「科学哲学」受講ノート+α

遥か昔、1996年の夏に管理人が野矢茂樹「科学哲学」を受講して取った講義ノート。この講義は中学校以来、管理人が『科学』に対して抱いていた不信感・靄を幾らか取り払ってくれた。これで科学哲学オモシロス!となって、進学振り分けの第3希望を科学史・科学哲学科にしたほどだった。


<目次>
1.帰納と確証
 1−1 帰納の懐疑
 1−2 確証の原理
 1−3 懐疑の帰結

2.2つのパラドックス
 2−1 カラスのパラドックス
 2−2 室内鳥類学の限界
 2−3 グルーのパラドックス

3.確率の哲学的問題
 3−1 確率の公理
 3−2 確率の諸解釈
 3−3 確率空間の問題

4.帰納と統計
 4−1 仮説検定の考え方
 4−2 仮説検定は何をしているか
 4−3 推定

5.理論と観察
 5−1 観察の理論負荷性テーゼ
 5−2 「見る」ということ
 5−3 観測装置と背景理論
 5−4 理論負荷性テーゼの帰結

6.反証主義
 6−1 実証主義から反証主義へ
 6−2 科学と非科学の境界設定
 6−3 反証可能性と科学の進歩

7.反証主義の限界と科学の全体論的構造
 7−1 ケース・スタディ〜海王星の発見〜
 7−2 観察の可謬性
 7−3 補助仮説の存在
 7−4 ?
 7−5 理論はつねに反証にさらされている
 7−6 反証主義の限界と可能性

8.科学実践の構造
 8−1 枠組みと主題
 8−2 「実証」「反証」という概念の放棄→ゲームモデル
 8−3 リサーチプログラム論
 8−4 境界設定と科学の進歩

9.クーンのパラダイム論と科学革命
 9−1 パラダイムとは何か
 9−2 パラダイムの機能
 9−3 パズル解きとしての通常科学
 9−4 累積的進歩史観から革命史観へ
 9−5 教科書による革命の隠蔽
 9−6 科学革命論は正しいのか?



0.はじめに

以下の事項を扱う講義である。
(1)科学は純粋に実証的ではなく、独断を不可欠の要素とする。
(2)ある理論を確かめるということは、ライバル理論を蹴落とすことである。
(3)理論を評価する理論中立的な観点は存在しない。
(4)理論は検証も反証も不可能である。
(5)科学は進歩しない。
(6)科学は非世俗的な真理探究ではなく、社会現象の一つである。

補足
(3)理論を知っている人のみがそのデータを取れる。観察データ→→→(統計処理)→→→理論
(4)大胆すぎるか?


(ページ作成者注:講義の第1回でこの6項目を見たときは、衝撃というか「何を言ってるのだろう、この人は」という感じでした。「また人文社会学系の学者の世迷言だろ?これだから文系はww」と正直バカにしていました。ところが講義を聴いている内に、こうした主張は至極もっともなものだと思えてくる。自分がもっていた科学観がいかに浅薄なものだったか突きつけられる。大学で受けた講義の中でも一番面白い講義でした。)



1.帰納と確証

 帰納(induction):個別事例から一般事例を推測すること

1−1 帰納の懐疑

懐疑的テーゼ:いかなる一般的法則も実証不可能である

  問:貴方は、どうして太陽が明日も昇ると信じるのか?
    →太陽が昇る=地球の自転
     (運動の法則=外部から力が働かない限り自転し続ける)
        ↓
  問:なぜ運動の法則が明日も地球に適応されると信じるのか?
    (→今までそうだったから?過去の経験?)
     過去→→未来:ここのギャップは大きい。


斉一性の原理:他の事情に変化がないならば、物事は今まで通りに進む
  問:斉一性の原理はどうやって実証するのか?
    (→これまで当てはまったから?それこそ循環論法でマヌケだ!)


過去の経験の蓄積→→→→→→→→→→→→一般法則の実証
              ↑
          (斉一性の原理)
※しかし斉一性の原理もまた一般法則に過ぎない


(世の中に確かなことなんて何もないのさ)
(ヒューム:人性論)

<2003年夏学期テスト文章>「斉一性の原理」という用語を解説し、「斉一性の原理を帰納的に実証することはできない」という主張を説明せよ。




1−2 確証の原理

検証:verification
確証:confirmation

例)千匹の蛇を観察して全て冬眠すると分かった。
           ↓帰納
       全ての蛇は冬眠する

     さらに一万匹の蛇を観察。全て冬眠した。
           ↓
    法則はますます確からしくなる。


確証の原理:関連する観察を増やせば、それに応じて一般法則は確からしくなる。
  過去の経験の蓄積 →→→→→→→→ 一般法則の確証
                 ↑
            確証の原理:これもまた一般法則


もう一つの実証主義批判
 有限個のデータn個 →→→→→→→→ 無限に可能
    ↓    (データと整合する法則)   ↓
    ↓                  一つを選び出す、1/∞=0
    ↓観察を増やす
    ↓
    ↓
 n+m個のデータ

(管理人注:ここで1/∞=0とあるが唐突すぎてよく分からない。これについては2章の最後で言及される。また、有限←→無限のギャップについても同箇所で「完全検証不可能性」として言及される)



1−3 懐疑の帰結

純粋実証主義の戦略:観察と論理で実証されるもののみを科学は受け入れるべき

ここからのありそうな道
(1)実証主義を捨てる
(2)不純になる

(1)実証主義を捨てて、なお経験主義を保持する⇒反証主義
    経験主義→実証主義(positivism)と反証主義(negativism)
    反証主義=経験主義+批判可能性
(2)不純になる
  <見る><考える> これだけじゃダメ。
  <見る><考える><信じる>



2.2つのパラドックス

カラスのパラドックスグルーのパラドックスについて。

2−1 カラスのパラドックス(Hempel,C. 1945)

確証の原理:関連する観察の増加→法則の確証、であった。

一般法則の例:全てのカラスは黒い(L)
関連する観察1:カラスの勘太郎は黒い(O1)
関連する観察2:カラスのカー子は黒い(O2)
 ↑
関連する⇒法則から演繹される、ということ。

 理論 →→→→→→→→ 観察可能な予測(観察命題)
        ↑
      計算、演繹


全てのカラスは黒い(L) ←対偶→ 黒くないならばカラスではない(Lと論理的に同値)
                     ⇒黒くないものについての観察をすればよい





(仕切り直し)
ここまでずっとテーマにしてきたこと:実証主義的な科学観はどれだけ信用のおけるものなのか?
実証主義的な科学観:観察+論理→法則。
この法則を導くのに斉一性の原理や確証の原理を独断的に使用してきた。
まとめたいこと:観察+論理だけじゃダメだ、ということ。
どんな的外れな質問も歓迎します






2−1 カラスのパラドックス(続)

確証の原理:関連する観察の増加→一般法則はより確からしいものになる

全てのカラスは黒い(L)←対偶→黒くないものは全てカラスではない(Lと同値
この対偶に関連する観察:この黒くないものはカラスではない。
                例)白いチョーク、茶の机
                   ⇒論理的には、部屋に居ながらカラスの観察ができる!?
これをどう考えれば良いか?

(同様に、全てのカラスには脳味噌がある、など)



2−2 室内鳥類学の限界

観察事例1:黒くなく、カラスではないものたち
ここから導かれうる仮説
H1:すべての黒くないものはカラスではない(←→全てのカラスは黒い)
H2:すべてのカラスではないものは黒くない
H3:カラスは存在しない
H4:黒くものは存在しない

観察事例2:黒くてカラスではないものたち
H2とH4が反証される。

観察事例3:赤くなくてカラスではないものたち
観察事例4:赤くてカラスではないものたち
H5:全てのカラスは赤い



つまり、室内の観察⇒カラスは存在しない
             全てのカラスは黒い
             全てのカラスは赤い
             全てのカラスは黄色い
             全てのカラスはetc........
これらは果たして室内の観察によって確証されたと言えるのか?
そう言っても良い。
しかしそれは無益な確証である。では、有益な確証とはどんなものか?



カラスの例だけでなく、室内火星人学の場合も同様に
室内の観察⇒火星人は存在しない
         火星人には足がない
         火星人は一本足である
などが確証の原理によって確証される。

ここで、もし1人の火星人に出会って、その足が8本だったとする。
これで反証される仮説は、
         火星人は存在しない
         火星人には足がない
         1〜7本足である
         9本以上仮説

しかしなお、他の仮説
         火星人の足は人それぞれである
         火星人の足は季節によって異なる
は残る。


教訓・まとめ
「確証:観察 →→(裏打ち)→→単独の仮説」ではなくて、
確証とは仮説淘汰である
複数の仮説の中で、仮説を切り落としていくものである。
とりあえず生き残っているものが真理と見なされる。

(帰納のパラドックス(斉一性)、カラスのパラドックス、そして後述のグルーのパラドックスはそれぞれ示すものが異なるので、自己チェックの目安となる)



2−3 グルーのパラドックス(グッドマン)

(↑難しい。言語の直感をなくす。無理だけど…)

確証の原理:「Fなるものが性質Gを持つ」という事例がこれまで例外なく多数観察されてきたなら、「全てのFなるものは性質Gである」という一般命題は確からしいものとされる。


他の概念体系(例えば後述する「グルー」)を持って生きたならば、どう?
■グルーという概念(1)(2)
(1)1996年5月10日、11時半までに検査済のものに関してはグリーンのことを意味する
(2)1996年5月10日、11時半までに未検査のものに関してはブルーのことを意味する
エメラルドの色の検査において、上記のものに対してグルーであるという性質を与える。
注意:ここでは検査済のものはグリーンであり続ける、とする。色は変わらない。

以上のように「グルー」を定義すると、
これまでの観察 →(確証)→「全てのエメラルドはグリーンである」
                  「全てのエメラルドはグルーである」
これまでの観察により、両方の仮説が確証される。
(直感では下のグルー仮説はあっさり反証されるが、時間を変えると次のグルーが出てくる。11時半→12時など)


同様に…「パインエッグ」という概念を作る。
■パインエッグという概念(1)(2)
(1)駒場ではパイナップルを意味する
(2)他所では卵を意味する

これまでの観察 →(確証)→「全てのカモノハシは卵から産まれる」
                  「全てのカモノハシはパインエッグから産まれる」
これまでの観察により、両方の仮説が確証される。
反証するには駒場で実験をしなければならない。そうすれば新しい知見が一つ増える。


教訓・まとめ
純粋実証主義では上記の「グルー」「パインエッグ」という考えを笑えない!


■最後のあがき(反論の試み
  グルーはブルーとグリーンからの合成述語であり、
  ブルーやグリーンは基礎述語である。
  (独断であるが)合成述語をブロックしておこう。
  確証は基礎述語に限定しよう。

■上記の反論の試みに対する再反論
  何が基礎述語で合成述語か決めるのは独断である。
  例えば
    ブリーン=検査済はブルー、未検査はグリーン
  という概念を導入した場合、
    グリーン=検査済はグルー、未検査はブリーン
  と言ってしまえば合成述語と基礎述語は簡単にひっくりかえってしまう。
  即ち、「基礎・合成」の区別は恣意的である
  例)牛の頭にライオンの体をした生き物を「うしし」
    ライオンの頭に牛の体をした生き物を「ししうし」とすると、
    牛=「うしし」の頭と「ししうし」の体の生き物
    と表現される。
    習慣・伝統をとっぱらえば、これは同等である。
  つまり、純粋実証主義では成り立たない。


まとめ
純粋実証主義(観察と論理⇒法則)
ここにも不純な要素は多数ある。
不純な要素↓
・斉一性の原理
・確証の原理
・他の無数の仮説の無視(カラスのパラドックス)
・既存の概念体系を我々は前提としている(グルーのパラドックス)







(仕切り直し)
ここまで実証主義を扱った。
(帰納の懐疑、確証の懐疑、カラスのパラドックス、グルーのパラドックス。★各々が別のことを言っている!)

