。
 中で、猪上と当直医の田宮が待っていた。
 部屋には奥にドアがあった。自己銃殺刑のための部屋に通じるドアだ。
 その横の台車には真新しい木の箱が・・・棺が載せられていた。長さは2メートル弱、巾と深さは50センチほど。つい寸法を見る自分が可笑しい。
 坂口は案内されるまま進んだ。
 巾が広めの防音ドアである。壁もぶ厚く見える。息を静めて、奥の部屋に入った。

 部屋の中央に大きめのイスがあった。ひじ掛け、ヘッドレスト付きだ。
 大沢が手で着席を促す。
 坂口はゆっくり腰をおろした。左右のひじ掛けにある大きなボタンに気付いた。右のひじ掛けには小さなレバーが上に突き出ている。
 腰にベルトをした。両脇に板を入れて胸をはさみ、左右の上腕をベルトで固定した。久しぶりに背筋が伸びて、少し痛みがきた。
 頭を左右から板ではさみ、頭頂とアゴにゴムベルトがかけられた。頭が動かせなくなった。
「あの・・・電気イスみたいですね」
「弾丸が確実に急所へ当たるようにしている。わざと急所を外し、苦しんで死ぬこともできる。そっちの方が良いか?」
「いえ、普通に・・・楽な方で」
 坂口の答えに、大沢は笑みで応えた。
「前を見なさい。鏡の十字線が弾丸の命中点となる」
 坂口は正面を見た。姿見の鏡があった。イスに縛られた自分が映っている。
「このレバーを前に押せば、鏡が上がって命中点も上がる。引けば、十字線は下がる。自分で撃つ場所を選択できる」
「自分でするんだ・・・」
 大沢はレバーを手前に引き、鏡の十字線を下げた。腹の中心、へその辺りで止めた。
「へそは肉が薄く、弾丸が腹の奥にとどく。背骨まで行けば、大動脈と大静脈を切断できる。腹の中で大出血が起こり、心臓は虚血状態となって
ショックを起こす。自力では体を立てていられない衝撃がくる。イスに座ったままだと、10秒かからず失神するだろう」
「10秒・・・」
 大沢はレバーを前に押し、十字線を上げた。みぞおちの上、胸の真ん中で止めた。
「心臓を直に撃つこともできる。命中の衝撃が大動脈を伝わり、脳に達する。痛みより衝撃で失神する場合が多いようだ」
「痛みを感じる間も無いのか・・・」
 大沢はレバーを押し十字線を顔まで上げた。
「眉間から鼻の辺りを撃てば、弾丸が脳幹を破壊する。着弾と同時に失神、絶命する」
「着弾と同時に・・・」
 聞きながら、坂口は説明を反復した。
「狙いを合わせ、ひじ掛けのボタンを押せば、銃が弾丸を発射する。片方だけ押しても、発射されない。必ず左右両方を押すように」
 大沢は右のボタンを押してみせた。もちろん、銃は沈黙している。実は、安全装置をかけたままだった。
「両側を同時に押す・・・と」
 短期間ながら、金属加工の工場で働いた時を思い出した。プレスマシンなど、事故防止のために左右の手で両側に離したボタンを操作する機械があった。死刑執行の機械に、工場と同じような安全装置がある。不思議な感じがした。
「ボタンを押せない時に備えて、タイマーをセットすることもできる。3分、5分、10分・・・1時間、どうする?」
「じゃ、10分で」
「セットしたら、解除できない。良いか?」
 大沢の念押しに、坂口は頷いた。
「10分でタイマーをセットした。音楽でもかけようか?」
「要りません・・・」
 坂口は目を閉じて答えた。
「我々は外で待機している」
 大沢は言って、ひじ掛けの安全装置を外した。そして、部屋を出た。ぎぎぎ・・・ドアのヒンジがきしんで、がちゃり、鍵がかけられた。
 部屋には坂口が一人だけ、静かになった。

 自分の息だけが聞こえる。
 いや、耳をすますと、どこからか風の音がした。ぼーぼぼー、低いうなりだ。たぶん、空調ダクトからの音だろう。
 坂口は目を開いて、前の鏡を見た。
 イスに固定され、身動きできない・・・こっけいな野郎がいた。
 よくよく鏡を見れば、十字線の左右に小さな穴がある。2丁の銃が鏡の裏にあった。1丁の銃では、弾詰まりで発射されない場合もある。2丁ならば、99パーセント以上の確立で1発は発射される。死刑を確実に執行するためだ。
 鏡の中の十字線は、今は顔の真ん中を狙っている。左右のボタンに指で触れ、すぐ外した。顔に穴が開くのはイヤと思った。
 蹴った子の顔が浮かんできた。
 頭を蹴り、腹を蹴った。口から白い泡を出し、黄色いゼリーのような物を吐いた。
 はっ・・・はっ・・・は・・・最期の息づかいが耳によみがえる。
 坂口は口を開けた。
 指でレバーを押し、十字線を下げた。開いた口に狙いをつけた。
 はあ・・・はあ・・・は・・・自分の息づかいが肩を揺らした。大量の酸素が体に取り込まれて、頭が熱くなってきた。ぼぼー・・・ぼー・・・空調の音か、単なる耳鳴りか。
 ごめんよ・・・母の言葉を思い出した。
 あの子には何も言ってない・・・ひたすら目を背け、謝罪を考えるのさえ拒否してきた事に気付いた。

 ばばん、銃声が壁越しに聞こえた。まだ3分と経ってない。
 猪上はイスから立ち上がりかけたが、医師の田宮が手で制した。
 脳幹が破壊されても、体の中に酸素があれば、筋肉は痙攣などの不随意運動をする。そんな状況では、つい救命処置をしたくなる。
 大沢は腕時計を見た。
 ひざに置いた週刊誌を手にして、またページを開いた。部外者にとっては、名も知らない芸能人のスキャンダル記事があった。多くの場合、記者と芸人のなれ合いで記事ができるらしい。悪名は無名に勝る、とは業界の常識。我が身には関係無いから楽しめる醜聞だ。
 田宮が座ったまま両手を上げ、大きく伸びをした。首を回せば、こきこき、音がした。かつてはタップ音ともラップ音とも呼ばれ、詐欺を働くニセ霊媒師の得意技だった。霊が来た、と言っては手や足で音を出したとか。
「さて・・・もう、良い頃合いでしょう」
 田宮は立ち上がった。大沢と猪上も続く。
 ドアを開けると、たちこめていた火薬臭が鼻の奥にきた。が、別の臭いもある。肉が焼ける臭いだ。
 イスに近付いて見れば、坂口は目と口を閉じていた。肌は死体らしい白蝋色、耳から少量の血が出ていた。鼻からも血がもれている。
 大沢はイスの背もたれのロックを外し、イスを水平に寝かせた。
 田宮が坂口に手首をとる、次ぎに鼻へ手をやった。
「脈拍、無し。呼吸、無し」
 ペンライトで坂口を眼球をのぞいた。
「瞳孔、拡張・・・死亡と認めます」
 田宮の診断を受け、大沢は頷いた。
 脇に入れていた板を外し、頭を固定していたベルトと板を外した。口が開いて、血があふれるように出た。
「なるほど、口から頸椎を撃ち抜いたか」
 口の奥に弾丸が当たり、衝撃波が頭部に広がった。鼓膜が破れ、鼻の粘膜も破れて、出血したようだ。
 大沢は綿を口に詰める。納棺への準備だ。
 猪上が棺の台車を押して来た。棺をイスの横に合わせて止めた。
「首が折れてます。頭を支えて」
 田宮の指示に従い、3人がかりでイスから棺に入れた。

 翌日の夕刻、刑務所の通用門前にタクシーが着いた。
 坂口朱美は白い骨箱を抱いて出て来た。見送るのは2人の刑務官、大沢と猪上だ。
 吐く息が白い、気温が急速に下がる時間帯。
 坂口は振り返り、刑務官に礼をした。大沢と猪上も礼を返す。
「とうとう・・・言えませんでした。この子に、ここで働いている事を」
 坂口は骨箱をなで、独り言のようにもらした。面会では、遠くから来たようにふるまっていた。
「お察しもうします」
 猪上は母として、坂口に言葉をかけた。
 坂口は笑顔も無く礼をして、タクシーに乗る。この日、刑務所の職員が1人減った。
 猪上は走り去るタクシーを見続けた。大沢が肩をたたき、中へ促した。


9.刑務官の休日


 刑務官だって人間、ちゃんと休日がある。
 日曜日、大沢マリアはシフトの休日がとれた。
 愛車マツダの赤いAZ−1で国道を南に走る。刑務官になる前に手に入れ、ずっと使っている。
 上にスイングアップするドアは混雑したスーパーでは不便だし、立体駐車場にはNGで入れない。でも、そこが気に入っている。旭川では問題にならず、不便さを超えた愛嬌がある。
 ぎーぎー、どこからかメカの擦れる音が続く。ぴゅーぴゅー、窓かドアの辺りで風切り音もしている。さすがに年寄りの車だが、スピードを求めなければ良いだけだ。
 大雪山を横目で見たら、頂上あたりが真っ白になっていた。この辺りも白くなる季節が近い。
 車を停め、サイドブレーキを引いた。
 東光は環状線の南側、旭川の北の端の刑務所から、市街地の南端に近い所まで来た。
 マリアは低い車の窓から建物を見上げた。
 大沢病院、小児科・産婦人科・・・看板が陽に焼けて、字が薄くなっている。
 スイングドアをはね上げる。サイドシルに腰かけてから、よっこらしょ、かけ声で道路に立った。
 AZ−1はサイドシルがシートの座面より高い。乗り降りには大股を広げる。それでも、若い頃は生足にミニスカートが粋と思っていた。今はスラックスにスニーカーがドライブウエアになった。
 病院玄関前の階段に腰をおろした。
 澄んだ空を見上げ、ため息。陽差しは温かいが、吐く息は白い。
 市街地の外れ、車の音は遠い。となりのブロックに保育園、その先には幼稚園がある。平日なら、病院の顧客たちが可愛い声を上げている。近頃は子供の声を騒音ととらえる者もいて、幼稚園や保育園の新設が難しいらしい。時代は変わった。
 小さなつむじ風が枯れ葉を巻いて道路を横切った。
 枯れ葉が1枚、足にまとわりついてきた。払い落とそうとして、手を止めた。
「かわいいクルマが来たと思ったら、やっぱり」
 義姉、大沢麻里香が玄関の戸を開けて姿を見せた。
「捨て猫でもあるまいに、早く入りなさい」
 にゃあー、マリアは猫の鳴き真似で応えた。
 この次は段ボール箱を持って来て、その中に入っていようか・・・イタズラが頭をよぎった。

 病院の裏に大沢の家があった。
 マリアは仏間に上がり、養父と養母の遺影に手を合わせた。

 大沢病院が新築間も無い頃、路上で陣痛の始まった妊婦が来た。夜までかかって、出産は無事に終わった。
 が、翌朝、赤子を残して母親は失踪した。
 3ヶ月待っても、母親は現れない。大沢夫妻は赤子を養女とした。大沢マリアの出生である。
 10代後半、マリアは荒れた。高校卒業と同時に、家出同然に東京へ。ヤクザと関わり、嵐勘九郎の下で働いた。
 実刑判決を受け、刑務所に入った。出所の日、義姉が迎えに来た。
「ばかね・・・めっ」
 ひたいを人差し指で突かれた。ぶん殴られるよりも胸にこたえた。
 そして、養父母の死を知らされた。病院は義姉夫婦が継いでいた。
 半年ほど大沢病院を手伝い、旭川刑務所の職員となった。
 刑法が改正され、2級死刑ができて間も無い頃である。旭川刑務所は2級死刑囚専門の刑務所となる。古株の刑務官が大量に辞職する事態となった。死刑執行は普通の刑務官に重荷だ。
 マリアは刑務官になるべく警察に応募した。訓練を受け、採用された。連続的な死刑執行に動じない刑務官が求められ、新しい採用基準になっていた。
 こうして、時を重ね、大沢マリアは旭川刑務所の第4棟で刑務官主任を務めるまでになった。

