ウマイヤ朝
- ウマイ『ヤ』朝、創始者ムアーウィ『ヤ』。ウマイ『ア』朝、ムアーウィ『ア』と間違えやすい。
英語では Umayyads(The Umayyad dynasty)、Muawiya だし、やはり『ア』ではなく『ヤ』なのだろう。
両方とも最初は覚えにくかった。ウマイヤ朝はマウリヤ朝と名前が似ていて紛らわしく、無理やり「旨いや!」とこじつけた。
『ウマイヤ』自体は、第3代カリフのウスマーンやムアーウィヤの属していたウマイヤ家に由来する。
ムアーウィヤは何だかフワフワした豆腐みたいな名前だと思った。日本人の感覚だと、名前に『ウィヤ』は無い。『ムアー』も寝言でしか無い。
- ムアーウィヤが元々シリア総督だったこともあり、首都はダマスカス(Damascus)。滅亡する6年前まで、ずっとダマスカス。
- 661-750の90年弱の間、カリフは14人と多い。時代・気候的に短命だったのか?
長いのはムアーウィヤ19年、5代アブドゥルマリク20年、6代ワリード1世10年、10代ヒシャーム19年。
全盛期は5代〜6代治世のあたりとされる。
この4人の治世を引いた残り21年を 10人で治めたことになる。
- 1.ムアーウィヤ(661-680年)
- 2.ヤズィード1世(680-683年)
- ムアーウィヤの死後、680年10月カルバラーの戦い(Battle of Karbala、カルバラーの悲劇とも)でフサインを処刑。
- カルバラーは地名。
- フサインはアリーとファーティマの子、ハサンの弟。当時すでにハサンは他界。
- マッカから出て、招聘を受けたクーファに向かう途中のカルバラー。
- 第二次内乱(Second Fitna)683-92
- 683年、イブン・ズバイル(イブン・アッズバイル)がマッカでカリフ即位を宣言し第二次内乱が始まった。
- 同時期、685年にムフタールの乱 (685-687) 。三大勢力が鼎立。
- ムフタール・アッ=サカフィー(Mukhtar al-Thaqafi、Al-Mukhtar ibn Abi Ubayd Al-Thaqafi)
- 当初はイブン・ズバイル派と友好関係にあったが、アリーの息子ムハンマド・ブン・アル=ハナフィーヤ
- 692年、これを鎮圧したのがアブドゥルマリク。ハッジャージュ・イブン・ユースフが司令官。
- 5.アブドゥルマリク(685-705年)
- アブド・アルマリク表記も多い。
- 第二次内乱(Second Fitna)のイブン・ズバイルの乱を平定した時期のカリフ。
- イブン・ズバイルの乱の平定では、ハッジャージュ・ブン・ユースフが司令官。
- 行政言語のアラビア化。
- 貨幣の鋳造。
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- イブン・アシュアス(Ibn al-Ash`ath)の乱
- 6.ワリード1世(705-715年)
- 7.スライマーン(715-717年)
- 8.ウマル2世(717-720年)
- 在位短っ!
- 2代目正統カリフのウマルの曾孫。あっちは2代目、こっちは2世→検索した結果が微妙なことに。
- 敬虔なイスラム教徒として知られ、その点で敬意を受ける。
→ウマイヤ朝が倒されたとき、彼の墓だけは暴かれなかった逸話で有名。
- イスラム教の教義に反する税制の不平等(マワーリーとジズヤの問題)を解決しようとしたが結果的には失敗、とやんわり記載されることが多い。
- 森本公誠氏の論文に詳しい。
「納税者側からいえば, ウマル2世の税制改革には, 改宗してムスリムとしての特権を得るには自己の土地や住居を捨てねばならないという非現実的な付帯条件があるために, 結局は改宗よりもむしろ人頭税と土地税の両面から苛酷な納税を強いられたことになった。 そしてこれが主因となって農民の抗租叛乱が起こり, 抗争はたえまなく繰り返えされた。 ウマイヤ朝末期になると, エジプト人の不満を和らげる意図から, ウマル2世の改宗条件を撤廃する法令が出され, 改宗しさえすれば土地を離れなくても人頭税を免除されることになった。」
- 10.ヒシャーム(724-743年)
- 14.マルワーン2世(744-750年)
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