<復習と補足>
帰納の懐疑⇒斉一性の原理、という独断(未来)
        ⇒完全検証不可能性(法則→無限、証拠→有限のギャップ)
(ゆるぎない真理なんて!)
(検証は不可能→確証へ)


確証の懐疑⇒確証の原理という独断


カラスのパラドックス⇒単独の仮説を確証するのではなく、仮説の淘汰である
  ×観察 →→→→→→→ 仮説
         確証


グルーのパラドックス⇒既存の概念体系を唯一絶対視するのは独断である
(他の概念体系を利用したら、いくらでも他の仮説が可能となる)


<補足>
1/∞のパラドックス(これはまだ考えが浅い!)
仮説は無数に可能か?
(a)本当に無数に可能ならば本当に0になっちゃうの?

無数に可能である理由2つ
1)有限の証拠と整合する仮説は無数にある(理論の決定不全性)
仮説は無数に存在しうる
(↑黒が実験結果だとする。赤い回帰直線のような法則も、青い曲線のような法則も考えられる。)
※なぜ単純がいい?
※何が単純?
2)グルー的概念の可能性(無限に作れそう)


ここで我々を縛っている2つの制約を考える。
(1)実用主義の制約:技術的に全く扱えないものは無視しよう→単純さへの好み
(2)保守主義の制約:特に理由なく概念体系を変えてはならない
例:「惑星」plannet←さまよう人

法則→真か偽、という独断。
法則→とても役に立つ、ぜんぜん役に立たないという捉え方も?
(管理人注:1/∞以降の話は散漫でよく分からない…)

(ここで2章続いた実証主義の話は一区切りとなる)



3.確率の哲学的問題

3−1 確率の公理(コルモゴロフ、1933)

空でない集合Ωを考え、それを標本空間と呼ぶ。
<例:サイコロでΩ={1,2,3,4,5,6}>

Ωの部分集合を事象と呼ぶ。
<例:{2,4,6}⊂Ω>

事象の集合をFとする。
<例:{2,4,6}∈F>

確率Pは次の(1)〜(3)を満たすものとして与えられる。
(1)全ての事象Aに対して 0≦P(A)≦1
(2)P(Ω)=1
(3)AとBが排反のとき、P(A∪B)=P(A)+P(B)

(これが数学での確率であり、ここには確からしさのタの字もない)



3−2 確率の諸解釈

・客観説(確率は対象の性質)←→主観説(主体の信念、態度)

■(1)単純な主観説
 確率=ある人の信念の度合い
 弱点:信念の度合いをどうやって数字で扱うのか?
 (これはナンセンス)

■(2)客観説
 代表的なものは頻度解釈
 確率=lim(n→∞) 事象の生起回数m/試行回数n
 弱点:仮説の確からしさをどう解釈するのか?
 (例:ビッグバン仮説の確からしさ)

■(3)洗練された主観説
 確率=ある人が公平な賭率と合理的に信じる賭金の比率
 (例:ビッグバン仮説がもし正しいなら100円払う。もし誤りなら□□円もらう)
 (例:N氏が次のような信念をもってたとする。
     割れない…1/4
     2つに割れる…1/4
     3つ以上には割れない…1/3
  この例では確率の公理を踏み外している→どんな場合でも有利な賭けを仕掛けられることが証明されている。
 弱点:確からしさが個人個人で全く違うものになりうる。
     どうやって合意を形成すれば良いのか不明。

<正当化の構造>
(独断的)枠組みとして…【観察 →→→→→ 理論】
・観察→理論は演繹不可能なので統計的手法を用いる?
・理論は完全検証不可能なので確証へ。「確からしさ」=確率

(↑作成者注:こういう流れから第3章では確率、第4章では統計を扱っているということか?)
(次節からは理論を覆す話へ。)



3−3 確率空間の問題

(3−3節で言いたいこと:確率空間は既に中立ではない。理論を確かめる中立な立場は存在しない、ということ)

■(1)ベルトランのパラドックス
ベルトランのパラドックス0
問題:円に対してランダムに弦を引くとき、それが内接正三角形の一辺より長くなる確率はいくらか?
以下、Ωを水色、内接正三角形の一辺より長い弦を緑色、短い弦を黄色で表す。

<答え1>
ベルトランのパラドックス1
直径上にΩをとる。P=1/2

<答え2>
ベルトランのパラドックス2
円周上にΩをとる。P=1/3

<答え3>
ベルトランのパラドックス3
接線上にΩをとる。P=0。(P=定数/∞なので。)

以上、立場によって確率が変化している。すなわち、Ωを作る段階で既に中立ではない



■(2)量子統計
問題:3個の球を3個の箱にランダムに入れるとき、1つの箱に3個の球が入る確率はいくらか?

答え1:球も箱も識別可能
    Ωの要素は3^3
    1つの箱に入る入り方は3
    ∴P=1/9 →ボルツマン統計、(古典統計力学)気体分子運動論

答え2:球も箱も識別不可能
    Ω={(3,0,0)、(2,1,0)、(1,1,1)}
    ∴P=1/3 →量子統計(フェルミ統計:電子、陽子、中性子、質量数が奇数の原子核)

答え3:球が識別不可能、箱は可能
    Ωは(3,0,0)×3
      (2,1,0)×6
      (1,1,1)×1
    ∴P=3/10 →量子統計(ボース統計:π中間子、光子、質量数が偶数の原子核)

答え4:球が識別可能、箱は不可能
    Ωは(3,0,0)×1
      (2,1,0)×3
      (1,1,1)×1
    ∴P=1/5 →しかし、これはない

(そもそもΩを作るのは理論的洞察があってこそである)


確率の問題のまとめ
(1)数学的には確率の公理という大まかな形式が規定されているに過ぎない
(2)その解釈(客観説/主観説)は未決着の問題である
(3)確率空間の構成は既に一種の理論化に他ならない



4.帰納と統計

4−1 仮説検定の考え方

(この章で言いたいこと)
・仮説検定は仮説の確証でも反証でもない
・仮説検定は仮説淘汰に関わる実践的決断である
・統計は帰納的方法の数学化ではない



■問題:ある硬貨を100回投げたところ、表が60回、裏が40回出た。この硬貨は偏りがあると判断して良い?

まず、帰無仮説を立てる。
帰無仮説:不成立が見込まれる仮説。
この場合の帰無仮説は…
  H0:偏りがない、P=1/2 →→→→→ 後に棄却する予定。

P=1/2 の硬貨を100回投げて表がx回出る確率を f(x) とする。
これを正規分布で近似する。N(50、25):前の数字は平均値μ、後ろは分散σ
正規分布のつもり
(↑正規分布のつもりw)

一般に確率が0.05以下の事象は「まれ」であるとする。
この場合の0.05→有意水準。


■<仮説検定の戦略>
 ある観察データが仮説H0のもとで「まれ」とされ、仮説H1のもとで「まれ」でないとされるならば、H0を棄却する。

  帰無仮説H0  対立仮説H1
  まれ↓      ↓まれでない
    観 察 デ ー タ

この場合、H1を採用するわけではないH0を捨てる


前述の例に戻る。
帰無仮説 H0:P=1/2
対立仮説 H1:P>1/2(表が出やすい)
仮説検定の戦略
(↑緑色の部分がH0のもとではまれでH1のもとではまれでない区間。∫a∞f(x)dx≦0.05)
∫a∞f(x)dx=0.05となるaを標準正規分布をもとに求める。a=58.2。








(仕切り直し)
4−1 仮説検定の考え方(続き)
問:硬貨100回投げて表60回、裏40回出た。偏りはあるか?

(1)帰無仮説を立てる。
   H0:偏りなし。P=1/2 → 確率分布できる。N(50,25)で近似できる。

(2)有意水準を決定する。0.05など。

(3)対立仮説を立てて、棄却域を決める。
   H1:P>1/2

(4)標準正規分布を用いて、aの値を求める。
   ∫a∞f(x)dx=0.05
   a=58.2<60(棄却域内)
   ∴H0は却下。



4−2 仮説検定は何をしているか

(1)仮説検定は仮説の確証ではない。
  仮説検定は帰無仮説を却下する手法。
  却下しなかったものを確証するものではない。
  (良心的な本にはこのことが書いてある)
  (仮説検定は実践的な道具)

(2)仮説検定は仮説の反証でもない。
  問:仮説H0が棄却されたとして、次のいずれが正しいか?
  (1)H0は正しく、まれな現象が起こった
  (2)H0は正しくない、現象はまれではない

(3)対立仮説の必要性
  H0:まれ→×
  H1:まれではない→○
  仮説淘汰

(4)仮説検定の演繹的構造
  仮説、有意水準 →(演繹)→ 統計学 →→ 実践的決断 −−(帰納)−− 仮説、有意水準
  それゆえ、統計学では帰納の数学化ではない。



4−3 推定

観察データ →→→→→→→→ 棄却されない仮説
          ↑
    推定:仮説検定の裏返しに過ぎないので、同様のことが言える。

推定もまた、実践的決断のための道具であり、帰納の数学化ではない。


第4章のまとめ:再掲
(1)仮説検定は真偽を確かめるものではない。
(2)仮説検定は2仮説間の仮説淘汰に関わる実践的方法である
(3)仮説検定は帰納的方法の数学化ではない




(雑談:オームの法則V=RIはどう確かめたのか?
電流計・電圧計はオームの法則を前提としている。)
(電流、電圧は目にも見えないものなのに。)
(すなわち、学校の実験は八百長のようなもの。→ではオームは何をした?5−3節にて後述する。)


5.理論と観察

5−1 観察の理論負荷性テーゼ

問:観察は理論に中立だろうか?

■素朴な答え:Yes。

  天動説       地動説
   ↑解釈・理論化の違い↑……理論の裁定者
  理 論 中 立 な 観 察

(理論中立な観察が存在するという立場。観察の解釈の違いにより天動説、地動説などと理論が異なってくる。)


■過激な答え:No。

  天動説       地動説
   ↑         ↑
  天動説に      地動説に
 基づいた観察    基づいた観察

(理論中立な観察などは存在しないという立場。そもそも観察の時点で各々の理論を支持するバイアスがかかっている。)
それゆえ理論の対立は常に水かけ論となる。
観察は理論に依存する観察の理論負荷性テーゼ

(この観察の理論負荷性テーゼはどういう意味で正しく、どういう意味で間違っているのだろうか?)

<1998年冬学期テスト文章>「観察の理論負荷性」とはどういう主張か、説明せよ。



5−2 「見る」ということ

問:知覚は理論中立的か?