 マリアは自室へ行った。
 段ボール箱が積み重ねられた6畳間、春と秋とに着物を取り替える。段ボール箱に夏物をしまい、別の段ボール箱から冬物を出した。
 一段落ついたら、もう昼になっていた。
 休日なので、一家そろっての昼食になった。
 マリアはダイニングテーブルの端に腰をおろした。客のあつかい、仕度はおまかせだ。
「入院患者は?」
「今日は無し。少子化のせいか、お産待ちの人が少なくなったわ」
 義姉、麻里香は肩をすくめて答えた。
 義兄の大沢義昭が席に着いた。主に小児科を担当する医師として病院を支えている。実は、マリアと同じ養子だ。
 夫を亡くした妊婦が大沢病院で出産した。が、産後の経過が悪く、母親は死亡。産まれた子を親戚は引き取らず、マリアの養父母が育てた。成長して医師となり、義姉を妻とした。一緒に育った仲、自然な関係だった。
 小児科は、入院が必要な重病は大きな病院を紹介する。なので、ここでは診察と往診だけだ。
 日曜だから、子供たちも席に着く。
 長女の結愛は台所で母親の代わり、大きなお腹は臨月。いつもは看護婦として病院を支えている。病院を訪れる妊婦にはお手本だ。
 夫は消防署で救急車を担当している。結愛とは患者の搬送中に知り合ったらしい。
 次女の結香は留守、高校を卒業して医大に進んだ。ゆくゆくは、大沢病院の3代目になるだろう。
 三女の有沙は看護学校の生徒。夏休みは自宅の病院で実習していた。まったくの医療一家である。
 長男の名は裕太、中学で野球部。実は養子である。試合でケガをして以来、理学療法に興味が出たらしい。血のつながりは無くとも、この家では家族だ。
「おまえの童貞は、わたしの予約済みだぞ。初めての相手は経験豊富な女に限る。そこらの若いのにちょっかい出すなよ」
「まだ・・・いいよ」
 マリアは胸を裕太の左腕に押し付ける。
「織田信長の初陣は12歳だ。もう遅いくらいだ」
 裕太は逃げようとするが、マリアは腕をつかんで放さない。
 と、四女の結菜が割って入った。小学生がマリアを上目づかいでにらむ。
「だめっ、にいちゃん困ってる」
「そうだった、結菜がいた。その時が来たら、3人で仲良くやろうな」
 マリアは一緒に結菜も抱いた。
 実は、結菜も養子。産婦人科病院には子供を捨て去る親が後を絶たない、養子縁組が陰の仕事になっている。養父母の影響か、麻里香と義昭の夫婦は自分の養子を増やしていた。

「お姉さん・・・」
 有沙が小声で結愛に話しかけた。息が苦しそうにする姉に気付いた。
 母の麻里香が手を挙げ、皆に静粛を促した。
「結愛ちゃん、仕度はそれくらいにして。まず、座りなさい」
 父の義昭が立ち上がった。
「ベッドを用意しよう。部屋に暖房も入れとかにゃ」
 義昭はゆっくり歩いてダイニングを出て行った。休日なので、産室の暖房を切っていた。
 マリアは結菜を抱きしめる。
 ほとんどの妊婦は陣痛が強くなってから病院に来る。陣痛の始まりから見たのは初めてだった。
 結愛はテーブルの席に着き、肩で深呼吸する。浅く腰かけ、腹の角度は広くとっている。
「弘樹くんは?」
「今日は昼番、出動が無ければ6時で上がりよ」
「じゃあ、メールだけ打っておきましょ」
 麻里香は娘に夫の所在を聞いた。努めてゆっくり話しかける。産婦人科の医師として、妊婦に緊張をさせまいとする。
「これまでは、あたしが妊婦さんたちを和ませていたけど」
「産婦人科の看護婦として、自分で産んでみて、やっと一人前っしょ」
「だよね。まだ、半人前だったんだね」
 義昭がもどった。
「部屋の方、いいぞ」
 その声に応え、有沙は姉の右に立った。母は娘の左に立つ。二人して移動を促した。
「さて・・・と、行きますか」
 結愛は自力で立ち上がった。
 裕太は義姉の様子を呆然と見ている。
 マリアは結菜を抱いたまま、笑みをうかべた。
「裕太と結菜も、もうすぐ伯父ちゃんと叔母ちゃんだぞ」

 夕刻、次女の結香が帰宅した。
 出産に立ち会うのは医師の勉強にもなる。まして、身内の出産だ。
 マリアは家を辞し、刑務所の官舎へ帰ることにした。
 日が暮れて、携帯にメールが着た。無事に男子出産とある。
 添えられた写真には、結菜が産まれたばかりの赤子と笑顔で写っていた。自分より小さな命を前にして、女の子は嬉しそうだ。
 雄馬・・・と赤子は名付けられた。
 あ、か、さ、た、な・・・と来て、はを飛ばし・・・雄馬だ。ノリだけで名前を考える家族である。次は「ゆうや」で「ゆうら」だろう。

 数日後、マリアは夜勤明けだった。
 食堂で弁当を二つ買った。朝飯と、寝起きの夕飯用だ。
 寮の部屋に入り、足の指でストーブのスイッチを押し、万年床の横のちゃぶ台に弁当を置いた。パワーは弱くても、赤く燃えるストーブは心を温かくしてくれる。
 ちゃぶ台の上に、昨日から携帯電話が放りっぱなしだった。チカチカ、メールの着信を報せていた。
 ・・・裕太が家出したかも・・・昨日から学校にいない、クラブにもいない、連絡先がわからない・・・何かわかったら、知らせて・・・
 義姉からのメールは、裕太の失踪を知らせてきた。
 マリアは天井を見上げ、自分の若き頃を思い出す。
 家出してしまいたい・・・いつも思っていた。でも、思うだけで実行できなかった。高校を卒業して、ついに踏ん切りがついて、家を飛出してみれば、若い女が陥る転落の始まりだった。
 ふふっ、ちょっと笑いをこぼした。
 裕太は男、女の家出とは違う。
 マリアは台所に立ち、ヤカンで湯を沸かす。
 裕太を探すにしても、飯を食って、一眠りしてからだ。何と言っても、夜勤明けである。
 あれこれ考えてきたら、頭がかゆくなってきた。
 沸いた湯をポットに入れて、風呂の蛇口を開けた。飯と寝る前に、シャワーを加えた。

 蛇口をひねり、シャワーを止めた。
 頭をぶんぶん振り、髪から水しぶきを払う。手で髪を軽くしぼり、バスタオルを頭に巻いた。
 鏡をのぞけば、大沢マリアは確かに女である。水玉が残る肌が色っぽい、ついポーズをつけて見直した。
 ピンポーン、と呼び鈴が鳴った。
 バスローブをひっかけ、腰の帯を1回結んで玄関へ行った。
「こん・・・にちは」
 ドアの外に若い男の子が・・・大沢裕太がいた。
「おお、来たのか。一人で・・・そっか、もう中学生だったもんな」
 大沢病院から旭川刑務所まで、直線距離で10キロ以上ある。道のりなら5割増しだ。小学生には大冒険の距離だが、中学生なら小旅行だ。
 マリアは笑みで甥を招き入れた。いつまでもドアを開けていては、ローブの下から冷気が股間に吹き込む。
 裕太は目を伏せて部屋に入る。マリアのバスローブ姿から目をそらすのではなく、顔を見られない感じ。何か思うところがあるようだ。
「これから飯を食べるところだ。裕太も食うか?」
「うん・・・」
 二人して、ちゃぶ台をはさんで座った。いよいよ甥は顔を上げない。バスローブのすそが割れて、マリアの股間がむき出しなだけではない。
 弁当は冷めていたから、電子レンジで温め直した。ティーパックの茶を添えて食事となった。
「失恋したような顔して、何を悩んでる」
「そんなんじゃないよ」
 裕太はガツガツと食べた。マリアが半分ほど手をつけた頃、すでに弁当のトレーは空になっていた。
 マリアは箸を置き、半分残る弁当のパックを閉じた。茶を一息に流し込むと、伸びをして立ち上がる。
 バスローブを脱ぐや、すっ裸で万年床にもぐり込んだ。
「さあ、寝るぞ。おいで」
 マリアは布団の中から手招きした。叔母の全裸を見てしまった裕太はポカンと口が開いたままだ。
「若い男が女の部屋を訪ねて、他に何をするのだ。さあ、服をぬいで。早く、おいでおいでっ」

 裕太は意を決し、裸になって布団に入った。
 巾の狭い独り寝用の布団、マリアと裕太の肌は必然的に触れ合った。
「裕太と一緒に寝るのは10年ぶりかな。こうして肌と肌を合わせれば、ストーブが無くても温かい」
 マリアは裕太を抱き寄せた。身長は160センチと少し、まだまだマリアの方が高い。裕太の背丈がマリアを超えるには、あと2年はかかるだろう。
 ぶぶぶぶっ、枕元の携帯電話が鳴った。
 ・・・裕太が見つからない・・・
 また義姉からのメールだった。
 ここにいる、出迎え無用・・・と返信した。
 携帯を枕元に置き、マリアは裕太と向き合った。
 二人の胸が触れ合い、鼻も触れた。互いの息を鼻と口に感じる。
「おまえも病院の子なら、鼻や口の臭いで病気の予兆を感じ取るくらいになりたいな」
「鼻や口が臭う・・・」
「鼻息が臭いのは蓄膿症が主だ。が、蓄膿症が目や耳におよぶ場合もある」
 マリアは鼻を寄せ、太郎の鼻の穴に息をかけた。
「口が臭うのは虫歯や歯槽膿漏が多い。喉や肺、胃の病気がわかる時もある。わたしの息は臭うか?」
「良い匂いだと思うけど」
「それは良かった」
 マリアは唇を裕太の唇に重ねた。手を乳房へと誘う。
「こらっ、力を入れてつかむな。もっとやさしく、そっと触れるんだ」
 マリアが苦言を呈して、裕太は鷲掴みをやめた。
「指先で・・・乳輪を囲むように輪を描いて・・・そう、皮膚の下に注意を払って・・・乳がんの触診の第一段階だ」
「乳がん?」
「産婦人科病院の息子なら、おっぱいへの知見は一般人より深くて当然だろう」
 裕太は乳首から乳輪へ指先をすべらせる。
 指をそろえ、乳房全体をさするようにした。
「蜘蛛の巣のような・・・もこもこしたのがあるみたい」
「とても感覚が鋭いな。それは乳腺、授乳期にはカチカチに張り詰めて、赤ん坊のために母乳を作る。そうでない普通の時期は柔らかくあるべきで、固いところがあれば病気だ」
「乳腺炎になると、良いおっぱいが出なくなるんだよね」
「さすがだ。そんな言葉を知っていたか」
「病院に図解があった」
 産婦人科病院は妊婦の教育書が多く置いてある。それらを裕太は読んでいたようだ。
「おまえも年頃だ。緊急事態では、人工呼吸や心臓マッサージを求められるかもしれない。病院の息子であるし。おっぱいにびびって、心臓マッサージができないでは、大沢病院の看板に傷が付く」
 裕太の指先に力が入った。また、乳房を鷲掴みにした。

 マリアは裕太を強く抱き寄せた。
 乳房を顔に押し付ければ、裕太は抵抗しない。乳首を口に含んで、赤子のように舌を使った。
「何があった、家出などと?」
「別に・・・何も無いよ。ただ・・・」
「ただ?」
「みんなが・・・ゆーま、ゆうま・・・て」
「そうか、雄馬か」
 マリアは笑って、裕太の背をなでた。
「裕太は・・・変なとこだけ大沢マリアに似たようだ。わたしも義姉さんには嫉妬したものだ」
「しっと?」
「英語のshitではなく、日本語の嫉妬な。裕太は雄馬に嫉妬したんだ。子供の発達過程で有り得ることだ」
 大沢裕太は大沢家の長男、唯一人の男子だった。そこへ長女が男の子を産んだ。裕太の特別な地位を脅かす存在が現れた。まして、こちらは養子で、向こうは実子だ。
「義姉さんは・・・大沢麻里香は完璧だった。頭が良くて、成績は常にトップクラス。料理が上手で、家事全般を難無くこなす。マリアが勝っているのは背丈と腕力くらい。中学から高校にかけて、とてもまぶしかった。そんなで・・・わたしは高校卒業と同時に家出して、ヤクザと関わって、刑務所に入った。出所の日、義姉さんが迎えに来てくれて・・・度量の大きさに圧倒された」
 マリアは裕太を抱いて思い出を語る。乳首に当たる唇が心地良い。
 もう少し違う人生を歩んでいたら、裕太くらいの子がいて当然の年齢だ。
「わたしのような回り道を・・・裕太には歩いて欲しくない」
 裕太はじっと抱かれていた。
 初めの興奮はおさまり、けだるい安堵感が全身を包む。母の結愛に抱かれる雄馬の顔を思い出した。
「なあに、ほんの1年や2年の辛抱さ。雄馬は男だ。やがて、向こうが男である裕太を見つけて、勝手に後を追いかけるようになる。その時、どこまで裕太が兄らしく振る舞えるか、だな」
「兄らしく・・・」
「女には、これ以上は言えない。あとは男同士で考えろ」
「雄馬は赤ん坊だよ」
 マリアは裕太の背をたたいた、赤ん坊の背をたたくように。
「女と違って、男と男の間に言葉は・・・そんなに必要無いはずだ」


 夕刻、赤いAZ−1は街灯がともり始めた国道を行った。
 午後4時が過ぎると、もう日の入りの時刻。冬の北海道は夕方が早く来る。
 マリアは運転しながら、手でハンドルを叩いてリズムをとった。たたた、たたたん、たたたった・・・脳内再生中の曲は『ウオーク・ドント・ラン』だ。インストルメンタルバンドとして有名なベンチャーズの曲、歌は無い。
 裕太は助手席で自分の右手を見つめている。
 今日、叔母の乳房に直に触れた。男には無い女の体を体験した。赤ん坊の頃にも触れたはずだが、そっちは全く記憶が無い。
「救急救命士とか、やってみたい・・・かも」
「ほほう、その気になってきたか。結愛の旦那の仕事だな。事故や災害の現場で救命処置をするのは、正しく男の仕事だ」
 マリアはブレーキを踏んだ。
 環状線の近くまで来て、道が混雑してきた。
「救命対象が男とは限らない、妊婦の場合もありうるぞ。この次は、子宮頸がんや直腸の内痔への触診を練習してみよう」
「直腸の・・・て、指を入れて?」
「当然だ。裕太の指なら、5本や6本が入ってきても、わたしは耐えられる。練習したくなったら、いつでも来い」
「5本6本とか、まずいよ。裂けちゃうよ」
 左折して、環状線を南へ走った。
 裕太は自分の手を見た。人差し指と中指を口に合わせてみた。
 他人の体の中に指を何本も挿入する・・・ネットのエロ画像では見ていた。でも、自分の指でとなると、ちょっと想像ができなかった。
「わたしの体は心配するな。女の股からは拳ほどの物が出て来る。出て来るなら入れる事もできる、少々の慣れは必要だが」
「こぶし・・・」
 裕太は仏間の押し入れにある模型を思い出した。
 大沢病院は産婦人科がメイン、古い妊婦の模型がある。かつては診察室に展示してあったが、祖父母の死後は押し入れの中だ。
 妊婦の下半身模型は3つ。縦断面模型は臨月で出産直前の状況、大きくなったお腹と子宮、逆さに入っている胎児がわかる。お腹のフタを外して、子宮内の胎児を見る模型もある。一番衝撃的なのは出産途中の模型、股間から赤子の頭が出ている。赤子の頭は人の拳ほどもある。
「現場での救命をなめるなよ。相手が失禁してるかもしれないし、脱糞してる場合もある。腹が裂けて、内臓がはみ出てるかも。手が汚れるのを恐れて、救命処置が手遅れになってはならない。エボラとか、感染症の疑いは別問題だが」
「手が汚れる・・・」
「裕太が望むなら、いつでも練習台になるぞ。おしっこでも、うんこでも、裕太のためなら出せる!」
「それは、いいってば」
 AZ−1はトラックの車列に混じり、陸橋を越えた。もうすぐ東光だ。

 大沢病院前にAZ−1を止めた。すっかり暮れて、街灯が闇の中でまぶしい。
「ありがとう」
 裕太が礼を言ってドアをはね上げた。
「忘れるな。おまえの童貞は大沢マリアが予約済みだ。その気になったら、いつでも来い」
「うん、この次ぎにね」
 裕太は笑顔でドアを引き下げ、閉めた。
 窓越しに見ると、家から人が出て来た。義姉が息子を抱きしめた。
 マリアは手を振り、ギアを入れた。
 バックミラーを見ると、狭い視野の中で二人が手を振っていた。
 角を曲がり、信号で右折した。また、AZ−1は環状線の光の中に入った。
 最近のヘッドライトは光度がきつい。背の低いAZ−1では直に目に刺さる。夜ながら、薄目のサングラスをして、やっと運転に集中できた。
 陸橋を越えて、永山に入った。
 マリアは手に残る感触で、ちょっと胸が高鳴った。
 布団の中で裕太と肌を触れ合った。その時、彼のへそ下へ手をのばした。
 大沢家が裕太を養子に迎えたのはオムツをしていた頃。マリアは何度もオムツを替えてやった。その度に、へそ下の小さな物を指で遊んだ。遊んでいる時、おしっこを浴びた事も何度か。
 今日触れたそれは・・・片手に余る大物になっていた。
 大きくなった・・・立派に育ったものだ・・・感慨もひとしおだ。育ち盛りの年頃、両手一杯の大きさになるのは数年以内か。
 この次ぎに・・・裕太の言葉を思い出し、マリアは笑みをこぼした。


10. 死刑囚は訴える


 旭川刑務所・囚人の心得の5、死刑判決が確定した者でも、事件の新たな証言ができる。証言が裁判の証拠に採用された場合、死刑執行が延期される事もある。裁判は死刑執行より優先される。

 江波京子に面会人があった。両親が雇った弁護士だ。
「昨日、江波京子さん対する損害賠償請求で、訴人とご両親の間で合意がまとまりました。それを報告させていただきます」
 能面のように表情の無い顔が、淡々と決定事項を言う。
 江波は幼い我が子をアパートに放置して餓死させた。1人だけでなく、2人も部屋で死なせていた。
 死亡事故や事件はアパートの資産価値を下げる。アパートの持ち主は損害賠償の裁判を起した。請求金額は1億円、アパートの建て替えを含めた金額だった。
 判決は2000万円の支払いを命じた。それでも、払いきれるものではない。
 江波京子の両親とアパートの持ち主は裁判官立ち合いで協議し、1000万円の支払いで合意した。残る1000万は請求権を保留して、和解する事とした。
「以上が、和解合意の内容です。手元の文書でご確認ください」
 鋼線入りのガラス越し、弁護士は書類を入れた封筒を見るよう促す。
 しかし、江波は封筒に手を置いたまま、開こうともしない。両親が1000万を払った、数字を確認するのが恐い。
「疑問点がありましたら、その都度、わたしの方へ連絡を願います。今日は、これにて失礼いたします」
 弁護士は立ち上がり、礼をして部屋を後にした。

 江波は面会室を出た。廊下には刑務官が2人、大沢と猪上が待っていた。
 目を合わせ、江波は肩でため息をつく。
「面会後には笑顔が普通なのに」
 大沢がもらすと、江波は胸の封筒を手渡した。
 読んで良いか、と目で問う。首を縦に振り、肯きが返ってきた。
「死刑判決が確定してるのに・・・時間切れで、もうすぐ死ななきゃいけないのに・・・それでも、お金の話が追っかけてくるう!」
 江波は足が動かない。部屋に帰る気力すら、賠償金の重さでつぶれかけていた。
「賠償確定が2000万で、1000万は支払い猶予か。それくらいなら、やりようもある」
 大沢は文書を読み解き、2度ほど頷いた。
「死刑執行が迫ってるのに、やりようも何も無いでしょ」
「夕張へ行けば良い。働く気力があれば、なんとかなる。働いている間は死刑執行が停止される。夕張で7年以上働き、慰謝料や賠償金の8割以上を納めれば、2級死刑が取り消される特典がある。賠償金額2000万の8割なら、1600万だ。1000万は支払われていて、残りが600万。働いて返せない金額ではないはず」
「死刑が・・・取り消される?」
「働く気力があれば、だ。7年以上働く必要がある。犯罪者は気力が持続しない者も多い」
 江波は胸をおさえた。
 大沢は文書を封筒にもどし、江波に返した。
「働くにしても、女のあたしに石炭掘りなんて」
「夕張の仕事は多い。坑道に入って石炭掘りしてるのは、全体の2割ほどだ。掘り出した石炭を洗って、分別して、出荷するのも重労働。ここの囚人の3倍は食う者ばかりだから、食堂や厨房も大きい。作業着の洗濯、用具の手入れも大仕事だ。休日にはコンビニに行ったり、居酒屋やビデオレンタルに行ったりもする。そんな店を経営してるのも囚人だ」
「刑務所の中に居酒屋?」
「石炭の生産が最優先とされてる所だから」
「居酒屋の店員とかなら、少しはできるかも・・・」
 江波の反応が出て来た。
「その年なら、ここへ来る前に夕張の事は聞いたはずだ。裁判で気力を使い果たし、判決確定後の事は頭に残らなかったようだな」
「そ・・・だね。なんか、聞いたような気はする」
「後で、部屋にパンフレットを届けよう。夕張行きは、志願が原則だ」
 江波は顔を伏せたまま頷いた。

 江波は4211号室のベッドでうなった。
 夕張刑務所のパンフレットを開いて見る。が、文書を読むのは苦手だ。
 賃金は北海道が定める最低時給で835円。住居費、光熱費、食費など、給与から天引きされる金額は1ヶ月に3万円ほど。慰謝料や賠償に当てる金額は受刑者が設定して、残る金額が受刑者の個人口座に振り込まれる。手に残る金の使い途は自由・・・・等々。
 労働定年は55歳、それまでに賠償を終える可能性のある者だけが入所できる。
『8割と言わず、賠償の完済まで頑張るぜ!』
 笑顔で語る男、2級死刑囚の写真が添えられていた。筋骨は隆々として、人の首など簡単にねじ切れそうな体躯だ。
 2級死刑の判決を受ける者は、たいがいが1000万単位の慰謝料などの賠償を背負っている。殺人事件では3000万以上となるのが多い。40代以上の年齢で夕張に入所しては、働いても55歳までに完済できない場合がでてくる。
 そのため、夕張刑務所に行くのは20代の若い者たちが基本となる。30年間働いて、3000万円以上の賠償をした上で2級死刑は取り消され、失業保険と年金を手に出所、社会に復帰するのだ。