■Yes の立場
知覚は理論中立的か?
(↑この立場では、「見る」段階ではあくまで理論中立的であり、「思考解釈」の段階で判断・処理される際に理論的となっている。)


■No の立場
ゲシュタルトの成立
(↑立方体?平行四辺形?線分に囲まれた面?)
ゲシュタルトの成立:見ることは既に思考や解釈を含んでいる


見ることを規定するもの
(1)文化(黒板消しを知らない人はサンダルだと思うかも)
(2)関心(赤いスペードのAを見ても赤いダイヤのAだと思うかも)
(3)理論(専門家と素人では見えるものが違う。X線写真など)

現象はそれを意味づける体系が異なれば、異なって見える


(2000年夏学期テスト文章より抜粋。
 観察は理論に対して中立で確実な基礎を与えるべきという要請から、いっさいの推論を含まない直接的な観察としてセンス・データを立てる議論が出された。だが、理論と観察の関係はより密接なものであると批判され、「現象はそれを意味づける体系が異なれば異なって見える」と主張された。この主張は観察の理論負荷性と言われる。)

(2006年夏学期テスト文章より抜粋。
 センス・データ論は、(6)を「センス・データ」と呼び、センス・データの観察だけが(7)と考えて、そこに科学を基礎づけようと考えた。このようなセンス・データ論に対して、観察の理論負荷性テーゼは「(8)」と主張する。このことはさらに、「理論」ということへの考え方の転換も促す。理論に対する素朴な見方は、与えられたデータを整合的にまとめあげるというものであるが、観察の理論負荷性を認めるならば、理論には(9)という側面もあると言うべきである。)



5−3 観測装置と背景理論

例:ガリレオの望遠鏡による天体観測
(望遠鏡の信頼性、世界観の問題)


例:オームの法則の実験(再び。1826-27)
V=RI
↑これらの変数はそれぞれ独立に観測しなければならない。
(1)V:電圧について。
  電池2個ならば電圧は2倍という独断(内部抵抗があるというのに!)
  →内部抵抗が出ないようなものを使った。熱電池、熱起電力。1821ゼーベック効果(新しい)
(2)I:電流について
  1820エールステッド(新しい)
  電流を流すと磁針が動く。電流が2倍ならば磁針の動きが2倍という独断
(3)R:抵抗について
  針金の長さが2倍ならば抵抗は2倍だろう。
  Rが定数だということを示さなければならない


5−4 理論負荷性テーゼの帰結

(1)科学的発見
問:科学的発見は観察先行型ではなく、理論先行型か?


例1)酸素の発見
(i)フロギストン説
燃焼:フロギストンが空気中に放出されること
フロギストン1
(フロギストンは負の質量をもつ?)
(ii)プリーストリー:脱フロギストン空気の発見(後の酸素)
(iii)ラヴォアジエ:新しい燃焼理論。oxygene=oxy(酸)+gene(発生)、酸素(酸の素)

問:酸素はいつ発見されたか?

先行理論のもとでの観察 → 新たな理論のものでの新たな意味づけ
フロギストン2



・補足説明
ゲシュタルト
ウサギ←→アヒルの反転。
(形のまとまり)≒ゲシュタルト
すなわち、意味体系が異なるとゲシュタルトチェンジをする



例2)海王星の発見。1846年
・ガリレオ … 恒星だと考えた
・アラゴー(仏) … 別の惑星というアイデア
・ルベリエ(仏) … アラゴーに位置計算を勧められる
・ガレ(独)   … ルベリエに観測を勧められる(ドイツに星図はあった)
・アダムス(英) … エアリーに位置計算を送るが無視される
・エアリー(英) … 無視する。後に探して観察して記録するも気づかず


以上から、こう結論したい。
科学は虚心坦懐な観察から始まるのではなく、むしろ先行理論から始まる

(作成者注:海王星の発見の話はなぜここで出てきたのだろうか?思い出せない…。)



(2)理論評価
問:理論負荷性テーゼから理論評価の不可能性が帰結するのか?
理論評価の不可能性→『観察は中立な裁定者たりえない。それゆえ、理論間の対立は常に水かけ論である。』
(常に水かけ論になりうる。しかし理由は異なる。理論の全体的構造に関わる。)

例)天動説と地動説
 両者が共有する観察をする。
 夜空の観察(1)星のほとんどは等速円運動をする
 夜空の観察(2)太陽はらせん運動
 夜空の観察(3)不規則な運動をする星がある

理論の入れ子構造

両者で共有される観察:(中立的とは言わないまでも)全く共有しないわけではない。
 →5−1のような過激なものの言い方は言い過ぎであろう。

  共有される観察

(作成者注:理論の入れ子構造については後述あり。ここでは少し消化不良…)


6.反証主義

(2000年夏学期テスト文章より抜粋。
 実証主義は観察論理のみで正当化されるものを、そしてそれのみを科学は受け入れるべきとする立場である。しかし、個別事例から一般法則を導く帰納のステップには斉一性の原理が前提にされており、しかも斉一性の原理は実証主義の原理からは導けないものであると議論される。そこで、実証主義に代わるものとしてポパーが提唱したのが反証主義であった。すなわち、「観察論理のみで反証されるものを、そしてそれのみを科学は受け入れるべき」という立場である。)


6−1 実証主義から反証主義へ

(魅力的ではあるが限界があり間違っている反証主義の話を暫くする。)
(参考書:チャルマーズ「科学論の展開」)
(経験主義の流れは 実証主義→反証主義)


純粋な経験主義の戦略:観察と論理のみを科学の合理的方法として許そう。

純粋な実証主義:純粋な経験主義+実証可能性
         「観察と論理のみで実証可能なものが科学

純粋な反証主義:純粋な経験主義+反証可能性
         「観察と論理のみで反証可能なものが科学

(現時点ではイメージが湧かないだろうが、これらの考えについて今後は掘り下げてゆく。)


6−2 科学と非科学の境界設定

(1)検証(確証)と反証の非対称性
反証
(↑左は確証、右は反証。一つの観察のみで『全てのカラスは黒い』は反証されうる)

反証は観察と論理のみでなされる。



(2)科学の合理性の基準としての反証可能性
例)空疎な劣等感理論(アドラーの心理学?)
  『全ての行為は劣等感から生じる』
  →いかなる観察によっても反証不可能
  →疑似科学(科学のふりだけど科学ではない)
例)空疎なエゴイズム理論
  『全ての人は常に自分のもっともやりたいことをする』

反証可能性
 理論Tから観察命題O1、O2、……、Onが演繹され、O1、O2、……、Onのいずれかが否定されればTも反証される。このような可能性をもつとき、その理論は「反証可能性」をもつと言われる。このときO1、O2、……、Onを理論Tの「潜在的反証例」と呼ぶ。

例)空疎でないエゴイズム理論
  最大の欲求 →→→→→→→→→→ 行為(予測)
    ↓
  脳の状態で調べる
(素晴らしい脳学?になったとする)

つまり、A→B
法則「A→B」が反証可能であるためにはAはBと独立に観察可能でなければならない(非循環性の要求





(教祖?カール・ポパー「科学的発見の論理」(恒星社)上巻の前半がお勧め。)

(2つ抑えておきたい問題がある。
  ・境界設定の問題。科学と非科学との境界設定は?
  ・科学の進歩。何をもって科学の進歩とするか?)

(Q:なぜ実証主義から反証主義になると強力になるのか?
 A:観察と論理では実証はできないが反証はできるから。)

(反証不可能で合理的な批判のプロセスを持たないものを非科学とした。
 ・反証の例をつきつけてみる。
 ・法則決壊の可能性は?
 どういうときに法則の誤りが分かるのか、はっきりしなければならない。)

(経済学は科学か?ポパーは認める。
 重要なのは、構造として潜在的反証例を持っているか。)

(『強い理論』→反証っ可能性が大きい。
 生き残ってるということだから。)

(科学理論はほとんど循環している。
 循環ではないものを全て除くのは要求として強すぎるのではないか?)

(空疎ではないエゴイズム理論に関して。
   欲求 →→→→→ 行為
 循環している。欲求が独立していない。
 欲求は行為によって観察され、欲求は調べようがない。
 それゆえ、後知恵でしかない。
 行為と独立に欲求が分かって、観察されなければならない。)


6−3 反証可能性と科学の進歩

<反証可能性の大きさ>
 理論T1の潜在的反証例が理論T2の潜在的反証例を含むとき、T1はT2よりも反証可能性が大きい。

<進歩の原則>
 科学理論は反証可能性を増大させる方向に変化しなければならない。


6.3.1 理論の包括性、精密性
例)法則1 … 火星は太陽の周りを回る。
  ↓精密化
  法則2 … 火星は太陽のまわりを楕円軌道で回る。
  ↓包括的
  法則3 … 全ての惑星は太陽のまわりを楕円軌道で回る。
精密、包括により反証可能性がupしている。


6.3.2 アド・ホックな修正
(アド・ホック→その場しのぎ、ということ)

例1)月の形
 ガリレオ 月の表面の凹凸の観察 ←→ アリストテレス主義の宇宙論(月=完全な球体)

(アリストテレス主義者はアドホックな修正としてガリレオの観察結果を排除する。
 『ガリレオの観察は認めるが、しかしなお月は完全なのだ。
  月の周囲には透明で完全球体な被膜があるのだ。』
 ガリレオ「なぜ分かる?」
 アリスト主義者「分からないのだ」)













(仕切り直して…)
<復習>
(1)検証(確証)と反証の非対称性
   観察と論理のみでは理論の検証は不可能
   観察と論理のみでは理論の反証は可能

(2)科学と非科学の境界設定
   反証可能なものが科学

(3)科学の進歩
   進歩の原則:反証可能性を減少させるような理論変化は拒否すべし
   精密化、包括化は進歩

(4)アドホックな(その場しのぎの)修正 … 認めない
   例)空疎なフロギストン説(熱素)
  フロギストン説
フロギストンが燃焼により空気中に放出されて軽くなる。
しかしきちんと実験→重くなる!
フロギストンは負の質量を持つ(この段階ではアドホックではない)
Q「フロギストンの重さはどう測るの?」「燃焼と独立で測れるの?」
A「燃焼でしか分からない」→(この段階で、アドホックとして却下する)
  循環構造



<上記復習部分の講義おこし>
 今までは、理論を正当化するということに関して、色々論じてきた。例えば『確からしさ』っていうのはどんな意味を持つのか、それを数学的に実現していると思われる統計が何をしているのか、などを考えてきた。こうした理論を正当化するという観点から、むしろ理論を批判するという観点に移ってみた。科学理論というのは合理的に正当化されるから〜という言わば素朴な見方もあるが、合理的な批判の可能性こそが科学を科学たらしめているのだ、という発想に移っていった。それが反証主義だった。

 まず第一に言えることは、検証(確証)と反証の非対称性。検証というのは、絶対的に真だという風に正当化することで、確証というのは、それ(検証)は無理だから確からしいものだとして確かめよう、というもの。これに対して反証、がある。観察と論理(論理は少し広げて数学も含む)のみによって(ーーーこれは経験主義の原則だがーーーそして純粋な経験主義は多分成立しないだろうがーーー)、理論を検証したり確証したりするのは不可能である。

 どういうことかというと、まず斉一性の原理が必要だとか、確証の原理が必要だと。そして、こうした斉一性の原理や確証の原理を純粋に経験主義的に正当化しようと思ってもできることではない。さらにグルーのパラドックスに見られるように、我々の持っている概念体系というのは、ある経験よりも前の、ーーーカント的な言い方をすればア・プリオリにーーー前提とされている。我々の持っている概念枠というのは歴史と伝統の中で育まれてきたものだから、さらなる歴史と伝統の変遷によって変わりうるものだし、あるいは革命的な事態が起こりうるものでもある。そういう歴史伝統に根ざした概念枠の上に成り立っていて、概念枠そのものが観察と論理のみでどうこうできるものではない。(同じことが反証主義にも言えるような気はする。)

 だけれども、観察と論理のみで反証は可能だと思われる。というのは、特に弁証命題「全てのカラスは黒い」とか「全ての〜」という命題と個別の命題との関係を調べたときに、個々のカラスの黒さをいくら調べても「全てのカラスは黒い」の正当化には論理的には至らない。しかし一羽でも白いカラスが見つかれば、少なくとも「全てのカラスは黒い」ということは反証される。これは観察と論理のみによって可能である。

 ややこしいのは、「殆どのカラスは黒い」という風に多少だまくらかされた場合、どうやって反証するか。これはもう統計的な処置をとって、多くのカラスを調べて、むしろ「殆どのカラスは黒くない」あるいは「半々くらいである」と割合を調べて「殆どのカラスは黒い」という主張を却下する。

 ただ、ここでは準備不足のためあまり追求はしないが、確率的な命題の反証はどうやって可能なのか。一言で言ってしまうと「天気予報は科学なのか」ということなのだが……。前述したが、「明日、雨が降る確率は30%である」と言ってカラッと晴れたとしても、間違いではない。もっと極端なことを言えば「明日、雨が降る確率は99%である」と言ってカラッと晴れたとしても、それは間違いではない。「1%が出ましたね」と言えばおしまいである。ただ、どうやって確率的な命題を反証するのか。気象予報士の確率的な命題というのは反科学、ほとんど天気宗教なのか?というと「いやあ…」という感じはする。

 これをどう扱うかというと、一つには確率の頻度解釈を取って(ーーーー主観解釈をとると反証可能性をどう解釈したら良いのか分からなくなってしまうのでーーーー)統計的に処理するのだろう。今まで同じような経験が繰り返されてきて「こういうような気圧配置のときには8割方、翌日雨になったものですよ」と気象予報士が言っているのだとすれば、それはデータ処理をすれば「嘘ばっかり言ってるよ、4割しか雨になってないじゃないか」という形で反証することもできる。だから頻度解釈をとれば、統計的に例えば「8割のカラスが黒い」と言われれば、「嘘をつけ、6割じゃないか」という風にして対応することができる。いずれにせよ、確率の解釈がきちんと定まっていないから、それに応じて確率命題の反証可能性という問題も起こっている。

 なぜそういう話を準備してこなかったかというと、大事じゃない話だからというよりも、反証主義はもっと重要な欠陥を持っていて、その欠陥を指摘し、それに代わる科学のモデル・科学観を伝えることの方が急務だと考えたためである。



 まず一番は検証(確証)と反証の非対称性。確率命題については、何かわだかまりが残るということは頭の片隅に入れておこう。

 そして反証主義はこれに基づいて、科学と非科学の境界設定を行う。数十年前、50年も経ってはいないのだが、この科学と非科学の境界設定というのはこの時分かなり潔癖に考えられていて、『科学は宗教とは違う、科学は独断ではない、科学は何か合理的な知の営みである』という感じがかなり強かった。今現在はどうかというと、科学と宗教を同一視するようなのはやはり極端だなぁという気分を持ちつつも、その違いというのはこのころ考えられていたような明確なものではないだろう、という気分の方が蔓延している。 恐らく、この話に触れている学生諸君も同じような印象を持っているのではないかと思う。

 聞いてみよう。自分のイメージを今吟味してみて欲しい。科学と宗教というのは全然違うものである、科学というものは独自の合理的な人間の知的活動なのだと、いう風に思っているか。それとも、科学もまた宗教と同じとまでは言わないまでも連続的な程度の違いでしかないんだという気分を持っている人。なるべく今までの僕の話に汚染されずにその前の自分の気分を思い出して欲しい。科学の宗教に対する独自性というか、独自の合理的活動だというイメージを持っている人は手を挙げて欲しい。科学と宗教の程度的な連続性というイメージを持っている人は手を挙げて欲しい。(→後者の方が多い。)今までの僕の話を聞いていたから、ということもあるかもしれない。それだとあまり良くないので、始めに聞いてみるべきだったかもしれない。しかし、まだ科学の独自性を信じている残党がこんなにも居るのか、という気はする。ちょっと時代遅れというか、古い問題意識かなという感じがする。

 どうやって境界設定をするかというと、やり口は上手い。反証可能なものが科学であると。感覚と論理のみによって反証可能なものは科学であって、感覚と論理のみによって反証可能でないものは非科学である、という風に、非常に明確な境界設定の基準を立てる。

 そしてもう一つの自慢は、科学の進歩である。科学の進歩に対して、より反証可能性が多いような理論へと変化していかなければならないというのが科学の進歩に関する話だった。進歩の原則というのをーーーこれは私が勝手に思いつきで名付けたのだがーーー簡単に言うと、反証可能性を減少させてはいけないというものだった。より増大させなければならないのか、減少させてはいけないのか、その辺はよく分からない。つまり、反証可能性が同じ程度のレベルで修正されていったときに批判されるかどうかは、よく分からない。だから、弱い原理である。反証可能性を減少させるような理論変化は却下する。つまり、増大か、減少させないかということで、イコールをどうしようという話だが、これははっきりしない。

 これに関しては次の話題にもなるが、科学は進歩するか、という話題で、やはり今の気分としては「科学は進歩しない」という気分の方が大勢を占めているのではないかと思われる。また挙手してもらうと、同じくらいの割合で、進歩するというのが3割くらい、 進歩しないというのが4割くらいで、残り1割が「うーん」と言ってるような気はする。

 もう一つ、進歩の原則で理論の精密化・包括化は、その理論の反証可能性を増大させることである。だから進歩の原則は、より精密科学になっていくこと、より包括的な科学になっていくことを理論的にバックアップするものになっており、なかなか良くできている。 そしてアドホックな修正を拒否する原理を与えている。

 少なくとも私の眼には反証主義というのは極めてチャーミングであって、こうした事柄を非常に単純な論理的な洞察から次々と導いていった当時の反証主義者達は、極めて学問的に興奮した状態にあったことは予想される。嬉しかったと思われる、こういう風に次々ときれいな議論が出てくるわけだから。それまでの訳の分からない、ヒュームの帰納の懐疑がどうのと言っていたのが、このようになっていくのだから。しかし幸せな状態というのは長くは続かないものなので…。

 アドホックな修正、これは「その場しのぎの」とでも訳して良い言葉。アドホックな修正の例として、もう一つだけ付け加えておく。 (以前3つと言ったが、3つ目は次の章で後述する。)それは空疎なフロギストン説。空疎な、とつけ加えたのは私のバイアスがかかっている。私自身はフロギストン説が結構好きなので、悪口を言いたくない。だからフロギストン説の中でも『空疎な』フロギストン説が反証主義者によって切り捨てられる。フロギストン説そのものは、恐らく反証主義者の剃刀によっても切り落とされないで生き残る可能性はあると私は考えている。その点は後で説明する。

 フロギストン説とは何だったかというと、これは日本語では燃素説と呼ばれることもある。『燃焼というのは、物体の中のフロギストンなる燃焼用の元素が逃げていくことである』と考えていた18世紀はじめ頃の燃焼理論だった。それ以後、ラヴォアジェによる新しい燃焼理論によって取って替わられる。

 このフロギストン説が批判に晒されるポイントは何だったかというと、「フロギストンが出ていく過程が燃焼であるならば、モノを燃やしたら軽くなるだろう」。これは我々の日常的な観察にもマッチしている。物を燃やしたら軽くなる。例えば電話帳1冊を燃やしたら、軽い灰になる。良いじゃないかと思うのだが、きちんと実験をしてみると、燃やしたら重くなる。燃焼とは酸化であるから、酸素の分だけ重くなる。きちんと実験してみせて、重くなったぞ!と言ったときにフロギストン説の方の応対は何だったかとうと、「フロギストンは負の質量を持っている。だからフロギストンがあると軽くなるのだ。軽くなるものが出ていくのだから、重くなるのは当然だ」と言ったのだった。これもある意味ではありそうな発想で、例えば風船の中にヘリウムガスを詰め込むと、もち上がってゆく。風船そのもの=ゴムの重さは変わらないのだから、ヘリウムガスというのは負の重さを持つのだろう。負の重さを持つからこそ、上に上がるのではないか。浮力とか、そういう話を全然知らなければ当然そう考えるだろう。だから、負の重さというもののがあっても、そんなに不思議ではない。だから、やってはいけないことは「我々の考えと違うから嘲笑う」、これが一番いけない態度である。そんなことでフロギストン説を馬鹿にしてはならない。そう馬鹿にした理論ではない。

 だからマイナスの質量を持つのだ、というだけではアドホックという風に反証主義者にケチをつけられる云われはない。どうするとこれがアドホックになるかというと、反フロギストン論者達が「フロギストンは負の質量を持つ」という命題の反証可能性を吟味したときである。そこで反フロギストン説論者達は「じゃあ、フロギストンの重さはどうやって測るのか」と聞く。そのときに、もしフロギストン説の論者達がフロギストンの重さを測る燃焼現象と独立の手順を開発してくれれば、それはアドホックな修正ではない(恐らく反証はされるだろうが)。

 そうではなくて、ありそうな事としてはーーーフロギストン説はそこで空疎化してしまうのだがーーー「フロギストンの重さは燃焼現象の前後を調べることによってのみ測られる」と言った場合である。どうしてフロギストンが負の重さを持つのか分かるかと言えば、今度は逆に「モノを燃やしたら重くなる、このことがすなわちフロギストンが負の重さを持つということじゃないか」ということなると、議論が循環の構造を持つことになる。フロギストンが負の重さを持つということが燃焼と独立に実験的に測定されて、それゆえ物を燃やしたら重くなるんだという風にすれば説明価値もある。だけれども、フロギストンが負の重さを持つということが燃焼現象に属してしか測れないのだったら、前回話したような感じになる。A→Bという拘束文で、「Aという前提が満たされていることがどうして分かりますか?」と言えば「Bが成立してることからしか分からない」という循環の構造が起こってしまう。それと同じことが起こってしまうわけだ。「フロギストンが負の重さを持つから、物を燃やすと重くなるのだ」。それで「どうしてフロギストンが負の重さを持つのが分かるか」というと、「燃やしたら重くなるじゃないか」と。ミもフタもない言い方をしてはいけないけれど、衣装を剥がしてみて裸にしてみれば結局そういう風に循環の構造を持ってしまったら、そのときフロギストン説は空疎のものになる。だがらフロギストン説がアドホックになるかならないかの分かれ目は、コイツがコイツを調べる独立の(方法?)があるかどうかに懸かっている。おそらく歴史上、ちゃんと調べたわけではないが、フロギストン論者はそういうものを出さなかった。空疎なフロギストン説というのは、こうした循環構造をもってしまったフロギストン説のことで、その場合はこれはアドホックな修正であるとして、反証主義者は(否定する?)。

 さて、ある程度魅力的だと感じられた反証主義の立場であるが、時間がきているので、大慌てで今後はそれをケナさなければならない(第7章に続く)。




<7章に入る前の雑談部分の講義おこし>
 雑談のレベルで聞いて欲しい。こういう話をすると当然出てくる議論で、諸君の中から質問してくれる人が出てくると面白かったのだが、「そういう風に言っている反証主義の主張の反証可能性はどうなんですか?」という穿った質問出てくる。「貴方はどうなんですか?」と、こう来るわけだ。「貴方の反証主義というのはどういう風に反証されるのですか?」といったときに、「反証主義は正しいから。」と言ってはいけない。どうなったら「ゴメン」と言うのか、それを言わなければならないのだから。もし反証主義のテーゼが観察と論理のみによっては打ち立てられないようなものであったら、反証主義者はそこで純粋な経験主義の戦略を自ら切り離している。彼らが純粋な経験主義者の中に留まろうとすれば、反証主義のテーゼというのも、観察と論理のみによって反証可能でなければならない。多分これは、ちゃんと考えると非常に困った問いだと思う。これも僕は7章のほうに急いだわけだから、きちんと準備してきていない。何とか答えられるのか、それともこれは致命的で答えられない抜けない骨になってしまうのか。まぁ、そういう問題はある。


7.反証主義の限界と科学の全体論的構造

(全体論的←→原子論的)