 江波は首を傾げて考える。
 家を出て、働いた。いつもカツカツの生活、預金残高が10万を超えた月など記憶に無いほど。妊娠して働けなくなり、大きな腹を抱えてアパートで寝ていた。助けを求めていたが、声に出せなかった。小さな声は壁に阻まれて、隣室にも届かなかい。そして、産まれた子を見捨てた。
 600万円を稼ぐ・・・ちょっと想像がつかない金額だ。
 パンフレットから目を離し、部屋を見渡した。
 刑務所は共同生活、並んだベッドの男たちが見ている。父にも等しい年頃の男たち、投げかける目はやさしい。
「江波ちゃん、夕張へ行くんか?」
「生きると決めたんだ、行きな。あっちで働いていれば、死刑執行は無いはずだ」
「若い連中が多い、子種の確保に不自由は無いだろう」
 背を押す言葉が男たちから来た。
「そ・・・だね。まず、生きるんだった。生きるためなら、何でもするはずだった」
 パンフレットを閉じて深呼吸した。背筋を伸ばし、肩を回せば、ぽきぽきと音がした。
 と、山下が寄って来た。
「お別れらしいね。冥途の土産にお願いがあるんだが」
「何よ」
「その・・・おっぱいを触らせてくれ」
 江波は目を丸くした。どんな御大層な願いかと思えば、なんと下世話な。
「ま、減るもんじゃなし。いいよ、触りなよ」
 江波はベッドに横座りして、胸を突き出すようにした。上着の前は閉じたまま、男にまかせる。
 山下はひざをつき、顔を胸の高さに合わせた。右手をのばし、そっと服の上から左の乳房にかぶせた。さらに半歩身を寄せ、ほおを右の乳房に重ねる。
「あは、大きな赤ちゃんだ」
 江波は笑い、目を他の男たちに向けた。次は誰か、様子をうかがう。
 山下はゆっくり息をつき、手を離して立ち上がった。
「ありがとう、良い思い出になった」
「布越しでよかったの。中に手を入れるとか、おっぱい吸うとか?」
「そこまでやったら、かえって未練が残ってしまうよ」
 山下は柔らかな笑みで言った。
 かちゃり、鍵の音がして、ドアが開いた。刑務官の大沢が直立不動で姿を現した。
「山下泰義、準備ができた」
「はい、こちらもできてます」
 山下はドアへ向かい、足を止めて振り返った。部屋に残る者たちへ小さく頭を下げた。
 高蔵と須賀原は小さく手を振って返した。富岡は布団をかぶってしまった。
 江波は3番のベッドを見た。布団はたたまれ、私物の段ボール箱が置いてある。このための準備だったのだ。
 かちゃり、鍵の音がして、ドアが閉じられた。
 また、部屋から1人がいなくなった。

 大沢マリアは刑務官事務室にもどった。
 猪上に死亡診断書を渡し、死刑執行後の段取りを教える。刑務主任は書類作成で半日がつぶれてしまう。
「明日、2級死刑囚が到着します。全部で19人。内、夕張から8人です」
 大塚がパソコンのメールを開いて報告した。
「夕張から8人もまとまってとは、何があったんだ?」
「8人は同じ坑内作業の班だったようです。皆で作業をサボタージュして、雇用契約を解除されました。雇用契約書にあるのに、意図的な作業放棄は雇用解除されると」
「死刑囚なのに、人権とか権利とかを主張した訳か」
 大塚は夕張刑務所に長くいただけに、その実体を体で知っていた。表向きは穏やかな21世紀の炭鉱だが、何か起これば、20世紀以前の奴隷制雇用が顔を出す。死刑囚は人権が停止された身分、法的には奴隷と同然であった。
 夕張刑務所にも権利を主張できる囚人はいる、妊婦だ。少数ながら、女の2級死刑囚も働いている。彼女らが妊娠した場合、子に罪は無いのが法的原則だ。妊娠が確認された日から、雇用契約は一時停止となり、手厚い看護がほどこされる。もっとも、法が保護しているのは腹の中の子であって、母親の方は二次的な保護に過ぎない。
「明日、19人か。今回は多いな・・・」
「この8人は、別々の部屋に分けた方が良いでしょう」
「たぶん、な」
 大塚には19人の部屋の割り振りをまかせた。年齢構成は特に考慮の対象、特定の年齢が偏らないよう配慮する。
 大沢はパソコンで新しい囚人のファイルをながめた。女が3人いると気付いた。
 女たちのファイルをのぞいた。
 1人は44歳、虐待から逃げようと放火殺人。夫と義父母に眠り薬を飲ませ、自宅に放火した。焼死体から薬物反応が出て発覚した。
 もう1人は62歳、小さな宗教団体の幹部。教祖の命令で誘拐をし、むりやり信者にして監禁、折檻の果てに殺した。団体から逃げた元信者の訴えで事件が発覚した。
 最後の1人は37歳、3度の結婚で、2人の夫を殺した。合計で億を超える財産と保険金を手にしていた。3人目の夫が入院中に点滴液を細工しようとして発覚した。
 胸をおさえて、ファイルを閉じた。
 大沢は窓の外を見た。日が落ちて、青い雪明りの中、暗い空から雪が降ってきていた。

 早朝、刑務官が総出で除雪となった。
 夜勤者には終わりがけ。大沢マリアと猪上紀久子を含め、昼勤の者は早出して雪と格闘する。北海道の冬の日常。
 午前7時を過ぎると日光で雪の表面が融ける。と、重くなる。重い雪は腰にこたえるので、軽いうちに終わらせるのだ。
 他の刑務所なら囚人の仕事だろうが、旭川刑務所では刑務官の仕事だ。
 スノーダンプなどを玄関横に並べて、朝の除雪が終わった。
 コートとズボンの雪は手で払えば、ささっと落ちた。冬も本番の雪だ。

 時計が午前9時を過ぎた。
 大沢マリアは刑務主任として4棟をぐるりと巡回して、事務室にもどって来た。ひと息入れようと、コーヒーをカップに取り、席に着いた。
 ポーン、インターホンが鳴った。大塚が取って頷く。
「正門からです。護送車が到着しました、2台です」
 大沢は席から立ち上がり、イスの背もたれにかけてあったコートを着た。
 
 ごごご・・・寒さで縮んだ蝶番が悲鳴にも似た音を出した。
 旭川刑務所の正門が開いた。風が粉雪を舞上げて吹き込んだ。
 窓を鉄格子でおおった護送バスが入って来た。
 1台目は札幌拘置所から、2台目は夕張刑務所から。随行のパトカーが2台も入って来た。
 護送で一番危ない、トラブルが発生するのは護送車に乗る時と降りる時だ。今日は護送する人数が多いので、その場面で応援が入った。
 玄関前に10人の刑務官が整列した。パトカーから降りた警察官10人も整列した。
 札幌からの護送車のドアが開いた。刑務官が降りて、出迎えの列に敬礼する。回れ右で車内を向き、号令をかけた。
「降車!」
 手錠と腰ヒモでつながれた2級死刑囚が降りた。バスの前に整列する。
「囚人を引き渡します」
「囚人を引き受けました」
 大沢マリアは刑務主任として敬礼を交わし、囚人を受け取った。
 大塚の案内で、囚人の列は第1棟の玄関へ行く。
「あら・・・あの女、主任に似てるわ」
 猪上が小声で言った。
 囚人の列の後尾は3人の女たち。その最後尾、背の高い女がいた。ほおはこけ、白髪が目立つ。
 大沢はファイルを思い出し、62歳の松本千津子と確認した。背丈は同じくらいだが、それ以上の事は思い付かない。
「降車!」
 新しい号令で、夕張の護送車から囚人が降りて列を作った。どれも目がギラギラしていて、自分が死刑囚であるのを忘れかけた顔だ。

 応援の警察官はパトカーで帰って行った。札幌の護送車も帰った。
 夕張の護送車の刑務官が、トイレ休憩を終えて玄関に出て来た。
 大沢マリアは刑務主任として敬礼で出迎えた。
「囚人を引き渡します」
「囚人を引き受けました」
 敬礼を交わし、背中側にいた江波京子へ前に出るよう促す。
 江波は私物の段ボール箱を抱えて、夕張の刑務官の側へ歩いた。
「トイレは車両の後部にある。高速のサービスエリアに寄っても、囚人は降りられない。中で用を足しなさい」
 簡単に注意をもらい、江波はバスに乗った。席に座り、鉄格子の窓から大沢に手を振る。笑顔ではない。新しい所へ行くのだ、緊張していて当然だ。
 大沢も応えて、バスの窓に向かって敬礼をした。
「もどって来るなよ」
 口の中で激励の言葉をとなえた。

「これにて、入所の説明を終える」
 大沢マリアは壇上から言った。
「それぞれは割り振った部屋に行き、ゆっくり人生を思い起こせ。そして、自分の最期を決めろ」
 大沢は刑務主任として部屋の出口横に立った。今日の説明会は平穏に終わった、安堵が肩を軽くした。
 入所の19人は部屋ごとにグループ分けされた。刑務官に連れられ、グループごとに出て行く。
 最後のグループが大沢の前を通る。
 と、囚人の一人、胸番号17が足を止めた。白髪交じりの頭が、じっと大沢の顔を見つめる。
「おおさわまりあ・・・同じ名前の女を知ってる。昔、ヤクザの頭を務めてた嵐勘九郎の手下だ」
「それは、わたしである」
「ヤクザなのに・・・元ヤクザでも公務員になれたのか」
「そういう時代だ。元は2級死刑囚で、今は刑務官になった者もいる。どこで悔い改め、まじめに働くかで人生は変わる」
 17番は歯ぎしりした。
「あんたの事、いろいろ知ってるぞ。それが明らかになったら、刑務官でいられると思うか?」
「裁判で証言してない事があったのか」
「墓の中まで胸にしまっておこうと思う事はあるさ。でも、気が変わった!」
 17番は噛み付きそうな顔だ。
 大沢は笑みを浮かべて返す。
「新しい証言をする気になったか。では、刑事を呼んであげよう。真実を明らかにするに遅過ぎる事は無い、死刑執行の1秒前であろうと」
「おおう、やってやるぜ!」
 大沢は半歩踏み出し、17番に顔を寄せた。
「各部屋には筆記用具がある。訴えの概要を書いて提出しろ。それに基づき、警察が動くだろう」
「いいんだな、そっちこそ死刑になるかもしれないぜ」
 17番は目をそらし、出口を向いて歩き始めた。
 出て行く背を見て、大沢はため息をついた。最後まで平穏で済まなかった、ちょっと胃が重くなった。

 大塚は廊下の端で足を止め、振り返った。後ろに3人の囚人がいた。
「ここが4211号室である。各自、名前を確認して入りなさい」
 大塚の命令に、囚人たちはドア横の名札を見た。
 42113番、芹沢家茂。同5番、佐柄宗造。同6番、中岡慎太郎。前からある3人の名札に加わった。新しい名札は地の色が白いから分かり易い。
 3人は部屋に入った。
「いらっしゃいませ、新人さん。自己紹介してほしいな」
 2番のベッドに座る高蔵が声をかけた。
 半歩進んで、芹沢は背を伸ばして答えた。
「芹沢家茂、45歳。17年間、夕張で働いた。ちょっとあって刑務官とケンカした。で、こっちに来た」
「おう、大先輩でしたか。こちらこそ、よろしく」
 高蔵が頭を下げる。芹沢は3番のベッドに行き、私物の段ボール箱を上に置いた。
「こっちは大部屋なんだ。向こうでは個室をもらってたんだが」
「まあまあ、長くいても半年の所だから」
「半年か・・・以外と長いかもな」
 芹沢はベッドに横座りした。段ボール箱をひじかけにして、がくと肩を落とした。
 高蔵は残る2人に目をやった。
「佐柄宗造、51歳。新潟の出で、トラックのドライバーしてました。あの日、渋滞につかまって時間に遅れそうで、焦ってた。横の道からセダンが割り込んで来て、制限速度でチンタラ・・・チンタラ、いつまでも前を走りやがる。ちょっとあおって、クラクション鳴らしたら、勝手に事故ってひっくり返った。バンパーかすっただけなのに、殺人と言われた」
 佐柄は口をへの字にして眉間にしわを寄せた。判決に納得してないのが見え見えだ。
 須賀原が手を振り、ベッドへ座るよう促す。
「そちらもトラッカーでしたか。おれの場合は自業自得だけど、そちらは地雷を踏んだようだね。道路には色んな物がある。障害物やら落とし穴やら、時には動く地雷まで」
 中岡は5番のベッドに座る。段ボール箱を足元に置き、つま先で蹴った。
 最後に残った佐柄が口を開いた。
「中岡慎太郎、33歳。産まれも育ちも東京の新宿の端で・・・小遣い稼ぎにヤクの売人してた。クラブに出入りして売ってたら、吸ってた客がその場でポックリ死んでしまった。どうも、仕入れたヤクに粗悪品が混じってたらしくて、クラブからも訴えられて・・・」
 中岡は丸めた背で6番のベッドに座った。
「ヤクは密造酒と一緒で、品質保証は無い。何が起きても自己責任だよな」
 須賀原が自嘲的に言った。