<7節導入部分の講義おこし>
 7章では反証主義がどんな風な限界を持っていて、どうして成立しないのか。反証主義が成立しないということは、科学が持っているどういう構造を明らかにしているのか。そういうことに触れていきたい。

 予め言えば、ここで『全体論的』と書いているのは、これは『原子論的』に相対する言葉で、今まで伝えてきた実証主義も、あるいはもう少し歴史に則して言えば、ポパーが批判してきた論理実証主義者というーーーー当時の記号論理学の展開を受けて、先鋭化した論理学と、観察とから実証可能性をもって科学を(構築しよう?)としたーーー論理実証主義者達も、それを批判したポパーも等しく、科学を原子論的な構造で捉えていた、と批判される(これは今日後述することを予告しているのだが)。

 原子論的構造とは何かというと、科学が持っている命題をーーー法則なら法則をーーー単独で取り出して、単独で意味のあるものとして、単独で実証したり検証したり反証したりすることができるようなものだという風に考える、それが科学の原子論的な見方である。もう一度言う。ある法則を単独で取り出して実証したり反証したりしようとする、あるいはある法則が単独で明確な意味を持つとする、それが原子論的見方である

 今言ったことは正確に言えば、さらに2つに(分類?)できる。前者が実証反証に関する原子論的な見方、後者は意味に関する原子論的な見方、と言えるのだが、この授業ではこれ以上は踏み込まない。とにかく、法則が単独で何か意味を持つーーー実証されたり反証されたりする。

 それに対して全体論的構造というのは、法則を単独で取り出しても、実証も反証も不可能である。さらに強く言えば、意味を与えることさえ不可能である。意味を持つ単位、実証されたり反証されたりする単位は、理論とそれを取り巻く科学の全体ーーーある有機的な構造全体であるーーというのが全体論的構造と呼ばれるものである。これをさらに説明していくのが今日の後半で行うことである。

 だからポパーも、そのポパーが批判してきた論理実証主義者も、原子論的であるという意味では同じ穴の狢であったという風に批判されることになる。



7−1 ケース・スタディ〜海王星の発見〜

  海王星の発見


<7−1節部分の講義おこし>
 先週3つ目と言っていた実例であるが、ーーー同じ例ばかりで気が引けるがーーー海王星の発見を使ってみる。海王星の発見について、どういう風に諸君に反証主義者との絡みで説明しようかというと、なかなか微妙なものがあって、一番最初にまず考えることは、『海王星の発見というのは反証主義に対する批判になるのではないのか』というのがまず第一観である。もう少し考えてみると、『いや、反証主義者もこの海王星の発見の事実をうまく説明できるどころか、寧ろこれは反証主義にとって有利な事例である』と見える。さらにもってよく見ると『嗚呼やっぱりダメだ』となる。こういう風にいつまでも転がっていても仕様がないので、どこまでやるかというと3番目「やっぱり駄目だ」というところまで、ここでは触れる。



 まず最初に『一見して反証主義に対する反対になりそうだ』ということに触れる。海王星の発見というのは19世紀の科学史上の事件で、ニュートンの万有引力の理論に基づいて天王星の軌道を計算したところ、それが観測された軌道とズレていることが分かった。天王星の軌道のズレをどう説明するか、といったときに『天王星の近所に我々の知らない未知の惑星があって、それが天王星の軌道をズラしているのだ』と考えた。そしてそこの位置をルベリエが計算して、ベルリンのガレという人が望遠鏡を覗いて見事発見した、という話だった。

 このときに、まず天王星の軌道のズレという反例が、それでもってニュートンの理論を反証したかというと、反証しなかったわけだ。ニュートンの理論があって、それから天王星の軌道のズレを観測する。×は一致しなかったという意味で書いた。軌道を計算すると観測と一致しなかった。そうすると、単純な反証主義者によれば、『だから翻ってニュートンの理論が間違っていた』となるべきであって、ニュートンの理論が合理的ならば、この反証例をもってちゃんとゴメンと謝るべきだった。…でも、ならなかったじゃないか。そのときに、ニュートンの理論は『いや、未知の惑星があるのだ。』などと言って、実際に未知の惑星を見出してしまった。これは見事に成功した保身の例ではないか?フロギストン説だって『負の重さがあるのだ』という言い方をする、そこの所までは『未知の惑星があるのだ』と言うのと同じようなことではあるまいか。例えば、ニュートン力学に従わないような物体の運動があったとする。そのときに『万有引力以外の未知の力が働いているのだ』と言うと、我々は馬鹿馬鹿しく思うけれど、それが『未知の惑星があるのだ』と言うのとどのくらい違いがあるのか?

 結局そこら辺で、何のかんのと反例を突き付けられても理論は生き延びていくではないか?これは見事に成功した例であって、あれは見事に失敗した例である。という風に、理論が持っている言い抜けの構造を指摘すると、反証主義はうまく行かないように一見思われる。これがまず第一である。



 第二は、でもよく見ると、ニュートンの理論というのはニュートンの理論だけではなく、これに初期値みたいなものがある。太陽系の惑星の状態というものがあって、ニュートンの理論と太陽系の惑星の状態とが合わさってーーー簡単に言えば微分方程式の初期値みたいなものからーーーある軌道が計算される。それが観測と一致しなかったということは、こちら(=初期値)を修正したのだと。 『ああ、未知の惑星があるのだ』と言ってこちら(=初期値)を修正したのだと。反証主義者はこの修正がアドホックかどうかを吟味する。アドホックでなければ、『この修正は進歩だ』と見るわけだ。

 考えてみると、ルベリエが『あの位置に海王星がある』と言ったときに、もしその位置に望遠鏡を向けて星を見出さなかったら、それは反証されるわけだ。『なかったぞ!』と言うとルベリエが『ごめん…』と言うわけだから。ということは、『ある位置に未知の新たな惑星がある』という主張は十分観察に乗っかる経験的な意味を持っていて、反証可能性を持っているのだから、今までの理論に加えて『〜〜の位置に新たな惑星がある』という主張をつけ加えると、全体として反証可能性が増えるじゃないか。全体として反証可能性が増えているわけだから、これは立派な進歩であるーーーーという風に反証主義者は言う。これが2番目である。つまり、もう一歩踏み込んで考えてみると、この事例は反証主義に有利に働くように見える。



 で、第三に、さらにもう一歩踏み込んで考えてみよう。科学史上の事例ではなく、空想上の話、空想の物語を考えてみる。もし『〜〜の位置に未知の惑星がある』とルベリエが計算した、その主張は本当に反証可能性を持っていたのだろうか?ということを考えてみる。そのために、もしその位置にその惑星が見出されなかったら、そのとき本当にルベリエは『ごめん』と言っただろうか?考えてみる。見出されたから良かったようなものの、もし見出されなかったらどうなっただろうか、想像力を駆使して考えてみよう。

 そうすると、まず念頭に置いていて欲しいのは、本質的ではないかもしれないが極めて重要なこととして、ニュートン力学はかなり信頼性を獲得していて、いかな遠方といえどもニュートン力学が成立していないというのは、やっぱり許し難いことである、だからニュートン力学は何としても墨守したいーーーーこの頑迷な気分をまず共有して欲しい。もしここに新たな惑星が見出されなかったとするならば、天王星の軌道のズレを説明する手段をとりあえず失い、遠方におけるニュートン力学の成立に疑惑の眼差しが向けられる。…とするならば、ここに惑星があって欲しいわけである。ここに惑星があって欲しいのに、そこに惑星が見つからなかったならばーーー『見つからない』ということと『無い』ということは異なるのでーーーー『あるんだが見えないんだ!』とする。

 それはどういうことかというと、一つの可能性は、その未知の惑星は極めて密度の大きい惑星で、必要な質量を持つのに大きさが極めて小さい惑星である。非常に小さい惑星だから、『現在の望遠鏡の精度ではーーー当時そんなに精度のある望遠鏡ではなかったと思うのでーーーー見出せないのだ。だから!』と意気揚々と言うわけだ。『もっと大きな望遠鏡を開発しよう!』…こういうのは嬉しい。…予算が取れるので(笑)。『あそこに惑星があるはずだ。でも見えない。望遠鏡が悪いのだ。もっと良いのを開発しよう!』となる。そこで国家予算をかけて、あるいはパトロンを見つけて望遠鏡を開発する。これが科学の技術の進歩を促すわけだが(笑)ーーー望遠鏡を開発して、かなり精度の高いーーー分解能の高いーーー望遠鏡を使ってルベリエの言った位置を調べてみる。

 …それでも見つからなかったとしよう。望遠鏡が悪いんじゃないかもしれないけども、望遠鏡も悪いかもしれないから、望遠鏡の開発はきっと続けると思われるが、しかし一つの可能性としては、その未知の惑星の周りに宇宙塵ーーー塵が取り巻いていて、それゆえにその惑星を地上から見ても見つからないのだ、と。『じゃあロケットを開発しよう!』ということになる。そして『望遠鏡ではダメだからロケットを開発して、観測機器を打ち上げて、そしてそこに宇宙塵があるのかどうか、そして本当に未知の惑星があるのかどうかを確かめよう!』という風になる。もちろん、かなり長い時間がかかって、そのプログラムは恐らく当時から始めてもまだ完了していないと思われるが、ロケットが開発できたとする。この辺から未来の話になるわけだが、ロケットを開発して打ち上げて『さあ、どうだ!』となっても、そこに宇宙塵も惑星も見出せなかったとする。どうなるだろう?

 一つの可能性としては『そこに強力な磁場があって、打ち上げたロケットの観測機器が狂ってしまうのだ!』というようなことが言えるかもしれない。じゃあその磁場がどんな風になっているのかどうやって調べようか?となると、とりあえずお手上げになる。

 それから、ハナから戻って考えてみると、未知の惑星が1個とは限らないわけだ。何個かの惑星があって、それが複合的な影響で天王星に作用して、天王星の軌道が今のようにズレているのかもしれない。1個だと思って1個の点を探すからダメなわけで、何個かの点を探さなければならない。…じゃあ2個だとしよう。で2個で計算して位置を探す。…でも無い。…じゃあ3個だとしよう。だんだん計算できなくなるが、まあ計算できたとして3個の点を探す。もう聞き苦しいだろうが、無かったとする。これは幾らでも続く。n個でも続く。あるいは惑星ではなくて、惑星のような形ではないけれど、惑星に匹敵する重量をもった宇宙塵のようなものが散らばっていて、それが影響してるのかもしれない。…もう何とでも言えるわけだ。最後の方は『〜〜の位置に未知の惑星がある』ということの反証可能性からズレてしまったけれど、『〜〜の位置に惑星がある』という1個の惑星に関する主張をとっても、そんなに簡単にこれが反証可能性を持っているとは言えない。やろうと思えば幾らでもまだ『そこに1個の惑星が実はあるんだ』ということを救うような仮説というものが立てられる。

 悪いことに、これは冗談ではなくて、そうした仮説を立てることによって、あるとき本当に科学は新たな発見を手に入れたこともある。さらに、最後の『惑星の数がもしかしたら1個じゃないかもしれない』というのは、この天王星の軌道のズレに対してニュートンの理論を守っていこうとするには、さらに様々な手があって、もしかしたら、本当にニュートンの理論というものは反証不可能なものになっているのかもしれない、という気分を我々にもたらす。

 つまり、このケーススタディーは何か反証可能性という概念がそんなに単純には機能しないかもしれない、そういう疑念を我々に抱かせる。そして、その疑念は事実、その通りである。科学理論というものは原則として反証不可能であると、私は主張したい。これは私だけの主張ではなくて、現在の主流の主張である(もちろん、それ以外の考えの人もいる)。



 どういう所で反証不可能になっているのか、もう少し考えてみる。2点ある。観察の問題と、科学の全体論的な構造である。まず観察の問題から論じていこう(以下、7−2節に続く)。