 高蔵は台所で湯を沸かした。互いに自己紹介が終わり、茶を煎れる。
「刑務官とケンカとは、ね。よくまあ、その場で死刑執行にならなかったもんだ」
「別にね、殴り合ったとかじゃない。仲間を助けるかどうかで、もみ合いになった」
 芹沢は頭を振った。

 夕張刑務所で、芹沢は10人1組の班に属していた。坑道の最深部、切り刃と呼ばれる石炭採掘の最前線にいた。
 がらがらっ、不意に坑道の天井が崩れ始めた。ビービーッ、ガス警報が鳴る。皆で声を掛け合いながら脱出した。
 防火扉まで逃げて人数を確認すると、2人足りない。救助にもどろうとするが、扉が自動で閉じた。
 手動で防火扉を開けようとして、刑務官に止められた。
 ガス警報は続いていた。不用意に扉を開けると、坑道内に火災が広がる危険があった。
 危険はわかっていたが、助けたかった。
 応援の刑務官が来て、全員が坑道の外へ出るよう命令された。さらに警報が広がっていた。
 芹沢は抵抗した。出口近くの防火扉が閉められ事となり、班の仲間に腕を引かれて坑道を出た。
 翌日、ガス警報が消えたので防火扉が開いた。逃げ遅れた者の1人は、扉まで1メートルの所で倒れていた。

「1メートル・・・たった1メートルだったんだ。あの時、扉を開けれたら、やつを助けられたんだ。粉塵まみれで真っ黒になって、蒸し焼きで固まってた。刑務官が見て・・・死刑執行完了・・・と言いやがった!」
 芹沢は吐くように言った。
「火は天井を這うから、倒れたやつは蒸し焼きか。地下は湿気が高そうだものな。その時、扉を開けてたら、あんたも仲間と一緒に蒸し焼きだったかも」
 高蔵が刑務官の制止を評した。
 芹沢は頭を振る。が、頭を止めて黙した。
「鉱山の落盤や火災で、一度に何人も死者が出るのは、そんな仲間意識が作用するのかも。仲間が助けてくれる思わなきゃ、危険な所で仕事はできないけど」
「あんたも炭鉱で働いた事が?」
 芹沢は顔を上げ、高蔵を見た。
「殺人で逮捕される前にいたのは橋の建設現場さ。主に、橋脚の土台をやってた。川底を掘って、崖に横穴を掘って、沼地に隔壁を建てて、下積みの下の仕事だ」
「土と泥にまみれる仕事だな」
 ようやく芹沢の顔がやわらいだ。
「毎日、風呂で体の泥を落として、酒で心の泥を落としてた・・・落としたつもりだった」
 高蔵は自分の拳を見た。酔って、通りすがりの人を殴って殺した拳だ。ネクタイをして、クツの泥もいやがる人を嫌悪していた。
 あいつもネクタイしてた・・・高蔵は思い出した。土方を蔑む目、ネクタイと背広を自慢気にしてた。酒が嫌悪を殺意へと増幅した。
 芹沢は天井を見上げた。罪を反省する者の顔は見たくない。
「で、翌日から作業をボイコットした。仲間も賛同してくれた。そして3日目、解雇通知が来た。抗議は一切認めない、それが夕張さ」
「元々、おれらは死刑囚だ」

 ううう・・・芹沢はうなり、立ち上がった。
「みんな、知ってるか! あの刑務主任、大沢マリアは元ヤクザだ。嵐勘九郎の下で働いてたんだ!」
「嵐・・・勘九郎・・・」
 高蔵と須賀原は顔を見合わせた。知っている名前だ。
「おれも嵐勘九郎の下にいた。あの女の噂は知っている。親分の命令に背いた奴を消すのが仕事だった。ただ殺すんじゃなく、死体が人目に触れないように消す。住んでた場所に行っても何も無い、生きてた痕跡まで消してしまうんだ」
「すげえな」
 芹沢の訴えに、高蔵はうなる。
 須賀原は首を傾げ、あごをかいた。
「嵐勘九郎と同じ名前の爺さんが、この部屋にいたよ。良い爺さんだった」
「今、どこに?」
「だから、とっくに死刑執行になってる」
「ここで死刑に!」
 芹沢は開いた口がふさがらなくなった。嵐勘九郎の逮捕は知っていたが、判決は知らなかった。まして、旭川刑務所に入っていたとは。
「じゃあ・・・大沢マリアが刑務主任になったのは」
「おれが入った時から主任してた」
「かつての親分の死刑をしたのか、あの女は!」
 どてっ、芹沢は尻もちをつくようにベッドに腰を落とした。
 息を整え、拳で自分の太ももをたたいた。
「許さねえ・・・許さねえぞ。あの女、絶対に死刑にしてやる!」
 どん、芹沢は床を蹴った。
 高蔵は入所時の説明会を思い出した。死にたいと言った2級死刑囚に銃を向け、表情も変えずに撃ち抜いた。
 そうとも、わたしの手は血まみれだ・・・美しい顔が言った。
「昔はヤクザの死刑執行人で、今は合法的な死刑執行人になった訳か。天職だな、あの女にとっては」
 高蔵は半年の期限が近付いていると気付いた。あの説明会で言われた事だ。
 どうせ死ぬなら、大沢マリアの手で絞め殺されるのも良いか・・・ふと思った。2級死刑は自分の死に方を選択できる。裸になって首を締めてくれと言ったら、彼女は了解してくれるだろうか。手よりも、足で挟んで絞められた方が気持ち良く死ねるかな。妙な妄想が頭の中を駆けめぐった。

「まだ聞いてなかったけど、芹沢さん、あんたは何をして死刑囚に?」
「おれか・・・ヤクザだったし、な。シノギの下手なヤクザだったからなあ」
 須賀原の問いに、芹沢は答え始めた。
「毎月のシノギが足りなくて、いつも上から怒られてたよ。で、強盗を思い付いた。年寄りの名簿を買って、爺と婆の家へ手当たり次第に電話した。家に爺か婆だけいると分かると、仲間と押し込んだ。殴って、蹴って、金の在処を聞き出して奪った。シノギより楽だ、と思ったね」
 へへへ、芹沢は含み笑い。
「鬼畜だ」
 中岡はつぶやいた。
「でも、爺や婆はケガをしやすいし、ケガが治りにくい。なので、おれらが押し込んだ数日後とか、数週間後に、何人かの爺や婆は死んだ。捕まったら、嵐勘九郎は怒ったね。素人衆に荒事を仕掛けたと、弁護士も雇ってくれなかった。そうして、死刑判決をいただいた訳だ」
「捕まらなかったら、ヤクザ時代の大沢主任に消されてた?」
「かも・・・しれね」
 芹沢は首をすくめた。
 あの当時を思い出した。
 暴れん坊で知られた組の仲間、佐々木藤三が音信不通になった。組の者に聞いても、知らんとしか言わない。彼のアパートへ行くと、ゴミだらけの床に手首が転がっていた。手の甲の彫り物から、佐々木の手首と知った。ぞっとして、逃げ出した。数日後、また訪ねてみると、部屋はきれいになって、人が住んでいた形跡も無い。
「手首を切り落とし、その場に残していくなんて・・・人間のする事かよ!」
 佐柄が叫んだ。
「シノギの下手な者への見せしめだろうな」
 芹沢はベッドに寝転がって、天井をながめた。




11. 真実の声


 警視庁から刑事が来た。4211号室の芹沢から聴取して帰った。
 そして、また1週間後、彼らは来た。
 大沢マリアは応接室で彼らを迎えた。
「警視庁捜査1課、特命捜査7係の是丹具吾太です」
「ぜにぐ・・・さん」
 名刺を受け取り、大沢は珍しい名前にとまどった。
 特命捜査係とは未解決事件の追跡捜査を行う係。過去の捜査資料を再評価し、時には収監中の受刑者から証言を取る。が、めったに立件できる事件と出会わない日陰の存在。
「同じく金田耕一朗です」
 ベテランの是丹具と若手の金田、テレビから抜け出たようなコンビだ。
「先週、こちらの2級死刑囚の訴えを聴取させていただきました。その中で、大沢マリアさんに触れる所がありました。ご協力願います」
「はい」
 大沢は軽く頷いた。
 今回は任意聴取。何か起きたら、一時停止が可能だ。
「まず、始めに・・・あなたには黙秘権があります。あなたは自身の不利になる供述を強制されません。ただし、故意に違った供述をすると、後で訴追の場合があります」
 事情聴取前の通過儀礼、退屈な法手続きが来た。
 金田がテーブルにボイスレコーダーを置いた。刑務所だけに、応接室にもテレビカメラがある。録画も持ち帰る気だろう。
「芹沢死刑囚の訴えは、あなたが嵐勘九郎の下で働いていた頃の事です。ですので、その当時の事をお話願います」
「わたしの裁判記録を読めば、より正確かと思いますが。まあ・・・思い出せるだけ、お話しましょう」
「もちろん、裁判記録とも照合します。ゆっくり思い出して下さい」
 大沢は腕を組み、目を閉じた。20年ほど前の出来事を頭の中に呼び返す。

 マリアは家出同然に東京へ行った。
 背が高く目立ったから、たちまちヤクザに目を付けられた。集団でレイプされたが、首謀者を半殺しにして返した。アイスピックで左右の睾丸を潰してやった。そいつは3日経ってから病院へ行ったが、すでに陰茎部まで腐ってきていて、丸ごと切除したと聞いた。
 その気性を良しと、嵐勘九郎が手下に使った。
 与えられた仕事は掃除屋。ヤクザが事件を起こした後始末をする掃除屋、世間的には特殊清掃と言われる。
 ヤクザが抗争を銃や刀で繰り返す。街に残る弾痕や刀傷を埋め、路面の血の跡を消す仕事だった。
 嵐勘九郎が言うには、ヤクザ同士の抗争の9割は八百長だ。一般市民にケガ人が出ると、警察はきびしく取り締まる。ケガ人がヤクザでとどまっていれば緩い。だから、一般市民を巻き込まず、ヤクザ同士で抗争してるふりをして、ヤクザの力を一般市民に見せつけるのだ。
 それでも、時々は上の意図を理解せず、暴走する者が出る。そういうヤツは消してしまう。