7−2 観察の可謬性

(可謬性:誤りうること。fallibility。)
(この節の論点:理論じゃなくて観察が間違っているかもしれない、ということ。)

例えば
権威なき観察
  幽霊、超能力
不正確な/不誠実な観察
  ミリカンのデータ捏造、1926ベリンガー教授
背景理論
  背景理論


<7−2節部分の講義おこし>
 観察の可謬性。…可謬性はちょっと堅苦しい言葉だから、『誤りうること』。fallibilityで良いのだろうか。この論点は単純である。観察が間違っているかもしれないということである。つまり、何か理論から予測されて、それが観測観察と矛盾したときに、理論が反証されるのじゃなくて観察が却下されるかもしれないじゃないか。それで言いたいことは尽きる。…尽きてしまうが、それでは愛想がないので少し雑談混じりに話を進める。



 まず1つ目、権威なき観察。これから暫くの話は論点の説明ではない。勿論、形としては論点の説明になっているが、論点自身は非常に明確で、説明不要のものだ。観察も間違うじゃないか。おしまい。だから、この論点を理解するのに何の困難もない。むしろ、その論点にかこつけてちょっと紹介してみたい話がある、というだけのことだ。これから触れる幾つかのエピソードをいつ話したら良いのか場所がよく分からなくて、今が良いチャンスだから話をしてしまおう、というわけである。

 まず権威なき観察とは何かというと、例えば幽霊の観察だとか、超能力の観察といったようなことを、とりあえず私は念頭に置いている。幽霊の観察というのは、数えきれないくらいの証言が現在ある。それから超能力の観察も、数えきれないくらいの証言がある。しかしどれ一つとして、まともに科学に取り上げられたことはない。それは、まともに取り上げられて却下されるというよりは、まともに取り上げられずに却下されるという形になっている。何故だろうか?何故かというと、とりあえず科学がそれを説明できないからーーーだと思う。

 幽霊そのものが存在するかどうか、超能力が存在するかどうかということは、とりあえずは分からないことだろう。私自身は幽霊については信じてもいないし、幽霊が存在するとも存在しないとも、どちらの信念も持っていない。超能力に関しても、存在するともしないとも、どちらの信念も持っていない。最近アメリカやロシアでは超能力の研究というかパラサイコロジーの研究は予算をもらえているのだろうか?かつては大学に研究室があったりした。軍事的にも役に立つかもしれない、ということで。…ちょっと興味本位で聞いてみようか。幽霊がいると思う人は手を挙げて。…居るなぁ(笑)。このくらい居ると、随分いるなぁという気がする。超能力があると思う人は手を挙げて。テレパシーでも何でもいい、何らかの形の超能力。…同じくらい居るなぁ。やっぱり、若干は存在している。特に却下する理由もないから。言いたいことは、何で幽霊だとか超能力だとうものが大学で自然科学の中に入ってこないか。少なくとも日本の中では入ってこない。アメリカなんかでは先ほど話したようにパラサイコロジーが大学の研究室の中にあった時期があったし、今でもあるのかどうかはよく分からない。でも幽霊研究があるという話は聞いたことがない。そういえばゴーストバスターズという映画を見ると、あれは大学を追われていた(笑)。それは何故かというと、やはり観察そのものに権威がないからだ。例えば大槻教授が言うように、現在の科学理論が予測することと、幽霊の観察や超能力の観察は(不明)。だけれども、それは現代の科学理論を反証するような力は全くないわけで、観察そのものが権威がないから、観察そのものが黙殺されている。勿論、大槻さんのように黙殺せずに多弁に殺そうとしている人もいるけど(笑)、まぁ大方は黙殺する。

 この話は面白かったので紹介したいのだが、隕石問題、隕石論争というものがあった。これは18世紀のことだが。地球外からーーーUFOじゃないのだがーーー隕石のように何か物体が飛来することがあるのだろうか、という論争が起こった。ヨーロッパ全土でそういう問題意識はあったようだが、特にフランスの学士院でそうしたことが問題になった。そして、これに関しても証言そのものは18世紀を通じて大変沢山あったようだ。だけれども、隕石が実際に落っこちる、そして落っこちた隕石を持ってくる、で持ってきた隕石を分析して、それが例えばニッケルを非常に大量に含んだ鉄の塊であって、地球上ではちょっと見つからないものである、というようなことを分析してもらえれば、『これは地球外から飛来した物体である』ということは分かってくる。割と単純に分かってくると思う。

 ところが、考えてみて欲しい。隕石がまんべんなく等確率で落ちるとすると、当時の都市部と農村部というか田舎部の面積の比率からいっても、当然田舎に落ちてくるわけだ。そうすると、隕石を持って『こんなものが落ちてきました』と言って持ってくるのは庶民になる。そうすると、これは権威のない観察となる。今の幽霊や超能力と同じ扱いを受ける。『空から降ってきました』と言って石を持ってくるわけだ。そうすると却下される。『ただの石です』と。調べてもらうまで、分析にとりかかるまでどのくらいかかったのかな、メモしてくるのを忘れた…。ようやく分析されたのがーーー大分経ってからだがーーー実際に化学的に分析しても、なおかつそれでも『地球のものです』と分析された。今まで何回か名前が出てきた人がこのときの調査委員会の委員長になっているのだがーーーラヴォアジェが委員長になって『はい、地球のものです。』という風になった。この最初の分析結果から『いや、どうもこれは地球外のものです』という分析が出るまで、50年くらい経っているそうだ。つまり18世紀の終わりになってようやく『ああ、地球の外からも物体が飛んでくるのですね』と分かった。まぁ、ちょっと話はズレて…論点としてはズレているのだが、権威なき観察が黙殺されてかえって良くない目をみた事例だと思う。大変、興味深い事例だと思う。



 今度、2番目の話。2番目の話は不正確な観察。論点としては極めて簡単な話だ。不正確な、あるいは不誠実な観察。科学を人間の営みである、そして何か偉い聖人の営みであると聖視するのはやめようという動きは最近、ちょっと前まではとても盛んだったから、科学者の実験観察が不正確だったり不誠実だったりするというエピソードもよく取り上げられている。そういう話をこの授業でいつするか、チャンスがよく分からなかったので今話をする。あまり聞きやすい話ではないが、一杯事例はあるようである。幾つか紹介する。

 まず最初の事例はーーーミリカンの油滴実験。油滴実験というのはーーー電子の荷電量を測定したミリカンという人がいるのだがーーー1923年にノーベル賞を取った。最近ーーー最近出た本に『最近』と書いてあったので、やはり最近なのだろうかーーーいい加減な本で、ちゃんと注をつけて文献や年代を紹介してくれてない本だったからなぁ。書いてた人は私の先輩で信頼できる人なのだが、本が別冊宝島だからなぁ(笑)。まぁ信頼できる人だから信頼して良いと思うのだが、最近、そのミリカンの実験ノートを調べて分かったことだが、ミリカンは都合の悪いデータの3分の1以上を除外して論文を作っていたそうである。それでノーベル賞を取るのだから…。これは不誠実な実験と呼ばれるようなものだろう。いわゆるデータ捏造事件、まぁ捏造というよりは人為的なセレクションを行ったわけですが。

 もう一つは完全に興味本位で紹介するのだが、1726年という結構古い話なのだが、ベリンガー事件として知られている話である。ドイツのビュルツブルク大学というところにベリンガー教授というのがいて、そのベリンガー教授を貶めるために、同僚がある罠というのかな、仕掛ける。何をやったかというと、偽の化石を作って埋めておいて、ベリンガー教授の助手を買収してそこを掘らせて、発見させてベリンガー教授を徒に喜ばせて、そして貶めるということをした。ベリンガー教授はまんまとそれにハマり、大喜びしてその化石で本を書いて大恥をかいたという経緯があるのだが、それは事件発覚して、貶めた人ーーー犯人達は大学を追われたという話だが、凄いのは作った偽化石が2000個以上だったと(笑)。凄い数を作るなと思って(笑)。

 こういう話というのはーーー1726年の話だがーーー特にアメリカと言ったらアメリカに失礼なのかもしれないが、科学者の競争が激しくなると、ライバルを蹴落とそうとする動きというのは当然出てくる。そしてライバルの実験に干渉してしまうようなことは起こる。このベリンガー事件ほど楽しい事例はそれほど起こらないと思うが、もっと陰湿な話というのは、当然起こってくる。特に最近アメリカでは科学者の捏造事件は問題になっていて、極端な例を言えば、ハーバード大学の医学部の心臓学者だそうだが、109個の論文で捏造データを使っていた、という報告がある。もう一つは身近な例だがーーー何でこれも医学部なのかな?医学部というのはそういう競争が激しいのだろうか?ーーー1983年、広島大学医学部の教授の不正が発覚した、という事件があった。その人の人工心臓の実験データは半分が架空のものだったという。しかも、その人は名声のある人で、現代という雑誌があるのだが、その現代という雑誌の『日本の名医ベスト10』に選ばれている人だった。

 つまり、結論は非常に簡単で、科学者も人間だなってだけのことで。科学者も人間だから間違いもすれば嘘もつく、そういう単純なこと。だから、観察報告が提出されたってことでその観察報告が絶対視されることは最早あり得ないし、あり得ない時代になっているというべきだろう。



 3番目はもっと構造上の話で、観察というものは背景理論が(ついてくる?)。これは何を意味するかというと、ある理論があって、その理論T0から何か予測が与えられる。そしてその予測に基づいて観察をする。そしてこれが一致しなかったとする。

 この観察は背景理論ーーー観察に関わる背景理論ーーーに基づいている。例えば光学望遠鏡を使えば光学理論、電子顕微鏡を使えばしかるべき理論。複雑な観測機器であればあるほど、その背景理論を持つ。そうすると、これがバッティングした、不整合を起こした、矛盾を起こしたということは何を意味するかといったら、T0が間違ってるんじゃなくてT1が間違っているのかもしれないので、『T0かT1が誤りだ』ということを意味する。つまり、何か反証例とされるようなものが持ち上がってきたときに、直ちに理論T0が反証されるというような構造にはなっておらず、観察の背景理論T1に向かう可能性がある、ということである。こういう構造をさらにもっと念入りに見ていこう。これは段々、全体論の話になっていく(以降、7−3節の話に続く)。




7−3 補助仮説の存在

(1)初期値
  理論+初期値 →→→→→ 予測
  初期値

(2)単純化のための過程
   (i) 太陽と土星(近いから)、木星(最大だから)、天王星のみを考慮し、他の無視する
   (ii) 天王星は真空中を運動する
   (iii) 他の力は働いていない

(3)条件一定条項
  ceteris paribus(cet.par.)
  他の事情が一定ならば(通常の条件のもとでは)
  通常の条件 ⇒ ?
  例)通常の条件のもとでは全てのカラスは黒い
     白いカラスの存在 ← 特殊な事情

<2000年夏学期テスト文章>‘ceteris paribus’(他の事象が同じならば)という条件一定条項が加わると法則が循環の構造をもち、反証不可能になりえる面、このことを「通常の条件のもとでは、すべてのカラスは黒い」というという法則の事例を用いて説明せよ。)



<7−3節ここまでの部分の講義おこし>
 さっきの海王星の位置の予測で言うならば、まずニュートン力学があって、それに加えて時点(t0)における太陽系の惑星状態を把握して、それをニュートン力学に入力すると、任意の時点における太陽系の状態が出力される。そういう構造になっている。後でもう一度ふりかえってまとめるが、一言で言うと予測が観測に反した場合、初期値のところが間違っている可能性がある。反例が理論に向かわずに初期値に向かう可能性がある。実際、この海王星の発見の事例というのは、初期値=時点t0における太陽系の状態に関する我々の把握が不十分であったから、ここを書きかえようとして、ここの書きかえに向かったものだった。



 それだけではない。さらに理論を取り巻いて、別のファクターが働いてくる。それは何かというと、、、あと2個挙げたいのだが、 まず単純化のための仮定。海王星の事例を用いて説明していく。ルベリエが海王星の位置を計算するときに、太陽系の惑星の状態すべてを初期値として考えたわけではない。全部すると計算が不可能だったのか、面倒臭かったのかは分からないが、彼の行った単純化は太陽と、天王星と一番近い土星、最大の惑星であり影響力がありそうな木星、それと天王星だけを取り扱った。太陽と土星と木星と天王星の関係、それだけを考慮に入れて、そこから天王星の軌道を計算し、他の惑星は無視して(火星も地球も金星も)単純化して計算した。こうした単純化は当然あらゆる理論に伴う。この単純化が間違っていたのかもしれない。地球のことも考えなければならなかったかもしれない。

 あるいは単純化ということをもっと潔癖に考えると、色々なものが入ってくる。2番目として『天王星は真空中を運動している』ということ。これも確かめたわけではない。まず天王星の辺りが真空であることを確かめてから、天王星の軌道を計算したらズレていたという話ではなくて、まぁ真空中だろうなぁと考えて話を進めた。真空中じゃなかったらどうするんだというと、計算できなくなるから、計算するためにはしょうがない。単純化したと。

 3番目として『他の力が働いていない』、すなわち万有引力以外の力が働いていないということ。これも仮定である。ーーーもしかしたら天王星の中は殆ど鉄でできていて、近くに強力な磁場があってーーー、というようなことは全然考えていない。…もっと例があるかもしれないが、以上のような単純化が間違っているのかもしれない。



 最後はちょっと抽象的な話になるが、3番目としては(きちんとした言葉として定着しているわけではないが)『条件一定条項』。ラテン語ではceteris paribus(ケテリス、パリブス)、英語ではcet.par.と省略されることがある。英語の辞典にも載っている言葉である。どういう言葉かというと、『他の事情が一定ならば』、あるいは『通常の条件のもとでは』。同じことだが。あらゆる事情を考えるわけにはいかないので、何か予期しなかった事情が働いてくる可能性があって、その時にはまた考え直しましょうということ。他の事情が同じならば同じようにいくでしょうと、斉一性の原理に絡んでくるような条項である。

 チャチな例を使うと、「全てのカラスは黒い」という場合にもこの条件一定条項は働いている。「(通常の条件の下では)全てのカラスは黒い」。「殆どのカラスは黒い」という言い方よりも、むしろカラスに関しては我々が信じているのはこちらの「全てのカラスは黒い」の方だろう。「(通常の条件の下では)全てのカラスは黒い」。そうすると、白いカラスが出てきたときに、これが反例になるかというと、ならない。「あぁ、これは何か特殊な事情が働いているのだ」と。つまり、条件一定条項が満たされていないのだと。アルビノか何か、そういうカラスが現れたのだろうと。普通はそう考えるだろう。「このカラスは珍しい。何か特殊な事情が…。」と考えるのではないか。

 これが条件一定条項であるが、今までの話についてきた人はこの条件一定条項に大変困ったものを感じるだろう。いや、感じて欲しい。というのは『通常の条件の下では』に関して、「では通常の条件とは何ですか?」と聞いてみる。もし「通常の条件」というのがカラスが黒いことと独立に規定されれば、循環を免れて反証主義者の言うまともな反証可能性を持つことができる。しかし、通常の条件というのがカラスが黒いことに依存してしか規定しえないのだとしたら、循環の構造を持ち、反証可能性を失ってしまう。もう少し具体的に考えてみよう。「どういうときが通常の条件なのですか?」という風に改めて聞かれると、口をモゴモゴさせるしかないというのが多分実情かもしれないが、そのモゴモゴした口を無理やり開かせて無理やり喋らせると、「カラスが黒いときである。」と言わざるを得ない。つまり、黒くないカラスが来たら「あっ、通常じゃない」と判断する。なぜ通常じゃないと判断したかというと、「黒くなかったから」だと。黒いカラスだったときが通常なので、「通常の条件の下では全てのカラスは黒い」というのは完全に循環してしまっている。

 だからこの条件一定条項というのは、通常の条件の下では循環する。…というのは冗談で、普通に循環する。容易に循環する。 条件一定条項が常に循環するとまで強いことが言えるかどうかは分からないが、「通常の条件」というよく分からないものをきっちり示すのは、どうだろう?なんとなく1割くらいの猶予を残した上で「これは循環するよね」と結論して訴えたい気分になる。何が通常なのか、と。



 さて、以上の3点が補助仮説で言いたかったことで、以上3つをまとめて補助仮説とする。『初期値』『単純化(あるいは単純化のための仮定)』『条件一定条項』。




<7−3節の続き>
  補助仮説3つ
  理論はこれを伴って予測する。

  科学の全体論的構造

  予測と観察が矛盾したとき、矛盾は
   1:論理・数学のまちがい
   2:T0のまちがい
   3:補助仮説のまちがい
   4:観察のまちがい
   5:背景理論のまちがい
   (6:観察の背景理論)
  ⇒理論の柔構造
  『観察は科学全体を実証・反証する』 デュエム=クワイン テーゼ

<1998年冬学期テスト文章>「科学は全体論的構造をもつ」という指摘を説明せよ。

(2006年夏学期テスト文章より抜粋。
 理論の全体論的構造の議論の指摘するところによれば、単独の法則がそれだけで何らかの予測を導くということはありえない。法則は他の法則や(10)と組み合わされ、さらにまた論理や数学などを用いて、予測を導く。それゆえ、予測が観察と合致しなかったときには、反証主義が考えていたような(11)の反証へとただちに向かうのではなく、(12)ということになる。)


<7−3節残り部分の講義おこし>
 そうすると、理論は常にこの(不明)かこの補助仮説を伴って予測をする。どんな風になったかというと、まず論理数学を伴ってーーー科学と呼ばれる活動がどういうファクターを持ってるかというとーーー論理や数学があって、それに理論と呼ばれるもの、それにプラス補助仮説ーーー補助仮説には初期値、単純化のための仮定、条件一定条項、こうしたものが入る。これらの全体から予測がなされる。それが観察と矛盾を起こす。観察が満たされない。観察は背景理論を持っている。当然、背景理論の中にも論理・数学があり、補助仮説がある。それはここでは省略するが、同じ構造を持っている。

 さて、そうするとこの予測と観察が矛盾しあったーーー予測が実現しなかったことが何を意味するかというと、理論の反証をダイレクトに意味することはありえないわけだ。それは論理的にもこの構造からしてそうだし、科学史の事例を見ても、そういうことはなかった。…というか、むしろ稀であった。ごく普通には理論を守り、そして補助仮説のところや背景理論のところを手直しするという動きに行くのが生産的な場合もあれば非生産的なこともあったが、その方が普通のことであり、理論が書き換えられるなどというのは、かなりその理論がマイナーな小さな理論であるか、あるいは革命的な場合であった。

 そうすると、全部書き出してみよう。予測と観察とが矛盾したときに、矛盾は(1)論理・数学が間違っているーーーのかもしれない。とんでもないことを言いだしたと思うかもしれないが、一応形式に書いておく。それから(2)理論T0の間違い、(3)補助仮説の間違いーーー補助仮説の間違いの中には、初期値が間違えていたのか、単純化のための仮定が間違えていたのか、あるいは条件一定条項が満たされていないと考えて何か特殊な事情が働いているんだと考えるか、そうしたような修正が入る。それから(4)単純に観察が間違っている。つまり、幽霊の観察のように、端的に却下されてしまう。あるいは不正事件のように、その間違いが告発される。それから(5)背景理論の間違い。…これだけの可能性がある。私の用語では、これを『理論の柔構造』ーーー理論はこうした柔構造を持つ。

 理論の全体論的構造というときには、これ全体が有機化されて成立している。理論が単独でーーー何か法則が単独で成立しているーーーというよりは、これ全体が科学の営み全体なんだーーーというような考え方で、理論だけを取り出して検証したり反証したりするのは、それは完全に科学を単純化して見過ぎているーーーというのが全体論的な、科学に関する全体論の主張である。だからここに見出しをつけておかったんだな、『科学の全体論的構造』という風に。特に理論をとりまく論理・数学、理論、補助仮説といった辺りを。もっと広い意味では、観察の持っている背景理論も込みにして考えて良いだろう。

 これに関して、『観察は科学の全体を反証する』。ーーー科学全体をどこにとれば良いのか、素粒子論全体、ニュートン力学全体、物理学全体、あるいは自然科学全体、どこまで全体ととるのかたいへん曖昧で、そうした曖昧さは全体論の弱み・弱点であるが、ともあれ今は『観察は科学全体を実証ないし反証する』。だからこれは実証主義にもかかげられている、実証主義の持っている原子論的前提、そして反証主義者が示していた原子論的前提に対する批判であって、反証主義のみに対する批判ではない。先週、ポパーも論理実証主義者の一人である、残党であると言った。それは実証主義ではないけれども、こうした原子論的な科学観を持っていたという意味で同じ人達だと。

 全体論的科学観が表に出てくるに従って、科学論は新たなものになっていく。この『観察は科学全体を実証ないし反証する』というのはデュエム=クワイン テーゼ(デュエムという人とクワインという人、2人の名を冠したテーゼ)という。

 元々フランスのデュエムがこういう全体論的な描像を出していたのだが、あまり注目されずに埋もれていた。まぁ、こういう話はしばしばあるね。それをアメリカのクワインという哲学者がデュエムの理論を受けて、これをさらに極端なものにして、強烈なものにして論理実証主義者ーーーポパーを含む論理実証主義者達にぶつけて、そして一大センセーションを巻き起こした。そこで元々のデュエムに敬意を表し、且つそれを取り上げたクワインの名前を冠してデュエム=クワイン テーゼと呼ばれるわけであるが、こうした構造を科学はもっている。これは極めて重要な洞察として、反証主義者に、しかも反証主義じゃなかったものとして(指摘?比較?)されるのだった。

 さらに一言だけ言っておくと、論理・数学の誤りというのはどのくらいマトモに考えるべきことなのか。それは考えなくてもいいのか、ただ単に形式的に並べただけなのかどうか。これについては、よく分からない。…分からなくなってしまったのだが…。私自身もゆらいでいて、今のところは7:3くらいで論理・数学も間違えると思っている。…いや、間違うと言ってはいけないか。間違いではないな。これを修正する、論理・数学も修正する、と。

 よく取り上げられるのだが、クワインという人は、これ(不明)、敢然とこう主張した。『論理・数学の改訂も可能である、論理・数学の改訂も含めて観察は科学全体を実証ないしは反証するのである』という風に言った。そのときクワインが挙げた事例は量子論理ーーーという論理学があるのだがーーー量子論理があるではないか、と言った。クワインのそれを主張した論文では『量子論理は量子力学を前にして排中律を拒否する体系を作ったではないか』と書いてあるのだが、クワインともあろう人が、これは間違いである。量子論理というのは排中律を拒否した体系ではなくーーーこれは直感主義論理と言ってーーー分配律というものを拒否したのだった。不確定性原理の前では分配律を拒否しなければならない、ということがあって、分配律っていうのは……まぁ良いか、時間もきたし。

 ともかく一言だけ言っておく。来週のことにも絡むので、ちょっとだけ。量子力学の登場によって、量子論理という新たな論理学のシステムが必要とされた。これは論理の改訂の可能性をも意味しているとクワインはーーー私もそうかなぁと思うけど、最近ではそうじゃないかもしれないなとーーー(以下不明)。




7−4 ?