「そこからが、わたしの仕事でした」
 大沢はよみがえった記憶に相づちを打った。
「ヤクザになる者は、たいがいが生活破綻者です。住んでる所はゴミ屋敷そのもの。それをきれいにして、不動産屋に返します。彼らもヤクザに貸す事でリスクを負っていますから、最低限度きれいにしなければ、良い関係を保てません」
「空き家の清掃なら専門の業者があるのに」
「ヤクザが住んでいただけで事故物件になる時代です。ゴミの中に注射器や吸いかけのヤク、ドスや拳銃や銃弾などが残っている場合も。意図的に隠されている事もあります。一般の業者には任せられません」
「なるほど、ヤクザ専門の特殊清掃が必要なのか」
 是丹具は大きく頷く。
「東京にしては寒い日でした。宇野・・・えーと、治郎とか言うやつがいたアパートを掃除する事になりました。部屋の前で、何かあると臭いました。入ったら、黒ずんだ死体がありました。誰かは分かりません。少し考えて、生ゴミとして処分しようと作業をはじめました。重くて苦労しているところを、住民に通報されて・・・逮捕されました。死体損壊とか死体遺棄とかの罪になりました」
 ははっ、大沢は自嘲した。想定外の物があっても、律儀に仕事をやり遂げようとした。素直に応援を呼ぶなり、出直すなりしていれば、警察沙汰にならなかったはずなのだ。
「裁判記録では、死後3週間と鑑定されたやつですね。死体を扱ったのは、それだけですか?」
「五体そろった死体は、その1件だけです。佐々木・・・なんとかのアパートでは、左手首がころがってました。猪熊と言うやつの家では、右足が落ちてましたね。人の指らしき物、耳らしき物を見たのは何度かあります。いつも生ゴミとしてビニール袋で処分してました」
 うえっ、金田が口をおさえて吐きかけた。
「わたしが行く前に、別の者が大きな物を処分していたのかも。と思っても、誰かに問う事はしません。よけいな詮索はしない、それもヤクザの処世術です」
「でしょうね・・・」
 是丹具が合図して、金田はボイスレコーダーを止めた。

 是丹具と金田は1棟玄関前のパトカーに乗り、エンジンをかけた。車内は冷え切って、吐く息が白い。
「あの女・・・黒ずんだ死体とか、平然と言ってました」
 金田がコートの襟を立てて思い出す。
「刑務官になる前から、いっぱい死体に触てたんだなあ。この旭川刑務所では毎週のように死刑執行がある。腐った死体よりは、新鮮な死体なら扱いが楽だろう。ここの仕事は天職なのかも」
 是丹具はアクセルを踏み、正門へ向かった。旭川署に寄ってパトカーを返し、それから飛行機で東京へ帰る。
 バックミラーを見れば、白い雪の上で大沢刑務官が見送りに立っていた。


 高蔵は面会室にいた。
 今日、弁護士の喜多川が来た。朝、連絡が入って、突然の事だった。
「高蔵さん、間に合いました。いやあ良かった、本当に良かった」
「はあ・・・」
「真犯人が捕まったんです! 新たな証拠と証人で、再審請求が通りました」
「しん・・・はんにん?」
 高蔵は酔っての帰り道、すれ違うネクタイと背広のサラリーマンを殴った。倒れるところを蹴った。死んじまえ・・・と悪態を残して立ち去った。サラリーマンは吐しゃ物がのどに詰まり、窒息死してしまった。
 すべては街頭の監視カメラに撮られていた。高蔵は罪をすべて認めて、2級死刑の判決が確定した。
 が、監視カメラの映像には続きがあった。倒れたサラリーマンに2人が何かをしていたのだ。他の人が寄って来て、2人組は立ち去る。
 喜多川は疑義を主張したが、高蔵が罪を認めたので、裁判では証拠採用されなかった。
 先々月、2人組の路上強盗が逮捕された。多くの余罪を認めた。その中に、高蔵が殴ったサラリーマンが含まれていた。
 2人組は倒れたサラリーマンに駈け寄った。背広の中を探ると、サラリーマンは気付いて抵抗した。2人組が腹を蹴ると、サラリーマンは口から泡を噴いて動かなくなった。他の人が寄って来たので、2人は逃げた。
 高蔵はサラリーマンを殴り倒したが、腹を蹴って致命傷を与えたのは2人組と推定された。
「自分は・・・あれを殴りました。死んじまえ・・・と、呪いました。あれを殺したのは・・・確かに自分であります!」
 高蔵は鋼線入りのガラスに拳を打ちつけた。
 喜多川はガラスに顔を寄せた。
「高蔵さん、あなたは正直な人です。でも、他人の罪まで背負う必要はありません」
 ぐらり、高蔵の体が揺れた。尻がイスからすべり落ちそうになった。

 高蔵は面会室を出て、廊下でため息をついた。
 待っていた大沢は、主任として書面を提示した。
「高蔵健、たった今、通知が来た。死刑執行を停止する」
「死刑が・・・停止ですか」
「それと、第6棟へ移動だ。向こうは個室で、食堂や娯楽室もある」
「はあ・・・」
 高蔵は気の無い返事。肩を落として、大沢の後ろを歩く。
「あなたの場合、6棟での費用は心配しなくて良い。再審裁判が始まれば、一般の刑務所へ移動となるだろう。裁判所が認めれば、保釈も有り得る」
「殺人犯ではないかもしれませんが、犯罪者なのは確かです。殴って蹴ったから、暴行とか傷害とか・・・侮辱もあるかな」
 大沢は頷いた。
 日本の裁判では、被告人が複数の罪を負っている場合、最も量刑の重い罪で裁かれる。海外では、複数の罪の合算で判決が出る国があり、懲役期間が100年以上になる事も。

 高蔵は4211号室にもどり、移動の準備をした。
「死刑が執行停止?」
「そんなん、ありかよ!」
 須賀原が、芹沢が驚きの声を上げた。
「自分が殺した・・・はずだったのですが」
 ベッド下から段ボール箱を出し、私物を入れた。布団をたたみ、ベッドを空ける。
「早まらなくて、良かったですね。やっぱり、ぎりぎりまで生きようとすべきなんだな」
 佐柄は肯きながら言った。
 高蔵も頷いた。旭川刑務所に来て、どう死ぬかを考え続けてきた。でも、決断できなかった。決断しなかったおかげで、真犯人逮捕の報せを受ける事ができた。
 高蔵は段ボール箱を抱え、ドアの方へ行った。振り返り、皆に頭を下げた。
 須賀原は手を振って別れとした。
 1人減って、4211号室は5人になった。


 4307号室の窓辺に松本千津子は立っていた。粒子の細かい粉雪が、霧のように外の景色をかすませている。
 時折、びゅびゅっ、と風の音がした。雪は音を吸うから、建物の周囲に発生するビル風のうなりが、唯一の環境音だ。刑務所が世界から切り離され、異世界へ行っているのかのよう。
「ちづさーん、お菓子あるよー」
 松本は部屋にただよう匂いに気付いた。
 台所では、フライパンで焼き物料理をしている。皿に山盛りの煎餅ができていた。
 旭川刑務所では1人に一定量の食事を出す、男女や体重で差はつけない。なので、女だけの部屋では飯が余りがちだ。
 ここで女の知識と技量が出る。余った米をつぶし、砂糖を練り込む。あるいは味噌を練り込む。それで焼けば、素人流の煎餅だ。
「ちづさん、雪景色が珍しいの?」
「いえ・・・ね、昔、旭川に住んでたの、40年くらい前」
「死ぬために、故郷へ帰還ですか」
 松本は問いかけに首を振った。
「男にだまされて、妊娠して・・・路上で陣痛がきて、知らない産院に運ばれた。子供は産まれたけど、育てられないし、逃げ出した・・・子供を置き去りにした」
 おおう、女たちから言葉が切れた。
「また旭川に来てしまった。あの子は・・・生きてるのかしら・・・」
「産院がわかれば、問い合わせてくれるんじゃね」
「それが・・・思い出せない」
 松本は首を振るばかり。子を捨てた罪の意識が、記憶を封じている。
「産院が分かっても、養子縁組されてたら・・・教えてくれないかも。ほら、守秘義務とかで」
 松本は顔を上げ、またうな垂れた。
「ちづさんて、あの大沢主任に面立ちが似てるよね。感動の親子対面は実現してるかもよ」
「ほんと、良く似てるわ」
 きゃはははっ、部屋の女たちは一斉に笑った、ただ一人をを除いて。

 かっかっ・・・4211号室の前で足音が止まった。
 がちゃっ、突然にドアが開いた。
「富岡正治、説明があるので来てくれ」
 大沢マリアが命令口調で言った。
 芹沢が1番のベッドの布団をたたいた。ひげ面が出て来た。
「何の説明ですか?」
「6ヶ月目が終わるの説明だ」
 富岡は布団を出て、ドアの方へ歩いた。
「あと1週間で、6ヶ月になる。その日になったら部屋を移動してもらう。事前に見てもらおう。来なさい」
「部屋を、事前に・・・」
 富岡は部屋を出て、大沢の背について行く。富岡の後には、刑務官の大塚が並んで歩く。
 階段を降りて1階へ。廊下の奥、薄いガラス戸の向こうに4つのドアが並んでいた。ドアに窓は無く、大きな金庫のようなハンドル。間隔は2メートルと少し。それぞれにD1からD4まで番号が付けられている。
 大沢は3番のドア前で振り返った。
「あなたが何も決断しない場合、この部屋を予定している」
 大塚がハンドルを両手で引いて、ドアを開けた。厚さ30センチ以上の防音ドアだ。正しく金庫なみ。
 富岡は1番と2番のドアを見た。
「あちらは使用中だ」
 大沢が答えた。
 富岡は耳をそばだてるが、何も聞こえない。ドアの厚さを考えれば、中の音が漏れないのは納得できた。
 中を見た。
 3畳ほどの広さ・・・いや、狭さ。窓も無い。
 半歩だけ入って、壁に触れてみた。つるつるだ。硬質の撥水ワックスが施された壁と床だった。
「あの・・・寒そうだし、トイレとか、食事とかは?」
「そんな予算は無い」
「何も無い・・・そんな、人権蹂躙だ!」
「あなたは死刑囚だ。すでに人権は停止されている」
 大沢は肩も揺らさずに答えた。
「あと1週間だ。早く死に方を決めなさい。もしくは、支援者を見つけて金を入れてもらうか。どちらもできない場合は、この部屋に入ってもらう」
 また、富岡は部屋を見た。
 ここは大きめの棺だ・・・その確信は言葉に出なかった。
 富岡は4211号室にもどされた。

 大沢と大塚は刑務官事務室にもどった。
 長いすに腰かけ、マグカップのコーヒーに口をつけた。ふう、と息をつく。
 6ヶ月目を迎える死刑囚へ、まず第1段階の手続きが終わった。素直に入ってくれれば良いが、抵抗したり暴れたりしたら、別の処置が必要になる。
 ポーン、インターホンが鳴った。
「監視室です。D2号室、反応が無くなりました」
「あそこは3日目だな。了解した」
 大沢は静かに答えた。
 Dナンバーの部屋の監視カメラは、すべて熱赤外線カメラだ。健康な囚人が入ると、人体が体温で輝くように撮れる。生命活動が弱まり、体温が壁や床と同じになると、カメラには反応が無い状態になる。
「さ、行こう」
 大沢は事務室の刑務官に声をかけた。大塚と若山が応えて立ち上がった。

 白木の棺をストレッチャーに載せ、3人の刑務官はD2号室前に整列した。すでに、医師の田宮が来ていた。
 大塚と若山はロッカーから防水エプロンを出した。長靴に履き替え、防毒マスクを着けた。スプレーガンのホースを蛇口につないで、準備完了だ。
 大塚はスプレーガンをドアに向けた。大沢がドアハンドルを引いて、ゆっくり重い防音を開けていく。若山が蛇口を開けた。
 ぶわっ、スプレーの噴霧が開いたドアと壁の間を埋めた。部屋に満ちていた臭気が噴霧に吸収される。
 D2号室のドアは180度の全開になった。
 大塚はスプレーを続けながら、ゆっくり部屋へ踏み込む。壁の上側からスプレーをかけ、床へと下ろしていく。壁には何かが当たった跡があった。
 囚人が倒れていた、すでに死んでいる。頭部に傷が見えた。死体の下側には黒くなった体液が溜まっていた。汗と尿、血液が混じった体液だ。
 スプレーを下に向け、死体にかけた。ジャージャーとかける。体液が排水溝へ流れていった。
 大沢はストレッチャーの足を折り、低くした。棺の蓋を取って、部屋の中に押し進めた。
 若山は蛇口を閉じて、部屋に入る。
 大塚と2人がかり、死体を抱えて棺に入れた。棺の底には吸水シートが分厚く敷いてある。また体液が流れ出しても、外へは漏れない。
「もう大丈夫」
 田宮が合図したので、大塚と若山は防毒マスクをはずした。たっぷり水を撒いたから、部屋に臭気は残っていない。
 聴診器で心拍を探り、手を鼻にあてて呼吸を見る。目蓋を指で押し広げ、眼球を確認した。
「心拍、無し。呼吸、無し。瞳孔、拡張・・・死亡と認めます」
 田宮は死亡を告げた。頭部の傷など、いちいち死因を推測する必要は無い。
 大沢は死体の胸にドライアイスを置いた。へその上、下腹部にも置く。万が一にも心臓が再生しないようにして、蓋を閉じた。
「死刑執行・・・完了」
 大沢は足でストレッチャーのレバーを蹴った。バネの作用で、また元の高さにもどった。
 部屋からストレッチャーが引き出されると、若山は蛇口に手をかけた。今度は湯の方を開いた。
 大塚は湯で部屋の床を洗う。こびり付いた人間の皮脂、体液の油成分をセッシ50度以上の湯で溶かして流す。
 部屋の清掃は新人刑務官たちにまかされた。
 大沢はストレッチャーを押して、ゆっくりと霊安室へ向かった。

 4307号室で、松本はファイルを開いていた。
 ページごとに色々な死に方が紹介されている。絞首刑のページで手が止まった。
 旭川刑務所の絞首刑では、死刑囚が縄の長さや太さ、落下距離を選択できるようになっていた。
 太くて短い縄なら、苦しみは大きいが、吊されてから短時間でも生きている。細くて長い縄なら、吊された瞬間に気管がつぶれ、頸椎が折れて絶命する。
 落下距離が短いと、あごに縄がかかって即死しない事がありえる。数分以上も死刑囚を吊したまま、刑務官は待つ事になる。

 絞首刑は最も古い死刑の方法のひとつだ。吊された死刑囚は見世物として人気が高かった。
 19世紀まで、使われる縄は太く短かった。吊し上げるのが一般的で、死刑囚は吊されながら手足をバタバタ震わせ、なかなか死に至らない。
 首の筋肉が強い男は、吊されてから長く息があるので、絞首刑では人気があった。首が弱い女や老人は、すぐ死ぬから見世物にならない。
 明治5年(西暦1872年)、現在の愛媛県で、絞首刑の後に死刑囚が蘇生する事件が起きた。見世物ならば数日は吊しておくのだが、親族がすぐに下ろして縄を解いたためだ。結局、刑は執行されたとして、2度目の絞首刑は執行されなかった。
 20世紀になると、人権意識の高まりなどで、絞首刑でも早く死ぬ事が求められた。死刑囚の足に重りを付けたり、縄を長くして落下距離を大きくしたり、細い縄を使ったり、絞首刑は様変わりした。

 あれも絞首刑だった・・・
 松本千津子は小さな新興宗教の団体に属していた。信者集めはままならず、脱走者が出た。
 脱走者をつかまえ、教団の施設に連れ戻した。そこで審問が行われた。
 長くのばした髭の教祖は言った。
「この者は魔に取り憑かれている。苦痛を与えて、肉体から魔を追い払え」
 教祖は松本にムチを与えた。
「魔よ、出て行け!」
 松本は叫びながら、脱走信者をムチで打った。
 10回打って、下の者にムチを渡した。10人以上の信者が持ち回りで脱走信者をムチで打った。
「もう・・・いやだ・・・帰りたい・・・」
 脱走信者は弱々しく訴えた。肩から尻までムチで打たれ、傷だらけになっていた。
「魔に染まった肉体を滅ぼし、魂を救済せよ!」
 教祖は縄を松本に与えた。
 女の細腕では縄をあつかいきれない。松本は体の大きな信者に縄をあずけた。脱走信者の実の兄だった。
 兄は少し戸惑いながら、命令のままに弟の首に縄を巻いた。
「救済せよ!」
 教祖が命じた。
「救済、救済!」
 習って、信者たちが合唱した。松本も合唱した。
 兄は足を弟の頭にかけ、首に巻いた縄を絞めた。ぽきぽきっ、小さな音で首が折れた。
 審問で魂を救済した数は・・・5人を超えた時、数えるのを止めていた。
 数日後、兄は警察に自首した。教団に警察がなだれ込んだ。

 大沢マリアは4307号室のドアを開いた。
「松本千津子、準備が出来た」
 ベッドで寝ていた松本は、ゆるりと立ち上がる。足音もたてずにドアへ歩いた。
「俗世の垢にまみれた肉体を滅ぼし、我が魂を救済する時が来ました」
「は・・・?」
 大沢は言葉に詰まった。
 2級死刑囚が刑の執行を望む理由は様々。そこに刑務官が干渉する必要は無い。
「では、行こう」
 大沢の指示に従い、松本はうつろな目で部屋を出た。

 ぶつぶつ・・・松本は何ごとかをつぶやきながら歩いた。新興宗教であるから念仏ではない、キリスト教系でもないので賛美歌とは違う。
 階段を降りて、2階へ。
 窓の無いドアがあった。4214の番号が貼られている。
 ドアを開け、刑務官の大沢が先に入る。松本は続いた。ドアの外に1人の刑務官が待機した。
 大沢は松本の両手に手錠をかける。腰のベルトを手錠につないだ。腕を動かせる範囲がほとんど無くなった。
「どの縄を使うか、あなたが選びなさい」
 大沢は壁の見本を手にして言った。触れるだけで痛そうな太い荒縄、黒いゴム皮膜の細いワイヤーもある。
「その・・・真ん中のを」
「では、これを使う」
 松本が選んだのは中間の太さの縄、直径2センチの強化ビニール製。3択の場合、日本人は中間を選ぶ事が多い。
「では、そこに立ってくれ」
 大沢は部屋の中央を指した。四角い枠線があった。四角の真ん中に30センチ四方の低い箱、足を置くマークがある。
 松本はマークの上に左右の足を乗せた。
 箱から足枷を出し、足につないだ。もう箱から降りられなくなった。
「この箱には安定用ジャイロが入っている。空中姿勢を安定させて、真っ直ぐ落ちるようにする」
「まっすぐ・・・落ちる」
 松本は足元を見て、ふーんと頷いた。
 床が抜けて体が落ちる時、人間は反射的にバランスを取ろうとする。足を前や横に出し、落下加速度をゆるめようとする。その時、体が揺れて斜めになり、首にかけた縄がずれるなどの事故が起こる。即死できずに苦しんだり、首がもげて胴だけが下へ落ちたり。足に重しを付けるのは、最も簡単な事故予防だ。
「落下距離は標準が2メートルだ。長くも短くもできる。女は首の筋肉が少ないので、短めが良い。3メートル以上は推奨しない」
「そのままで・・・」
 松本は目を閉じ、頷いた。声が消え入りそうだ。

 大沢は天井から縄を下ろした。松本の頭を輪にくぐらせ、のど仏で固定して緩く絞めた。
 足は床の箱につながれ、頭は天井からの縄につながれ、いよいよ身動きならなくなった。
「はい、失礼します」
 猪上が部屋に入ってきた。
 松本の腰に手をかけ、ズボンを下ろした。ちょっともがくが、腰を少し振るだけ。
「オムツをしてもらう。後始末が楽になるので」
 大沢が説明した。
 猪上は松本の下着の上からオムツをかける。尻から股下をくぐらせ、腰の左右でオムツ閉じた。そして、ズボンを上げてもどす。
 大沢は四角い小さな箱を出した。大きな赤いボタンがあった。
「このボタンを押すと、床が開く。待たずに、すぐ死ねる」
 赤いボタンの箱を松本の手に置いた。
 大沢は壁のダイヤルに手をかけた。
「これはタイマーだ。1分、3分、10分・・・1時間。希望の時間を設定できる」
「じゃ・・・10分くらいで」
「10分に設定する」
 大沢はダイヤルを回し、10の数字に合わせた。じじじ・・・小さな機械音で、ダイヤルが元の方へ回り始めた。
「最後に、これをお願いする」
 大沢はポケットから黒い布を出した。開いて、遮光性生地の袋であるのを示した。
「これを、して欲しい。後始末をする我々の精神安定のためだ、頼む」
 松本は首を振ろうとしたが、縄が首にくい込んで動かせない。やむなく、目で頷く。
 大沢は了解を得たとして、袋を松本の頭にかぶせた。
「では、残り9分とちょっとだ」
 大沢と猪上は部屋を出て行った。がちゃっ、ドアの閉まる音が響いた。

 松本千津子は闇の中に立っていた。
 平行感覚が薄れ、体が揺れる。首の縄と足首の枷が体の垂直を教えてくれた。
 頭を包む遮光性の袋で、目に光は入ってこないはずなのに・・・ぼんやりした光のようなものが眼前をうろうろする。それはアナログ回路である視神経のノイズだった。無音環境で感じる耳鳴りと同じ事が、目でも起きていた。
 まぶたに力を込めて閉じた。
「俗世の垢にまみれた肉体を滅ぼし、我が魂の救済を・・・」
 教祖の言葉を思い出し、唱えてみた。
 教団で救済したはずの信者の魂は・・・どこへ行ったのだろう。教祖は語らない。それを問うのはタブーだった。
 こんな事で、本当に自分の魂は救済されるのか・・・救済されて、どうなるのか・・・
 裁判では、救済は論議の対象にならなかった。ひたすら殺人行為だけが論じられた。
 法律は現世の出来事のみを扱う。教団が扱うのは、より広き世界。俗世は世界の一部でしかない・・・はず。
 より広き世界を知っているのは教祖だけ。六道から解脱して、より広き世界から俗世を俯瞰した経験者である。より広き世界を俗世の言葉で表すのは不可能。よって、より広き世界の実情を問うのは、凡俗の世しか知らぬ者には無意味だ。
 ・・・もう、いやだ・・・帰りたい・・・
 救済前の信者が言った。小さな俗世にとどまりたい、愚かな願いだ。
 愚かな願いを言うのは、俗世の垢に肉体がまみれているから。肉体を滅ぼし、俗世の垢を払い落とせば・・・より広き世界へ旅立てる。
 松本は震える指でボタンを押した。

 風を感じた。
 体が浮く、無重力だ。より広き世界への入り口を感じた。
 と、別の記憶が・・・深層に封じられていた記憶が帰ってきた。

 松本千津子が20歳を過ぎたばかりの頃、男に捨てられた。妊娠していた。大きな腹で道を歩いていると、陣痛が来た。
 助けられて、最寄りの病院に運ばれた。そこで子を産んだ。
 夜明け前、松本は病室を抜け出した。名前は告げず、子に名前も付けてなかった。
 急に体が軽くなり、腰が落ち着かない。ふわつく足で病院の外に出た。
 去り際、振り返って、病院の看板を見た。
 大沢病院・・・