<復習> 理論は原理的に反証不可能である。
(1)観察の可謬性
(2)補助仮説の存在 ⇒ 理論の柔構造

(論理の改訂可能性について。量子力学を整備すると量子論理ができる(1つの事例?))
(論理は変わりうるけど、変えられるものではない?)



7−5 理論はつねに反証にさらされている

例1)地動説
  なぜ物は真下に落ちない?
  反証を克服した

(反証例で『ごめん』と言わずに課題とする)


例2)天王星と海王星
  天王星と海王星


例3)原子構造論
  1900ごろ 原子に正と負の電荷があるらしい。
  原子構造論

反証例で潰れるのではなく、反証例が課題となっていく。
理論は未熟なときは反証例の中を進んでいく。



7−6 反証主義の限界と可能性

ここまでのまとめ
(1)反証主義は反証可能性を科学と非科学を区別する基準とする。
(2)反証主義は、反証可能性を増大させる方向を科学の進歩とみなす。
(3)理論は原理的に反証不可能である −−−− 全体論的構造
(4)生き延びている理論でさえ、つねに反証例にさらされている。


では反証主義は間違いか?
  原子論的反証主義
      ↓
  全体論的反証主義の可能性は?
(これまでは原子論的な反証主義。それでは全体論的な反証主義はどうか?)

  科学実践
  この全体(=科学実践全体)に対して反証主義が向かわないだろうか?

  予測と観察の不一致 →→→→→ 科学実践全体の反証
  (でも境界設定がユルくなってしまう。)

  全体論的反証主義の限界
  同様に
  霊的力の存在 + 補助仮説 →→ 霊現象の説明と予測
  万有引力の存在+ 補助仮説 →→ 惑星軌道の説明と予測



8.科学実践の構造

(今までは教科書的な内容だった。第8章の内容は権威がない)
(私の説明を鵜呑みにすることなく、自分で考えて欲しい)
(科学をゲームのように考える)


8−1 枠組みと主題

地震観測所の例
  地震観測所の例

  科学実践=枠組+主題

  方法論的枠組み   斉一性の原理
               確証の原理
               日常的概念枠(グルー的概念の排除)
               論理・数学

  固い理論的枠組   運動方程式
               フックの法則

  柔らかい理論的枠組 地球内部の密度分布

  観察に関する枠組  観察の信頼性
               観測機器の信頼性

  科学実践の構造



<1998年冬学期テスト文章>地震観測所において運動方程式やフックの法則はむしろ規則のような規範的性格をもっている。このことを説明せよ。

<2000年夏学期テスト文章>科学の実践において、中心的法則は規範的性格を有している。このことを、地震観測所において運動方程式やフックの法則といったニュートン力学の法則が規範的に働いている事情を例として、説明せよ。

<2006年夏学期テスト文章>「法則は規範的性格をもつ」という議論がある。その議論は、科学においてその中心的法則には、「この法則が維持されるように現実を解釈せよ」という要請が働いていると主張する。この主張の言わんとするところを、天王星の軌道のズレによる海王星発見のエピソードを事例にとりながら、説明せよ。



8−2 「実証」「反証」という概念の放棄→ゲームモデル

枠組みの採用はその科学者共同体の決断(伝統)
枠組みは決断に基づく →→→ ゲームみたい。
実証、反証 →→→ 規則の採用、決断、(伝統?)



8−3 リサーチプログラム論

Lakatos, I "Falsification and the methodology of Scientific Research Programmes." 1970
ラカトシュ「方法の擁護」Ch1、新曜社

(2000年夏学期テスト文章より抜粋。
 一般法則と観察の関係を、実証であれ、反証であれ、単独の法則だけを孤立されて考えるのはまちがっている。このことの反省から、「科学は全体論的構造をもち、あらゆる部分が修正可能である」と主張されるに至った。この主張はデュエム=クワイン・テーゼと呼ばれる。
 ラカトシュによって提唱されたリサーチ・プログラム論は、科学が全体論的構造をもつことを認めつつ、なお科学実践のうちに堅い核防御帯という二層を区別しようとするものである。)

  リサーチプログラム

(枠組論との対照)
  堅い核 … 方法論的枠組、堅い理論的枠組
  防御帯 … 柔らかい理論的枠組、観察の枠組

成功したリサーチプログラムの例
  ニュートン力学の初期の展開
     太陽…固定点、惑星…質点
     堅い核 … 逆2乗則
     補助仮説の変更



<1998年冬学期テスト文章>「科学は進歩するか」という問いに対してリサーチ・プログラム論の観点からの議論を述べよ。

<2001年夏学期テスト文章>リサーチ・プログラム論について簡単に説明し、そこにおいて「科学の全体論的構造」と「法則の規範的性格」がどのように捉えられているかを説明せよ。

(2006年夏学期テスト文章より抜粋。
 リサーチ・プログラム論は、孤立した単独の理論に対してではなく、(13)に対してだけ、科学的とか非科学的とか言える、と主張する。そのさい、(13)とは、それが同一のリサーチ・プログラムを成すということである。リサーチ・プログラムは(14)と(15)の二つの部分よりなるとされ、その(14)が同一なら、それは同一のリサーチ・プログラムとみなされる。そして、(16)なリサーチ・プログラムが「科学的」とされ、(17)なリサーチ・プログラムが「非科学的」とされるのである。)




8−4 境界設定と科学の進歩

8.4.1 科学と非科学
宗教、疑似科学のリサーチプログラムでもいい。その違いがあまり出てこない。
防御帯の修正がアドホックかそうではないか
全て科学になっていく → アドホックな修正とアドホックでない修正の区別

科学方法論 → 科学社会学


8.4.2 科学の進歩
別の規則に従った別の実践。
サッカーと野球、相対論とニュートン力学。
  別々のリサーチプログラム1と2

リサーチプログラム間で共通の座標軸を求めた。
・前進的プログラム
・後退的プログラム … 言いぬけ。
(まだ出せてない合理主義のプログラム)











(仕切り直し)
ラカトシュ『リサーチプログラム』
  リサーチプログラム

・否定的発見法 … 不可侵の堅固な核 → イヤなら別のリサーチプログラムへ。
・肯定的発見法 … 保護帯につけ加え


※科学と非科学
  アドホックな仮説は非科学として受け入れない
  アドホック → 独立に実証されない仮説

※進歩とは
  前進的か後退的
  "あと知恵"
  うまく説明できない(自認)



9.クーンのパラダイム論と科学革命

(2000年夏学期テスト文章より抜粋。
 クーンは科学の実践におけるパラダイムの役割を強調した。同一のパラダイムのもとでなされる活動は通常科学と呼ばれ、「パズル解き」に比される。そしてパラダイムの転換が起こるときは科学革命と呼ばれる。クーンのこうした議論は、理論間の断絶をクーン以上に強調し、「異なる理論間には共通の評価軸など存在しない」とする共約不可能性の主張を伴って、非合理主義的な科学論を呼び起こした。)


Kuhn.T.S.  The Structure of Scientific Revolutions.  1962
クーン『科学革命の構造』みすず書房(邦訳は誤りが多いか?)
『パラダイム』…クーン自身いろんな使い方をしている。曖昧だがパワフル。
(Revolutionsと複数になっているのは、しばしば見られることだから。)

  パラダイム
(1)相対性理論のニュートン力学はパラダイムが異なる
(2)科学の進歩を評価する基準はパラダイムに相対的である
(3)それゆえ異なるパラダイム間を共通に評価する基準は存在しない
(4)それゆえニュートン力学から相対性理論への変化を「進歩」と捉える視点は存在しない



9−1 パラダイムとは何か

・見本、手本
(具体的な見本、手本。アインシュタインなりニュートンなり。何となくあんな風にしたい、偶像、アイドル。)
・人物、行動、著作
(例:アリストテレス「自然学」、ニュートン「プリンピキア」)
(科学を動かすのは具体的なものである。)
(世界観の意を取り払ったパラダイム)


<1998年冬学期テスト文章>「パラダイム」という用語の意味を説明せよ。


9−2 パラダイムの機能

(1)社会学的機能
(パラダイムを共有する研究者集団の形成)
(安定してくると、学校が教えていく)

(2)規範的機能
(物理で超常現象×)

(3)認識論的機能
  1:照明効果
    パラダイム → 変則例
    (光の点は物 … 星なんだ)
    (円運動している)
    (天球 … パラダイムになる?)
    (惑星)
    (…以上、あるパラダイムのもとで初めて変則例が見えてくる。)
    (自然におかしいことは全くない。物差しがあるからおかしい、変だと分かる)

  2:目隠し効果 (… 必ずしも悪くない)
    視野狭窄
    (ある現象が見えなくなる。それによって専門的に深く探求している。)


(流れ)
  印象的業績
→ 見本・手本
→ 研究者集団の形成
→ 照明効果・視野狭窄
→ 専門化
→ 教科書の作成
→ パラダイムを共有した若手の再生産
→ 伝統の形成
→ 『通常科学



9−3 パズル解きとしての通常科学

・アリスタルコスとコペルニクス
アリスタルコス B.C.3 自転説、自転と公転。
同じ自転説を唱えたアリスタルコスとコペルニクスはどこが違うのか?

  アリスタルコスとコペルニクス
↑どこでこれが分かれたか?(アリスタルコスとコペルニクスの違い)
 ⇒連帯、パラダイムの強さ


もしアリスタルコスのとき、望遠鏡で凄いのがあれば?
   不思議 → アリストテレスの課題になる?
   アリスタルコスはヒーローではない?


1543年 … (不明)
1838年 … 年周視差の発見


通常科学の行動
(1)事実調査
(2)実験観測技術・装置開発
(3)理論の整備
(4)技術への応用
(1)〜(4)→ パズル解き



9−4 累積的進歩史観から革命史観へ

(累積的進歩史観がmajorityだった。)
累積的進歩史観から革命史観へ。
累積的進歩史観から革命史観へ

前科学 →(パラダイム形成)→ 通常科学S1 → 危機 → 革命 → 通常科学S2 →危機 →(以下同様に続く)

(例としては天動説→地動説、アリストテレス→ガリレイ、ニュートン力学→相対性理論…)


(1)革命史観:パラダイム変化は不連続
(2)パラダイムの比較可能性
(3)科学の主観主義
   パラダイムは客観的(実証主義、反証主義など)なものではない。
   パラダイム変換=『改宗』(社会心理学的現象)



<1998年冬学期テスト文章>「科学は進歩するか」という問いに対してパラダイム論の論点からの議論を述べよ。

(2006年夏学期テスト文章より抜粋。
 クーンの「パラダイム」概念は、一方では漠然と「世界観」のような意味でも使われる曖昧な概念であるが、その本来的な意味を取り出すならば、それは(18)のことであると言える。クーンは、パラダイムの転換を伴うような科学の変化を(19)と呼び、一定のパラダイムのもとである程度安定した研究が為されるあり方を(20)と呼んだ。)



9−5 教科書による革命の隠蔽

S1 →→→→→ S2
  S2の観点での教科書
  教科書によって再構成れた科学
  S2が刷り込まれ、S1を愚かなものとして見る生徒
  社会心理学的に勝ったものとして
  だから進歩と考える。
  科学は進歩しない



9−6 科学革命論は正しいのか?

(1)「革命」は日常茶飯事ではないか
(2)理論間に共通の評価基準はやはり存在する。ただし…進歩するのか?

(2について。理論間の評価というのは様々な観点からできて、それを『進歩』という1つの軸で見るのはどうだろう?『進歩』という言葉を捨ててしまおう。)




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