 そうだ、大沢病院だ。子を産んで捨てたのは大沢病院だった・・・

 次の瞬間、体を衝撃が走った。
 頭の中をガクガクと不連続な音が反響した。目の前を赤い光が駆けめぐった。
 そこで、意識は途切れた。

 大沢と猪上は1階で待機していた。男の刑務官では大塚が、医師の田宮も一緒にいた。
 がたん、天井のドアが開いた。
 何かが落ちて来て、途中で止まる。大沢と猪上は振り向いた。
 松本千津子がボタンを押したのだ。
 2メートル落下し、頭は天井近くにある。縄に吊られて、体がぷるぷると震えているかのよう。
 左右に大きく揺れないのは安定ジャイロの働きだ。
「早かったな」
 大塚が真下に駈け寄った。
 田宮は腕時計を見て、紙コップのコーヒーに口を付けた。折りたたみのイスに座り直す。
 かたっ、後方のドアから所長の真田が腹を揺らして入って来た。珍しい事に、大沢と猪上が振り返った。
 1級死刑囚の刑執行では、刑務所長の立ち合いが必然だった。が、毎週のように行われる2級死刑囚の刑執行は、ひたすら現場の刑務官に任されている。
「あ、いや、仕事を続けてくれたまえ。簡単な話だから、仕事しながらでも良いだろ」
 田宮が右手を上げた。死刑囚を降ろすには、もう少し時間を置く状況だ。
「来年度、沖縄のアメリカ軍基地跡に2級死刑囚専用の刑務所ができる。移動できる刑務官を募っている」
「沖縄・・・ですか」
「最近は6棟で満室が続いている。住んでる8割は70歳以上だし。金持ちが増えたのか、どこかで金が余ってるのか」
 真田は両手を上げる。死刑囚用の刑務所で部屋が不足するとは、全く想定外の事態だ。凶悪犯罪にも高齢化の波が来ていた。
 刑務所の老人ホーム化は平成の時代から訴えられていた。旭川刑務所の6棟は毎月10万円以上の料金を要求する。それでも、民間の介護付き老人ホームより安いのだ。
 大沢は首を振って応えた。が、移動を命じられたら応じるのも仕事の内だ。
 大塚が手を挙げた。
「自分は入ったばかりですが、産まれも育ちも九州鹿児島、暑さには強いです。炭鉱で鍛えて、地の底の蒸し暑さにも慣れました」
「そっか、そーだった」
 真田は笑みで頷いた。

 田宮は腕時計を見て、手で合図した。
 猪上が棺を載せたストレッチャーを押す。真下から見上げると、吊された体は細かく震えていた。何も知らなければ、まだ息があると思ってしまいそうだ。
「大丈夫、これはジャイロの振動です」
 大沢がベテランらしく指摘した。
 大塚が電動ウインチのスイッチを操作する。吊された体が棺の高さに降りてきた。ジャイロのスイッチを切り、足の枷を外して箱を回収する。
 ゆっくり体を下ろし、棺に納めた。首の縄を外すと、赤黒く縄の痕があった。頭にかぶせた袋も取った。
 臭いは・・・少ない。オムツが良く効いていた。
 古来、首吊り絞首刑の醍醐味は、衆目の中で失禁脱糞する場面。囚人の恥は一番の見世物だった。一方で、絞首刑が密室で行われるようになると、後始末をする刑務官には大きな負担になっていた。
 田宮が死体を確認する。
「脈拍、無し。呼吸、無し。瞳孔、拡張・・・死亡と認めます」
 胸と腹にドライアイスを置いた。オムツはそのまま、一緒に焼却を予定している。
 真田が寄って来て、死体の顔をのぞいた。
「なんか・・・大沢主任と面立ちが似てるような。実は親戚だったりして」
 はあ、大沢はため息。
 猪上は口をおさえて笑いをこらえた。
「世の中には同じ顔が7人いると」
「昔は、そんなふうに言ったね。韓国では、何百人も同じ顔があるらしいが」
「美容整形では大国らしいですね。大事故や災害後、本人の確認は手間がかかりそう」
 大沢は苦笑いを返し、棺の蓋を閉じた。
 田宮は医務室に帰る。真田は手を振り、所長の仕事にもどる。
 大塚は2階へ行く。開いた床板を閉じ、吊す縄を元にもどさなければならない。
 猪上には刑執行後の書面作成をまかせた。
 大沢はストレッチャーを押し、霊安室へ行く。
「面立ちが似ているか・・・」
 蓋を閉じる前、松本千津子のデスマスクを思い浮かべた。
 20年くらい後、何かの因果で大沢マリアが死んだら、あんな顔になるのかな・・・と思った。


12. 春、遠からじ


 冬至から1ヶ月、旭川刑務所は雪の中にあるが、空は明るくなった。低い太陽と雪の照り返しで、夏よりまぶしい季節である。
 窓から室内に差す光は奥までとどいて、廊下の隅々まで明るく輝く。
 大沢マリアは部下の刑務官と廊下を行った。
 棟の境界には鉄格子の扉がある。その前で止まった。向こう側にも刑務官が待っていた。
「囚人を引き渡します」
「囚人を引き受けました」
 敬礼で言葉を交わした。
 6棟から4棟へ、囚人の移動であった。
 大沢は書類と囚人を確認した。
「あなたへの予算は、残り4ヶ月だ。早く死に方を決めるか、次の支援者を探すか。できるだけ早急に頼みます」
 白髪頭の囚人は黙って頷いた。
 大沢マリアは囚人を率いて歩いた。
 かつての刑務所は、国が国家予算を使って犯罪者を養う場所であった。しかし、犯罪者が増え過ぎて、刑務所の予算が尽きた。納税者の意思は囚人の数に合わせて予算が膨らむのを認めない。
 結局、法律を改定して、刑務所の予算を限定する方向が求められた。2級死刑が制定された。
 死刑判決が確定して、半年で死刑囚への予算は執行停止となる。なおも生きるためには、外部の支援が不可欠な時代となった。支援が途切れたら、死刑執行へカウントダウンが始まる。


 囚人の移動が終わり、大沢は事務室に帰った。時計を見れば、もう昼だ。
 食堂で弁当を買い、テーブルで食べ始めた。休憩時間だけは私物の携帯電話を開ける。
 メールの着信に気付いた。
 ・・・高校の入学試験、終了。発表は来週・・・
 裕太からのメールだった。
 わざわざ報せてくるとは、何か合格祝いの催促と見た。
 三日くらいの温泉旅行に連れ出し、童貞卒業を祝いとする・・・軽過ぎかなあ、と頭をひねる。いっそ、春休みを全部使い、48手をマスターするくらい鍛えてもやりたい。
 自分の乳房をつつき、ため息した。女の方から誘うのは良くない、男の方から求めるべきだ。
 つい、古風な男女の関係が頭をよぎる。
 自分にもボーナスが欲しい・・・女の証明がしたい、そんな欲求が頭をもたげる。子を妊んで、産んで、乳を与えて・・・死刑執行官である現在の仕事とは対極の欲求だ。
 先週、生理は終わった。まだ孕めるし、産めるはずだ。
 けれど、裕太に父親の責任を負わせるのは・・・早い。その辺の囚人を誘惑して、父親知らずで産むのが分相応か。
 旭川刑務所には長く勤めた。妊娠出産が理由なら、1年くらいの休職は取れるはずだ。
 あれこれ考える内に、昼休みは終わっていた。

 芹沢家茂は面会室にいた。
 鋼線入りのガラスの向こうには刑事がいる。警視庁捜査1課、特命捜査7係の是丹具吾太と金田耕一朗だ。
「宿題ができてないね」
 是丹具はレポート用紙を開いて見た。
 前回、聴取とは別に、思い出した事をまとめるよう指示していた。が、紙の上にあるのは文字にも見えない落書きばかり。
「文を書くのは苦手だ。前のだって、死ぬ思いでやったんだ。あれ以上、必要無いだろ」
 芹沢は口を尖らせて答える。
「さて・・・」
 是丹具は吐息をもらし、自身のレポートを開いた。
「君の聴取の中から、最も具体的な3件を調査した・・・が、3件とも該当する人物を見つけられなかった」
「ばかなっ!」
 芹沢はガラスをたたいた。
「ヤクザであるし、君の知っている名が通名で、本名でない場合も考えられる。通名の情報も蓄積しているが、該当は無かった」
「あの女の仕事だよ。人間が生きていた、暮らしていた跡を消してしまうんだ。記録が残らないのも当然だ。でも、良く調べれば、どこかにあるはずなんだ」
 芹沢は訴えるが、是丹具はじっと視線を返した。
「前の聴取を検討したが、君の言っているのは8割9割がたが伝聞と推測だ。我々が求めているのは、君が直接見て聞いて触れた事実だ。間接的な情報は要らない」
「いらない・・・」
 是丹具は落書きだらけのレポート用紙をテーブルに投げた。。
「記憶を整理して、もっと具体的な事を書きたまえ。小説や童話ではなく、願望や推測でもなく、事実の記録が必要だ。我々は法律に基づいて動く。法律を動かすのは事実だ」
「事実を書く・・・」
 芹沢はくちびるを震わせ、口を閉じた。
「また、何か書けたら、刑務官に提出しなさい。きちんと読める物なら、我々の方にも来るだろう」
 是丹具は新しいレポート用紙を芹沢に向けて置いた。

 是丹具と金田は玄関で身震いした。東京とは20度以上の気温差、厚手のコートでも寒さが染み入る。
 大沢は薄手のシャツで見送りに出た。短時間なら、慣れた気温だ。
「やあ、今回は・・・いえ、今回も空振りでした、いつもの事ですが。よくいるんですよね、ああいうの。他の事件の証人になって、死刑執行を遅らせようとするのが」
 是丹具はコートの襟を立てて、帽子を深くする。
「遠いところ、ご苦労様でした」
 大沢は小さく頭を下げた。氷点下の中でも胸を張り、泰然と立っている。
 是丹具と金田は玄関前のパトカーに乗った。冷え切ったエンジンをかけ、ゆっくり正門へ向かった。

 正門を出て左折、国道へ向けて走り始めた。道の左には刑務所の塀がそびえている。
 金田はヒーターのノブを回した。
「落ち着け、まだエンジンが温まってない。温度設定だけ上げても、温風は出ないよ」
 是丹具は寒がりな若者に忠告する。
「あの女・・・やっぱり殺してますよ、何人も」
「たぶんな」
 是丹具は金田の推測を否定しない。刑事のカンだ。
「なら!」
「だから、落ち着け。だとしても、あの女が殺したのはヤクザだ。あるいは、ヤクザ同様な半グレや不良どもさ。いちいち穿り返して、立件なんかするのは税金のムダってもんだ」
「ムダって」
「それに、あの女がいなくなったら、だれが死刑を執行するんだ。おまえがやるか?」
「し・・・死刑は、ちょっと」
 肩を怒らしていた金田だったが、急に身を引いた。
「何ごとも適材適所だ。死刑執行は・・・できるヤツにまかせとけ。あの魔女は適任だ」
「魔女なんて言い方、外国風ですね。日本風に言うなら、鬼でしょう。鬼のような女・・・アニメだと、恐ろしいけど可愛くなってたり」
 金田は肩を落とした。死刑執行官になる覚悟が・・・自分には無理と悟った。
 刑務所の塀が途切れた。バックミラーに映る旭川刑務所が遠くなった。
 横風が進路を遮る。盛り土の道に、粉雪が津波のごとく降り注いだ。
 40キロ制限の標識があった。雪が降る前にも見たが、こんな真っ直ぐで平坦な道、あり得ない速度制限と感じた。が、今は40キロの速度で走るのもままならない。路面は滑るし、風で車体は揺れるし、地吹雪で視界も不良だ。
 アクセルをゆるめ、風の中を徐行するしかない。

 こきこき、大沢が肩を回すと音が出た。寒さで筋肉が固くなったのかもしれない。
 事務室にもどり、マグカップに煎れておいたコーヒーを飲もうとした。口を付けると、すでに冷たくなっている。
 猪上がインターホンの受話器を置き、手を挙げた。
「4204号室からです。3番、決めたそうです」
 大沢はコーヒーの残りを一気に飲んだ。カップを置いて、ふうと息を入れた。
「よろしい。では、行こう」
「はい、行きます」
 大塚が応えて立ち上がった。
 肯き、大沢も笑みでドアへ向かう。筋骨たくましい男が後ろにいれば、囚人への対応も気が楽だ。
 かつかつかつ、大柄な二人の足音が響いた。




< 完 >